大型ショッピングモールの最上階、都市型水族館『アクア・ドリーム』の内部は、現実から切り離されたかのような幻想的な静寂に満ちていた。壁一面に広がる巨大なアクリルガラスの向こうでは、雄大なジンベエザメが、まるで無重力空間を浮遊するかのようにゆったりと泳いでいる。その影が、見上げる少女たちの顔を滑るように横切っていった。
「大きい……。なんだか、海の中じゃなくて、宇宙を飛んでいるみたい……」
深雪が、青く照らされた水槽に魅入られて、うっとりと吐息を漏らす。その隣で、姉の白雪は優しい眼差しで妹を見守り、そして再び水槽へと視線を戻した。
「本当にね。鎮守府の近くの海では、なかなかお目にかかれない光景だわ」
彼女たちの周りを、色とりどりの小さな魚の群れが、きらきらと光の粒子のように舞い踊る。
應瑞はおしゃれなカフェで売られている、深海をイメージしたという青いグラデーションのドリンクを片手に、イルカショーの時間をチェックしている。
「ねぇ、次のイルカショー、あと十分で始まるみたい。いい席、取れるといいけど」
「行きましょう。わたくし、イルカショーは初めてですの」
應瑞が期待に胸を膨らませて言う。彼女は、日本の漫画で見たイルカショーに、ずっと憧れていたのだ。白雪と深雪、不知火も、色とりどりの魚が舞う水槽の前で、静かにその光景に見入っていた。日常の喧騒を忘れさせてくれる、穏やかで優しい時間がそこには流れていた。
(こうして皆さんと平和な一日を過ごせるのは、本当に幸せなことですね……)
應瑞は、心の中でそっと呟いた。
***
一方、階下のゲームセンターは、水族館の静けさとは対照的に、電子音とネオンの光が激しく渦巻く興奮の坩堝と化していた。特に奥まった場所にあるVRバトルブースの個室では、ひときわ熱い戦いが繰り広げられている。
「はっはー!おれ様に敵うヤツはいねぇな!どうだ、このスコア!」
VRヘッドセットを勢いよく外した肇和が、額に滲む汗を腕で拭いながら高らかに笑う。ブースの壁に設置されたスコアボードには、それまでの歴代一位の記録を大幅に更新した、信じがたいほどのハイスコアが赤く輝いていた。彼女のリュックサックの中では、本来そこにあるはずのない小型のコアユニットが、かすかな熱を帯びて静かに息を潜めている。
隣のブースから出てきた初雪も、満足げな表情で頷いた。
「こっちも新記録だよ。やっぱり、ちょっとだけ『使う』と全然違うね」
(身体能力を少しだけブーストしただけでこれだもんな。本気で同調したら、このゲーム機、壊しちまうかもな)
肇和はそんな物騒なことを考えながら、得意げに鼻を鳴らした。二人の背後では、夕立が音楽ゲームでパーフェクトコンボを叩き出し、綾波と敷波が対戦格闘ゲームで一進一退の攻防を繰り広げている。誰もが、それぞれの休日を純粋に楽しんでいた。
***
ちょうどその頃、提督と逸仙は、同じショッピングモールの高層階にあるイタリアンレストランで、遅い昼食をとっていた。執務室での膨大な書類仕事からようやく解放された提督にとって、これは待ちに待った瞬間であり、逸仙との約束を果たすための大切な時間だった。
「いやあ、君との食事は久しぶりだな。いつも鎮守府で忙しくさせてしまってすまない」
提督が少し照れくさそうに言うと、向かいに座る逸仙は、優雅にワイングラスを傾けながら、蠱惑的な微笑みを浮かべた。
「いいえ、提督のお役に立てることが、わたくしにとって何よりの喜びですから。ですが……こうして二人きりで過ごす時間も、とても大切に思っておりますわ。あなた様が選んでくださったこのお店、窓からの景色も素敵ですこと」
逸仙が、潤んだ瞳で提督を真っ直ぐに見つめる。その言葉と視線が、まるで甘い毒のように提督の心臓を不規則に跳ねさせた。
提督は照れを隠すように、慌てて手に持ったカトラリーに視線を落とし、不自然にパスタを口に運んだ。
夕暮れが近づき、窓の外の街並みが茜色に染まり始めている。穏やかで、満ち足りた時間が、二人の間に流れていた。
その、瞬間だった。
ドガァァァンッ!!
地を揺るがすような凄まじい轟音が、突如として辺り一帯に響き渡った。提督が座っていた席のすぐそばの巨大な窓ガラスが、ビリビリと激しく震える。彼の視線の先、ショッピングモールの外壁の一部が、まるで巨大な何かに抉られたかのように爆ぜ、コンクリートの破片と黒い煙が空中に舞い上がるのがはっきりと見えた。
一瞬の静寂の後、平和な雰囲気だったレストランは一瞬で地獄絵図と化した。食器の割れる甲高い音、人々の絶叫、そして何が起きたのかわからず怒鳴り散らす声が、狭い空間に満ち満ちる。
「な、なんだ!?」
提督は咄嗟にテーブルの下に身を隠しながら、逸仙に叫ぶ。逸仙は、揺れが収まるのを待ちながら、冷静に、しかし鋭い視線で窓の外に目を凝らした。
ショッピングモールの壁の一部が、黒い煙を上げて崩れ落ちていくのが見えた。先ほどまで提督が眺めていた河川の水面から、何かが高速で飛来し、建物に直撃したのだ。
「提督、外です! 河川の方から……!」
逸仙の声は、いつもの穏やかさからは想像もつかないほど、張り詰めていた。
ショッピングモール内は、一瞬にしてパニックに陥った。悲鳴と怒号が飛び交い、人々が出口へと殺到する。緊急事態を告げるけたたましいアラームが、建物中に鳴り響いていた。
「な、なんだ!? テロか!?」
「提督!」
提督が反射的に立ち上がるのと、逸仙が鋭い声で叫ぶのは、ほぼ同時だった。二人はもはや食事どころではないことを瞬時に理解する。提督はジャケットの内ポケットからスマートフォンを取り出し、震える指で鎮守府の緊急回線に接続を試みた。
その隣で、逸仙の表情からいつもの柔和さが完全に消え失せ、戦場に立つ艦娘としての厳しい光がその瞳に宿っていた。
***
建物内部の、それも窓のないエリアにいた艦娘たちは、すぐには事態を正確に把握できなかった。水族館では、突然の振動で水槽の水が大きく揺れ、魚たちがパニックを起こしたように泳ぎ回る。
ゲームセンターでは、けたたましい非常ベルの音と、「落ち着いてください!」という店員の声が、ゲームのBGMをかき消した。
「な、なに?地震?」
「今の音、爆発じゃなかった?」
周囲の人々が口々に叫ぶ断片的な情報から、ただ事ではない状況を察知するのに、時間はかからなかった。
「何かあったみたい!」
「みんな、急いで外に出ましょう!落ち着いて、非常階段へ!」
水族館では、白雪が冷静に指示を出し、他の客と共に避難経路へと急ぐ。ゲームセンターにいた吹雪たちも、点滅する避難誘導灯に従い、一斉に出口へと殺到した。人々の波に揉まれながら、少女たちの顔には不安の色が濃く浮かんでいた。
***
先にショッピングモールから脱出したのは、出口に近い水族館組だった。彼女たちが広場に出て目の当たりにしたのは、信じがたい光景だった。先ほどまで見上げていたモールの瀟洒な壁面が、まるで巨大な獣に噛み砕かれたかのように無残に崩落し、そこからどす黒い煙が空へと昇っている。周囲には、割れたガラスやコンクリートの塊が広範囲にわたって散乱し、いくつかの駐車車両は衝撃でひしゃげていた。
「嘘……、何が、起きたの……?」
五月雨が、震える声でかろうじて言葉を紡ぐ。白雪と時雨は、負傷者がいないか素早く周囲を確認しつつ、パニックに陥らないよう必死で冷静さを保とうと努めていた。だが、その顔は蒼白だった。
(どうしよう……何が起きたのかわからない。でも、もしこれが敵の攻撃だとしたら……)
時雨の脳裏に最悪のシナリオが浮かぶ。しかし、今の彼女たちにできることは何もない。艤装をまとっていない彼女たちは、今、ただの非力な少女でしかないのだ。この惨状を前に、何もできずに立ち尽くすしかない自分たちの無力さを、骨の髄まで痛感させられていた。
「みんな!」
そこへ、少し遅れてゲームセンター組が、人波をかき分けるようにして合流した。吹雪や村雨たちが、息を切らしながら駆け寄ってくる。
「これは……一体、どういうことなの……」
吹雪が、崩れた壁を見上げて言葉を失う。その時、ひときわ大きく、そして好戦的な声が響き渡った。
「なんだかわかんねえけど、こんなことするのは敵の仕業に決まってんだろ!こうしちゃいられねぇ、ぶっ潰しに行くぞ!」
声の主は、肇和だった。彼女の瞳には、恐怖よりも闘争心がギラギラと燃え上がっている。そのあまりに場違いな威勢の良さに、初雪と夕立も即座に同調した。
「そうだそうだ!やられる前にやるしかない!」
「あたしたち艦娘がいるんだから、なんとかできるっぽい!」
綾波もまた、口には出さないものの、固く拳を握りしめている。その一触即発の雰囲気に、時雨が割って入るようにして冷静に釘を刺した。
「待って。私たちは今、艤装を持っていない。ただの女の子だよ。無闇に動くのは危険すぎる。まずは鎮守府に連絡して、提督の指示を仰ぐべきだ」
「そんな悠長なこと言ってられるか!目の前で人が危ないかもしれないんだぞ!」
肇和が、まるで子供を諭すような時雨の口調に苛立ち、牙を剝くように食ってかかる。冷静に行動すべきだと主張する村雨や敷波たちと、今すぐ行動すべきだと息巻く好戦派の間で、激しい口論が始まった。
その間にも、遠くからサイレンの音が近づいてくるのが聞こえる。
「おれが行って様子を見てくる!爆発音は川の方から聞こえた!初雪、行くぞ!」
「うん!」
肇和と初雪は、密かにコアユニットを携帯しているが故に、異常なほど強気だった。自分たちには他のメンバーにはない「力」があるという、歪んだ万能感が彼女たちを突き動かしていた。二人は他のメンバーの制止を振り切り、爆発音のした方角——河川へと走り出す。そのあまりに無謀な行動に、夕立と綾波も「あ、待ってよ!」と考えるより先に後を追ってしまった。
「あ、あなたたち、待ちなさい!肇和!」
應瑞の悲鳴のような制止も、興奮状態にある彼女たちの耳には届かなかった。
「しょうがないわ、私たちも追いかける!敷波さん、時雨ちゃんもお願い!」
吹雪が咄嗟に判断し、應瑞と共に妹たちを追う。残された五月雨、村雨、白雪、深雪、そして不知火が、呆然と走り去る仲間たちの背中を見送る中、村雨がハッとしてスマートフォンを取り出した。
「とにかく鎮守府に連絡を!急いで!」
彼女が緊急回線にかけると、数コールでオペレーターに繋がった。しかし、返ってきたのは予想外の言葉だった。
「こちら鎮守府司令部。——ええ、状況は提督からの第一報ですでに把握しています。」
提督と逸仙が、自分たちよりも先に動いている。その事実をほのめかす言葉に、少女たちはわずかな安堵を得るも、何が起きているかわからないという現実が、少女たちの不安をさらに煽るのだった。