side Toko
「やっぱり、結婚式は和式がいいよね、お義父さんも暗にそっちの方がいいって匂わせてたし‥‥。あ、でも式はウェディングドレスとか着たかったりする?」
「オレには似合わない。そんなことより幹也、雑事は秋隆がやるって言ってたんだから、お前があれこれ考えなくてもいいんだぞ?」
「そう? でもホラ、こういうのってやっぱり考えるのも楽しみの内だしさ。まぁ式がやりたくないって言うなら別に———」
「そんなコト言ってないだろ。‥‥あぁ、披露宴‥‥っていうのか? そういうのは両儀の家でやるらしいから、他のことを考えようぜ」
‥‥作業がまったく進まない。今日の昼間から数えても都合十云本目になろうかという煙草の灰を灰皿に落としながら、私はわざと聞こえよがしに溜息をつく。
まぁ、聞こえちゃいないだろうがね。
街中に蔓延っているカップルが発する空気とやらとは違い、まるで浮ついてなどいないが、それでも幸せだという雰囲気は自ずとコチラの私的領域を領空侵犯しつつある。
そもそも仕事場で自分達の私的な相談をするなど、いくら当面の仕事が片付いたのだとしても社員としてなっちゃいない。
あろうことか片割れは社員ですらないというのにだ。
まぁ身内に勘定されているし、まず最初の前提からしてココが厳格な職場ではないのだから違和感があるというわけではないが、間違いなくいちゃついていると形容してもいいだろうバカップルの、それも結婚式の相談など見ているだけでヤニが足りなくなってしまう。
‥‥まったく、出来た義弟から一日の本数を減らすように注意されているというのに、また今日の目安をオーバーしてしまうではないか。
貴様らのせいなんだからな。私自身が吸いたくて吸うわけではないのだからな。
「‥‥おい」
「僕は、式にも似合うと思うけどな、真っ白のウェディングドレス。どうせ両儀の家では和服なんだから、着てみるってのも悪くないんじゃない?」
「‥‥お前が、見たいって言うなら、着てやらないこともない」
「‥‥おーい、聞こえてるのか?」
間違いなく聞こえちゃいないだろうが、それでも一応声をかけることはやめられない。
例えば完成したドミノを目の前にお預けを喰らっている状況が精神衛生上非常によくないように、この、一見そっけないようで、その実これ以上ないくらいに幸せオーラを撒き散らしている二人を只受動的に見ているだけというのは、例え私にそのようなものに対するやっかみといったものがないにせよ、非常にキツイものがあるのだ。
これで鮮花がいたならば、間違いなく師である私の前であることも構わず大爆発したであろうことは疑問を挟む余地がない。
只でさえ想いを寄せている実の兄を横から掠っていった———鮮花が先に唾をつけていたというわけでもあるまいし、甚だ理不尽な難癖ではあるな。武者修業と称してアプローチなど一切やっていなかったのだから油揚げをひっ掠われるのも当然だと言える。大体あの二人に関して言えば、もはや運命という存在を証明したかのような必然の出会いだったとしか思えん———式を相手に、リミッターを外して挑むことだろう。
「コラ、いい加減に職場でいちゃつくのはやめろ。風紀が乱れる」
カツン、と僅かに持ち上げた重厚な作りをしたアンティークの灰皿が音を立て、人の声よりも幾分よく通る無機質な音に二人はようやくこちらに振り返った。
黒桐は私の言葉を額面通りに受け取ったのか少し申し訳なさそうな顔をしてはいるが自然体で、一方の婚約者はと言えば、てっきり真っ赤になってナイフを抜くかとでも思っていたのに、かなり不機嫌な顔でこちらを睨みつけるのみであった。
‥‥おいおい、まさかと思うが二人の時間を邪魔されて怒っているとでも言いたいのか?
周りに無頓着な奴だということは知ってはいたが、まさかそんな反応を返すとは夢にも思わなかったぞ。
‥‥ふむ、程度の差こそあれ、やはり式でも色ボケという病にはかかってしまっていたのだと言うことか。
「なんだ橙子、オレ達は忙しいんだが。用事があるなら早く言ってくれ。今すぐ殺しに行ってやる」
「おやおや物騒なことだ。私はただ、私用なら君達の家でやってはどうかと奨めるつもりだっただけなんだがね」
今度こそ腰に差したナイフを抜こうとする式を適当にかわし、黒桐が宥めたのを横目で確認するとコーヒーを要求する。
今日の仕事は止めだ、もう一切やる気が起こらん。
そんな私に黒桐も特に言いたいことはないのか素直に指示に従ってシンクへと向かい、やかんに水を注いで湯を沸かし始めた。
黒桐を取られた式は静かに不機嫌をアピールしているわけだが、実際問題としてストッパーである黒桐が有能なので、式一人だけが不機嫌ならばさほど問題は発生しない。
これに浅上藤乃と鮮花が混じって三竦みとなると流石の黒桐も力負けするわけだが‥‥。
最近は間桐がいるからか、そこまで深刻な状況へと発展したことはないな。
あれでいてかなり暗いものを抱え込んだ娘なわけだが、普段は温厚で気配りの効く良妻賢母タイプと評しても構うまいよ。
まぁ、一度スイッチが入ると藤乃と二人で負のオーラを振り撒くから始末に負えんが。
「うーん、それにしても鮮花と桜ちゃん、無事に倫敦に着いたかなぁ‥‥」
「別に誰かに狙われるようなことはしていない。そう心配しなくても大丈夫だろう。魔術師といっても普段からそこまで物騒なわけではないぞ」
さして美味くもないコーヒーを受け取って一口啜り、私の弟子二人の安否を気遣う従業員を安心させるわけでもなく只事実だけを口にする。
どちらかといえば魔術よりかは超能力に関連した事件ばかりに関わっていた黒桐だが、それでも魔術というものを些か過剰に危険視しているらしい。
妹である鮮花が私に弟子入りした時も最後の最後まで反対していたし、今だって時折渋い顔をする。
まったく、小学生ではないのだから少しは妹の好きにさせてやればいいものを、存外に頭の古い男だな、コイツも。
‥‥まぁ黒桐の考えていることも、あながち的外れというわけではないな。魔術師は須らく物騒な人種であるべきだし、実際殆どの魔術師———勿論だが私も含める。身内には甘いが、それもまた魔術師という連中の習い性みたいなものでね。孤独であろうとするからこそ、意外なまでに淋しがり屋なんだよ、私達はな———はそうやって自らを魔術師たらしめていると言えよう。
そういったささやかな矜持を保っていないと自信が薄れてしまうというものもあるが、まぁ臆病であることもまた魔術師であることなのかもしれん。
「確か、時計塔‥‥でしたっけ?」
「あぁ。魔術師達の最高学府の一つにして、立派な人外魔境さ。あそこで日々を過ごす術を会得できれば、一人前の魔術師だな」
「ちょ、所長それってやっぱり危険ってことじゃないですか!」
なに、嘘は言ってないさ。少なくとも倫敦に到着するまでに二人に何かあるとは思えないからな。というより手を出すメリットがない。
私の封印指定の執行は
外道にしたって面倒を避けられないようでは二流だよ。一流なら誰からも面倒を貰わないように、上手く立ち回るものだ。私は外道などではないがね。
だいたい今回の渡英はあくまで事前の視察のようなものであって、すぐに帰ってくるのだから、そこまで心配することもないだろうに。鮮花にしたってまだ両親から留学の許可を貰っていないわけだから、本格的に時計塔へ入学するにはまだまだ時間がかかるだろう。
あれは兄を振り向かせる小細工の一環として必要以上に病弱を装ったのが完全に裏目に出たな。あの頑固さは流石は黒桐の両親といったところか。魔術について隠しながらでは、どれだけ説得に手間取ることやら。
「まぁ奴が熱心なのも当然だよ。どんなに真面目でも、鮮花は魔術師のなり損ないに過ぎん。積み上げた歴史もなく、次代に成果を遺せるわけでもない異能者が成功するには、時計塔を卒業したという箔付けが必要不可欠だ」
その目的というのが兄に自分を認めさせるということなのだから、生粋の魔術師が聞いたら噴飯するか発憤するか‥‥。
まぁ厳密に言えば魔術を行使する者ではない鮮花を構ってやる魔術師が時計塔にいるかと言われれば、甚だ疑問ではあるがね。あそこは俗物とそれ以外の境界がはっきりしているわりに、どいつもこいつも人を見下すことに関してだけは一流ときている。
そんな連中が、厳密に言えば魔術師とは言えないという鮮花のステータスを見てなお、彼女に関わろうとする可能性は少ないだろう。
何故なら自分たちより劣る人間———という風に彼らが決めつけた人間———と関わることは、それだけで彼らの品位を貶めることになるのだと、傲慢にも考えているからだ。いや、魔術師という人種の特性を考えると、当然ではあるのか。
まったく、確かに鮮花は魔術師としては大成できないだろうが、異能の関係上、戦闘に関して言えば間違いなく一流に成長するだろうにな。
なにせ運動神経も良いし、今の段階でもかなりの火力を保有している。身内で炎の使い手と言われて真っ先に思い浮かぶコルネリウスに比べればまだ練度が足りないが、将来的には奴を越えるであろうことは疑問を挟む余地がない。
コルネリウスもコルネリウスで確かに優れた魔術師ではあったのだが、如何せん本人の性格に問題が大ありだったからな‥‥。
過ぎたことをどうこう言う性分ではないが、今になって思えばあの二人だって時計塔の中では幾分マシな部類であったか。俗物であったコルネリウスにしたって、まぁ友人付き合いができていただけ他よりは遥かに優る。
「鮮花もなぁ、魔術にばかり夢中になってないで、早く恋人でも見つければいいのに‥‥。うーん、でもそれはそれでやっぱり寂しいなぁ‥‥」
「兄心、というやつか? 私には理解しかねるが、世の長男長女というのはそういうものなのかもしれんな」
自分で言うのも何だが、私はつい最近まで家族愛というものに関して全くと言って良い程に興味を持てなかった。
なにしろ妹からしてアレだし、祖父だって私自身の手で殺してしまったからな。両親とも完全に勘当状態だから随分と会っていないし、会いたいとも思わん。
実際どうして自分があの酷い雨の日に今の義弟となった子供を拾おうと思ったのか、正直理解に苦しむ。あのときは余程どうかしていたのだろう、まさか前日に戯れに観た、映画の影響を受けたとは思いたくないが。
「そういえば‥‥紫遙君って、誰か好きな人とかいないのかな?」
「紫遙か‥‥。ふむ、考えてみれば聞いたことがないな」
今は倫敦でトラブルメイカー共に囲まれているのであろう義弟を思い返す。
小学校の自分から成長を眺めていたが、アイツの記憶が確かならば、既にその段階で高校生程度の情緒を獲得していた
というよりは、基本的にアイツの生活というものは私との魔術の修練に費やされていたわけで、そういえば何度か学校の方から授業態度が悪いと連絡が来ていたな。
アイツの記憶と話から垣間見た遠坂とやらの完璧ぶりをトレースするのは無理だったようで、なんでも居眠りばかりしていたのだとか。個人差はあれど基本的に魔術の修練とは夜中に行うものであるし、昼間に動きが鈍くなるのは仕方がないことではある。
これが基礎的な修練を終え、自分自身の研究に腐心するようになると、また話は別なのだが‥‥。もとより魔術師の家系ではない初代の魔術師である紫遙に魔術を教え込ませるのは非常に手間をくった。
スポーツにおいても試合に出ることができるようになるには時間がかかるように、魔術も一人前に育て上げるにはそれなりの時間というものがかかる。仕方がないことではあるが、Fateとやらを始めとしたゲームの中の現実を知っていながら、どうして魔術師という道を選んだのやら‥‥。
‥‥私は確かに選択肢の一つとして魔術師になることを幼い——―魂は別として、外見は———紫遙に提示はしたが、別に魔術師になって欲しいなどと言ったことは一度もない。
紫遙が私達と暮らし始めてから数年経ってから答えを貰ったということで、もしかしたらその数年間の間に私達では気づけなかった何かが、アイツの心中で起こったのかもしれないが‥‥。はてはて、一体何を思ったのやら。
アイツの前で頻繁に魔術を使った覚えもないし、工房の中を覗かせたこともないのだがな。‥‥いや、折に触れてそういう話はしていたか。
まさかと思うが、私に憧れて‥‥なんて殊勝なことではないだろうな。だとすればまぁ、多少は嬉しく思わないこともないわけだが。
「‥‥いや待て、確か一度だけ、そう、まるで白昼夢でも見たような、
「そうなんですか?」
「あれは確か高校を卒業した日のことだったか。お前達はちょうど留守にしていたが‥‥」
私達の前ではくるくる表情を変える紫遙だが、私があのような表情を見たのは後にも先にもあれ一回きりだった。
あれは一体どう形容するべきか。まるで狐狸妖怪に化かされたかのような、目の前で何やら不思議なことでも見てしまったかのような、また、何かに心を奪われたかのような‥‥。
あぁ、そうだ、あれは確かに、何かに心奪われた表情、乃ち恋でもしてしまったかのような表情だった。
私とて今でこそこのような生活をしているが、普通の娘であった時期がなかったわけではない。
こら、黒桐、何を不思議そうな顔をしている。まさか私がこのままの姿でこの世に誕生したとでも思っているわけではあるまい。私にだって、少女時代などと呼称される時代はあったのだよ。まぁ比較的短く、裏側に魔術師としての色々があったわけだがね。
とにかくだ、それにしたってそういう経験値というのが普通の女性に比べて少ない私にしても、それ以上に
とは言ってもあれっきりのことではあったし、翌日には元通りになっていたから追求もせず、すぐに記憶の底の方へと埋もれてしまったがね。
何よりそういう下世話な欲求というものはね、歳の離れた義弟に向けるようなものではないと思うのだよ。
◆
「‥‥はぁ、やってられないな、まったく」
誰もいない公園のベンチ。夕焼けがそこかしこを綺麗な茜色へと染めつつあり、俺はその中で独りぼっち、何をするわけでもなく呆然と古くさい木が軋むのも構わず体から力を抜いて溜息をついた。
高校から少しだけ離れたココは通学路からも少々と言わず外れているけど、どうにもそのまま一直線に歩いて帰る気も起こらず、ちょうど目の前に止まったバスに乗り込んだ結果がこれだった。
とは言っても流石にどこまでも乱暴なタイヤの揺れに身を任せるほど責任感がないわけでもなく、のっぴきならないほど遠いところへ行ってしまう前に降りたから精々が隣町といったところだろう。
けど、どうにも自分がこんなに衝動的な部分を持っていたということが不思議でならない。人生とは、発見の連続である。
「ここ、どこかな‥‥。大通りに行けば分かるんだろうけど、面倒臭い‥‥」
戸籍の住所登録がどうなっているかなんてのは知らないが、少なくとも俺の居住地は
観布子から駅幾つかだけ離れた場所にある、日本でも有数の霊地の一つ、“三咲”。
俺の名前の上に君臨している、まぁつまるところ苗字である“蒼崎”が根城にしている場所であり、ついでに言うと俺の保護者である蒼崎橙子はそこの長女で、しかも半ば以上の勘当状態。
なにしろ義姉は祖父をブチ殺して家を出て行ってしまったので、三咲の地に踏み入ることを禁止されている。そしてそんな義姉に拾われた俺の存在が本家にバレているかどうかなんてことは、慮外の内ではあるのだけど‥‥。それにしても立場上ココが三咲ならば速やかに立ち去るのがベスト。
というより何かあったら殺されてしまうかもしれないのだから、一も二もなく逃げ出した方が絶対に良い。
「でもなー、動きたくないんだよなー。しかもなんか、腹減ったな‥‥」
自分の感情を処理できない奴はゴミだそうだけど、それにしたって感情が肉体を動かすことの方が多いのだから俺が今動きたくないというのも仕方がない話。
とにもかくにも空腹を覚えたので、貰った紅白まんじゅうを取り出して一口囓る。
‥‥甘ったるい。当然なのだが、どうにもこれは単体で食べるのは難しいなぁ。
別段甘いものが苦手というわけではないけれど、それにしたってこういったものは“お茶受け”と呼ばれているのだからペアとなる飲み物を調達しなければ美味しく頂けないのも道理。面倒くさいが十数メートルならと体を起こし、視界の端っこに見えた自動販売機で暖かい緑茶を購入。ベンチに戻って黙々と二つの饅頭を平らげた。
今日は俺の高校の卒業式。そして俺は卒業生だった。
かねてより魔術師としての色々で付き合いが非常に悪かった俺はクラスの集まりからも自然とあぶれてしまい、こうして一人で暇をもてあましているというわけだ。
別に友人がいなかったというわけでもないし、特別社交的でなかったというわけでもないのだけれど‥‥。やはり魔術師という人種である以上は周りと隔絶してしまう宿命だということか。
なんとなく、というレベルではあった。しかし、それでも現実に俺はこうして一人でいる。
「来週には、倫敦か‥‥。まったく橙子姉も強引で困る。別に行きたくないわけじゃないのに、勝手に決めちゃうんだもなぁ」
人としても魔術師としても一番に尊敬する上の義姉から、大学受験について考えている時に一方的に押しつけられた選択肢。
魔術師として、それは当然選ぶべきものではあったのだけど、どうにも他人の言いなりになっているような気がして愉快ではない。それが誰よりも尊敬している義姉の指示であっても、結局自分が誰に言われなくてもそちらを選んだであろうことがわかっていても、だ。
それは時期遅れの反抗期に近いものだったのかもしれないけど、そういう程には強烈なものではなかったし、長く続くというものでもなかったように思える。
ただ時期が悪かった。何かのアルゴリズムときっちり噛み合って、俺を不機嫌にさせているだけの話なのだ。
そういうのは後になって思えば穏やかで冷静な気持ちで考察することができるのだろうけれど、当事者として直面してみれば往々にしてこの上ない大問題であるかのように感じてしまう。
つまるところ早く帰って橙子姉や幹也さん、式、鮮花、藤乃君、ともすれば青子姉達が開いてくれるであろう卒業祝いのパーティーに期待せずにこうしているのは、体に魂が引きずられてもなお幼くあることを拒絶したいつぞやの反動であるようにも思える。
まぁそこまで深刻な問題ではなく、ようやく魂の記憶と体が結合したがために色々と吹きだしているというだけの話なのかもしれないけど。
‥‥あれ、どっちが複雑なんだ? どうにも頭の調子まで良くないらしい。
「‥‥まぁ、あれだ。煙草でも吸ったら帰るかね」
だがこうしてぼんやりとしているのにも限界がある。実際には何時までもここで何をするともなしに延々座っていられそうなのだけれど、前述の話もあるし、遅い帰りになってしまうと皆に心配をかけてしまう。
橙子姉とか式とか鮮花はそうでもないかもしれないけど、幹也さんや藤乃君は間違いなく心配するだろうし、青子姉なんてところ構わず探しに来たりしかねない。
‥‥幹也さんなら人伝てに聞き込みして三十分とかからずに俺の居場所を見つけ出しそうだし。
「‥‥‥‥」
さらに言うならば、天気もかなり不安気だ。
さっきまでは夕焼けが差していたはずの公園は、いつの間にか真っ暗になってしまっていた。存外、自分は長い間ぼんやりとしていたらしい。
昨日降った雨のせいか何処からか霧まで立ちこめて来ていて、まるで倫敦はこんな場所なんだよと俺に教えてくれているかのようだ。
まったく、温暖化と騒がれている割には、最近は本当に寒い。卒業式に合わせて咲いてくれた桜並木には、根性あるなと労いの言葉をかけてやるべきだろう。
「心許ない、残りは一箱」
そう考えると俺は一向にやる気を見せない上半身と首を無理矢理に動かし、学ランの内ポケットから愛用している煙草を取り出した。
早々頻繁に吸うわけではないのだけど、いつ頃からか橙子姉の真似をして吸い始めたもので、こういうあたりを叱らない橙子姉とは普通に目の前で吸ったりしている。
本当は銘柄まで合わせたかったのだけれど、アレは俺にはキツ過ぎる。普通にコンビニなどで売っているものが限界だ。少し
次いであちらこちらのポケットをまさぐってみるけど、どうにもライターが見つからない。まさに片手落ちとはこのことであろうか、俺は仕方がないと咥えた煙草の先へと指を持っていき、弾いて魔術を使って火を点けようとして———
「コラ、高校生が煙草なんて吸っちゃダメでしょ」
「‥‥は?」
後ろから伸びてきた腕にヒョイと煙草を取り上げられて、間の抜けた声を出す羽目になった。
全く気配を悟らせずに———と恰好よく言ってはみたけれど、よくよく考えれば俺に他人の気配を読むなんてできるわけがない———すぐ後ろにまで他人がやって来たというのにも驚いたけど、なにより自然で何気ないその動作と透き通るようでいて快活で、力強い、どこぞで聞いたような響きに胸を揺さぶられた。
「ハイ、貴方、こんなところで何やってるの?」
「何って‥‥今まさに吸おうとしていた煙草を、君にひったくられたばかりだけど?」
振り返れば、ベンチの背に腰掛けるようにしてコチラを見ていたのは俺とそう歳の変わらないであろう少女。
黄土色の素っ気ない仕立ての制服の上から裾の短いコートを羽織り、腰まで届くかという茶色がかった髪の毛が小首を傾げると同時にサラリと揺れる。
街灯の明かりはまるでスポットライトのように彼女に降り注ぎ、少し俺よりも高いところに目線があるためか、まるで舞台女優でも見ているような気分だ。
茶色のスカートはミニに近く、俺からの視点ですれば非常に際どいところに座っているはずなのに中身は見えない。もちろん見たいとか思っているわけではない———それでも視線が僅かに、一瞬だけ行ってしまったのは男なのだから仕方がないと思う———のだけど、そこから伸びる真っ白な足にドキリとしてしまう自分がいるのは否めない。
なにしろ一切の世辞を含まず、綺麗なのだ。
その子は不機嫌を装った俺の意図に気づいているのか、ぶっきらぼうな言葉にもニコリと笑ってひらりとベンチから飛び降り、スタスタと俺の目の前まで回り込む。
座っているから相対的な身長差が曖昧でよくわからないのだけれど、そこまで背が高いわけではない。しかし全身から発散されている雰囲気というものが彼女の快活な気質を主張していて、おそらく立って見下ろしても見下ろしている気がしないだろう。
「この辺りでは見ない顔だけど‥‥どうかしたの?」
「見ないって、君はこの街の男子高校生の顔を全て覚えているのかい?」
「うーん、大概の不良だったら一度は蹴り飛ばしてるからね。煙草吸ってるぐらいだからワルだと思ったんだけど、図星?」
「‥‥別に不良やってるわけじゃない。煙草吸ってる奴がみんな不良ってわけじゃないだろ」
大人ぶっているつもりか斜に構えたつもりか、自分でもよくわからないままにそう返しはしたけど、確かに学ラン姿の若い男がベンチで煙草など吹かしていれば、間違いなく不良に見られてしまうだろう。
どちらにしても通報されるか注意されるか、もしくは遠巻きに迂回されてしまうか。喧嘩などとは無縁の生活をしているし授業だって真面目に出ているのに、そういう風に判断されてしまうってのはやっぱり見た目が大事だという証明なのか。
もっとも授業は寝てばかりだし、喧嘩なんかよりも遥かに物騒なものに関わっているわけだけど。
(しかしまぁ、大概の不良は蹴り飛ばしてるなんてこの子の方がよっぽど不良みたいな生活してるんじゃないか)
それでも何となく説得力があるのは、やっぱりこの子から受ける印象のせいだろうか。生憎と初対面の相手の人間性を見抜く程の眼力は会得していない。けど、この子に関してはむしろ彼女からコチラへと主張してきているのだから自ずと理解させられてしまうというものである。
良くも悪くも普通の生活をしていた前世では全く分からなかったことだ。でも、こちらの世界に来てからは、絶対的な存在感のある人物というのが確かに居るのだと実感させられた。
例えばその傾向が顕著なのは式。たとえ混雑度200%超の街中であろうと、式がいれば何十メートル先からでも発見できる。それほどの存在感を常に辺りにまき散らしているのだ。
ちなみにこれが幹也さんなら百メートル先からでも視認できるだろうけど‥‥割愛。あの人は最近とみにストーキングの達人なんじゃないかって疑惑が芽生えてきているから。
「うーん、でも私は今まで煙草吸ってるような連中はみんな蹴り飛ばしてきたからね。貴方も蹴り飛ばされておく?」
「遠慮するよ。煙草は君に取られちゃったし、それじゃ蹴られ損だ」
「あら、可愛い女の子と知り合えたんだから、損なんかじゃないんじゃない?」
自分で言うか、と毒づく気にもならない。なぜなら確かに彼女は美人だからだ。
それでもなお親しみやすさの値がMAXなのは彼女の性格なのだろうけど、まったく嫌味に聞こえないのには下心がない完全な冗談だからだろう。
一瞬「確かにその通りだね」と返してしまおうかという、嫌味で打算の含まれた衝動がわき起こった。まぁ残念ながら俺はそこまで度胸のある人間でも、ナルシストでもない。
そういう気障な台詞はフラクラスキル保持者か、本当にその台詞が似合う奴しか口にしてはいけないのだ。
「で、貴方一体どこの人? そんな野暮ったい学ラン、この辺りの高校じゃないもの」
「‥‥多分、駅二つか三つぐらい先だよ。ぼんやりバスに乗ってたら乗り過ごしちゃってね。しばらくここでのんびりしてから、帰ろうと思ってたところさ」
その学ラン姿の奴を蹴り飛ばした覚えがないしね、と続けた彼女の問いに答えた俺に、ふーんと興味なさげに返して、その子は乱暴に頭の後ろを掻く。
色気の欠片もない仕草だけど、むしろそういう方が彼女には似合っているのだろう。
実際知らない男と二人きりという状況なのに、全く気負いを感じない辺りから容易に想像がつく。こちらとしても意識されるより楽で良い。
しかしまぁ、考えてみればおかしな状況だ。
そもそも煙草を吹かそうとしていた学生なんて近寄りたくないだろう存在に近寄ろうとしたこの子も不思議。でも、それ以上に知らない女の子相手に普通に話をしている俺とて普段のノリではない。
自分で言うのも何だが、俺は結構な人見知りである。
原作とかで人物像を把握しているならともかく、知らない人相手にこうして気楽に話すことができる性分ではない。
「ふーん、随分とまた暇してるのね。卒業式の後なのに一人ってことは‥‥もしかして虐められてたりした?」
「ぶぅっ?! な、なんでそうなるんだよ!」
「あら図星? もしかして煙草吸ってるのも強がりだったりする?」
「そんなことがあるか!」
まるで白のオセロをひっくり返したら当然それは黒であるとでも言うかのような調子で
むしろそれでは逆効果なわけで、コロコロというよりはカラカラと元気に笑う女の子は更に意地の悪い笑みを深くすると、少し体を前屈みにさせて下から見上げるようにこちらへと視線を寄越す。
(‥‥なんだよ、この子)
思った通り身長は俺よりも幾分低く、それでいて小柄というわけではない。
前述した通り彼女自身が発する雰囲気と相俟って、むしろ長身であるという印象すら受けるだろう。
明らかに日本人であるくせに大きくてクリクリと動く瞳の色は、透き通った海か空のような、少し碧が混ざった美しい青。
空の色は海の色が反射しているから青いのだという嘘っぱち。そんなものはとうの昔に了承していたけど、彼女の瞳の中にはまるで一つの世界がそのまま入っているかのようだった。
当然俺の気のせいだろうけれど、どこからか草原を吹き抜ける風を感じたような気までした。
「大体、どうして俺が卒業式の帰りだって気付いたんだい? 別に花束も持ってなけりゃ、胸に造花を差してるわけでも、第二ボタンが毟られてるわけでもない」
「何言ってるのよ。そこにホラ、食べたばかりの紅白饅頭があるじゃない。兄姉の式に参列したなら、一人でボケーッとしてるわけないしね」
言われて振り返ってみれば確かに、俺が今しがた立ち上がったばかりのベンチには乱雑に解いた紅白の包装が無造作に放置してある。成る程、これじゃ言い当てられてしまっても仕方がない。
面倒くさい連中の目についたら良いカモにされてしまいそうなぐらいに、卒業という儀式を経て学校の枷から逃れ、解放感からいい気になっている少年そのものだ。
そういえば今まで他人よりは無駄に、人生を過ごした経験値が多いだけに周りの同年代を子供に見がちだったけれど、よくよく考えてみれば俺はもう前世の時の年齢を追い抜いてしまった。
こうして思い起こしてみれば、魔術云々の違いこそあれ、さほど変わらない生活をしていたようにも感じる。一回目よりは周りに大人が多かったにも関わらず、やはり魂は体に引きずられるということか、それとも俺自身がそもそも子供っぽいということか‥‥。
「―――まぁアレよね、魔術師が虐められるってのも中々想像できない姿かしら」
「ッ! ‥‥君、一体何者だい?」
何気なく目の前の少女の口から飛び出した言葉に、咄嗟に距離を‥‥いや、ベンチが邪魔で動けないから、せめてもの警戒としてポケットに手を突っ込み、中に数個だけ忍ばせていたルーン石を掴む。
‥‥それなりに修業を積んだ魔術師なら、相手がよほど強力な隠蔽を施していない限り互いを認識することができる。まだまだ修業中の粋を出ていない俺では上手く見破ることはできないけど、それが出来た彼女は見た目通りの年齢ではないか、何百年と続く血脈に支えられたサラブレッドか‥‥。
どちらにしたって、ろくに実戦経験もない俺で敵う相手ではないだろう。まさかここまで俗世の香りに
よくよく考えてみれば俺が相対したことのある魔術師は
見るからに魔術師である橙子姉と、親しみやすそうに見えてどこか“超えてしまった”という印象のある青子姉だけで、魔術師というものを判断していいわけがなかったのだ。
「一応決まり文句として聞いておくけど、なんで俺が魔術師だなんて思ったんだい?」
「だって貴方、煙草はくわえてたけどライターもマッチも持ってなかったもの。知り合いにそうやって煙草点ける奴がいたから、ピンと来たのよね。カマかけてみたんだけど、今の貴方の態度で確信したわ」
「‥‥こりゃあ一本とられたな。俺もまだまだ半人前ってことか」
無手で、しかも魔術回路を
残念なことにまだ、というよりは当分未完成ではあるけれど、俺は研究している魔術の特性から精神干渉などの攻撃に対する耐性は高めだ。もとより彼の衛宮士郎や遠野志貴以上に重大な秘密を抱え込む身、様々な手段でプロテクトをかけている。
彼女がたとえ
「そう身構えないで頂戴。そっちから仕掛けてくるならともかく、今はそんな気分じゃないもの、やり合う気はないわよ」
「‥‥信用できるとでも? 幸い師匠が厳しくてね、隙は見せないようにしっかりと躾られてるんだ」
「今更じゃない? まぁ気が済まないなら何時でも私を吹っ飛ばせるように用意しておけばいいわ。ホラ、ずっと馬鹿みたいに立ってるのもなんだし、座りましょう?」
こちらも言葉だけは強がっているが、その実向こうに戦意がないと知って安心してしまっている自分がいる。なにしろ今の台詞の中にも、『たとえ襲いかかってこられても返り討ちにできる』という自信が溢れているように感じたのだ。
自分と相手の戦力差を感じ取ることができるような武芸者ではないが、そのニュアンスだけはしっかりと理解できた。
(‥‥甘く見られたもんだ)
しかし何の気負いもなしにごくごく自然な仕種で彼女は俺のすぐ横を通り過ぎると、今しがた俺が腰掛けていたベンチに座って自分の隣をバンバンと叩いてアピールする。
未だ警戒を緩めるつもりはなかったけど、その仕草がやけに親しみやすくて、俺は念のために片手はポケットに入れたままで溜息をつくと、ベンチの上に放置してあった饅頭の包装をすぐ近くの屑籠へと放る。そして、素直に誘いに乗って腰を下ろしたのであった。
◇
「それで彼の妹さんが怒っちゃってね。そこにいた恋人も巻き込んで大乱闘ってわけさ」
「アハハ、愉快な人達ばっかりなのね!」
交わされる会話は実にたわいもないものだ。互いに魔術関連の話はせず、只、日常生活で起こった面白可笑しなことばかり話している。
もっとも申し合わせたわけでもないのに固有名詞は一切出さず、自己紹介すらしていない。
どうせ一期一会、だとすればそちらの方が風情があると彼女が主張したのだけれど、単純に機会というものを逸したがために、俺は口に出せなかったというのもあるかもしれない。
そういう時にこちらからアプローチをかけるというのは、非常に恥ずかしいものだった。
(‥‥不思議な子だな)
俺の話す内容は伽藍の洞———勿論これも名前を出してはいない。ただ自分の家がやっている事務所のような場所とだけ言っている———の異常に濃い面々が繰り広げるドタバタが中心であり、彼女は反対に学校などで起こった、些細でありながらどこか笑いのツボをしっかりと抑えたものである。
断じて俺は学校で友達がいなかったわけではないけれど、良くも悪くも目立たなかったので、おそらく目立つ部類だろう彼女の話はとても面白かった。
日もすっかり暮れて、相変わらず何故か立ち込めている珍しい霧は空気を冷やし、コートを羽織っているとはいえミニのスカートを履いている彼女には些か寒いらしい。
いつの間にやらベンチに座った二人の間の距離は狭まっていて、もう少しで互いの足が触れ合ってしまいそうだ。実際肩は掠っており、俺はやや俯きがちに猫背になることで余計な接触を回避していた。
義姉達や他人の恋人、妹弟子とその同級生などを除けば殆ど女子と接することがなかったからか、思いも寄らず近くなった距離感にドキドキしてしまう。
いや、正直に言おう。親しみやすい割にはどこか不思議な雰囲気を持つ彼女に、初めて会ったのだというのに俺は間違いなく惹かれてしまっていたのだ。
なんとまぁ、自分はこれほどまでに惚れっぽい人間だったのかと呆れてしまう程に。
「ふわぁ〜、随分と話しこんじやったわね。‥‥やだ、あの時計壊れちゃってるじゃない」
「本当だ。‥‥参ったな、今日は腕時計を忘れてしまったんだ。これじゃ時間が分からない」
ふと気がついて公園の街灯の上に取り付けられている時計を見遣れば、短針が数字の2を指している。まさか深夜というわけでもあるまいし、おそらくは彼女の言う通り、随分前に壊れてしまっているのだろう。
他者への能動的なアクションを嫌う風潮のある現代において、こういう些細でありながら不便なことは往々にして放置されがちだ。まぁ最近は誰もが、あまつさえ小学生であっても携帯を持っているような時代だし、あまりああいうものも注意されないのかもしれない。
「仕方がないわね、あんまり遅くなるのもなんだし、私はそろそろ失礼するわ」
実際さほど時間が経っているとも思えないけれど、とても東京とは思えない程に立ち込めた深い霧のせいで時間感覚が曖昧だった。どれくらいの間、話していたのかは分からない。
いくら魔術師とはいえ、年頃の女の子をあまり遅い時間に帰らせてはいけないだろう。立ち上がってスカートの埃を払った彼女に続いて、俺もベンチから腰を上げると、長い間猫背でいたがために固まってしまっていた背骨をほぐそうと大きく伸びをした。
気がつけば先程までの倦怠感、理由の分からない反抗感、不機嫌な気持ちもいつの間にやら無くなっていて、不思議と晴れやかな気分になっていた。
さっきまでの自分がどうして反抗的な感情を抱いていたのかも理解できない。 ぶっちゃけた話、思春期の青少年というのはそういうものなのかもしれないけれど‥‥。とにかく『帰りたくない』と無意味にも感じていた思いは完全に消え失せている。
つまるところ、やはり何となく波長が噛み合って不機嫌になっていただけなのだ。そこに大した理由もなく、単純に時間経過によって解決される問題であったのだ。今になって思えば実にお笑いぐさな話ではあるが、そういうものなのだから仕方がない。
なんにせよコレも目の前で俺同様無防備に伸びをする———なにせ体を反らすと、意外にも豊かな胸が強調されるのだ。再三繰り返すけれど、俺だって年頃の男なのだからしょうがない———彼女との会話がそのきっかけになったことは間違いなく、たった一夜‥‥というには些か早い時間帯で、ついでに言えば色気もないけれど、一期一会の関係に過ぎない彼女にも感謝の念が湧いてくる。
「ありがとうね」
「え?」
「ううん、ちょっと身内でゴタゴタがあってね。これでも結構むしゃくしゃというか、色々悩んでたのよ。貴方のおかげで気が晴れたわ」
「そうかい? まぁ俺も同じさ。色々と考え事してたけど、君のおかげで気が晴れた」
「あら、じゃあお互い様ね」
「あぁ、お互い様だね」
どちらが先とも無しに歩き出す。
公園には相変わらず人気がなくて、いくら住宅街の真ん中だとは言っても夕暮れ時から一切の人の、子供達の影すらないというのは少々不思議なことではあった。まぁ最近の子供というのは家の中で遊んでいるのかもしれない。
友人曰く、マンションのロビーで車座になって携帯ゲーム機をいじくっているというのも日常茶飯事らしく、どうにも俺が子供の頃とは随分変わってしまったものなのだなぁと、年寄り臭いことを考えた。
さて、彼女によれば俺が目指すべきバス停は彼女が帰る方向とは別の出口から出なければいけないらしい。やっぱり随分と遅くなってしまったに違いない、橙子姉達も心配しているだろう。
―――ともすれば折檻されかねないだろうけど‥‥まぁ自業自得だ。俺のここ最近の反抗的な態度に対する答えを自分自身で得ることができた以上、甘んじて受けるべき罰だろう。
「それにしても、アレよね」
「ん、なんだい?」
「折角の卒業式だってのに、お祝いが私みたいな美少女と会話しただけってのも、どうにも勿体ないと思わない? それに貴方はそれでいいかもしれないけど、付き合ってあげた私にはご褒美ないのよ?」
「うーん、そうは言っても、俺から君に贈ってあげられるものなんてないなぁ‥‥」
ちょうど公園の真ん中、互いに反対の出口へと立ち去るところで立ち止まった彼女の言葉に、俺は困って頭を掻いた。
なにしろ学校の帰りだからお金の持ち合わせはないし、そもそも俺はバイトもしていなければ、橙子姉からのお小遣いはかなり少ない。というより、こういう場合はお金でお礼するというのも激しく無粋である気がする。
だけど俺は来週には倫敦へと旅立ってしまう身。食事を奢るなんてことも約束できないし、大体そちらの方が風情があるからと互いに名乗らなかったのに、二度目のデート‥‥みたいな、会う約束を取り付けるなんておかしいだろう。
さて、この場合どういう風なのが気の利いた贈り物なのだろうか。生憎とロマンチストを地でいく橙子姉でもあるまいし、サッと粋な返答なんぞできないぞ俺は。
「そうね‥‥じゃあ、コレを貰うわ」
「えっ?! ちょ、ちょっと!」
「どうせ誰にあげる予定もなかったんでしょう? 折角だから、私に頂戴」
首を捻って悩んでしまった俺に対し、彼女は暫し考える素振りを見せると、あたかもこの上なく良いことを思いついたかのような顔で笑い、近寄ってくるとサッと俺の胸元へと右手を一振りさせた。
油断していたとはいえ致命的な隙を突いた彼女の右手に握られていたのは、金色の丸い物体。
ちょうど半球形を更に拉げさせたようなそれの平らな面には丸い輪がついていて、それは今もまだ俺の胸元に引っ掛かっている黒い部品とペアで、二枚の布を重ね合わせて留める働きをする。
要するにそれは学生服のボタンであり、ついでに言うならばそのボタンは丁度上から二番目の、所謂第二ボタンと呼ばれる、特定の意味を持った幻想のボタンであるわけだ。
卒業してしまう憧れの先輩からソレを貰うというのは後輩———ただし当然だけど女子に限る。勿論男子の先輩から貰うという意味であり、少なくとも女子の先輩から第二ボタンを貰ったという話を俺は聞いたごとがない———にとって一種のパラメータであり、人気のある男子だと部活の後輩に限らず大勢が殺到するのだと言う。
そして学校でも目立たない部類であり、ついでに部活にも所属せずに帰宅部状態であった俺の第二ボタンをほしがる後輩などいるわけもなく、それは俺以外の誰の指紋をつけることもなく箪笥の肥やしになる予定であったのだ。
「それじゃ、縁が合ったらまた逢いましょう、通りすがりの不良さん」
「ちょっと、君!」
「じゃあね〜!」
そんなこんなで一瞬の早業に呆気にとられてしまった俺にも構わず、彼女はコートを翻すと一目散に去っていった。
走りながらこちらへ手を振った姿は、まるでまた明日学校で会いましょうとでも言うかのようで、それでいて瞬く間に濃い霧の中へと消えてしまう。
長い髪は早々見失ってしまう程に目立たないわけではないはずが、次の瞬間には完全に姿を見失ってしまっていた。
まるでベンチで休んでいたら一陣の風が吹いて、去ってしまったかのようで、俺は思わず目をこすって頬をつねり、自分の状態を確認する。
気づけばあんなに立ちこめていた霧も瞬きいくつかの間にすっかりと晴れていて、辺りにはちょうど夕日が沈んだばかりの時間帯だとでも言うかのように、下校途中か遊びの帰りなのか、家路を急ぐ小学生達が大通りを歩いているのが見えた。
すっかり取り出すのを忘れていた携帯電話を確認すると、俺がバスから降りてから三十分と経っていない。今から帰れば、多少寄り道したという言い訳でも通じるだろう。
今までは霧のせいで実際のそれ以上に時間を遅く見積もってしまっていたのか、とにかく予想以上に時間が経っていないというのは僥倖である。
やっぱり橙子姉の折檻は怖いのだ。
「なんだったのかな、一体‥‥」
胸元に手をやれば第二ボタンは確かに消えていて、鞄を提げた肩の先の手が持つ緑茶の缶は、半分まで飲んだ後に彼女に奪われてしまったがために、空っぽで、水の音もしない。
まるでそれは白昼夢。俺がぼんやりとしていた間に見た幻のようで、それでいて確かに存在したことを主張する証拠がある。
なにより、彼女が俺の横を通り過ぎた何回かで嗅いだ心地よい長い髪の香りが、しっかりと記憶に焼き付いている。間違いなく彼女と俺とのやり取りはあったのだ。
「‥‥いけない、それはそうとして早く帰らないと!」
あれが夢でないことを確かめるにはもう少しこの場で気持ちの整理をつける必要がありそうだけど、やはり予定よりは遅くなってしまっているのは確かで、家路を急ぐに越したことはない。
俺はすぐ目の前をちょうど通りかかったバスが十何メートルか向こうのバス停に停まったのを見てとると、それを捕まえるべく鞄を担ぎ直し、全力で脚に力を込めて走り出したのであった。
Another act Fin.
ssクラスタ朗読会などというトンデモないイベントを経て少し改訂。
じんましんが出る程の羞恥心‥‥!