208プロ劇場外イベント“APRICOT JAM SESSION vol.1”。
イベントの名前は専用劇場である“アプリコット・ジャム”に掛かっているものだが、ジャムセッションという言葉自体は元々存在しており、ジャズやロックの世界において『本格的な準備や事前に用意したアレンジを使わずに即興的に演奏すること』という意味を持っている。
しかし今回においては言葉の定義を意図的に変え、即興音楽の持つ“何が飛び出すか分からない”という要素に着目した。
208プロに所属するアイドルは全員がソロ志向であるため、それぞれライブの枠が明確に分けられている。輝子と小梅のように例外的にユニットを組む者もいるが、その場合でもユニットとして独立した公演の枠を確保している。要するに、普段アイドル達は同じステージで顔を合わせることはないのである。
しかしこのイベントにおいては、独立した枠というものが存在しない。メンバー全員が混在した状態でセットリストが組まれ、入れ替わり立ち代わりでステージに登場して歌を披露していく。中には普段ソロで披露する曲を複数人で歌い、それに合わせてまったく違うアレンジが施されることもあるだろう。
普段の公演と違って、次に誰が何の曲を歌うか、そしてどのようなパフォーマンスが行われるか分からない。それこそが、このイベントの醍醐味といえるだろう。
「劇場外のライブイベント、ですか?」
菜々達がその企画を最初に聞いたのは、いつものように杏の部屋に全員が集まって夕食を摂り、その部屋で思い思いに寛いでいたときのことだった。テレビを観ていたりゲームをしていたり洗った食器を片付けていた彼女達に、杏が「ちょっと話したいことがあるんだけど良い?」と呼び掛け、この話を切り出したのである。
「そ。そろそろ奈緒ちゃんと加蓮ちゃんがこの劇場を辞めるときが近づいてきたでしょ? だから2人がここを辞めるときに、何か特別なイベントをやろうと思ってたんだよ」
「そっかぁ……。そういえばそろそろ凛さんのソロツアーも始まるしなぁ」
「凛さんのソロツアーが終わるまでの間だっていうのは最初から決まってたことだけど、何だかもっと遠い日のことだと思ってたわ」
奈緒と加蓮が、実に感慨深そうにそう言った。それだけ208プロで過ごしてきた期間が特別なものだった、ということだろう。
「それでさ、普段からみんなは208プロの専用劇場でライブをしてきた訳だけど、せっかくだから劇場を飛び出してもっと広いキャパの会場でライブしようかなって思ったんだよ。普段とは違うお祭り感を出して、2人を盛大に見送ろうってことで」
「へぇ、面白そうだな!」
おそらく“もっと広いキャパの会場”といっても、奈緒達が“トライアドプリムス”として出演したライブ会場とは比べるまでもなく小さなものだろう。しかし今の奈緒と加蓮の目にはそれと比べても遜色しない、いや、もしかしたらそれ以上の期待感が滲み出ていた。
と、加蓮がふいに或ることに気がついた。
「ところで杏さん、この“vol.1”って何?」
「ああ、それ? 今回は奈緒ちゃんと加蓮ちゃんをメンバー全員で送り出そうって趣旨のイベントだけど、今後も定期的に開催したいと考えてるんだ。普段の劇場とは違う方針の公演だし、たまにはこういう違うこともやった方がお客さんもみんなも飽きないでしょ?」
実は杏としては、むしろこちらの方がメインの理由だったりする。そもそもこの企画を思いついたきっかけが、ネットでの生放送をしたときに、今後の目標を訊かれた菜々達が「劇場の公演を頑張る」以外の答えをなかなか思いつけなかったことだった。つまり言い方は悪いが、奈緒と加蓮については“ついで”と取ることもできる。
そして皆には話していないが、今回は全員での合同ライブであるが、これが成功したらいずれ個々でのソロライブも劇場外で行うことを視野に入れている。普段の公演よりも大きな会場を使えば、より凝った演出をより大規模に行うこともできるからだ。
「良いですねぇ、それ! ナナは賛成ですよ!」
「フヒ……。今の劇場でも結構緊張するのに、さらに会場が大きくなるのか……」
「で、でも、何だか楽しそう……」
「新たな世界を構築することも、魔王たる我にとっては造作も無いこと! 見事に演じきってみせようではないか!」
今まで自分がやってきた場所を飛び出してのライブに緊張を隠せないメンバーであったが、新たな挑戦に対する期待感、そして奈緒と加蓮の晴れ舞台ということもあって非常に前向きな反応だった。
「みんな……、ありがとう」
「よっし! 最終的なゴールも見えてきたことだし、こっからますます頑張らなきゃな!」
そして見送られる立場である加蓮と奈緒も、そんな彼女達の熱意を受けてやる気に満ち溢れていた。普段は“頑張らない”と言って憚らない杏も、目の前の光景に対しては実に嬉しそうな笑みを浮かべて何度も小さく頷いている。
「…………」
そしてそんな彼女達を、テレビの前にあるソファーに座るこずえが、その大きな目をピクリとも動かさずにじっと眺めていた。
* * *
そんな会話を交わした次の日、小梅達の通う学校にて。
授業が終われば開放感から騒がしくなるのはどこの学校でも一緒だが、普通の学校よりも個性的な面々が集うこの学校においてはその傾向も顕著である。
「今日もやっと授業が終わったぁ! さてと、ドーナツ食べよーっと!」
「うわぁ! 法子ちゃん、凄いドーナツの量だね! 机の上がドーナツでいっぱいじゃん!」
「いやぁ、食堂のカフェで美味しそうな匂いがしたからさ、思わず全部買っちゃったよ! 良かったら、莉嘉ちゃんも一緒に食べよ!」
「ほんとっ、良いの! やった、いただきまーす!」
例えば教室の後ろでは、椎名法子が自分の机どころか隣の机にまでドーナツを広げ、城ヶ崎莉嘉と共に実に幸せそうな表情でドーナツを頬張っていた。武内Pという伝説的なプロデューサーの下で現在売れに売れまくっている莉嘉も、この学校では普通の女子中学生と同じように友人達と学校生活を楽しんでいる。
「くるみ、ガム食べる?」
「ふえっ? い、良いの……? それじゃ、いただきま――ふぎゃあっ!」
「アッハッハッ! 今時パンチガムに引っ掛かるなんて、くるみったらマヌケ過ぎ!」
「ふえぇ……、指が痛いよう……」
「おう麗奈、随分たぁしゃいどるのぉ。何がそがぁに楽しいんか?」
「げぇっ! と、巴! ア、アンタには関係無いでしょ!」
例えば教室の前では、大きな胸が目を惹く大沼くるみが悪戯を仕掛けられて今にも泣きそうになり、悪戯を仕掛けた張本人である広い額と勝ち気な表情が印象的な小関麗奈は、燃えるように真っ赤な髪をした少女とは思えない迫力とドスの効いた声を出す村上巴に詰め寄られ、くるみと同じように今にも泣きそうになっていた。
このように強烈な個性を持った少女達が思い思いに喋るため実に騒がしい教室内であるが、何も騒がしい生徒ばかりではない。
「
「あっ、聖ちゃん……。あのね、あそこの木の枝に小鳥さんが留まってるでしょ……? あの子を描いてるの……」
「あっ、本当だ……。可愛いね……」
「うん、可愛いでしょ……」
例えば教室の窓際では、金色の髪に赤い瞳という日本人離れした儚げな少女・
そしてここにも、周りの喧騒も気にせず静かに会話をする少女が2人いた。
「――っていう企画をやる予定なんだよ」
「へぇ、そうなんだ……。凄いね、小梅ちゃん……」
教室のちょうど中心辺りにある1つの机を共有して小声で会話をしているのは、白坂小梅と、先日食堂で彼女に声を掛けた白菊ほたるだった。あの日以来、クラスが同じこともあって2人はすぐに仲良くなり、今では移動教室などで行動を共にするほどにまでなっている。
そして現在、放課後のお喋りとして小梅が題材に選んだのは、昨日杏から聞かされた208プロ初の劇場外イベントについてだった。
「それにしても、本当に小梅ちゃんって凄いよね……。ううん、小梅ちゃんだけじゃなくて、208プロの他のみんなも……。私、今まで1人でステージに立ったことなんて1回も無いから……」
「そ、そうかな……? た、確かにステージでは1人だけど、私のことを支えてくれる人達がいっぱいいるから、1人だなんて思ったことは無いよ……」
「そうなんだ……。凄いね……」
そう呟いて顔を伏せるほたるの声色には、地下劇場とはいえ華々しく活躍するクラスメイトに対する羨望と、ほんの少しだけの悲哀が含まれているように感じた。
「……ほたるちゃんは、ステージで歌ったりとかしないの?」
「え、えっと……。私はまだデビューしていないから、まだまだ歌ったりとかはできない、かな……?」
自分で答えながら首をかしげる仕草をするほたるに、小梅は彼女が候補生としてレッスンを重ねている最中であることを思い出した。その関係もあってあまり情報を出せないからか、以前彼女の所属する事務所について尋ねたところ、彼女は困ったように笑いつつも口を開かなかったことも一緒に思い出す。
「そ、そうなんだ……。ライブが決まったら言ってね……、絶対に観に行くから……」
「う、うん、ありがと、小梅ちゃん……」
小梅の言葉に、ほたるは顔を俯かせてそう答えた。照れ臭くて思わず視線を逸らしたと見ることもできるが、それにしては彼女の表情に差す陰が濃いように思える。もっとも彼女はいつも申し訳なさそうな表情をしているので、通常通りと言われればその通りなのだが。
「…………」
そんなほたるを、小梅は顕わになっている左目でじっと見つめていた。
* * *
一方、同時刻の食堂にて。
「おっ、美嘉に奏じゃん。こんな時間にいるなんて珍しいな」
奈緒と加蓮の2人が食堂で甘い物でも食べようとやって来たとき、そこには2人にとって非常に馴染みのある顔があった。しかし2人にとっては馴染みがあっても、他のアイドルにとっては自分達よりも遥か高みにいる売れっ子ということもあってか、それなりに混んでいる食堂の中で彼女達の周りだけがポッカリと席が空いていた。
「あら、奈緒に加蓮じゃない。今日は劇場に行かなくて良いの?」
「今日の公演は輝子ちゃんだから、私達は大丈夫。――一緒に座って良い?」
「どうぞどうぞー★」
ニカッと笑って快諾した美嘉によって、2人の座るテーブルに奈緒と加蓮が加わった。奈緒と加蓮は208プロに移籍してからしばらくテレビに出ていないこともあり、周りの少女達にとってこの4人が肩を並べる光景は久しく見ていないものだった。そんな4人がどんな会話を繰り広げるのか非常に興味津々なようで、彼女達は先程からチラチラとそちらを盗み見ている。
しかし4人は、そんな視線を気にする様子も無かった。おそらく普段から、視線を向けられることに慣れているのだろう。
「そういえば、奈緒と加蓮がこっちに戻ってくるのってそろそろだよね? 何かイベントとか企画してるの?」
「一応はな。杏さんに口外するなって言われてるから、あんまり詳しいことは言えないけど」
「ふふっ、208プロでの奈緒と加蓮を見られる最後の機会かもしれないし、ぜひとも観ておきたいわね」
「うん、私も2人にも観てほしいって思う」
普段から自分の本心を隠す傾向のある加蓮の素直な言葉に、美嘉も奏も一瞬だけ目を丸くして驚くものの、すぐにフッと柔らかな笑みを浮かべた。
「それにしても、もうすぐ2人が346プロに戻ってくるのかぁ」
「何だよ美嘉、アタシ達に戻ってきてほしくないって言うのか?」
「そうじゃないって! だって2人共、208プロに移籍して明らかに一皮剥けた感じじゃん? そう考えると、今まで以上に強力なライバルになりそうだなぁって思って」
「ふふっ、そんなこと言って、本当は凄く嬉しいくせに」
含みのある笑みを漏らしてそう言う奏に、美嘉は「そりゃあね」と笑みを浮かべた。それは肉食の大型ネコを連想させるような、戦意を顕わにした挑戦的なものだった。
「2人が208プロにいる間に、アタシ達も色々と場数を踏んでいるからね。2人が移籍した頃のアタシ達と同じだと思わないでよ」
「何だよ、随分と物騒だな」
呆れるような口調で苦笑する奈緒ではあるが、その目の奥には確実に闘志の炎が燃え上がっていた。奈緒の隣にいる加蓮など、もはやあからさまにギラギラした目を遠慮無しに美嘉へと向けている。
そんな3人を横で眺めながら奏はクスリと笑みを漏らし、ふいに思い出したように口を開いた。
「ところで凛さんのソロツアーが終わってから346プロに戻るってことは、戻ってから最初の仕事は“アイフェス”になるのかしら?」
「アイフェス?」
2人揃って首をかしげる奈緒と加蓮に、奏も美嘉も呆れるような表情を浮かべた。
「ちょっと、いくら今は208プロのアイドルだからって忘れたの? プロデューサーが企画した肝煎りの一大イベントでしょうが」
「あぁ、そういやそうだったな。正直208プロでのソロデビューに気を取られてて、それどころじゃなかったわ」
346プロ創立以来最大の野外イベント“346 IDOL LIVE FESTIVAL”についてそんな感想を漏らす奈緒に、奏達は改めて呆れの意を込めた溜息を吐いた。2人はほとんど面識が無いので気づかないが、見る人が見れば『何だか杏に似てきたんじゃないか?』という感想を抱きそうな光景である。
「でもまぁ、2人はそれがあったから、プロデューサーの方も敢えて話をしなかったのかもしれないわね。――その様子だと、最近発表されたステージ割りの草案もまだ見てないんじゃない?」
「えっ、何? そんなの出てるの? 超見たいんだけど」
「あー、ごめん、今は持ってないや。極秘資料だから、会社の外に持ち出すのは止められてるんだよね……」
「マジかぁ……。うわぁ、すっげー気になるなぁ……」
美嘉の言葉に奈緒と加蓮が落胆を隠せないでいると、
「あっ、あたし持ってるよ。――はいコレ」
奈緒の肩越しに後ろからニュッと出てきたのは、数枚の紙をホチキスで留めた簡易的な書類だった。その表紙には、でかでかとマル秘のマークが印字されている。
奈緒が目を丸くしてその書類を持つ腕を目で追うと、そこにいたのは、銀色のショートカットに色素の薄い色白な肌、そして狐を連想させる大きな吊り目をニタリと細める塩見周子だった。既にこの学校を卒業している大物の登場に、食堂の生徒達がより一層騒がしくなっている。
「ちょっと、周子! あなたなんで持ってるのよ! どこで誰が見てるか分からないんだから、会社の外で出しちゃ駄目じゃないの!」
そしてその瞬間、奏がまるで子供を叱る親のような口調で周子に詰め寄った。そもそも周子はもうこの学校の生徒ではないのでここにいるのは不自然なのだが、それ自体は奏も特に疑問に思っていないようである。
「大丈夫だって。ここはもの凄くセキュリティが厳重なんだから、どっかの記者が紛れ込んでる心配は無いよ」
「そういうことじゃなくて、普段から周りの目に気を付けていないと、万が一にも何が起こるか分からないでしょ? 大体あなたは自分の立場がよく分かって――」
年下であるはずの奏が周子に説教をしているのを横目に、奈緒と加蓮は興味津々といった表情でその書類に目を通していた。
ステージは全部で5つあり、それぞれ収容人数が異なっている。当然ながらより多くの動員を見込めるアイドルほど大きなステージに割り当てられるため、現在そのアイドルがどの位置にいるかを知る目安にもなる。もちろんその目安も、あくまで“音楽分野”に限った話ではあるのだが。
「凛さんは……、まぁ、当たり前のように一番大きい“RAINBOW STAGE”か」
「んで、アタシ達“トライアドプリムス”は……、良かった、“RAINBOW STAGE”だ。とりあえず凛さんの足を引っ張らないで安心したな」
「あっ、ちなみに奈緒と加蓮のソロ枠も用意されてるからね」
美嘉のその一言に、2人は驚きの表情を浮かべた。
「えっ、マジで! どこどこっ!」
「ステージ自体は一番小さな“RED STAGE”だよ。アタシ個人的にはもっと大きなステージでも良いと思うんだけど、確かにユニットのときとは音楽性がかなり違うから仕方ないだろうね」
「いや、それでもアタシ達にとっては充分すぎるくらい大きなステージだよ」
「正直、208プロでのソロ曲はもう歌えなくなるのかなって思ってたから、歌わせてもらえるってだけでも有り難いよ」
おそらく杏と武内Pが、水面下で色々と話し合った結果なのだろう。自分達のことを第一に考えてくれた2人に、奈緒と加蓮は胸がいっぱいになる想いがした。
「ところで、美嘉はどんな感じなんだ?」
「アタシは2番目に大きい“BLUE STAGE”に、莉嘉と一緒に“ファミリアツイン”として出るよ」
「へぇ、凄いね莉嘉ちゃん。見た感じ、他の同年代はほとんど“YELLOW STAGE”なのに」
「というか、まゆも志希もソロで“BLUE STAGE”に出るのか。紗枝と周子のユニットも同じステージだし、やっぱ武内さんって凄いんだなぁ」
「フフッ、周子の場合はそれだけじゃないけどね」
いつの間にかお説教が終わったらしい奏が奈緒達の輪に加わり、含みのある笑みを浮かべながら書類の或る個所を指差した。
奈緒と加蓮がその指差す先を見てみると、
「――あっ! 周子、おまえソロで“RAINBOW STAGE”に出るのかよ!」
お説教がよっぽど堪えたのかテーブルにぐったりと突っ伏していた周子に奈緒が話し掛けると、彼女はあっという間に立ち直って得意げな笑みを浮かべた。
「フフーン、凄いでしょー? これはもう完全に、アタシが同期の中で頭1個抜きんでたって考えて良いんじゃないかな?」
「あらあら、周子ったら、ついこないだまで紗枝と一緒に“RAINBOW STAGE”に立てないのを拗ねてたじゃない」
「ちょっ、奏! それは言わないでよ!」
色白の頬を紅く染めて奏に駆け寄る周子の姿に、奈緒と加蓮は思わずほっこりとした笑顔となっていた。
そしてそんな2人を、美嘉が意外そうに目を丸くして見つめていた。
「どうしたんだよ美嘉、そんな顔して」
「……いや、ちょっと変わったかなって思ったのよ。移籍する前の2人――特に加蓮なんて、ちょっとでもアタシ達に追い抜かれるようなことがあったら、すぐに思い詰めたような顔になってたじゃん」
「……そうかもね。でも、今は別に何とも思ってないって訳じゃないよ? 今は周子の方がソロとして売れてるけど、私だってソロで何万人も埋められるようなアイドルになりたいって凄く思ってるし。――何ていうのかな、私なりに段階を踏んでトップに上がっていこう、って思えるようになったって感じかな? 上手く説明できないけど」
そう言ってニコリと笑ってみせる加蓮に、美嘉は眩しそうに目を細めた。
「――本当、強力なライバルになったと思うよ」
ポツリと呟かれたその言葉は、誰の耳にも届くことなく消えていった。
「それにしても、やっぱり“RAINBOW STAGE”にもなると顔触れもかなりのもんだな。李衣菜さんなんてソロとバンドの両方で出演するし、卯月さんとか楓さんとかも当たり前のようにこのステージだもんな」
「未央さんは今タレント活動1本だから出演しないっぽいけど、やっぱり“奇跡の10人”って今でも勢いが凄いもんねぇ。そう簡単に抜かしてくれないでしょ」
社外秘の資料を一緒に眺めながら、そこら辺にいるアイドルファンのようにはしゃいでいる奈緒と加蓮に、美嘉達3人は暖かい目で見守ると共にその口元を手で不自然に隠していた。しかし指の隙間が僅かに開き、その隙間からニヤニヤと口角が上がっているのが見て取れる。
2人はそのことに気づかずに資料を眺めるのみだったが、数分ほどそうしていた頃、
「――あれっ、何だこれ? “RAINBOW STAGE”の欄にある……『武内・美城合同ユニット(仮)』?」
唐突に2人は満面の笑みから戸惑いへと表情を変え、不思議そうに首をかしげた。
* * *
都内の一等地に居を構える346プロ本社ビル、その中層階に位置するチーフプロデューサー室のドアには、現在『重要な打合せのため立入りを禁ず』と書かれた張り紙が貼りつけられていた。隙あらば部屋に入ってくるようなアイドル達が多い中で、重要な打合せがその部屋で行われるときに見られる光景である。
部屋の中へ視点を移してみると、中央に鎮座する応接セットに2人の人物が腰を下ろして向かい合っているのが見て取れた。
「それでは、以上で契約の説明は終了となります。何かご質問はございますでしょうか?」
1人は、この部屋の主でもある武内だ。会社では滅多に素の姿を見せることのない彼は、現在も(幼いアイドルが見れば恐怖のあまり泣き出しかねないほどに)真剣な顔つきで目の前の相手を見据えている。背もたれに背中を付けることなくピンと背筋を伸ばしているため、元々大柄な体がさらに大きく見える。
一方、そんな迫力満点の彼を目の前にしているのは、
「おー、これが契約書ってヤツかぁ! フレちゃん、本物初めて見たよー! 偽物も見たこと無いけど」
吸い込まれそうなほどに大きなエメラルドグリーンの目をクリクリと動かして、机の上に置かれた契約書をまじまじと見つめる少女だった。透き通るように白い肌、けして染めたのでは表現できない鮮やかな金髪は外国の血を感じさせるが、それに反して彼女自身の顔立ちはどこか日本人を連想させるものである。
それもそのはず、彼女――宮本フレデリカは、日本人の父とフランス人の母をもつハーフである。もっとも本人はフランス語をまったく喋れず、母親も日本に長く住んでいる内にフランス語を忘れてしまったらしいが。
彼女は2ヶ月前に、武内が街でスカウトしたアイドル候補生である。いや、アイドル候補生“だった”と表現した方が適切か。なぜなら彼女はつい先程まで“候補生”という単語が取れる段階にステップアップするための説明を受け、それを証明する契約書を渡されたばかりなのだから。
「よし、それじゃ早速サインを書いちゃおう! この日のために色々可愛いの考えたんだー。……あれ、ペン持ってないや。プロデューサー、ペン持ってなーい?」
「あの、宮本さん……。未成年の方は契約の際に保護者の同意が必要となりますので、一度その契約書を持って帰って保護者の方とよく話し合ってから――」
「そんなこと言われても、アタシはもうこの事務所でアイドルやってくことは決めてるもん。それにアタシのプロデュースも、プロデューサーがやってくれるんでしょ? だったら何も言うこと無いよね」
フレデリカの言葉に、武内は困ったときによくやる首の後ろに手を回す仕草をした。しかしその口元には微かに笑みが浮かんでいるので、照れ隠しの可能性も充分に考えられる。
そんな彼の反応に満足したのか、フレデリカは「もう、プロデューサーは真面目さんだなぁ」と満面の笑みで楽しそうに言いながら、契約書をクリアファイルに挟んで自分の鞄に大事そうにしまい込んだ。
「それじゃ、今日はもうこれで終わりで良いのかな?」
「はい。入口まで見送ります」
話が済んだことで2人は席を立ち、武内がさりげない動きでフレデリカをエスコートしながらドアを開けた。
すると、
「きゃっ――!」
ドアのすぐ傍から聞こえてきた小さな悲鳴に、フレデリカの方を向いてドアに手を掛けていた武内がハッとした表情で振り返る。
そこにいたのは、
「わあっ! 本物のかな子ちゃんだっ! 握手してもらっても良いですかっ!」
「あ、うん! もちろんだよ! もしかして新人さん?」
「はいっ! 宮本フレデリカっていいます!」
目の前に現れた“奇跡の10人”の1人である三村かな子の姿に、フレデリカが興奮したように握手をせがみ、かな子は一瞬戸惑いながらも笑顔でそれに応じた。そのとき、手に持っていた資料らしき紙をどうしようか迷う素振りを見せ、最終的に脇に挟んで対応していた。
一方武内は、かな子がここにいることに首をかしげていた。
「何かご用ですか、三村さん?」
「えっと……、今度の“アイフェス”用に開発してるメニューについて、ちょっと相談したいことがあったんですけど……あっ! でも大丈夫ですよ、その子の用事が終わってからで!」
「いえ、後は入口まで見送るだけですので、それまで中でお待ちになっていただければ――」
プルルルルル――。
武内の言葉を遮るように、彼のポケットから着信を知らせる電子音が鳴った。「すみません」と小さく断りを入れてから、武内はその場を少し離れてその電話を取った。
「もしもし、武内で――えっ? トラブル?」
どうやら担当アイドルの誰かの現場でトラブルが起こったらしく、彼の表情に目に見えて焦りが浮かんでいる。おそらく現場に駆けつけないと解決しない類のもののようで、頻りにかな子とスマートフォンの間で視線を行ったり来たりさせている。
そしてそれを敏感に察知したかな子は、
「大丈夫ですよ、プロデューサー。私はいつでも良いですから、その子の現場に行ってあげてください」
「……ありがとうございます、三村さん。――宮本さん、行きましょう」
「うん、分かった。――失礼します!」
深々と頭を下げて走り出す武内に、かな子に大きく手を振りながら彼の後を追うフレデリカ。
そんな2人の姿を、かな子は廊下の角を曲がって見えなくなるまで見送った。
「…………」
そしてかな子は、その手に持つ紙に目を落とした。数枚の紙をホチキスで留めた簡易的な書類であるそれの表紙には、でかでかとマル秘のマークが印字されている。“アイフェス”の企画書であるそれを、かな子はおもむろにパラパラと捲り、そして或るページで止めた。
アイドルがどのステージに出演するかが書かれたそのリストは、当然ながらまだ企画段階なので変更の可能性も充分に考えられる。今でも水面下では様々なアイドルが出演枠を懸けて(主にプロデューサーの代理戦争という形で)攻防を繰り返し、刻一刻とリストの状況は変化している。
そんなリストの中に、次の一文があった。
三村かな子――――RED STAGE。