side Mikiya Kokuto
「はぁ‥‥」
「‥‥‥‥」
溜息一つ。人口密度の少ない部屋にやけに響く。
僕は手に取ったペンをまるで学生のようにくるくると回してみて‥‥失敗した。
昔っからこれの原理がどうにも理解できない。まぁアレをやっている間は脳味噌の思考が停止しているっていう調べもあるし、できなくたって問題はないだろう。
「ふぅ‥‥」
「‥‥‥‥」
溜息二つ。いつもより幾分冷えたような印象を受ける部屋に響く。
目の前には次の展覧会を開くために必要な書類が何枚か束になっているけど、さっきからほとんど筆は進んでいない。
「う〜ん‥‥」
「‥‥おい黒桐」
従業員の如く入り浸っていた二人が外出している伽藍の洞は、さっきも言ったとおり、まだ残暑と呼ばれる季節であるにも関わらずいつもよりも数段空気が冷たく感じて、僕は作業をしながらそわそわと足を動かして暖を取っていた。
もともと内装なんてほとんど有りはしない剥き出しのコンクリートがそのまま壁になっているこの廃ビルは、殺風景で温度を感じさせない印象をもっている。
それでもここに住む人間以外の人たちが僕を含めて何人も出入りしていたこともあって、居心地が悪いかと言われればそういうこともなくて、どちらかといえば結構落ち着く場所だと僕は思うようになっている。
「なんですか? 橙子さん」
「式達が心配なのはわかるが、そのこちらまで気が滅入りそうな溜息はやめろ。仕事に集中できないだろう」
いかにもなことを言ってはいるけど、そういう橙子さんだってさっきから全然図面の上に置いた鉛筆が動いていない。
三人が出掛けてからまだ半日も経ってないくせに、やっぱり義弟が心配でしょうがないみたいだ。
「あまり気にすることもないぞ。お前は一般人だからあながちピンと来ないかもしれないが、式はもとより、鮮花もこと火に関しては他の追随を許さん。将来はどこぞの赤いのも越える天性の才を持っている。兄弟子もついていることだし、早々ヘマはやらかさんだろう」
「それはわかっているつもりですけど‥‥」
そう言い切った橙子さんは、また吸い終わった煙草の火を灰皿に押し付けて消し、新しいものを取り出して火を点ける。
僕は常日頃から流石に吸い過ぎだってそれとなく忠告してるんだけど、いつもいつも空返事ばかりで一向に聞き入れた様子がない。
もしかしたらその辺りも魔術でどうにかしているのかもしれない。魔術ってのがどのくらいの万能性があるのかイマイチ理解できてないから判断はつかないけど、今度鮮花にでも聞いてみよう。
「それにしても橙子さん、よく紫遙君をそんな危険なところに行かせましたね」
「ん? 不思議か?」
「不思議も何も、普通なら止めますよ。ていうか止めると思いましたよ、僕は」
既に仕事をする雰囲気ではなく、もはや毎度の如く僕は給湯室で二人分のコーヒーを淹れて、ついでに紫遙君がロンドン土産にと買ってきてくれたスコーンと一緒に机に置く。
ホントはこれには紅茶を合わせた方がいいのかもしれないけど、残念なことにバターもジャムもないし、うちはどちらかと言えばコーヒー党の人が多いから紅茶はティーバックすら常備していない。
軽い塩味しかついていないスコーンに合わせて少し濃いめに淹れた黒い液体を味わい、僕はふと疑問に思ったことを橙子さんに聞いた。
「まぁ‥‥あいつには少々事情があるからな」
「事情、ですか‥‥?」
味気のない―――元々そういうお菓子なんだけど―――スコーンを囓ってしかめっ面を作った橙子さんが、一度は灰皿においた吸いさしの煙草を再び手に取る。
あれだけ吸っていてちゃんと料理の味がわかるというのは凄いものだと思う。やっぱり魔術なんだろうか。
話をよく聞くために僕は椅子から立ち上がり、まるで上司から説教をうける部下のように橙子さんの机の前に立った。
「あいつはな、世界から常に拒絶されているのさ」
「世界から、拒絶?」
「この世界にはな、自分に害する存在、異分子、根源へと到達しようという身の程をわきまえない人間や生物を排除する『抑止力』という意思がある。あいつはその『抑止力』からたびたび圧力をくらっているのさ。おそらくこの世界にたった一人の、真なる意味での異分子であるが故に」
そう言って一息ついた橙子さんは、おそらく今頃紫遙君や式達がいるであろう冬木の方角にぼんやりと視線を巡らせた。
『抑止力』云々はまだしも、紫遙君が異分子であるなんてことは僕には全く理解できない。
優しくて人が良く、他人にも気が利いてちょっとおどけたところもある普通の人間である彼が、なぜ世界から拒絶をうけなければならないのだろうか。
そんなこといったら、伽藍の洞の面子は全員が全員異端と言ってもおかしくはないと思うのだけど。
もしかしたら彼が養子だということに何か秘密があるのだろうか。
「そう、詳しくは話せないが、あいつはこの世界にたったひとりぼっちなんだ。私とあの馬鹿妹で散々『自分はこの世界の人間だ』とすり込んだつもりだが、ひょんなことで世界から精神的な圧力をくらうときがある。意味もなく不安になったり、意味もなく何かに怯えたり‥‥。あれでは夜も眠れまい。中々えげつない奴だよ、世界というのはな。だからそれを解消するためにも、多少はあいつの好き勝手にやらせる必要があるんだよ」
「そう、なんですか‥‥。よくわかりませんけど、今回の件は紫遙君にとって必要なことなんですね?」
「そういうことだ。あいつは自分の我が儘に過ぎないと、私たちに気を遣っているようだがな。全く、不器用な奴だよ」
それは自分もか、手先が器用になると生き方が不器用になっていけない、と呟いてまた吐き出した一筋の紫煙が、器用に○を描いてふわふわと流れて空気に溶け込んでいく。
僕より幾分年下の友人が抱えるという問題。それは僕にはよくわからないし、どうにかできるものでもなさそうだ。
だからせめて、せめて無事に彼が帰ってこられるように、彼を苦しめる世界という名の神様に祈るわけにもいかないから、ただただちゃんと帰ってくることを外ならぬ彼へと願ったのだった。
「‥‥ここが、冬木‥‥」
「ああ。そして日本で一、二を争う大規模な儀式、聖杯戦争が開催される地でもある」
「いいね。ところどころ良いカンジに空気が歪んでる」
周りのなんてことない普通の景色に、想像していたものと少々違っていたのが拍子抜けだったらしい鮮花が呟く。
隣の式は中々に物騒なコトを言っていて、どうやらよほど血に飢えているらしい。
最近は殺人衝動も割と治まっているのかと思ってたけど、どうやら幹也さんの前だから自重していたようだ。
それはどちらも式で、どちらも本当なのだろう。あまり精神に負担がかかっているようにはみえないから。
「さ、まずはホテルをとって、作戦会議だね」
「そうね。電車に乗りっぱなしでちょっと腰が痛いわ‥‥」
冬木は観布子からは電車で何時間かかかる。当然特急なんて大層なものは通ってないから、のんびりゆっくり鈍行列車での旅となり、なかなかに疲れてしまったようだ。
式は席につくと同時に居眠りを始め、俺は幹也さんが調査してくれた間桐桜のレポートを読んでいたからよかったけど、何も暇つぶしを持ってこなかった鮮花はかなり苛々している。
俺はそんな妹弟子を適当に宥め、予め確保していた駅近くのホテルへと爪先を向けた。
「‥‥で、一体私達は何をすればいいの?」
「蟲退治」
「もっと詳しく頼む。オレは話聞く前に鮮花に拉致されたからな」
ホテルに着いた俺達は男と女で部屋分けし、一旦各々自由行動で街を回ったり必要なものを手配したりして、今はエチケット面に気を遣って俺の部屋で作戦会議の体制に入っている。
見事に中の中といったランクのホテルの一室は手狭だが、まぁ長逗留というわけではないから問題はあるまい。
「あなたがずっと幹也といちゃいちゃしてたからでしょうが! 二人でいれば際限なく絡み合ってるんだから‥‥! 独占禁止法違反よ! 少しは私にも分けなさい!」
「よーし鮮花、わかったから少し落ち着こうな。ていうかその発言は色々とまずいから」
三人で囲んだ机の上には、冬木のご当地観光マップのようなものが広げられている。
何故か深山町の住宅街とか明らかに観光とは関係ない場所まで細かく記載されているが、この際便利なのでツッコミはなしの方向で。
どうもこの街の住人達は少々頭が温いらしい。こういう面白不思議なことをやらかしてくれる辺り。
「標的の所在地はここ、深山町の間桐邸だ」
地図の中、ちょうど住宅地になっている場所の一点を指差す。どこまで欲張るつもりなのか、堂々と『間桐邸』と記載してある。
まさかと思うが、地元では有名な洋館だなんて観光名所にする気ではなかろうか。
「そして戦いの舞台はココ、新都の中央公園だ」
「あら、間桐邸に乗り込むんじゃないの?」
「君は馬鹿か。ただでさえトンデモない相手なのにわざわざ懐まで飛び込んで行ったら、俺達全員蟲の餌だぞ」
男らしい方針を堂々と口にする鮮花にでこぴんし、魔術師にとっての工房というものがどれだけ危険なのか再度講義する。
ただでさえ何百年もの歴史を持つ名家であるのに、してや初代の当主が今だ存命とあってはどのような悪辣な罠が仕掛けられているかわかったもんじゃない。
陰湿なマキリの蛆蟲があちらこちらからわらわらとインディ・ジョーンズよろしく襲い掛かってくる様子を想像し、俺は傍らに置いてあったミネラルウォーターを勢いよく煽って気分を変える。
人間には根本的な本能に働きかけてくる、生理的な嫌悪感というものが存在するのだ。
「しかしどうやっておびき出すつもりなんだ? オレだったらわざわざ自分の要塞から出てこないけどな」
先程から黙って腕を組みながら地図を眺めていた式が口を開く。恰好はいつもと同じ着物姿で、暑いからかジャケットは羽織っていない。
最初はあからさまにヘンテコな着こなしが街中でも目についたものだけど、最近はもうあれが彼女の普通のスタイルだって自然と思ってるから、むしろこういう恰好の方が違和感があったりする。
もちろん中性的な顔立ちとスラリとした均整のとれたスタイルに、シンプルな柄の着物は抜群に似合ってはいたけれど。
「それについては心配いらないと思うよ。‥‥ホラ」
言い終わるや否や、半開きにした窓から銀色の小鳥が入り込んで来た。
細長いワイヤーのような金属を束ねて作られたソレは、俺の手の平の上にとまると、途端に力を失って崩れ去り、砂と化す。
「それは?」
「即席の使い魔‥‥の真似事未満ってところかな。コイツに間桐邸まで手紙を届けさせた。かの蟲の翁なら決して放置はできないような内容の、ね」
式も鮮花もいまいち要領の掴めない顔をしていたけど、詳しい言及は避ける。
手紙に書いた内容は簡潔。今日、深夜に新都の公園に来られたしという旨と、『ユスティーツァとナガトに会いたくはないか?』という一文のみ。
何百年も昔の三者のしがらみを正確に把握しているのは、もはやマキリの当主たる間桐臓硯とアインツベルンくらいしかいない。
今更あの聖杯の偏執狂共が臓硯を呼び出す用事もないとくれば、自分達のことを知っている不審な差出人に会わないわけにはいくまい。だから俺はご丁寧にも、アインツベルンの御家芸である貴金属の加工を模したこの出来損ないで揺さぶりをかけまでしたのだ。
何百年も生きた魔術師としての自負はもとより、自身の本体は孫娘の心臓に潜ませているという保険を用意している以上、あの妖怪爺は油断と慢心を伴って現れるだろう。
「じゃあ戦術の確認だ。式は陽動、俺は援護、鮮花が手当たり次第に燃やし尽くす。これでいいね?」
俺の言葉に二人は無言で頷き返す。戦いに慣れている‥‥というかバトルジャンキーな式は全く普段通りの様子だが、荒事の経験が少ない鮮花は多少緊張しているのか肩に力がこもっている。
本来は俺と式の二人だけで挑むはずだったこの作戦も、急遽鮮花が参入したことでかなり楽になっていた。
敵の間桐臓硯の属性は水。しかし自然魔術に秀でているわけではなく、主に使い魔であり、己の分身でもある蟲の使役と吸収の魔術を得意としている。
乃ち、短い詠唱で馬鹿みたいなトンデモない火力の焔を生み出す鮮花は奴の天敵と言っても過言ではない存在だ。
攻撃の要が加わったことで、俺の持ち味も生かすことができる。
負けるつもりなんて最初からさらさらないが、随分と戦い易くなったことには違いない。
「いいかい二人共。何度も言ったけど、臓硯は数多の蟲の集合体だ。本体は間桐桜嬢の心臓に寄生しているから、これから俺達が相手する奴には急所なんて存在しない以上、式の魔眼も効果は薄い。だから倒すには―――」
「体を構成している蟲を、一匹残らず消し炭にする。でしょ?」
「正解。今回は鮮花、君にかかってるぞ」
式には直死の魔眼の使用を控えるように伝えてある。万が一に臓硯にその存在を知られてしまった場合、どのような対抗策をとられるか予想できないからだ。
つまり、実質式はたいした戦力にはならない。俺の魔術礼装も、その特性上臓硯との相性は最悪と言ってもいい。
「冬木に俺たちが侵入したことは既に臓硯の知るところとなっているはず。幹也さんの調べによれば、もう一人の標的である間桐桜嬢は今夜衛宮邸に泊まり込んで敬愛する先輩の留守を守っているそうだ」
「けなげだな」
「つまりチャンスは今夜のみ。この一戦で、しっかりとしとめるぞ!」
地図を丸えてゴミ箱に放り込んだ俺に、目の前の相棒たちが力強く頷いた。
こんな俺の
俺はそんな二人に無言で深く頭を下げ、今夜の荒事に備えるために各々準備や休息をとるべく部屋へと戻っていったのだった。
17th act Fin.