彼女の出演は最終章までお待ちください。‥‥確かそうだったはず(汗
side Makiri Zorken
「カ、カカ、カカカ、カカ、カ‥‥」
既に太陽が地平線から完全に顔を出し、辺りが明るく昼の陽気に染まりつつある公園の、部分的に木々が密集して日の光を遮っている僅かな暗闇に、這いずる一匹の蟲の姿があった。
あったといっても誰かが観測して、「あった」と言ったのではない。それは手が触れる程近くに寄らなければ視認できないようなちっぽけな蟲けらだ。
ひどく醜悪で、そして小さく、弱々しかった。おそらく今の自分の体を保つことすら精一杯で、もしくは今すぐにでものたれ死んでしまうかもしれない。それほどまでに貧小な存在だった。
そしてそれは、そんな状況でもなお生にしがみついて必死にあがいていた。
死にたくない、死にたくないとその言葉だけを心の中で繰り返し繰り返し唱え、生きる為の術の当てなどありはしないのに、ひたすら前へと這いずり進んでいる。
「死なヌ、死ぬワけニはイかヌ‥‥。儂ハ、死ヌワけにハ、いカヌのダ‥‥」
「ほう、そこまでしても生きたいものか? マキリ・ゾォルケン」
微かな声で、それでも明らかに人語を操ってみせたその蛆蟲の目の前に、一人の影が立ちはだかった。
痛んだ赤色、否、橙色の長い髪を頭上で適当にひとくくりにし、赤いコートを羽織っている。右手に提げた昨今ではほとんど見ることのできない大きくて古風なトランクがやけに目立つ。
そしてその人影は、あまりにも昼間の光に似合わぬ雰囲気を発していた。そう、彼女は目の前に這いつくばる蟲けらと同じ夜の闇に生きる人種。‥‥乃ち、魔術師である。
「ふん、式に本体を殺される直前に別の蟲に転移したか。成功率は極端に低いうえに、長い年月で身につけた力は殆ど失い、魂は摩耗どころか激しく欠損すらしているだろうに‥‥。まったく、たいした執念だな」
「カ、カ、貴様、何奴‥‥?」
既に蟲の体にほとんど視力は残されていない。余分な機能全てを生命維持に回し、僅かに捻り出した力を暗闇へと逃げ延びるために使っている。
今は少しでも太陽の届かないところへと移動し、せめて猫か野犬、もしくは野鼠などの小動物が通りかかるのを待つ。この体では人間に潜り込むことすら適わない。まずは小さく意思力が低い生物から肉を調達しなければならないのだ。
げに憎たらしきはあの小童共。体が戻りし曉には、思い付く限りの酷たらしい手管をもって痛め付け、凌辱してくれようぞ。
そう魂に誓った矢先の不意の人影。臓硯は目の前の驚異を測るために力を絞って声を出した。
「蒼崎橙子、しがない人形師だよ。どうせ不出来の愚弟が詰めを失敗すると思ってたんでね。後始末に来たというわけさ」
「カ、カ、成ル程、アの小童、アオザキの者でアったカ‥‥!」
「血は繋がってないがな。どうだ? 妹弟子の方も合わせて中々よく仕込んであっただろう?」
煙草の火をくゆらせて、橙色の魔術師はにやりと不敵に笑う。
それは眼下で無様に這い蹲っている蟲の翁を嘲るものではなく、まるで不出来と称した義弟を誇るかのような笑顔だった。
臓硯は思い返す。実際あの三人、特に炎使いの娘とバンダナの少年の組み合わせは厄介極まりなかったと。
圧倒的な火力を持つが戦闘経験が浅く未熟な主力を、後方から援護に長け、実戦経験の豊富な後衛が支える。前衛にしても卓越した戦闘技術と素速さで広範囲に展開した蟲の動きを攪乱して二人への狙いを見事に逸らしていた。
そしてなにより、あの忌まわしき『直死の魔眼』‥‥! 孫の心臓に潜ませた本体を寸分違わず殺してみせる神話級の
「キ、キキキ‥‥! 義弟の後始末、とナ? 一体何の益がアってコのヨウな‥‥!」
「黙れ、蟲けら。これ以上その不愉快で耳障りな声を聞いていたくないのでな。‥‥出ろ」
にべもない。橙子は手に提げていたトランクをドンと地面に置き、無造作に鍵を解除して開き放つ。
ぱっくりと九十度に口を開けたトランクの中には、ただ暗闇だけが渦巻いていた。
否、そこには赤い二つの目がある。そしてずらりと並んだぎざぎざの牙も。
臓硯がそれが猫の形をしているのだと気づいたときには、トランクから飛び出した影の使い魔がその貧小な体を一呑みにしていた。
はて、自分は何のためにこうまでして無様な生を望んだのか。はて、遙か昔、二百年も前に自分が同士達と望んでいたのは一体何だったのか。
答えは与えられなかった。なぜならそれは随分と昔に磨耗して消え失せ、どう頑張っても掘り起こすことなどできはしないからだ。
「望みに望んだ暗闇だ。五百年ぶりの休息、ゆっくりと味わうがいいよ、マキリ・ゾォルケン」
やがて太陽は完全に昇り、街は動き始める。
日曜日の朝の陽気の中を、橙色の魔術師は一人歩き出した。あの不出来の愚弟達が帰ってくる前に、自分も伽藍の洞へと戻らなくてはならないのだ。
最後に彼女は、かつてはこの世全ての悪の根絶を願った老人への手向ける線香の代わりに、手に持っていた半分以上残っている煙草を冷たい土の上に投げ捨てたのだった。
「戻ったか。首尾はどうだった?」
俺達三人が一日の休息をとってから戻ってきた伽藍の洞。
蟲退治を見事に成し遂げた義弟と弟子と従業員にかけられたのはねぎらいの言葉ではなく、あくまで簡潔で事務的な事件の報告の要求だけだった。
いやさ、そりゃ今回は完全に俺の我が儘で利益も何もなかったことは分かってるんだけど‥‥もう少し、その、ねぎらいの言葉とか‥‥はぁ、やめよ。これじゃガキみたいだ。
「予定通り、臓硯の手足は俺と鮮花で燃やして、桜嬢の心臓に潜んでた本体は式が殺したよ。乃ち世はなべてこともなし、俺も悪夢から解放されたってことで」
「へぇ、そりゃあ良かったね!」
挨拶とか何もなしに定位置のソファーに腰掛けた式に、幹也さんがお茶を淹れて持ってくる。
流れるようにお盆に乗せた他の紅茶やらコーヒーやらを俺と鮮花も貰って、最後に自分もコーヒーカップを持って机に座った。‥‥なぜか橙子姉の分はない。留守中に何かやらかしたんか?
俺は席に座るついでに近くの棚からお茶菓子をとって配ると、自分の机に腰を下ろした。
ちなみに冬木でお土産は買わなかった。帰りは大きな駅からの特急を予約してたんだけど、案の定というか式が寝坊して時間がなかったからだ。
鮮花曰く、『怒鳴ってもひっぱたいても起きなくて、最後に幹也の声を録音したのを聞かせたら起きた』とのこと。‥‥なんていうか、ごちそうさまです。ていうかどんな台詞を録音し、聞かせたのだろうか。
「間桐桜嬢にはここの電話番号を渡しておいたよ。彼女以外には見えないように差し替えの術式を何重にもかけておいたから大丈夫だとは思う」
「ふん、頼って来たら力を貸してやれと? 全くもって大した疫病神だな、おまえは」
橙子姉がそっぽを向きながら紫煙を吐き出して言う。
鮮花は強くではないにしろ止められているにも関わらず、幹也さんに自分の活躍を――やや誇張して――語っていた。隙を見ては他の二人の分まで巧みな話術で自分の手柄に見せようとする彼女に、いかにも興味なさげなフリをした式が一々訂正を入れている。
あの三人、結構上手いこと噛み合ってるよな。いつもはこれに藤乃君も入れた四人なんだけど。
「まずかった、かな‥‥?」
「‥‥まぁ、私も擬似聖杯となる筈だった肉体には興味がある。もし来たら適当に仕込んでおいてやるさ」
またスパーと煙を吐き出した橙子姉に、俺は「ありがとう」と簡潔な礼を言う。
なんだかんだでこの義姉には昔から迷惑ばかり―――というか、迷惑だけしかかけていない気がする。助けられてばっかりで、俺からは何もしてあげることができない。
いつか義姉孝行の材料を見つけたらすかさず実行に移さなきゃな。
「それよりさっさと礼装を渡せ。デリケートに作ってあるからな。頻繁にメンテナンスが必要だ」
「いや、これのメンテは時計塔に戻ってから自分でやるよ。いつまでも橙子姉に頼りっきりじゃ身につかないからさ」
一応この礼装の研究と改造改良が、俺の鉱石学科での最終課題となっている。
補助礼装ならともかくこのような魔力を注いで定められた概念や魔術を実行する限定礼装というのは、存外に研究開発が難しいものだ。
かのケイネス・エルメロイ・アーチボルト卿が持っていた『
アレは金属操作と流体操作の総結集、風と水の二重属性と魔力の通りやすく比重が重いために扱いやすさに反比例して圧倒的な物理攻撃力を誇る水銀との融合。先代ロード・エルメロイの魔術のある一部分の全てがそこに集約している。
つまり、一級の魔術礼装の作製は魔術師にとっては一つの研究成果だ。故にこの『
これは突き詰めれば物体浮游及び重力操作、加えて属性魔術にルーン魔術などの様々な魔術と鉱石魔術の融合というかなり豪華な魔術礼装だからだ。
とは言っても、卒業したから何をするってことを考えているわけではない。多分今まで通り時計塔にいることになるだろう。
なにしろあそこの蒼崎の工房は完全に俺の自宅になってしまっているし、何より研究環境がとてもよく、なおかつ色々なサービスが完備されているので居心地がよくてしかたがない。
資金調達に臨時講師や協会からの仕事を青子姉と一緒にたまに受けて、年に数回コッチに帰ってくるなんて自堕落な生活になりそうな予感がする。
‥‥主に橙子姉が許せばの話だけど。
「まぁお前の礼装だ、好きにしろ。‥‥で、向こうにはいつ戻るつもりなんだ?」
「そうだな、講義もあるし出来るだけ早く戻ろうかと思ってる。飛行機のチケットをとらなきゃいけないから明日すぐってワケにはいかないけど」
「そうか。‥‥ああ、チケットは黒桐に用意させよう。早ければ明後日には調達出来るだろう」
幹也さんは何を調べるにしても、それが『調べる』という形態をとってさえいればズバ抜けた成果を拾ってくる。
それは仕事関連以外でも例外はなく、おいしいレストランや常連さんしか知らない裏メニュー、一番安くて快適な旅行プランや安くて質の良い中古車新車の販売までもう完璧だ。
将来は下手に探偵の看板を出すよりも、観光ガイドとか不動産とかの方が天職かもしれない。裏で探偵とかやれば二重でボロ儲けだ。
‥‥あと、怖い想像なんだけど、もしパパラッチとかになったら有名人には最恐災厄の存在になるに違いない。どこに逃げても必ずしつこくついてくるヤブ蚊とは悪質極まりないだろう。
「そんなことより、お前は間桐臓硯戦の言い訳でも考えておけ。暫くは知らんぷりでも構わんだろうが、どう頑張っても直にばれる」
「遠坂嬢、怒るだろうなぁ‥‥」
橙子姉の容赦のない指摘によって意図的に目を背けていた事柄を直視させられた俺は、どこか遠いところを眺めながら深い深い溜息をついた。
自分の土地で歴史のある魔術師の名家を潰すなんて好き勝手されて怒らない
俺としては桜嬢が間桐の家で受けていた凌辱は、出来ることなら遠坂嬢には話したくない。
それを知った遠坂嬢がどんなに苦しみ、知られた桜嬢がどんなに苦しむかと思うと。
なによりひょんなことで衛宮の耳に入りでもすれば、思い余って首を括ることすら考えられる。
「‥‥うん。ばれるまでは黙っておいて、ばれたら逃げよう」
「ヘタレめ」
「いやあ無理でしょ。ことなかれ主義って大事ダヨ?」
自覚症状はともかくとして、勇敢に遠坂嬢への弁解を行うような気概は持ち合わせていない。
橙子姉みたいにいくつも体のストックがあるわけじゃないし、どっかの
君子危うきに近寄らず、凡人ならなおさらだ。
主人公補正もないのに嬉々として危険に飛び込んでたまるかってんだ。
「ふん、まぁいい。‥‥部屋は元のままに残してある。荷物を置いたらとっとと仕事を手伝え」
「手伝えって、俺は仕事するために帰ってきたんじゃ―――」
「いや、是非頼むよ紫遙君」
と、俺の文句を遮って幹也さんががっしと両肩を掴んできた。
よくよく眼鏡の奥の前髪で隠されていない方の瞳を覗き見れば、既に半泣きの状態になっている。その僅かに潤んだ隻眼は、『手伝ってくれなきゃチケットの手配しないゾ♪』と形容するのがふさわしい剣呑な光を湛えていた。どんだけ仕事溜めたんだよ橙子姉‥‥。
「‥‥はぁ、わかりました。今回は散々迷惑かけましたしね‥‥」
「ありがとう紫遙君! じゃあこの書類の誤字脱字の訂正から―――」
「日本語も満足に書けんのか橙子姉ぇぇえええええ!!」
久々に自制が効かない程の怒りの声をあげる。
誰もが視線も向けずに素通りする不思議な廃ビルから若い青年の叫び声が響き渡ったと、観布子では暫く怪談として人々の噂に上ったのだった。
「ところで橙子師、推薦状の約束は果たしていただけるんでしょうね?」
「ああ、あれか。お前の両親に連絡をとったぞ。『許可しない』だそうだ」
「ムキィィィイイイーーーッ!!」
21th act Fin.