鎮守府の本館から道路を挟んだ向こう側に、艦娘たちの寮がある。N部署が設立された頃には鎮守府に勤務する艦娘は国際色豊かになるほどに増え、通えない者のために寮を提供するようになったのだ。
普段、寮の前は艦娘たちや、近隣の住人たちがのどかに行き交う日常の温かさがあった。しかしこの日、寮を目指して進む提督たちの目に映る人影は何故かなかった。耳を澄ませても、静寂が重くのしかかり、耳鳴りがするような感覚を覚えていた。
人気の無さに提督はなぜか寒気を感じた。
やがて寮に入り、應瑞や肇和の案内で逸仙の部屋がある階に上がった。そして逸仙の部屋の扉の前で、提督は深く息をついた。
廊下は薄暗く、他の艦娘たちの部屋から漏れる生活音すら、ここには届いていない。逸仙がいつも完璧に保ち、完璧に機能させていた空間が、今は奇妙な静寂に包まれていた。
「逸仙さん、入るぞ」
返事はない。ノックも、呼びかけも、虚しく室内に吸い込まれるだけだ。
提督は振り返り、背後の六人の顔を見渡した。吹雪は真剣な表情で、妹たちを庇うように立っている。白雪は手を胸元に当て、浅い呼吸を繰り返している。初雪は普段の快活さを失い、深雪は小さく震えている。應瑞と肇和は、互いの手を握りしめていた。
「……失礼する」
提督が扉を開けると、そこに広がった光景に、皆が息を呑んだ。
カーテンがまだ開けられていない薄暗い部屋。シーツが乱れたままのベッド。そして、逸仙が床に倒れていた。
「逸仙さん!?」
だれもが叫び駆け寄った。
提督が逸仙の身体を抱えて起こした。さすがに乱れた寝間着の上から触れるのは憚られるため、應瑞に目で合図を送り、彼女に逸仙の寝間着を整えさせた。
窓の隙間から差し込む夕日が、彼女の頬をかすかに照らす。その光が、彼女の異常な疲労を際立たせていた。
「逸仙さん……!」
提督に続いて應瑞や肇和、吹雪たちの声に、逸仙の瞼がわずかに動いた。そして、ゆっくりと、長い睫毛が持ち上がる。
「……提督?それに皆さんも……」
掠れた声。潤んだ瞳が、薄暗い部屋の中で、提督の顔を捉える。そこには、安堵と、羞恥と、そして自己嫌悪が入り混じっていた。
「心配したんだぞ?」
提督の優しい問いかけに、逸仙は言葉を失った。
ただただ、申し訳なさに顔を伏せる。抱きかかえられているので避けたくても提督の視線から逃れられない。完璧な秘書艦として、こんな醜態を見せてしまった——その自己嫌悪が、胸を締め付ける。
應瑞と肇和がしゃがんで、両側からそっと寄り、支えるように肩を貸す。その温かみに、逸仙の目尻が熱くなる。
「ごめんなさい……私……」
「いいんですのよ、逸仙さん。」
「そうだよ。誰でも疲れるってもんだ。逸仙さん、頑張り過ぎなんだよ~。」
肇和の軽い口調のセリフが、逸仙を始めこの場にいる皆の雰囲気の清涼剤だった。
「立てますか、逸仙さん?」
「对不起没关系!(だ、大丈夫です!)」
提督は逸仙の身体を抱えながら起こすと、逸仙の口からは思わず中国語が漏れた。
應瑞はその様子を見てクスッと微笑み、肇和はニンマリとした笑顔を向ける。
逸仙をベッドに寝かせるのには吹雪と初雪が提督を手伝った。
「よいしょっと。逸仙さん、大丈夫ですか?」
「逸仙さん……今日は寝てたほうがいいって。」
吹雪と初雪の言葉に、逸仙は笑顔を見せる。その笑顔には疲労の色が若干薄らいでいた。
逸仙をベッドに寝かせた提督は部屋の椅子に腰を下ろし、落ち着いた声で執務室に連絡を取り、妙高・高雄・鳳翔に逸仙の様子を告げた。しばらくして寮に来た3人は、室内に入ってきた。
三人は、互いに目を交わし、静かに頷きあった。
「逸仙さん、今日はゆっくり休んでください。」と妙高。
「逸仙さんがいなくても鎮守府は回る……といいたいところですが、今日一日、大変でしたよ。普段いかに逸仙さんに頼り切っているか思い知りましたもの。」
高雄が冷静に、しかし温かく語りかける。彼女の言葉にはその場にいただれもが激しく頷いていた。
「無理は禁物ですよ。はい、おくすりと、体調が悪くても食べられそうなおかゆを持ってきましたよ。」
鳳翔が、持参した温かいお粥を前に差し出す。白い湯気が薄暗い部屋に穏やかな光を生んでいる。その穏やかな声々に、逸仙の心の堤防が決壊した。嗚咽を漏らしながら、彼女は長らく抑え込んできた想いを吐露し始めた。
「私……皆さんのために完璧でなければならないと、自分を追い込みすぎていました」
声は震え、言葉は断片的になった。なんとかして紡いだ言葉の最後に、視線はゆっくりと提督の視線と交わった。
提督への特別な思い。それが、完璧への執着を加速させていた。彼女は自分に課せられた役割以上のものを求め、求めすぎていた。
「私は、みんなが支え合う鎮守府にしたいんだ。」
提督は、静かに宣言した。彼の声は、普段の気さくさとは別の、重みを持っていた。
「これまでは、逸仙さんに頼りすぎていた。俺も反省する。あなた一人に完璧を求めるのは、間違っていた。」
高雄も頷く。
「完璧な人間など、どこにもいません。私たちは皆で補い合う存在です。」
妙高が、優しく付け加えた。
「あなたの気持ちもわかります。けれど弱さを見せる、というのでしょうか。逸仙さんのいろんな一面を知りたいんですよ、みんな。」
鳳翔は逸仙の口にお粥をそっと運ぶ。穀物の甘みと生姜の微かな刺激により、逸仙が感じていた喉の痛みと倦怠感を和らげてくれる気がした。
スン、という鼻の音を響かせた逸仙は、自身のベッドを取り囲む皆の顔を見た。
「皆さん……」
涙ながらに、逸仙は感謝の言葉を紡ぐ。完璧を目指さなくていい——それは、今まで彼女が自分に許しなかった解放だった。
初雪と肇和が、そっと手を握った。小さな掌の温かさが、逸仙の心に伝わる。
「あたしたち、面倒かけないようにするから、早く良くなってね。」
「逸仙さんがいないと、朝も調子でないからさぁ~。」
以前の休日の深海棲艦襲撃事件でやらかした二人。それぞれの言葉の奥に潜む感情に、逸仙は再び涙を流した。だが今度は違う涙だった。
「さ、今日はもう休ませてあげよう。俺達は残りの仕事が待ってるぞ。」
提督が茶化した号令をかけると、わざとらしく駆逐艦たちが続いた。
「あ~、そういえば私たちも、演習試合の結果報告まとめないと!」
「うえぇ……めんどいなぁ~。吹雪ねえちゃんまとめてやっといてよ。」
「もう、初雪姉さん。自分のことは自分で書かないと。」
「私も、N部署の秘書艦の仕事の残り、片付けてきます。」
吹雪続いて初雪、深雪、白雪が立ち上がる。
「俺たちは逸仙さんの看病するぜ。なぁなぁ、知ってっか?最近母国だと……」
「コラ、肇和。逸仙さんを休ませてあげるんでしょ!耳元でうるさくしたらダメ!」
逸仙の枕元で目を輝かせながら喋ろうとする肇和の後頭部を軽く叩いて應瑞が止めようとする。そのとき、肇和の手に握られていた逸仙の手がグッと握り返してきたのに肇和が気づく。
「ふふ。最近、あなたたちの普段のこと聞けてなかったわね。たまには一緒に中華街にお出かけしてお茶しましょう。」
逸仙の突然の提案に、應瑞と肇和は表情をパァっと輝かせた。
「はい!喜んで!」
「うわ~!逸仙さんとお出かけ!!」
中国艦娘3人の会話を見た提督は高雄と妙高、そして鳳翔に視線を送り、微笑みながら言った。
「それじゃあ、明日から3日間は逸仙さんの特別休暇だ。俺達だけでも鎮守府が回るようにみんなで協力し合おう。」
「はい。秘書艦業務のスケジュールもしっかり調整しておきます。」
「後は私たちに任せて、ゆっくり休んでくださいね。」
「私はこのまま看病を続けますので、応瑞ちゃんと肇和ちゃんのことはお任せください。」
「あぁ、頼みます。あと……」
提督は鳳翔に目配せをした後、逸仙の枕元に近づき、小さな声で一言伝えた。逸仙は「啊...」と一言漏らした後顔を赤らめ、熱を帯びた視線を提督に向け、コクリと頷いた。
應瑞や肇和は怪訝そうな顔で見ていたが、鳳翔は「あらまぁ」と母親のごとく見守る笑みを浮かべるのだった。
この出来事がきっかけとなり、鎮守府には新しい空気が流れた。提督が率先して秘書艦の負担を調整し、他の艦娘たちも補佐を積極的に申し出るようになった。
かつてN部署が設立される前はどうにかして回してきた鎮守府の業務。いつしか人が増え、大規模な組織になるにつれ、各部署や担当者間の横のつながりの見通しが悪くなっていた。
提督や他の秘書艦も特定の人物の優秀な振る舞いに甘え、負担を集中させてしまっていたことをまざまざと思い知らされたのだった。
逸仙自身は充実した休みを経て晴れやかな笑顔を取り戻した。休み明けの業務からは完璧ではなく、「ただの良い」秘書艦を目指す——そのゆとりが、かえって彼女の働きを輝かせた。
ある朝、執務室では鳳翔と高雄が、それぞれの流儀でお茶を淹れていた。妙高は、五月雨から預かった書類を整理している。そして逸仙は、提督の隣で、穏やかに微笑みながらスケジュールを調整していた。
「逸仙さん、ここの派遣任務の経費の記載ですが、このように修正しようと思いますが、どうですか?」
「ありがとう、白雪さん。助かります。えぇ、それで合っていますよ。そのようにお願いしますね。」
白雪が尋ねると逸仙は素直に感謝し、修正を白雪に任せた。かつてなら、完璧主義から自分が修正を率先して行っていたかもしれない。今は、違う。
その言葉に、白雪は照れくさそうに微笑んだ。
鎮守府は温かな「家族」としての絆を、さらに強く纏っていくのだった。完璧さではなく、不完全さを受け入れ合うことで、より深い信頼が生まれる。それが、この鎮守府の新しい常識となった。
朝の業務の合間、提督は席を立ち、自らお茶の用意をしはじめた。
「さ、みんな。軽くお茶にしよう。今日は俺が選んだ茶葉の紅茶なんだ。はい、逸仙さん。たまには紅茶を、どうかな?」
「はい。いただきます。」
提督から手渡されたティーカップを受け取った逸仙は、心から穏やかな笑顔を浮かべていた。
窓の外では、小鳥がさえずり、穏やかな一日が始まろうとしていた。
提督から手渡されたティーカップを受け取った逸仙は、心から穏やかな笑顔を浮かべていた。
窓の外では、小鳥がさえずり、穏やかな一日が始まろうとしていた。