鎮守府Aの物語 - 短編集   作:lumis

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執務室突入

 

 廊下の蛍光灯が、微かなうなり声を音を立てて脈打っている。夕暮れ時の鎮守府は、昼の喧騒が嘘のように静まり返り、壁に寄り掛かる影だけが濃く伸びていた。

 

 夕陽が差し込む執務室では、ひと仕事を終えた提督が、膝にフィッシュケーキを載せてまったりと寛いでいた。

 

 そんな平穏な空間に、新たな客人――いや、客猫がやってきた。

 

 ジンジャーだ。彼女は身一つで執務室に現れた。提督と同様、ひと仕事終えた満足げな雰囲気をまとっている。

 

 提督がジンジャーに手招きすると、彼女は提督の優しさを知っている。トタトタと駆け足で提督の机の上に飛び乗った。

 良い位置にたどり着いたジンジャーを見て、提督は猫好きなら誰もが一度は憧れる「猫の腹への顔埋め」を敢行した。

 

 提督は深く鼻を鳴らした。どこかで遊んできたのか、ジンジャーからは埃っぽい匂いがするが、それもまた良し。かすかに猫の毛以外のかぐわしい匂いがした気がしたが、今は気にしない。

 仕事に疲れた提督にとって、これ以上の癒やしはない。

 

 このまま定時まで、穏やかな時間が過ぎ去ることを疑いようもなかった。

 

 一方で、吹雪たちはジンジャーを追うアトランタを追ったものの、両者とも見失ってしまった。

 

「どうしよう? 手がかりがないよ」とギアリングが困り顔を見せる。

「⋯⋯クシュン!」

「う⋯⋯私も身体が冷えてきたかも」

 吹雪がくしゃみをすると、Z16とグローウォームも深く頷いた。衣服を着ていない彼らは、バスローブ姿のままだ。誰かに聞き込みをすべく階へ降りてしばらく廊下を進むと、向かい側からアトランタが悄気ながら歩いてきた。

 

「ジンジャー、見失ったにゃ~」

 

 アトランタの言葉に、四人は一斉にため息をついた。

 

「こういうとき、どうすればいいんだろう?」

 ギアリングの問いに、Z16が顎に指を当てて考え込む。

 

「そういえば、レキシントンさんは『犯行は繰り返される』って言ってなかった?」

「あ~、そういえばそうね」と吹雪。

 

「繰り返される⋯⋯、下着から最も遠い存在⋯⋯」

 Z16がブツブツと呟く。

「⋯⋯! やっぱり、提督のところへ行こう! それしかないよ!」

 吹雪はそれまでの困惑した表情を一変させ、凛々しい顔つきになった。三人は、彼女が何を考えているのかすぐに理解した。

 

 アトランタは四人の顔を見比べているが、事情がよく分からぬまま、とりあえず場の空気に乗ることにした。

 

 そんな五人のことなど知らぬというように、傍らの階段を静かに駆け上がる黒い影があった。

 

 

 執務室には、冷めたコーヒーの薄い香りと、猫の獣臭が混じり合っていた。だが、提督はそれすら心地よいものとして、机の上のジンジャーに顔を埋めている。

 

 そんなまったりとした空間に、三匹目の天使が現れた。いや、悪魔の使者かもしれない。

 

 オスカーだ。

 

「んな~お!」

 

 一鳴きした。すると提督は顔を上げた。紛れもない三匹目の猫である。

 

 オスカーと提督の視線が合うと、彼は他の二匹と同様、提督のそばへと駆け寄って机の上に飛び乗った。

 

 放置された書類の上で足を滑らせ、オスカーは身体に引っ掛けていた布切れを完全に手放した。

 

「ん? なんだこれ?」

 

 提督がその布切れを手に取ろうとした、その時。今度こそ提督を断罪する使者が姿を現した。

 

 

 わずか数分前、吹雪たちはバスローブ姿のまま、足音を立てぬよう、しかし決意を固めた足取りで執務室へと向かっていた。

 冷たい空気がローブの隙間から肌を撫でるが、四人の頬は怒りと羞恥で火照っている。

 

 執務室の扉はわずかに隙が開いていた。そこから漏れる暖色系の光が、廊下の冷たい灰色の床を橙色に染めている。中からは、紙をめくる音と、小さな獣の足音が聞こえてくる。

 

「⋯⋯いるわね」

 

 Z16が小声で言い、顎で扉を示す。

 

 吹雪は深く息を吸い込み、残る三人と顔を見合わせた。

 

 ギアリングは拳を握りしめ、グローウォームは不安げにローブの裾を摘んでいる。

 

 吹雪が勢いよく扉を押し開けた。

 

「っ!」

 

 提督が布を広げたのとほぼ同時に、吹雪たちの声が室内を切り裂いた。

 

「現行犯です!!」

 

 ギアリングが指を突きつける。その声は震えていたが、怒りは本物だった。提督は目を見開き、手にしていた布を落としそうになる。

 

「え? あ、いや、これは猫が持ってきて⋯⋯」

 

「言い訳は聞きません!私たちのパ⋯⋯下着を返してください!」

 

 吹雪が一歩踏み出す。ローブの裾が揺れ、廊下の冷気が室内に流れ込んだ。提督は慌ててオスカーから布切れを取り上げ、広げてみせた。確かにそれは、吹雪の下着だった。桜の花弁が、蛍光灯の光を浴びて無垢な白さを主張している。

 

「いや、本当に知らんぞ。猫が勝手に⋯⋯」

「ひゃあああ! わ、私の下着を広げないでくださいーー!」

 吹雪は顔を真っ赤にして取り乱すが、怒りだけは忘れない。

 

「なら、なぜデザインまで知っているんですか!」

 Z16 の鋭い指摘が、提督の言葉を遮った。先前の会話で、提督が全員分の下着のデザインを口にしてしまったことが、決定的な証拠として四人の脳内に焼き付いている。

 

「そ、それは⋯⋯」

 

 提督の額に汗が滲む。民間企業でプロジェクトを回していた頃よりも、今の方が百倍は神経を使っているような錯覚に陥っていた。言い訳を探そうとする喉元が、空回りする。

 

「あの⋯⋯指揮官様、そんなに私のが⋯⋯気になったのですか?」

 

 グローウォームが上目遣いで尋ねる。その瞳には、失望と、どこか期待するような複雑な光が宿っていた。提督は言葉を失い、口をパクつかせることしかできない。

 年の近い女性からそのような表情でアプローチを受けたら、真っ先に飛び込んでいく自信があった。だが、さすがに年の離れた艦娘にそんなことはできない。提督は頭の中でひどく場違いな思考が浮かび、それを振り払うように首を横に振った。

 

 沈黙が支配しようとしたその時、廊下から慌ただしい足音が近づいてきた。次の瞬間、執務室の扉が勢いよく開き、逸仙が駆け込んでくる。彼女の胸元は少し乱れ、息を切らしていた。

 

「みなさん、オスカーを見ませんでしたか?洗濯しようとした下着を咥えて逃げたのですが⋯⋯」

 逸仙の声は、いつもの穏やかさの中に焦りを含んでいた。吹雪達が同時に逸仙へ視線を向ける。

 

「えっ、逸仙さん? 下着って⋯⋯?」

「ええ、まぁ。汗で汚れたままでは不衛生だと思って。その前にオスカーとジンジャーが貴方たちがの下着で戯れていたから、なおさらね」

 

 逸仙は申し訳なさそうに頭を下げ、散らかった書類の上で大人しくなるオスカーを優しく撫でた。猫は悪びれる様子もなく、喉をゴロゴロと鳴らしている。

 

「このパンツは、逸仙が洗濯しようとしていたものなのか?」

「はい、そうです。何か問題が?」

 逸仙は吹雪たちの事情を知らないため、キョトンとした表情で答えた。

 

 提督が安堵の息を吐く。肩の力が抜け、デスクの縁に体重を預けた。

 

「ほらみろ!俺じゃない!」

 

 提督が四人の方を向く。その表情には、冤罪を晴らされた者特有の、少しばかり得意げな笑みが浮かんでいた。しかし、四人の反応は冷ややかだった。吹雪は腕を組み、Z16は眼鏡の位置を直し、ギアリングは頬を膨らませている。

 

「え⋯⋯じゃあ、提督が盗んだんじゃない⋯⋯?」

「盗んだわけではないってことなんでしょうけど⋯⋯」

 

 吹雪が呟く。逸仙の洗濯という動機は納得できた。猫の悪戯も、鎮守府では日常茶飯事だ。だが、消えない疑問があった。提督が、なぜあれほど詳細に自分たちの下着のデザインを知っていたのか。不可抗力という言葉で片付けられる領域を超えた、何か個人的な記憶の蓄積があるのではないか。

 

 提督はその視線に気づき、再び防衛態勢に入る。

 

「いや、本当に無実なんだが」

 

「無実ってことでいいです⋯⋯けど」

 ギアリングがぶつぶつと呟く。空気は解決に向かったはずなのに、なぜか以前よりも重く、ねっとりとした疑念が部屋中に漂っていた。猫たちはその重圧をよそに、提督の膝の上で毛繕いを始めている。

 

 窓の外では、完全に日が沈み、鎮守府の灯りが夜の闇に浮かび上がっていた。事件は一区切りついたように見えた。だが、残る二枚の行方と、提督の記憶の謎は、まだ闇の中に隠されたままだった。

 

 

 

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