「あ、あれほど私が役に立たないなんて…むしろ足を引っ張ってただけだったわね…」
カレーを手伝った次の日、休日の優しい日光が差し込む廊下を七罪は自己嫌悪の顔で歩いていた。その腕にはミルクを抱いている。昨日のカレー作りを手伝った後も、七罪は何か自分が助けになれる事はないかと蓮を観察してみた。
だが、食事の後片付けはもちろん、掃除、洗濯などを一人で苦もなくこなしてしまい七罪の手伝う隙が全く無かったのだ。それに加え、カレーの一件で自分が手伝っても手間の掛かる事を起こしかねないという恐怖もあり、なかなか動き出す事が出来なかった。
「こうなったら、本人に直接聞くしかないわね…。何か手伝えることがあるかどうか…」
よく考えると、最初からそうすればよかったという言葉が出てこなくもないのだが、そんな事はどうでもいい。たしか、蓮は中庭にいると言っていた気がする。その事を思い出し、七罪は足を進める。
(中庭なんかで何をしてるのかしら…)
その七罪の疑問はすぐに解消された。この家の中庭、普通の家の庭とは比べものにならない広さのその場所には、七罪の記憶通り蓮はいた。ただ、庭の真ん中で椅子に座っている彼の周りには、十以上はあるであろう野良犬、野良猫がいたのだ。その内の一匹であるふくよかな体型の黒猫が蓮の膝の上に居座り、目を細めリラックスしていた。
「何これ…?ど、どういう状況なの…」
目の前の光景に混乱する七罪だったが、それより早く動き出す存在があった。それは七罪と共にいたミルクで、蓮の姿を確認した瞬間、腕の中から飛び降りると、蓮の元に一直線に向かう。そして猫らしい身軽な動きでジャンプすると、蓮の膝の上に乗り、先にいた黒猫を蹴落とした後ニャアと鳴いてすり寄ってきた。
「わあぉ…」
決まった相手にとことん寄生する猫という動物が目の前で見せた、野心の一面にそんな声が出てしまう。『そいつではなく、自分に構え』そんなミルクの要求に蓮は従い、人差し指で首筋辺りを撫でてやると、気持ちよさそうに欠伸をする。
ただ、そのすぐ下では蹴落とされた黒猫が、ミルクに毛を逆立て、『シャアー!』と威嚇をしているのが気になる。
「ちょっと蓮!それはどうなってるの!?」
「あぁ、七罪か。まあ、とりあえず座れよ」
立っている七罪を見た蓮は、自分の隣にある椅子を指差しそう言う。七罪は言われた通りそれに座り、周りを見渡した。庭にいる大量の犬猫の一匹一匹の過ごし方はバラバラだった。蓮が用意したであろう小皿に注がれた牛乳を飲んでいる猫もいれば、ビーフジャーキーを噛んでいる犬もいる。そして、無防備な格好で寝ているものもだ。
「…いつからここは保健所になったのよ」
「そう言うなって。これにはそれなりの理由があってな」
苦笑いを浮かべながらそう言うと、自分の足元で毛を逆立てる黒猫を抱え上げると膝上にのせる。黒猫は同じ膝の上にいるミルクに威嚇の声を出しているが、当のミルクはプイッと顔を背け知らんぷりだ。そんな様子を見かねた蓮は、ポケットから猫用のボーロを一つ取り出し、黒猫に食べさせる。
「この家に住み始めた頃、この庭に野良猫やら野良犬やらが来るようになったんだよ。ここのどこを気に入ったのか知らないけど、とにかくトイレされたり、我が物顔で居座られたりと好き放題やられてる有様でな」
黒猫がボーロを咀嚼し、イライラが無くなったのを確認した後、その隣にいるミルクにもボーロを食べさせる。七罪はそれをジッと見ながら話を聞く。
「最初の内は追い出したりしてたんだけど、ある日ガリガリに痩せてて傷だらけの猫がやって来たんだ。いつも通りに追い出してもよかったんだけど、そうしたら道端で野垂れ死ぬか、車に轢かれそうな様子で追い出せなかった」
「それで…蓮はどうしたの?」
「ミルクみたいに飼う気は無かったけど、数日間だけ面倒を見たんだ。傷が治るまで待って、栄養のある食事を与える。三日か四日ぐらいで完治したかな、動物の治癒力は高いから」
懐かしむように語る蓮。この家に住み始めたのが今年の三月の終わりか、四月の始まりだった筈だから、約半年前という事になる。まだ一年も経過してないのに、もう何年も前の出来事のような気がして来る。
「傷が治った後は、普通に自由にさせたんだけど、それから一週間後ぐらいに猫の群れがここに来た。今までとは違う、明らかに秩序や社会的順位がある集団だった。その真ん中には俺が助けた猫がいた、つまり、そいつはここらの猫のボスになってたんだ」
「え、それ、本当の話?」
作られたような話の内容に、七罪は疑問の声を上げるが、蓮は『勿論、本当』と頷く。その様子を見るからに、嘘をついている様子はない。
「群れで餌をねだりに来たらしい。一応、餌付けしたのは俺だし、毎日来るって訳じゃないから、来た時こういう風に餌を与えてるんだ。まあ、いつからか野良犬まで来るようになったのは誤算だったけど。動物の間でも噂話みたいなのがあるのかね」
犬語、猫語が理解出来ないから、分からないけどとおかしそうに言うと、両手でミルクと黒猫の首筋を撫でてやる。すると、二匹は気持ち良さそうに目を細め、なうーと声を出す。
そんな光景を七罪は微笑ましく見ていると、そんな穏やかな雰囲気を壊す『ワン!ワン!』という鳴き声が庭に響き渡った。二人が顔を向けると、そこには一つのビーフジャーキーの両端を咥え、逆方向に引っ張る二匹の犬がいた。蓮は贔屓する事なく、食べ物は与えていたつもりだったが、その意図は犬たちに伝わらなかったらしい。
「ちょ、ちょっと!あんた達、やめなさいよ!!」
それを見た七罪が、二匹を宥めようと席を立った瞬間、庭中に笛のような高い音が響き渡る。その音に、喧嘩していた二匹は勿論、寝ていた個体までもが目を覚まし、音の元へ顔を向ける。そこには指をくわえた蓮がおり、笛のような音は彼の出した指笛だったのだ。
「
指笛や二匹の争っていた音がと比べたら明らかに小さいその一言。だが、それを聞いた二匹は身体をビクビクと震わせながら、ビーフジャーキーから口を離すと、それを挟むように横に並んだ。その姿は自由に生きる野良犬のものとは思えない。
その姿を見た蓮は、二匹の内の片方を指差すと、ポケットに腕を突っ込みビーフジャーキーを一つ取り出し、その犬の目の前に放る。
「ok。go」
その命令で、二匹は新たに投げられたビーフジャーキーと、求め争っていたビーフジャーキーをそれぞれ加えると、そそくさと歩いて行き、庭を出て行った。その二匹が消えると他の犬猫はまるで何もなかったかのように昼寝へと戻った。
誰もが平然と過ごした時間、そんな時間を唖然とした様子で見ていたのは七罪ただ一人。
「えっ!?えっ!?今、何が起きたの!?」
「あの二匹に今すぐここを出て行くように命令したんだ。互いが納得するように」
蓮はミルクを撫でながら、平然とした様子で答える。その様子は七罪の様子とは対照的と表現するのが正しいだろう。
「一応、ここを提供しているわけだけど、トイレとかを好き放題されたらたまらないからな。
「躾って…みんな野良なのよね…?」
「別にうるさい事を言っているつもりは無いさ。ただ、トイレ、交尾、喧嘩はここでするなって教えてある。これを守れない奴は追い出す、それがルールだから」
さも当たり前のように言うその姿には、一種のカリスマ性のようなものを感じた。それに似合わないような欠伸を一つすると、膝の上に乗っている黒猫を地面に下ろした後、ミルクを抱っこし、七罪へと差し出す。
「俺はしばらくここにいて、全員が庭から出て行くのを持ってるから、七罪はミルクと一緒に家に戻っててくれ。こいつだと、さっきみたいに誰かに喧嘩を吹っ掛けそうだし」
「確かに、それもそうね…」
納得してミルクを受け取った七罪は、家に戻る途中、チラリと背後を振り向いた。そこには誰も使ってない空の受け皿を回収して行く蓮の姿があり、その足元には数匹の野良猫、野良犬がおり、彼に甘えていた。
家に戻った七罪が、蓮の元に訪れた理由を思い出したのはそれから数分後、ソファの上でミルクを愛でている時だった。
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太陽が沈み、闇に包まれる夜。七罪はパジャマ姿で薄暗い家の廊下を歩いていた。その表情は決意に満ちている。
(家事も手伝えず、料理もダメだった…。そんな私が蓮の助けになれる事はもう…これしか無い…)
七罪は闇の中で僅かに照らされる自分の身体を見下ろす。不健康そうな肌に痩せている手足、放っておいたらくせっ毛で荒れてしまう髪の毛。十香や美九などとは比べものにならないほど劣っている自分の身体。
(だけど…変身した私だったら…)
七罪の天使、〈
蓮の事が好きだ、愛していると表現してもいいほど。しかし、たまに自分が彼に恋する資格があるのか悩む時があった。その原因の一つに家の中で役に立てない事があり、それに耐えられなくなりこんな事をしているんだと七罪はうっすら考えていた。
(たしか、今は書斎にいるはず…。そこで…私の意思を伝えなきゃ…)
その時のことを考えると、手に汗が滲み、喉が乾いてくる。それでも、七罪は足を動かし目的の部屋のドアの前まで来ると、大きく息を吐き出してドアノブを掴み、開ける。
たくさんの本が並ぶ室内、そこはオレンジ色のランプの光で照らされて安心するような雰囲気を放っていた。その部屋の真ん中、複数のソファと机が設置してあるそこには彼はいた。
「七罪?どうしたんだ、こんなところに」
思わぬ来客に目を丸くしている蓮。その手には分厚い本があり顔には眼鏡がかけてあり、七罪が部屋に入って来る瞬間まで読書中だったのが理解できる。
「あの!蓮、私…」
「珍しいな、こんなところに来るなんて。今、お茶を出すよ」
七罪が言おうとした瞬間、蓮は明るくそう言い、立ち上がる。そんな様子に勢いを削がれ、言いよどんでしまう。
(ま、まだ大丈夫よ…、焦る必要なんてないじゃ無い…)
出鼻をくじかれたが、別に一分一秒を争うような緊急の用事というわけでは無い。急ぐ必要はない、そう自分に言い聞かせた七罪は、蓮が座っていたソファの隣に腰掛ける。
数分後、ティーカップを持った蓮が戻って来る。ティーカップからは、白い湯気の他に安心する香りが出ており、それをソファの前に置くと、蓮も七罪の隣に座った。
「美味しい…」
「アッサムをたっぷりのミルクで淹れたミルクティーだ。牛乳にはリラックス効果があるんだよ」
その説明通りかは分からないが、紅茶を一口飲むと緊張で固まっていた全身がほぐれていくのを感じる。この状態の今しか話せない、これを逃したら言えずじまいだと七罪は考えて、カップを机に置く。
「あの!私、蓮に話したい事があって来たの!」
「話したい事?ああ、明日のおやつは
蓮自身は悪意など無く、ただ明日の予定を伝えようとしているだけだ。だが、その話を逸らそうとするその言葉が七罪には腹立たしく感じた。
「違うの!!ちゃんと話を聞いて!!」
気付いた時には、立ち上がり部屋中に響き渡る声を張り上げていた。その声に言葉を中断された蓮は、立ち上がり行きを乱す七罪を唖然とした表情で見ている。そんな様子を見て、七罪はハッと我に帰ると、その気まずさを誤魔化すように蓮の胸元に飛び込んだ。
「違うの…違うのよぉ…私が言いたい事は…こんなことじゃ…」
「…ごめん、七罪。昔からこんな風に人の気持ちとかを考えるのが苦手で…」
「ううん…蓮は悪くない。勝手に悩んでいたのは私だから…」
胸元に飛び込んで来た七罪を、蓮は優しく抱きしめる。七罪が発するその声には涙声が混じっていた。そんな七罪の感情に気づけない自分を責めつつ、優しく彼女の頭を撫でる。七罪が蓮の胸元から顔を上げたのはしばらくしてだった。
「改めてもう一回聞くよ。七罪、話ってなんだ?何か七罪に悪い事したっけ?」
「…私、蓮の世話になってばかりで何もしてないって感じたのよ…。それで何か役に立とうと思って…手伝ったけど…足を引っ張ってばかりで…」
七罪は涙ながらに語った。蓮に手伝いたいと考えて行動したのだが、結果的に手間を増やしただけだった事。そのせいで自分が蓮を想うことさえ疑問を感じて来ていること。そして、自分が考えうる役に立てる最後の手段を。蓮はそれを黙って聞いていた。
「〈
言い終わると、七罪は目を瞑り、霊力逆流の準備へと入る。他の精霊と比べてメンタルの弱い七罪は、ネガティブなシーンを想像すると少しだけ霊力を使う事が出来た。だが、霊力が封印された今、その状態を常に維持するのは楽な事ではない。それでも蓮の役に立てればという一心での行動だった。
しかし、それは再び蓮に強く抱きしめられる事によって妨げられた。
「ダメだ。そんな事したら、前の七罪に戻ってしまう。俺はそんな無理を強いるつもりはない」
「でも…でも、そうでもしなきゃ役に立てなくて…」
抱きしめから解放された後、七罪は霊力逆流の妄想をやめ、ゆっくり目を開ける。そこには困ったような表情を浮かべつつ、微笑んでいる蓮の顔があった。
「七罪は根本的な部分から勘違いしているな。俺が家の中の事を一人でやりくりしてるのは"癖"のようなもんだ。これは七罪が家に来る前からそうだったし、来たから変わったってわけじゃない。…だけど、それが七罪を追い詰めていた事には気づけなかった。ごめん…」
七罪の頭を撫でながら、目を伏せて謝る。顔を伏せる直前、七罪の目には蓮の悲しみの顔が映った。笑っている顔は何度か見た事があったが、その切ない表情。そんな顔も笑っている時と同じような魅力があった。笑う顔と悲しみの顔、その二つが似合う人間なのだ、蓮は。
「それともう一つ。俺をそんなに神聖視するな。これは謙遜じゃない」
その言葉は七罪の予想外のものだった。いつも堂々とし、弱点など無いように思っていた者から出た弱音。それが信じられなかった。どうやら七罪は無意識にそんな顔をしていたらしい、蓮は何やら迷うような素振りをした後、口を開いた。
「俺には血の繋がらない母親がいる。いや、"居た"っていう表現があっているのかな。何年も前に肉親がいなかった俺にその代わりとなってくれた女性、名前はカレンっていうんだ」
懐かしむように語られる話に、七罪は自分がここに来た目的など忘れて聞き入った。それだけ蓮が自分の事を語る事が無いというのもあるがその話を聞き逃してはいけない。そんな気がしたのだ。
「無愛想で、変な事ばっかりを話す人だったけど、俺はカレンの事が大好きだった。もしかしたら、親がいない寂しさをその人で紛らわせていただけだったのかもしれないけど」
カレンの事を話す蓮はとても楽しそうな様子だ。それを見た七罪の胸に、カレンに対しての悔しさ…いや、嫉妬のような感情が渦巻いていく。
(何よ…随分と楽しそうな様子じゃない…。そのカレンとかいう女の方が私より色々立派だったんでしょ…)
ネガティブモードに入っていく七罪。小さい頃に会っていたカレンと、出会って一ヶ月も経過してない七罪とではレベルが違うという事も理解していたが、納得出来るものではなかった。だが…。
「だけど、ある日。何も言わずに俺の前から消えちゃったんだ。本当に突然…」
さっきまでとは変わり目を伏せて、悲しそうに言ったそれを聞いた瞬間、七罪の頭はまるで冷水でもかけられたように冷静になった。
「ある日、目が覚めたら、まるで幻のように居なくなってた。今では生きてるか死んでるかすら分からない」
囚われているのだと感じた。目の前の少年はカレンという一人の女性を忘れる事が出来ない、そうでなければそんな表情を浮かべられないだろう。
「俺を笑えばいいさ。こんな歳になっても、未だ母親から離れる事が出来ない奴だって。それには何も言い返せないし」
「出来るわけないじゃ無い!そんな…大切な人が居なくなったあんたを、笑う事なんて…」
自傷気味に笑う蓮に、七罪はそう叱咤すると両腕を広げ、蓮の頭を抱きしめた。それはついさっき蓮が七罪にしたのと同じ行動。
「大丈夫…大丈夫よ。人は変わっていける…あんたが私を救って変えてくれたみたいに…。だから…だから…!あんたの…その苦しみも…いつかは…!」
「なんで七罪が泣くんだよ…せっかくの美貌が崩れるぞ」
「グズっ…ばかぁ…」
顔を見ずとも、嗚咽で泣いているのだと分かった。今日は七罪を悲しませてばかりだなと感じ、小さく笑う。
「な、なによ…、そりゃあ、変身した私の方が胸元が豊かで心地いいでしょうね…」
「いや、このままでいい…このままがいいんだ…」
オレンジの光が照らす室内で、二つの影が一つになる。この平穏という水面に、すぐに波が立つというのを二人はまだ知らない。