怠け者の魔法使い   作:ゆうと00

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第8話 『個性』

 柔らかな朝日が差し込むリビングは現在、コトコトと静かにお湯が沸き立つ音と、食欲をそそる良い匂いが部屋中に充満していた。隣接しているキッチンにてその発生源を作り出しているのは、ウサギのワンポイントが可愛らしいピンク色のエプロンを身につけた菜々だった。彼女は鍋の蓋を開けてお玉で中身を掬って小皿に移し、それを口にすると満足そうに微笑んで頷いた。

 と、そのとき、廊下の方でドアの開く音がした。小さくて軽い足音をたててリビングに入ってきたのは、様々なキノコがプリントされたパジャマを着る輝子だった。目覚めたばかりでまだ眠いのか、半開きの目をぐしぐしと擦っている。

 

「お、おはよう、菜々さん……」

「はい、おはようございます、輝子ちゃん。朝ご飯はもうできてますから、まずは顔を洗ってくださいね」

「う、うん、分かった……」

 

 輝子はくるりと踵を返し、危なっかしい足取りで洗面所へと向かっていった。

 

「……さてと、ナナもお姫様を起こさないといけませんね」

 

 呆れたような、困ったような、嬉しそうな、楽しそうな、そんな複雑な表情を浮かべながら菜々はリビングを出た。そのまままっすぐ進むと輝子のいる洗面所やお風呂、さらには玄関へと繋がるが、廊下は右にも続いており、そこにも幾つか部屋がある。

 

「杏ちゃん、朝ですよ、起きてくださーい」

「…………」

 

 一番奥のドアをノックするが、返事は無かった。

 しかし菜々は気にすることなく、そのドアを勢いよく開けた。

 真っ先に視界に飛び込んできたのは、リビングにある物よりも一回り小さなテレビ。そこからはコードが何本も伸び、幾つものテレビゲーム機へと繋がっている。部屋のあちこちに充電器に装填された携帯ゲーム機が転がっており、一番ベッドに近い物は画面を開きっぱなしにして放置されていた。おそらく、それでゲームをしたまま眠ってしまったのだろう。

 そしてその流れで菜々がベッドへと視線を向けると、こんもりと膨らんだ掛け布団から小さくて白い手足が覗いていた。耳を澄ませてみると、すーすーと寝息をたてているのが分かる。

 

「……杏ちゃん、朝ご飯の時間ですから起きてください」

 

 耳元で声を掛けながら体を揺さぶるというコンボで、ようやく膨らんだ掛け布団の中身――杏が目を覚ました。

 

「うーん、あと12時間……」

「夜になっちゃうじゃないですか! はい、早く起きる!」

 

 菜々が掛け布団を引っぺがすと、杏は「ああ、ご無体な……」と嘆きながらそれを追うように腕を伸ばした。しかし体を一向にベッドから離さないために届くはずもなく、彼女の手は虚しく空を切る結果に終わった。

 

「ほら、杏ちゃん。『みんなが揃ってるときは食事は一緒に摂る』ってルールでしょ?」

「うぅ……、昨日ゲームやってて寝るの遅かったんだよ……」

「そんなの杏ちゃんの自業自得でしょ! 早く起きないと、食事抜きにしますよ?」

「……また眠るから、朝食はいらないやぁ」

「今日1日の食事を、抜きですよ?」

「……ひどいよ、菜々さん。横暴だよ」

 

 ぐちぐちと文句を言いながらも、杏はゆっくりとした動きでベッドから起き出した。そんな杏に菜々は満足げに頷き、「食事を作ってる人間が、家庭ではヒエラルキーの頂点なんですよ」と得意満面の笑みで言った。

 菜々に背中を押されながら部屋を出た杏は、そのまま洗面所まで行き顔を洗い、リビングへと向かった。

 

「フヒ……、おはよう、杏さん……」

「うん、輝子ちゃんおはよー……」

「ね、眠そうだね……。また夜中まで、ゲームしてたのか……?」

「うん。レアアイテムを見つけるまで粘ろうと思ってたんだけど、いつの間にか寝落ちしてたよ」

「フヒ……、そ、そうか……」

 

 2人が話している間にも、菜々はてきぱきと動いて3人分の朝食をテーブルに並べていく。艶のあるふっくらとしたご飯に、ナメコ(輝子謹製)と豆腐の入った味噌汁、おかずは焼き鮭に卵焼きにほうれん草のおひたしと、日本食の基本形である一汁三菜を忠実に守った完璧な布陣である。

 

「菜々さんがいるだけで、こうも食生活が劇的に変わるとは……」

「フヒ……、杏さん1人だと、こんな朝食作らなさそうだね……」

「そりゃそうよ。そもそも朝食を作らないからね、基本的に起きるの昼か夕方だし」

「……本当に、杏ちゃんが今までどんな生活を送ってきたのか、気になって仕方がないですよ。――はい、それでは皆さん、頂きます」

「頂きまーす!」

「い、頂きます……」

 

 先程まで眠そうにしていた2人だったが、目の前の料理から漂ってくる良い匂いに胃袋を刺激されて目が覚めたのか、杏は元気よく、輝子は遠慮がちに手を合わせて料理へと手を伸ばした。勢いよく食べ進めていく2人の様子に、菜々は心の底から嬉しそうに笑みを浮かべている。

 

「杏ちゃん、今日はどうするんですか?」

「今日は街をテキトーに歩いてスカウトでもしようかな……。菜々さんと輝子ちゃんと小梅ちゃんの3人でも良いけど、何となくもう1人くらい個性的なのがいた方がバランス良いかなって」

「こ、個性的なのですか……。輝子ちゃんや小梅ちゃんにも負けない個性って、どんな子になるんですかね……」

「いやいや、さも『自分は常識人です』みたいな口振りだけど、ウサミン星人も充分変だからね」

「へ、変って言わないでくださいよ! ナナはウサミン星人なんですから!」

 

 拳を握りしめて力説する菜々に、杏はクスクスと笑いながら味噌汁を啜った。

 そして、唐突に口を開いた。

 

「そうだ、菜々さん。ウサミン星人で思い出したけど、“アレ”はもうできた?」

 

 その瞬間、菜々の表情が強張った。

 

「ええとですね……、もうちょっと待っていただけると……」

「別に構わないけど、早い内に決めた方が良いよ。準備する時間とかもあるんだから」

「はい、そうなんですけど……。どうにも思いつかないと言いますか……」

「あ、あの……。その“アレ”っていうのは、何のこと……?」

 

 2人で会話を続ける菜々と杏に、蚊帳の外だった輝子が問い掛けた。

 

「あれっ、輝子ちゃんには言ってなかったっけ? ――まぁ、強いて名付けるなら“ウサミンヒストリー”?」

「ウ、ウサミンヒストリー? ウサミンの歴史ってことか?」

「そ。菜々さん自身は“ウサミン星人”としてアイドル活動したいけど、普通にアイドルやっててウサミン星人を名乗ってたらただの“電波”でしょ? だからウサミン星人でアイドル活動すること自体に“意味”を持たせたかったんだよ」

「……その答えが、ウサミンヒストリーってことか?」

「そうそう。とはいっても、言ってみれば単なる“設定集”なんだけど――」

「杏ちゃん! “設定”とか言わないでください!」

「……という感じで菜々さんが怒るから、ウサミンヒストリーってことにしてる」

 

 苦笑いの杏と頬を膨らませる菜々に、輝子は「成程……」と納得したように頷いた。

 

「そ、それで……、具体的には何を決めるんだ……?」

「ウサミン星人がどういう生態か、どういう歴史を辿ってきたのか、なんで菜々さんが地球に来たのか、なぜアイドル活動を始めたのか、菜々さんの最終的な“目的”は何か――」

「目的?」

「うん。せっかくだから、菜々さんのアイドル活動自体を1つの“物語”にしようかと思ってね。もちろんそれを知らなくても楽しめるようにはするけど、歌詞の端々にその物語を匂わせるような単語を散りばめて、物語を知ってる人がより楽しめるような感じにしたいと思うんだ」

「おう……、それは楽しそうだな……。ファンの人も一緒に、その物語に参加してる気分になれると良いかも……」

「でしょ? ――まぁ、1つ問題を挙げるとすれば……」

 

 杏はそこで言葉を止め、菜々へと視線を向けた。菜々は気まずそうに彼女から視線を逸らす。

 

「……菜々さんが、なかなかその物語を作れないでいることだよね」

「うぅ……、すみません、こういうのは苦手で……」

「他の人に作ってもらうわけにはいかないのか……?」

「手伝ってもらうっていうのは構わないけど、やっぱりある程度は菜々さん自身に作ってもらいたいんだよね。菜々さんのアイドル活動にずっとついて回るものになるから、本人が納得のいくものにしてほしいし、何より“自主的にやっている”か“誰かにやらされている”かって、案外ファンの人には分かるもんだし」

「ごめんなさい、杏ちゃん……。なるべく早く完成できるようにするので……」

「あぁ、そんな急がなくても大丈夫だよ。突貫工事で作ってつまらなくなったら、そっちの方が困るから」

 

 みるみる落ち込んでいく菜々と、それを慰める杏の姿を眺めながら、

 

「……そっか、大変そうだな」

 

 “生みの苦しみ”というものを味わったことのない輝子は、どこか他人事のような印象を拭えない声色でそう呟いた。

 

 

 *         *         *

 

 

 全体が緩やかな坂になっているその通りは、若い少女達にとってはまさに流行の最先端だった。数多くある個性的なアパレルショップには最新の服が揃っているし、またその店から新たな流行が生まれることも少なくない。他にも女性受けするスイーツ店やプリクラが充実しているゲームセンターなど、とにかく少女達にとって魅力的なものが揃っている。

 なので必然的に通りには少女の姿が溢れかえるようになり、それに追いやられるようにして男性の姿は極端に少なくなっていった。

 しかし完全にいなくなったわけではなく、特に“或る目的を持った男達”が、まるで街灯に誘われる蛾のようにその通りへと集まっていた。

 

「……ったく、全然捕まらねぇ」

 

 スーツをきっちりと着込んだその男もそんな“或る目的を持った男達”の内の1人であり、現在は通り沿いにあるオープンカフェのテーブルに着いてコーヒーを啜っていた。表情には隠し切れていない疲れが滲み出ていて、苛々が声となって表れている彼は、楽しげに通りを歩くカラフルな装いの少女達からは明らかに浮いていた。

 しかし少女達は白い目で彼を見るどころか、何やら期待を込めた目をちらちらと彼に向けていた。おそらく彼女達も、彼が“或る目的を持った男”であることを察したのだろう。

 

 いつまでも回りくどい表現をしても仕方ないので正体を明かすが、彼は“プロデューサー”である。

 “奇跡の10人”の登場以来、空前のアイドル時代に突入した日本の芸能事務所において、いかに有望なアイドルを確保するかが重要となっていた。大手の事務所ならば何もしなくても向こうからオーディションにやって来てくれるが、それほど名の売れていない事務所ではそうもいかない。

 そんなときに用いられるのが、街を歩く少女に直接声を掛ける“スカウト”だ。将来有望そうな少女に直接交渉できるこの手は、以前は専門のスタッフや外部から雇ったスカウトマンに依頼するのが普通だったが、プロデューサーが自らスカウトを行う346プロの成功により、他の事務所もそれに追従するようになった。

 そしてその男もそんな数多くある事務所の1つに所属したプロデューサーであり、まさにスカウトの真っ最中だった。とはいえ彼の様子を見るに、その成果は芳しくないようだ。

 

「ちくしょう……、それもこれも、全部346プロのせいだ……。俺達のためにも、ちょっとは遠慮しろっつーの……」

 

 先程『大手の事務所ならば何もしなくても~』と書いたが、その大手事務所の筆頭である346プロは、現在もスカウトを積極的に行っている。もちろん、現在もプロデューサーが直々に出向くスタイルは変わっていない。

 “奇跡の10人”を排出した事務所から声が掛かったとなれば、その事実だけで他のアイドルとは明確な差が生まれる。なのでアイドル志望の少女の中には、346プロから声が掛かるまで他のスカウトを断るといった行動に出る子も少なくなかった。事実、彼は先程、まさにそんな行動に出ている少女にスカウトを断られたばかりなのである。

 

「くそっ……! さっさと誰か捕まえてこねーと、また上からどやされるんだろうな……」

 

 ぶつぶつと文句を垂れながらも、彼は大通りを歩く少女達を隈無く観察していた。何かあれば即座に外に出られるオープンカフェを選んだことと言い、何だかんだ言って抜け目がない。

 と、そんな彼の目に、或る1人の少女が映り込んだ。その瞬間、あれだけ文句を言っていた彼の口から声が消えた。

 第一印象として、彼女はとにかく黒かった。フリルを多用したドレスのような衣装――一般的にゴシックロリータと呼ばれる服に身を包み、差している日傘も細かい刺繍の施された真っ黒なものを使用していた。長い銀髪をツインテールにするのにも真っ黒なリボンが使われており、若い少女の多いせいか比較的カラフルな景色だったその場所で、そこだけが影に塗り潰されたかのように真っ黒だった。

 しかし何より彼がその少女に目を惹かれたのは、その服装が彼女にとても似合っていたからである。ゴシックロリータ自体は日本生まれであるものの、西洋文化で培われた服装に着想を得たという経緯もあり、典型的なアジア顔である日本人が着てもあまり似合わないというのが正直な感想だった。しかし彼女の場合、日本人にしてははっきりとした目鼻立ちをした文句無しの美貌を兼ね備えていたために、そのような衣装を着てもまったく違和感が無かった。

 

 間違いなく、彼女ならトップアイドルになれる。そう思った彼は、店員に呼び掛けてコーヒー分のお代をテーブルに置くや、カフェを仕切っていた柵を跳び越えて彼女の下へと走っていった。

 こちらに向かって走ってくる男性の存在に気づいた少女は、目を丸くして慌てふためいていた。そのせいで足が動かず、男が辿り着くまでの間に逃げ出すことができなかった。

 

「……き、君! ちょっと良いかな! 僕はこういう者なんだけど!」

 

 久し振りの全力疾走で息が上がっていたが、彼は構わずに懐から名刺を取り出した。必要最低限の情報しか書かれていないシンプルなものだったが、“プロダクション”と“プロデューサー”という単語が伝わるだけで充分だ。

 

「アイドルに興味は無いかな! 君ならば、絶対にアイドルでトップになれる!」

 

 彼の熱の籠もった言葉を聞きながら、彼から差し出された名刺をじっと見つめながら、その少女は口を開いた。

 

 

「我を幻想の世界へ誘おうと言うのか……?」

 

 

「…………、はっ?」

 

 その瞬間、彼は時間が止まったかのような錯覚を感じた。

 

「我をかような幻惑魔法の支配下に置きたくば、(おの)が魔力の全てを尽くして立ち向かわねばならぬと心得よ!」

 

 そして再び彼女の口から飛び出した言葉を聞いて、彼は先程の台詞が聞き間違いでも白昼夢でもないことを思い知った。口元が引き攣っていくのを感じながらも、それでも彼は笑顔を極力維持しながら再び話し掛ける。

 

「え、えっと……。普通の言葉で話してくれるかな……?」

「我に偽りの言霊を紡げと申すか! 恥を知れ、(たわ)けが!」

「……えっと、僕は君と話がしたいんだ。いきなりのことで警戒するのは分かるけど、何事も会話しなければ理解できないと思うんだよね……?」

「姿形を人間に偽れど、我が魂は何物にも変質することはできぬ。さすれば貴様が真に魔王と相対することを望むのならば、祭壇に足を踏み入れる以外によもや方法は無い」

「…………」

 

 見目麗しいゴスロリ少女に声を掛けたら、訳の分からない言葉で返された。

 この事実が、彼にこれ以上踏み込むことを躊躇わせた。しかもよくよく彼女の言葉を聞くと、まさか彼女は自分のことを“魔王”と思い込んでいるのではないだろうか。

 

 ――ちくしょう、まさかの“電波”かよ……。でもここで引いたら、せっかくの逸材が……。

 

 男は1回大きく深呼吸をすると、再び笑顔を貼りつけて彼女へと向き直った。

 

「そ、そっかぁ! 君は魔王なのか、そりゃ凄いなぁ! でもさ、せっかくそんなに可愛らしい顔をしているのに、魔王だなんて勿体なくないかい? ここは1つ、僕の誘いに乗ってアイドルになってみたらどうだろう!」

 

 努めて明るい声で高らかにそう言って、彼は少女へと目を向けた。

 彼女は頬を膨らませて、いかにも不満そうな表情を浮かべていた。元々の可愛らしい顔のせいであまり迫力は無いが、その両目は明らかに彼を睨みつけている。

 

「……貴様の魔力からは、穢れを感じる」

 

 そしてぽつりとそう呟いて、彼女は男の脇を通り過ぎてその場を去ろうとした。

 そんな彼女の背中に向かって、男が呼び掛ける。

 

「――君、友達いないだろう?」

「――――」

 

 ぴたり、と少女の足が止まった。

 

「ああ、その反応を見ると、やっぱり図星のようだね。そりゃそうか、自分を魔王だなんて偽って、常に難しそうな言葉をこねくり回してるような奴、周りにいたら絶対に近づこうだなんて思わない」

 

 1歩1歩ゆっくりと、足を止めたまま動かない少女へと近づいていく。

 

「そして君はそのせいで現実世界はつまらないと結論づけて、ますます空想の世界へと逃げていく。そして現実世界の連中からますます疎まれて、の悪循環だ。君が空想世界の住人でいる限り、君の周りに人が近づくことはない」

 

 少女の真後ろで、男は足を止めた。日傘に隠れて彼女の様子を窺い知ることはできないが、それでも構わずに男は話を続ける。

 

「だが残念ながら、人は結局現実世界で生きていくしかない。そうやって空想世界に浸っている人間には、最後に待っているのは“社会不適合者”という不名誉な称号だけだ。――しかし幸いなことに、君の顔立ちは人より整っている。君がアイドルとなって今の自分から“脱却”することができれば、それだけで君の周りに人が自然と集まってくるようになるさ」

「…………」

 

 男の話を聞いているのか分からないが、少女は何も言わず1歩も動かずじっとその場に立ち続けている。

 すると彼はその隙に少女の正面に回り込み、俯く少女に見えるように手を差し出してきた。

 

「ほら、独りぼっちの今から抜け出すためにも、僕の手を取ってみようじゃ――」

「はいはい。お兄さん、あまりいじめちゃ可哀想だよー」

 

 しかし男の手を取ったのは目の前の少女ではなく、いきなり横から割り込んできた背の低い少女だった。もう少しのところで邪魔された形となった男としては、その顔にありありと苛立ちが浮かんでも仕方ないだろう。

 男は割り込んできた少女へと視線を向け、そして苛立った表情は少しして怪訝な表情へと変わり、そして目を丸くして驚愕の表情へと変わった。

 

「……まさか、双葉杏!」

「へっ……?」

 

 サングラスを掛けた地味な服装をしているが、間違いなく彼女は双葉杏だった。引退してから5年経っても色褪せることなく憶えていた彼女を目の前に、男は思わず名前を呟き、少女は思わず素の声を出していた。

 そんな2人に向かって、杏は顔を上げてにやりと不敵な笑みを浮かべてみせる。

 

「というか、お兄さん。さっきのスカウトは何なの? 相手を不安な気持ちにさせて自分の誘いに乗らないといけない気持ちにさせるって、完全に手口が詐欺師じゃん」

「……き、君には何の関係も無いだろう。これは、僕と彼女の問題なんだからな」

「杏だって、先に声を掛けた人がいたから諦めようかと思ったけどさ、あんな勧誘の仕方をしてたら放っておくわけにはいかないでしょ。あんなやり方でアイドルになったとして、本当にそれでこの子の魅力を充分に引き出せると思ってるの?」

「……な、何を知った風な口を! き、君はすでに引退した人間だろ! 何の責任も無く遊びほうけているような人間が、必死に働いている俺に指図をするな!」

「うーん……、つい最近まで事実だっただけに耳が痛い……。でもまぁ、今はそんなことないんだよ? ええと、確かこういうときのために作ったんだっけ……」

 

 杏はそう言ってポケットをごそごそと探ると、小さな紙切れ2枚をそれぞれ男と少女に渡した。それはどうやら名刺のようで、そこには“双葉杏プロダクション(仮)代表取締役兼プロデューサー・双葉杏”と書かれていた。

 

「いやぁ、菜々さんから『スカウトするんなら、名刺くらい作った方が良いですよ』ってアドバイスされたのが役に立ったよ。やっぱスカウトと言ったら名刺だよねぇ」

「…………」

 

 杏の独り言は、男の耳には届いていなかった。

 言わずと知れた“奇跡の10人”の中でも一番最初に売れ、アイドルとして数々の伝説を築いてきた双葉杏。そんな彼女が芸能界に復帰するだけでも驚きだというのに、新たに芸能事務所を立ち上げてプロデュースを行うというのだ。彼女の現役時には芸能界の仕事をしていなかった彼でさえ、この事実は衝撃的なものだった。

 

「……そ、それで、そんな新事務所のプロデューサーである君は、まさか今僕がスカウトしようとしていたこの子を横からかっ攫う気なのかな?」

「うん、そうなるね」

 

 牽制のつもりで質問をぶつけたつもりだった彼だが、杏の間髪入れない答えに逆に面食らった形となってしまっていた。

 その隙に、杏は少女へと顔を向けた。小さい頃にテレビで観ていたアイドルに至近距離で見られ、びくっ! と少女は肩を震わせた。

 

「名前、教えてくれる?」

 

 にこりと優しい笑みを浮かべてそう尋ねる杏は、体こそ少女より圧倒的に小さいが、間違いなく彼女よりも年上のお姉さんだった。

 

「……神崎、蘭子」

「そうか、蘭子ちゃんね。――杏の事務所に来れば、“魔王”のままアイドルにできるよ」

「はっ?」

「――――!」

 

 杏の思いもよらない発言に、男は素っ頓狂な声をあげ、少女――蘭子は目を見開いた。

 

「もちろん蘭子ちゃんにアイドルになる気があるなら、って前提付きだけどね。もし蘭子ちゃんがアイドルになったとしても、杏の事務所なら蘭子ちゃんが望むままのアイドルにしてあげるし、そのための売り方を一生懸命考えるから」

「――な、何をでたらめな!」

「今杏の事務所にいるアイドル候補生ってね、個性的な子達ばかりなんだよ。永遠の17歳を自称する宇宙人とか、キノコを愛するメタルとか、守護霊に憑かれてるホラー好きとか、そんなのばっかりなんだよ。蘭子ちゃんみたいなキャラなんて、まだマシな方じゃないのかな?」

「……はっ! そんなふざけたキャラで、売れるわけないだろ!」

「どのレベルまで行けば“売れる”って言えるのかは分からないけど、そもそも万人受けを狙う必要は無いんだよ。世の中にはね、そういうニッチな需要の方が好きって人も一定数いるんだから」

 

 杏は男から目を逸らし、呆然とした表情でこちらを見つめる蘭子へと向き直った。

 

「プロデューサーの役目は担当しているアイドルの魅力を最大限引き出すことと、その魅力を活かした売り出し方を全力で考えてサポートすること。まぁこの言葉自体は、杏を担当してたプロデューサーの受け売りだけどね。でもまぁ、杏もそうだと思ってるよ。――だからアイドルが魅力的でいられるなら最大限本人の希望を尊重するべきだし、ましてやプロデューサーのやり方にアイドルをむりやり嵌め込むなんて下策中の下策だよ」

「……わ、私の希望?」

「騙されるな! そいつは都合の良いことを言ってるだけだ! そいつの所に行っても、そんな頭のおかしいキャラで売れるわけがない! 俺の所に来れば、間違いなく君はトップアイドルになれるんだ!」

 

 男の言葉を聞いていた杏が、ぷっ、と吹き出した。

 

「何がおかしい!」

「……あのさ、まだ分かんない? 蘭子ちゃんはね、“トップアイドルになること”になんて興味が無いんだよ。そもそもアイドルになるなんて選択肢自体、今こうして声を掛けられて初めて考え始めたことなんだから。蘭子ちゃんが望んでいるのは、“ありのままの自分でいられるか”なんだよ」

 

 そして杏は改めて蘭子に向き直り、そして今までにない真剣な表情でこう言った。

 

「蘭子ちゃん。魔王を自称しても誰も文句を言わない世界を、一緒に作っていこうじゃないか」

「――――」

 

 その瞬間、蘭子の息を呑む音が聞こえた。

 そしてそれを見た男は、確信してしまった。

 

「――ま、待て蘭子ちゃん! 君は騙されているんだ! 双葉杏の言っていることは、単なる理想論だ! そんなこと、現実的にできるわけがない! せっかく君にはトップアイドルになれる器があるというのに、それをみすみす逃してマイナーなアイドルで妥協する必要なんか無い!」

 

 男の言葉を受けて、蘭子が彼の方を向いた。自分の言葉が届いたのか、と彼は喜色を浮かべるが、彼女の表情が未だに不機嫌なのを見てそれが勘違いであることに気がついた。

 

「……貴様が見ているのは、ただの闇だ」

「はっ?」

「闇に向かって叫んだとて、もはやそこに我はおらぬ。それにも気づかぬ者に、我は姿を現さぬ」

 

 蘭子はそう言って、未だに呆然とした表情を浮かべる男から顔を逸らした。それ以降、彼女が男に目を向けることはなかった。

 そして目の前にいる、自分よりも背の低い年上の元アイドルに手を差し出し、

 

「……お主とならば、幻惑の世界を共に歩むことを許そう。仔細を聞かせるが良い」

「そんなに早く決めて良いの? 一旦家に持ち帰って考えてみたり、親御さんに相談してみたり」

「構わん。過去にも我を召喚せしめんとする有象無象が大勢いたが、いずれも偽りの姿に翻弄され幻想に囚われるのみで、誰も我の前まで辿り着くことはなかった。――お主ならば、我が力を分け与えることも吝かではない」

「おぉ、そっかそっかぁ! いやぁ、ありがとうね! ――それじゃ詳しい話は別の場所に移動してからにしよっか!」

「うむ、承知した!」

「ちょ、ちょっと待て!」

 

 そのままこの場を去りそうな雰囲気になっている2人を、男が慌てて呼び止めようと声を張り上げた。しかし2人が振り返ることはなく、男はみるみる小さくなっていく2人の背中を呆然と見つめることしかできなかった。

 そして2人の姿が消えてからしばらく経った頃、男は手元にあった名刺に目を遣った。“双葉杏プロダクション(仮)代表取締役兼プロデューサー・双葉杏”という文字列が、先程と変わることなくそこに書かれていた。

 

「……憶えてろよ、双葉杏」

 

 ぽつり、と彼が呟いたその声は、街の雑踏に掻き消された。

 

 

 

「いやぁ、それにしても、あの人がいてくれて助かったよ」

 

 男と別れてしばらく歩いていると、ふいに杏がそんなことを独りごちた。それは先程の男に感謝するような内容であり、杏の隣を歩いていた蘭子はそれを聞いて男にひどい言葉を掛けられたのを思い出したのか、不機嫌に頬を膨らませる。

 

「お主は、瘴気(しょうき)を撒き散らす醜悪な輩を歓迎すると言うのか?」

「えーと……、何となく蘭子ちゃんがあの人を悪く思ってるのは分かるよ。でもあの人が蘭子ちゃんに声を掛けたおかげで、結果的に杏と蘭子ちゃんがこうして出会えたんだから、あの人に感謝しても良いって気持ちにならない?」

 

 杏の言葉を聞いて、蘭子はハッとしたように目を丸くした。そして拗ねたように唇を尖らせると、もじもじと体を動かしながら、

 

「……うん」

 

 と、消え入りそうな声で答えた。

 杏は蘭子の反応に笑顔で頷いて、再び前を向いて歩き出した。

 

 ――本当、あの人のおかげだよ。あの人が蘭子ちゃんをあそこまで追い込んでくれたおかげで、かなり楽にスカウトすることができたんだから。

 

 その胸の内に、黒い想いを抱きながら。


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