ホテルの大宴会場であるそこは、現在大勢の記者によって埋め尽くされていた。皆がカメラを構えメモを持ち、本日の主役である1人の少女の登場を今か今かと待ち構えていた。
そんな彼らから見えない所、厚手のカーテンに仕切られた即席の舞台袖であるそこで、本日の主役であるその少女はその光景をこっそりと眺め、駆けつけた記者の数に大きな溜息を吐いた。
「みんな暇なの……? たかだか1人のアイドルが引退するってだけなのに、まるで国を挙げての大騒ぎみたいに集まっちゃって……」
「“みたい”ではなく、実際に大騒ぎしているかもしれません。双葉さんが引退すると発表してからの間、あちこちでもの凄い反響がありましたから」
金色の長い髪を緩く2つに纏めた少女のぼやきに、本人は普通にしているのかもしれないが目つきが悪いせいで睨んでいるように見える男が答えた。片や彼女は140センチにも満たない小学生のような超小柄な体型、片や彼は2メートルの大台に届きそうなほどにがっしりとした体型と、普通に考えたらアンバランスこの上ない組み合わせに違いないはずなのだが、そうやって傍にいるのが当たり前であるかのように堂に入ったツーショットだった。
実際、今日までこの2人はずっとこうやって一緒に進んできた。最初は嫌で嫌で仕方がなかったこの仕事も、彼と一緒だったから今日までやって来られた部分も大きいだろう。もちろんそんなことは、本人には絶対に言ってやらないが。
「今ならまだ遅くありません。引退を取り消してみてはいかがでしょうか? 双葉さんのキャラクターならば、冗談で済ましても許されると思いますが」
「絶対に嫌! 杏の決意は固いのだ!」
しかし、それもこの辺りが我慢の限界だった。彼に対する恩義もあってここまで続けてきたが、これ以上は彼女のメンタルに多大なダメージを与える。もはや彼女には、今の仕事に対する未練は何1つ無かった。
いや、そもそも未練とかそういう以前に、彼女はこの仕事に対して何の愛着も無かった。
すべては今目の前にいるこの男――武内プロデューサーこそが諸悪の根源である。その少女――双葉杏は今までの恨みも込めてキッと彼を睨みつけたが、彼はその大きな手を首に当てて疑問の表情を浮かべるのみである。
結局最後まで彼にしてやられただけか、と杏が再び大きな溜息を吐いたそのとき、
『只今より、346プロダクション所属アイドル、双葉杏の緊急記者会見を行います』
マイクを通して会場中に女性の声が響き渡った。いつも緑色の事務服を着ているあの女性の声だ、と杏は思いながら舞台袖から姿を現した。途端に記者の持つカメラがかしゃかしゃと鳴り、彼女はフラッシュを浴びながら記者達の目の前に横一列に置かれた椅子の内、ど真ん中の一番目立つ場所にどっかりと腰を下ろした。その隣に、彼女に付き従うように歩いてきた武内が、その大柄な体で隣の杏を圧迫しないようにできるだけ体を縮こまらせて座った。
『それではまず、彼女の担当プロデューサーである武内より、本日のご挨拶を――』
「あー、ちひろさん。杏、こういうの面倒臭いからさ、さっさと終わらせちゃおうよ」
アナウンスの声を遮って、目の前のテーブルに置かれたマイクで気怠そうにそう言う杏に、記者のカメラが一斉にシャッターを切り始める。隣で武内が慌てるような表情を浮かべているが、杏はそれを無視して口を開いた。
「えー、どうも、双葉杏です。皆さんもう知ってると思いますが、杏はアイドルを引退することにしました」
「引退を決めた理由は何ですか!」
杏がルールを守らなかったからか、記者の方も質問の時間でないにも拘わらず質問を始めた。ちひろや他のスタッフが止めようとするが、訊かれた本人である杏が止まらない。
「あまりに忙しすぎて、我慢の限界だったからです」
「一部の報道では、同じ事務所のアイドルとの不仲が原因と言われてますが!」
「そんな噂、嘘っぱちだよ。みんなも知ってるでしょ? うちらの事務所の仲の良さ」
「普段から『一生暮らせるだけの貯金ができたら、すぐにでもアイドルを辞める』と明言していましたが、今回の引退はそれが理由でしょうか!」
「うん、それもあるね。つい最近預金通帳の残高を見て、これなら大丈夫って思ったよ」
「今回の引退に対して、同じ事務所のアイドルの皆さんはどのような反応をしたのでしょうか!」
「残念がってはいたけど、普段から『働きたくない』って言ってたからねぇ、予想の範囲内って感じだったよ。……1人、凄くうるさい奴がいたけど」
杏はそこまで喋ったところで、ちらりと会場の時計に目を遣った。ここに座ってから、まだ1分ほどしか経っていない。
「……もう充分でしょ。プロデューサー、帰るよ」
「双葉さん、しかし――」
「良いの良いの、“アイドル・双葉杏”の幕引きとしては、これで充分なんだよ」
杏はそう言うと椅子から立ち上がり、さっさと舞台袖へと引っ込もうとする。
これに気づいた記者は堪ったものではなかった。今回の会見のために何時間も待ったというのに、肝心の会見が1分で終わってしまっては割に合わなさすぎる。
「待ってください、双葉さん! 現在の仕事を辞めることの影響について、どのようにお考えでしょうか!」
「自分を応援してくれたファンの皆さんに対して、何かメッセージを!」
「まだ訊きたいことがいっぱいあるんです! あなたには説明責任があるんじゃないですか!」
次々と質問を口にしながら杏へと殺到していく記者の群れを、武内が持ち前の大きな体で食い止める。彼女はそれをちらりと見遣りながら舞台袖へ引っ込もうとして、ふいに立ち止まって振り返った。
「あー……、それじゃ最後にファンのみんなにメッセージを」
その瞬間、あれだけ騒いでいた記者が一斉に静かになり、カメラを向ける。
そんな静寂に包まれた会場で、杏はこう言った。
「結構楽しいアイドル生活だったけど、印税貯まったので引退します。それじゃ」
そして杏は再び前を向き、舞台袖へと引っ込んでいった。記者達が不満を爆発させるが、彼女が姿を現すことはもう無かった。
こうして、“奇跡の10人”の筆頭に数えられ日本中を席巻した超人気アイドル・双葉杏は、あまりにも呆気なく芸能界を引退した。
* * *
そんな引退会見から、5年ほどが経った。
「……んあ? ああ、寝落ちしてた……」
大きなソファーの上で気絶するように眠っていた杏は、目の前で軽快な音楽を鳴らしているゲーム機を見て自分の現状に気がついた。大きく背筋を伸ばすと、ぱきぱき、と小気味良い音が背中から聞こえてくる。
「ええと、どこまでやったっけ……? まぁ良いや……、セーブしてっと……」
杏はゲームの電源を切ると、未だに寝ぼけた表情で辺りを見渡した。
1人で住むには広すぎるリビングは、必要最低限の家具しか置かれていないだけに余計広く感じた。しかしテレビの周りだけは服やら飲み残しのペットボトルやらが散乱しており、すっかり春になったというのに未だにコタツがテレビの前に置かれている。ちなみにリビングの隣には立派なシステムキッチンが備えつけられているが、汚れ1つ無いほどに清潔だった。というより、使われた形跡が無かった。
自分の部屋を見渡している内に目が覚めてきたのか、徐々に杏の両目が大きく開かれていった。そして彼女は、壁に掛かっている時計へと視線を移す。短い針は“2”を通り過ぎている。
「……お昼どうしよ。今日は夜にみんなと食事だし……、今から食べたら絶対夜に食べられなくなるよな……」
杏はしばらくの間その場で動かずにぼぅっとしていたが、やがて充電が完了したように立ち上がると、鍵と財布と携帯電話だけを持って玄関へと歩いていく。
「……時間になるまで、どっかで暇でも潰すか」
杏は独り言を呟きながら、玄関のシューズロッカーの上に置かれた首から上だけのマネキンからサングラスを取り、靴底の厚さが10センチは軽く越えているようなブーツを履いた。デビューから2年で引退し、そこから5年経っているために24歳になった杏だが、その知名度は引退後も一向に収まる気配が無く、今でもこうして変装しなければ満足に街を歩くこともできない。
面倒臭い、と杏は溜息を吐きながらドアを開けた。
電気街でごちゃごちゃとした繁華街に建つその店は、周りの建物と比べても可愛らしい外見をしていた。他の店がいかにも暗そうな雰囲気の男性しか見受けられないのに対し、その店だけは中高生の少女も多く詰め掛け、そこだけ雰囲気が明るくなっているように感じる。
しかし杏は大通りに面した入口へと向かわず、建物の脇にある人1人通るのがやっとの細い路地へと入っていった。エアコンの排気ファンなどを通り抜け、明らかに従業員が出入りするのに使うであろう汚いドアを開けて中へと入る。
短い廊下を抜けた先にあったのは、若い女性がエプロンを身につけて料理を作っている厨房だった。その中にいる女性が杏の存在に気づくと、勝手に入ってきた彼女を注意するどころか笑顔で頭を下げ、その場を離れてホールへと姿を消した。
そしてすぐに、1人の女性、もとい“少女”がホールから顔を出した。
「杏ちゃん、ようこそ! ささ、こちらへどうぞ!」
「お邪魔するねー、菜々さん」
メイド服を身に纏ったその少女――安部菜々は、ニコニコと満面の笑みで杏に駆け寄ると、彼女を客席へと案内した。身長が150センチに満たない菜々だと、規格外に小柄な杏の隣に立ってもあまり違和感が無い。
しかし菜々が案内したのは他の客も大勢いるホールではなく、ホールへと繋がる入口の手前から横に伸びる廊下を通った先にひっそりと存在する部屋だった。個室ながらも通常のボックス席の3つ分はありそうなほどに広々としており、充分に明るいためにまったく閉塞感の無いその部屋は、杏のように普通の客と一緒にすると混乱を招きかねない客を案内するための、いわば“VIPルーム”だった。
慣れた様子で菜々に案内された杏は、部屋にやって来た別の店員に「いつものお願いね」と声を掛けて腰を下ろした。
「何だか久し振りな気がしますね! 最後に杏ちゃんが来たのっていつでしたっけ?」
「そんなに前じゃないよ。2週間くらいじゃない?」
「あれ? そんな最近でしたっけ?」
「……菜々さん、とうとう更年期障害が――」
「ちょっと! “とうとう”ってどういう意味ですか! ナナはまだ17歳ですよ!」
「……お、おう」
「だーかーらー! その反応は止めてくださいってば!」
そして杏を案内した菜々も、まるで彼女の連れであるかのような自然な動作で彼女の正面に座った。仕事をさぼって良いのかと思うかもしれないが、杏が来たときには菜々が話し相手になることとなっており、店長も了承済みのことである。なので先程の会話も、杏がこの店に訪れる度に繰り広げられている“恒例”であり、必死に叫ぶ菜々の姿に杏は心の底からの笑顔を浮かべていた。
菜々がふて腐れていると、先程の店員が料理を持って部屋を訪ねてきた。料理といっても本格的な食事ではなく、クリームやらアイスやらがたっぷり使われたパフェと、籠一杯にぎっしりと詰め込まれた小さな飴である。ちなみにこの飴はメニューとして出しているものではない、杏専用のサービスだ。
店員が部屋を後にし、杏がさっそくパフェを一口食べた。途端に満足そうに顔を綻ばせる杏に、それを正面から眺める菜々も自然と笑顔になった。
「あ、そういえば、確かこの前の日曜日がオーディションだったよね? どうだった?」
しかし杏からこの質問をされた瞬間、菜々の笑顔がフッと消えた。
「……その反応からして、また駄目だったんだね」
「はい、“また”ですよ……。はぁ……、ナナ、アイドルに向いてないのかなぁ……?」
菜々はそう言ってテーブルに顎を乗せると、そのまま大きな溜息を吐いて突っ伏してしまった。
先程の会話からも分かる通り、彼女の夢は“アイドルになること”だった。今はこうしてアルバイトをする日々だが、いつかはアイドルとなって大勢の人の前で歌ったり踊ったりして皆を笑顔にすることを夢見ている。
しかし、現実は非情だった。今まで数多くのアイドル事務所にオーディションに出向くも、そのすべてで落選、夢を叶えるどころかそのスタートラインにすら立てないという有様である。
だが杏は、彼女がアイドルになれない明確な理由を知っている。
「ところで菜々さん、オーディションのときにはどんなキャラで行ったの?」
「キャラって何ですか! ナナはいつでも“自然体”ですよ!」
「……ってことは、また“ウサミン星人”?」
「もちろん!」
「……はぁ」
自信満々に胸を反らして断言する菜々に、杏は思わず頭を抱えて溜息を吐いた。
「そりゃ落ちるに決まってるでしょ……。その痛いキャラを辞めたら、今すぐにでもアイドルになれるって」
「何を言ってるんですか! 自分に嘘はつけません!」
「いや、そのキャラがすでに嘘でしょ?」
「嘘じゃありません! ナナはウサミン星人で、“永遠の17歳”なんですから!」
「菜々さん、この前の選挙はどこの党に投票した?」
「ナナは○○党に入れましたよ。やっぱり国の将来を考えると――」
「おい、17歳」
「――はっ! いやいやいや、というのは冗談でー! ナナはウサミン党に入れましたよ! ウサミン党はウサミン星での第1党なんですよ!」
「ウサミン星って、政党とかあるんだ……。あれ? でもこの前、『ウサミン星の王様が~』とか言ってなかったっけ?」
「……そ、それは! ほら! 王様は国の象徴であって、けっして政治には口を出さないと言いますか……!」
慌てふためきながら必死に言い訳を考える菜々の姿に、杏はとうとう堪えきれずにプッと吹き出してしまった。菜々はそれを見て不機嫌そうに頬を膨らませていたが、杏が楽しそうにしているので怒るに怒れなかった。
そんなこんなで、楽しい時間はあっという間に過ぎていった。部屋の時計を見ると、短い針はとっくに“5”を過ぎており、そろそろ“6”に届きそうな時間である。
「ありゃ、もうこんな時間か。そろそろ行くね」
「あれ? もしかして、何か用事ですか?」
「うん。この後、昔の同期と久し振りに夕飯を食べる約束してて――」
「昔の同期ってことは、もしかして“奇跡の10人”とですか!」
その瞬間、菜々が興奮したように顔を杏へと寄せてきた。下手すると唇がくっつきそうなほどに顔を近づける彼女に、杏は少々引き気味に「全員じゃないけどね……」と呟くように答えた。
「良かったら、サイン貰ってきてあげようか?」
「本当ですか! それじゃ――い、いえ! そんなこと、杏ちゃんには頼めません! 杏ちゃんとの友情を、そんなことに使うなんてできません!」
「律儀だなぁ……、別にそんなの気にしないのに」
「いいえ! これはナナなりのけじめですので!」
「ははは。まぁ、菜々さんがそう言うなら。――じゃ、また来るね」
「はい! いってらっしゃい!」
菜々は別れの言葉ではなく、あえてこの言葉で杏を見送った。
* * *
その繁華街から電車で2駅ほど行った所に、待ち合わせのレストランはあった。もちろん普通の人が行くようなファミレスなどではなく、普通の人なら入ることすら躊躇ってしまうような、最低でも1人1万以上の出費は覚悟しなければいけないような豪華な佇まいをした店だった。
「ようこそお越しくださいました、双葉杏様。お連れの方々は、すでに中でお待ちでございます」
丁寧な挨拶で出迎えたウエイターに案内されて、杏はその店の奥へと入っていった。第一印象に劣らず中も豪華な造りをしており、しかし嫌みったらしいケバケバしさを感じさせない上品なデザインとなっている。
案内されたのは、店の一番奥にある、意識的に他のテーブルからは離れて造られた個室だった。ウエイターがドアを横にスライドさせて、杏が中へと入っていく。
「やっほー、みんな――」
「杏ちゃ―――――ん! 会いたかったにぃ!」
その瞬間、杏の体が巨大な生物に呑み込まれた。体中を締め付ける圧迫感に彼女の呼吸が阻害され、二重の苦しみで彼女の意識がみるみる遠くなっていく。
「って、ちょっときらりん! 杏ちゃんが死んじゃうから!」
「むえ? ――あれ、杏ちゃん? 大丈夫かにぃ?」
「……大丈夫じゃないよ、良いから早く降ろして……」
酸素を求めて深呼吸をしながら、杏はその巨大な生物――諸星きらりによって優しく床に下ろされた。ゆるふわにウェーブの掛かった茶色い髪に、ふりふりの可愛らしい服に身を包むその女性は、服にも負けないくらいに可愛らしい女性だった。たとえこの前の定期検診で身長がとうとう大台の190になったことを差し引いても、いや、その大柄な体だからこその可愛らしさというものを、きらりという女性は完全に物にしていた。
「いやー、焦ったよ。せっかく杏ちゃんと再会したと思ったのに、その瞬間にお別れするところだったよ」
そして先程慌てた様子できらりを止めたのが、毛先が外側に跳ねたショートカットが活発な印象を与える女性――本田未央だった。杏の呼吸が落ち着いてきたのを見計らって、「それじゃ杏ちゃんはそっちの席ね!」と空いている席を指差してそう言った。
その席の近くには、2人の女性がすでに座っていた。
「久し振り、杏ちゃん」
「元気そうだね、杏」
「やっほー、かな子、凛」
ほんわかするような優しい雰囲気を漂わせる少しぽっちゃりした女性――三村かな子と、それとは対照的に少し近寄りがたい雰囲気を漂わせる黒髪ロングの女性――渋谷凛は、杏の挨拶に笑顔を浮かべて応えた。かな子は見る者を安心させるような優しい笑み、凛が口角をほんの少しだけ上げる不器用な笑みと、たったそれだけのことでこの2人の違いがよく分かる。
「他のみんなは?」
「残念だけど、今日はこのメンバーだけだよ」
「他のみんなは、どうしても外せない仕事があるみたい」
「まぁまぁ! ちょっと人数は少ないけど、久し振りの“同期会”なんだから楽しもうよ!」
「そーそー! せっかく杏ちゃんも来てくれたんだから、みんなでハピハピしようにぃ!」
突然後ろから凛に飛びついた未央と、突然後ろから杏に飛びついたきらりが3人の輪の中に入ってきた。凛と杏は驚いたような、そして迷惑そうな表情を浮かべたが、積極的に彼女達を引き離そうとはしなかった。
そのとき、ウエイターが5人分のワインを持ってきた。もちろんそれらも普通の人なら驚いて目を丸くするほどの値段なのだが、5人はそんなことをまったく気にせずにグラスを持つ。
「それじゃ、皆さん今日はお仕事お疲れ様……って、杏ちゃんは働いてなかったね!」
「失礼な! ここに来るまでに、いったいどれだけの労力を使ったか!」
「はいはい! とにかくまぁ、かんぱーい!」
未央の挨拶によって、少々人数の少ない同期会は幕を開けた。
「あ、そうだ。未央、この間から始まった新番組観たよ。なかなか面白そうじゃん」
「お、観てくれた? ありがとねー!」
「それにしても、未央ちゃんも凄いよね。帯番組の司会なんて」
「というか、帯番組のレギュラー、もうすでに持ってたよね?」
「うん! 朝の帯番組のレギュラーも続いてるよ!」
「未央ちゃんはぁ、いーっぱいレギュラーを持ってるから凄いにぃ!」
「未央って、今レギュラーどれくらい持ってたっけ?」
「ええと……、ひぃ、ふぅ、みぃ……。12本だよ!」
「うへぇ……。しかもその内2つは帯番組でしょ? 杏だったら拷問レベルだよ……」
「でも1本1本内容も役割も違うし、私はいつも楽しくやらせてもらってるよ!」
「良いなぁ……、私ももっといっぱいレギュラーが欲しいなぁ……」
「いや、かな子だって充分レギュラーあるでしょ。例えばグルメリポートとか、グルメリポートとか、グルメリポートとか――」
「そ、そんないつも食べてるわけじゃないよ! ちゃんと歌のお仕事もあるよ!」
「大丈夫だよ、かな子。杏もちゃんと分かってるって。それにグルメリポートだって立派なお仕事だし、かな子の場合はそれが高じてレストランの経営業に繋がってるわけだから、本当に凄いと思ってるよ」
「そ、そんなことないよ! 私はただ、こういうお店があったら良いな、って思ったことを口に出してるだけで――」
「でもでも、そのお店でみーんなハピハピしてるよぉ? 杏ちゃんも、かな子ちゃんのお店の常連さんなんだよねぇ!」
「まぁデザートが美味しいし、仲の良い店員さんもできたからね」
「同じ“お店を経営している”って言うなら、きらりちゃんのファッションブランドも凄く評判が良いんでしょ?」
「うん! 今度、新しくお店をオープンすることにしたんだよぉ!」
「また? これで何店舗目だっけ……?」
「20店舗くらいだっけ。全国のあちこちでライブをしてると、時々見掛けるよ。いつも女の子がいっぱい入ってる」
「それに、事務所のアイドルのライブ衣装も、よくきらりちゃんが作ってるんだよね」
「みーんながきゃわいいお洋服を着てぇ、みーんながハピハピになればぁ、すっごく幸せなんだにぃ!」
「ふーん……、杏はあんまり服とか興味無いからなぁ……」
「それじゃぁ、杏ちゃんに興味を持ってもらえるように、また新しいお洋服を贈ってあげるね!」
「いや、もう止めてよ……。そろそろきらりの洋服だけで衣装部屋が溢れそうなんだよ……。――そういえば凛、さっき何気なく『全国でライブを~』って言ってたけど、相変わらず絶好調みたいだね」
「絶好調ってことはないよ。ただ自分なりにがむしゃらに頑張ってるだけ」
「いやいや、最近のしぶりんは前にも増して“破竹の勢い”ってやつだよ! ソロ歌手としてヒットを飛ばしてるだけじゃなくて、今度新しくユニットをセルフプロデュースするんだからさ!」
「えっ! 凛ちゃん、そうなの? おめでとう!」
「へぇ……。何て名前?」
「“トライアドプリムス”っていうの。入ってくれた2人の新人が逸材でね、多分凄いものになると思う」
「おぉ! これは期待が高まりますなぁ! じゃあ、その勢いのまま“New Generations”の再結成も行っとく?」
「……ごめん。未央や卯月と活動するのが嫌ってことじゃないんだけど、今は自分の力がどこまで通用するのか試したいんだ」
「うえぇん! かな子ちーん、しぶりんに振られたよー!」
「え、ええと……、よしよし……?」
次から次へと仕事の話がポンポン出てくる彼女達に、杏は素直に感心していた。
「それにしても、みーんな凄いよねぇ……。今やいろーんなお仕事で大活躍だもん」
「そんなこと言っても、杏だって昔からの夢を叶えたようなものでしょ? 現役の頃からずっと『印税生活をしたい』って、杏はずっと言ってたもんね」
凛のその言葉に、ほんの少しだけ杏の体がぴくりと震えた。しかしそれに気がついたのは、隣にいたきらりだけである。
「ふっふっふー、“働かない”って最高だよー? 時間に縛られないでずーっと寝ていられるし、ゲームとかアニメとか、自分の好きなことにいくらでも時間を使えるし、もう不労所得様々だよ!」
「そういえばさ! この間どっかの雑誌で見たんだけど、杏ちゃんが“不動産王”になったって噂は本当なの?」
「不動産王って言い方はおおげさだけど、幾つか物件は持ってるよ。家賃収入が結構入ってくるから、それだけでも生活できる感じかな?」
「へぇ……、凄いんですねぇ……」
「でもそういう物件の管理って、結構大変なんじゃないの?」
「杏の場合は、他の人に管理を任せてるからねぇ。自分は何もしなくても、自動的に収入が入ってくるのさー」
「おぉっ! 何とも羨ましい!」
「でもなんでまた、不動産に?」
「念願の不労生活だけど、結局のところ収入が激減するわけだからねぇ。そりゃ普通に暮らしていても充分やっていけるだけのお金は貯めたけど、いつ何があるか分からないじゃない? だから安定した収入ってのが欲しかったんだよ。ちょうど実家が土地を持っててね、それを少し分けてもらって試しに始めてみたら結構当たっちゃってさ」
「……やっぱり杏ちゃんは凄いなぁ。ちゃんと将来のこととかしっかり考えられるんだから。私なんて、今の仕事がどうなるかを考えるだけで精一杯なのに」
「杏ちゃんはぁ、アイドルの頃からいーっぱい考えてたにぃ! よくPちゃんと一緒に話し合って、自分でお仕事も決めてたもんねぇ!」
「確かに、杏はデビューしたての頃からセルフプロデュースみたいなことをやってたよね。私が今のことで精一杯だったときにそれができたんだから、そのときは素直に凄いって思ってたんだよ」
「……ちょ、ちょっと止めてよう、何さこの雰囲気……」
「あぁ! 杏ちゃん、顔が紅くなってるにぃ!」
顔を隠して蹲っていく杏に、他の4人は暖かい笑顔を浮かべていた。
こうして久し振りの同期会は、最後まで盛り上がったまま幕を閉じた。
* * *
ほんの少しだが酒が入っているために、杏の頬は微かに紅くなっていた。未央達と別れた杏は上機嫌に現役時代の持ち歌を口ずさみながら、自分の住むマンションへと足を進めていく。
彼女の住むマンションは都心から少し離れた所にある、“高層マンション”と言うには少し高さの足りない、物理的な意味でも家賃的な意味でも“中堅どころ”という評価がぴったりな場所だった。すでにアイドルを辞めているという収入的な理由もあるが、都心に住むと周りの反応がうるさいし、何より高い場所を行ったり来たりするのが面倒臭い。さらに言うと、セキュリティーシステムに加えて人間の警備員が常駐しているというのも、杏としてはポイントが高かった。
警備員の男性に挨拶をしながら、杏は共有玄関を潜っていった。エレベーターで真ん中辺りの階まで上がり、すでに人の気配の無い廊下を歩いて行く。そして自分の部屋の前で立ち止まると、ポケットから鍵を取り出して鍵穴に差し込み、ドアを開ける。
「ただいまー」
鍵を閉めて電気を点けながら、杏は部屋に呼び掛けた。
当然、返事は無かった。
テレビの前以外にはほとんど何も無く、無駄に広いリビングはがらんどうな印象を受ける。ちょっと物音を立てるだけで部屋全体に響きそうなほどに静かなここは、つい先程まで未央達と大騒ぎしていたあの店とは雲泥の差である。
「…………」
杏はよそ行きの服をそこら辺に脱ぎ捨てると、テレビの前のソファーに脱ぎ捨ててあった部屋着へと着替えた。『働いたら負け』と書かれたその白いTシャツは、杏がアイドルデビューした頃からずっと所有しているものである。
杏はしばらくの間ソファーに座ってぼぅっとしていたが、テーブルの上に無造作に置かれていたゲーム機を見遣ると、ゆっくりとした動きでそれを手に取った。スイッチを入れると、軽快な音楽と共にカラフルな映像が流れる。
「…………」
しかし杏はそれを放り投げるようにテーブルに置くと、今度はリモコンを取ってテレビの電源を点けた。音楽番組が映し出され、カラフルな照明に照らされた島村卯月がアイドルに相応しい素晴らしい笑顔で新曲を歌い上げていた。共演者も笑顔でそれを観ており、まさに幸せな空間がその映像の中には広がっている。
しばらく何の感情も無い目でそれを眺めていた杏だったが、ふいに顔をしかめると、リモコンでテレビの電源を切ってそれをソファーに放り投げた。
ぼふんっ、と勢いをつけてソファーへと寝転ぶ。柔らかい生地が彼女の体を優しく包み込み、どこまでも沈んでいきそうな気分になる。
「…………」
こんなはずじゃなかった、と杏は思った。
杏は元々、面倒臭がりなところがあった。どうやって楽をするかばかり考え、面倒臭いことには極力目を瞑る生活を送っていた。そしていつの頃からか、学校にすらあまり行かない日々が続いていた。両親も彼女が自立することは半ば諦め、腫れ物に触れるような扱いをしていた気がする。
しかしそんなある日、単なる気紛れでたまたまコンビニに買い物に出掛けたその日、武内と名乗る男と出会った。
これが、すべての始まりだった。
アイドルなんて面倒極まりないものなんてなる気はさらさら無かったのだが、彼の長期間にわたる熱心なスカウトと、『印税で働かなくても生活できる』という誘い文句に乗っかってしまったために、杏は彼の所属する346プロでアイドルデビューすることとなった。
そこには彼女の他に9人のアイドルが在籍しており、杏はその中でも一番乗りで売れてしまった。みるみる仕事で忙しくなる日々だったが、将来の印税生活のためなら我慢もできた。いつしか自分も含めて彼女達は“奇跡の10人”などと呼ばれるまでにブレイクしていたが、杏にとってそんなことはどうでも良かった。
そして当初の目標通り、杏は充分すぎるほどの貯金と共にアイドルを引退した。これからはもう働かなくても良い、長年夢見ていた不労生活が待っている。
だが、念願の生活は杏が思っていたようなものではなかった。いや、好きなときに寝て好きなときに起きて好きなときに遊ぶという生活は、もちろん何の齟齬も無く叶っていた。
しかし杏はその生活を、楽しいと思えなくなってしまっていた。部屋の中でごろごろしていると、アイドルとして活動していた頃を思い出してしまい、今の生活と比較してしまうのである。そういえば、不動産に手を出し始めたきっかけも、そのような想いを断ち切るための現実逃避みたいなものだったと、今になって振り返るとそう思えてくる。
「…………」
杏はしばらくの間何も映っていないテレビの画面を眺めていたが、ふいに体を起こすといつの間にか床に落ちていた携帯電話を手に取ってどこかに掛け始めた。
数回のコールの後、相手が電話に出た。
『もしもし』
「もしもし、プロデューサー?」
電話の相手は、自分を芸能界に引き摺り込んだ張本人である、武内だった。
『お久し振りです。どうかなさいましたか?』
「何? 用事が無かったら電話しちゃいけないの?」
『いえ、けっしてそのようなことは――』
「冗談だよ、ごめんごめん。ちょっと久し振りに話したくなっちゃってさー」
『そうですか。――そういえば、今日は皆さんと一緒に食事会でしたね』
「そうそう。もー、プロデューサーったら、こういうときくらい全員をオフにしてくれても良いんじゃないの? ちょっと気が利いてないよ?」
『申し訳ございません。極力努力はしたのですが、やはり皆さん売れっ子ということもあり、あれが精一杯だったもので……。それに1人は現在海外に行っていますので、全員というのは残念ながら――』
「ねぇ、プロデューサー。そこって、もしかして事務所? もう、せっかく“チーフプロデューサー”って肩書きを貰ったんだから、仕事なんて部下に任せていれば良いのに」
『そういうわけにもいきません。他のプロデューサーを統括するという立場になった以上、受け持つアイドルの数はむしろ増えています。私自身が担当するアイドルもいます。――それに私自身、この仕事を楽しくやっているので』
「…………」
武内のその言葉に、杏はしばらく黙り込んだ。そんな彼女に対して、武内は特に口を挟むことなくただ次の言葉を待っている。
やがて、意を決したように杏が口を開いた。
「ねぇ、プロデューサー。アイドルのプロデュースって、そんなに楽しいの?」
『……プロデュースに限らず、仕事というものはそれぞれに役割があり、そしてやり甲斐があります。現在渋谷さん達もアイドル業以外に様々なことに挑戦していますが、皆がそれぞれに自分なりのやり甲斐を見つけて、自分なりの目標に向かって取り組んでいます』
「……プロデューサーの目標とかやり甲斐って、何?」
『自分の担当するアイドルの“夢”を、自分の力のすべてを捧げて応援すること。それが私のやり甲斐であり、目標でもあります』
「……そっか。立派だね」
『そしてその“夢”の中には、双葉さんのものも含まれています。双葉さんの夢に向かって、私は尽力してきました。しかしそれによって今の双葉さんが辛い想いをしているというのなら、私はそれを取り払うお手伝いをしたいと思っています』
「……それって、私が希望すれば、アイドルに戻してくれるってこと?」
『はい』
杏の問い掛けに、武内は間髪入れずに答えた。
そして彼の答えを聞いた杏は、フッと口元に笑みを漏らした。
「ありがと、プロデューサー。おかげで“決心”したよ」
『……それはつまり、アイドルに復帰するということですか?』
期待の色を隠し切れていない武内の声に、杏は思わず笑い声をあげる。
「悪いけど、アイドルに戻る気は無いよ。確かにアイドルをしていたときは楽しかったけど、あんな悪夢のような日々は二度とごめんだね」
『そうですか、それは残念です。――それでは、いったいどのような“決心”なのですか?』
「さぁね、それは今から考えるよ。時間はたっぷりあるからね」
『分かりました。もし私に手伝えることがあれば、遠慮無く仰ってください』
それから2人は二言三言会話を交わして、電話を切った。
先程とまったく同じ、がらんどうな部屋に静まり返った部屋。
しかし先程と反して、杏の表情は晴れやかだった。
* * *
それから数日後。
菜々が働いているその店に、杏の姿があった。いつものように店の裏口から入り、いつもの個室へと案内される。
そしていつものように、菜々が彼女の話し相手として個室へと入ってきた。
しかし個室に入ってきた彼女は、いつものような満面の笑みではなく、どことなくぎこちない笑みを浮かべていた。杏と話をしているときも、まるで思考が明後日の方へと向いているかのようにぼんやりとした表情を浮かべ、何度も杏の話を聞き漏らして聞き返すという行動を繰り返す。
そして杏はそれを見て「菜々さん、歳のせいか耳が遠くなったぁ?」といつものようにからかってみるのだが、普段なら間髪入れずに返ってくる否定の言葉も今日は何だか勢いが無い。
「どうしたの、菜々さん? 何だか様子が変だけど」
「……やっぱり、分かります? 実はちょっと悩んでいることがありまして」
そう言って、菜々は自分の悩みを切り出した。
「……実は、店長から『新しい店をオープンすることになったから、そこの店長をやってみないか』と言われまして……」
「……菜々さんって、アルバイトだったよね? 店長になるってことは――」
「はい。正社員になる、ということですね……」
普通の人間からしてみれば、これはまさしく“美味しい話”といえるだろう。自分の働きが認められ、責任のある立場を任される代わりにより高額な収入が見込めるようになる。
しかし、彼女の夢はあくまでも“アイドルになる”ことである。もちろん今の仕事も彼女は心の底から楽しんでいたのだが、所詮はアイドルになるまでの生活費稼ぎでしかなかった。
しかし現実的な生活面での問題が、菜々をアイドルへの憧れから目を覚まさせようとする。このままアイドルを夢見て低収入の仕事を続けていくのか、夢とは違うがやり甲斐も感じられてきた仕事を続けていくのか、菜々は今まさに人生の大きな決断を迫られているところだった。
「アイドルになるという夢は、ナナにとって小さい頃からの夢でした。普通の人なら成長するにつれて無くなっていくものなんでしょうが、ナナはむしろ大人になるにつれてどんどん強くなっていったんです。それでこうやって上京して、アルバイトをしながらアイドルを目指していたんですけど……。やっぱり、すべての人が杏ちゃんみたいに夢を叶えられるわけではないんですね……」
菜々はそう言って、寂しそうに笑った。杏はそれを眺めながら、別にアイドルは自分の夢ではないんだけどね、と秘かに思っていたのだが、さすがにそんなことを言える雰囲気じゃないので黙っていることにした。
そんなことよりも、杏は菜々に伝えたいことがあるのだから。
「……杏ちゃん、ナナ、どうすれば良いんですかね?」
「……それは菜々さんの人生だから、菜々さん自身が決めるべきだと思う」
「やっぱりそうですよね……。分かりました、これからじっくりと考えてみようと――」
「で、そんな菜々さんに、さらに迷わせるようなことを今から言おうと思うんだけど、良い?」
突然杏がそんな風に話を切り出してきたことで、菜々は明らかに警戒するような態度を取る。
「な、何ですか急に? 何を企んでいるんですか?」
「企むとは失礼な。でもまぁ、確かに企んでいるのは事実だけど……」
菜々の言葉に杏は口を尖らせて反論するが、すぐに真剣な表情になると菜々へと向き直った。
真面目な話だと悟った菜々は、同じように真剣な表情で彼女の顔をじっと見つめる。
そして、杏が口を開いた。
「菜々さんに、アイドルになってほしいんだ」
「――――へっ?」
杏の口から飛び出したその言葉を、菜々は最初信じることができなかった。
「ここ何日か考えただけだから、まだ全然形にはなっていないんだけど……。杏はアイドルのプロデューサーとして、新しくアイドル事務所を立ち上げるつもりなんだ。菜々さんにはそこに所属してもらって、杏のプロデュースでアイドルデビューしてほしいと思ってる」
「…………」
「まだ事務所の場所も決まってないし、菜々さん1人ってわけにはいかないからまずはスカウトから始めなきゃいけないし、まだまだいっぱい準備することはあるんだけど……。いずれは346プロみたいに人前で歌ったり踊ったり、CDとかも出せたら良いなって思ってる」
「…………」
「それに杏は怠け者だし、面倒なことは嫌いだし、アイドル以外にちゃんと仕事できるのかって不安もあるんだけど……、でも初めて自分から本気でやりたいって思えたことだから、絶対に成功させたいって思ってる」
「…………」
「多分飲食店の店長をやるよりも何倍も苦労を掛けることになると思うし、正直言って収入の方も約束できない。もしかしたら失敗するかもしれない。それでも、こんな頼りない杏じゃ不安だとは思うけど、それでも頼りにしてくれるんだったら、杏と一緒についてきて――って、菜々さん!」
スカウトの途中だったが、杏はその言葉を止めざるを得なかった。
菜々がその両目から、ぼろぼろと涙を零していたからである。杏が慌てて拭ってもそれが止む気配は無く、このままでは体中の水分が無くなってしまうのではないか、とまで思い始めてしまうほどだった。
しかしそれは、けっして悲しいから流している涙ではない。
「……杏ちゃん、本当にナナ、アイドルになれるんですか……?」
「もちろん! 杏が菜々さんを、立派なアイドルにしてみせるよ!」
「……ウサミン星からやって来た永遠の17歳なんて、凄く変な設定なんですよ……?」
「いや、今更“設定”なんて言い出さないでよ……。良いじゃない、ウサミン星人! 良いよ良いよ、そういう胸焼けするほど濃い個性、杏大好きだよ!」
声を詰まらせながら訪ねてくる菜々に、杏は笑顔で力強く答えた。
やがて菜々は袖でごしごしと涙を拭い、凛々しい表情を浮かべて杏へと向き直った。目が紅く腫れ上がり、涙でぐしょぐしょになったひどい顔をしているが、今の彼女は間違いなく今までで一番美しかった。
「良いじゃないですか、苦労も貧乏も! そんなもの、夢を叶えられる喜びに比べたら、屁の突っ張りにもなりませんよ!」
「いや菜々さん、“屁の突っ張り”って……」
「一緒に頑張りましょう、杏ちゃん! 目指せ、トップアイドル!」
杏の肩を抱いて高らかに拳を突き上げる菜々に、杏は苦笑を浮かべながら同じく拳を突き上げた。ここは店の個室なので今はせいぜい天井くらいしか見えないが、今の菜々には未だ見たことのない新しい世界が、そして今の杏にはかつて自分が上り詰めた魅惑の世界が、目の前に広がって見えていることだろう。
――まったく、二度と働くもんかって思って引退したはずなのになぁ……。
もし当時の自分が今の姿を見たら、彼女は大きな失望と共に「なぜそんな面倒臭いことにわざわざ首を突っ込むんだ」と馬鹿にされるに違いない。
でもまぁ、馬鹿にされるくらい大馬鹿になるもの、案外悪くないかもしれない。
杏はそんなことを思いながら、空気を読んで入口前で待っていた店員の持ってきたパフェに舌鼓を打つのであった。