side Blue
ふと、吹いた風に持って行かれそうになった長い髪を押さえて、不埒な気まぐれ者が通り過ぎて行った方を見る。
もちろんそこには何もない。風が去った後に残るのは只、何かが行ってしまったという感覚だけ。
自分の名前のように青い空を被った草原には私の他に人っ子一人いなくて、それをあまり寂しいと思わない自分は、確かに人から外れてしまったのかもしれない。
「そういえばあの子、今どうしてるかな‥‥?
この前散々嫌がっているところを無理矢理死都殲滅に連れていった義弟をふと思い出した。
跋扈する死者を片っ端から私が消滅させていき、撃ち漏らしたものは抜群のチームワークであの子が始末する。
あの死都の主はなかなか強力な吸血鬼だった。なまじっか若かったために自分の力を過信していて、それ故に私が呼ばれて滅ぼされることとなったが、あと100年も力を蓄えていれば、更に強力な死徒になっていたかもしれない。
「そうね。また様子でも見に行こうかしら」
あの戦闘で壊れてしまったあの子の礼装は姉貴に預けたから、今頃はしっかりと修理が済んでいて、なおかつ改造までされているかもしれない。
一回ロンドンまで顔を出して、その後姉貴の所に寄って回収してきてあげよう。
「我ながら、あの子には甘いわね‥‥」
あの律儀で生真面目で、それでいてお調子者な義弟を姉貴が拾ったのを聞いたときには、お月様が落ちてくるかと思った程だ。
しかもその子供が持っていた記憶の内容も信じられないもので、正直言って暫くアイデンティティが崩壊しかけたわ。‥‥姉貴に言ったら鼻で笑われたけどね。
「ま、それもまたよし、か」
でもそれで一番苦しんだのは、誰よりも外ならぬあの子だろう。
主に姉貴が魂にまで刻み込むかの勢いで、『自分がこちらの人間である』と刷り込まなかったら本当に自我を崩壊させてしまったかもしれない。
一時期のあの子の苦しみ様は、目も当てられない程酷かった。
気が狂ってしまいそうな世界からの拒絶の中、本当によく持ちこたえたっていくらでも褒めてあげたい。って、実際にやって煙たがられたんだっけ。
「さ、それじゃあ馬鹿義弟の顔を拝みに行きますか」
無造作に目の前の、何もないはずの空間を腕で一凪ぎする。するとそこはまるで水面であるかのように揺らぎ、ぶれて不鮮明ながらも違う場所の風景を映し出した。
私は既に慣れてしまったその門へと一歩踏み出す。
一瞬後には、確かに一人の魔法使いが立っていた草原に、人影はいなくなっていた―――
「く、あ―――」
今が何時かもわからないが、燭台の明かりだけが頼りの地下深くにある工房の中、つい居眠りをしてしまっていた俺は目を覚ました。
目の前の大きな机には寝る前に書き散らしたと思しき様々な魔法陣やら術式やらが散逸していて、とてもではないが部屋の主に整頓能力は見いだせない。
魔術師の工房と言えばこれほどそれらしいものはあるまい。部屋の壁はびっしりと魔術書が埋め尽くしていて、隅の棚には多種多様な実験道具が鈍い銀光を放っている。
隣の部屋に入れば、更におどろおどろしい器具が平然と自らの居場所を主張していて、下手すればお化け屋敷をそのままくり抜いてきたかのようにも見えてしまうだろう。
「次の実験は失敗したくないからな。十分に下準備をしないと‥‥」
前回の失敗の時は文字通り本当に酷い目にあった。
制御に失敗した術式が暴れ回り、体中の穴という穴から血を噴出させ、自力では指一本動かせないという有様だったからな。
実際すぐ後に青子姉が偶然訪れてくれなければ、うっかりあのまま死んでしまっていたかもしれない。
‥‥あそこまで怒った青子姉は初めて見た。連絡を貰ったらしい橙子姉にもわざわざ国際電話で叱られたし、やっぱり体は大事にするもんだよな。
「‥‥とりあえず一休みしようか」
長いこと座っていた椅子から身を離し、ばきばきと悲鳴をあげる間接に喝を入れて立ち上がる。
この工房は一般人の立ち入りを想定していないので、生活スペースと研究スペースがごっちゃになっている。
一応来客用の応接スペースもあることにはあるのだけど、そっちは一度も使ったことがないから、この一年の間でさながら書庫のようになってしまった。
ルヴィアはそういうのを気にしないから居住区画まで平気な顔して入ってくるし、まぁ衛宮達とも知り合ったことだから、あの空間も少しは綺麗にしようと思う。‥‥いたるところに堆く積まれた本の山をどこに移動させるかは問題だけど。
「なんか冷蔵庫にあったかなぁ‥‥? 買い出しに行ったの結構前なんだけど‥‥」
幸いにして凍ったトーストとハムにチーズを発見し、オーブンで焼いて皿に盛り、コーヒーも持ってソファーに腰掛けた。
ついでに
「『嗚呼、太陽の昇り行くことこそ我は恐ろし』、か‥‥」
昔の自分に置き換えれば、さしずめ太陽はFate本編である第五次聖杯戦争といったところか。
式や藤乃君のことなど伽藍の堂関連でも色々あったし、すぐ近くの三咲町では真祖や死徒二十七祖が暴れ回ってはいたけれど、冬木の聖杯戦争はそれこそ下手すれば誰も知らない内に世界が滅びかけるなんてことも有り得る最悪最凶の代物だ。
結局こうして始まる前にロンドンへと飛ばされてしまったわけだけど、それまではどうにかして自分に何か出来ないかと悩み、その度に以前封印したはずの“あちらの記憶”が蘇って俺を痛みつけた。ロンドンに着てからもまた一悶着あったけど、今はすっかり安定して、昔の記憶が俺の精神を苛むことはない。ただの情報として扱うことができる。
「でも、なぁ‥‥」
前にも言ったけど、聖杯戦争に関わらせなかった橙子姉達の判断は間違ってないと思う。
サーヴァントも持たない俺なんかが参加したところでBAD ENDの仲間入りするのが目に見えているし、なにより魔術師としてメリットがない戦いに参加するなんて論外だ。
でも、今こうして全てが終わったように見える日常の中でも、今だに解決されていない問題があることを俺は知っている。一人で苦しんでいる少女がいることを、俺は知っている。
自分に何か出来ることがあるのかもしれない。否、あるのだ
関わり合いになるべきではないと否定し続ける意識の片隅に追いやられたもう一人の俺が、手段はあるぞとがなり立てている。
「俺は、どうすれば―――」
「なーに、いっちょ前に悩んでるのよ馬鹿義弟」
と、かっこよく苦悩に沈んでいる俺の頭を、部屋の雰囲気にそぐわないやたらと元気のいい声と一緒にトランクの角が襲った。
幸いにして中身は空っぽに近い状態であったからさしたる衝撃はないが、いかんせん角、しかもそのトランクは古くさくて使いにくい非常に思いものであったから、俺は目を白黒させて頭を押さえて体を曲げた。
とりあえず朝食(?)を死守したことだけは評価してくれ。
「あ、青子姉―――?!」
「ハイ、紫遙。私がいない間元気にしてた?」
涙目でキッと振り返ると、そこにいたのは長い髪を無造作に下ろし、染みの一つもない輝くような白いTシャツとジーンズをはいた、下の義姉にして五人目の魔法使いの姿であった。
相変わらず意味もなく毎日楽しそうだ。理不尽にもほどがあるとは思うんだけど、俺は色々とこの二人の義姉には逆らえない。
「突然なにしに来たんだよ。来るなら前もって連絡の一つでもいれてほしいんだけどさ。‥‥できれば協会経由で」
「なーに言ってるのよ。ここは私の部屋よ? 自分の部屋に帰ってくるのに一々連絡いれる必要なんてどこにあるの?」
全然帰ってきてないくせに勝手知ったるといった様子で冷蔵庫へ向かい、俺と同じメニューを選ぶとオーブントースターに放り込む。
ていうか本当にこの放蕩義姉は連絡の一つもよこさずに人を死都に放り込んだりするから質が悪い。この前はちゃんと事前にあったからよかったけど、いつかは試験の前だってのに問答無用でどっかの地方都市のお祭りに連れて行かれたことがある。
「大体私が協会に気を遣う必要なんて、姉貴が私に気を遣う必要ぐらいありえないわよ」
「‥‥俺が色々言われるんだよ。魔法使いの関係者としては一番掴まえやすいんだから」
俺の手が空くとやれミス・ブルーはどこだ、やれ青の魔法使いを呼べだのお偉方が色々とうるさい。
時計塔には化け物みたいな魔術師がうようよいるんだけど、こうして口やかましく偉そうに人に命令してくるのは大抵が家名だけが一人歩きしてるような俗な爺様方ばかりだ。ていうか俺でも居場所わかんないんだから、連れてこいなんて言われても困る。
まぁ、なんだかんだで俺がいるおかげで時計塔は青子姉とツナギがとりやすく、その駄賃代わりに封印指定の橙子姉を見て見ぬふりしてもらっているという面もあるから、あんまり悪し様に言うのもどうかとは思うんだけど。
「喧しい爺様方なんて言わせておけばいいのよ。他にやることあるんだもの、構ってなんかいられないわ」
「参考までに聞こう。一体旅先でなにやってんの?」
「そりゃーおいしいもの食べたり、お祭りに参加したり、可愛い男の子ひっかけたり―――」
「はいストップ。最後の項目について異議あり」
青子姉は焼き上がったトーストとコーヒーを持って俺の真向かいのソファに座る。
どこに埋もれていたのか、トマトとタマネギのスライスまで載せてあった。実は俺よりもこの部屋を知り尽くしているのかも知れない。
俺は目の前の食卓にすら散乱している書類を適当にどけると、不安定な膝の上に置いていた皿を移し、落ち着いて安物のコーヒーを啜る。残念ながら一々豆を挽いている暇なんてないからインスタントだ。
「で、どうしたのよ」
「は?」
「さっき何か悩んでたでしょ? お姉さんに話してみなさいな」
「最初に思いっきり笑い飛ばしたような記憶があるんだけど」
そういう細かいことは気にしないのとまたもや笑い飛ばし、下の義姉は自分も皿を机において、コーヒーカップを口に運ぶ。別に意識しているわけではないんだけど、俺の仕草は一々この義姉達に似ているらしい。血は繋がってないのに、環境ってのは恐ろしいものだ。
「また『Fate/stay night』について考えてたんでしょ。もう終わったんだからあんまり気に病まない方が良いわよ?」
「‥‥‥」
「そりゃ一方的にロンドンに放り込んだのは悪かったと思ってるわよ。でもそうでもしないとあの頃のあなた、変な正義感とか発揮してつっこんでいきかねなかったでしょ? 姉貴なんて一時的に人形に魂移してしまおうかとか物騒なこと言ってたんだからね」
「‥‥命があってよかった‥‥」
知らないうちにトンデモないことになりかけていたことを知り、思わず背筋を冷や汗が伝う。
そりゃぁ橙子姉の腕は知ってるけど、とてもじゃないけどまともな人間なら人形になんてなりたくない。この場合の人形って多分事務所の棚の上とかにおいてあるマトリョーシカとか、そういったものだろうし。
「‥‥青子姉」
「ん?」
「あのとき覗いた俺の記憶、どのぐらい覚えてる?」
暫く無言で食事を済ませ、青子姉の分もコーヒーのお代わりを淹れてソファに座り直し、俺はおもむろに口を開いた。
視線は俯いたままで、眉間には皺がよっている。俺にとって真に何かを相談できる相手はこの二人の義姉以外にいない。ここで打ち明けておかなければ、次に相談できるのはいつになることかわからない。
「そうね‥‥。あれは私もかなり衝撃的だったから、結構覚えてると思うわよ?」
「‥‥じゃあ、登場キャラクターの中に間桐桜って子がいたのは覚えてる?」
「えーと、あ、あれでしょ。Heavens Feelルートの子」
青子姉はしばらく考え込むかのように頭を横に傾けていたが、あっと叫ぶと手鼓を打ったので俺も頷く。
かなり昔の話ではある。俺がこの世界に来たときの身体年齢は、大体小学校一年生ぐらいであったから、もう軽く十年以上経っている。俺自身かなり磨耗していて、主要キャラクターのプロフィールぐらいしか覚えていないんだけど、どうやらあの膨大な記憶を吸収し、なおかつ覚えている魔法使いや封印指定の頭は規格外らしい。
「あの娘って確か、体に蟲が巣くってるんだっけ」
「あぁ。間桐臓硯‥‥マキリの蛆蟲の本体が心臓に寄生してる」
あからさまに胸くそ悪そうな顔をした青子姉に、俺もおそらく同じ顔をして言葉を返す。
外道と呼ばれる魔術師は何人か見てきたけど、あの爺の醜悪さはその中でも折り紙付きだ。
なにしろ養子とはいえ自分の孫に本体を埋め込み、あまつさえ人を喰らって何百年も生き続ける妖怪。犠牲者だけなら他にもたくさん奪った奴は知っているが、こと在り方の醜悪さならあの翁に勝る者はいまい。
「ねえ青子姉。今さら俺が、『正義の味方』の真似事がしたいなんていったら、怒る?」
俺はぼそりとそう呟いた。
知っているのに、助けられるのに、それでも動かないでもし後で後悔することになってしまったら、俺はどんなに苦しむことだろうか。
これはある種の
物語は確かに一つのハッピーエンドを迎えたかもしれない。でも、そうしたら物語の陰で誰にも知られず涙を流し続けている脇役は誰が救ってやれるというのか。
正義の味方は目に映る者しか救えない。では目に映っていない者は、知っている奴が救ってやるより他はないだろう。
「いいんじゃない?」
「え?」
「いいんじゃない? って言ったのよ」
こっぴどく怒られ、説教されることを覚悟して口にした俺の言葉は、予想外に軽い調子で肯定された。
それは今まで散々俺を舞台から遠ざけようとしていた監督とは思えない返事だった。俺が思わず素っ頓狂な声をあげてしまったのも無理はないことだと思う。
「いいんじゃない? って青子姉、本当にいいのか?」
「いいわよ。昔と違って、随分と精神も安定してきたみたいだしね」
確かに、さっきも言ったが今は殆ど昔の記憶が俺を直接責めさいなむことはない。
今こうして俺が抱いている葛藤も、この世界に存在する蒼崎紫遙としての俺が間桐桜という少女の境遇に同情して抱いているものにすぎない。
言うなれば、偽善をためらっている状態にすぎないのだ。
「あなたはその間桐桜っていう娘を救いたいんでしょ? 正義を行いたいから、その娘を助けるわけじゃないんでしょ? なら私が言うことはなにもないわ。 あなたは昔っから物事を難しく考えすぎなのよ」
きっとその時の俺はひどく間の抜けた顔をしていたことだろう。
そりゃ研究の方が大事ではあったけど、その合間の時間はわりとこの件で悩んでいたのだ。なんかもう拍子抜けってかんじなんですけど。
「ただこれだけはしっかりと約束して。決して無理はしないこと。無茶もしないこと。危なくなったら一も二もなく逃げ出すこと。‥‥必ず無事で、帰ってくること。いいわね?」
立ち上がってポンと俺の頭に手を置く青子姉に、少し涙が出そうになった。
元の自分との手がかりなんて一つもない世界に放り出され、精神が体に引っ張られて不安定になり、毎晩寂しくて泣いていたあの夜を思い出す。
まだ架空の世界の登場人物だと、義姉達と微妙な距離を置いていたあの頃を思い出す。
そんな俺を散々しかりつけ、最後には笑顔で抱きしめてくれた二人の家族にまた涙したことを思い出す。
なにも心配することはなかった。俺がどんなに不安定でも、俺がどんなに悩んでいても、たとえ俺が道を踏み外したとしても、家族が首根っこ掴んで引き戻してくれるに違いない。
義姉達のおかげで、俺は、俺としてここにいられる。
「‥‥わかった。約束するよ」
だから俯いたままで、少し震えていても声だけはいつも通りに、そう言った。
そう、これからすることは俺の
また一つ俺の心に溜まっていた澱が、義姉の手によってすくい取られたある一日だった。
14th act Fin.