リエチンの里へ続く道は周囲を山々に囲まれており、俗に言うなら盆地だ。
うっすらと霧が出ており、まだ昼なのに肌寒い。
『放射霧だね』
……らしい。
道なりに歩き、霞む景色にぼんやりと門が見え、近づいたとき――
「この馬鹿ものがぁっ!」
いきなりの怒声。
怒り声に続いて、私の横を何かがすごい勢いで通り抜けた。
振り返れば、地面を何かが転がっていく。
それはそのまま霧に消えた。
首を元に戻すと、霧の中から一切の足音なく細身の老人が現れた。
背筋はピンと伸び、長く伸びた白髪が一本に縛られ伸びた背中と平行に垂れる。
険しい顔には、傷跡のような深い皺が無数に走っていた。
「申し訳ありません、師匠!」
今度は後ろから元気のいい声とともに大きな足音が聞こえてきた。
振り返るまでもなく、私の横を土に汚れた服を着た若者が駆け抜けていく。
「ヨンチ! どうして足を止めた?!」
「申し訳あり――」
「大馬鹿ものがっ!」
男の謝罪の途中で老人が男を蹴って、男は道の脇に転がっていった。
『今の蹴り……すごいキレ』
なんかきれいに蹴っていたな。
老人は若者の顔を蹴った足をゆるりと下ろすと転がった若者の方へと向き直る。
「馬鹿者! 儂がいつ謝罪を求めた! 聞いておるのは足を止めた理由だ!」
若者は何事もなかったかのように立ち上がり、老人の前へ駆け寄り声を張る。
「体に不調を感じ、足を止めました!」
若者の言葉を聞き、老人はふむと鼻息をして若者に近寄る。
「どのあたりだ?!」
「胸の辺りです!」
老人は指を若者の喉に当て、探るようにゆっくりと腹の方へと伝わせていく。
頷きを一つした老人は下ろした指を若者の額に持ち上げた。
「どこにも異常がないではないか! この腑抜けめがっ!」
老人の指が若者の額をはじいた。
デコピンである。
『なん……だと……』
しかし、シュウの驚きでわかるように私の知っているデコピンとは桁が違った。
まず、その音。
カツンやコツンといった可愛い音ではない。
巨大な鉄のハンマーで木の腹を叩いたときの「ゴ」という鈍い音に近い。
次に威力。
通常はせいぜい頭が傾く程度だと思う。
一方、老人のデコピンは飛んだ。
吹き飛んだのではない。
――体が回転していた。
頭が下になり、足が上を向いての半回転。
半回転を経て上下が元に戻って、着地しての見事な一回転だ。
きれいに着地を決めた若者は白目をむき、膝を崩して前のめりに倒れた。
「疲れたから休むなどとは言語道断! お前は戦うべき時に「疲れているから戦えません」と言うのかっ!」
老人は倒れた若者の背中に一喝。
同時に若者への活であったようで、若者はびくりと体を震わせ、すばやく立ち上がった。
『あの状態からもう立ち直るんだ……』
若者はまたしても老人に素早く駆け寄る。
「師匠の仰るとおりにございます! 不肖私、ヨンチ油断しておりました! 心の中に、甘えが残っておりました」
若者は恥じ入るように、噛みしめるように口に出す。
「それがわかっておればよい!」
老人は相変わらずの険しい顔で頷く。
「修行を続けるぞ!」
「はい!」
そうして二人は霧の中へ走って消えてしまった。
『メル姐さん、歯牙にもかけられなかったね』
……うん。
ずっとすぐ側にいたのに、一度も見られなかった気がする。
ステルス使ってた?
『いや、使ってない』
……そう。
まあ、かかわると面倒そうだから良かったとしよう。
さて、里の近くにある上級ダンジョン――ミンユ峡谷の入り口に来た。
ミンユ峡谷はかなり有名だ。
だが、有名ではあるものの、ここにくる冒険者は少ない。
理由はいろいろあるが、まず王都から伸びる主要道を大きく外れていることが一点。
二点目として、道が霧に覆われている上に獣やはぐれモンスターが出てくること。
三点目として、ドロップアイテムに金銭的な価値が乏しい点。
どのアイテムを換金しても二束三文にしかならない。
ただ「金銭的」とつけたようにボスのアイテムには別の価値が存在する。
ボスのアイテムは一種の名誉称号でもあり、実力者の証明になる。
その証拠に王都で開かれる武闘会の参加権と引き替えも可能だ。
ソロでミンユ峡谷をクリアした者は武闘会もほぼ間違いなく優勝する。
そんなこともあってミンユ峡谷は腕試しの場としての側面が強い。
私のように純粋な楽しみでのダンジョン攻略を目的とした冒険者はほぼゼロである。
峡谷の入り口は谷風が帰れと言わんばかりに吹き荒れている。
内部の構造は非常に単純。
谷に沿っての一本道となっている。
道の途中では五つの試練が挑戦者を待ち受ける。
まず第一の試練。
ボコリザルが道の前から、後ろから、上からと大量に押し寄せてくる。
この猿たちの容赦ない全方位攻撃を凌ぐこととなる。
全て倒す必要はなく、ある程度時間が経過すればよいらしい。
もちろん倒してもまったく問題はない。
ちなみに戦闘中こそ容赦ないが、気を失ったら入り口まで連れて帰ってくれる。
――と話に聞いていたとおり、今まさに一人の若者が猿のモンスターたちに両脇を抱えられて帰ってきていた。
『こいつ……、さっきの弟子だね。ヨンチだったかな』
猿のモンスターたちはヨンチとかいう若者を丁寧に地面へ寝かせる。
その後、私に礼をして谷へと帰っていった。
『違う。メル姐さんに礼をしたんじゃない』
は?
じゃあ、いったい――
「うつけがっ! いつまで寝とるつもりだっ!」
突然の真横からの大声に私は大きく飛び跳ねた。
驚いたのは私だけではないようで、地面に倒れていたヨンチも飛び起きた。
「ヨンチ! ただいま第一の試練から帰還しました!」
「そんなこと見ればわかるわっ! この馬鹿弟子がッ!」
先ほどと同じように、老人は怒鳴りつける。
もちろん両者とも私のほうを見向きもしない。
それなら私もかまうことはない。
お先に行かせていただこう。
『ッ! 屈んでっ!』
シュウの叫びで反射的に膝と腰を曲げた。
同時に私の頭を何かが擦った。
上を見れば、握られた拳があった。
後ろには柱のごとくまっすぐ立ちはだかる老人。
「ふむ……」
何をする、と開こうとした口が老人の鋭い視線で塞がれた。
上から順々に下りていった老人の視線がある一点で制止した。
『いやん。そんなにじろじろ見ないでよ、えっちぃ』
気持ち悪い声を出しているシュウへと視線は刺さり続ける。
やがて老人は何か納得したふうに頷いた。
何を納得したのか教えて欲しい。
「ヨンチ!」
「はい!」
「今一度、峡谷に挑んでこい!」
「はい! かしこまりました、師匠!」
私のことはもうどうでもよくなったのか師弟での大声合戦が再開した。
もう少し静かに言い合えないのだろうか、うるさくて仕方ない。
シュウとは違う方向性のうるささだ。
「ただし! 挑むのはこの女たちと一緒にだ!」
『ほぉ』
「はい! ……はい? この方とですか――」
「そうだ!」
私も「はい?」と言いたい。
この女とはもしかして私のことだろうか?
『まあ、ここに女は一応メル姐さんしかいないでしょ』
いや、それはそうなんだけど……なんで?
あと一応はつけなくてもいいでしょ。
「しかし師匠――」
「くどいっ!」
「申し訳ありません! すぐに向かいます!」
ヨンチは慌ててダンジョンへと走り出す。
走るヨンチの背から目を離し、老人に苦言を呈そうと振り向くとそこにはすでに誰もいなかった。
『やるなぁ……』
ほんとなんなんだよ、こいつらは……。
なぜかパーティーでの攻略になってしまったわけだが……。
「ワチャ! ハッ! セイハッ! チェリャアアアアアァァァ!」
この男、くっそうるせぇ……。
叫びながら攻撃する冒険者はいるが、こいつは限度を超えている。
パーティーリングで能力プラスもあってか、ヨンチ一人で猿を次々に倒していっている。
「アチョー! セヤッ! ハイィッ!」
群れは徐々に減っていき、最後の一匹をヨンチの拳が貫いた。
やっぱりうるさい。
「倒し、ました、ね……」
そうだな。
ほぼお前一人で倒してしまったな。
「力が湧いてくる。体も思い通り以上に動く。モンスターの動きも見えている。まるで私ではないみたいです」
そりゃチートの力だからな。
「この力があれば……」
ヨンチは何かぼそりと呟いた。
峡谷の先を、あるいはさらにその先を見つめながら――。
第一の試練を乗りこえた私たちは第二の試練へと移った。
第二の試練は迫り来る崖崩れからひたすら逃げ続けることである。
途中でボコリザルたちも襲いかかってくるおまけつき。
いつまで走るのかわからない心理的な試練らしい。
ここはまるで問題にならなかった。
走るのは得意だし、ヨンチも持久力があるため余裕で突破できた。
途中でシュウもいくつか口を出してきたが、ヨンチは喋る剣にさほど驚く様子もない。
走っていて余裕がなかったためだと思うことにしていた。
第三の試練は普通のボス戦だった。
見たことのない棒状の武器を持った一際大きなボコリザルだ。
『トンファーだね』
トンファーというらしい。
しかし、見たところほとんどトンファーを使っている様子はない。
むしろキックが多いような気がする。
『伝統だね』
伝統らしい。
「ハイィィ! ヤ! ホッ! セイ! シャアァ!」
後ろからヨンチの戦いを見ていたが、こいつはなかなか強い。
現に今も一人で大ボコリザルとやり合っている。
しかしうるせぇなぁ。
『いやいやいや、なかなかっていうか。普通に強いよ。耐久力が異常だし、体力も不気味なほどある』
たしかにそうだな。
さっきから大ボコリザルと戦っているが、息がほとんど乱れていない。
『対集団戦がまだ甘いけど、慣れてくればいけるだろうね。第二の試練は今でもチートなしでいける』
ちなみに私は、大ボコリザルの周囲に湧く普通のボコリザルを倒していっている。
ここまでくるとどうでもいいことだが、即死以外ならどの試練でもボコリザルが入り口まで連れて帰ってくれるようだ。
もしも、これがなかったら間違いなく超上級の難易度であると言われている。
『師匠がヨンチの耐久力を鍛えてたのはそのためだろうね』
たしかにあの老人の横暴に耐えていれば耐久力はつくだろう。
死なないだけの耐久力があるなら、このダンジョンから生きて帰れる。
それにしてもあの老人はなんで私とヨンチを一緒にダンジョンに挑ませたんだろうか。
『あの爺さんは俺にも、チートにも気づいてた。メル姐さんの見た目から得られる強さと背後からの攻撃を避けた強さは明らかに乖離してるからね』
そこは別に不思議じゃないな。
今までも私の強さの違和感やシュウに気づいた人間及びその他生物はいたし。
……強さに気づいたってことは、ヨンチを私たちと挑ませてダンジョンをクリアさせたかったのか。
『そうだね』
なんだかんだ言って弟子だからな。
ミンユ峡谷クリアの箔をつけたかったんだろう。
そうすれば自分の株もあがるだろうし。
『それなら自分と一緒に挑ませる。あの師匠はソロでここをクリアできると思うよ』
やっぱりそうなのか。
あの老人はなんかすごく強そうな雰囲気を感じた。
『ここに入る前に姿消したじゃん』
ああ、振り向いたら消えてたな。
『あれ。俺にも見えなかった。わかる? チートな俺の目と耳をもってしても、消えた瞬間がわからなかったんだよ。俺の意識からも気配と動作を消したんだ。有り得ませんわ』
どうやらあの老人はとんでもない人物らしい。
それで、けっきょくなんであの老人はあいつを私たちとダンジョンに挑ませたんだ?
『それはわかる』
なんでなんだ?
『ハハ、そりゃあんた。修行に決まってんじゃん』
イラッとしたね。
だから全力で蹴った。
反省も後悔もしていない。
時間はかかったもののほぼ無傷でヨンチは大ボコリザルを倒した。
さて、第五の試練まであるが一番の問題は第四の試練だと私たちは考えている。
第四の試練は自分自身の影と三連戦。
真っ黒な自分が出現して、それを倒さなければいけない。
一戦目は全員分の影が出るが、連携をとらずに攻めてくる。
二戦目は全員分の影が出てきて、こいつらがさらに連携をとってかかってくる。
三戦目は全員分の影が出て連携をとるのに加えて、コピー元の本体よりも強化されている。
もしもチート込みで出てくれば絶対に勝てないとシュウは話す。
対策として、ボスが出てくる前のあたりでシュウから距離をとりチートを外しておいた。
影が出てきてからシュウを拾ってチートを発動させた。
対策が功を奏したのか影は三戦とも非常に弱かった。
特に私の影は自分でも悲しくなるほどに弱かった。
一戦目とか殴るだけで消えた。
二戦目も同様。むしろ無理に連携をとったせいでヨンチの影まで弱くなった。
三戦目も私の影はワンパンで消滅した。ヨンチの影は蹴っても消えず、相当しぶとかった。
そして、とうとう第五の試練。
二匹の大ボコリザルを従えて登場したのは人型のボスモンスターであった。
『あら?』
手にはこれまた見たことのない武器を持っている。
二本の棒を短めの鎖で結んだだけのものだ。
『ヌンチャクだね。それよりも、あの師匠がここのボスならおもしろいと思ったんだけど、そんなことはなかったか』
ランセサンと呼ばれるボスはヌンチャクとやらを右手でぐるぐる、左手に持ち替えてぐるぐる回す。
ときどき片方を脇に挟んだりもしていた。なんなんこのボス。
「アチョー! セヤッ! ヤッ! ホワッ!」
「ヒョー! シェァヤー! ソッセェ!」
ランセサンとヨンチはどちらも変な声で叫び合い、もはやどちらがどちらの叫び声なのかわからない。……というか、ほんとうるさいんだけど。
私はただ粛々と大ボコリザルを始末していく。
大ボコリザルを倒した後も、ランセサンとヨンチは戦っていた。
ヨンチのほうが不利な状況だ。
ヌンチャクのぶん、ランセサンの方が間合いが長い。
それに連戦のせいもあり、疲労とダメージの蓄積もヨンチが大きい。
ヌンチャクがヨンチの鼻を掠り、鼻血が流れる。
ヨンチは手でビッと鼻を擦って血を拭き取った。
『よくないなぁ』
シュウの言葉とは裏腹にヨンチの顔は追い詰められた者の表情ではない。
戦いを楽しんでいる様子が感じられる。
『それがよくないんだよ』
何が良くないのかわからないが、戦いは続いている。
ヨンチの構えが今までのものから変わった。
体は半身。両手は軽く開き、体の前で上下に置いている。
呼吸もさっきまでのうるさい謎の叫びをやめ、コォォォと息を吐き出している。
ボスもその様子を察し、距離をとりヌンチャクを構えるという万全の体勢を作る。
ヨンチがはき出していた息を止め、体をわずかに前傾させた。
「流派隆運不撓が滅技――」
宣言とともに一歩踏み出す。
一歩といってもその距離はすでに素手の間合いにまで縮まっていた。
「悉砕ッ! 還塵拳ッッ!」
叫び声とともに握られた拳がランセサンへと向かう。
ランセサンはヌンチャクを構えるが、ヨンチの拳はヌンチャクを叩き折って進んでいった。
拳はランセサンの腹を叩き、次いでその体を折り、背中からは何かよくわからない衝撃が視覚として伝わってきた。
たいそうな名前はついているが、要するに腹パンだろう。
そもそもどうして出す技を宣言するのかがよくわからない。
技の名前を叫べば相手に何をするのか気づかれるのではないか。
『無粋なことを言うもんじゃない。伝統なんだよ』
またそれか……。
それでも消えなかったボスはさすがと言える。
その後は何度か殴ったり蹴られたりを繰り返し、ついにヨンチはボスを倒した。
「帰りましょう」
ドロップアイテムを拾ったヨンチは誇らしげであった。
こうしてミンユ峡谷攻略はほぼ見ているだけで終わってしまった。
『まだじゃ。試練は始まったばかりじゃぞ』
アホらしい台詞とともに私たちは峡谷を後にした。
霧の中を歩き、もうじきリエチンの里というところで人影が見えた。
立ちはだかるその男は、語る必要もなく例の老人であった。
「ヨンチ! ただ今戻りました!」
ヨンチはダッシュで師匠の前に行き帰還の報告をする。
老人は何も言わずただ頷くだけだ。
「このヨンチ! メル殿とともにミンユ峡谷を制覇致しました!」
老人はまたしても黙って頷くだけだ。
視線だけでヨンチに続きを言えと促している。
「流派隆運不撓の奥義とともにランセサンを打ち倒しました!」
誇らしげにヨンチは報告していく。
一方の老人は何も言わない。なんだか不穏な空気だ。
「この力があれば、私は弱きものを守り抜くことができます!」
老人はやはり頷きを一つ。
「……師匠?」
ヨンチも不穏な空気を感じたのか老人の様子をうかがう。
しばらくして老人は表情を緩めた。
ヨンチもその顔を見て、安堵の息を一つ。
「こんのッ大馬鹿者めがぁっ!」
見えなかった。
ヨンチの顔があった位置には老人の突き出した拳があった。
突き出されたヨンチはと言うと、体を縦に回転させて後方へ飛び霧の中へと消えてしまう。
だいぶ時間を開けてから、地面に落ちた音が聞こえてきた。
老人に視線を戻せば、すでに背を向けて霧の中へと歩き出している。
まったくもって意味がわからない。
ひとまずヨンチとともに里へ戻ってきた。
正直、死んでしまったと思ったがすぐに目を覚ました。
能力プラスが発動しているとはいえ、あまりにも頑丈すぎる気もする。
「わかりません」
ヨンチは宿屋の椅子に座り、机をジッと見つめている。
里に戻ってからはずっとこの調子で悩み続けている。
「どうして師匠は私を叱ったんでしょうか」
私にわかるはずもない。
こういうときこそお前の出番だぞ。
『さてなー、俺にもさっぱりわっかんないなー』
嘘だ。
間違いなく嘘だ。
これは明らかに嘘だとわかる。
問い詰めようとも思ったが、あえて何も聞かない。
普通なら聞いてなくてもぺらぺらとむかつくぐらい喋るカスだ。
そのカスがわからないと嘘を言うということは、自分でどうにかしろということだろう。
……だが、こいつは男に厳しいから意地悪しているだけかもしれない。
「よし!」
ヨンチはがたりと椅子から立ち上がった。
お、わかったのか?
「わかりません! 師匠に直接聞いてみることにします!」
爽やかで情けない宣言だった。
いいのかそれで。まぁ、本人が良いって言ってるからいいか……。
私には関係ないし。
ヨンチはさっさと出て行った。
『あれは、また殴られるな』
やっぱりそうか。
で、お前は気づいてるんだろ。
どうして老人はあんなに怒ったんだ。
『あれはなんと言えばいいか。チートの暗黒面とでもいうかな』
なんだよチートの暗黒面って、初めて聞いたぞ……。
『簡単に言うと――』
「このッ! 大うつけがッ!」
シュウの説明は怒声によって打ち切られた。
宿屋のおばちゃんも少し作業の手を止めたが、またすぐに手を動かし始めた。
どうやらこの辺りではよくあることらしい。
「本当に何もわからんのか!」
「わかりません!」
「たわけがっ!」
大声と鈍い音と地面を擦る音。
見ていないはずだが、何が起こっているのかはっきりわかる。
なんだかんだで気になって見にいけば組み手が行われていた。
老人の攻撃を弟子がひたすら受けている図だ。
「貴様はなぜ力を求める!?」
「この手で守りたいものがあるからです!」
老人の貫手をヨンチは足捌きだけ避ける。
「今の貴様に何が守れる!」
「この力があれば、人もモンスターも倒せます!」
老人の上段蹴りをヨンチは腕と体で受け流した。
「馬鹿者がッ! その力は所詮一時の仮初め! そんなものを頼っている限り、貴様に守れるものなど何もないわ!」
それもそうだ。
ただのパーティーだから離れれば効果は切れる。
「それならばメル殿について行くだけです!」
ついてこなくて良いです。
『せっかくの永続パーティーを断るの?』
だってうるさいもん。
「馬鹿者が! 借り物の力を自分の力と勘違いしおってからに!」
老人の掌底突きをヨンチは腕をクロスに構えて受ける。
それでも体が大きく吹き飛び、地面を転がる。
「借り物と言えど、力は力ではないですか!」
すぐさま立ち上がりヨンチは叫んだ。
「お前の求めている力は敵を討ち滅ぼす力だ! 守る力ではない! 敵を討ち滅ぼしたその先にはさらに強大な敵が待ち構えている!」
師匠の回し蹴りがヨンチの腹に直撃する。
やはり吹き飛ぶが今度は地面を転がることはない。
両足で地面に畝を作り、やがてその勢いは止まった。
「それならば! さらに大きな力を行使するだけです! そのための奥義ではないですか!」
さきほどシュウの言っていたチートの暗黒面がなんとなくわかった。
『人を試す一番簡単な方法はね。力を与えることなんだよ』
なるほどな。
こいつの言っている力というのは、単純な力でしかない。暴力だ。
「自らの築いた力を踏み締め! それでも足りぬ未熟さを噛み締め! たるんだ心と気を引き締める! 力とは即ち己の弱さの裏返しだ! 自分の弱さを認められぬ貴様が! どうして他人の弱さに気づくことができる!? 貴様にはそもそも守るべきものが見つけられんのだ!」
師匠の言葉の鉄拳に、ヨンチは呼吸を止めた。
「ランセサンに奥義を使ったと言ったな! それは何のためだ! 守るためか!」
「それはメル殿を……」
「馬鹿者がっ! その女らはお前などに守られる必要などないわ! お前はお前のためだけに力を行使したのだ! 守るなどと嘯いて、己の力を振り回しただけだ!」
ヨンチはもはや何も言い返せない。
確かに私から見てもこいつは戦いを楽しんでいた。
師匠が構えをといた。
「奥義を儂に撃ってみろ! ランセサンを倒したというその力を見せてみよ!」
正確には倒した訳ではなく、ヌンチャクを叩き折っただけなのだが黙っておくことにした。
ヨンチは言われるがままに構えを作った。
「流派隆運不撓が滅技――悉砕! 還塵拳ッッ!」
呼吸も、技の口上も、全てボスに撃ったときと同様だ。
傷も癒えているためかあのときより声も大きく、速さも上がっているようにみえた。
『ん? これ……』
だが、効果はまるでなかった。
老人の腹に入った拳はそこで止まった。
周囲の空気は大きく揺れているが、老人は微動だにしない。
「気づいたか?」
老人は静かに問いかける。
この老人が普通の声で喋ったのを初めて聞いた気がする。
「はい……。奥義と呼ぶにはあまりに劣弱。私は、功夫がまるで足りておりません」
「馬鹿めッ! そうではないわッ!」
老人はまたすぐ怒鳴り、同時に足でヨンチの顔を蹴った。
ヨンチが飛んでいくのを見届けることもなく、どこかに走り去っていってしまった。
『西口かな。モンスターが出てる』
シュウの声と同時に悲鳴が聞こえてきた。
悲鳴を聞くや否や倒れていたヨンチは飛び起きて走っていった。
シュウの言うとおり、彼らがいたのはリエチンの里の西口であった。
群れを作ったはぐれモンスターたちに老人とヨンチが立ち向かっていた。
立ち向かっているのは主にヨンチで、老人は逃げ遅れた子供や女、老人を運んでいる。
というか老人の姿が五人くらいに見えているんだが気のせいだろうか。
『分け身だね。本人が戦えば早いだろうに。なんだかんだ言って、ちゃんと弟子の面倒見てる』
老人の分け身とやらの一人がヨンチのうち漏らした敵を片付けていっている。
「ホワチャー! チェイサァ、チャ、ソォオイ!」
もはやうるさいを通り越して笑いが出始めた。
叫び声とともにモンスターは消えていく。
最後の一体の消滅を確認するとヨンチは構えを解いた。
老人も気づけば一人に戻っている。
「モンスター撃破しました!」
老人の近くに寄り、いつものように報告。
「メル殿。これをお返しします」
こちらを向き直り、自身の指に嵌められていた指輪を外して私に差し出してきた。
おや、いらないのか?
つけるだけで強くなれるんだぞ。
また、第一の試練も突破できない弱い状態に戻るが、それでいいのか?
「はい! それをつけても私はやはり弱いままです! 弱さを認め、私は私自身のペースで確かな力をつけていきます!」
そうか。
それがいいんだろうな。
お前が目指しているのは、単純なダンジョン攻略じゃないそうだし。
きっと、このチートを使っても達成できるほど簡単なことじゃなさそうだ。
『心意気は良いね。心意気は――』
含みのある言い方だ。
じゃあ、何が悪いんだと聞き返したくなる。
『心構え。残心ができてない』
ヨンチは何かに気づいたように振り返る。
そこにはまたしても多くのモンスターが現れていた。
「チェリ! シャ! ホヤァ!」
先ほどと同様に叫んでいるが、能力プラスが切れたためなかなか倒すことができない。
私も加勢しようとしたが、老人の視線に止められた。
「バカ弟子が! 今、奥義を使わず、いつ使うのだッ!」
老人が叫ぶと、弟子は振り返ることなく頷いた。
「流派隆運不撓が滅技――」
ん?
気のせいだろうか。
『いや、気のせいじゃない。光ってる』
ヨンチの構えた拳が白く輝きを放っていた。
どういうことだろうか。
「奴は己の弱さに気づいた」
老人は突然語り出した。
「己の弱さを知り、守るべきものに気づいた。自分のためだけに振るう拳はただの正拳突き。だが、今の奴の拳には背負うべきものが乗っている。奥義の奥義たる所以はここにある」
何か解説のようだが私にはさっぱりわからない。
「悉砕! 還塵拳ッッ!」
輝く拳の威力は、能力プラスのときよりも遙かに上がっていた。
拳がモンスターを撃った瞬間に、モンスターは光へと消えてしまった。
……想像していたよりも地味だとは言えない。
それでも倒せるのは一体。
はぐれモンスターは次から次へと出てきている。キリがない。
これはさすがに私も出た方がよいだろう。
そう思ったのも束の間。
老人がヨンチの前に歩み出た。
モンスターとヨンチの間に立ち、くるりとヨンチを振り返る。
「未熟の割に――良い拳だったぞ」
老人は険しい表情を一瞬だけ緩めてそう告げた。
「刮目せよ」
老人はモンスターの方を振り返り、ヨンチと同じ構えを作った。
老人のはき出す呼吸はすでに空気を震わせている。
震わせるというよりも、何かが起こるという奮わせるが正しいかもしれない。
手は輝き、直視することも難しい。
「真・流派竜雲不到が奥義――」
なんか……、やばい……。
私の内側から危機感がわき出てくる。
ここにいてはいけない。逃げろと本能が言っている。
それは私だけではないようで、対峙していたモンスターたちもすでに逃げ始めている。
「霧消灰燼掌」
先ほどまでの騒々しさがまるでなかった。
突きも見えなかった。気づけば宙に手の平が突き出されていた。
宙を叩く乾いた音だけが遅れて辺りに響く。
虚空に手を突き出したが、外したとは到底思えない。
私たちのわからない何かが起きている。
『霧が……』
見れば老人の手のひらから先が鮮明になってきている。
立ちこめていた霧が徐々に消えていっていた。
加速度的に霧は晴れていき、その速さは逃げるモンスターに追いつく。
モンスターは叫び声をあげることもかなわず、霧とともに消えていった。
衝撃はモンスターを消しても止まるところを知らない。
どんどんと霧を消していき、ついに突き抜けた。
そして、夕暮れどきの紅い日が霧の消えたトンネルから差し込んできた。
老人は夕日を背にして、こちらを振り向いた。
「見たか、ヨンチ! これが貴様のいずれ辿り着く領域だ!」
「はいっ! このヨンチ! 確かに双眸に刻み込みました!」
ヨンチは目頭に涙を携え叫び返す。
何か熱いものが込み上げてきたんだろう。
私にはよくわからんが……。
「この馬鹿者がッ! そんな霞んだ瞳にいったい何を刻むと言うのだッ!」
やっぱり鉄拳。
だが、吹き飛ぶヨンチの顔はなぜか誇らしげであった。
翌日、リエチンの里から出発する私の耳に声が聞こえた。
「この馬鹿者めがッ!」
ここで鈍い音。
次いで体が地面を擦る音。
「申し訳ありません!」
そして、やたら元気な謝罪。
今日もリエチンの里は平和そのものであった。