リハビリがてら、ロード・エルメロイⅡ世の事件簿で番外編を書いてみました。
といっても出てきてるのライネスだけですが。
ライネスかわいいですよね。想像通りのライネス。
でもグレイたんがかわいすぎて生きるのがつらい。もっとこう、どよーんとした感じの陰なキャラ描写かと思ってたんですけど、すごいかわいい。
というわけで一万文字とボリュームは少なめですが、番外編は2部構成でお届けする予定です。どうぞよろしく。
side Reines El-Melloi Archisorte
大英帝国博物館には、一部の職員や学芸員しか入れないエリアがある。一般人は「STAFF ONLY」の看板を見れば無理には入らず、普通の職員や学芸員は“何故か”入ろうとは思わない。そんなエリアがある。
メイドを引き連れた私は目立つだろう。博物館を歩きながら、観光客からの視線を感じる。確かにこんなご時世、メイドを連れて歩くなんてコスプレ紛いの目立ちたがり屋だ。誰もが
ただ、それだけ。
「おかえりなさい、ミス・アーチゾルテ」
「ご苦労」
受付嬢ーー何代も前から変わらないらしいーーに挨拶し、門をくぐる。手狭ながらも上品なロビーを抜け、重厚な階段を降りて地下へと潜っていく。
奥へ。ひたすらに奥へ。ある程度の階からは行き交う人の姿も殆ど見られない。奥へ潜るごとに魔境をのぞかせる時計塔では、そもそも下手な魔術師では迂闊に下の階へと降りることはしないのだ。
現に今も、チリチリと肌を刺すような魔力の波長を感じる。自分程度の魔術師に対してでも、まぁトリムマウ抜きでも害はない程度の索敵用の術式だ。とはいえ迂闊に変なところに入り込めば、ロクデモナイことに巻き込まれるだろう。毎年、何人かの下手な魔術師が行方不明になっているのだから。
「やれやれ、どうしてこんな深い階層なんぞに工房を構えているんだろうね彼は」
これ以上、下の階層に潜るのは危険。そのぐらい深いところにある一つの扉の前で立ち止まる。何の変哲もない、特に特徴らしい特徴もない普通の扉だ。普通の人間や、研鑽の足りない若造や、ポッと出の魔術師が見るならば。
意識して“目を凝らせば”すぐにわかる。五大属性それぞれが、不活性の状態で固定されている。魔術に必要な主要素が機能しないのだから、ひとたびこの『秩序の沼』に囚われれば、あらゆる魔術は起動しない。
まぁ我が義兄上に言わせれば、破る方法はいくらでもある。強制的に活性要素をたたき込むとか、虚数領域を反転させるとか。しかし現実的に、その程度のことに対策を講じていないわけもなく。となれば悪戯心も抑え、上品に
「‥‥やぁ、ライネス嬢。おはよう。珍しいね。どうしたんだい朝早くに、こんなところまで」
「やぁ我が兄弟子。ちょっと君に用事があってね。入ってもいいかな? 生憎と
「ダイニングぐらいなら構わないよ。そもそも嫁入り前の淑女と一対一で部屋の中、というのが良くないしね」
「おぉ感動で涙がこぼれそうだ。気遣いいただき、恐縮だな。では失礼するよ」
ノックに応じて姿を表したのは、清潔感があるというよりは無地、無個性な白シャツの若い東洋人。擦りきれた紫色の、悪趣味なバンダナを額に巻き、濃い煙草の匂いを漂わせている。
もちろんロックアーティストなんかではない。蒼崎紫遙。世界に四人しかいない魔法使いと、封印指定の人形師の弟にして、時計塔でも一大派閥として名を広めつつあるエルメロイ教室の兄弟子だ。
「相変わらず辛気くさいな君の部屋は。というか普通,工房を私室として使うものかな。しかも魔法使い用に時計塔から用意された工房をさ。我が義兄上ですらちゃんと外にアパートをとっているぞ」
「何かと物騒な立場だからね。このぐらいの方が、かえって安心するのさ。そう頻繁に外に出かけるわけでもないし、不便はないよ」
「不便というよりは、人間としての尊厳の問題な気がするがね私は」
部屋の隅にたくさんの書物が積み上がっている。埃っぽくはないから掃除はしているのだろうけれど、信じられないくらい散らかっている。几帳面に整理整頓する義兄とは大違いだ。
入ってすぐにダイニングがあり、その向こうにキッチンと、おそらくは風呂やトイレもあるのだろう。魔眼の調整をさせたことがあるから知っているが、ダイニングの両側にはそれぞれ作業場と、確か寝室があるはずだった。
倫敦ならちょっと豪華な一人暮らしだ。この街も随分と地価が高くなったから、怠惰にも古風の言葉に付度して放置されているオンボロのアパートメントにでも入るのでなければ、トウキョウもニッコリするような狭い部屋で暮らさざるをえない。
義兄上もエルメロイの一族が手慰みに保有しているアパートで、しかも何故か家賃までしっかりと納めて暮らしている。あのアパートも、まあ古いこと以外は贅沢な部類だろう。
「コーヒーと紅茶、どっちがお好みかな?おすすめはコーヒーだ。適当に入れても、まぁ飲める味になる」
「じゃあコーヒーをもらおうか。周りは紅茶党ばかりでね。たまには野蛮な味に親しむのも悪くないだろう」
だが、せめて水だけは用意させてもらおうか。
こういうときに備えてトリムマウにある程度の飲み物、軽食は携帯させている。二人分ぐらいの水なら常備させているから、少なくともこの地の底に無理やり引っ張ってきているものよりマシだろう。
「うむ、悪くない。たまに飲むと良いね、コーヒーも」
「本当は紅茶の方が好きなんだけどね。日本人はカフェインに強いから、このぐらい苦くて強い飲み物じゃないと中々眠気は晴れないんだよ。だから常飲してるのはこっちかな」
「概ね肉体的に劣った人種なのに、妙なところで頑丈だよな君たちは。あぁ、一応言っておくけど、私は積極的に人種差別をする性分じゃない」
「‥‥人種で人をイジるぐらいのことは平気でする性分だけど、ね」
ソファなんて気の利いたものはないから、床が悪いのか微妙に傾いた椅子に腰かけ、コーヒーを啜る。来客用の真っ白なコーヒーカップだ。彼は鈍器みたいなマグカップを傾けていて、あんな量飲んだら私なら一日二日は眠ることができないだろう。
奥の方の棚を見れば、他にも豪華・優雅・強靭なんてイメージの目立つカップや、使い古した青いマグカップ、橙色のティーカップも並んでいる。こんな辺鄙なところにあるのに、そこそこ訪問客はいるらしい。
「で、いったいどういう用事だい? いくらエルメロイの姫君でも、こんな場所まで来るのは褒められたものじゃない」
魔術師としては一段上にいる兄弟子の目が鋭く私を射抜く。
そもそも私と兄弟子は、私の魔眼の調整を頼んでいるほかはティータイムの話し相手ぐらいの関係だ。こうしてアポイントメントもなく気軽に、それも知り合いとはいえまがりなりにも魔術師の工房に来るということは考えられない。
「なぁに、親愛なる義兄上殿は所用で外している。しかし私のところに、どう考えても義兄向きの相談が舞い込んできてね」
「プロフェッサ向きの相談? また「
「否定はしない。つまり、私好みの案件ということさ」
なるほどロクでもない姫様だ、と口だけで言われた気がした。もちろん承知の上である。この気の強くもなく、しかし媚びることもしない青年の態度は不思議とお気に入りだった。
もっとも私に媚びる魔術師など、今の時計塔にはいない。エルメロイの名誉や地位など、とうの昔に地に堕ちた。侮られる方がはるかに多い。
‥‥とはいえ時計塔でも若者が多いところに出入りしていれば、妙に絡んでくる男たちが多かった。若いって素晴らしいな。私も若いが。
「相談というのは、このところ世間を騒がせている連続殺人事件についてさ」
「聞いている。随分と醜い愉快犯らしいね。少なくとも品の良い殺し方じゃあない」
「最初の被害者が見つかってから一月になるが、警察も足取りは掴めていない。品性はさておき、抜け目のない犯人だ。そして業を煮やして我々にお鉢が回ってきたわけだが」
だからこそ、どうしても彼らで手におえない事件というのは我々、魔術師が捜査に加わることもある。もちろん最初から時計塔に所属する正規の魔術師に話が来ることは殆どない。まずはフリーランスや、時計塔でも小遣い稼ぎに熱心な連中などが取り掛かる。
そして、大体の事件というのはそこで終わる。殆どの事件は神秘が関わっていることなどない、ただの迷宮入り。勿論そんなものは逆に、犯罪捜査の専門家ではない魔術師の手におえない。そして他の事件はといえば、神秘の漏洩の阻止という時計塔の第一原則に反しないものであるならば黙認だ。手を出すメリットに、デメリットが釣り合うわけがない。
だからこそ、いわゆる木端魔術師や傭兵を乗り越えて正規の魔術師まで噂が届く事件というのは珍しく、その段階で大概は厄介な案件なのだ。
「いや、はぐらすのは優雅じゃないぞライネス嬢。仮に君の言ってることは本当だったとしても、やっぱりプロフェッサや君の耳に直接届くような話じゃない。単純に“警察が手をこまねいている”程度の事件に首を突っ込まされるなんて、普通の魔術師からしてみれば侮辱されてるにも等しい俗な案件だ。いったい何を隠しているんだ」
ほうら、キタ。
人知れずニヤリと心の中だけでワラウ。本当に、この男はおもしろい。義兄がおもちゃなら、彼はゲームパートナーだ。駆け引きを楽しむだけの余裕がある。姉の仕込みがいいのか慣れているのか。どちらにしても大歓迎だが。
「‥‥ガイシャからは僅かに魔力の残滓が確認できた。元々オカルトめいた手口、演出で有名になってる連続殺人犯だ。我々が動くには十分な与太話になったわけさ」
「魔力の残滓、ね。犯人が魔術師の可能性がある、と?」
「あぁ。もちろん今のままでは神秘の隠匿が破られるほどのものじゃない。ただ犯人が見つからないってだけの、オカルト的猟奇連続殺人事件。とはいえ、もし犯人に何か魔術的目的があり、世間を欺く余裕を失い、目的のために手段を選ばなくなったならば」
「神秘の漏洩を犯す可能性は十分にある」
「
複数名の殺人なんてものは、魔術儀式ではポピュラー過ぎて例の枚挙に暇がない。ある程度の真っ当な魔術師なら、殺人歴があっても全く不思議じゃない。目の前の、このつかみ所のない平凡な兄弟子にも殺人歴はあったはずだ。
一度に何人もの殺人が必要になる儀式。時期を問わず死体だけが必要な儀式。今回、一番厄介な事例として考えているのは“ある程度の期間で何か規則性をもった複数名の殺人が必要になる儀式”だ。
資料を見る限り、何らかの規則性があるのだろう。ある程度の調べもついている。ゴールは分からないが、もしまだ複数名の殺人が必要となるならば、今のこの一般人でも不可能ではないだろう殺人ではなくなり、神秘の存在を確信させてしまうような殺人に発展しかねない。
そうなると時計塔も本腰を入れてかからざるをえない。すぐに事件は終着するだろう。本気を出した時計塔の
「
「‥‥清々しいぐらいえげつない笑い方するねぇこの姫様は。分かったよ。とりあえず資料をくれ。一日読み込んで、それから出発でいいかな?」
「あぁ構わないとも。期待しているよ、
漸く、やる気になってくれたか。
私は頭が回る方だと思う。歳の割には、とつくが、政争を得手としている以上は必要不可欠な能力がしっかりと身についている。
一方で義兄上のようなゲームメーカーにはなれない。どうにも、認めざるをえないことだが、私は脇役気質だった。黒幕が板に付く系の脇役だ。名優になれても主役にはなれない。少なくとも、今のところは。
この男は自分では気がついていないが、立派なゲームメーカーだ。場をひっかき回し、自分の望む展開を作り上げ、それを掌握する。程度の差はあれ、ゲームメーカーにはそういう能力がある。私はまだ経験不足で、そういうことはできないが、この凡庸な男は凡庸なままで、妙なリーダーシップでそれができてしまう。
いいさ。今の私はまだプレイヤーたりえないが、マネージャーではある。彼は今回の、私にとっての
とはいえ、まだ枚数が足りない。もう何枚か
あまり気乗りはしない札を何枚か思い浮かべ、私は薄暗い部屋を出た。
「俺じゃあ
「あまり謙遜するな。レストレードだって名警部さ」
「どうだかね」
さて、義兄がいない間の暇つぶしだ。手柄なんて二の次、本当はおもしろい騒動になってくれればそれでいい。
最近は小粒の話題ばかりだったから久しぶりの大事件の香りに胸の高鳴りが抑えられん。
玩具にするには些か賢しいが、今回も私の楽しみを彩っておくれよ、我が兄弟子よ。
◆
そこはロンドンでも比較的治安がよく、そこそこ豪華なアパートが立ち並ぶ区画であった。観光客、あるいはビジネスで長期滞在する者のためのコンドミニアムもある。豪邸というほどでも、貴族街というほどでもない。絶妙に治安と羽振りのいい場所で、あまり事件とかが起こる雰囲気ではない。
しかし今は
既に市警の上層部と話が済んでいるらしく、ライネスが身分を伝えれば恙なく現場へ入ることができた。「なんなんだこいつら」という目線をそこかしこから感じるが、担当者の応対は丁寧だった。
ちったぁ豪華な集合住宅の一室が現場だった。この集合住宅の中には一人も警官が配置されていない。‥‥すぐにその理由は分かった。玄関のドアに手をかけただけで伝わってくる、濃厚な死の気配。ドアノブを回し、ドアが開くか開かないかってぐらいで感じる血煙の匂い。
「‥‥成る程、そりゃこんなところで立ってたら普通の人間なら気が触れるな」
「君も嗅覚を切ってしまえばいいんだよ」
「それは魔術師としての器用さの証明にはなるけど、まがりなりにも調査に来ている以上は五感を活用する方針なんだよライネス嬢」
ぴちゃり、と足下で水音がした。なんてことはない、多少薄まってはいるけれど、床は文字通りの血の海だ。床上浸水ならぬ、床上流血ってところか。あまり笑えない冗談だな。
この部屋で事件が起こってから、そこそこ時間は経っている。資料にもあったが、犯人はどうやらわざわざ血と水を混ぜ合わせたもので血の海を作ったらしい。これは十分猟奇的と言って差し支えないだろう。
「これは‥‥潮の匂い、かな? あまり海の近くにはいかないから馴染みはないが」
「イギリスも島なのに珍しいな。これ、たぶん海水だ。海水と血を混ぜ合わせたんだろう。意味はまだ、わからないけどね」
流石に警察もコレを舐めたりはしないだろうし、特に意味がなさそうだから資料には書かなかったのだろう。俺も舐めてみる気にはならないが、間違いなく海水の匂いだ。
かろうじて靴の中までは浸水しない、という程度の血の海を踏み越えて居間へと入れば、そこは床どころか壁一面も真っ赤に染まっている。流石に堪えたのか、背後でライネス嬢が息を押し殺すような、くぐもった声を漏らす。
ホトケさんは居間の中央、何もないところに未だ血塗れで横たわっていた。
「‥‥まぁ、想像したほどは悪くないな」
喉の左右、顎の裏にあたる部分に一カ所ずつ、合計二カ所の深い刺し傷。これが失血の直接的な原因か。目玉は抉られた上で眼窩に再び填め込まれたからか微妙に外に飛び出している。不自然ながに股は股関節を外されたのか、両手を挙げた姿勢と相まって、不謹慎ながらカエルのような状態だった。
そこそこ裕福な独身男性で、些細な怨みぐらいは買っていても、ここまでされるような人間関係には心当たりがない。物盗りでもなければ、遺産騒動になりそうな経歴もないし、彼が死ぬことで特別誰かが得をするということもない。
絵に描いたような不気味な事件だ。まぁ、それも当たり前で、彼に至るまでに既に複数名が同様の手口で殺されている。まごうことなき、連続猟奇殺人である。
「それでライネス嬢、ガイシャから魔力の反応がある、と?」
「あぁ。確かに、この眼で視てみれば資料の通りだ。微弱だが、魔力の残滓が視える。どういう魔術をかけたのか、あるいは魔術に縁あるもので殺したのか、そういうところまでは分からないけどね」
「ふむ。となると、プロフェッサに倣うなら殺しの手段を探る意味はない。とはいえあの人はちょっとサブカルチャーに
魔術は過程を重視しない。魔術師にとって結果のみが一番であり、その結果を出すために過程を用意するわけだけど、そこで省力化とか最適化とかしていく魔術師はそんなに多くなかった。
前にプロフェッサが現代魔術の講義の一環として話していた、栄養ドリンクの話。市販の栄養ドリンクと同じ効果を齎す魔術薬を一般的なやり方で作成した場合、そのコストは到底市販薬を買うことには勝てないということだった。
けれどそんなことは当たり前で、そもそも魔術師とは原理主義者なのだ。愚直にトライアンドエラーを代々繰り返すからか、永遠にも等しい長い長い年月の果てに結果が得られればいいというのが伝統的な魔術師のスタイルで、一つ一つの魔術を効率化するというのは些事にすぎず、あくまで魔術師としての腕前が発揮する副産物のようなものなのだ。
つまりこの手の儀式めいた事案を考察するとき、一般人の常識に縛られてはいけない。例えば道路を挟んだ向かい側の店に行きたいとき、目の前の横断歩道をわたるのではなく、一回別の街に寄ってから自分の好みの方角に向かって好みの方法で何日も、一見無意味な労力をかけて行く、っていう意味不明なことを平然とやってのける生き物なのである。
「どうかな、ライネス嬢。この有様から何を想像する? 犯人はどんな奴だと思う?」
「海が好き、目玉が好き、とか? まさかと思うけど、そんな答えを望んでいるわけではないだろうね我が兄弟子?」
「いや、それでいい。突き詰めれば魔術の術式っていうのは好き嫌いの話なんだ。普通の魔術師なら、他にどんな効率的な手段があったとしても自分の家の流儀を重んじる。だからスタイルってものがあるんだ、魔術師には。そういうところを探るのが、魔術師同士の戦いでは思いの外大事なんだよ」
プロフェッサほどの、知識とセンス特化型の謎魔術師になれば、その豊富な知識で一つ一つ術式を解体していくなんてこともできる。しかし俺ではまだ役者が足りない。
となれば先ず俺がやるべきは、敵である魔術師の癖、スタイル、雰囲気から探ること。特にこういう、斬った張ったから離れた世界ではじっくりと現場を見て、観の目を使う。そうすれば朧気ながら見えてくるはずだ。敵の意図するところというのが。
「海に関する魔術、目玉に関する魔術ね。海といえばギリシャ神話におけるポセイドン、ローマではネプチューン、ケルトならマナナーンといったところか」
「北欧神話ではエギルという神もいる。しかし実は海に由来する魔術、海を象徴とする魔術というのはそんなに多くない。どちらかというと海は恐怖の象徴、悪魔の住処としてのイメージが強く、海を舞台にする神話もそんなに多くない。海というのは果てであり、想像の及ばないところだったんだよライネス嬢」
かの有名なアルゴナウタイの冒険、ワイナモイネンとサンボの物語など、いくらかの有名な伝承もあるけれど、そもそも外洋へ乗り出す船というものも神話の世界と比較すれば新しい概念で、海に対するイメージが豊かになったのも西暦の時代からだ。
神話をモチーフにした魔術は特に海に疎い。ポセイドンの加護を受けた英雄、血縁とかも何人か心当たりがあるが、彼らも海で活躍したわけではない。魔術のルーツとして最も巨大な基盤を持つエジプトも、川の周りに発展した文化だから魔術的に海をモチーフにする話はあまり聞かない。
海に関する神話、伝承が多いのは島国だろう。特に日本だ。生け贄を捧げて海を鎮める、という概念も海が生活に根ざした国でなければ出てこないものだ。そう考えると今回の事件のように、わざわざ海水を用意してまで血の海を仕立てるというのも魔術的には珍しかった。
「人々が海に乗り出すようになり、海は富と未知を運ぶ浪漫の舞台になった一方で、恐怖の象徴だった。およそ陸で死ぬよりも悲惨で、かつ大量に、あっけなく人が死ぬ。千変万化し、制御することができない。あまりに理解できず、理不尽な海の変化を人はよく悪魔や怪物に例えた」
一匹の獣が海から上がってくる、神を冒涜する名を記した王冠を被る十本の角と七つの頭を持ち、から始まる黙示録の獣。天地創造の五日目に作り出された最強の生物。これらは世界最大の信仰基盤から生じた概念だ。
それらに端を発するのだろう。船を沈める怪物、海の司教、クラーケン。船乗りたちは海に怪物がいると信じていた。実際のところ、どれもエイやらダイオウイカやらの見間違いで、いわゆるひとつの枯れ尾花といったもの。あまりにも若く、魔術に使うには浅すぎる。
「しかし、この手の、生け贄を必要以上にいたぶる儀式というのは比較的浅い神秘を補うやり口だ。そうだろう兄弟子?」
「その通りだライネス嬢。魔術の純血性を重視するならば、魔法陣やら生け贄やら細かい理屈やらというのは下策の類。となると純血性に由来しない、近世の魔術理論を基盤にした魔術と考えるのが妥当なところだけど‥‥」
どうも俺の勘働きは、その意見に賛成してくれない。
確かに今、資料から読みとれる魔術的な法則はない。もちろん俺が見落としているだけ、というのも十分にありえる。この手の謎解きはルーン魔術を基本として神話体系の魔術基盤を得意とする俺よりは、
俺も斬った張ったの事件に関わる方が多いから、地道な謎解きの経験が豊富なわけではない。しかしこの手の案件、実のところ比較的あっさりと片づく場合が殆どだ。神秘の漏洩のおそれがなければ、基本的に協会から目を付けられることもないし、ことさら隠匿する必要もないからだ。
だから一見して中りがつけられない、という部分に勘が働く。
「概ね、物事を複雑にしたがる中世以降の魔術に対し、中世以前の魔術はシンプルだ。。あるいはーー」
天使か、悪魔。
世界最大級の魔術基盤に関わるもの。特に中世以降の魔術理論ではなく、まだ神秘が跋扈していた時代の理論を用いた魔術儀式。
「とはいえそれもプロフェッサの得意分野。そして特にヒットする感触もしない」
「どうする? 他の現場も回るか?」
「まぁ、そうだね。捜査の基本は足だって言うし」
「中々
「なんで俺が苦労しそうな空気を感じとると愉しそうにするんだい妹弟子」
「新たな波乱の予感を覚えるとわくわくするだろう?」
「俺はしないけどね」
ぴちゃり、と水音を立てて踵を返す。
一面真っ赤の部屋に、もう喋らない主が一体。
‥‥やはり、気になるのはこの殺され方だけ、か。時間、場所に意味がないなら、殺し方に意味があると考えるのが自然。しかし殺し方に意味があるなんて、ヴードゥーやオセアニアの民族呪術でもあるまいし。殺し方で分かるのは殺しの手段ぐらいだろうに。
なんで俺の勘はこんなに反応しているのか。魔術師の勘は蔑ろにしてはならない。これはよく、考えておく必要がある。
何故か愉しそうについてくるライネス嬢と、彼女の靴を拭くべく雑巾を用意しているトリムマウを連れて、俺たちは次の犠牲者の現場へと向かった。
これも勘だけど、おそらくこの事件はとっとと片を付けた方がいい。大騒動になるとかならないとかじゃなくて。
この普段はあまり絡みがないお姫様に妙に懐かれたら、俺に厄介ごとを持ってくるルートが確実に一つ、増えるからだ。
Another act to be continue