UBW~倫敦魔術綺譚 (未改訂版)   作:冬霞@ハーメルン

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第四十八話 『蟲の娘の帰還』

第四十八話『蟲の娘の帰還』

 

 

 

 side Sakura Matou

 

 

 

 

「———美味い! 衛宮のメシは弁当でも美味いけど、やっぱり温かいのは違うな!」

 

「うわ、こんなにはしゃいでる紫遙見るの久しぶりよ。普段どれだけ悲惨な食生活送ってるんだか‥‥」

 

「工房に篭ってると必然的に有り合わせやレトルト食品が多くなってね。最近は日本の製品が倫敦でも流通してるし、人が作った料理は久しぶりだよ」

 

 

 先輩が作ったシチューを嬉しそうに食べている紫遙さんに、鮮花が呆れたような顔をして感想を述べた。

 実際に私が紫遙さんに抱いていたイメージ、『落ち着いていて優しくて頼れる魔術師』とも今の光景は全く違う。

 紫遙さん自身が語る普段の食生活を鑑みれば十分納得はいくけれど、今の様子は初めて会った時の物腰と違って、まるで藤村先生の劣化版みたいだ。

 

 

「そのシチュー、前に紫遙に持って行ってやろうとしたヤツなんだ。あの時は紫遙が突然里帰りしたから渡せなかったけど、喜んでくれてよかったよ」

 

「いやぁ流石は衛宮だな。桜嬢の作ったグラタンも美味いし、本当に今の俺は幸せだよ」

 

「まだまだお代わりはありますから、よかったらどんどん食べて下さいね」

 

 

 その紫遙さんの隣ではセイバーさんがいつもの見慣れた仕種で間断なく料理を口へと運んでは、コクコクと頷きながら咀嚼している。

 すごいペースなのに何故か上品なその食べ方は見ていていつも不思議になるんだけど、まぁセイバーさんだからと納得できてしまうのもまた彼女の魅力なんだろう。

 そう考えこんでいる最中にもまたシチューを平らげて先輩にお代わりを所望するセイバーさんの頭の上の毛(チャームポイント)がぴこぴこと揺れているのを幻視してしまい、私は軽く頭を振って妄想を振り払った。

 

 

「本当は和食にしたかったんですけど‥‥」

 

「ロンドンじゃ和食に必要な食材が手に入り難いからな。米とかは高いし、流石に俺もインディカ米とかは使う気になれなあし。でも桜は洋食の方が得意なんだから問題ないんじゃないか?」

 

「私は久しぶりに先輩の料理が食べたかったんですけど‥‥」

 

「いやでも桜、初めて食べたけど貴女の料理ってば本当にすごく美味しいわよ? これ、礼園(ウチ)の寮の食堂に匹敵するわよ。ウチのシェフは二ツ星レストランから引き抜いた本物のフレンチの料理人なのに」

 

 

 この場で一、二を争うぐらいにナイフとフォークの扱いが上手な鮮花が、グラタンと同じく私の作ったカレイのフライを食べてそう言った。お世辞でも嬉しい。

 とりあえず箸でも綺麗に食べるのが難しい魚を見事な手つきで解体していく様子は感動すら覚える。今まで箸こそが万能の食器だと信じていたけど認識を改めなきゃ。

 

 

「要は使う人の腕よ、腕。礼園では食事のマナーの授業もあるしね。それに桜だって十分上手じゃない」

 

「鮮花には負けちゃうわ。流石に小骨の間までは無理だもの」

 

「散々シスターに扱かれたからね。‥‥まぁ一番上手なのは遠坂さんだと思うけど」

 

 

 鮮花の感心の視線の先を辿れば、微細な小骨までしっかりと細かく綺麗にされた皿。まさに魚を食べるお手本というべきで、丁寧に並べ替えたら復元できそうだ。

 焼き魚ならともかく、フライでここまで綺麗に魚を食べられる人はそうそういない。これなら食材になった魚も本望だろう。

 

 

「遠坂さん、一体どこでそんなに綺麗な食べ方を習ったんですか?」

 

「別に誰かに教えてもらったわけじゃないわよ? ただ注意して食べていたら自然とこうなっただけ」

 

 

 さも当たり前のように返す遠坂先輩だけど、実は食事が始まってから喋ったのはこれが初めてだ。

 冬木の衛宮邸での食卓では藤村先生がとめどなく口を動かす———食べるためにも、話すためにも。それでいて口の中が見えないのは流石だ———から目立たないけど、別に遠坂先輩は口数が少ないわけじゃない。

 それなりによく喋るのは普段通りで、もしかしたら私よりも口数は多いはずだ。学校での清楚で落ち着いたたたずまいとは別物で、それでもむしろ快活なこちらの方が魅力的だと私は思う。

 だから多分、私の知らない内に何かあったんじゃないだろうか。不機嫌というわけではなさそうだから、眉間に僅かに皺が寄っているのは考え事のせいだろう。

 

 

「小骨の間まで綺麗さっぱり。なんというか、君の性格を表しているみたいだね」

 

「‥‥何が言いたいのかしら、蒼崎君。まさか私がガメついとでも?」

 

「いや、清廉潔癖って言いたかったんだけど‥‥。だからホラ、左手を机の下にやるのは止めてくれないかい?」

 

 

 ガメつい、という表現が可笑しくて思わず吹き出しそうになり、キッと睨まれたので慌てて堪えた。

 失言の主である紫遙さんは両手を挙げて降参の意を表しており、遠坂先輩は机の下にやった魔術刻印がある左手を持ち上げて、わざわざ銃のように一差し指を伸ばしてみせる。その綺麗な笑顔がどこはかとなく怖い。

 

 

「そういう蒼崎君こそ、どうして小骨が失くなってるのかしら」

 

「よく揚げてるから小骨ぐらいなら食べてしまえるんだよ。それでいて揚げすぎてないんだから、桜嬢は素晴らしいシェフだな。こういうところにも性格が出るのかな?」

 

「アンタの場合は性格というより食生活でしょ。海老天の尻尾までしっかり食べるタイプよね。ほんと、いくら忙しいからってレトルトばっかり食べてたら、魔術師でも体壊すわよ?」

 

「橙子姉には秘密にしといてくれ。あぁ見えて栄養関係には意外なくらい細かいんでさ」

 

 

 苦笑混じりの紫遙さんの言葉に、私と鮮花は揃って顔を見合わせてから首を傾げた。とてもそんな人には見えなかったからだ。

 私が伽藍の洞に行くのは決まって週末———本当は週末というべきではないのかもしれないけど、少なくとも学生としてはそう形容してしまうのは仕方がないだろう———の日曜日。

 朝早く新幹線に飛び乗って、うつらうつらしながら東京へと向かう。修学旅行の時は年甲斐もなくドキドキしてしまった旅路も、この数カ月ですっかり慣れたものだ。

 そんな私は伽藍の洞で半日以上を過ごし、お昼ご飯は当然ながら一緒にとることが多いわけだけど、大概はお弁当で済ませていた。

 これはあまり大声で言えないことなんだけど、橙子先生は有り得ないぐらいに手先が器用なくせに、全くと言っていい程に料理が出来ないのだ。

 実際にやったらどんな失敗料理が出来るのかなんてのは知らない。だって橙子先生、やらないもの。果敢に挑戦しては失敗し、味見の段階で悶絶している藤乃とは違う。

 そんな橙子先生の昼食は殆どファストフードかコンビニ弁当。とても栄養に気を使っているようには見えなかった。

 

 

「いや、実はこっそりビタミン剤とか飲んでるんだよね。一応多少はバランスも意識してるみたいだし」

 

「それはいけませんね。いくら錠剤で成文を補給できたとしても、人類が編み出した最高の文化の一つである食に対する姿勢がよくない。私はそのような姿勢は断固として許せません」

 

 

 キリリと眉を引き締めたセイバーさんが真剣に主張するけれど、その口の端にパン屑が付いてしまっているので表情に反してコミカルだ。

 案の定すぐに先輩に指摘されて、慌てて凄い速度で摘み取ると顔を赤らめた。英霊の身体能力って、こういうことのためにあるのか、な?

 

 

「そのくせ昔から俺には煩いんだ。やれ野菜を食え、これは魔女狩りの時代にはウィッチクラフトに使われていただの、やれ付け合わせも食え、これは別の薬草と合わせて軟膏にすることもあるだの‥‥」

 

「「「「「‥‥‥‥」」」」」

 

 

 とても食卓で弟、百歩譲って弟子にだってする会話じゃない。日常的に食事に毒を盛られていて、先輩と料理をするまでは食事という行為に苦痛と覚悟以外を抱いたことがない私でも言葉を失うぐらいに。

 でも紫遙さんは心底呆れたようにやれやれと首を振っているけど、多分それは———

 

 

「心配されてたんじゃないの。よかったわね、蒼崎君」

 

「へ?」

 

「普通は自分がそうなら他人には構わないわよ。愛されてたのね、お姉さんに」

 

 

 楽しそうにグラスに注いだ水を飲みながら言った遠坂先輩の言葉に、紫遙さんはパチクリとさほど大きくもない目を瞬きさせると、急に押し黙って俯いてしまった。

 ‥‥もしかして、照れてるのかな? なんかそういうカンジの人じゃないんだけど、そういえば橙子先生も一日に数回は紫遙さんの名前を出していたし。

 

 

「‥‥まぁ、そうかも、しれないね。でもそういうのはホラ、こう改まって口に出すことでもないというか」

 

「あら珍しい。別にそこまで長くはない付き合いだけど、貴方が照れてるの見るなんて初めてよ、蒼崎君」

 

「遠坂さん、そのぐらいで止めてやって下さい。なんか身の危険を感じるので」

 

「まぁ黒桐さんがそう言うならいいけど。それより士郎、シチューのお代わり貰える?」

 

「おう。まだまだあるから皆もいっぱい食べてくれ」

 

「ではシロウ、恐縮ですがお代わりをお願いします」

 

「‥‥おう」

 

 

 巡り巡って橙子先生に話が渡ったりしたらどうなるかなんて火を見るよりも明らかで、鮮花はちょうどよい所で止めに入る。あまり図に乗ってからかいすぎてはいけない。

 一気にテンションが下がった‥‥というよりは考え込んでしまった紫遙さんは無言。代わりに調子が戻ったのか今度は遠坂先輩が喋り出す。

 先輩にセイバーさんがこれで四杯目になるお代わりを頼み、私もついでにこっそりと先輩にお代わりをお願いした。

 私に負けるなんて言うけれど、やっぱり先輩の料理は和食でなくても美味しい。まだまだ私も精進する必要がありそうだ。

 

 

「‥‥帰ったら体重計が怖いわね」

 

「同感‥‥」

 

 

 あの目盛、もしくは電子表示は何時の世も常に女性の敵だ。私も鮮花も最近食生活が不安定だから毎晩怯えながらも確認する羽目になる。

 特に先輩の料理の中でもヘルシーな和食ではなく、油やバターや肉類をふんだんにつかった洋食になると‥‥嗚呼恐ろしい。

 そういえば考えてみると昼間にお茶をした時のお菓子、ショートブレッドとかいったけど、あれもレシピを聞いてみるとバターと砂糖と小麦粉の集合体だった。

 女の子としてお菓子作りはとても魅力的なライフワークではあるけど、あまり調子に乗るとまたしても体重計殺人事件———実際に過去一度衛宮邸で巻き起こった———が再発しかねない。

 

 

「‥‥それでも食べちゃう私って、どうしよう」

 

「ん、どうかしたのか桜?」

 

「あ、いえ何でもありません。ごちそうさまでした、先輩」

 

「お粗末様でした。でも桜の料理も美味しかったよ、ごちそうさま」

 

「こちらこそ、お粗末様でした」

 

 

 パンでシチュー皿を綺麗に拭って、両手の平を合わせて食事を終える。お互いに料理を作り合って、私としては先輩の料理が食べられたので大満足だ。

 

 

「あぁ上手かったよ二人とも。こんなに充実した食事は久しぶりだ」

 

「桜、よかったら今度私にも料理を教えてくれない? 式は和食だけならプロ並だし、ここはやっぱり外国仕込みの洋食で勝負するべきよね」

 

「いや、倫敦で仕込んで来たって言っても信用されないと思うけどなぁ」

 

「いいのよ! そこはホラ、色々と言いようがあるでしょうが!」

 

 

 食器をがちゃがちゃと音をさせないように各々流しへと運ぶ。衛宮邸に比べて少し小さく、使い勝手が悪そうなシンクはそれでも試行錯誤の後が見える。

 多分先輩が矜恃にかけて整備したんだろう。あちらこちらに衛宮邸でも見られる食器や器具の配置があった。

 

 

「あれ、セイバーさんが洗うんですか?」

 

「えぇ。倫敦に来てからは凜もシロウも忙しく、こういう細かい家事は私の担当になっているんですよ」

 

 

 一足先に首尾良く待機していたセイバーさんが運ばれてきた食器を手際よく洗っていく。

 冬木にいた時は専ら私か先輩が流しを担当していたから、セイバーさんには悪いけど正直言って驚いた。特に英霊が家事というのが‥‥あぁ、今更なのか、な?

 そういえば衛宮邸で家事をしていたのは私と先輩だけで、セイバーさんもこまめに手伝ってはいたけれど基本的には食客扱いだったような気がする。

 藤村先生が家事をしないのは今更として、セイバーさんが家事をしているのはひどく不自然な光景に見えてしまうのは、やっぱり英霊だからというよりは彼女自身のカリスマ性とでも言うべきなのかもしれない。

 なんというか、見た目だけなら私よりも年下なのに、どうしても敬語をやめられないのだ。鮮花とは普通に話せるんだけど‥‥。あぁ、そういえば鮮花もセイバーさん相手だと少し腰が低いかも。

 

 

「こういうのは初めてだなぁ」

 

「そうなんですか?」

 

「うん。伽藍の洞では基本的に食事は橙子姉と二人だったし。青子姉はろくに帰って来なかったからね」

 

 

 セイバーさんが洗った食器を私が拭き、場所を分かっている先輩が仕舞う。

 食卓を拭いて汚れてしまった布巾を流しに持って来た紫遙さんの言葉に、それでこそ橙子先生らしいと私は相槌を打った。

 

 

「自分のことは自分でやる、ついでに手を伸ばして義姉の分もやるってのが教育方針だったのさ。こうやって家事を分担して、とかは初めてなんだよ」

 

「俺の家じゃしよっちゅう、というか日常風景だったぞ。なにしろ出入りしてるのが多かったからな」

 

「士郎のところは私も含めて、藤村先生と桜とセイバーと‥‥五人ってところだったかしら」

 

「しかもシロウ以外は全て女性でしたが、家事を手伝おうとしない」

 

「ちょっとセイバー、私はたまにちゃんとやってたわよ。ていうか貴女にだけは言われたくない」

 

「私は積極的に手伝う姿勢を見せました。ですがシロウとサクラがどうしても座って寛いでいてほしい、というものですから遠慮していたのです」

 

 

 それはセイバーさんが勢い余って食器を壊したりぶちまけたりするからです、とは当然ながら言えなかった。きっと自分に落胆してしまうだろうし、私も先輩もそんなセイバーさんは見たくなかったのだ。

 だからこそセイバーさんが一人前以上にしっかりと家事をこなしているのを見て驚いたんだけど‥‥。やっぱり必要は成長を早くさせるんだろうか。

 

 

「‥‥桜、ちょっと」

 

「遠坂先輩‥‥?」

 

 

 皿を拭き終えて紅茶でもいれさせてもらおうかと棚を探しに行こうとした時、小さな声で遠坂先輩から呼ばれ、私はこっそりとリビングを抜け出した。

 春は近いけど、流石に廊下は寒い。そうでなくともこの屋敷からは間桐邸にも似た嫌な印象を感じる。

 多分だけど、前の持ち主に関係するんだと思う。住んでいる人が住んでいる人だからあまり気になるわけじゃないけど、後で先輩に注意してあげた方がいいかもしれない。

 

 

「悪いわね、落ち着いたところで。一応こっちとしても冬木の管理者(セカンドオーナー)として色々と聞いておかなきゃいけないことがあってね。部外者に聞かせるのもなんだから」

 

「‥‥お爺様のこと、ですか?」

 

「うーん、それについてはお悔やみ申し上げるけど‥‥、悪い言い方だけど死者に興味はないわ。何時頃亡くなられたのかは知らないけど、お葬式をやるなら教会に赴任して来た神父様を頼りなさい。その時は連絡でも来れればコッチでも色々しとくから」

 

「あ、はい、わかりました。それじゃあ問題というのは‥‥?」

 

 

 壁に背を預けながらも、視線は真っ直ぐにこちらへ向けられている。

 そこにいるのは同年代な若者ではなく、一人の魔術師。それも希代の天才で、若くして一つの土地を背負う立派な管理者だ。

 強く、気高く、そして眩しい。その光を受けた私は照らされるのではなく、影に飲み込まれてしまいそう。

 

 

「じゃあ聞くわ。‥‥間桐の次代の当主は、慎二じゃなくて貴女で良いのね?」

 

「!」

 

「管理地に根を下ろす家が代替わりしたとなると、私の方でも手続きをしなきゃいけないしね。時計塔に入学するならなおさら、神父様に頼むことも増えちゃうし」

 

 

 ううん、違う。それは違う。それじゃあダメだ、今までと変わらない。

 確かに遠坂先輩は眩しくて、私は‥‥自分が姉さんに比べてどれだけ惨めなのかと思ってきた。

 だって姉さんはいつでも輝いていて、完璧で、素敵で、何処まで行っても地味な私とは大違い。

 姉妹として生まれたのにどうして境遇にここまで差があるのかと何回だって考えた。

 こんなに辛い思いで毎日を日陰の中で暮らしている私なのに、どうして姉さんは光の中を堂々と前に進めるのかって。

 嫉妬、ではなかったと思う。でも決して憧れだけではなかったとも思う。

 それはひどく鬱屈した感情で、上手く形容できはしない。ただ私が姉さんに激しく引け目に似たものを感じていたことだけは確かだ。

 

 

『あぁ桜、お前は重大な勘違いをしているぞ』

 

『勘違い、ですか‥‥?』

 

 

 そんな私の思いを見抜いていたのか、いつの間にか私の境遇を知っていたらしい橙子先生が修行の最中にそんな調子で話を始めたのを思い出す。

 私が自分の魔術を上手に制御できなくて、負の感情が露わになってしまっていたときのことだ。

 言うなれば暴走してしまった状態。既に橙子先生の結界で封じ込められていたけれど、まるで常に息切れしてしまうかのように消耗し続けているのは、力を吐き出し続けている危険な状態だったからだろう。

 

 

『お前が自分の魔術を制御できないのは、お前が未熟だからではない。お前が自分の魔術を怖れているからだ』

 

『怖れている‥‥?』

 

『負の感情を晒け出すということはな、ある種の思い切りを必要とする。細やかな制御は一度晒け出してしまってからだ。然るに今のお前は自分の魔術に覚えて中途半端に術を行使しようとしている。まるでカップからカップに中身を移すときのように、おっかなびっくりやっていては失敗して零れてしまうのも道理というものだろう』

 

 

 橙子先生は伽藍の洞の三階部分、橙子先生の工房ではない修練用のスペースの窓枠に腰掛けて紫煙を吐き出していた。

 その様子は気怠げとでも言うのだろうけれど、それでもとても頼りがいがあるように見えて。

 嗚呼、これなら紫遙さんがあそこまで頼りにしているのも当然だなと今更ながらに気がついた。

 

 

『そもそもな、光だの闇だので善悪を区別して、必要以上に引け目を感じているようだからいけないんだ。そんなものは魔術の世界では何の役にも立たん。数学で正負に感情的な優劣を付けるか? 神秘を知らぬ一般人達の極端な二元論に縛られているから、お前は魔術師として半人前未満なんだよ』

 

 

 普段の眼鏡をかけている橙子先生は優しくて茶目っ気のある年上の女性。まるで私にできたもう一人の姉のよう。

 ここで母親みたいだと言ったら容赦なく性格をスイッチしてお仕置きされてしまうに決まってるのだけれど、なんとなくそういう印象も受けてしまうのは橙子先生の人柄というものだから、私は悪くないはずだ。

 一方魔術の鍛錬をするときの橙子先生は、眼鏡を外して完璧に魔術師としての自分に切り替わる。

 皮肉気で厳しく、それでいてロマンチスト。独特の比喩を用いた解説は不思議と分かりやすく、心にしみいる。

 

 

『水は我々に命をもたらすが、同時に水害をも発生させるだろう。海は生命の誕生の地だが、飲み込まれれば人間などひとたまりもない。暑いところでは冷たいものが、寒いところでは熱いものが珍重されるだろう。光は我々に活力と喜びを与えるが、闇は我々に安堵と休息を与える。そら見ろ、魔術の世界だけではないぞ。お前の考える善悪というのはな、人間の脆弱な精神が生み出した虚像に過ぎん』

 

 

 それは例えば先輩みたいに優しく私を諭し、許してくれるのではない。

 どう言うべきかよくわからないのだけれど、つまるところ力でねじ伏せられたようなもの。でも間違いなく正しい答は、私を真っ直ぐな道へと導いた。

 それで憂いが完璧に消え失せるわけではない。自分で言うのも何だけど、そこまで簡単に拭い去ることができるものでもないのだから。

 でも少なくとも、あれから私の魔術は格段に上達した。まずは自分自身としっかり向き合うということから始め、今では単純に発動させるだけならまず暴走しない。

 だから多分これが第一歩。ここを乗り越えなきゃ、先輩や姉さんと同じ土俵に立つこともできないのだから。

 

 

「‥‥はい。私が、間桐の後継者で間違いありません」

 

 

 今まで恐れ、拒絶していたことは口にするだけで震えが走る。

 でも、もう見ているだけは嫌だ。諦めたくない。置いてけぼりなんて耐えられない。私も、先輩や姉さんと同じ場所にいたいの。

 だから私も怯えん押さえ込んでしっかりと立ち、姉さんを真っ直ぐに見ながらそう言った。

 

 

「そう、か。わかったわ。時計塔への推薦は蒼崎君のお姉さんから貰ったみたいだけど、私からも推薦を出しておくわ。ささやかでも時計塔に今いる人間の後ろ盾があった方がいいでしょ」

 

「あ、ありがとうございます」

 

「いいのよ。管理地から優秀な魔術師が推薦されれば、管理者の手柄みたいなものだしね」

 

 

 そう、と呟いた姉さんは背を壁から離し、私の肩に軽く手を置く。

 冬木にいた時には朝か夜の少しの時間しか見られなかったように髪を下ろしていて、どこはかとなく年上の雰囲気が強くなっていたからドキリとした。

 

 

「じゃあ戻って食後のお茶でもしましょうか。んまり皆を待たせるのもよくないからね」

 

「はい、遠坂先輩」

 

 

 スッと私の横を通り過ぎた遠坂先輩が綺麗に笑う。同性でも思わず惚れ惚れとしてしまうぐらいなそれに、私はまた少し顔を俯かせてしまう。

 と言っても感じたのは純粋な引け目。前みたいな黒い感情じゃない。この辺りは間違いなく以前の私よりも成長できたところだ。

 

 

「‥‥ねぇ、桜」

 

「はい、なんですか?」

 

「‥‥あのさ、ホラ、何か辛いことがあったら相談しなさいよ。来年からは同じ学院に通うんだし、それまでもね、遠慮することはないんだから」

 

「え‥‥」

 

 

 扉に手をかけたまま開かずに振り向いた遠坂先輩の言葉に、私はまるで不意打ちをくらってしまったかのように硬直し、返事をすることができない。

 確かに理由は分からないけど、遠坂先輩は冬木でも普段からそれとなく私を気にかけていてくれたような気がする。学校の廊下で会ったら挨拶とか世間話をしたし、去年は何度か夕飯の買い出しも一緒したこともある。

 でもそれはあくまで日常生活での話。藤村先生とかと一緒に普通の毎日を送っている間の話だ。先輩達が夜にやっていたのだろう鍛練とはまた別の話だ。

 

 

「‥‥はい、その時はお世話になります、遠坂先輩」

 

「うん。それじゃあ行きましょうか」

 

 

 だからもしかして今のは、魔術師としての私を認めてくれたということなんだろうか。

 何故か知らないけど私にはそれがたまらなく嬉しくて、昼に先輩に言われたことは別に、たまらなく幸福で‥‥。

 多分、今まで遠坂先輩に向けたことがないぐらいの笑顔だったんだろう。

 私の顔を見て少し目を丸くした実の姉は、次の瞬間、これまた私が見たことがないくらいに嬉しそうな顔で笑ってみせたのだから。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

「いいのか? 土産らしいものを買ったようには見えなかったけど。幹也さんや式はともかく、橙子姉は厭味ったらしく小言ぐらい言ってみせるかもしれないぞ? なにせホラ、機会があったら他人をおちょくる種を探しているような人だから」

 

「大丈夫よ。昨日、桜が衛宮さんとデートしてた時にそれっぽいモノを見つけて、私達が泊まってたホテルに送っておいてくれたから」

 

「ちょ、ちょっと鮮花、その、デートなんて‥‥!」

 

「デートみたいなもんじゃない。二人で倫敦の街を散策したんでしょ? 男女二人が外出したら是乃ち全部デートよ、デート。じゃあ何、私が幹也と買い物にでかけたりするのもデートじゃないって言うの?」

 

「そ、そういうわけじゃないけど‥‥」

 

 

 平日の昼間でもヒースロー空港には人が多い。英国の首都に近いハブ空港だというのもあるけど、基本的に飛行機は観光に使うものだという俺の認識がそもそも間違いだ。

 どちらかといえば飛行機はビジネスにこそ重要な役割を果たす。平日だからこそ西へ東へと忙しく飛び回るビジネスマンが増えるのは当然である。

 もちろん観光シーズンとかに比べれば圧倒的に空いていることには違いなく、海外旅行とは思えないぐらいに軽装で荷物の少ない二人と向かい合い、俺達倫敦組は送別のためにやって来ていた。

 

 

「黒桐さん、あまり桜をからかわないでやってくれ。俺の前でそういうことやられたら桜が困るだろ」

 

「え、衛宮さん?」

 

「桜は優しいから俺の前じゃ否定できないしな。それにもし他に気になる人がいたりしたら可哀相だ」

 

「そ、そんな人いません! 誤解しないで下さい先輩!」

 

「はは、悪い悪い」

 

 

 一瞬まさか衛宮が桜嬢の想いに気付いたのか?! と思って全員が身構えてしまったけれど、当然ながら直接アプローチでもされなければそんなことはなく、桜嬢は傍目にも可哀相なぐらい取り乱した。

 発破をかけてみた鮮花ですら気まずそうな顔をするぐらいに一片もなく言い切られてしまった桜嬢には同情する。あれじゃ脈があるわけがない。

 

 

「あ、あぁ桜嬢、帰ったら橙子姉に俺は息災だって伝えてくれないかい? あまり頻繁に連絡をとらなくなると次に会った時に厭味がひどいからね、あの人は」

 

「は、はい、わかりました」

 

「そのとばっちりの被害を被る私達の身にもなって欲しいわよ。いつぞやなんて幹也がいくら発破かけても仕事が手につかないったらありゃしない」

 

「それは、ホラ、俺のせいじゃないだろ」

 

「アンタのせいよ。っとに互いに無自覚なシスコンブラコンって質が悪いわね」

 

 

 実は薄々互いに気付いてはいるのだけれど‥‥黙っておこう。この場合は俺が橙子姉に依存していて、橙子姉が本来なら厄介とか面倒に過ぎないそれを分かっていながら許容してくれているのだから。

 なんていうかな、本当に橙子姉は身内に優しいと思う。とりあえずそれだけは間違いない。まぁそれが如何なる感情によって齎されたものであるかまでは分からないんだけど、それだけは間違いない。

 この辺りはすごく難しいところで、恥ずかしい言い方をするけど、橙子姉が俺をどれくらい愛してくれているかは分からない。でもぶっちゃけた話、そんなものは俺には関係ないのだ。

 俺は多分、そういうのとは無関係に義姉達に依存している。だから意味のない話なのだ。なにせ結局はそこに全てが帰結する。

 

 

「とにかく今回はありがとうね。来年の心配はいらなさそうよ。遠坂さんも、わざわざ取り次いでくれてありがとうございます。この礼は必ず」

 

「期待して待ってるわね、黒桐さん」

 

「来年に貴女達と会えるのを楽しみにしていますよ、サクラ、アザカ。その折には是非一緒にお茶でも」

 

「はい。セイバーさんも紫遙を宜しくお願いします」

 

 

君に心配されることなんてないぞ、と言ったら社交辞令よと返された。悔しい話だけど、こと基本的な教養においては一応お嬢様という体面を取り繕い続けている鮮花には敵わない。

 ついでに言うと体面を取り繕った慇懃無礼な口論でも勝てない。そんなのは滅多にないし、普段の口喧嘩なら年の功で負けはしないのだけれど。

 でもホラ、あれだ。上司に娘を紹介したら『お父さんを宜しくお願いします』とか言われちゃった父親の心境と似て‥‥はいないか。

 

 

「まぁ来年の詳しいことは橙子姉に聞けばいいさ。あれでも学院にいたことあるし、昔とさほど変わってもいないはずだからね。というより時計塔の勢力図が十年前後で一変したりしたらそっちの方が問題だ」

 

「そうするわ。私は半ばモグリの魔術師みたいになってるから桜よりは面倒も少ないしね」

 

「あ、遠坂先輩、私はどうすれば‥‥?」

 

「こっちでやっとくわ。貴女は何も心配しないで無事に来年まで過ごせばいいわよ」

 

「そうですか。ありがとうございます、遠坂先輩」

 

 

 心和むワンシーンではあるけど、出発ロビーの前でたむろしているのも迷惑だ。飛行機の離陸時間が近づいているからか、人が増えて来ている。

 時間ぎりぎり目一杯まで別れを惜しんでいたい者も多い。反面、俺達は数ヶ月後には問題なく再会することが決まっている。このスペースは他の人に譲ってやるべきだろう。

 

 

「じゃあそういうことで。私達が来るまで騒ぎを起こしたりしないでね」

 

「‥‥それは俺が騒動を起こすってことかい? 衛宮じゃあるまいし早々そんなことは‥‥って、衛宮と一緒にいたら確定か」

 

「先輩‥‥?」

 

「‥‥否定できないな、すまん」

 

 

 俺と衛宮が出会ってから早半年を越える。その間に巻き起こった大小様々な事件はどちらかといえば遠坂嬢とルヴィアが中心だったけど、大きなものには必ず衛宮が関わっていた。

 まぁ当然ながら衛宮が悪いというわけじゃない。例えば例のルドルフ君のときなんかは青子姉への私怨だったわけだし。

 それでも多少は考えるところがあるのか、衛宮は眉を顰めて溜息をつく。なんというか、ちょっと申し訳なかった。

 

 

「大丈夫だとは思うけど、二人とも気をつけて帰れよ」

 

「はい、先輩」

 

「大丈夫よ、そうそう事件とか事故なんて起こりはしないんだから」

 

 

 出発の時間が近づいてくる。辺りは急に騒がしさを増し、もう少しでも増えれば混雑と呼ぶに相応しい賑わいになるだろう。

 しかし、では行こうかという段になり、ふと桜嬢が遠坂嬢の前に立つ。

 唐突な行動の中には決意に似たものが見え、俺も衛宮もセイバーも、鮮花も、思わず次に喋ろうかとしていた言葉を飲み込んだ。

 

 

「あの、遠坂先輩」

 

「‥‥何、桜?」

 

「私、まだ諦めてませんから。負けたつもりも、負けるつもりもありませんから」

 

「‥‥ッ!?」

 

 

 遠坂嬢の他にその言葉の意味を理解できたのは俺と鮮花、あとおそらくはセイバーもだろうか。衛宮は何が何だか分からなくて目を白黒させている。

 

 

「ふ‥‥」

 

 

 いきなりの挑戦的な言葉に遠坂嬢は驚いたようだけど、次の瞬間、ニヤリと綺麗でありながらも不敵な笑みを浮かべて桜嬢に向かって胸を張る。

 ‥‥すごく下世話な印象だけど、それは悪手じゃないだろうか? ここで桜嬢が胸を張り返したりしたら間違いなく修羅場を見るだろうけど、彼女にそこまで挑戦的な気概が無くて安堵した。

 

 

「受けて立つわよ。でも、アイツは私のだから」

 

「負けません。絶対負けませんから」

 

「え、ちょっと桜! あーもう、とにかくまたね紫遙!」

 

 

 そこまで言うと桜嬢は踵を返して出発ロビーの中へと去っていき、慌てて鮮花も後を追いかけた。

 遠坂嬢はその後ろ姿をずっと眺めていて、挑戦されたはずなのに、どこはかとなく嬉しそうだ。

 多分俺が倫敦で彼女に会ってから、一番嬉しそうな表情ではなかろうか。なんとなく理解できないこともないけど、やれやれ、本当に複雑な性格してるよ。

 

 

「なぁ遠坂、今のは一体どういうことなんだ?」

 

「士郎は知らなくていいのよ。これは私と桜の勝負なんだから。アンタはじっと構えて、私を信じてなさい」

 

「それでは勝負というわけではないような気もしますが‥‥」

 

「まぁ遠坂嬢の方にアドバンテージがあるのは当然だよ、セイバー。それぐらいのハンデを乗り越えないことには、桜嬢にも勝機はないさ」

 

 

 出発ロビーに背を向けて空港を後にする。飛行機を見送るという人も多いだろうけど、そこまでする必要もない。第一、彼女達から見えるかどうかも定かじゃないしね。

 と、空港のエントランスにさしかかるけど、やたらと騒がしい。なんというか、老若男女外人英国人を問わず、やたらとざわめいている。

 不思議に思うけど構わずに大きな自動ドアをくぐり、空港の多国籍な雑多な空気から既に吸い慣れたイギリスの空気の中へと足を踏み入れ———

 

 

「‥‥なんだ、こりゃ?」

 

 

 呆然と前を歩いていた衛宮が呟き、それにつられて前の方をのぞき込んだ俺も続いて絶句する。

 空港の前のロータリー、普段ならキャブやら何やらの普通の車が駐まっていたりいなかったりするロータリーに、今は明らかに普通じゃない代物がデンと陣取っていた。

 それは黒塗りの見事なリムジン。日本では、いや、英国でだって早々お目にかかることはない。

 高級でいながら重厚、そして実用主義でもある。その外板は特殊な加工がされ、拳銃弾どころかマシンガンの一斉射でも耐えられそうだ。

 座席のクッションは紛う事なき高級品。沈み過ぎることもなく、それでいて反発力は最小限。あらゆる職人がこのリムジンのためだけに仕立て上げた逸品である。

 さて、何故俺がここまで詳しくこのリムジンのことを知っているのか、不思議に思うだろうか?

 

 

「これは‥‥ルヴィアのところのリムジンじゃないか」

 

「え?」

 

「———随分とのんびりなさっていましたのね、ミス・トオサカ、シェロ、ショウ、セイバー」

 

「ルヴィアゼリッタ‥‥何の用事よ?」

 

 

 ウィーンと窓が開き、中から金色のお嬢様が顔を覗かせる。眉間には深い皺が刻まれ、おそらくはそれなりの時間ここで待っていたのだろう。

 それだけ周りから注目の視線に晒されたことも意味するわけだけど、まぁそういうものを気にする性格はしていないから純粋に退屈にくたびれただけだと思う。

 不機嫌を隠そうともしないルヴィアの言葉に遠坂嬢がこめかみをひくつかせながら質問し、ルヴィアは一気に表情を真剣なものへと変えてこう言った。

 

 

任務(しごと)ですわよ、私も含めて五人に。‥‥我らが大師父、宝石翁、キシュア・ゼルレッチ・シュバインオーグから」

 

「「「「!」」」

 

 

 主人公達に日常は許されない。そして周りの者もまた同じ。

 滅多に時計塔に戻ってこない第二の魔法使いからの呼び出しは否応なく波乱を予感させる。

 広々としたリムジンの車内で揺られながら大英博物館へと向かう中、俺はまた面倒、ともすれば危機的な状況であることに間違いはないと、未だかつてない程に真剣に事態を予測するのであった。

 

 

 

 49th act Fin.

 

 

 


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