カランカランと氷と氷が当たる音がした。冷んやりとした液体が喉を通る。男は料理部のナタリーが持ってきたオレンジジュースを飲み干した。透明な硝子のコップには水滴が浮かんでいる。そのコップを足の低いテーブルの上に置いて、目の前で少女がちびちびと飲んでいる、実際は一口が小さいだけなのだが、まだコップの半分もオレンジジュースが残ってあるのを羨ましそうに見ていた。
7月に入り一週間が過ぎ、蝉の鳴き声とともに本格的な夏が到来している。今年の夏は例年よりも暑さが厳しいと世間では言われていた。奴隷達もいつものメイド服から衣替えをし、スカートは膝より上のミニ、上も肩から手に掛けて布を無くした夏服仕様だ。そんな猛暑のおかげで男も、そして少女もテーブルにぐったりと体重を掛けている。
少女の名前はサチという。青よりも薄い空色の髪は肩のあたりで切り揃えられており、艶やかでしっとりとした髪は陽光を反射して輪を描いていた。気怠げに細められた目が、前髪の隙間から覗く。端正な顔立ちをしており、中々の美少女だろう。彼女は白のワンピースに身を包んでおり清潔感漂っている。そのワンピースの肩口から伸びる腕は細く病人のように白い。体の起伏は少なく、またこの暑さだというのにサチはベージュの腰掛けで自分の足を隠していた。
サチは足が動かない。医療部のキリの診断では、彼女の足は今後絶対に動くことはないと言う。生まれつき足が動いていなかったわけではなく、一年前に事故で足が突然、動かなくなったとサチは男に話した。そのため、この一年で足を動かすことはなくなり、その足は筋肉が落ち、細くそして病人のように白く冷たいものとなっている。それはサチのコンプレックスになるほどで、足を隠している理由にもなっている。
「そんなに見ても、やらへんよ」
男の視線に気が付いたサチはコップを手元に引き寄せて言った。先程までコップがあった場所には水滴が底の形を映し出している。
「気にするな」
男はコップに視線を向けたままそう答えた。外からはソラとウミを中心とした警備部の訓練の掛け声が鳴り響いている。男は部屋の中の温度が一度増した様な気がしていた。
「気にするな……言うても」
コップを上に持ち上げれば、男の目線も上に上がり、口を付けて飲めば、男の視線はサチの薄桜色の唇に吸い寄せられる。
「仕方ないな~。えぇよ、一口なら」
居心地悪そうにしていたサチは男の視線に耐えられなくなり、自分のコップを男の方へ置いた。男は嬉々とした様子で、ありがと、と一言言うとそのコップを口元へと運び出した。
「あっ……」
男が口をつける寸前、サチが何かに気づいたように声を上げるが、生憎男の耳には届いていないようだ。男は言われたとおり一口飲むと、そのコップをサチに返す。サチは受け取ったコップをまじまじと見つめ、そしてぼんっと効果音が出そうなほど顔を真っ赤にした。不思議に思った男はサチの顔を覗き込むが、その際にサチもちらりと男を見ているところだったため、二人の視線は絡み合う。無垢な男の瞳と動揺して左右に揺れるサチの瞳は数秒の時間を空けて、サチが逸らすという結果に終わった。
「どうした?」
「っ、なんもあらへんよ!!」
やや強い口調になってしまうサチだが、コップを見ながら数秒葛藤した後、踏ん切りがついたように残っているオレンジジュースを一気に飲み干した。溶けかけの氷だけがコップに残る。
「あ、そういえばもうすぐ夏休みが始まるみたいだな。ネルや静流達が言ってたんだがな、7月の末に夏祭りがあるみたいなんだ。よかったら、サチもどうだ?」
男はふと思い出したように提案した。ネルと静流は男の奴隷で平日は『学問の街ジェレニウム』のセントルチア女学院に通う生徒だ。セントルチア女学院は名前の通り女子校で小中高一貫の金持ち高校となっている。世界各地にある学校の中でも上位の位置にある学校で、高値な教育費に見合う授業の質、教師の力量、学園内の設備が話題を呼び、貴族の娘を中心に生徒達は構成されている。
「うちはええよ。足動かせんし、御主人様に迷惑かけられへん……」
サチは膝掛け越しに足を撫でながら、暗い表情で言った。その瞳には諦めの色が強い。そして、彼女の瞳が揺れた。外で元気に駆け回る警備部の姿が見えたのだろう。
「なぁ、サチ。あいつらみたいに外を出歩けるなら、夏祭りに来るか?」
「歩けるなら、うちかて御主人様と行きたいよ。でもな、うちが歩くなんてないねん……。もうこの足は動かへんねん……」
男の言葉にサチは悔しそうに歯噛みしながら自身の足首を爪が食い込むほど強く握り締めた。そんな表情を見た男はポツリと呟いた。
「作るよ。サチが歩けるように」
男の目はいつにもなくやる気に満ち溢れていた。コップに氷はもう無い。
「それで旦那様。サチ様のためにそう言ったのは良いが、中々良いアイデアが浮かばずに私に泣きついて来た、と。そういうことですね?」
「はい、御尤もです」
仁王立ちする悠莉の前には地面にひれ伏す男の姿があった。男の後ろには机の上に乱雑に置かれた万年筆があり、床には大量のクシャクシャに丸められた紙が散らばっている。悠莉はその一つを手に取るとそれを広げ始めた。足にギブスのようなものを付けて、無理矢理動かす様なものが大まかに描かれているが実際に使用するには些か不便だ。
「では一つ、旦那様に教えてあげましょう」
悠莉は万年筆で先ほどの紙の裏に書き始めた。紙の上で細い指先が滑らかに踊る。すらすらと止まることない動きに男は釘付けになっていた。
「はい、書き終わりましたよ」
数分経った後、悠莉は手を止めて男に紙を渡した。紙には真ん中に背もたれ付の椅子があり、椅子の足の代わりに丸い輪がサイドに1つずつ描かれている。座って足が来るあたりには足をおく場所があり、背もたれからは二つのグリップが伸びている。
「それは私の故郷にあった車椅子というものです。タイヤ……いえ、その輪っかの円周上にはゴムと呼ばれるものが使われています。こちらでいうと、メルトさんが育ているウルの木の樹脂と旦那様が持っていらっしゃる硫黄を混ぜて、加熱したものを型に入れて冷ましたら出来上がりますよ。細かい部分までは覚えてませんが、旦那様ならこれで充分ですよね?」
悠莉の説明に男はだいたい分かった、と言いながら、悠莉の書いた絵に細かい部分を書き足していた。その目は爛々と輝いており、自分の世界に入り込んでしまっている。そんな中、悠莉は一礼してそっと部屋から出て行くのだった。
「おーい、サチぃ」
「どうしたん?御主人様。そんなに慌てて」
ドタドタと部屋に駆け込んで来た男は、その顔に笑顔を浮かべて、ちょっと来て、と言い、ベージュの腰掛けごとサチをお姫様抱っこした。その胸にサチを抱えたまま、男は廊下を駆ける。サチは顔を真っ赤にして男のことを見上げていた。唇を噛みしめて、幼い子供のように男の服をぎゅっと掴んでいる。ドタドタと響く足音が止まり、サチは視線を男からずらした。そこは一際開けた空間で、屋敷のロビーに当たる。天井には黄金のシャンデリアが吊るされており、真下のそれを輝かせていた。車椅子だ。
「サチ様、お待ちしておりました」
メイド服の女性、悠莉が背もたれから伸びるグリップを押すとキュルキュルと音を立てながら前進した。男はサチをそこまで連れて行き、そのクッションの置かれた背もたれ付きの椅子にそっと彼女を降ろした。
「サチ様の為に旦那様が作ったのです。まさか私が助言をしたとはいえ、僅か3日で本物とほぼ変わらない性能なものを作られるとは……流石です、旦那様」
「まぁ、良いだろ。そんなことは。それよりもサチ動かしてくれよ。このハンドルを回すと前進で……」
男は車椅子での動作を一つ一つ丁寧に教えて行く。初めは戸惑い気味だったサチも熱心に教える男に習って車椅子を自分で動かして行くうちに、その表情に灯りがさした。
「嘘や。夢みたい。うち、もう動かれへんと思っとたのに。なあ、御主人様、うちのほっぺ抓ってくれへん?夢なら早く冷めて欲しいねん」
男は言われたとおり、サチの頬を抓った。
「いわぁい……痛い」
ポロポロとサチの頬を涙が伝い、男は慌てて手を離した。
「あ、ごめん。強く抓り過ぎた?」
「違うんよ。嬉しくてなぁ。ホンマにウチ動けてるって思うたら嬉しくてなぁ。夢じゃないって分かったら、涙が止まらへんねん」
ゴシゴシとその細腕で涙を拭う。サチの笑い混じりの泣き声に自然と男にも笑みがこぼれた。
(旦那様やサチ様には悪いですが、車椅子はそこまで便利な代物では無いんですよね。ちょっとした段差で身動きの取れなくなることもありますし。いっそ、屋敷を改築してしまいますか。改築費は旦那様に死ぬほど稼いでもらいますが)