悪夢、とでも言った方が現実味があった。しかし、何度目をしばたかせても頬をつねってみても、目の前の光景は変わってはくれないのである。
空には暗雲がたちこめ、夜かと錯覚するような闇が覆い、更にはいつの間にか嵐のような暴風が吹き荒れ、木々を振り回し、私達を地面に這いつくばらせる。
体が震え、まるで神か悪魔を前にしたかのような戦慄が走る。それを産み出す輩は、遥か天高く浮かんでいた。
黒く、巨大な、一つの星が落ちてきたかのように、その妖怪"空亡"はどす黒い闇を湛えて私達を見下ろしている。その姿は生き物かどうかすら疑う程禍々しく、また心なしか冷たく、無機質に見えた。
「あれが・・・ルーミアちゃんの、正体?」
紫に震える声で訊ねてみても、紫は黙って頷くだけだった。
話には聞いていたが、そんな。
「影狼。大丈夫か?」
勇儀が肩を叩いてくる。動機が激しくなり、その場から逃げ出したい衝動にかられた。この一同の中では私はいっとう臆病者だ。
「・・・霊夢が生まれるより、前の話よ。」
紫が呟く。ゴウゴウと風が唸り声を上げる中、皆は耳を傾ける。
「あの怪物が幻想郷に流れ落ちたのは。私と先代の巫女、それに幻想郷の創造神とで束になって、ようやく弱小妖怪の一人に仕立て上げた。
・・・それがルーミア。」
紫はポツリポツリと、自分のかつての苦労を自ら労うかのように語った。しかし悲しいかな、今まさにその苦労は十数年経って呆気なく無にされようとしている。
永琳に伝え聞いてはいた。そこまで必死で封じた裏にはそれ相応の理由が在ることも。
「もし、あのまま放って置いたら・・・」
早苗が呆然としながら言うと、籃が振り返って答える。
「元の・・・ルーミアの姿にはまず戻れまい。
そして、完全に力を取り戻せば・・・」
「幻想郷そのものが崩壊する。」
永琳が腕組みしながら補足した。幻想郷そのものが無くなる。言わんやそこにいる私達も・・・
「良かったわね永琳。修理代が要らなくなるわよ。」
「ええ、死というモノが体感出来るかも。楽しみだわ。」
霊夢と永琳が平坦な声で軽口を叩く。呑気、というよりは途方もない状況に呑まれまいとしているのか。
「冗談は良い。どうする気だ?私達で束になって・・・」
「止めなさい。力じゃ敵わない。」
「でも、一度は封印したんじゃ・・・」
「封印と倒すのは別よ。それになまじ封を解いた分、同じようにはいかない。」
「じゃ、どうするのさ!?」
勇儀にうどんげ、テイ達が口々に紫に問いかけ、詰め寄る。しかし紫は何故かそれほど慌てる様子もなく、目の前に一人分のスキマを展開する。
「考えがあるわ。少し待ってて。」
「・・・?」
紫はそう言ってスキマに足を踏み入れようとする。するとふと振り返り、私の怪訝な顔に気づいてか、こんな事を言った。
「・・・お似合いの相手を、起こしてあげなきゃ。」
そして、紫は消えて行った。
◆
―『おい、起きろ。』
「ん・・・」
―『寝たのか。』
「寝たよ。」
―『ふざけんな。』
「・・・起きてるよ。お前のお陰で。」
内心、うんざりとしながら答えた。あの時冬が近いと蝉の幼虫の如くこの真っ暗な地中に潜って以来、例の頭の中の声はしつこく話しかけてきた。
それが退屈しない、なんて言えるレベルでは無く、うたた寝を細切れにして続けるのがやっとだった。もし意味を持った言葉で無しに目覚ましか何かだったら問答無用で叩き壊していただろう。それくらいに五月蝿かった。何しろ此方は来るべき冬に備えてか頭も体もスイッチがOFFになろうとしているのだ。この安眠妨害に限って言えば体に支障を残しかねない深刻なモノと言える。
しかし、声が自身から響いて逃げ場が無い事、そして無視も何だかな〜、と割りきれないのが災いして何日間も苛々しっぱなしである。
しかし、先程そう呑気に言ってられなくなった。
―『気付いたか。』
「・・・まあ。」
ついさっきの事だ。突然胸を抉られるような痛みが襲い、肌が粟立ち、汗が吹き出した。
オレは相変わらず真っ暗な穴の中で、例の声と端から見れば独り言のようなマンツーマンの会話を続けていた。地面の中に他人が入ってきたなんて訳でもない。外で何かあったのか、いったい何の影響だというのか。
「・・・っ苦しいっ・・・!」
いよいよ動揺が口に出るレベルまで強くなった。心臓が軋むように痛み、思わず蹲る。そうなっても、あの声は心配する風も見せず、それどころか呆れたような口調でこう言った。
―『お前が忘れやがった報いだ。アイツが見たら、まず心配してくれただろうに。』
・・・何だ、何を言っている。
―『何だ、か。自分は心配した癖になあ。』
「訳の分からん事を・・・っ!」
―『今はこの様か。アイツが暴れだす理由も想像がつく。』
声はオレに恨みでもあるのか冷たい、しかし意味不明の言葉を投げつける。
頭の中を心当たり、と呼べそうなモノが何度か過ったが、それを詳しく思い出そうとすると夢でも見ていたかのように溶けて消え、尚も掘り起こそうとすると頭が割れそうな程痛み出す。
―『なあ。』
「何だよ・・・!」
急にあの声のトーンが変わる。何やら囁いて誘惑するような声色だった。
―『私に・・・体を貸してみないか?』
「あ?」
体を貸すとは、どういう事だろうか。この体はオレのモノだ。今まで魂が抜けたりなんぞ可笑しな体験は記憶にない。大体今痛みに苛まれているこの体が欲しいというのか。
―『どうせお前は何もかも忘れるんだ。私が代わりに使ってやる。』
「使う・・・!?冗談じゃねえ。そんなのお断りだ!」
―『奴には出来たんだ。無理矢理でも出来ないことはないか。』
「奴・・・?ぐあぁっ!」
奴とは誰だ、そう尋ねようとした瞬間、一際激しい頭痛が襲う。歯を食い縛って顔を上げた拍子に涙が零れた。穴には誰もいない。オレ一人だ。
―『じっとしていろ。そうすれば痛みもすぐに終わる。』
胸の奥を、チラリと氷の欠片が落ちたような、微かな冷たさが滑り落ちた。そして風がヒュウヒュウと吹き抜けていくような感触が続く。
何時だったろう、以前に一度暗い部屋で一人でいて、同じような事を感じた気がする。
そのように一瞬、呆けていた時。
「こんにちわ。」
誰もいなかった穴の中の空間に、ピリリと裂け目が走る。そしてその裂け目が開いてニュルリと顔が覗き、挨拶した。
金髪に変な帽子、そして扇子を片手に胡散臭い笑顔を浮かべて首を傾げる。面妖な光景に驚く余裕はない。・・・しかし、誰だっけ、コイツ。
「お前は・・・」
「さて、悪いけれど時間がないわ。ちょっと失礼。」
「うっ!?」
紫はオレに向けて手をかざす。すると体がビクリと跳ね、視界が点滅した。一瞬耳が蓋をされてひっぱたかれたような衝撃の後、視界にはソイツの手に何かが吸い込まれるのだけが、ほんの少し見えた。
「かはっ・・・はあ、はあっ・・・」
その直後に腹が痙攣し息が飛び出す。数度目をしばたかせると、女は何故かオレの姿を睨んで警戒の色を露にしていた。何かしたのはそっちだろうに、と収まらない体と頭の痛みに邪魔される思考の中で愚痴る。しかしその刹那。
「―あ。」
濁流が頭を駆け巡るように、強烈な違和感が体内を流れる。そしてその違和感はまるでばら蒔かれたパズルのピースのようで、呼吸をしばし忘れていた事に気づく頃には、不思議と全てピタリと嵌まっていた。
思考を整理し、何度か瞬きをする。そして出てきたのは、目の前の顔だけ出した女の名前だった。
「・・・紫?」
「・・・あら、正気を保っている。」
名前を確かめただけで何故か酷いことを言われた。正気?
「最悪すぐさま乗っ取られるかと思ったわ。」
「・・・何の話だよ。それより何の用だ?」
冷静に話す紫だが、オレは壁に背をつけて睨んだままだった。何故かうっすらとしか思い出せないが、確かに紫の目を逃れる為にこの場に来た筈だ。しかしその本人は「んー」とわざとらしく肩を竦める。
「何しに、といってもなあ・・・。調子狂っちゃったわ。意外と安定しているみたいだし。」
「・・・安定・・・?」
相変わらず話が見えて来ない。確かコイツは初めて会った時からこうだった。しかし、今度は少し様子が違った。
「まだ気づいていない?貴女の中にいる"怪物"。」
紫は少し表情を険しくした。意味が呑み込めないまま息を飲むと、ふと頭の中にあの声が響く。
―『・・・怪物で悪かったな。この年増が。』
唐突に毒づく謎の声。さっき紫が言った事に対してだろうか。でも、だとしたら姿など分かりはしないが・・・
(お前、そんな奴だったのか?)
―『だったらどうする。このゲテモノが。』
「ゲテモノってなんだよ!」
「え?」
「あ。」
紫が怪訝な顔をする。しまった。一応心の中で言ったつもりだったが、今まで暫く一人で引きこもっていたせいか、つい声に出てしまった。
「どうかしたの?」
「いや、その・・・」
紫の眉のシワが深くなる。オレは暫く狼狽してパタパタと手を振っていたが、隠しても仕方ない、と思い直す。
「・・・二重人格?かは知らんけど、・・・何か声が聞こえるんだ。」
「・・・は?」
紫が目を丸くする。そりゃあびっくりするか。頭の中に声が、なんて普通はまず戸惑うだろう。
しかし、紫の食いつきは少々予想外だった。
「って事は貴女・・・会話が出来ているの?」
「へ?ま、まあうん。」
紫は身を乗り出して大きな声で問い詰める。もっと奇異な目で見られるかと思ったが。まさか今更オレが普通の会話が出来ているのに驚きはすまい。この頭の中の声との会話の存在自体は、すんなり認めたのだ。とりあえずありのまま答える。
「いつから?」
「声が聞こえたのは・・・そんなに前じゃない。違和感は割りと最初っから。」
「・・・・・・」
紫が難しい顔をして唸る。今になってこんな詰問をするくらいなら、接し方を変えてくれれば良かったのに。
「・・・どんな事を話していた?」
紫の目付きがギリリと鋭くなる。威圧ではなく、真剣故だというのは声色で分かった。
―『おい、余り他人の事をベラベラとバラすな。』
「う、うーんと・・・」
例の声はイラついた調子で口を挟んでくる。心なしか何だか慌てているように感じたが、それより紫の視線が誤魔化すことを許さない。
「ルーミアと離ればなれになるな、とか忘れるな、だとかそんな事を色々と。」
―『〜〜っ・・・』
声が唸る。そうだ、段々ハッキリしてきた。最初に聞こえた時はもっと物騒だったが、後から言い出したこれらも本音じゃないとは思えず、余計な事は言わずにおいた。
しかし今思えば、なんだってあんな事を必死になって叫んでいたのだろう。紫はさっきにもまして難しい顔だし。
「ってそうだ。ルーミアは?上で何かあったのか?」
さっきよりは慣れているが、あの悪寒は相変わらず続いている。紫が来た事といい、ただ事じゃないだろう。
すると、紫がオレにチラリと目を移す。
「・・・思った以上に、上手くいくかもしれない。」
「何が?」
紫がポツリと呟く。お互い独り言の得意なものだ。そして彼女は続けてこう言った。
「・・・物凄く遅くなっちゃったけど、話すわ。私達がした事、あの子と、そして貴女の正体、全てを。」
―
「・・・というわけ。」
紫が話し終えた後、オレは暫くボンヤリしていた。今地上で起こっている状況に、隠されていた出生。一言も発さずにいると、紫はやれやれと首をふる。
「もう時間がおしている。もう私は行くわ。」
そう言って紫はスキマにそそくさと沈んでいく。最後に声だけで、こう残した。
「もう貴女に頼るしか、いえ、任せるしかないわ・・・。ごめんなさい。」
そして、スキマが閉じて元通りになり、そこにはオレに声のみが残される。
―『・・・・・・』
「・・・ありがとな。」
―『何がだ。』
「オレがすぐにアイツの事を忘れずに済んだ。お前のお蔭で。」
―『・・・ちっ』
そいつは舌打ちしたが、寧ろ可愛く思えた。何度も気にかけてくれて、時にはオレ以上に怒ってくれたのだ。
・・・たとえ、元々ルーミアを食らおうとしていて、オレが仮の人格だったとしても、今ではいとおしく思える。
―『よせ、私には全部筒抜けなんだぞ。』
「構わねえよ。筒抜けでも。どうせこれから一つになるんだろ?」
暴れているアイツを抑えるには、そうしなきゃいけない。しかし声の方は、この期に及んで乗り気じゃないようだった。
―『・・・そうしたら、私も隠し事は出来ないんだな・・・』
「ん?」
いつになくしおらしい声。今まで聞いた事もない感情がポツリポツリと吐露される。
―『私はお前が思う以上に、浅ましさにまみれた生を送っていた。お前には想像がつかないだろう。・・・
私の方は内側から、ずっと見ていたから分かる。今までお前が覗き込んだのは深淵には程遠い、記憶の残骸に過ぎん。』
「・・・・・・」
―『遠慮無しに言ってくれ。私は先々で必ず邪魔になる。お前が望めば、解決した後、すぐにでも・・・』
何度か襲った、記憶や人格の違和感、そして夢で見た凄惨な光景。恐らくコイツのものだろう。以後迷惑になるならと、消えてしまう気だ。
「よせやい。」
―『・・・・・・?』
戸惑ったのが肌で感じられた。ヤケになって遠慮深くなって、忙しい奴め。
「お互い覚えてんだろ、ルーミアの事。それにアイツの中身も同じようなモンがいるんだ。」
そう。オレは一年もしない付き合いで、コイツにとっては食らうために近付いた奴と、そのガワでしか無かった。
けど、今なら分かる。たった一人でも、オレが、コイツが初めて会った、大切な"友達"なのだ。その為に、笑い、泣き、時には怒る。
「つまらん情とか、憎しみとかに囚われるというけど・・・
それでも大事だろ、今度は二人で体張ろうぜ。」
―『・・・お前。』
いつかコイツに言われた台詞を思い出しながら、明るい声で誘う。やがて、恥ずかしそうな問いかけが返ってきた。
―『頼ってくれるか。こんな私を。』
「ああ、頼むぜ。私は、お前なんだろ?」
左手を、左の耳へと伸ばす。そこには小さなピアスがあった。自分では見えず、風呂でも外さなかったそれを取れば、"封印"は解けるという。
すこし強引に、引きちぎる。
「―っ」
少しの痛み、そしてその直後に、虫の大群にでも襲われたような、呑まれる感覚に晒された。
それは、惨たらしいあの光景だった。光の差さない生気の感じない世界で一人でいた、いがみ合うばかりだった自分。怪物が、巨人が、神が、無数の死体となって転がり、それを何も感じずに見下ろす自分。
今までとは比べ物にならない圧倒的な数と重みをもって、封じられていた過去が自分を圧倒した。
ああ、そうだ。レーヴァテインは戦争の最後に見た、あの剣だ。ロキってのは有名なクソオヤジだった。ファーブニルもアイツのゴタゴタに関わったっけ。スレイプニールはソイツの落とし種、そんで、あの鳥・・・文、すまん。あのムカツク鳥に雰囲気が似ていたんだ。
アイツの見せたがらなかったもの、しかしオレが思ったことは、一つだけ。
(・・・苦しいのは、一人は、もう終わりだ。)
ちゃんと聞こえていただろうか。同化しつつあった意識の中で、オレはそう言った。
◆
・・・つい最近、ルーミアとそっくりな事が起こった。
封印しなければいけない程の妖怪が幻想郷に流れ落ちた。そいつも霊夢や龍神と対処したけど、まさかこんな事になろうとは。
自分の苦労にしみじみとため息をつく。
その時。
「きゃあ!」
影狼が悲鳴を上げる。地面が突如揺れ始めたのだ。かつての天人の異変を思わせる程激しく、地鳴りの音は空気まで震わせていた。
「な、なな何ですか!?一体!」
「来るわよ。」
文のパニックを短く諌める。その瞬間、目の前の地面に引き裂くような地割れが走る。皆が怪訝な顔をする間もなく、そこから黒いモノが溢れだした。
「うわっ!」
勇儀が珍しく飛び退く。黒いモノは無数の顔、怨霊だった。死体を思わせる苦悶の表情を浮かべながら、地獄から吹き上げるかのように天へと次々と上っていく。そして最後に、ガバリと地面が陥没すると大きく黒い何かが苦しみの顔の中を泳ぐように上っていく。
そして、やがて怨霊は一つ所に纏まり、最後の何かを迎え入れる。最初に紅い眼が光り、怨霊達はそれに吸収されるようにして一つの姿を形作る。鎧を着た蛇のような顔に胴体から尾への流れ、そして硬い骨のような、遠くからでも鋭い爪が分かる四本の手足、そしてコウモリのような翼。濃い灰色の雲の中にシルエットを浮かべ、かくしてソイツは空亡と向かい合う。
「あれが・・・
霊夢が呟く。
「ええ・・・あれこそ、最下層の地獄の主、死者と共にあり、最終戦争を見届けた北欧神話の邪龍・・・
―"大いなる怒り"、ニーズヘッグ。」