善意の罠
午後の陽光が、鎮守府の廊下に長い影を落としていた。
演習を終えたばかりの吹雪、ギアリング、Z16、そしてグローウォームの四人は、汗と塩の匂いを纏って鎮守府本館に入った。
目指すのは大浴場だ。肌に張り付く汗の不快感と、演習の緊張から解放された安堵感が、彼女たちの足取りを軽くさせている。
「ふぅ⋯⋯。今日は一段と汗をかいたね」
吹雪が首筋の汗を拭いながら呟いた。
「演習、熱かったね。でもいい訓練だったと思うわ」
Z16が八重歯を見せて小さく笑う。グローウォームは無言で頷き、どこか遠くを見つめるような眼差しを浮かべていた。
「も~あたし、早く脱ぎた~い!」
脱衣所に足を踏み入れると、そこには清潔な石鹸の香りと、湯気による柔らかな湿度に包まれていた。四人は手際よく衣服を脱ぎ、それぞれの下着を脱衣所の備え付けのカゴへと放り込んでいく。白地に小さな桜が舞う吹雪の、星条旗を模した陽気なギアリングの、機能性を重視した黒いZ16の、そして淡いレースが施されたグローウォームの――四枚の布地が、重なり合うようにカゴの中に収まった。
「あーあ、びしょびしょ。後でちゃんと洗濯しなきゃ」
吹雪が漏らした独り言は、後に起こる大騒動への、静かな序曲に過ぎなかった。
彼女たちが浴室の扉を閉め、温かな湯船に身を沈めた頃。
静まり返った脱衣所に、音もなく一匹の影が忍び寄った。黒い毛並みを揺らし、好奇心に満ちた金色の瞳を輝かせているのは、鎮守府の自由人、猫のオスカーだ。
オスカーは今日も遊び道具を探している。
フラッと立ち寄った脱衣所。普段は閉まっている扉が、今日はわずかに空いていた。好機と悟ったオスカーは、床に置かれたカゴへと歩み寄る。
鼻を近づけ、くんくんと匂いを嗅ぐ。そこには四人の艦娘たちの体温と、汗の匂い、そして微かな潮の香りが混ざり合っていた。
オスカーはカゴの中身をまじまじと見つめる。布の塊がいくつか入っている。そのうちの四つ――小さく折りたたまれた布切れ――が、彼の遊び心を刺激した。
にゃー、と小さく鳴く。
彼は前足で一枚を引っ張り出し、口で咥えた。続いてもう一枚。だが三枚目を咥えようとしたとき、口がいっぱいであることに気づく。
オスカーは二枚でひとしきりじゃれ回った後、器用にも二枚を咥えたまま脱衣所を後にした。
階段を駆け上がり、時折ゴロゴロと転がる。その際、身体に引っかかっていた一枚がポトリと落ちた。それは淡いレースの布だ。偶然廊下に吹き抜けた風に乗り、布はふわりと舞い上がる。
しかしオスカーは気にせず、残りの一枚を咥え直してさっそうと物陰へと消えた。
廊下には夕暮れの静けさが満ちていた。
オスカーが立ち去って数分後、もう一匹の訪問者が現れた。同じく好奇心旺盛な雌猫、ジンジャーだ。彼女は残されたカゴに近づき、まだ二枚残っている布切れを前足でつつき、遊び始めた。
その時、オスカーが戻ってきた。彼の口には何も咥えられていない。物足りなそうな表情をしたオスカーと、ジンジャーの二匹の視線が交錯する。
オスカーは、ジンジャーが前足で押さえている布切れに目を留めた。それは白地に小さな桜が散りばめられたものだった。
にゃー!
オスカーが飛びかかる。ジンジャーは驚いて身を翻し、布切れを咥えて逃げようとしたが、オスカーは諦めない。
二匹の間で激しい奪い合いが始まった。
「ガサガサッ!」
カゴが傾き、残りの服が床に散乱する。ブラジャーが宙を舞い、タオルが滑り落ちた。
「ミャーオ!」
ジンジャーが威嚇し、オスカーも負けじと唸る。一枚の布切れを巡る綱引きの末、布は引き裂かれそうになり――
最終的に、二匹はそれぞれ一枚ずつを咥えて、勝ち誇ったように別々の方向へと走り去っていった。
脱衣所には散らばった衣類だけが残された。そして、カゴの中からはパンツの姿が、完全に消え失せていた。
浴室の中では、四人が湯に浸かっていた。
「あ〜、生き返るぅ〜」
ギアリングが湯船に顔まで浸かり、ぶくぶくと泡を吐く。Z16は洗い場で髪を濡らしながら、鏡に映る自分の顔を眺めていた。
「⋯⋯ん? 今、外で何か音がしなかった?」
Z16の言葉にグローウォームが首を傾げる。湯船で目を閉じていた吹雪が、ふと眉をひそめた。
「ガサガサとか、シャーーとか。ねずみ? それとも猫?」 「そんなの関係ないな~い! 今はお風呂中だも~ん!」
ギアリングの言葉はもっともだ。抱いた疑問はすぐに雲散霧消し、四人は再び心地よい温度に身を委ねた。四人の会話は他愛のない話題へと移っていく。演習の振り返り、次の予定、そして今日の夕食のこと。
彼女たちはまだ、自分たちの「大切なもの」が動物たちの戦場と化していることに気づいていなかった。
一方、逸仙が廊下を歩いていた。手には洗濯かごを抱え、家事のリストを頭の中で整理している。彼女が脱衣所の前を通りかかった、その時だった。
茶色と黒の影が、扉の隙間から飛び出してきた。二匹の猫が、それぞれ何かを咥えて走り去っていく。
「オスカー! ジンジャー! 何をしているの!」
逸仙の鋭い叱咤が飛ぶ。しかし、驚いた猫たちはさらに加速し、別々の方向へと逃げ出した。逸仙は慌てて追おうとしたが、猫の俊敏さには敵わない。
たまたま通りかかったアトランタが、その様子を見て不思議そうに首を傾げた。
「どうしたにゃ、逸仙さん? 慌ててるなんて珍しい~」
「アトランタさん! お願い、あの子たちを捕まえてきてちょうだい。何か布切れのようなものを咥えて逃げていったの。多分⋯⋯四人の下着の一部だと思うのだけど⋯⋯」
「なるほど。任せるにゃ!」
アトランタは驚きに目を見開きながらも、敬礼のような仕草をして足早に去っていった。
一人残された逸仙は、脱衣所へと入った。そして、すぐに深い溜息をついた。
そこには、猫たちの乱闘によって床に散乱したブラジャーやタオルが、惨状を物語っていた。
「まあ⋯⋯。汗で汚れた上に、こんなことに。あの子たち、何を持っていったのかしら。せめて他の服だけでも洗濯してあげないと」
逸仙は、床に散らばった衣服を丁寧に拾い集める。彼女の持つ深い母性と完璧主義的な善意が、彼女を動かしていた。逸仙は洗濯物を抱え、足早に洗濯場へと向かう。
結果として、脱衣所のカゴは完全に「空」となった。
十五分後。
浴室の扉が開き、四人が湯から上がってきた。体を拭き、さっぱりとした顔で脱衣所へと戻る。
演習の心地よい疲れと、身体にまとわりつく汚れを洗い流して充足感に浸った四人は、バスタオルを身体に巻いて、思い思いに雑談を始めていた。
火照った身体も落ち着いたところで、吹雪がカゴへ手を伸ばした。しかし、彼女の指先が触れたのは、冷たいプラスチックの底だった。
「⋯⋯あれ?」
吹雪が首を傾げる。ギアリングが覗き込み、絶叫した。
「ない! ないよ! あたしの星条旗パンツが消えてる!!」
「えっ!?」
「⋯⋯私の黒いのも、ないわ」
「あぅ⋯⋯私のレースも⋯⋯」
一瞬の静寂が支配した後、その静寂は四人の悲鳴の合唱によって破られた。
そこにあるはずの、彼女たちの『秘密』が、跡形もなく消失していたのだ。