「……いよいよ、本日ですね」
武内の真剣な表情と言葉に、奈緒と加蓮も同じように真剣な表情で頷いた。
彼ら3人がいるのは、346プロのアイドル専用談話室。普段はアイドル達が和気藹々とお喋りを交わす楽しい空間なのだが、今この瞬間はどこか独特の緊張感が漂う息苦しい空間と化していた。
それもそのはず、今日が奈緒と加蓮が杏の事務所に移籍する日なのである。
1週間ほど前に記者会見で杏の事務所に一時的に移籍することが発表されてから、あちこちで大きな反響が巻き起こった。それは“奇跡の10人”である渋谷凛がプロデュースするユニットのメンバーが、同じく“奇跡の10人”である双葉杏の事務所に移籍する、という構図が様々な人々の想像を掻き立てるのだろう。
「何かみんなごめんな、こんなに集まってもらっちゃって」
「良いって良いって★ アタシ達は仲間なんだから、こういうときに集まるのは当然っしょ!」
そして2人が一時的とはいえ346プロを離れるということもあって、2人の見送りのために現在数人のアイドルが集まっていた。数人というと事務所の規模的に少々寂しい気もするが、身内からしたらその顔触れを知っただけで並の人物なら圧倒されるに違いない。
なぜなら彼女達は全員、武内がプロデュースしている、いわば“武内組”の面々だからである。
先程奈緒に返事をしたのは、高校生のカリスマアイドルとして人気の城ヶ崎美嘉。
そして彼女の妹であり、ユニット“ファミリアツイン”を結成している城ヶ崎莉嘉。
2人と同じく読者モデル出身であり、独特の雰囲気で人気を獲得している佐久間まゆ。
さらには、ソロでもユニットでも快進撃を続ける大型新人である塩見周子。
そして、
「にゃっはっはー! 2人共緊張してるねぇ! 別に346プロに戻ってこれない訳じゃないんだから、もっとリラックスリラックス!」
「いや、そんな気楽なもんじゃないって。――志希」
ソファの背もたれに体を投げ出した、本人の言葉通り非常にリラックスした雰囲気の少女・一ノ瀬志希に、奈緒も加蓮も苦笑いを浮かべていた。しかしそんな彼女のおかげもあって、2人は先程よりも若干表情が和らいでいる。
一ノ瀬志希は今年で18歳になるが、海外で飛び級をしてすでに大学過程まで修了しているので高校には通っていない。幼少期に“ギフテッド”(生まれつき学習能力が異常に高く、自分流の方法で特定分野の知識を吸収していく人々)と診断され、本人も化学分野――特に“匂い”に関することに強い関心を持っている。
しかし海外での勉強をつまらなく感じて日本に帰国したとき、武内にスカウトされてアイドル活動を開始した。そしてそこでも天才ぶりを発揮して、他の“武内組”にも引けを取らない大ブレイクを果たしている。
ちなみにアイドルを始めてからも化学に対する興味は消えておらず、自宅を改造して専用のラボを造り、日夜怪しい薬品を作り続けている。ちなみにその資金には、彼女が“趣味”で作った香水を美城グループのコスメ部門で販売することで得たパテント料が使われている。
そんな彼女も含めた4人+奈緒と加蓮が、この部屋にいる“武内組”のメンバーである。本当はもう1人メンバーがいるのだが、彼女は現在346プロのスタッフと大事な打合せをしているためここにはいない。
「頑張ってね、奈緒ちゃん、加蓮ちゃん! ライブが決まったら、絶対に観に行くからね☆」
「うん、ありがとう莉嘉ちゃん」
「色々大変だとは思うけど、まぁ2人なら大丈夫でしょ★」
「おう! せっかくだし、346プロじゃできないことをやってみるよ」
「あははっ、気合い充分だね。こりゃアタシ達も負けてられないなぁ」
「そういやさ、まゆはモデル時代の事務所を辞めてここに来たんだよね。事務所を移籍した先輩として、何かアドバイスとか貰える?」
「そうですねぇ……。まゆはほとんど勢いで辞めましたから、迷いとかそういうのもありませんでしたし……」
「事務所の人に何か言われなかったの?」
「一応引き留めてはくれましたけど、雰囲気で分かってたのかほとんど何も言いませんでしたね」
移籍したからといって会えなくなる訳ではないが、顔を合わせる機会は減ってしまうに違いない。だからなのか、彼女達は“喋り溜め”でもするかのように楽しくお喋りをしていた。そして武内はそんな彼女達を邪魔しないように、少し離れた場所でそれを眺めている。
そんな中、同じようにそれを眺めていた周子が、ふいに口を開いた。
「それにしても346プロを離れて地下アイドルの劇場に行くって、凄い決断だよねぇ。あたしは別に346プロでもやりたいことやってるし、なかなかそんな決断できないと思うわ」
「あたしも周子ちゃんも、結構好き勝手にやらせてもらってるしねぇ」
「いや、別に私達は346プロに不満がある訳じゃないんだよ? ただ私が杏さんの劇場に行くのは、このまま凛さんやプロデューサーに甘えてるだけじゃまずいなって思って、環境を変えて色々挑戦してみようとしただけで――」
「うんうん、ちゃんと分かっとるよー。記者会見のときにもちゃんと話したもんねぇ」
「でもさぁ、それを額面通りに受け取らない人も一定数いると思うよ? 『凛さんやプロデューサーに不満があるから、これを期に杏さんの劇場に鞍替えしようとしてる』なんて無駄に推理……ってか飛躍? しちゃってる人もいるからねぇ」
志希の言葉に加蓮はうんざりしたような表情を見せるも、特に反論する様子は無かった。そのような層が一定数いることは加蓮自身も重々承知していたし、そもそも先日の記者会見でもそのような考えを前提とした意地悪な質問をしてくる記者がいたほどである。
「我々もそのような反応については想定内でした。しかし今回の移籍はあくまで期間限定でのイベントであることを強調したおかげか、想定よりも混乱が少なかったように思えます」
「プロデューサーさん、ここ数日は特に頑張っていらっしゃいましたもんね」
「Pくんすごーい! さっすがー!」
莉嘉が満面の笑みで武内の腕に抱きつくが、武内は困ったようにもう片方の手を首の後ろに遣るだけで、特にこれといった反応は無かった。
しかし彼女を無理に引き剥がそうとはせず、莉嘉に抱きつかれたまま奈緒と加蓮に向き直った。その真面目な表情に、2人の背筋も自然にピンとまっすぐになる。
「たとえお2人が346プロを離れようと、お2人が私達の“仲間”であることは変わりません。――お2人が安心してご自身のアイドル活動に尽力できるよう、私も双葉さんと同様に、最大限の努力でもってお2人を守っていきます」
「っ……!」
まっすぐ2人を見つめて断言した武内に、奈緒と加蓮は頬を紅く染めて息を呑んだ。それを見ていた志希はニヤニヤと目を細め、周子も同じように含んだような笑みを浮かべてヒューッと口笛を鳴らした。莉嘉は目をキラキラさせて武内を見上げ、美嘉は言われた本人よりも顔を真っ赤にして、まゆは笑顔を浮かべたまま微動だにしない。
「…………?」
ただ1人武内だけが、周りの反応の意味が分からずに首をかしげていた。
「あら、凛はん。お見送りには行かないんどすか?」
「……紗枝か。ちゃんと見送るつもりだよ。今は同期の子達と喋ってるだろうから、邪魔しちゃ悪いかなって思って」
「別に凛はんのこと、誰も邪魔ぁ思わんやないどすか?」
アイドル専用談話室と同じフロアにある、自動販売機の置かれた休憩スペースのソファーに腰を下ろす凛。
そんな彼女に話し掛けたのは、“武内組”のメンバーでもある小早川紗枝だった。艶のある黒髪ときっちりと着付けのなされた着物が、彼女の雰囲気を柔らかなものにしている。
「紗枝は? 見送りに行かないの?」
「うちはさっきまで、すたっふはんと打合せしてたんどす。それで打合せも終わったさかい、ちょっと顔出そぉ思ったんどす」
口ではそう言っている紗枝だったが、彼女は喋りながら凛の隣へと腰を下ろしていた。凛も最初は訝しげだったが、それを指摘することは無かった。
「……凛はん、心配なんどすか?」
「…………」
紗枝に問い掛けられても最初は答えなかった凛だが、紗枝がじっと見つめてくるので最後は観念したように首を縦に振った。
「奈緒と加蓮が向こうで上手くやれるのか、っていう心配もあるんだけど……。それ以上に、私の方で何かできたことは無かったのか、って考えることの方が大きいかな……」
ぽつぽつと話し始める凛に、紗枝は口を挟まずに無言で耳を傾けている。
「特に今回の話が決まってから、それをよく考えるようになって……。“後悔”っていうのも少し違うんだけど、杏に迷惑を掛けずに何とかできたんじゃないか、とか思っちゃって……」
凛としても、なぜ自分が紗枝に心の内を吐露しているのか分からなかった。このような相談なら武内とするのが普通であるし、同じアイドルの意見が欲しいにしても彼女のような新人ではなく、それこそ“奇跡の10人”といった同期の方が自然だろう。
「――ごめん。自分でもこれが何なのか、よく分かんないんだ……」
「せやなぁ……。凛はんはもしかしたら、寂しいんかもしれまへんね」
「寂しい?」
紗枝の言葉に、凛は意外そうな表情を彼女に向けた。そして紗枝はその顔を見て袖口で口元を隠してクスクスと笑い、凛はムッと不機嫌そうに口を尖らせる。
「ふふっ、堪忍しておくれやす。凛はんを馬鹿にした訳やあらしまへんえ? 何や凛はん、えらいかいらしい思うて」
「……それで、寂しいってどういうこと?」
ばつが悪そうに視線を逸らして話題を変える(というより元に戻す)凛に、紗枝は一瞬笑みを噛み殺すように口元を歪ませて、それから口を開いた。
「せやなぁ、一言で言うたら“親元を離れる子供を見送る親”ちゅうところですやろうか。凛はんからしたら、加蓮はんや奈緒はんが成長するんは嬉しいやけど、自分がおらんでも何とかなるんは嫌やぁ、てな具合やろか?」
「……何だか、随分と自分勝手な考えじゃない?」
「もちろん、これはうちが勝手に凛はんの気持ちを想像しただけのことやさかい、あまり気にせんといておくれやす」
そう言って再び袖口を口元で隠してクスクスと笑う紗枝に、凛も最初は納得しがたい表情を浮かべていたが、やがて床に視線を落として小さく溜息を吐いた。
「でも紗枝に言われて、もしかしたらそうかもって思えてきたよ。加蓮と奈緒と対等に接したいとか思ってたのに、いつの間にか2人のことを下に見てたのかな……」
「……上だの下だのとは違うんやけど、やっぱり“アイドルとプロデューサー”ちゅうんは、どうしても“対等の関係”って難しゅうなると思うんどす。人に何かを助言するいうんは、たとえ本人がどないな心構えでいようとも、“教える
「……そういうもの、なのかなぁ」
凛は大きな溜息と共に、自分の体をソファーの背もたれに投げ出した。ぼふん、という音と共にソファーが彼女の体を包み込んでほんの少し沈み、それに釣られて紗枝の体も少しだけ凛の方へと傾いた。
そしてそれを合図とするように、紗枝はソファーから立ち上がった。
「せっかくやし、何か飲みましょうか。凛はん、何がよろしい?」
「えっと、それじゃブラックコーヒー……って、ごめん。お金払うよ」
「気にせんといてください。凛はんは座ってて」
やんわりとした笑顔で凛を再びソファーに座らせると、紗枝はすぐ傍にある自動販売機でブラックコーヒーと緑茶を購入した。
「はい、どうぞ」
「……ありがとう、紗枝」
紗枝からコーヒーを受け取った凛は、それを開けて一口飲んだ。子供の頃は飲めたものではなかった苦味が喉を通り抜け、彼女はホッと一息吐いた。
それによって、頭の中に渦巻いていた感情がある程度リセットされたのか、
「それにしても、紗枝の方が私よりもよっぽどプロデューサーっぽいね。――やっぱり、
突然そんなことを尋ねてきた凛に、紗枝は不思議そうに首をかしげた。
「何ですの凛はん、急にそないなこと言うて? うちはただ、武内はんがうちらのために汗水流して働いとる姿を見て、こういうことやないかなぁ思うただけどす」
「知ってるんだよ、紗枝。あんまり自分から表に出ようとしない紗枝だけど、その裏でどれだけ頭を巡らせてみんなのことを考えて、そしてそれを実行しているか。――紗枝がさっきまで出てたスタッフとの打合せも、そのことについて話してたんでしょ?」
「…………」
口を閉ざしたまま何も言わない紗枝だが、凛は気にせず話し続ける。
「この前、周子が自慢げに話してるのを聞いたよ。『自分がソロでもユニットでも成功できたのは、紗枝ちゃんが色々とアドバイスしてくれたからだ』って。『紗枝ちゃんは自分にとって、もう1人のプロデューサーなんだ』とも言ってたかな」
凛はそこで口を閉ざすと、紗枝の方へと視線を向けた。
クスクス、と紗枝は袖口で口元を隠して静かに笑った。
「周子はんも、冗談が得意やなぁ。むしろ周子はんのおかげで、うちは売れっ子アイドルの真似事をさせてもろてるんどすえ? ほんま、周子はんと“羽衣小町”を組めて良かったわぁ」
「…………」
いかにも楽しそうにそう話す紗枝を、凛は真剣な表情でじっと見つめていた。まるで、彼女の心の内を見通そうとするかのように。
そんな凛の視線から逃れるように、紗枝は廊下の方へと視線を向け、
「凛はん、2人が来ましたえ」
「えっ?」
紗枝の言葉に釣られて凛が同じ方へ顔を向けると、武内の後ろに隠れるようにしてこちらへと歩いてくる加蓮と奈緒の姿が見えた。ちなみに2人共隠れようなどとは思っておらず、単純に前を歩く武内が大柄なだけである。
「凛はん、挨拶せんでええんどすか?」
「えっ? でも紗枝だって……」
「うちのことは気にせんでええどす。2人も喜びますえ?」
「……うん」
凛が彼女達の方へ駆けていくのを、紗枝は朗らかな笑みを浮かべて見送った。
そして彼女の意識が完全に向こうへと移ったことを確認し、紗枝は着物の袖口をスッと口元へと持っていった。
そのままの姿勢で、ぽつりと呟く。
「――まぁ凛はんの場合、2人が移籍するんが“双葉杏はんの事務所”ちゅうんが、一番の理由やと思うけど」
* * *
「やっべぇ、すげえ緊張してきた……」
「私もだわ……。心臓がバクバクして倒れそう……」
「えっ、加蓮倒れそうなのか! どうしよう、救急車――」
「ちょっと奈緒! そういう意味じゃないって!」
後部座席に座る奈緒と加蓮をバックミラー越しに見遣りながら、武内は346プロの公用車を走らせる。
車が走っているのは、都内にあるごく一般的な住宅街。都心からほどよく離れたそこはベッドタウンとして発展してきた街であり、鉄道や地下鉄が幾つも通っているので交通の便も良い。ちなみにその鉄道の中には、346プロの母体である美城グループが運営するものも含まれている。
そしてその住宅街にあるマンションが、彼らの目的地だった。それは“高層マンション”と言うには少し高さの足りない、物理的な意味でも家賃的な意味でも“中堅どころ”という評価がぴったりな場所だった。
普通に考えれば、新人とはいえアリーナを満席にするほどの人気アイドル、そして希代の名プロデューサーが揃って押し掛けるような場所ではないだろう。
かつて一世を風靡した伝説のアイドルが住んでいなければ。
「……プロデューサー、双葉杏さんってどんなアイドルだったんですか?」
「双葉さん、ですか?」
「アタシ達が知ってるのは、テレビとかで観たアイドル像だけですし。プロデューサーから見た双葉杏ってどんなだったのかなぁ、って思って」
奈緒の言葉に、武内は少しの間思いを巡らせるように視線をほんの少しだけ逸らし、
「……性格やスタンスは、お2人がテレビなどで観ていたアイドル像そのままです。常にアイドルを辞めたいと公言し、レッスンも仕事も極力さぼろうとしていましたし、引き受けた仕事も最小限の労力で乗り切ろうとしていました」
「あはは……、何だか光景が目に浮かびますね……」
「やっぱりあれってキャラじゃなかったんだ……」
苦笑いを浮かべる2人をバックミラーで見て、武内も僅かながらに口角を上げた。
しかしすぐに、その口元が引き締められる。
「それと同時に、非常に聡明な方でした。常に1歩退いた視点で自分や仲間達を見て、現時点で最も効果的な仕事を取捨選択して見事に実行していました。他の皆さんの悩みにも的確にアドバイスして、彼女達が飛躍するのに一役買っていました」
「すげぇ……。まさに完璧じゃねぇか……」
「その頃からもうプロデューサーとしての視点を持っていた、ってことなんだね……」
先程まで苦笑いだった2人の表情が、途端に尊敬へと変わっていった。コロコロと変わる2人の豊かな表情は、顔を合わせることの多い武内ですら飽きることがない。
「だからこそ、私は安心してお2人を預けることができるのです。双葉さんはあまり言葉や態度で表したがらないですが、お2人にも真摯に向き合ってくれることは間違いないでしょう」
「……プロデューサー、杏さんのことを信頼してるんですね」
「そんな凄い人と一緒に働くのかぁ。……やっべ、さっきより緊張してきた」
そうこうしている内に、杏達の住むマンションが見えてきた。敷地内の駐車場に車を停めて、正面玄関へと歩いていく。最新式のセキュリティシステムが鎮座するその玄関は、部屋番号を打ち込んでチャイムを押すことでその部屋に音が鳴り、部屋の人物が許可して初めてドアが開かれる。
武内がチャイムを押した10秒ほど後、スピーカーの向こうから声が聞こえてきた。
『はい、もしも――うえぇっ!』
女性らしきその声が、突然素っ頓狂な声をあげた。おそらくチャイムから少し離れた場所に設置されたカメラから、来客の姿を確認したためだろう。
「346プロから参りました武内です。北条と神谷の付き添いで伺いました」
『は、はい! お話は双葉から伺ってます! どうぞ!』
その声と共に、正面玄関のドアが自動で開かれた。背筋をピシッと立てて歩く武内の後ろを、奈緒と加蓮がおっかなびっくりついていく。
エレベーターに乗って中層階まで上がり、表札すら掲げていない部屋の前まで歩いていく。
そしてドアの横にあるチャイムを押した。
「……えっと、いらっしゃいませ。……ど、どうぞ」
近づいてくる足音の後にドアを開けて顔を出したのは、菜々だった。彼女はガチガチに表情を強張らせて、武内達を中へと招き入れる。その姿は奈緒と加蓮よりも明らかに緊張しており、図らずも2人は彼女の姿を見て幾分か気持ちを落ち着かせることとなった。
外見に違わず部屋の内装もごく普通のものであり、広いリビングを中心に部屋が幾つもある典型的なファミリータイプである。キノコ型のクッションや掌サイズのゾンビのフィギュアなど、部屋の端々に住人達の趣味が垣間見える。
「おぉ……、ここが208プロのみんなが住んでる部屋か……」
目をキラキラ輝かせて部屋を見渡している奈緒は、完全に1人のアイドルファンと化していた。そんな無邪気な彼女の姿に、加蓮と武内がクスリと笑みを漏らす。
と、そんな風に部屋と奈緒を観察している内に、自分の部屋に引き籠もっていた菜々以外のアイドル達が続々とリビングに集まってきた。皆がリビングのドアを開けて武内の姿を見掛けるや、ビクッ! と肩を跳ねて驚きの表情を見せ、彼と一定の距離を保ちながら恐る恐る菜々の傍へと歩み寄っていく。
「改めまして、346プロで渋谷と共に北条と神谷のプロデューサーを務めております武内と申します。この度は我々の勝手な申し出に対しご協力いただき、誠にありがとうございます」
腰を折ってその大柄な体を大きく動かしてお辞儀をする武内に、輝子達は圧倒されるように1歩後退り、菜々は慌てた様子で両手と首を左右に振った。
「いえいえ、こちらこそ! 奈緒ちゃんや加蓮ちゃんみたいな人気アイドルと一緒に仕事する機会を頂きまして、本当にありがとうございます! これを期に色々勉強させていただきますので!」
「勉強させていただくのは、我々も同じです。独自の路線でアイドル活動を行う皆様との仕事は、必ずや2人にとっても良い刺激となるでしょう」
「え、えっと、恐縮です! ――み、みんなも挨拶して!」
菜々に促された輝子・小梅・蘭子は一斉に姿勢を正し、
「えっと、星輝子です……。よろしくお願いします……」
「白坂小梅です……。よろしくお願いします……」
「我が名は……えっと、神崎蘭子です……。……よろしくお願いします」
「あっ! えっと……、神谷奈緒です! よろしくお願いします!」
「北条加蓮です。その……、よろしくお願いします」
初めて顔を合わせた訳でもないだろうに、5人は非常に辿々しく自己紹介を交わして頭を下げた。とりあえずこれで互いの面通しも終了し、後は杏に奈緒と加蓮を預けて用事は終了となる。
「……ところで、双葉さんはどうしたのでしょうか? 事前の話では、ここにいて立ち会うことになっていたのですが……」
「あ、えっとですね……。双葉は今、ちょっと緊急に入った用事の方へ行ってまして……。申し訳ありません、このような大事なときに……」
「いえ、そんなお気になさらず……。ちなみに、その緊急の用事というのは――」
「ただいまー! あっ、やっぱりもう来てたか」
武内が菜々に尋ねようとしたそのとき、玄関から聞き慣れた声が聞こえてきた。足音がリビングに近づいてくるのが聞こえるが、その足音が杏1人にしては多いように感じる。
そしてリビングのドアが開かれ、杏と
「――――!」
「うわっ! どうしたんですか、プロデューサー!」
突然目を見開いて思わず杏に駆け寄りそうになった武内に、奈緒達だけでなく杏も驚きの表情を浮かべた。困惑の視線を一身に受ける武内は、気恥ずかしそうに首の後ろに手を遣る。
ただ1人平静を保っていたのは、杏の腕にしがみついて寄り掛かる、ミルク色の髪とエメラルドグリーンの大きな瞳を持つ、ぼんやりとした表情の少女――遊佐こずえだけだった。
そんなこずえをじっと見つめていた奈緒が、恐る恐る杏に問い掛ける。
「……えっと、杏さんの隠し子ですか?」
「違うよ。13歳で生んだ子とか、とんだスキャンダルだよ。――まぁ色々と説明は省くけど、訳あってこの子を預かることになったんだよ。んで、プロデューサーはなんでこずえちゃんのことを知ってるの? もしかして昔からの知り合い?」
「いえ、私は前に一度お見掛けしたことがありまして……。そのときにスカウトしたのですが、一緒にいた女性の方に断られてしまいました……」
「ああ、成程ね。――ちなみに、その女性には?」
「はい、同じようにスカウトを。同じように断られましたが」
武内の答えに、杏は『やっぱりな』とでも言いたげな苦笑いを浮かべた。たったそれだけの遣り取りでも、2人の間に奈緒や加蓮とはまた違った関係性が垣間見える。
「ところで双葉さん、彼女のことで――」
「はいはい、気持ちは分かるけど先に“こっち”を片づけよう。もう挨拶は終わった感じ?」
杏の問い掛けに武内は一瞬口を開きかけてからそれを閉じ、短く「はい」と頷いて答えた。それを受けて杏が奈緒と加蓮へと体を向けると、2人は姿勢を正して彼女に向き直る。
「んで、2人は杏の事務所に所属してる間、この部屋に住むってことで良いの?」
「はい。せっかくだし、みんなと一緒の生活とか楽しそうだと思って」
「ナナ達も大歓迎ですよ! みんなと一緒の方が良いですもんね!」
「フヒ……。でも部屋って空いてたっけ……?」
「わ、私達の部屋以外は、きらりさんから貰った衣装をしまう部屋しかないよ……」
「むっ。それでは“無弁なる天使”の部屋も……」
部屋にいる者が一斉に杏へと視線を向けると、彼女は『分かってるって』と言わんばかりに頷いてみせ、
「とりあえず、こずえちゃんは杏の部屋に寝かせるから良いとして……。申し訳ないんだけど、2人は隣の部屋に寝泊まりしてくれるかな? 食事とか会議のときにはこっちに来てもらう感じで」
「それは別に構わないんですけど……。まさか私達のために部屋を借りてくれたんですか?」
「双葉さん、そうなんですか? それでしたらその費用は我々の方で持ちますので――」
「ああ、大丈夫大丈夫。そんな大した額じゃないよ。大家さんとは実家の繋がりで顔見知りだから、この部屋だってかなり格安なんだよね」
初めて知った事実に、以前からここに住んでいた菜々達ですら驚きで目を丸くしていた。杏の返事に武内は「そういうことでしたら……」と少々遠慮がちにその場を退いた。
「んじゃ、改めて2人共ようこそ。346プロと色々違って大変だと思うけど、まぁ気楽に行こう」
「はいっ! よろしくお願いします!」
「よろしくお願いします」
“頑張る”といった言葉が出てこない辺りは杏らしいが、それを聞いた2人は“気楽”を微塵も感じられない勢いで深々と頭を下げた。
真面目だなぁ、と杏が苦笑いを浮かべた。
「…………」
そしてそんな杏の腕にしがみつきながら、こずえが2人をじっと見つめていた。
「あの、双葉さん」
「ああ、プロデューサー。何、こずえちゃんの話?」
「えっと、それもあるのですが。もう1つお話が……」
「んん?」