おちる、落ちる、降ちる、墜ちる。
飛空しているのか、浮遊しているのか、停滞しているのか、落下しているのか。自らの事象が正しく知覚できない、世界の中心が定かではない。
瞳に映る世界は、果てしなく暗く、底は昏い。
自らの周りにあるのは、闇だけだと、長らくの時間を浪費し、把握できた。
光も音もない真っ黒な海の中を漂う。裸で、生まれてきたばかりの姿のまま、ゆっくりと沈む。
そこに終着はない。
ここは等しく何もない。
無限の空虚。
なぜ自分は、此処に存在するのだろう。
何もない場所ならば、この場所さえも必要ないはずだ。
耳元で誰かが囁いた。『抗うな』、と。
声に呼応するかのように、体が急速に熱を失い、冷えていく。ナニカが俺という存在を侵食し、内側から食い潰していった。
此処の中において、俺の体だけが、永遠と底に向かって沈んでいく。
「――ああ、そうか」
虚偽という殻に閉じ籠り、流れるように自然に、腐敗するように無様に、無心で時間だけを刻んでいた。
とても、居心地がいい。
俺を束縛していた全てから、開放された気分だ。
今なら、どこにだって飛んで行けるさ、と嘯いた。
――――そして、辿り着いた先は、天国でも地獄でも無い、見知らぬ場所。
世界の外側、境界を超えた地、異なる摂理。
――異世界、だった。
◇◇◇
ゆっくりと意識が覚醒していくのを感じていた。
長い、長い、長い夢を視ていた。思考は霧がかかっている。視界は黒く染められ、鼓膜を打つ音さえ聞こえない静寂。全身は水中を漂う浮遊感に包まれていた。
暗く閉ざされたこの場所は、温かい。凍てついていた心の臓さえも解凍されるほどに。
『おはよう。目覚めの時間だ』
耳元で――いや、違う。外からじゃない、内からだ。体の内側から誰かに囁かれた。
なんだか、無性にその声が懐かしいようで、こそばゆく、身を捩った。
そして、背をそっと押された。静かに、優しく全身が前に倒されていく。
ああ、外には出たくない。もしかしたら、母親の羊水から産まれてくる赤ん坊も同じ気持ちなんだろうか。
母親という存在には、自分はあまり良い思い出はないけれど。
途端――ズキリと、言い表せない軋みが心に奔った。最短の工程で、心の隙間を埋めるように、隔壁を下ろす。
痛いのは、嫌い、だ。
――――――ふと意識を取り戻すと、全身を冷たい外気に晒されていた。
鈍い頭痛により顔をしかめて、重い瞼を開けると、辺りは薄暗い。室内は閉め切られているらしく、太陽の光が遮られている。
照明のスイッチはどこだろうか。暗闇に目が慣れるまで暫く掛かりそうだ。
柔らかい毛布の感触を顔面に味わうと、自分がうつ伏せに倒れているのだと気がついた。
全身は寝汗で濡れていた。異常な程に心臓が早鐘のように打っているのを感じられた。
体に力を込め、立ち上がろうとした。が、しかし、体中から力が抜け蹌踉めいた。足元がおぼつかず、膝を折る。
イマイチ体の自由が効かないな。気持ちを切り替える為に大きく空気を吸い込み、深呼吸。
右手をマットレスにつけ、足腰に力を入れて立ち上がった。
「(……どこだ。ここ?)」
室内を見渡しながら、なんて風に独りごちた。
見慣れない室内だった。
一言で言い表せば、中世ヨーロッパの洋室だ。この部屋が、構成的な形態美が追及されたルネサンス建築の様式に見受けられるなと、違和感なく自然と知識を思い出した。
「(どうなってる……?)」
何故、どうして。疑問符が脳内を支配するが答えは出そうにない。
ここはどこで、なんで俺がいるのか。か細い記憶の糸を辿るが、理由が一つたりとも思い浮かばない。
仮定としてしっくりくるのは、俺は突発的な交通事故に遭い、大怪我を負って入院していた? 記憶に混乱が見られるのはそれが原因?
「(……いやいや、よく考えろ)」
憶測の域は出ない。取り敢えず状況の確認が最優先だろう。
取り留めのない思考を手早くまとめ、ヘッドボードに手をつき、ベッドを降りて移動を始めようとした瞬間――。
唐突に扉が開かれると、同時に女性の声が空間に響いた。驚きに満ちながらも優しい声音だ。
声を掛けられた直後に、驚きから体制を崩し、前方に倒れる。状況を正確に認識できないまま無情に放り出された。
しばしの浮遊感の後、まず頭部を打ち付けて、目の奥に火花が散り、次に背中に衝撃を感じて呼吸ができなくなった。それほどの高さから落下した訳でもなく、数分程で痛みは収まったのが救いだ。
落下したままの体勢、仰向けの状態で周囲に視線を滑らすと、
「――――」
直ぐには声を上げれなかった。映る光景に圧倒されていたのだ。
「(……ははは。マジかよ。夢じゃないのか、これ)」
世界の常識に照らし合わせれば、眠りから覚めると普通は自室のベットの上で起き上がるのが道理だ。現在は夢の続きにしては精巧過ぎてちっとも笑えない。
現実感を失いながらも、視覚聴覚嗅覚はこれみよがしに、現実を伝えてくる。
……思考を止めるな。考えなくてはいけない事象は山積みだ。落ち着いて、順序建てて解いていこう。
――さて、何があったのだろう?
名前は? 名前。
……思い出せない。
なら、他は?
それで――――これまで何をして生きてきた?
何処で暮らしていた?
生まれ育った街は、解らない? いや、景色だけは覚えている。摩天楼の様な建造物が立ち並び、大勢の人間で賑わっていた。昼夜を問わず、街の喧騒が消える事がなかった。
……記憶が砂の様に溢れて、抜け落ちていく。
自分の中に、一切の思い出が存在しない。
元からそんなモノなど、存在しないと宣告する様に―――?
くそっ、落ち着け。現状を整理しよう。
これは、記憶喪失? ……うん意味は理解できている。
記憶障害の一種で、一部の記憶を喪失している状態を指す。
間違っていない。そうだ、それでいい。
一般常識は抜け落ちていないようだ。
いや、落ち着け。一呼吸を置こう。
改めて、深く、長く、記憶を遡ろうとした刹那―――頭部を砕かれると見紛うような、強烈な頭痛が奔った。
……―――波のようなものに攫われ、
もみくちゃにされ、
刻まれ、
分解され、
辿り着い、
た―――?
「ッガァ!?」
画面が点滅する。見知らぬ光景。顔。声。
お前は、誰、なんだっ!?
「――――――ァァァぁぁぁ嗚呼っ!!??」
痛い、苦しい、駄目だ、これ以上、ナニカを、思い出すのは、危険、だっ。
幼い頃からの直感が”絶対”を告げる。思い出すなと、それが最善なのだと。
胸を満たす激しい動悸を抑えて、小さくで縮こまった。さながら子供の様に痛みが去るのを待つ。
小刻みに体が震え、歯が鳴った。
……―――解らない。知らない。一切何一つとして、思い当たらない。
暖かい腕の中で抱きかかえられながら、必死に閉じた瞼越しに、見に覚えのない懐かしい女性の面貌を視た。
その面貌を最後に、意識が断絶し、思考を放棄したのだった。