そんなことがあってからは、ユイのお袋さんが少し体調を崩せば、ユイは俺を頼ってくれるようになった。
初めは、お袋さんがほんの少し体調が悪い時だった。
ある日、どうもユイが練習に身が入ってなくて、どうしたのか訊いてみると
『お母さん…ちょっとしんどそうだったんだ』
と、表情を暗くして教えてくれた。
ユイはお袋さんが心配で今すぐにでも帰って看病したいんだと思っているのはすぐ分かった。
でも俺はあえて、ユイはどうしたいんだ?と訊いた。
すると、少し逡巡してから
『お母さんの側にいたい…』
と言った。
素直に言ってくれたことが嬉しくて、笑って行ってこいって言ったら、なんで笑ってんですか…と若干怒られたけど、とにかく行ってきなと押しきった。
けどユイは中々動かず、何かまた悩んでいるみたいで、どうかしたのか?と訊くと、少し顔を赤くしたまま、俺の服の袖を摘まんで
『先輩も…来てくれませんか…?』
なんて言ったきた。
そんな風にそんなことを言われて、付き添わない男なんていない。
ましてや俺には約束があるんだから。
だから俺は喜んでオーケーした。
するとユイも嬉しそうに笑った。
早速皆に俺たちが抜けるのを伝えると、そりゃあもう冷やかしに冷やかされたけど、そんなことよりユイのお願いを叶える方が大事だった。
急いでユイの家へ向かって、帰ってきた実の娘に驚いているお袋さんを宥めて、看病を始めた。
って言っても、側で本当にささやかな補助をするだけなんだけど。
そんで、決まって10時頃になると、ユイに急かされて家へ帰る。
そんな日が度々あった。
そして、そんな日々の中、俺の中で、ある感情が少しずつ生まれ始めていた。
アイツに頼られる度、胸が高鳴って、嬉しそうな顔をする度、俺も嬉しくなる。不安そうにしていると、どうにかしてやりたくなって胸が締め付けられる。衝動的に抱き締めたくなる。
そんな、今まで浮かんだことがなかった感情が。
そしてユイと出逢ってから2週間と少し経ったある日、その日もお袋さんは体調を崩してた。
あれから体調を崩すことが多くなって、すっかり練習への参加は疎らになってしまった。
けど、それが嫌じゃなくて、むしろ…
「お母さん、ひなっち先輩が来てくれて嬉しそうだったね!」
そんな風に俺のことを信用して笑うユイを独占できて、不謹慎だけど、嬉しかった。
「最近はよく来てんだけどな」
でもそんなことはおくびにも出さず、笑ってそう返す。
そしてまたいつもみたいに馬鹿な話を始めた。
この日はそろそろその日も近づいてきた球技大会の話になって、絶対優勝してよ~?と煽ってくるユイに、野球部ばっかのクラスもあるし勝てるわけねーよ、なんて宥めたりしてた。
それでもしつこく優勝をねだってくるユイに、んなことうちに怪物クラスの助っ人がいなけりゃ無理だ~なんて話をした。
そうするとユイは鈴を転がしたような笑い声を上げて、つられて俺も大きく笑う。
時間を見て、お袋さんの様子を見たり、ご飯を作ったりなんかも二人でやる。
ただの家事も、二人でやってると遊んでるみたいで楽しい。
けど、そんな時間は本当にあっという間で、また時計の針は10時に差し掛かろうとしていた。
ああ、そろそろ帰るよう言われんだろうなぁ…なんて、ちょっと残念に感じながら、会話を続けていると…
ガチャ
と、玄関の方から扉の開く音が聴こえた。
その音を聴いた途端に、ユイの顔色が悪くなる。
そしてすぐに血相を変えて、玄関へと走り出した。
「ちょ、ユイ?!」
呼び掛ける俺の声なんて聞こえてないみたいに振り向かずに走るユイに、呆気に取られたが、数拍置いてから追いかける。
まあ遅れたと言ってもたかが家の中、すぐに追い付いたし、それに…
「なんで今日こんなに早いの?!」
こんな大声を上げたら、追いかけなくても聞こえてただろう。
それで、この言葉で俺をいつもこの時間に帰す理由も、はっきりと分かった。
「お父さん!」
ユイの怒声の先は、厳しい眼光を縁なしの眼鏡で隠すどころか、さらに堅そうな雰囲気へと昇華させている、ユイの親父さんがいた。
これが…ユイの親父さん…
人懐っこいユイや、穏やかなお袋さんとは正反対に厳格といった感じで、いかにもユイと反りが合わなさそうだ。
ただ、それでも、それだけで、ここまで実の父親に嫌悪感を剥き出しにするか?
そんなことを考えていると、じろっと俺の方を睨み付けてきた。
「誰だ?」
「えと…日向秀樹、です。ユイの…友達で、時々お母さんの看病を手伝って…「なに?」
俺なりに慎重に言葉を選びながら説明をしたつもりだったけど、何か地雷を踏んでしまったらしく、一層強く睨まれる。
「そんなこと聞いてないぞ。本当なのか?」
聞いてない…?
そりゃ確かに親父さんに言ってあるなんて言われちゃいないけど、そんなまさか…
「………………」
ユイの方を見ると、不満そうに親父さんを睨むだけで、何も喋ろうとしない。
「ユイ、どうなんだ?本当なのか?それともそこの軽そうな男が嘘をついてるのか?」
いや軽そうって……まあよく言われるけどさ…
と、俺はそれくらいにしか思わなかったのに、ユイは何故かキッと顔を強ばらせて叫びだした。
「なんにも知らないのに勝手なこと言うな!」
「なに…?」
「ちょ…?!ユイ、そんな怒んなって!俺は気にしてねえから!」
明らかに一触即発ムードだったので、二人の間に文字通り割ってはいる。
「えっと、すいません多分ユイも言ったつもりだったんじゃないすかね?」
「君には訊いていない。俺はユイに訊いてるんだ」
見た目通り頑固っつーか、融通利かねえなぁ…
でもユイもなんか怒って黙りこんでるし…
「大体、非常識だとは思わないのか?本当に友達かどうかは知らないが、床に臥せっている母親と一人娘の家に男が上がり込むなんて」
どうしたもんかと頭を悩ませていると、どうやら矛先が俺へと向いたようだ。
「それは…そうですけど」
「けど、なんだ?」
「いや…」
「言いたいことははっきりと言え。悪いがこちらは言わせてもらうぞ?俺はこの状況を正直今、とても気持ち悪く思っている」
「きも…っ?!」
「当たり前だろう?知らない男が身内みたいに当然の如く家にいるんだから」
もちろんそんなの親父さんの言うことの方が正しくて、俺の存在の方が間違っているのは分かるけど、だとしてもちょっとカチンとくる言われようだ。
さすがに多少の反論は許されるだろ、と口を開こうとする。
しかし
「ふざけないでよ!!」
俺なんかよりよっぽど早く、よっぽど怒って、ユイが怒鳴り付けた。
「ひなっち先輩は…!ひなっち先輩は、ただ手伝ってくれてるだけ!それをそんな風に悪く言わないでよ!」
「……何が目当てなんだ?」
しかし、親父さんはそんなユイに目もくれず、俺へ問いかけた。
「金か?ユイか?まさかとは思うが、妻か?」
「は?いや俺は…」
「助けた貸しを使って何か要求するつもりなんだろう?言ってみるといい。と言っても何も渡すつもりはな―――」
バシン!
という破裂音と共に派手に親父さんの眼鏡が吹っ飛んで、床を滑っていく。
強烈な平手打ちだった。
「ひなっち先輩は何もしてくれないあんたの代わりにユイを助けてくれたんだもん!ユイのヒーローなんだもん!それを悪く言うなんて絶対許さない!!」
「ユイ…」
今はそんな場合じゃないと分かっていても、その言葉がじーんと胸に染みた。
「ふん…」
親父さんは外れた眼鏡を拾って、もう一度かけながら呆れたようなため息を吐く。
「ヒーロー遊びなんてまるで子供だな」
「――――っ?!この「ユイ…ちゃん…?」
親父さんの言葉を聞いて、再度腕を大きく振りかぶったその時、ふらふらと騒ぎを聞き付けてお袋さんが階段を降りてきていた。
「どうしたの…喧嘩…?」
立っているのも辛そうなまま、ユイと親父さんを交互に見やって状況を確認する。
ユイも流石にお袋さんの目の前で親父さんを叩くのは躊躇するようで、振り上げた腕の行き場を失っていた。
「……っ!」
そしてそのまま親父さんをはねのけて外へと出ていってしまう。
「ユイ?!」
「ユイ…ちゃ…」
ユイが出ていったことで驚いたのか、ふらっとその場に崩れ落ちそうになるお袋さん。
「あぶ…っ」
手を差しのべるも、間に合わない、と思って目を瞑ったが、倒れたような音は聞こえない。
そっと目を開けると、親父さんがしっかりと抱き抱えていた。
俺より遠くにいた気がするんだけど…
「大丈夫か?……気を失っているか」
返答のないことを確認してそう呟く。
その姿は、なんでかさっきみたいな取っつきにくさがなかった。
「って、ユイ!アイツどこに…」
「恐らく近くの公園だろう」
「え…?」
近くの公園っていうと、いつも野球してるあそこか。
でも、なんで…?
「君のことは気にくわないが、どうやら娘は君を気に入ってるみたいだ」
……一言多いなちくしょー。
「だから迎えにいってやってくれ。俺は妻を寝かせてくる。あと…」
何かを思い出したのか、丁寧な動作で階段にお袋さんを座らせて懐からペンとメモ帳を取りだし何かを書き始めた。
ビリっとメモしたところを破り、手渡される。
「これって…」
「妻の携帯のアドレスだ。登録して、君もそこにメールを送っておいてくれ」
「…なんでですか?」
「恐らく、妻は君に近々伝えることが出来るだろう。そのためだ」
「何かって…」
「要件は伝えた。さっさと連れ戻して君は帰れ」
なんつー自分勝手な…こちとらなんも分かってねえっつーのに…!
「ヒーローなんだろ、不安がってるぞユイが」
「…っ、分かりましたよ…ヒーローっすからね」
あんたよりもよっぽど頼りになってきますよ、と心の中で捨て台詞を吐いて俺も家を飛び出した。
親父さんの言葉通り、ユイはあの公園にいた。
ベンチで膝を抱えながら仏頂面で。
「………遅いです」
開口一番それか…
まあ来るって思ってくれてたってことで良しとすっか。
とりあえず、ヒーローは遅れて登場するもんだからな、と軽口で返しておく。
「帰ろうぜ」
「……やです」
「やですって…」
子供じゃねえんだし…って、まだ子供か。
「ま、今帰ってもまたすぐ喧嘩すっかもしんねえし、ちょっと話すか?」
「……喧嘩なんてしないよ」
「嘘つけ」
「本当だよ。お父さん…仕事から帰ってきたらすぐ寝ちゃうもん。お母さんの心配もしないで」
そう言って、ギリっと歯をくいしばる。
じんわりと涙も浮かべ、形相は怒り一色だ。
お袋さんの心配もしないで…か。
だったら、さっきの親父さんの動きは…
いや、もう考えるよりもとにかく訊いてみよう。
「なぁユイ、なんで親父さんと仲悪いんだ?」
「なんでって…あの人すごい仕事人間で、病気のお母さんのこと放っていっつも深夜まで仕事して、帰ってきてもすぐ寝るだけで…ちっともお母さんのことが大好きなんて思えないんだもん」
「でもそりゃ仕方ないんじゃねえか?病気を治すのにも金は必要だし、仕事だってどうしようもないことだって…」
「それでもあたしはお母さんを大事にしてほしいの!」
「……そっか」
大声を出した後、本格的に泣き始めたユイの頭を撫でて落ち着かせる。
抱えていた膝に目を押し付けているから泣き顔が見えるわけじゃないけど、鼻をすすったり、嗚咽の音だったりが聞こえてくる。
「お前、偉いよ」
多分今は何を言っても返事も反論もしてこないだろうと思いながら言葉をかける。
あと今なら顔も見られないだろうし。
「放っとかれてんのお袋さんだけじゃなくてお前もなのに、自分よりお袋さんのこと思いやれてさ」
こんなこと、顔見られながら言えるわけねえしな。
「さっき怒った時だってそうだ、俺が悪く言われて怒ってくれたよな?俺…」
その先を言うのは少し心の準備がいる。
何も深い意味なんてない。
だとしても、やっぱり特別な言葉だから。
「俺…お前のそういうとこ好き…だぜ」
言いきって、ちらっと確認するけど特に動きはない。
「うぅ~!!」
と思ったら急にもぞもぞ動き出した。
「な、なんだ?!」
「………………」
今度は急に大人しく…
「ユイ?」
「ひなっち先輩って…やっぱりあたしのこと好きなんじゃないですか…?」
「んなっ?!」
顔は見えないけど耳まで真っ赤だから照れまくってるのは分かる。
でもマジでそういう意味込めて言ってるんじゃねえんだよな…
「あくまで人柄っつーか、性格の話だっつーの!調子乗んな!」
「じゃ、じゃあ紛らわしいこと言わないでくださいよ!」
「へーんだ、お前が俺のことを意識しまくってるからそんな風に思うんじゃ…ねぇ…」
売り言葉に買い言葉、まさにそれだけの会話の応酬。
…だと、思ってたのに…
俺の軽口を聞いた途端、今まで膝に押しつけていた顔をばっと上げて、紅潮した顔色を浮かべ、まるで何かに気づいたみたいな顔と目で、俺のことを見つめてきた。
思わず俺も吸い寄せられるようにその目を見つめてしまう。
心臓はやたら早いのに、なんでか時間が進むのだけは遅く感じる。
実際はものの数秒なのに、あれ?もう何時間とずっと見つめあってんじゃねえか?って思っちまう。
そんな、馬鹿げた感覚だ。
息苦しくて、段々と頭もくらくらしてくる…でも、目は離せない。
「な…」
ようやく一文字だけ喉から言葉を吐き出せた。
半ば話し方を忘れたみたいな感覚に陥りながら、それでも言葉を引きずり出す。
「なんか…言えよ…」
しかし返事はない。
ただ無言で俺のことを見るだけ。
ユイの時間だけが止まったように動かない。
話さず、眉1つ動かず、まばたきすらしない、一周回って心配になるような時間。
でもそれは、意外なもので幕を閉じた。
ぽとり
「…ユイ…?」
ぽとり、ぽとりと、ユイの目から涙が落ちていく。
「ど、どうした?また親父さんのことか?」
慌てて涙のわけを訊いてはみるけど、首を横に振るだけで言葉はない。
ただ、しばらく変わらなかった表情は少しずつ崩れ始めた。
事実を受け止められないみたいに呆然としていたさっきの顔じゃなく、何か後悔しているみたいな悲しい顔。
耐えきれずに手で顔を覆い始めた。
「ユイ?どうしたんだ?なんか言えって」
「………やだ…」
ようやく反応したと思えばそんな台詞だった。
だけどこのまま引き下がるわけにはいかない。
「落ち着け。泣くってことは、なんか辛いんだろ?話くらい聞くから…俺は…」
そう…俺は…
「お前のヒーローなんだからよ」
「やめて!!」
ドサッ、と地面に尻餅をつく。
え…なんで…?
一瞬、理解が追い付かない。
ただただ呆然と、腕をこちらに突き出しているユイを見て、ゆっくりと状況を把握する。
ユイに突き飛ばされた。
いや、こんな文章だけなら日常茶飯事で、むしろもっと酷いことの方が多い。
だけど、問題なのは今、ここでそんなことが起きたってことだ。
俺は自分なりにユイの欲しがっているはずの言葉を言ったつもりだった。
だって、俺がヒーローであることを望んだのはユイで、ヒーローなら辛いときは支えてやんなきゃいけないはずだから。
でも現実は、ユイは声を荒げて俺を拒絶しただけだった。
「先輩…ごめんなさい…」
頭を真っ白にしていると、頭上からそんな言葉が降ってきた。
顔は涙でぐしゃぐしゃで、声は震えて、きっと心もボロボロなんだろう。
「ユイ…」
助けてやりたい。
でも俺は拒絶された。
ヒーローでいられないんなら、俺はコイツの何としていればいいんだ?
何だったら、助けてもいいんだ?
「ごめんなさい…!」
何も答えは出ないまま、ユイは俺の下から走り去っていった。
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