やはり俺の日常は酷くまちがっている。   作:あきさん

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雪ノ下雪乃と比企谷八幡、初夜の後、夢の跡。

   ◇   ◇   ◇

 

 ――私も、あなたに対して特別な感情を抱いていないわけではないわ。

 

 かつて、あなたに想いを告げられた時のこと。

 一字一句違わない。当時の私は、確かにそう前置きした。

 

 けれど――。

 

 だから、私は知っている。

 この後に自身が継ぐ言葉を。その先にある結末を。

 

 ………………。

 

 …………。

 

 ……ずいぶんとまた懐かしい出来事を蒸し返してくれたものね。

 カーテン越しに届く陽の光が、私の意識を夢と記憶の世界から現実世界へと引き戻す。

 それに従い瞼を開けば、隣で彼が今も眠っていた。普段の彼からは想像もつかないほど穏やかな寝顔と静かな寝息。普段の捻くれ具合や目の腐り具合がまるで嘘のよう。

 とはいえ、その『嘘のようにすら感じる普段との差異』が存在しなかったのなら、おそらく私は終始、彼を有象無象の存在としてしか認識しなかっただろう。たとえ何かの拍子で出会うことはあったとしても、ただ同じ学校に通っているだけの一人と一人のまま、それ以上話すことも関わることもなく。 

 まぁ、それも、今ここにいる私からすればの話。今よりもずっと子供だった私の昔話。

 そんな独白を紡ぎながら、昨夜の余韻と疲労が残る身体をゆっくり起こしつつ。

「思っていたより、くるわね……」

 彼に聞かれても差し支えない内心の一部だけを、深い吐息と共にそのまま漏らした。

 もともと人より体力がないほうではあったが、今感じている身体の重さは、疲労感や倦怠感からくる普段のそれとは違い、心地よくも心地悪く。鈍い痛みと異物感の中に満たされるような幸福感を伴う、不思議な重さだった。

「……悪くはないけれど」

 今度は聞かれていたら少々不都合のある独り言をぽつりこぼした後、何も身につけていないままだった身体に軽くブランケットを羽織り、彼を起こさないよう音を抑えながらベッドを離れる。

 そうしてダイニングのほうへ向かった私は、いつもどおり、眠気覚ましの紅茶でも淹れようと準備を始めたのだが。

 ……そういえば、結局一度も使ってないままだったわね。はたと思い出した私は、ポットやカップに向けていた視線をすぐ隣のコーヒーメーカーへと移す。

 それはつい先日に『今後のことを考えると、あったほうが彼は喜ぶかもしれない』という押し付けがましい建前や、『私にだって紅茶よりもコーヒーが飲みたい気分の時があるかもしれない』という取って付けたような動機をもとに、独断かつ内緒で買っておいたものだ。

 しかし、式だなんだとバタバタしていたせいで、一度の使用機会すらもないまま棚の中で放置していたのが現状である。

 忙しい中わざわざ言うほどのことでもなかったから、遅くなってしまったけれど……。

 などと胸中で言い訳がましく述べながら。ところどころ小さな傷がついていたりするティーセットの横に、ほとんど新品で汚れもないコーヒーメーカーを静かに置いた。

 そうして、後は湯が沸くのを待つだけとなった頃、背後からごそごそと物音が届く。

「ん……っ、くあぁ……」

 やや遅れて、いつも以上に心底気だるそうな欠伸。どうやら彼も目が覚めたらしい。

 その声に釣られ、私が振り返ると。

「………………いや、ちょっと、なんて格好してんのお前。目のやり場に困るんだけど」

「あら、心外ね。私を目のやり場に困るような格好にしたのはあなたなのに」

「にしても、もう少しなんとかなったろ……裸同然じゃねぇか……」

 開口一番、野暮な指摘をしてきたかと思うと、そのまま視線を閉ざすように手で覆い隠しつつ重々しいため息を吐く彼。

「……いまさらじゃない」

 とは言ったものの。こうもあからさまに意識されると、せっかく割り切って吹っ切った羞恥心が再燃し、なんだか私まで恥ずかしくなってきてしまう。まぁ、裸体を晒し合う以上のことを昨夜したのだから、結局は自身の言葉どおりなことに変わりはないのだが。

 恥ずかしさと気まずさが同居する、いたたまれない空気が二人の間を支配していく中。

「あー……その、なんだ。……平気か」

 やがてぼそりと飛んできたのは、蚊の鳴くような声での、そんな問いかけ。『何が』を口にしたがらない、彼らしい、不器用な気遣い。

 ただ、温かくも無骨で粗雑な言葉と、直視を憚って未だ右往左往している視線とが、なんだか酷く間抜けで。けれど、そのちぐはぐさが、私にとってはなんだか可愛らしく思えて、なんともいじらしく感じて。

 だから、少しばかり、意地悪をしたくなる。

「……主語がないせいでいまいち伝わってこない言い方ね。人との会話が苦手なのは前々から知っていたけれど」

「人の真意を汲み取った上でわざと嫌味ったらしく茶化すんじゃねぇよ……」

 そういうところは相変わらずな……と言い捨てて頭を掻く彼に、私は。

「あら、かつての私に『人がそう簡単に変わってたまるか』と誇らしげに言っていたのは、一体どこの誰だったかしら。確か……は、はち……おかしいわね。名前が思い出せないわ」

「……んな昔のこといちいち覚えてなくていいから。あと流れついでに人の存在感のなさ揶揄すんのやめろ」

「それも、いまさらじゃない」

 だから私も、あなたのそういうところだって大概よ……と相変わらずの顔を向けたまま。

「それで、あなたが心配していることだけれど……別に大丈夫よ。耐えられない痛みというほどではないわ」

「ならいい……いや、よくはねぇけど。まぁ、あれだ、とりあえず安心したわ」

 ぎくしゃくしながらも結んだ言葉と共に、彼の表情から暗い色がふっと消えた。……あれだけ痛がる姿を晒してしまったとはいえ、そこまでの心配をかけてしまっていたなんて。

 だから、なんとなく。本当になんとなく……では、あったけれど。

「……え、いや、なに、なんなの。ていうか無言やめて、怖いから……」

 余計な音を全て止め、再び彼の近くへ戻った私は、言葉以外の手段でも伝えるように。

 そっと、彼を抱きしめる。

「……おい」

「……何?」

「心の準備が必要なのは男だって同じなんだぞ……」

「こういう不意打ち、あなただって何度もしてきたじゃない」

「……いや、そんな格好でこんなことされたから焦ってんだよ」

「それだっていまさらでしょう。……あと、格好についてはもう言わなくてよろしい」

 本当にこの男は……。せっかく人が……。

 などと些細で粗末な不満も私は覚えつつ。

 この腕と胸に抱く確かな『実感』が、彼との距離をほんの少しだけ、ぎゅっと縮めさせる。

「……ねぇ」

「今度はなんだよ……」

「幸せって、こういうことを言うのかしらね」

「……だから急に直球放ってくんのやめろ。心臓止まりそうになるつってんだろ」

「……あら?」

「……んだよ」

「ずいぶんとわかりやすい照れ隠しね」

「なんでそうなる……」

「じゃあ、この手は何?」

「……知らん。気づいたらそこに手があっただけだ」

「そんな誤魔化し方、今時子供でもしないと思うわ」

「ほっとけ……」

 

 ………………。

 

 …………。

 

「……なぁ、いつまでそうしてんの」

「あら、不満?」

「そういうんじゃなくてだな……さすがに何か飲ませてくれ」

「……はぁ」

「んだよそのえらく残念なものを見るような目とため息……」

「今に始まった話ではないけれど、あなたはもう少し空気を読む努力をしなさい」

「それこそ、お前の言ういまさらだろうが」

「確かにそうね。空気を読むより壊すことのほうがあなたは得意だものね」

「甘えてきたと思ったら今度はディスるとかなんなのお前。ターン制なの?」

「でも事実でしょう?」

「……否定はしない」

「なら、覚えておきなさい。こういう時は黙って空気を読むものよ」

「お前がそう言うなら、まぁ、比較的前向きな方向で改善できるよう努力しとくわ」

「今後も一向に改善が見られなさそうな返事ね……」

 

 ………………。

 

 …………。

 

「……あれ、コーヒーメーカーなんてあったっけか」

「買ったのよ、ついこの間」

「なんでまた……」

「……少し思うことがあって、ね。あなたがいらないと言うなら処分するけれど」

「ん……まぁ、いんじゃねぇの。別にあって困るようなもんでもないし」

「そう。ならよかった」

「じゃ、とりあえず物は試しっつーことで……最初は頼む」

「……了解。お湯、沸かし直すわ」

 

   ◇   ◇   ◇

 

 そんなこんなを経た後に、お互い少し身なりを整えたところで、ようやく慣れ親しんだ朝の風景へ。

 ただ、全てが全て、まったくいつもどおりというわけではなくて。

 二人で過ごすには狭いワンルームの中央、小さなテーブルの上。そこにある二つのカップからは、いつもと違う香りが一つ。

「……違和感すげぇ」

 ほろ苦くも甘い香りが立つ手元のカップを一度傾けると、彼は短くそう呟いた。

「……口に合わなかった?」

「いや、味の話じゃなくてだな……味はまぁこれコーヒーだなって感じだけども……」

「何を当たり前のことを言っているの……」

「なんでんなこと言ったのか俺にもわからん……」

 支離滅裂な発言を誤魔化すように咳払いすると、彼はそのまま二の句を継ぐ。

「……まぁ、そのうち慣れると思うわ」

「慣れる……あぁ、そういうこと……」

 彼の言わんとしていることを理解した私は、微笑みながら目を閉じる。

 眠気覚ましに紅茶やコーヒーを。それ自体はどこにでもありふれていて、どこででも見られる光景の一つではあるものの。

「言われてみれば、違和感を覚えても仕方がない光景かもしれないわね。あの場所で私たちとそれなりに時間を共有した人なら、という前提はつくけれど」

「そりゃお前、俺の中じゃ完全に紅茶の人だもん。あいつらだってたぶん同じだと思うぞ」

「変な愛称をつけないでちょうだい。私はただ紅茶が好きなだけであって、別に紅茶しか飲まないというわけでは……」

「あくまでイメージの話な、イメージ」

「たとえイメージの話だとしても、妙なイメージを刷り込んでしまったものね……」

「人が人に抱くイメージなんざそんなもんだろ」

「それはそうだけれど……」

 イメージを抱くにしても他にもっと……と思わず言及したくなったが、藪蛇にしかならなそうだったので、大人しくため息をつくだけに留めておいた。……大火傷もしそうなことだし。

 などと胸中で独りごちていたら。

「……そういや昔、先生とも似たような話、したな」

 コーヒーから立ち上る湯気を見つめながら、彼がそんな呟きを落とした。

 今となってはもう遠い当時を思い返しているのだろう。彼の口元がふっと楽しげに動く。

「……そうだったの」

「つっても、当時は話を中途半端にしか理解してなかったが」

「当時は……ね」

「おう」

 それだけを返すと、彼はどこか満足そうな顔で、再びカップを傾けた。まるで、今、何かを嚥下できたように。今になってようやく、何かが納得できたように。

 少なくとも、私には、そう見えたから。

「なら、あなたがようやく理解したこと、伝えてあげたら?」

「そうしたいのは山々なんだが、なかなか機会がなくてだな……」

「連絡先を知っているのだから、機会なんていくらでも作れるじゃない」

「いや、そういうんじゃなくて……なんつーか、自己満足のためだけに先生を付き合わせるのはさすがに気が引けるんだよ。しかもいまさらな内容だし……」

「……まったく」

 いまさら変な遠慮をしている彼に、馬鹿ね、と呆れ寄りの笑いを一つ。

 どんな内容であれ、昔話がしたいとでも伝えれば、あの人があなたのための時間を作らないわけがないでしょうに……。

 微笑ましさを感じていると、私の視線がどうにもむず痒いのか、彼は小さく唸りながら口にコーヒーを流し込んだ。

 そんな彼の様子にもう一つ、先程と似た種類の笑いを残して、私もカップを唇に運ぶ。

「……いずれにしても、感謝はしないといけないわね。私たち、周りに恵まれすぎたもの」

「だな……まぁ、ちょっと恵まれすぎな気もするが」

 大多数の与り知らないところで、彼の背中を押してきたであろう、彼の恩師や義妹。

 本当は嫌で嫌で仕方がないはずなのに、最後のひと押しをしてくれた、私の友達。

 時には叱咤激励を飛ばしつつ、最後まで見守ってくれていた、私たち二人の後輩。

 世間一般においての『関わりの深さ』がどの程度になるのかはわからない。けれど、私たちにとっては、充分に深く濃く関わったといえる彼女たち。

 そんな彼女たちがいたからこそ、私たちは『今』へ繋げることができている。彼女たちは心から『今』へ送り出してくれた。胸の中に未だしこりや傷が残っているはずなのに、心からの笑顔を浮かべて。

 彼女たちがいなければ、私も彼も、すれ違いと掛け違いをいくつも重ねた先の、温かさ満ち溢れる『今』を迎えることはできなかった。彼女たちとぶつかり合った時間がなければ、私も彼も、道を踏み違え選択を間違え後悔ばかりを重ねた果ての、一人涙ながらに願う『今』でしかなかったはずで。

 

 けれど――。

 私とあなたじゃ……きっと、誰もが願う幸せを、手にすることはできないと思うから。

 

 かつて、あなたに想いを告げられた時のこと。

 一字一句違わない。当時の私は、曖昧にそう拒んだ。そう拒んで――逃げ出した。

 由比ヶ浜さんとのこと。姉さんや母さんとのこと。不確定で、不安定な未来のこと。全部を理由にした。全て余すことなく言い訳に使った。一歩を踏み出す勇気がなかった。返事を濁して自己保身に走った。

 彼女を傷つけたくないと言いながら、その実、自分が傷つきたくないだけだった。道の途中で私だけが挫折して、私だけが置いていかれそうで、何もかも失ってしまいそうで、それが怖くて仕方がなかった。だから、自分の気持ちに嘘をついて、嘘偽りない本当の感情を心の奥底に必死で閉じ込めて、本気の二人に背を向け目を逸らそうとした。

 

 けれど――そんなこと、もう二度と言わない。言えるはずがない。理由にしたくない。言い訳にしたくない。

 だって、私が一度は手放そうとした『今』は、確かにここにあるのだから。

 そして、何より――私は、もう、知ってしまったのだから。

 

『返事できなかったって……なんで……?』

『……なにそれ』

『なんなのそれ……』

『……ねぇゆきのん、ほんとのこと言って』

『なんとなくだけどわかるよ、あたし。ゆきのんが何か誤魔化してるって』

『もう一回聞くね。……なんでヒッキーに返事できなかったの?』

『……っ』

『なんで……そんな理由なの……』

『いまさらじゃん……』

『じゃあ、……っ、じゃあさ……』

『なんであの時、言ってくれなかったの……?』

『私もずっとこのままがいいって……なんで、っ……言ってくれなかったの……っ?』

『……、っ、そしたら誰も傷つかなかったじゃん! なんでいまさらあたしを傷つけたくないとか言うの?!」

『やめてよ……そうやってあたしを言い訳にしないでよ……』

『そうやってあたしを言い訳にするならさ……』

『……全部、意味ないじゃん』

『あたしが……諦めるしかなかった、ことも……』

『なんとかするって……ヒッキーが言ったことも……』

『全部……意味、なくなっちゃうじゃん……』

 

 自身の願いを押し殺してまで、たくさんの涙を流してまで。

 私たち二人の『今』を願ってくれた、唯一無二の友達を。

 

『雪乃先輩、失礼を承知で言います。……何やってるんですか馬鹿なんですか』

『ていうかそれマジで先輩と結衣先輩に言っちゃったんですか?』

『はー……。もうこの人たちはいつもいつも……』

『……あぁ、それはいまさらなんで別にいいです』

『で、一応聞いておきますけど……先輩のこと好きなんですよね、雪乃先輩も』

『で、結衣先輩の気持ちも知っていた上でそれ言っちゃったわけですよね』

『……あのですね、恋愛においてそういう遠慮は不必要といいますか。そういうの相手に失礼じゃありません?』

『だって、アタックする側ってそうなることも覚悟の上ですから』

『なのに雪乃先輩がそんな感じなんじゃ、結衣先輩、あまりにも報われなさすぎですよ』

『あなたのためを思って……とかドラマなんかでもよく聞きますけど』

『……ほんと何様ですか?』

『幸せの形なんて人それぞれじゃないですか。そうしてくれと本人が頼んだわけでもないのに何で勝手に決めつけてるんですか』

『恋愛とか結婚とかで一番ダメなの、そういう一方通行です』

『雪乃先輩、ちゃんと話して決めてないですよね? 一方的に言うだけ言って先輩の話は聞こうとしなかった感じですよね?』

『……じゃあ、今すぐ行かなきゃいけないところできましたよね? はい、回れ右!』

 

 損な役回りだとわかっていながら、みんなが願う『今』のために。

 自らそのポジションを選んでくれた、唯一無二の後輩を。

 

 だからこそ――あの時は背を向け目を逸らそうとした『今』がある。確かに、ここにある。

 だからこそ――自然とこぼれる微笑は隠すことなく、ただ、彼の顔を見つめながら。

 

「……言いたくなったから、また言うわ」

「ん?」

 私は、もう一度、呟く。今一度、言葉にする。

 彼女たちのおかげで見失わずに済んだ、かけがえのない『あなた』との『今』を噛みしめるために。

 

 幸せって、こういうことを言うのかしらね――と。

 

 

 

 

 




それでは、ここまでお読みくださりありがとうございました!

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