怠け者の魔法使い   作:ゆうと00
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第7話 『孤独』

 その少女は、ずっと1人だった。

 幼い頃からコミュニケーションが苦手で、“誰かに話し掛ける”という普通の人ならば何でもないように思えることができなかった。子供というのは自分達と少しでも違うところがある者にはとにかく厳しく、自然と周りの人間から省かれるようになった彼女はますます1人となっていった。

 しかしその少女は、ずっと1人ではなかった。

 彼女の傍には、常に“あの子”がいた。周りの人間がどれだけ彼女を冷遇しようとも、その子だけはけっして見捨てることはなかった。少女も、けっして裏切ることのない存在に安心しきり、いつもその子と一緒に遊んでいた。

 しかしそれが、少女の孤独をさらに深めることとなった。

 その子は、少女以外には見えなかった。

 見えない存在に話し掛ける少女の姿は、周りの人間には奇異に映り、ますます少女の周りから人がいなくなった。それまでは少女に同情的だった大人も、少女のそんな姿を見た途端に子供達と同じ目を彼女に向け、離れていった。ついには少女にとって最後の砦であるはずの両親ですら、そんな大人達の仲間入りを果たし、一つ屋根の下で暮らす少女のことを腫れ物のように扱い、仕事を言い訳に家にすらあまり寄りつかなくなった。

 しかしそれでも、少女は寂しいと思うことはなかった。自分の傍には常に“あの子”がいて、けっして自分を裏切ることはない。どれだけ自分の周りから人がいなくなっても、“あの子”さえいてくれたらそれで良かった。

 

 

 

 そんな彼女に、転機が訪れた。

 “あの子”と一緒に夜の散歩に出掛けていたとき、年上の綺麗な少女が話し掛けてきた。小学生の少女が1人で夜出歩いていることを危険に思い、声を掛けずにはいられなかったという。別に何かあっても“あの子”が守ってくれるので心配いらないと思っていた少女だったが、久し振りに人間から心配されたことが素直に嬉しかった。

 それからしばらくは、その女性と一緒に過ごすことが多くなった。共働き(という名目)で少女の両親が家を空けるとき、その年上の少女がお気に入りのホラー映画を持って少女の家を訪れるようになった。自分のすぐ傍に人肌がある心地よさに、少女は以前よりもよく笑うようになった。その頃からか、今まで自分を避けるだけだった周りの人間が、時々意識が抜けたようにこちらを見つめるときが多くなった。

 そんな日々が半年ほど続いたある日、年上の少女がアイドルになることとなった。元々彼女は趣味で楽器をやっており、スタジオを借りて練習していたときにスカウトされたらしい。遠くに行ってしまうことを寂しく思った少女だったが、彼女の幸せを願って応援することを選んだ。その夜はベッドに潜り込んで静かに泣いたが、傍にあの子がいたので乗り越えられた。

 このまま彼女との交流も無くなってしまうと思っていた少女だったが、なんと彼女はユニットのメンバーを連れて戻ってきた。住まいは以前の家とは違う丘の頂上になったが、彼女は依然と同様に少女と交流を持ち、さらにはメンバー達と住む家に少女を招待するようになった。ユニットのメンバーも少女を快く迎え入れてくれ、少女の人間の友人は以前よりも多くなり、少女はますますよく笑うようになった。

 

 

 

 そして少女の笑顔が多くなるのと反比例して、“あの子”と会話する頻度が少なくなっていった。

 

 

 *         *         *

 

 

「さてと……」

 

 トイレの中に閉じ込められた杏は、叫んでもドアを叩いても無駄だと知るやすぐにそれを止め、蓋を閉じた便器に腰掛けて考え込んだ。

 明らかにこれは、誰かが悪戯でやったことではない。というより、人間業ではない。杏は特に幽霊の類を信じているタイプではなかったのだが、目の前で不思議な出来事が起こっているのを無視して頑なに存在を否定するほどこだわっているわけではない。そもそも杏自体に、こだわりというものが無い。

 では仮に幽霊というものが実在するとして、彼(もしくは彼女)の目的は何だろうか。

 

 ――って、このタイミングであの台詞じゃ、1つしかないけどね……。

 

 杏は頭の中でそう結論づけると、1回大きく深呼吸をして、トイレの中を見渡し、口を開けた。

 

「いるんでしょ? 話をしようよ。……名前が分からないから、ユーレイさんって呼ばせてもらうね。それで、ユーレイさんが何を望んでるのか、杏に聞かせてくれないかな?」

 

 自分以外誰の姿も無いトイレに向かって、杏はそう呼び掛けた。返事は無い。

 

「……もし話をする気があるんなら、杏に分かる形で返事をくれないかな?」

 

 それでもめげることなく杏が呼び掛けると、彼女の背後にある唯一の小窓がバンッ! と大きな音をたてた。ガラスが割れるんじゃないかという勢いで叩かれたそれに、杏はビクッ! と肩を跳ね、そして息を呑んで後ろを振り返った。

 小窓には、小さな子供らしき手形がくっきりと浮かび上がっていた。赤黒いそれは、まるで血のようだった。

 

「……もうちょっと穏やかな返事でお願いね」

 

 杏が冷や汗混じりにそう言うと、今度は彼女のすぐ傍にある壁が、ドン、と叩かれた。先程よりは音も小さく、壁なので壊れる心配は無い。意外と素直な性格なのかも、と杏は思った。

 

「よし、それじゃ話をしようか。――ユーレイさんは、小梅ちゃんの背後霊か何か?」

 

 杏の質問に、見えない存在からの返事は無かった。

 

「……イエスなら1回、ノーなら2回壁を叩いて」

 

 その瞬間、ドン、と壁が鳴った。

 

「ユーレイさんは、小梅ちゃんが小さい頃から一緒にいたの?」

 

 ドン。

 

「そっか、じゃあ幼馴染みだ。んで、さっきの『奪うな』っていうのは、小梅ちゃんを自分から奪わないでくれ、ってことかな?」

 

 ドン。

 

「ふむ……。別に小梅ちゃんがアイドルになったからって、杏はユーレイさんに『小梅ちゃんから離れろ』なんて言わないよ?」

 

 ドンドン! と先程よりも強めの音が返ってきた。

 その答えに、杏は考える素振りを見せて、

 

「……ってことは、小梅ちゃんの方から離れていくのを心配しているって感じ?」

 

 やや間を置いて、ドン、と弱々しい音が鳴った。

 

「もし気分を悪くしたらごめんね? もしかして小梅ちゃん、昔は友達がいなかったとか?」

 

 ドン、と肯定の返事が鳴ったことで、杏は得心のいった感じに頷いた。

 

「成程、何となく分かったよ。昔は自分だけが小梅ちゃんの友達だったのに、どんどん人間の友達が増えていったことで、いつか自分のことを見てくれなくなるんじゃないかって思ったんだね?」

 

 ……ドン。

 

「李衣菜達と仲良くしていたときには、こうやって出てきたりしたことあるの?」

 

 ドン、ドン。

 

「ふむ、つまりそれくらいならば我慢できてたってことだね。でも杏のスカウトに乗ってアイドルになったりしたら、不特定多数の人に小梅ちゃんの存在が知られて、今までとは段違いに彼女の世界が広がっちゃう。だからこうして強硬手段に踏み切った、と」

 

 ドン!

 

 一際大きな音に、杏は「ふむ……」と顎に手を当てて考え込んだ。

 とりあえず、ここまでは順調に行っている。こうして杏の質問に素直に答えているところからして、元々人を襲うような悪霊などではなかったのだろう。特別危険が差し迫っているというわけではないことが分かり、杏は徐々に普段通りの平常心を取り戻していった。

 この際だから気になっていたことを訊こう、と杏は口を開いた。

 

「ちょっと話が逸れるんだけど、小梅ちゃんと一緒にいると、時々小梅ちゃんに見とれちゃうときがあるんだよね。まるで何かに“取り憑かれている”みたいに。――それって、いつもそうなの?」

 

 ドン、と音が鳴った。

 

「あれって、ユーレイさんがあの子の傍にいるようになってから起こり始めたの?」

 

 ドン、ドン。

 

「あれ、そうなんだ。ってことは、ユーレイさんの仕業じゃないのか? いや、無意識に引き起こしているって可能性も――」

 

 ドンドン!

 

「ああ、ごめんごめん! そうだよね、小梅ちゃんに友達ができるのを嫌がってるのに、わざわざ小梅ちゃんが注目されるようなことをするわけないもんね」

 

 ということは、我を忘れて小梅に見とれる現象は幽霊による超常現象ではなく、純粋な小梅の魅力によって引き起こされていることになる。だとしたら、彼女はアイドルとして充分すぎるほどに強力な武器を、すでに持っていることになる。

 無名のアイドルにとって一番大変なのは、“いかに自分に対して興味を持ってもらえるか”だ。それを軽々とやってのける彼女は、間違いなくアイドルとなる器を持っている。何としてでも小梅をアイドルにしなくては、と杏は決意を新たにした。

 差し当たっては、彼(または彼女)を説得しなくてはいけない。

 

「それじゃユーレイさん、周りの人達が小梅ちゃんに見とれるようになったのはいつから?」

 

 …………。

 

「ああ、イエスかノーで答えられないと駄目か。……さっきは『奪うな』って喋られたくせに」

 

 ドンッ!

 

「はいはい、ごめんごめん! うーん、それじゃさ、その現象が起こるようになったときに、小梅ちゃんの中で何か大きな変化があった?」

 

 考えを巡らせていたのか、やや間を空けて、ドン、と返事が来た。

 

「それってさ、もしかして人間の友達ができた辺り?」

 

 ドン。

 

「やっぱりね。人間の友達がいない子にとっての“大きな変化”だから、そんな辺りだと思ったよ。――正直に答えてね。ユーレイさんから見て、人間の友達ができる前とできた後、どっちの小梅ちゃんの方が魅力的?」

 

 …………。

 

「前なら1回、後なら2回」

 

 ……ドン、ドン。

 

 返事が少し遅れたのは、おそらく自分の答えが杏の説得を後押しすることに気づいていたからだろう。それでもなお自分の気持ちに正直に答えた辺りに、彼(もしくは彼女)の中でも何かしらの葛藤が垣間見える。

 

「でしょう? ユーレイさんが小梅ちゃんを大事に想うのは分かるけど、だからって小梅ちゃんを狭い世界に閉じ込めちゃ駄目だよ。小梅ちゃんはとても魅力的な女の子なんだから、もっと広い世界に連れてってあげないと」

 

 …………。

 

「心配?」

 

 ドンッ!

 

 その音は間違いなく、今までで一番大きな音だった。壁を叩くだけのシンプルすぎるコミュニケーション手段だが、目に見えない存在の感情までも手に取るように分かる気がして、杏は思わず笑みを漏らしてしまった。

 

「小梅ちゃんだったら、たとえどれだけ人気になろうと、ユーレイさんのことを忘れるなんて有り得ないと思うけどね。あんなにホラーやスプラッタに目を輝かせてるような子だよ? あの子にとってユーレイさんは、孤独を紛らわすための穴埋めなんかじゃなくて、もはや自分の一部みたいなものだと思うよ」

 

 …………。

 

「それとも、小梅ちゃん自身が心配? そっちも大丈夫。杏のプランは常設の劇場だけで活動する地下アイドルだから、テレビとか色んな業界に営業を掛ける必要は無いの。だからユーレイさんが考えてるような“いかがわしいこと”は絶対にさせないよ。――まぁ、杏が現役のときにも、プロデューサーがそういうのを完璧にシャットアウトしてたからね」

 

 …………。

 

「そもそも“枕営業”なんてリターンがリスクに見合ってないし、そういう悪評って業界全体に悪影響を与えるんだよね。業界全体が健全に活性化していることが結果的に自分達の利益に繋がる、っていうのが346プロの社長の考えでね、そういうことは絶対にさせないことにしているんだよ。当然、杏も同じ考え」

 

 …………。

 

「悪質なファンも同業者からの嫌がらせも、杏が現役のときに散々経験してきたからねぇ。その度にプロデューサーがどんな“対応”をしてきたか杏はすぐ傍でずっと見てきたから、もし小梅ちゃん達にそういうのが降り掛かってきたとき、杏ならバッチリ対応できるよ?」

 

 …………。

 

「うーむ、まだ心配って感じだねぇ……。だったらユーレイさんが、小梅ちゃんのことを守ってくれると嬉しいな。杏だって、いつも小梅ちゃんに貼りついてるわけにもいかないし。んで、ついでに他のアイドルも守ってくれると嬉しいんだけど」

 

 ドン。

 

 どうやら小梅を守ることに関して否は無いようだ。

 

「うん、ユーレイさんが守ってくれると心強いよ。それでも杏のせいで小梅ちゃんの身に何かあったら、そのときは杏のこと呪い殺してくれても構わないよ? それくらいの心構えで、小梅ちゃん達のことを預かってるつもりだからね」

 

 軽口を叩くようにとんでもないことを口走る杏だったが、しばらく経っても彼(または彼女)からの返事は無かった。

 しんと静まり返ったトイレの中で、杏は壁から聞こえてくるであろう物音に備えて息を殺す。

 やがて、

 

 ドン。

 

「……許して、くれるんだね?」

 

 どたどたどたどた――!

 

 杏の問い掛けに壁を叩く音は聞こえなかったが、その代わりにドアの向こうから足音が聞こえてきた。聞くだけでも焦っているのが分かる足音が、みるみるこちらに近づいてくる。

 そして勢いよく、ドアが開けられた。

 

「杏ちゃん、無事ですか!」

 

 額を汗でびっしょり濡らした菜々が真っ先に顔を出し、彼女の背中越しに心配そうな表情の輝子が覗き込んできた。李衣菜らバンドメンバーも続々とトイレ前に到着し、杏の姿を見てホッと胸を撫で下ろす。そしてその中には、小梅の姿もあった。

 

「はいはい、杏は無事だよー。それにしてもひどいね、杏がトイレに閉じ込められてるときに、みんなはリビングで仲良く映画鑑賞だなんてさー」

「何言ってるんですか! キッチンの食器が独りでに割れたと思ったら、リビングがいきなり揺れ出して、ナナ達慌てて庭に逃げたんですよ!」

「そうそう! しかもただの地震じゃなくて、私の家だけ揺れてたんだよ! まさかポルターガイストが本当に起こるなんて思わなくて――」

「李衣菜なんか、ガキみたいに泣きべそ掻いてたもんな」

「な、泣いてなんかないし!」

 

 ぎゃーぎゃーと騒ぐ李衣菜達を尻目に、杏は「地震なんて全然来なかったけどな……」と首をかしげていた。

 と、そのとき、皆の後ろに隠れるようにしてこちらを心配そうに見つめる小梅と目が合った。すると彼女はちょこちょこと可愛らしい動きで杏の傍まで駆け寄ると、まるで自分が杏を閉じ込めたような勢いで何度も頭を下げた。

 

「ご、ごめんなさい、杏さん! “あの子”のせいで、こんなことになっちゃって……」

「あー、大丈夫だって。おかげで幽霊と話ができるなんて貴重な体験させてもらったし。――それに、ちゃんとお許しも貰ってきたから、安心して小梅ちゃんをスカウトできるよ」

「……ス、スカウト?」

 

 戸惑うように問い掛ける小梅に、杏はにっこりと笑って頷いた。

 

「映画観てたときに話してたことだけど、今からちょっと時間貰えるかな?」

 

 杏の言葉で皆察したのか、周りの面々は納得したような笑みを浮かべながらその成り行きを見守っていた。

 そして、

 

「……え?」

 

 ただ1人、本人の小梅だけが事情を飲み込めず困惑していた。

 

 

 *         *         *

 

 

 すっかり夜も更け、346プロの本社ビルも人の姿がほとんど無くなった。昼間は日差しが入り込み大勢の人の声で騒がしいここも、夜となるとほとんど電気が消えて暗くなり静まり返っている。

 そんな346プロの廊下を歩く、1人の女性の姿があった。食欲をそそる良い匂いを漂わせる紙袋(“大原ベーカリー346支店”と大きく書かれている)を胸に抱え、かつかつとリズム良く足音を響かせながら歩くその様子はどこか楽しそうだ。というより、今の彼女の表情は明らかにニコニコと嬉しそうだ。

 やがて彼女の視線の先に、薄暗い廊下の中で浮かび上がって見えるほどに光り輝くドアがあった。もちろんドアそのものが光っているわけではなく、部屋から漏れた明かりが廊下を照らしている。つまりそれは部屋の中に誰かがいるということであり、さらに言うとそのドアには“チーフプロデューサー室”と書かれているため、自ずと誰がその中にいるか分かる。

 それを確認した女性は笑みを深め、ドアの前に立ってノックを――

 

「――ねぇ、プロデューサーさぁん?」

 

 部屋の中から少女の声が聞こえ、女性の表情が笑顔から困惑顔へと変化した。しかし一瞬止まった拳を再び動かしてドアを軽くノックすると、部屋の中からの返事も待たずにドアノブを回してドアを開けた。

 突然の音と来客に、椅子に座っている部屋の主が一瞬びくっと肩を跳ね、テーブルに両手をついて身を乗り出していた少女が悠然と振り返る。その少女はセミロングの茶色い髪を緩くふんわりと纏め、あちこちにリボンをあしらった可愛らしい服を身につけている。若干目尻の下がった大きな黒い目が特徴で、じっと見つめているとそれに呑み込まれていきそうである。

 その少女――佐久間まゆは、その女性の姿を見掛けるとにっこりと笑みを深くした。

 

「あらぁ、こんな時間までお疲れ様です、ちひろさん」

 

 薄いブラウンの長い髪を緩く三つ編みにして横に垂らし、明るい緑色の事務服に身を包んだその女性――千川ちひろは、まゆの挨拶に彼女と同じようににっこりと笑って返した。

 

「まゆちゃんも、お疲れ様です。こんな時間までどうしたんですか?」

「いえ、プロデューサーさんの部屋に明かりが点いていたので、飲み物の差し入れをしに来たんですよ」

 

 まゆはそう言って、テーブルに置いていた缶コーヒーに優しい手つきで触れた。

 

「そうですか。私はパンでしたから、ちょうど良かったですね」

 

 そしてちひろも同じように、持っていた紙袋を見せるように軽く挙げた。まゆは今気づいたといった感じでほんの少し目を見開き、そしてにっこりと笑みを浮かべた。それに応えるように、ちひろも口元に笑みを浮かべる。

 そして2人は、そのままじっと互いを見つめて黙り込んだ。互いに動こうともせず、口を開こうともせず、ただ佇んでいるだけという状況に、部屋の主であるはずの武内は居心地悪そうに首の後ろに手を遣って困惑している。

 そして、おずおずといった雰囲気でまゆに話し掛けた。

 

「……佐久間さん、もう遅いのでお帰りになったら如何でしょう?」

 

 その言葉に、まゆは武内へと視線を向け、再びちひろへと視線を戻し、そして再度武内へと視線を向けた。

 

「……ふふ、プロデューサーさん、まゆを心配してくれているんですかぁ? ありがとうございます。――それじゃ、まゆはそろそろ帰りますね」

「はい。タクシーを呼んでおきますので、それに乗って帰ってください。代金はいつものように、領収書を貰って後で渡してくだされば結構です。――コーヒー、ありがとうございました」

「いいえ、そんなお気になさらずに。プロデューサーさんも、あまり遅くまで仕事をなさらないでくださいね」

 

 まゆはそう言って武内に頭を下げて、そしてついでとばかりにちひろを一瞥して頭を下げると、武内にニコニコと手を振りながら部屋を出ていった。

 ちひろはしばらくの間彼女が出ていったドアをじっと眺めていたが、やがて武内へと顔を向けると手に持っていた紙袋を差し出した。

 

「はい、私からも差し入れです。今日も遅くまで働いてるだろうって思いまして」

「ありがとうございます。大原さんの作るパンは冷めても美味しいので、とても助かります」

 

 ほとんど表情の変化に乏しい彼だが、そう言って頭を下げたときの口元は確かに微笑んでいた。

 その反応に安心したように、ちひろはにこりと笑みを浮かべた。

 そして、先程まゆが出ていったドアへと視線を向ける。

 

「まゆちゃんとは、よくこうやって話をするんですか?」

「はい、こうして差し入れをくださったりしてくれます。残業している自分を気遣ってくださるのは有難いのですが、できれば仕事が終わった後はゆっくりと体を休めてほしいのですが……」

「そのこと、まゆちゃんには?」

「前に1回言ったことがあります。彼女もそれを聞き入れてくれたのか、最近は以前ほど頻繁にはいらっしゃらなくなりました」

「……つまり、以前は頻繁に来てたということですね」

「はい、そうですが……。千川さん、何か気に掛かることでも?」

「……そうですね。ちょっと」

 

 武内の問い掛けに、ちひろは苦笑いを浮かべて首を縦に振った。

 佐久間まゆは元々読者モデルをしていたのだが、街を歩いていた武内と“運命的な出会い”をしたらしく、わざわざ読者モデルを辞めて346プロに押し掛けてきたことでアイドルとなった。数ヶ月の候補生を経てデビューしてからはまさに破竹の勢いで売れっ子となり、“奇跡の10人”の次代を担う逸材になるのでは、と大いに期待を寄せられている。

 そんな彼女だが、時々こうして武内に対する看過できない“依存性”が垣間見えるときがある。前に仕事で些細なミスをしたときは、実際には大した影響の無いことだったにも拘わらず「失敗したら褒めてもらえない……」とこの世の終わりのような深刻な表情で呟いていたという。

 

「プロデューサーさんへの想いがそのまま彼女のモチベーションになっているので、一概に否定することはできないんですが……、やはりアイドルとしては少し問題かもしれませんね……」

「……申し訳ありません。私がもっとしっかりしていれば……」

「いいえ、プロデューサーさんが気になさることではありませんよ。まゆちゃんもしっかりと良識を持った子なので、大きな問題に発展することは無いと思いますし……」

「はい。そうならないように、私が全力で佐久間さんをお守りしていきます」

 

 力強くそう宣言した武内に、そういうことを言うからまゆちゃんもますます夢中になっちゃうんですけどね、とちひろは内心苦笑いをした。

 

「ところでプロデューサーさん、パンの差し入れをしておいて何なんですけど、これから一緒に呑みにいきませんか?」

「えっ? しかし仕事が――」

「大丈夫です、明日でもできますから。杏ちゃんの言葉を借りるわけではありませんが、『明日できることは明日やれば良い』んですよ。特にプロデューサーさんの場合は、放っておくと働きづめになっちゃいますから」

「しかし、せっかく千川さんが持ってきてくれた差し入れが――」

「明日の朝に食べれば良いですよ。比較的日持ちするものを選んできましたから、大丈夫ですよ」

 

 その気配りの良さに、まさか最初からそれを狙っていたのでは、と武内は疑いたくなったが、彼女自身は武内を気遣ってしてくれているので、素直にその好意に乗っかることにした。

 

「……分かりました。行きましょう」

 

 そう言って帰り支度を始める武内に、ちひろは嬉しそうな笑みを浮かべて頷いた。

 と、そのとき、テーブルに置いていた武内のスマートフォンがブルブル震えた。

 

「もしかして、大事なメールですか? 私のことは気にしなくて大丈夫ですよ」

「……いえ、どうやら双葉さんのようですね」

「杏ちゃんから?」

 

 思わぬ人物からのメールにちひろが興味を示す中、武内は杏から届いたメールを読んでいく。

 そして、

 

「――――!」

 

 まるで担当アイドルに引退宣言でもされたかのように、大きな衝撃を受けて目を見開いた。

 

「どうしたんですか、プロデューサーさん?」

「――いったいどこで――まさか多田さんの家に――なぜ気づかなかった――なんて失敗を――」

「ちょ、ちょっと! プロデューサーさん、本当にどうしたんですか!」

 

 深刻な表情で何かをぶつぶつ呟く武内に、ちひろが心配した表情で彼へと駆け寄り、彼の持っているスマートフォンを覗き込んだ。

 画面には大きく写真が映っており、李衣菜と彼女のバンドメンバー4人と杏、そして見知らぬ少女が3人映っていた。おそらくこの3人が、杏の事務所で働く新しいアイドルなのだろう。

 それにしても、

 

「……この写真に映ってる、右目を隠した金髪の女の子、随分と目を惹かれますね。確かに見た目凄く可愛いですけど、何だかそれ以上に惹きつけられるっていうか……」

「……その女の子、多田さんの家に出入りしていたらしいです。それで本日、双葉さんがスカウトをしたそうで……」

「へぇ、そうなんですか。――プロデューサーさん、ひょっとして悔しがってますか?」

「……はい、正直、なぜ自分で見つけられなかったのかと後悔しています。多田さんの家には何度も行っているのに、彼女の存在に気づくことができませんでした。もし見掛けたら、絶対にスカウトしていたというのに……」

 

 普段滅多に感情を表にしない武内がここまで悔しそうにしている様子を見て、ちひろは真剣な眼差しで写真に映る金髪の少女を見つめていた。そして彼女の隣で、現役時代にもよく見せていたドヤ顔でピースサインをする杏へと視線を移す。

 

「……これはまた、社長が面白がりそうですね」

 

 そしてぽつりと、ちひろは呟いた。

 

 

 *         *         *

 

 

 次の日、小梅と共に彼女の自宅へ向かった杏は、彼女の両親に娘をアイドルにするために東京へ連れて行くことを許してもらうよう頼み込んだ。2人共最初は杏の姿を見てびっくりしていたが、小梅のことに関してはやけにあっさりと了承した。杏や小梅のことを信じているという口振りではあったが、そのときの両親の表情がどこかホッとしたようなものだったことが、杏達にとって心にしこりの残る原因となった。

 とにかく、こうして正式に小梅がアイドルになることとなった。杏・菜々・輝子の3人は東京に戻るべく李衣菜達と別れると、人の少ない時間帯を狙って駅に向かい、新幹線に乗り込んだ。

 

「いやぁ、李衣菜と仕事の打合せで来ただけだったのに、まさかあんな掘り出し物に出会うなんてねぇ」

 

 ニコニコと機嫌良さそうに笑う杏に対し、菜々と輝子はぐったりした様子で背もたれに寄り掛かっていた。こういうだらだらした格好は杏の専売特許なのに、今はまるで逆の光景になっていた。

 

「まったく、心が安まる暇がありませんでしたよ……。テレビで観ていたアイドルと一緒に生活ってだけでも緊張しっぱなしだっていうのに、そのうえあんな心霊現象に遭遇するなんて……」

「フヒ……、で、でも楽しかった……。今まで誰かの家にお泊まりなんて、無かったから……」

「2人共、結構馴染んでたじゃない。菜々さんは家事を取り仕切ってみんなから感謝されてたし、輝子ちゃんなんてメンバーとセッションしたんでしょ? かなりの逸材だって、みんな褒めてたよ?」

「そ、そんな逸材だなんて……。フヒ……」

「良かったですね、輝子ちゃん! 小梅ちゃんとも仲良くなって、しかも一緒にお仕事もできるんですから! ――そういえば杏ちゃん、小梅ちゃんはいつ頃こちらに来るんですか?」

「色々と転校の手続きとかしなくちゃいけないから、大体1ヶ月くらいは先になるかなぁ。今まで仲良くしてた涼ちゃん達と離れさせちゃうのが心苦しいけど」

「フヒ……、小梅ちゃんがこっちに来たら、小梅ちゃんの家に遊びに行く……」

「そうですね! 寂しいなんて感じさせないくらいに、ナナ達が小梅ちゃんと仲良くなれば良いんですよ!」

 

 互いに顔を見合わせて微笑む菜々と輝子の光景を、杏はボーッと力の抜けた目で見つめていた。

 そして、ふいに窓へと視線を逸らした。きらきらと太陽の光を反射させる海が、窓いっぱいに広がっている。

 

「……ねぇ、2人共」

 

 呟くような杏の呼び掛けに、菜々と輝子が揃って彼女の方を向く。

 

「李衣菜達の生活を見て、どう思った?」

「アイドルのユニットメンバーでの共同生活ってことですか? 何だか素敵ですよね! 修学旅行で友達と旅館に泊まったときのことを思い出します! 懐かしいですねぇ!」

「えっ? 修学旅行が懐かしい?」

「……はっ! いやいや! 別についこの間だったんですけど! ほら! ほんのちょっと前のことでも、つい『懐かしい』って言っちゃうじゃないですか! そういうことですよ! ね!」

「いや、そんなに力説しなくても……。――輝子ちゃんはどうだった?」

「フヒ……、わ、私も、た、楽しそうだなって、思った……。わ、私はずっとぼっちだったから、ああいうの、結構憧れる……。フヒ……」

「そっかそっかー、2人共好意的な意見みたいだね。それじゃさ――

 

 

 ――2人共、杏の家で暮らさない?」

 

 

「えっ?」

「フヒッ?」

 

 2人分の困惑の声を乗せながら、新幹線は東京へと走っていく。



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