武内の企画による、346プロ創立以来最大の野外イベント“346 IDOL LIVE FESTIVAL”。都心から程近い場所にある広大な国立公園を貸し切って敷地内に特設ステージを幾つも設営し、346プロに所属するアイドル達がそこで同時多発的にライブを行う野外音楽イベントである。
会場内ではライブだけでなく、来場者の思い出となる限定グッズや、胃袋を満足させるグルメも取り揃えている。それ以外にも所属アイドルが手掛けたアート作品や、ライブ以外にも様々な企画を催すなど、単なる音楽鑑賞の枠を超えた総合エンターテインメントの場となっている。
ステージは全部で5つ。
会場に入って真っ先に目につく、澄んだ水がとても涼しげな湖。その
そこから少し会場の奥に進むと、森に囲まれた飲食エリアとなる。三村かな子監修による様々な料理を大自然に囲まれながら食べることのできるここは、これからライブで消耗するであろうスタミナを補給する場としても、ライブに疲れた体を休める場としても使うことができる。
そしてそんな飲食エリアから目と鼻の先にあるのが、森の中にある広場に設営された“GREEN STAGE”だ。自然の息吹を感じることのできるここは、比較的ゆったりとした雰囲気で音楽を聴きたい人には打って付けだろう。収容人数は、およそ8千人。
そこから森を抜けてさらに奥へと進んでいくと、国立公園に併設された遊園地へと差し掛かる。ここも会場の一部であり、しかもその遊園地の中にある広場にも特設ステージが作られる。“YELLOW STAGE”と名付けられたそこは、346プロに所属するキッズアイドルを中心としたラインナップとなっている。収容人数は、およそ6千人。
そしてその遊園地から続く橋を渡ると、この会場の象徴とも言える広大な草原が来場者の目に飛び込んでくる。思わず走りたくなってしまいそうなほどに広々としたそこには、フェスのために作られたグッズの販売所だけでなく、様々なブースが用意される。草原の脇にある森の中には、2つ目の飲食エリアが広がっている。
そしてこの草原にも、ステージが2つ存在している。
1つ目が、草原の隅に設営された特設テント“RED STAGE”。収容人数はおよそ4千人と全ステージの中でも最小だが、ここに出てくるのはデビューしたばかりの新人達だ。ステージの名を表すように真っ赤な情熱を胸に秘めた彼女達のパフォーマンスは、必ずや観る者を熱狂の渦に巻き込むことだろう。
そしてそんなステージから少し離れた場所、草原全体がステージエリアと言っても過言ではない、文句無しに会場一の大きさを誇るステージが“RAINBOW STAGE”だ。収容人数は、実に6万人を優に超える。このステージに立つことができるのは、それこそフェスの目玉に相応しい人気と実力を持つ、まさに“選ばれた者”のみである。
新人もベテランも同じように肩を並べ、自分が今できる全てを注ぎ込んで最高のパフォーマンスを行う。興奮と熱狂に包まれたこのお祭りは、必ずや346プロにとって“大きな転換点”となるに違いないだろう。
* * *
「杏にも、この企画の話が来てるよね?」
奈緒達が蘭子のライブで使用する機材の修繕に追われていたまさにその頃、杏は都内の高級レストラン(全席個室)にてそのような質問をぶつけられていた。ちなみに杏の隣では、皿に盛られたアイスとフルーツたっぷりのクレープに対し、ナイフとフォークで四苦八苦するこずえの姿も見られる。
隣から聞こえてくるカチャカチャと硬い物がぶつかり合う音を受け流しながら、杏は思わず口から出そうになっていた溜息を引っ込め、自分の目の前に企画書であろう紙の束を突き出す女性へと視線を向ける。
そこにいたのは、まるでこれから何か強大な敵に挑むかのように緊張した面持ちをした渋谷凛だった。なぜ単なる食事会でそのような表情をしているのか、と杏は半ば呆れ、先程は堪えきった溜息を我慢できずに吐き出した。
杏のそのリアクションに、凛は綺麗に整えられた細い眉をキッと寄せて杏を睨みつけた。
「……何、その反応」
鋭い目つきにトゲのある声と、普通の人間ならば思わずたじろいでしまうであろう凛の問い掛けを、しかし杏はまったく意に介さずひょうひょうと受け流す。
「どうせプロデューサーを問い詰めて、直接聞き出したんでしょ? だったらわざわざそんなことを訊かないで、素直に『出るか出ないか』だけ訊いたら良いじゃない」
杏のその言葉に、凛は面白くなさそうにプイッと顔を背けた。子供が拗ねているようにしか見えないその仕草に、杏は吹き出しそうになるのを寸前で堪えた。そんなことをすれば、また凛から鋭い目を向けられるに違いない。
「それで、凛は? このフェスに出演するつもり?」
「もちろん、出るつもりだよ。このフェスはいつものライブともまた違う、色々な意味の込められているイベントだと思うし、これを経験することが私にとって大きなプラスになると思うから」
真剣な表情でそう答える凛に、
「それに、これを企画したのがプロデューサーだし?」
「…………」
ニヤニヤと笑みを浮かべながら、杏はその質問を投げ掛けた。凛は綺麗に整えられた細い眉をキッと寄せて、杏を睨みつけた。とはいえ頬を紅く染めながらなので、先程よりも些か迫力に欠けているが。
凛の反応が面白いのか杏はクスクスと笑いを漏らし、フェスの企画書へと手を伸ばす。
「ここに書いてる開催予定日って、凛が今取り組んでるソロツアーが終わった後だよね。ということは、奈緒ちゃんと加蓮ちゃんも346プロに戻った後だから――」
「うん。“トライアドプリムス”としても、このフェスに出ようと思ってるよ。プロデューサーの話だと、その分の枠はもう押さえてあるって」
「やっぱり。つまり凛は、ユニットに加えてソロとしてもステージに上がることになるって訳か。それぞれの公演時間は普段よりも短いけど、毛色の違うパフォーマンスを同時に仕上げるのってなかなか厳しいんじゃない?」
杏の指摘に、凛はフッと口元に微笑を携えた。
「確かにそうかもしれないね。――でも、私はやるよ。少しでも早く、杏の劇場で成長した2人と一緒に“トライアドプリムス”をやりたいんだ」
そう語る凛の瞳には静かな、しかし力強い炎がメラメラと燃え上がっているように感じた。それを見た杏は、「うへぇ」という台詞でも付きそうな微妙な表情になっていた。現役の頃にも何度か見たことのある彼女のその顔は、正直言って杏が最も苦手とする類のものである。
と、凛はふいに笑みを消して真剣な顔つきになった。
「――それで、杏は出ないの?」
「……そもそも杏は、とっくの昔に346プロを辞めてるんだよ。しかも今は、こうして自分で事務所を旗揚げして独立してるの。今更346プロのイベントに出られる訳ないでしょ」
「それを踏まえたうえで、プロデューサーは杏に出演依頼したんじゃないの? 確かに杏は346プロを辞めてるけど、今でも公私共に346プロと繋がりがあることは世間も分かってるから、部外者扱いはされないと思うよ。――それに“奇跡の10人”の1人として、やっぱりどうしても切り離せないっていうのもあるし」
「……成程ねぇ」
凛の言葉を、杏は特に否定しようとしなかった。杏本人としては反論したい部分も無くはないが、世間のイメージという視点で見た場合、彼女の言葉は間違っていないと思ったからである。
その代わり、杏が気になった箇所は別の部分にあった。
「“奇跡の10人”かぁ……」
「どうしたの、杏?」
「いや、みんなが当たり前のようにその言葉を使うけど、正直それを言われる度にこそばゆいんだけど。凛は平気なの?」
「……正直、違和感はあるよ。だって私達にとって今の立場はみんなが一生懸命努力した結果であって、私達にとっては奇跡でも何でもない、ある意味“必然”のものだから――」
「いやいや、そういうことじゃなくて」
「…………?」
首を横に振って否定してきた杏に、凛は純粋な疑問の表情で首をかしげた。それを見た杏は、先程まで言おうとしていた『どこぞの漫画の通り名みたいで恥ずかしい』という感想を呑み込むことにした。何だか彼女と会話をすると色々気を遣うなぁ、と思いながら。
「――それにしても、違う規模のステージが同じ会場に幾つもあるっていうのは面白そうだなぁ。これって多分、それぞれの集客力とかで出演するステージを決めるんでしょ? 今どのアイドルにどれだけの力があるのか、あからさまに表れるんだろうなぁ」
最も大きなステージである“RAINBOW STAGE”はドーム級の規模であり、2番目に大きなステージ“BLUE STAGE”は主要都市のアリーナ級だ。この辺りに出演することができれば、充分に“人気アイドル”の称号を名乗ることができるだろう。
もちろん、ここに選ばれた時点で充分に素晴らしいことである。しかし“人気”や“知名度”を計るバロメーターとしては、おそらくこの辺りが1つの境界線と位置づけることはできるだろう。
「……そうだね。プロデューサーの話だと、どのアイドルをどのステージに出演させるか、既に会議は始まってるんだって」
「そりゃそうだろうね。他のプロデューサー達も、自分の担当アイドルを少しでも大きいステージに立たせてあげたいだろうし、裏では壮絶なステージの奪い合いが起こってると思うよ。――でもまぁ、凛は余裕で構えてるんじゃないの? ぶっちゃけ凛くらいの人気だったら、普通に一番大きい“RAINBOW STAGE”だろうし」
「……そんなことないよ。油断してたら、勢いのある後輩に一気に追い抜かれるだろうし」
口ではそう言っている凛だが、実際のところ杏の言う通りになるだろうな、という思いは確かにある。それはけっして彼女の驕りだとかそういうことではなく、ソロでドームツアーを敢行できるほどの人気と実績を客観的に判断した結果だ。
「勢いのある後輩、かぁ……」
「ん? どうしたの、杏?」
何やら含みのある呟きを漏らす杏に凛が尋ねると、彼女は「大したことじゃないだけどね」と前置きしてから言葉を続けた。
「ここ1年ちょっとの間にデビューした新人達がさ、もの凄く勢いあるじゃない? 一番大きいステージの“RAINBOW STAGE”に誰が出るかも注目だけどさ、今の346プロだとむしろ2番目の“BLUE STAGE”の枠争いが一番激しいかもしれないね」
杏の言葉に、凛は同意するように大きく頷いた。確かに凛の目から見ても、ここ1年ほどの新人達の活躍は目覚ましいものがある。
それこそ、自分達がデビューしたときに匹敵するくらいには。
「――ひょっとしたら、ひょっとするかもしれないね」
* * *
346プロの中にある、チーフプロデューサー室。そこは文字通り、その役職に就いている武内1人のために用意された部屋である。大量の本をしまえる大きな棚が幾つも立ち並び、中央には応接セットとして高級な革の貼られたソファも置かれたその部屋は、1人の人間が働くスペースとしてはかなり広い。
なのでこの部屋は、アイドルと武内との打合せに使われることも多い。特に彼がプロデュースの担当を務めるアイドル(通称“武内組”)が最もその頻度が高く、ほぼ毎日誰かしらの姿をその部屋で見掛けることができる。もっとも彼女達の場合は仕事上の用事よりも、ただ単に遊びに来るときの方が多いのだが。
「…………」
さて、そんな部屋には現在、6人ものアイドルが集まっている。それも全員が“武内組”だ。もちろんこんなことが偶然起こる訳も無く、彼女達は武内に仕事の打合せで呼び出されたためにここにいる。
とはいえ現在この部屋に流れている空気は、お世辞にも真剣なものとは言い難い。それどころか、どこかユルユルな雰囲気になっているとも言える。
なぜ仕事の打合せでそんな空気が流れているかというと、
「周子はん、そない拗ねんといてぇ」
「……別に拗ねてへんし」
応接セットのソファーに、肘掛けを枕にして横になっている塩見周子に、小早川紗枝が苦笑混じりで肩を揺さぶっていた。
「まぁ、そりゃ周子からしたら、納得のいかない結果なのかもしれないけどさぁ……」
「うふふ、これじゃどっちが大きいステージで歌うのか分かりませんねぇ」
そしてそれを少し離れた所から眺める城ヶ崎美嘉と佐久間まゆも、紗枝と同じような表情になっていた。その優しい目つきはまるで、手の掛かる妹を眺めているかのようである。どちらも周子より年下なのだが。
「良いなぁ良いなぁ、周子ちゃんは! アタシももっとおっきなステージで歌いたーい☆」
「“BLUE STAGE”だって凄く大きいよー? 企画書では1万5千人だもーん、アリーナ級だよー」
そしてソファーの背もたれに体重を掛けて周子の顔を覗き込むのは、城ヶ崎莉嘉と一ノ瀬志希の2人である。莉嘉は年相応の無邪気さで周子の門出を祝っているが、志希の場合は悪戯っぽいニヤけ顔のせいで、色々と分かったうえでからかっているように思えてならない。
そして、部屋の主である武内はというと、
「……申し訳ありません、塩見さん。私個人としてはもっと上のステージに立たせたいですし、小早川さんにはその実力があるとは思いますが、一般的な知名度なども考慮すると――」
「分かっとるよ、それくらい……。納得できないってだけだよ……」
武内の言葉に周子は首だけ動かして、頬を膨らませたその顔を彼へと向けた。紗枝に言われたときは否定していた彼女だが、その姿はどう見ても拗ねているようにしか見えなかった。
周子がこのような姿になった原因は、5分ほど前にあった。
社内でも話題独占となっている“346 IDOL LIVE FESTIVAL”だが、開催時期はまだまだ先となっている。しかし未だかつてない大規模なイベントだけあって、既に水面下では様々な準備が進められている。
その中でも最も白熱しているのが『どのアイドルをどのステージに出演させるか』だろう。イベントの成功を左右する大事な議題だけあって、人気や実力や知名度やその他様々な要因を加味して慎重に話し合っていく。
今回武内が自分の担当アイドルに話したのは、あくまで“第1案”であり変更の可能性も充分にある。しかし人気を計るバロメーターとしての役割も果たす話題だけあって、皆が興味津々といった感じで聞いていた。
その結果、美嘉と莉嘉の姉妹ユニット“ファミリアツイン”、周子と紗枝のユニット“羽衣小町”、そして志希とまゆの2人はソロとして、2番目に大きい“BLUE STAGE”にて揃って出演。
そして周子はソロとして、最も大きい“RAINBOW STAGE”での出演が検討されている。現時点ではこの中で周子だけが、2回ステージに立つことになっている。
しかし周子は、それこそが不満だった。
「……あたしのソロが“RAINBOW STAGE”なら、紗枝ちゃんとのユニットだって同じステージで良いじゃん。これじゃまるで、紗枝ちゃんがあたしの足を引っ張っているように見えるじゃん。そんなのおかしいよ……」
「塩見さん……」
「紗枝ちゃんはね、本当だったらもっと注目されてもおかしくないんだよ。あたしとのユニットだけじゃなくて、あたしのソロ活動もほとんど紗枝ちゃんのアイデアだし。それなのに、自分だけが注目されるなんて……」
「……申し訳ありません。小早川さんについては、自分もプロデュース力不足を実感しております。もっと上のステージに出演できるように、私でも尽力していきますので――」
「ちょっ、2人共! そない気ぃ遣わんといておくれやす! うち、今でも充分すぎる思いますさかい、これ以上売れたらおかしくなってしまいそうどす!」
周子と武内の言葉に、紗枝が慌てたように首と手を横に振ってそう言った。
しかしそれに対して、他のメンバーが異を唱える。
「そうかなぁ? アタシも紗枝は、もっと売れても良いと思ってるよ。そりゃ“縁の下の力持ち”みたいなポジションも、別に悪いって訳じゃないけどさ」
「そうですねぇ。まゆだったら『もっと自分を見て』とか思っちゃいますねぇ」
「おぉっ! 『もっと自分を見て』とか、まゆちゃんってだいたーん!」
「し、志希さん! そういう意味じゃなくて!」
「ねぇねぇPくん! アタシも周子ちゃんと同じステージに立ちたーい!」
「ほら莉嘉、そんな我が儘言わないの。今のアタシ達じゃ、さすがに6万人の会場は埋められないって」
次から次へと言葉が飛び出す彼女達に紗枝が反論しようとするも、なかなか言葉の隙間に入り込むことができずにオロオロしていた。そんな彼女の姿に、ソファーで寝っ転がっている周子の機嫌もだんだん戻っていき、それを横目で確認した武内がホッと胸を撫で下ろす。
「それにしても、周子さんはさすがですねぇ。まゆ達の中でも特に売れてるとは思ってましたけど、まさか一番大きなステージを任されるほどとは」
「本当だよねぇ。“RAINBOW STAGE”ってさ、凛さんとか卯月さんとか李衣菜さんとか、それこそ“奇跡の10人”くらいじゃないと駄目な訳でしょ? そんな人達と肩を並べるなんて、周子は本当に凄いと思うよ」
「いやいや、本決定じゃないんだから。“奇跡の10人”の人達がどれくらい出演するのか分からないけど、その人達が出演することが決まったら、シューコちゃんなんてあっという間に蹴落とされちゃうって」
まゆと美嘉が感心した様子で頷くのを、周子はあくまで冷静な視点を崩さずにそう言った。
「…………」
そしてそれを、武内が口を閉ざしたまま眺めていた。
首の後ろに手を遣りながら。
「んっふっふー。どうしたのかね、武内くん?」
「え? いえ、別に何でも……」
そしてそれを、いつの間にか彼女達の輪から離れた志希が目敏く見つけた。興味津々な表情で躙り寄ってくる彼女に、武内は邪険に振り払うこともできずに戸惑いを見せている。
「――隙ありっ!」
「あっ! ちょっと、一ノ瀬さん!」
そして一瞬の隙をついて、武内が持っていた資料を奪い取った。そこにはそれまでの会議で纏められた、アイドル達の出演予定案の
大柄な武内がすぐさま腕を伸ばして奪い返したため、資料を読まれたのは僅か数秒程度だ。しかし志希にとってみれば、数秒もあればこの程度の情報量を記憶するのは容易いことだ。
そして彼女は頭の中で先程読んだ情報を思い返し、ニヤリと笑みを浮かべた。
「……成程ねぇ、なかなか面白いことになってるにゃあ」
「……他言無用でお願いします」
武内の真剣な頼みに、志希は了承を示すようにヒラヒラと手を振って応えた。
* * *
全体で見ると穏やかな、しかしどこか剣呑とした空気が流れているようにも思える凛と杏(+口の周りをアイスでベチョベチョにしているこずえ)の食事会。
やがてこずえ以外の2人もデザートに手を付け始めた頃、
「それで、話ってのはフェスのことだけ? だったらこのデザートを食べて、早いとこ帰りたいんだけど」
「……杏さ、せっかくこうして久し振りに食事してるんだからさ、もっと世間話に華を咲かせるとかしないの?」
あからさまに帰る気マンマンの杏に、凛は呆れ果てたように深々と溜息を吐いた。
しかしそんな彼女に対して、杏も呆れたような表情を見せる。
「えぇっ? だって杏が現役の頃から、凛から話し掛けてきたときって大抵碌な話題じゃないんだもん。それに凛、未央や卯月と違って世間話とかできないじゃん」
「……それはまぁ、そうだけど」
友達との長電話が趣味だと公言する卯月に、周りから“コミュ力お化け”と称されるほどに顔の広い未央と違い、凛はそもそもそんなに口が達者な方ではなく、どちらかというとコミュ力に難のある性格だった。もっともそれが彼女のカリスマ的なイメージとも合致していたので、アイドル活動には困らなかったが。
「……本当はこっちの方が、私にとってメインだったんだけどね」
凛がそう言って取り出したのは、先程と同じような紙の束だった。しかしそれは先程の企画書のように業務用のプリンターで印刷された綺麗な物ではなく、家庭用の機材で印刷した複数の紙をホチキスで留めただけの簡易的な物である。おそらく、凛が自分の手で作ったのだろう。
「……これは?」
如何にも興味の無さそうな態度で杏が尋ね、
「ここ最近インターネット上で、よく書かれるようになった208プロの評判だよ」
凛が真剣な表情でそう答えた後も、杏の表情は変わらなかった。とりあえず紙の束を手に取り、そこに書かれている文章を流し読みする。
『今日も奈緒ちゃんと加蓮ちゃんが出なかったんだけど。いつになったら出るの?』
『いつまでも出し惜しみしないで、さっさと出せば良いのに。そうすりゃ劇場も儲かるだろ?』
『というか、なんで2人は地下劇場なんかに移籍したの? どう考えても釣り合わないじゃん』
『そりゃ劇場の支配人が双葉杏だからな。古巣の346プロにちょっと口出しすりゃ、ホイホイと移籍できるってもんよ』
『どうせ劇場の奴らなんて単なる“前座”だろ? さっさと“本命”出せよ』
『地下アイドルなんて所詮テレビにも出られない“お遊戯レベル”だろ? んなもん見せる暇があるなら、さっさとそいつらを引退させて、2人のための劇場に変えろよ』
『というか、さっさと346プロに返せよ。大人の都合に振り回される2人が可哀想だろ』
ざっと見ただけでも、このような内容のオンパレードだった。中には劇場のアイドルを名指しして誹謗中傷を繰り広げたり、根も葉もない噂話を真実のように語って208プロを貶めたりと、まさにやりたい放題の相を呈している。
「もちろん、こんなコメントはごくごく一部だよ。大多数の人達は杏達の活躍をちゃんと観ているし、まっすぐな気持ちで応援してくれている。――でも私の感覚では、そこに書かれているようなコメントも日に日に多くなっているように感じるよ」
「…………」
パラパラと紙を捲りながら、杏は口を閉ざしたままでいる。
「私達みたいな職業をしてるとさ、どうしてもこういう悪意ある人達の攻撃の対象にされることもあるんだよね。もちろん周りの人達の意見も大事だけど、時にはこういう意見に流されずに自分の意思をしっかり持つことも大事だと思う。――でもアイドルとしての経験が少ない奈緒や加蓮、それに208プロのみんなは、こういう悪意に対する耐性がまだ弱いんだ」
「…………」
「元々は私達の方から持ち掛けた話だし、そんな我が儘を受け入れてくれた杏には本当に感謝してる。だからこそ、私でも協力できることがあったら何でも言って。私だって2人が頑張っているのを応援して――」
「――――凛」
杏の口から放たれたその一言は、凛が今まで聞いたことのないようなものだった。
「……杏?」
「インターネットの検索って便利だけど、使い方を考えないと凄く不便なんだよね。例えば誰か有名人だったり作品の評価を知りたくて検索したとしても、一番上に表示されたページの評価が世間一般での評価とは限らないじゃない。むしろ“悪意”を持って広めようとする奴らがいた場合、そのページが一番上になる可能性だってある」
「確かに、そうだけど……」
「“サジェスト機能”ってあるじゃん。最初に入力した項目の後ろに別の言葉を入力することで、2つの言葉に関連したページを検索できるって機能。――もしあれに“批判”みたいなネガティブな言葉を入れたら、それについて書かれたページだけがズラッと出てくることになるよね。それを見てると、あたかもその人や作品が批判されまくってるように見えない?」
「わ、私はそんなこと――」
「仮にそうじゃないとしても、人間には“先入観”ってあるよね。人間って自分に対して甘い生き物でね、自分の先入観に合致した情報ほど印象深く記憶に残るって性質があるんだよ。科学的にはまったく根拠の無い血液型での性格判断が未だに根付いてるのは、そういうのが原因なんだよね」
「……私が先入観に囚われてるってこと?」
「わざわざそうやってネガティブなことばかり並べているのが、何よりも証拠じゃないの?」
杏はそう言って、凛へと視線を向けた。
そのときになって、ようやく凛は理解した。
今の杏は、間違いなく怒っている。
「まぁ、凛が心配に思うのも分かるよ。自分が今まで育ててきたアイドルが、自分の手の届かない所にいる訳だからね。――でも、あの2人だって立派な“プロのアイドル”なんだよ。何か問題が起こったとしても、それを自分の力で乗り越える必要がある。それが無理だって分かったら、そこで初めて杏達が手を差し伸べれば良いんだよ」
杏はそう言うと、おもむろに立ち上がった。それに倣うように、こずえもナイフやフォークを置いて立ち上がる。先程まで必死に格闘していたクレープは、いつの間にか無くなっていた。
しばらくそれをボーッと見ていた凛だが、ふいに思い出したように身を乗り出して口を開く。
「ま、待って! 気分を悪くしたことは悪かったって思うけど、『協力できることがあったら何でも言ってほしい』っていうのは本当だから、その――」
「分かってるって。何かあったら、ちゃんと言うから。――じゃ」
杏はそう言い残すと、こずえを引き連れて部屋を出ていった。
何の音も響かない静かな空間に、凛1人だけが残される。
「――――はぁ」
しばらく身を乗り出す姿勢のままだった凛だが、ふいに大きく溜息を吐くと、そのままズルズルと腰を下ろした。両手で頭を抱え込み、テーブルを見つめるように顔を俯かせる。
そして、ぽつりと呟いた。
「……本当、何やってんだろ、私」
* * *
「本当、何やってんだか……。杏らしくもない……」
休日の昼間ということもあり、高級なブティックが建ち並ぶその街には多くの通行人が溢れている。そんな場所に杏のような有名人が繰り出すとパニックになりそうなものだが、彼女はつばの大きい帽子で顔を隠し、シークレットブーツで身長をごまかしているので、周りに彼女の正体がバレる様子は無い。
歩きにくいシークレットブーツに加え、足取りの遅いこずえと手を繋いでいることもあって、元々速い方ではない杏の歩みはさらに遅くなっていた。
しかし今の、様々な考え事で頭をいっぱいにしている杏にとっては、この遅さが逆に有難かった。普段ならばこずえと他愛ない会話に華を咲かせるのだが、今日は店を出てから一度も口を開いていない。まっすぐ前だけを見据えるその目は、帽子のつばに隠れてその様子を窺い知ることができない。
くいっ――。
右手に引っ張られる感覚のあった杏が、隣にいるこずえへと視線を向ける。
吸い込まれそうなほどに透明感のあるエメラルドグリーンの瞳が、まっすぐ杏を見つめていた。
「……ごめんね、こずえちゃん。色々と考えることがあって」
「……あんず、おこってるのー?」
「怒ってる、ってのとは少し違うかな? 何て言うか……、イライラしてる?」
「おこってる、とはちがうのー?」
「うーん……、何だろうな……、『明確に怒りをぶつける相手が見つからない、あるいは分からない』みたいな、そんな感じ?」
「…………」
「ごめんね。こずえちゃんは関係無いから、気にしなくて大丈夫だよ」
杏はその言葉で、この話題を打ち切った。それからは普段の調子を取り戻し、街で見掛けたことや最近起こった面白いことをこずえに話し掛け、こずえがそれに対して薄い反応を見せるという、いつも2人で街を歩いているときの光景となっていった。
「…………」
そしてそんな杏を、何を考えているのか読めない無表情でこずえが眺めているのも、いつもの光景だった。