鎮守府Aの物語 - 短編集   作:lumis

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姿を見せない逸仙。やがて鎮守府中で……。


鎮守府の戸惑い

 時間がが過ぎるにつれ、逸仙の不在は鎮守府全体に重い影を落とし始めていた。

 

 執務室では、書類の山がどんどん積み上がっていく。執務室には、様々な部署からの要望や相談事項が山積みになっていた。

 

「この経費申請、誰が承認するんでしたっけ?」

「あ、それ私の管轄じゃ……」

「いや、高雄さんの部署の予算だから、提督の印鑑が必要で……」

 妙高が静かに呟く。

 

「逸仙さんは、誰に何を頼めば一番スムーズに進むか、全部覚えていらしたのね」

 書類に書かれない「人間関係の地図」。それを逸仙一人が脳内で管理し、毎日円滑に回していたのだ。

 

 一方で提督の額には、普段は見られない皺が刻まれていた。元々、一人で背負い込みすぎて焦りやすい傾向がある。逸仙の完璧なサポートが、そんな彼を支えていたのだ。

 

「提督、工廠からの緊急連絡です」

 鳳翔が受話器を手に、珍しく焦りを見せた。いつもの優雅さが、微かに乱れている。

 

「明石さんからです。予備パーツの発注が滞っていると……」

「発注? あれは逸仙が毎週月曜にまとめて……」

 

 最後まで言い終わる前に提督は顔色を変えた。そういえば発注などの定期業務のいくつかは、逸仙に任せていた。完全に宙に浮いた業務が発生してしまっていた。

 

「す、すぐに確認する。高雄、在庫リストを!」

「はい。ただ、逸仙さんが管理されていた詳細な在庫データって、どのメニューから見るんでしたっけ……」

 

 高雄も初めて歯痒そうな表情を見せた。提督と同様にSEとしての経験を持つ彼女は、通常なら冷静にデータを引き出せるはずだ。だが逸仙に任せきりにしていた秘書艦業務の分野だったため、逆に苦戦を強いられている。

 

 提督は後頭部の髪をかき乱しながら言った。

「とりあえず、明石に連絡して。昨日の在庫で、緊急分を優先して発注してもらう」

「は、はい!」

 

 

 お昼を過ぎても執務室の忙しさの熱気は少しも緩和されなかった。そして午後には、事態はさらに悪化した。執務室に一本の内線電話がかかってきた。

 

「演習試合の編成ってどうするんですか!!ずっと連絡待ってるんですけどぉ!」

 演習艦隊をまとめていた吹雪が、焦燥をにじませた声で訴えかけてきたのだ。普段なら逸仙が完璧に調整してくれるスケジュールが、今は演習艦隊の皆の耳に届いていなかったのだ。

 

 いつもであれば、演習中の安全のため、逸仙の特殊能力により、演習艦隊全員の艤装の防衛性能を向上させて臨む。だが今はその能力を発揮する前に、指揮系統の混乱に阻まれている。

 

「ご、ゴメンなさいお姉ちゃん。今提督に代わります。」

 電話と取ったのは妹の白雪だ。白雪はキャッチホンにするのも忘れて提督に向けて叫んだ。

「提督、演習艦隊からの確認の電話です!」

 

 白雪が告げると、提督は頭を抱えた。

「わかってる、わかってるが……!」

 

 目の前には減らない書類の山。逸仙がいれば気づいたら片付いているレベルの量のはずなのだが、今は誰もその整理を全うできていない。鎮守府の空気は明らかに停滞していた。普段の活気は影を潜め、代わりに重苦しい緊張が張り詰めていた。

 

 こめかみを押さえながら妙高は窓際へと向かい、外の景色を眺めた。彼女の席には冷めきった紅茶が置き去りにされていた。

「やはり、逸仙さんがいらっしゃらないと……」

 思わず漏らした言葉は、誰もが口にしながらも、誰もが認めたくなかった現実だった。

 

「あ、そうだ。逸仙さんに連絡!連絡忘れてた!」

 提督がハッと気付いた。普段はしっかりしている妙高や高雄も完全に失念していた。

 始業から随分経っているにもかかわらず誰も電話しなった。いや、忙しすぎてできなかった。

 

 

 

 夕方近く、ついに提督は決断した。

 

「吹雪、初雪、白雪、深雪。そして應瑞と肇和も来てくれ」

 呼ばれた六人は、提督の厳しい表情に緊張しながら執務室に集まった。吹雪型四姉妹と、逸仙を慕う中国艦の姉妹。提督は意図的に、逸仙と縁の深い者たちを選んだのだ。

 

「誰か逸仙さんのところに連絡を取った者はいるか?」

 提督の問に、誰も首を縦に振らない。

「そうか。執務室にも彼女から連絡はなかった。なので寮まで、行ってみよう。何かあったのかもしれない。」

 

 應瑞が、顔を青ざめさせた。

「まさか、逸仙さんが……!」

 應瑞の青ざめた顔の中にも僅かな笑みに提督はブルっと震えて慌てて補足した。

 

「あぁいやいや。何かあったとかそういうわけじゃない。だが、これほど連絡がつかないのは不自然だ。」

「そういえば、誰も逸仙さんのところに行っていないんですの?」と應瑞。

 

 提督は眉間にシワを寄せながらコクリと頷いた。逸仙を心配していなかったわけではない。あまりにも忙しく、誰も彼女へと連絡を取る合間すら持てなかったことを伝える。

 

「んもう、だったら私たちに前もって言ってくれればよかったのに。合間見つけて寮に行けたのに。」と吹雪。

 

「あぁすまん。そうだな。」

 一拍置いて提督は続けた。

「ようやく少し落ち着いたから、やっと君たちを呼べたんだ。一緒に寮に来てくれるか?」

 提督の言葉に、皆が頷く。心配と、そして微かな期待——完璧な秘書艦が、ただの遅刻や寝坊をしただけなら、という願いを胸に、一行は逸仙の住む寮へ向かった。

 

 

 

 時は遡り、午前のある時間。逸仙は深い眠りの淵に沈んでいた。

 

 目覚まし時計が、激しく鳴り響いている。だが、彼女の意識は、重い霧の中を漂うように、なかなか表層へと浮上しない。

 

(……もう少し……)

 

 無意識のうちにそう思ってしまう。

 

 普段は目覚ましよりも早く起き、鳴り始めた瞬間に止めるのが朝の日課になっていたが、その些細な幸せてを享受できていない。髪を乱し薄目を開けてようやく目覚まし時計を視界に収めるそれを、今日は煩わしいと感じていた。

 

 とても他の者には見せられぬ朝の乱れ具合でようやく起き上がり、雷鳴のように唸り声をあげる目覚まし時計を止めた。

 

(喉が……乾きましたね)

 

 呼吸をしようとすると肺の奥から湧き上がった息詰まりでゴホゴホと咳が出た。喉が痛くて声が出せないことに気づいた。

 

 完璧を目指し、無理を重ね続けた身体がついに限界を迎えていた。睡眠不足の日々、休む暇もない業務、そして誰にも見せない完璧さへの執着。それらすべてが、今、彼女を床に縛り付けていた。

 

 さすがに今日は仕事は無理だ。

 

 そう察した逸仙は、絞り出すような吐息を漏らしながらベッドから起き上がり、電話をかけるべくフラフラとした足取りでテーブルに手を伸ばした。

 

 その時、眼の前が暗転した。

 

 ドサリ、と強い振動音を立てて、逸仙は床に倒れてしまった。逸仙はぼんやりとした意識の中で、自分がこのままでは危険だということだけは理解していた。

 

(だめ……起きなければ……皆が……提督が……)

 

 だが、身体は言うことを聞かない。重い、熱い、鉛のように動かない。完璧な秘書艦としての自分が、こんなことを許すはずがない——そう焦りながらも、意識は再び暗闇へと引きずり込まれていった。

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