side Sakura Makiri
ただ、圧倒的な閃光が視界を灼いた。
何も感じはしなかった。身体を魔力で焼き尽くされる感覚も、五体を衝撃で打ち砕かれる感触も、臓腑をズタズタに引き裂かれるイメージも無かった。
あったのは唯、身体の奥の奥、ワタシという存在を構成する骨子のようなものまで響く衝撃。そして全身に満ちていた、尽きることなく湧き出していた魔力の消失。
打ちのめされる。身体でなく、ワタシの意思が。ワタシという概念が。圧倒的な魔力は、虹色の極光の輝きは、破壊でも殺戮でもなく唯それだけを齎した。
「サクラ‥‥」
驚く程に苦しみも痛みもなく、むしろ魔力と存在するための“導《しるべ》”を失った代わりに不思議な充足感が全身を満たしている。
ワタシを暴虐と残酷に駆り立てていた『
其処には魔力に宿るはずのない、人間の感情が確かに宿っていた。姉さんの思いが、想いが伝わってくる。さっきまで散々交わした言葉の中に込められていた姉さんの思いが、直接ワタシの中へと染み渡っていく。
魂など持たぬ仮初めの存在である私の中に、確かに感じた芯のようなナニカ。それが、姉さんの感情、思慕の情に狂おしい程なまでの感謝と歓喜を覚えている。
震えを隠せないままに、声をかけてきた姉さん。ただ眩しいその姿に、ワタシは静かな面持ちで口を開いた。
「ああ、姉さんはやっぱり姉さんだ。いつも眩しくて、いつも綺麗で、いつも強くて‥‥」
「サクラ、私は‥‥」
「いいんです、気にしないで下さい姉さん。何故かしら、とっても気分がいいんです。怒ってもらって、叱ってもらって嬉しいなんて、おかしいですよね」
ああ、なんで泣きそうな顔をしているんだろう。姉さんは何も悪いことはしていないのに。
今になって、漸く分かったんですよ? ねぇ、姉さん。私は何でもいい、姉さんとこうして言葉を交わしたかった。
辛いって言ったら、慰めて欲しかった。耐えられないって言ったら、助けて欲しかった。‥‥悪いことをしたら、叱って欲しかった。
ワタシのやって欲しかったことをやってくれたというのに、あぁ姉さん、どうして貴女は泣いてるんですか。
「どうして、笑ってられるのよ。どれだけ言葉を繕ったって、私がサクラを間桐のお屋敷に遣ったことは変わらないじゃない。
私が遠坂の屋敷で魔術師になる修行をしている間に、サクラは蟲になる拷問を受けていただなんて‥‥どうして、そんな、姉妹なのに‥‥!」
全部を分かって、ワタシを倒すと決めて、実行して、それでも姉さんは哀しいと泣いていた。
ワタシを倒すために全身の魔術回路に負荷をかけて、体中の血管が裂けて血が流れている。筋肉だって断裂しているだろう。それだけの反動が、あの極光にはあったのだ。
それだけの技を行使する決意をして、それでも自分が不甲斐ないと涙する。自分のやるべきことを理解し、心は許容出来ないままに魔術師として必要なことを為すことが出来る。それが、姉さんだった。
だから姉さんは眩しいのだ。強いけど、弱い。でもやっぱり強い。そんな矛盾した、あるいは歪な評価は憧れという形で周囲の皆に表れる。
ワタシを倒さなければ、姉さんが死ぬ。あるいは紫遙さんを助けに行くことが出来ない。
でもワタシが蟲に成り果ててしまったことも、許せない。何が許せないって、のうのうと遠坂の屋敷で暮らしていた自分自身。ワタシの境遇に気づけなかった姉である自分自身。
例えワタシが何も姉さんに訴えなかったとしても、それを悪いことだと言いながらも、それでも気づけなかった自分が許せない。ワタシを助けたい、ワタシを愛したい。そういう想い全てがワタシの全身を姉さんの魔力として駆け巡っている。
もちろん、それは破滅の魔力だ。ワタシという存在を分解し、吹き飛ばそうとする力だ。ワタシを倒すために振るわれた極光そのものなのだから、そんなものは当然の道理。
でも、そう、姉さんの想いを存在そのもので受け止めたからこそ理解《わか》る。姉さんが全力でワタシを愛してくれていることが。
だからこそ、今までの全てが最早どうでもいい。今この瞬間、これほどまでに姉さんから愛されていることに比べれば、今までの憎しみなんてどんな意味があるだろう。
「そう、ですね。憎んだことも恨んだこともあった。ずっと姉さんに憧れてて、姉さんが眩しくて、ワタシと同じ目に遭わせてやろうと思ってました。
でも、もういいんです。だってワタシは言いたいことを全て言ったし、姉さんの想いも全部この身で理解出来た。そして、姉さんがどれほどワタシを愛してくれているのかも」
心を満たす幸せな気持ちと裏腹に、身体の感触が薄れていく。
ワタシという存在を構成していた魔力が吹き飛び、あとは空気みたいに薄くなってしまった殻が消え去っていくだけ。もう、ワタシが消えるまで幾らかもない。
黒い聖杯によって喚び出されたセイバーさんも、消えてしまった。姉さんの極光の余波だけで、『
まぁ、それも当然。いわば依代のようなものだった母胎たるワタシが消えれば、あの子も同じように消え去る定め。いえ、もとよりこの舞台そのものが虚構なのだから、劇が終わってしまえば御用なのだ。
「こんなに幸せなままで、ワタシは逝ける。一時の舞台に喚び出された
ねぇ姉さん、逆恨みで貴女を汚そうとしたこんな私に、とんだ姉不孝な私に、貴女は今までで一番の幸せを与えてくれた。これ以上、何を望むと言うんですか。もう、満足です」
「嘘よ、そんなの、どうして笑っていなくなれるの。もう私は貴女に何もしてあげられないのに! せっかくサクラを理解出来たのに、これからサクラの力になれるのに、一緒にいられるのに!
ねぇサクラ、どうして消えちゃうのよ! 私を置いて、消えちゃうのよ!」
震え、泣き続ける姉さんの頬へと薄れかけた手を伸ばす。
微かに指先へと伝わった感触は、真珠のように光るかけがえのない涙の粒。あんなに強い姉さんが、強くて弱い姉さんが見せてくれた、滅多に見れない弱さの結晶。
そんな些細なことだけで嬉しく感じてしまう私は、感嘆な人間なのだろうか。あるいは卑屈で、どうしようもなく陰湿な人間なのかもしれない。
でも当然のことなのだ。今までずっと姉さんに感じていたどす黒い劣等感が、今こうして一緒にいることで、姉さんと並び立っているという思いが込み上げてくるのだから。
何の負い目もなく、何の暗い思いもなく、ただ隣でこうして一緒に喋ったり、泣いたり、笑ったり、時には喧嘩するのもいいかもしれない。ワタシは唯それを望んでいた。
世間一般の姉妹が当たり前のように、呼吸をするかのように出来ている交わり。それがどうしても欲しかったのだ。だから、もう満足だというのに。
「だって姉さん、ワタシの役目はもうお終いなんです。ワタシにはもう台詞も演技も残っていません。次の幕では、次の役者に演じてもらうだけ。ワタシはもう袖の裏へと捌けなければ」
姉さんは残酷だ。幸せなままに消えていけるはずだったワタシを引きとめようとしているのだから。
もうワタシはどうやっても現世に残ることはない。
いや、もはやこの場所そのものが現世ではなく仮初めの舞台なのだから、この舞台そのものが消え去ってしまう今、ワタシが虚空へと消え去るのもまた必然。
だというのに姉さんはワタシに後顧の憂いを残そうとする。今までワタシなんていないかのように振舞って、ワタシを叱ろうとして、憧れ、嫉妬すら抱く程に強い姿を見せつけていたというのに。
最後の最後で姉さんがワタシに見せたのは、まるで
ワタシがいなければ死んでしまうとでも言いたげなか細い声と震える肩。
「アンタこそ、無責任なことばっかり言って。文句ばっかり言うだけ言って消えるなんて、卑怯じゃない‥‥ッ!」
「あは、そう言われてみればそうですね。でもいいじゃないですか。どうせなら最後まで甘えさせて下さい。それに貰いっぱなしじゃありませんよ。姉さんには、お願いがあるんです」
「‥‥お願いが?」
「ええ。このまま消えちゃうワタシの、最後のお願いが」
最初に相見えた時と変わらず、力強いままに涙を流し、肩を震わせて立つ姉さん。
そんな姉さんの肩に、まるで空気そのものみたいに軽く、希薄になってしまった掌を乗せてワタシは、最後に一番大事で、もう十年ぶりになる“お願い”をした。
「―――“私”を頼みます、姉さん」
「“私”‥‥?」
「そう。きっと今もこの城の何処かで戦ってる、この世界の私を。姉さんの、本当の妹の私を助けてあげてください。
ワタシは姉さんに救われた。もう満足です。思い残すことは何もありません。けれど、きっと私はまだ
姉さんと心を通わせていない。まだ、姉さんとこうやって仲直り出来ていないと思うんです。
だから姉さん、ワタシのために何かしてやれないかって思ったのなら、どうぞ私を、間桐桜を助けてあげて下さい」
ワタシの中にある、紫遙さんの記憶を辿る。
倫敦へと行ってしまった姉さんと先輩を追いかけるわけにもいかず、追いかけられず、ただ衛宮の屋敷で漫然と過ごし、蟲蔵で陵辱されるだけの毎日を過ごしていた私。
そんな私を苦しめていたお爺様を殺し尽くして、解放してくれた大事な恩人。私に新たな道を指し示してくれた紫色の魔術師。
でも、結局のところ私は姉さんとの仲を解決出来ていない。ワタシのように姉さんと思いをぶつけ合ったわけでもなく、“私”のようになし崩しに聖杯戦争へと引き摺り込まれていったわけでもない。
だから実のところ、私を取り巻く状況が変わっても、私の心までもが変わったわけではないのだ。ワタシのような、本当の救いを貰っていない。
汚れたままで、蟲のままでも良いと言ってくれた。ただそれだけのことが、実は蟲から人になったり、綺麗になったりすることよりも遥かに大事だったということに気づけていない。
未だに汚れた自分を、蟲である自分を引きずってしまっている。そんな矮小で卑屈でどうしようもない私を。
どうぞ姉さん、救って下さい。
「‥‥勝手なこと、言ってくれるわよね。私と貴女がこうやって話してたことなんて、あの子は何も知らないっていうのに。突然私からこんな話されたらどんな
顔をすることやら」
「む、それは心外です。勝手なのは姉さんだって一緒じゃないですか。こうやってワタシを吹き飛ばすことで救おうとするなんて、そんな物騒なこと普通は考えたりしませんよ」
「そりゃ確かにそうだけど‥‥いいじゃない、結果的に上手く行ったんだから。上手く行くっていう確信がなかったらやらないわよ、こんなこと」
「はぁ、余裕を持って優雅たれ、なんて遠坂の当主が聞いて呆れます。物騒な、とかつけたら如何ですか?」
「‥‥自分が消えかけてるから殴れないと思って、好き勝手言ってくれるじゃない」
「これぐらい緩い方が、お互い気が楽でしょう?」
「さっきまでシリアスだったじゃない。調子狂っちゃうわよ、もう‥‥」
ワタシのように、ある意味では非常に強引な手段での解決は出来ないだろう。仮に姉さんが突然この話を切り出したとしたら、私の性格からすると先ずは何処から秘密が漏れたのかと錯乱してもおかしくはない。
だからこその、お願い。姉さんには大変なことをお願いしていると分かっている。けれど、そんな甘えを許してくれるとも、分かっている。
つまるところ本当に残酷なのは、姐さんの言う通り、ワタシなのかもしれない。勝手にお願いをして、勝手に消えてしまうのだから。
結局はどちらも同じくらい卑怯で残酷で、そして互いに想い合っている。ああ、何回心の中で叫んだことだろう。どうしてもこんなに、嬉しくて仕方がない。
「‥‥さぁ姉さん、もうこの空間は崩れます。どうぞ行って下さい。そして紫遙さんを‥‥助けてあげて」
「サクラ‥‥」
「ワタシは蒼崎紫遙、あるいは村崎嗣郎という人物の記憶を媒体にして生まれた虚像です。故に現在その殆どを記憶の再現に使っているこの城のことは大体分かりますし、紫遙さんが今どんな状況にいるのかも。
だから姉さん、急いで。コンラート・E・ヴィドヘルツルに紫遙さんを害する意思はありませんが、それも研究のためならばどう変わるか分からない。急がなければ、紫遙さんの精神が保たないかも‥‥」
そう、ワタシは一人の人物の記憶という曖昧なもので固定された概念。その存在は擬似固有結界『メモリー』によって作り上げられたこの異空間の中でしか維持出来ない。
本来ならばコンラート・E・ヴィドヘルツルという魔術師が保有することの適わない無限の魔力をワタシが操れているのは、この異空間の中でのみ循環されるう特殊な式を、あの魔術師が張り巡らせているからだ。
つまり全ての
ワタシ達の他に舞台は二つ。姉さん達があまりにも多すぎたからだろう、バラバラにされた一行は逆に各個撃破を見事に退け、それぞれがそれぞれの敵を退けていた。
あるいはそれを、人は順調と呼ぶのかもしれない。けれどワタシには分かる。コンラート・E・ヴィドヘルツルは正真正銘の大魔術師だ。姉さん達は三手に分けられたけれど、それは果たして三つの舞台しか用意できなかったという意味なんでしょうか。
封印指定。あらゆる魔術師にとっての最大の栄誉であり、最大の厄介。そんなものを受ける魔術師が、どうして姉さん達が簡単に御せる相手だと思えるのでしょうか。
全ては、あの魔術師にとってしてみれば戯れ。
大富豪というカードゲームに例えてみるならば、2やA、あるいはジョーカーやスペードの3を持っている状態で弱いカードでの戯れを楽しむようなこと。
こうして姉さん達が必死で戦ったところで、全てはあの魔術師の掌の上。故に、何よりも大事なのは敵の戦略に手を打っていく対処療法ではなく、ゲーム盤ごと全てを引っ繰り返す力業。あるいは速攻。
何より相手があの狂人ならば、何をしでかすか分からない。
彼は紫遙さんに対して変態的な執着を持っているみたいだけれど、それもまた彼の目的を‥‥上位世界へ達するという彼の目的を果たすためのもの。
ならば某かの手段によって上位世界へ至ることが可能だと知れた瞬間に、紫遙さんの安否に関係なくその手段を実行しかねない狂人がコンラート・E・ヴィドヘルツルという魔術師だ。
下手すると『彼の尊い自己犠牲によって我々は高次元の存在へと消化されるっ!』とか叫び出しかねませんし。
「最初の目的を、忘れないで。私みたいな虚像よりも、紫遙さんの方を気にかけてあげて下さい」
すでに世界は存在を薄れさせてきている。
全体が希薄になってくるわけではない。存在濃度の高い場所あら順に薄れていき、強度が脆くなったところは、まるで現実の物体のように崩れていく。
いくら姉さん達がこの夢のような空間に紛れ込んだだけだとはいっても、ここでの死は決して精神の死などという生やさしいものじゃあない。それは純粋に、只の死。
ならば、今すぐに解れた疑似固有結界の隙間を縫って現実の空間へと戻らなければ。姉さん自身のために、紫遙さんのために。‥‥そして、おそらくは“私”のためにも。
「‥‥サクラさん、お祈りは要りますか? 私は一応、司祭の地位にありますが」
「えぇ、いえ、結構ですシエルさん。映画の登場人物に感情移入しても、死を悼んでも、祈りを捧げる人はいないでしょう? 私もまた同じ存在。ならば、祈りは実在する人のための助力に替えて―――」
聖書を取り出したシエルさんの申し出を、ワタシは頭《かぶり》を振って断った。
ワタシと姉さんとの会話に口を挟まず、見守っていてくれた年上の先輩。ワタシと同じ、いえ、さらに惨い境遇を経ながらもにこやかに笑ってみせる強い人。
だけど、ワタシに祈りは必要ない。これから消え去るワタシに、行く先も分からず、おそらくは虚無へと消えていく虚像への祈りなんて必要がない。
「‥‥サクラ」
「さぁ行ってください、姉さん。‥‥ありがとう」
最後に感謝の言葉を呟くと、マキリサクラという存在を構成する外見要素のすべてが霧となって虚空へ消える。
けれど、それは外見要素だけ。まだマキリサクラの意識や存在の概念は不可視の魔力となって空間に残っていた。周囲に干渉は一切できない、ただの意識として。
それを知ってか知らずか、時間がないというのに姉さんはその場で黙って目をつむり、俯いていた。ワタシを悼んでくれているのだろうか。それとも改めて後悔しているのだろうか。あるいは、絶望していたのかもしれない。
けれど次の瞬間に勢いよくあげた顔には、ワタシが一番欲しかった表情が浮かんでいた。
ワタシのことを思いやる優しい顔でもなく。
ワタシの境遇を悼む哀しい顔でもなく。
ワタシへの仕打ちを悔いる絶望した顔でもなく。
其処に表れていたのは、ただただ真っ直ぐな決意を込めた瞳。
誰もが憧れる、ともすれば眩しすぎて目を逸らしたくなる輝き。ワタシ達のような人間には近寄ることすら忌わしい正道の光。
けど、だからこそ、それでこそ。
それだからこそワタシは姉さんに憧れた。憎んだ。妬んだのだ。そうでなかったら影を使って縊り殺しておしまいだったろう。そうでなければ、これほどまでに執着しなかったことだろう。
だからワタシが憧れた姉さんこそ、最後に見たかった人そのもの。
その太陽みたいに強い光に照らされて、包まれて、抱きしめられるような感覚。
まるで姉さんに抱きしめてもらっているかのような感覚の中で、ワタシの意識も、薄れていった。
―――嗚呼、だから姉さん。
―――姉さん。
―――姉さん、ありがとうございました‥‥
◆
「―――うわぁッ?!」
普通の寝起きにはない、まるで全身隈なく重いハンマーで殴られたかのような衝撃で、オレは自分のベッドから起き上がった。
心臓の鼓動が急激に引き上げられて悲鳴を上げている。安らかな睡眠から一気に恐慌状態へとギアを引き上げられた脳に血液が集まり、パンクしそうだ。ドッと噴出した汗のためか、全身の汗腺にも無理やりこじ開けられたような刺すような痛みが襲っている。
「なん‥‥だ‥‥?」
まったくわからない、突然の恐慌状態に何よりも先に感じたのは疑問だった。
間違いないのは、ついさっき、今の今まで自分は安らかな眠りの中にいたはずだという確信。何の予兆も理由もなく、突然オレはこのパニックの中に放り込まれたに違いない。
寝そべっていたベッドのシーツを触れば、ほとんど汗に濡れていない。たぶん、この汗はオレが悲鳴を上げて飛び起きてからすぐに噴出したものなんだろう。
シャワーを浴びたあとだって言っても不思議じゃないくらいの汗なのに、その理由とパニックの下人が何も思い当たらない。悪夢を見たのなら継続的に魘されていたはずで、だとしたらこんな突然に汗をかくはずがないのだ。
「頭‥‥痛い‥‥。水でも飲んだら、よくなるか‥‥?」
絶賛絶不調だった。
心臓と頭、汗もさることながら、手足がこれでもかってぐらい震えている。
見上げた清潔で真っ白い天井はすっきりした目覚めを促すはずなのに、それ以上に体の不調が酷すぎて心が休まらない。むしろ今は寝ることで安息を得るよりも、動いて気を紛らわせたほうがいいってぐらいに。
どれほどまでの恐怖に遭遇すれば、ここまでのパニックに陥るだろう。
突然の発汗も疑惑のてんこ盛りだったけれど、こちらもこちらで同じくらいの疑問。今まで、一度たりとも遭遇したことがないパニックに、どうして寝てる間に遭遇したのだろうか。
人間の想像力というものは時に現実の出来事を凌ぐとは思うけれど、それでもオレという人間の持つ経験から生まれた想像力がイメージできる恐怖には限界があるはずだ。少なくとも、悪夢の類なんかじゃ決してない。
「‥‥水」
ふらふらと、おぼつかない足取りでロフトベッドから降りる。
六畳ほどの丁度良いオレの私室は、まぁ男子高校生らしく程よい生活感に包まれていて、その辺りは特に感慨深いものじゃないだろう。
特筆すべき点もない、ごく普通の部屋。最初からあった部屋に、必要な家具やら趣味の品―――少量の少年漫画やらCDの類、あとは勉強道具ばかりだ―――が棚に押し込まれているだけ。
唯一、高校生男子が持つには微妙に過分な大きさのCDコンポぐらいがオレの趣味をはっきりと主張している。たぶん相当にオヤジくさいと思われるけど、オレの趣味はクラシックやオペラ、ミュージカルの鑑賞だった。
「‥‥普通の棚、だよな。なんかこの並びに一瞬違和感を感じたけど‥‥気のせいか?」
CDが並べてある棚を見ても、違和感なんてものは殆どない。
“違和感を感じた”というよりは、“違和感を覚えるはずだ”という違和感を覚えたと言った方が正しいような感覚だった。
実に回りくどくて分かりづらいけど、そういう表現が一番しっくりくる。しかしその理由もはっきりしない。実にもやもやした厭な気分である。
自分が今何処に、あるいはどの時間にいるのかすら不確定な感覚が、たまらない気持ち悪さを生み出した。
「いかん、授業の準備をしてしまわないと。‥‥今日は、一限から体育だったか」
まるで自然に、体が動く。昨日の内に朝やるべきことのプランは大体が立っているとはいえ、先ほど陥った恐慌状態や微妙な違和感を考えると不思議なくらいスムーズに鞄の中へ今日の授業に必要なものを突っ込んでいく。
何処になにがあるのか、なんて当たり前のことを当たり前のままに考えられるのは、また同じように当然なこと。けれどそれでも物の置き場所なんてどうでもよいことを忘れてしまうのが人間という生き物で、それにしては何も考えないままにスイスイと教科書や筆記具、ノートを手に取っては小さな鞄へと放り投げた。
「‥‥小気味いいような、悪いような。変だな、まるで寝てるのに体が動くみたいだ」」
部屋に備え付けの鏡を見ても、映るのは見飽きた自分の顔。
そも一晩寝た程度で何が変わるというわけでもないはずなのに、何故かどうしようもないぐらい不安な波に襲われる。突然、自分という人物が変わってしまったのではないか。あるいは誰かが、自分になりすましているのではないか。
自分という存在は、自分と入れ替わったその人物に宿った意識、あるいは幽霊のようなもので、本体はとっくの昔に乗っ取られているのではないか。
‥‥友人が聞いたら鼻で笑った後、あちらこちらに言いふらして盛大に笑い話へと変えてしまいそうな妄想を、未だに鈍痛がやまない頭を無理やりブンブンと振りたくって追い払った。
「―――ちょっとアンタ、さっきから一人で何やってるの?」
「え?」
「え、じゃないわよまったく。昨日は夜遅くまで居間でゲームやってたんでしょ? それのせいで寝とぼけてるんじゃないの?」
くるりと視線を後ろの方へ移動させると、そこには一人の女性が呆れたように立ち尽くしていた。
歳の頃は四十ぐらいだろうか。少なくとも五十には達していないだろうし、三十というには微妙に若すぎる。どこにでもいる、ありふれた主婦という風体。
「母、さん‥‥?」
「あらあら、ほんとに寝とぼけてるみたいね? 鍵がかかってなかったから勝手に入らせてもらったけど、もうそろそろいい時間よ? これからすぐにご飯食べて、支度して、急いで出なきゃ一限に間に合わないんじゃないかしら」
また振り返って壁に架けてある時計の方を見ると、大きめのデジタル時計―――アナログ時計はカチコチという秒針の音が耳触りで嫌いだ―――は既に普段の起床時刻の三十分も後を指していた。
ハッと、圧倒的な事実を前に一気に意識が覚醒する。オレの家から高校までは総計三十分ちょっと。結構近いけど、流石に授業が始まる十分くらい前には到着しておきたいところだ。
ましてやシャワーを浴びたり朝食を摂ったりすることを考えると、急いだほうがいい。
「いっけね、こりゃゆっくりしてらんないや! 起こしてくれてありがとう!」
「分かったから、とっととシャワー浴びてきなさいな。朝ごはんは準備しておいてあげるから」
椅子の背にかけてあった制服一式を掠めるようにして取ると、急ぎ足で風呂場へと向かう。
即座に飛び込んで、出始めの冷たい水を顔に浴びせた。春も近いとはいえ冬場の冷水の温度はもはや暴力的なまでに凍えるけど、体と脳みそを冷やせば確実に意識は覚醒するものだ。
体を拭き、風呂場から直接つながったリビングダイニングへと向かう。
食卓には普段通りの朝食が広がっているけれど、ちょっと今日は時間がないのでゆっくりと味わっている暇はないだろう。ちょっと早食いっていうのは体によくないから嫌いなんだけど、仕方がない。納豆ごはんを勢いよくかっ込み始めた。
ちなみにウチの納豆は卵とネギだけの簡素なもの。カラシは抜くけど、納豆パックについているタレはしっかりとかける。
昔は大根おろしを入れてみたり、キムチを混ぜてみたり、山芋と一緒にしてみたり、麺つゆを使ってみたりしたんだけど、やっぱりシンプルイズベスト。
個人的には納豆ごはんに、味噌汁と漬物があれば他にはなにもいらない。これはもう日本人としてDNAに組み込まれているのではないかと思うぐらい、オレの食生活にぴったりと合っている。
ベーシックなキュウリや白菜の浅漬けも大好物だけど、今日の食卓に上っているのはあまりスーパーなどでは一般的ではない白瓜の漬物。
加熱した瓜とかはあんまり好きじゃないから最初はどうかと思ったんだけど、これが食べてみるとびっくりするぐらい美味しい。キュウリや白菜がシャキシャキしているのに対して、城瓜はコリコリと独特の分厚い噛み応えがある。
以来、白瓜の旬を待ち望むようになってしまうぐらい大好きになってしまった。
「アンタ本当にそれ好きよねえ。たくさん作っても父さんと二人で一日もしない内に食べ尽くしちゃうんだから」
「いや、だってこれおいしいし。ついつい箸が進んじゃうんだよねぇ‥‥」
「はいはい。また作ってあげるから、急いで食べ終わっちゃいなさい。ホントにいい加減にしないと今度こそ遅刻するわよ!」
「あぁ、確かに」
母さんの忠告に従って、半ば飲み込むようにして朝食を終えると洗面所で歯を磨く。
やっぱり納豆は好きだけど、これを食べるとしっかり口臭対策をしなくちゃならない。いくら女子にモテたいとか積極的に思ってるわけじゃないとしても、それでも身綺麗にしておかなければ好かれる以前に嫌われてしまうことは請け合いだ。
「忘れ物はない? 今日は何時に帰るのかしら?」
「そんなに遅くはならないと思うよ。夕飯までに帰れなかったら、またメールするから」
「そう。それじゃあ気を付けて行ってらっしゃい、嗣朗(しろう)」
「おっけー、行ってきます」
オレの残した食器を洗いながら、キッチンから顔を出して声をかけてくれる母さんに挨拶、玄関を出る。
貿易商をしているらしい父さんのおかげか、一般的なレベルではあるとはいえ一戸建ての家は、三人暮らし―――比較的頻繁に母子家庭―――にはちょっと広いかもしれない。
生まれたときから十五年以上も住み続けている我が家。
朝から続いた違和感は、朝食の前ぐらいにはほとんど払拭されていたはずなのに、何故だろうか。
振り返って眺めたオレの家には、
『村崎』の表札がついたオレの家には、
どうしてだか、どうしようもない既視感を拭い去ることが出来なかった。
88h act Fin.