side Toko Aozaki
工房『伽藍の洞』。表の社会でもその界隈ではまぁまぁ名前の知られている人形師である私、蒼崎橙子が便宜的に開いている会社とオフィスの名前だ。
二十三区といった中央部からは外れているがそれなりに交通の便の良い観布子という場所にあるこの工房は、一見して
当初は五階建ての予定だったのだろうが、途中で計画そのものが頓挫したために四階までで建築はストップし、四階の上、つまるところ結果的に屋上となってしまった最上階からは支えるものがない
この四階建ての三階がオフィス部分になっていて、四階が私の私室。そして二階と一階が魔術師としての部分も兼ねた工房や作品置き場だ。基本的に三階が玄関代わりになっているのが特徴で、このあたりは設計の段階から私の好みだな。
「‥‥‥」
「‥‥‥」
「———、———」
その伽藍の洞の二階、工房にあたる幾つかの部屋の内の一つ。普段ならあり得ない三人という大人数が居ながらも、そこは沈黙と静かな寝息に支配されていた。
沈黙の主は私と、不肖の愚妹である蒼崎青子。コイツはマジックガンナー、ミス・ブルーという仇名を持つ第五の魔法使いであり、私とは会えば姉妹喧嘩という皮を被った正真正銘の殺し合いをする仲である。
仲である‥‥はずなのだが、今は何故か互いに至近距離にありながら魔術回路すら起動させていない。これは、長年とは言わずとも最近の自分たちの付き合い方を鑑みるに非常に珍しいことだ。
光の反射によっては赤く光って見えることもある茶色がかった黒髪を壁と背中に挟んで、今まで一度たりとも目にしたことのない深刻な顔で腕を組んでいる。悩み事なんてついぞ見あたらないような女に見えたのだが、意外だな。
「‥‥姉貴に言えた義理じゃないでしょ。さっきから窓もないのに煙草ばかり吸って、寝てるからってこの子の体に悪いじゃないのよ」
「いや、なんというか私もお前の子煩悩さに心底驚いているところなんだがな‥‥。お前、そこまで子供が好きな奴だったか?」
私達からしてみれば挨拶程度の毒を含んだ青子の言葉に、癪だから私は火を点けたばかりの煙草を手元の灰皿で揉み消した。別に目の前で横たわる子供の健康を気にしたわけではなく、ただ青子に注意されるという形そのものが気にくわなかったのだ。
火を消して、眼鏡を正常な位置からは少々ずらして耳と鼻に引っかけて、私は部屋の中央に据えられている作業台の上で眠りこけている少年へと近づいて見下ろした。近づいてきた青子もわざわざ反対側ではなく私の後ろ、肩越しに覗き込んでくる。
「いやー実は私、けっこう可愛い男の子って好きなのよねー。まぁこの子はそこまで美少年ってわけじゃないけど、やっぱり目の前でこうやって傷ついてるの見ると情も湧くってもんよね」
「そんなものか?」
「そんなものよ。‥‥特に、ああいうもの見ちゃった後だと、ね」
その子供は、顔を除いたほぼ全身に包帯を巻いた状態で布団も敷いていない作業台でひたすら眠り続けていた。当然ながら顔にも湿布やら何やらが付いてはいるが、何が起こったのかはさておき咄嗟に腕で庇ったのか傷は体に比べて多くない。
改めて子供の外見を見直してみる。髪は黒く、直す時に傷がついていないかどうか確認したら瞳もしっかりと黒かった。紛れもなく、まぁアジア系とのハーフという可能性もあるにはあるが、人体を研究してきた私の目から見ればとりあえずは生粋の日本人である可能性が高いな。
体つきは平々凡々、さして特筆する点もない。外見から判断できる歳‥‥小学校低学年ぐらいの平均的な子供と何ら変わりはなかった。強いて挙げるとすれば全身に負った火傷やら打ち身やらだが、これは事故で負ったものだろう。
体を軽く魔術で調べると魔術回路がそれなりの本数見つかったが、これはさして特別なことではない。魔術師によって魔術は独占されてしかるべきではあるが、当然ながら時代を経るにつれて神秘が拡散する以上は覚醒していない形成未満の魔術回路を有する一般人も決して少なくはないからだ。
「‥‥私は、これまでの人生それなりに驚くべきものに遭遇して、それに驚いたり、時には驚かなかったりした。今まで一番驚いたことは憎らしいことに貴様が蒼崎を継ぐと分かった時なわけだが———」
「今回のはそれを上回ったって? ‥‥私もそうよ。流石に世界は、いえ、こういう言い方が正しいのかは知らないけど次元は広いわね。まさか本当に正真正銘、人知の及ばぬ事象っていうのが存在するなんて思いもしなかったわ」
「あらゆる真理を探究する魔術師としては業腹だが、確かに認めざるをえないところではある。私達がどうやっても、それこそ今回のような奇蹟でも起こらぬ限り遭遇どころか知覚も出来ん事象は存在するようだ」
どんなに優れたコンピューターにも処理能力の限界があるように、コンピューターより遥かに優れた能力を持っている人間の脳にも許容範囲というものが存在する。
例をあげるならば、単純に情報量が多い場合。与えられた命題が自分の処理能力を越える複雑で難解な問いであった場合。‥‥そもそも命題が我々人間では理解できない、根本的に概念が異なる事象の場合。
今回の一件についても最後の項に似た事態であった。理解できないことはないが、それは平然とした表情を保ちながらも私の処理能力限界ぎりぎり目一杯である。今こうしている内にも頭の中は目まぐるしく働いているのだ。
「このような現象に生きている間に遭遇できるとは‥‥。現実は小説より奇なり、という言葉は魔術に携わる者としてこれ以上なく理解していたつもりだったが、あれは間違いだな。小説というよりも、人間の想像力なんぞ現実が追いつくことの出来る範囲を優に越えている。今回の一件でよく分かった」
「うーん、なんだかんだで魔法っていうのもんに人間の想像力から生まれたものってことになるのかしら? 私としてはそういうこと考えるのはナンセンスだって思ってるし、今だってそれは変わらないつもりなんだけど‥‥」
「考えを変えることはないとしても、やはりここまで歴然と“異質な”存在を目の当たりにしてしまえば、今までの考え方に微妙にいろがつくのも当然、か。まったく、とんだ拾い物だったな、この小僧は」
私はこの観布子に越してきてそう長くない。そして慣れない街で最初に見つけた趣味の良い酒場でそれなりに酔った帰り道に拾った一人の少年。
まったく原因の不明な数多の火傷や擦り傷、打ち身を負い、そしてその身の周囲の空間を歪ませるという甚だ珍妙な現象を起こしていた一人の少年。
あまりにも不審に過ぎるその姿に興味を覚えて工房へと連れ帰り、道中に偶然にも遭遇した青子をも———これまた普段の私としては考えられないことに———助っ人として強引に引きずり、必要ではあるが最低限の手当をした後、私は当然の権利として横たわる少年の記憶を青子と共に吸い出した。
「‥‥まさか、私達が、いや、“この世界そのもの”がゲームや小説やアニメになっているような世界が、次元世界や平行世界とは別の概念として存在するとは、な‥‥」
吸い出した記憶は、それなりに奇異な魔術的な現象に関する体験を期待して吸い上げた記憶は、私の予想や期待や願望を遙かに上回るトンデモない代物であった。
テレビの画面。人形という創作分野に関わっている私も知るようになった、最近一般にも浸透してきたというアニメーションの動画。
銀色の甲冑と青いドレスを纏った金髪の少女。赤い外套と黒白の双剣を持った青年。青い軽鎧を身につけて呪いの朱槍を放つ豹の如き騎士。愚かで尊い理想を秘めた少年と、信念を持って自らの道を定める凜とした少女。そして暗き衝動と数多の虫をその身に宿す悲しげな後輩。
それは冬木の聖杯戦争という、私も時計塔在学時代に一度だけ聞いたことのある第一級の魔術儀式についての知識。それをあろうことか、大衆向けのテレビゲームという媒体で伝えたものであった。
「‥‥アレについては情報が規制されているから、私も噂ぐらいしか耳にせんからな。実際にこの目で確かめんことには眉唾物だと思っていたのだが‥‥」
「見事に本物だったってわけね。しかも最初はどうあれ今はトンデモないわよ。まったく、あんな代物をこの世に喚び出すなんて、アインツベルンも随分と腐っちゃったもんよ」
「そう言うな。どれだけ質の良い葡萄酒とて与えられた環境が悪く、ましてや百年単位で時を重ねれば腐敗するのも道理。家が受け継ぐ神秘を摩耗させなかっただけでも十分に称賛に値する」
「‥‥周りの迷惑ってもんがあるでしょ? ただでさえ日本は裏で何かと物騒なところなんだから、厄介事の種は出来る限り減らして欲しいところってわけよ。これ、下手したら私に後始末が回ってくるじゃない。‥‥ま、逃げれば良い話だけどさ」
伸ばした手から収集した情報は映像と、映像に映った文字と、本に印刷された文字と、パソコンのディスプレイに踊る画像や動画や文字。関連する全てが私と青子の頭の中へと入ってきて、それを全て整理していき、それが進むたびに私達の驚愕はますます大きなものへとなっていった。
ちなみに記憶を吸い取る魔術自体の難度はさほど高いものではない。魔術師が初歩として学ぶものであり、単純に成功率を考えるなら、一般人を相手にすればほぼ百パーセント成功する魔術だと言って構わない。
‥‥問題は、実際に魔術を行使する際の話である。
超高性能のコンピューターは、昨今の情報社会において次々と息つく間もなくバージョンアップされた新機体が売り出されている。音楽が何百曲入るだの、処理速度がどうのだの、画質がどうの、音質がどうの、セキュリティがどうのだの。
しかし単純な記憶容量ならともかく、処理速度や実際に使用していく際の便利性などを考えると、どんなに高性能なコンピューターでも人間の脳には及ばない。
正確に大量の情報を記録するならコンピューターにでも出来るかもしれない。一度に覚えられる量はと比較すれば、確かに人間の物覚えの悪さにはたくさんの学生や社会人が頭を抱えてしまうことであろう。
だが考えてもみるがいい、人間の一生は適当に勘定して八十年ほどである。そして、八十年分の情報を思い出すことが難しくても、人間は決して忘れることはないのだ。記憶というものは頭の中に収納するのではなく、魂に刻まれるものだからだ。
自分自身が思い出すことができなくても、記憶は必ず魂に残っている。これはどうやら魂の表層部分に刻まれているらしく、何かの、それこそ百年二百年では済まない年月の経過による摩耗や魔術的、神秘的な事故や攻撃による欠損などの理由以外では失われることはない。
故に魔術師が他人の記憶を吸い取る際には、術者自身が被術者の生きてきた年月だけ刻まれた全ての情報に、まるで押し寄せる雪崩を前にするかのように晒されてしまう可能性がある。
自分の記憶だけで手一杯なのに、それほど大量の情報に一度に晒されてしまった人間の辿る道は一つ。‥‥すなわち、容量をオーバーした水風船の末路に同じ。頭がパンと破裂してお終いだ。
これを避けるために、というよりも御することができるのは高位の魔術師かソレに精通した者のみ。故にただ自分に都合の良い情報で記憶の溝を埋めてしまう記憶処理の魔術と異なり、記憶を吸い出す魔術というのはあまり多用されることはない。
私が目の前の子供の記憶を吸い出すにあたり取った策は、この少年が置かれた現状、すなわち魂に刻み込まれた一番新しい光景であるはずの私と遭遇した時の記憶をまず探り、その光景自体をキーワードにして魂の中の記憶が刻まれている全域に検索をかけるというものだ。
映像は人間が受動する最も膨大な情報量である。通常の人間は視覚という分野でコレを様々な方法で解析するわけだが、当然ながらリアルタイムで解析するよりも時間をかけてじっくりと解析する方が詳細な情報を得られるというのは道理であろう。
視野に広がる光景から、魔術師である私の目を通して大気の揺らぎや大源《マナ》の分布を確認。視界の乱れから視覚に受けた影響を分析。これを整理して簡潔なサブジェクトにまとめる。
視覚だけではない。触感や痛みなどから傷がどういう原因によって生じたのかも把握できれば、それを先程と同様に概念的なキーワードにして検索の材料へとすることもできるのだ。
これらから現状を形作った原因たる記憶を、たとえそれがどんなに古くても掘り出すことができる。これが使用する機会は少ないとはいえ、私が他人の記憶を吸い出す際のプロセスとして確立したものであった。
‥‥そして、ソレを使って記憶に検索をかけた結果が、先の私と青子のセリフと相成るわけだ。
記憶とは情報ではあるが、そこには多分に本人の主観的な感情というものが入る。例えば一つの景色を例にとっても、人によっては受け取る印象というものが変わる。そういう印象の違いの積み重ねだからこそ、記憶の価値というものが生まれるのである。
簡潔に言えば、最初に私が検索をかけるための
最初に浮かんでくる『蒼崎橙子』の文章化されたパーソナルデータ。そして次に浮かんできた『空の境界』。
関連して次々と現れる様々な情報。その全てが先の私の言葉を証明していた。物理的な証拠なんて必要か? 状況証拠だけでも、事実を確定するには十分だ。論理的な思考の手順を辿って現れた答が真理だと、そして自分の目でそれの存在を確認し、それだけで魔術師が確信を持つには十分過ぎる証拠なのだ。
「ふん、退屈を紛らわせる良い暇つぶしが見つかったものだと思ったのだが、まったくトンデモない拾い物をしてしまったものだ」
「それさっきも言ったわよ。もしかしてボケてきてるんじゃないの姉貴?」
「よし、今すぐにその無駄によく回る口を繕ってやろう。なに心配するな、人形作りの延長さ。糸が見えないように綺麗にしっかり縫ってやる」
机の下の引き出しに仕舞い込んでいたソーイングセットを取り出して青子に向けて針と糸を構える。‥‥意外そうな顔をしているな。この程度は女の嗜みだ。そうだろう?
「いや、いまさら姉貴に女の嗜みーとか言われてもネタとしてか思えないわよ。常識的に考えて」
「ほぅ、お前が私のことをどう思っているかは把握しているつもりだったが、ここは一度しっかりと互いに理解を深めておく必要があるようだな。直接的な、
‥‥互いに大きく吐息をついて、再び視線を作業台に横たわる少年へと向ける。実際この問題は、もしかしたら私が、ともすれば青子すらも、今まで遭遇してきた全ての事象の中で最も厄介な部類に属するのではないか。
「考えてみれば順調な人生だったからな。あまり刺激的なものではなかったからか、ふぅ、まったくもって厄介きわまる拾い物と相成ったわけだが」
「あら、私に魔法を奪われたことは大したことじゃなかったのかしら?」
「そう思うなら今すぐ私に返せ。あれは私のものだという認識は今の今になっても変わらんぞ」
自分たちが創作された存在、か‥‥いや、そんなことはありえん。
仮に物語の登場人物として自分が作成されたと考えても、いくら人間の想像力が人間自身の想像力を越えて豊かなものだとしても、人間を構成する全ての要素がたった数人の想像力によって出来たとは考えられない。
ならばアノ存在をどう説明する? 私達が作られた存在でないと———当然のこととして———考えるならば、そう、順序を入れ替えて考えればどうだろうか。
向こうが先にいて、私達が後にいるのではない。私達が先にいて、向こうでの私達が後に出来たのだとすれば? つまり私達が観測されていたのだとしたら?
‥‥考えられない話ではない。平行世界の存在は宝石翁と第二魔法の存在によって確定的に証明されている。彼の宝石翁は平行世界の壁に穴を穿ち、自在に移動し観測しているのだとされているのだ。
「いや、無理でしょ。だってこれって平行世界って枠からは絶対に外れるし、だとしたら間違いなく新しい魔法、第六魔法になっちゃうわよ?」
「第六法、か。向こう側に神秘が存在しているかどうかはまだ決めつけてしまうには早計だろうが、仮に体系の違う神秘が存在するのだとしても、それを利用してこのような物語を作る意図がさっぱり分からんからなぁ‥‥」
どこにでも変人というのはいるものだろうが、どうにも仮定の状況として腑に落ちない点があるので一先ず却下としておこうか。何より観測だけで手を出さないという理由が説明できないのだから。
「手を出さないんじゃなくて、手を出せないっていう可能性もあると思うけどねー」
「手を出す気なら、今度はわざわざこのように物語に仕立て上げる理由が分からなくなるだろう? 結局どうどう巡りなんだから、連立するどちらの方程式も解無しという結果が出たようなものだ」
‥‥ならば解は二つのうちどちら、という単純なものでなく、ここで第三の解答へと導かれる。すなわち偶然。何の意図も働かない偶然の産物による両者の関係である。そもそも方程式そのものに何の意味もないというわけだ。
シンクロシニティとでも言うべきか。何かが共鳴し、それを受け取ったのが向こう側で言うならば菌糸類と呼称される原作者というわけだ。まったく、これだけの情報を整理しなければならなかった私の苦労を考えてもみてくれはしまいか。
「で、結局この子がコッチに来た理由までは分からなかったわけだけど」
「無理を言うな。事故の衝撃で魂に欠損が生じていて記憶も途切れ途切れになっている。おそらく記憶の中のコイツの姿と今の姿が食い違うのもソレが原因だろう。‥‥欠けた魂の分だけ小さくなった、か。ありえんことではないだろうが、珍しさに拍車をかけているのは間違いないな」
人間を構成する三つの要素の内の一つである魂は、決して不変の存在ではない。摩耗もすれば腐敗もするし、挙げ句の果てには変形や浸食、劣化もする。魂もまた生きているのだ。
例えば吸血鬼と化した人間の身体を人形に移す。これによって血を欲する理由である肉体の劣化が止められたことによって吸血鬼化が治ると考えるおめでたい輩がいるかもしれないが、吸血鬼化は魂にも作用し、魂から浸食する。
結果、魂が吸血鬼のままであるために、肉体は魂に引きずられて再び吸血鬼と化す。不思議なことに、逆に男を女の身体に入れたりした場合には肉体の性別に魂が引きずられたりするのだから、これによって魂の不変性は否定できるのだ。
「ふーん。難しいことはよくわかんないわねー」
「お前も魔法使いならこの程度はしっかりと覚えておけ。あらゆる魔術師の目指す到達点の一つである魔法使いがこのザマだと知れたら、世の魔術師共はそろって首を括りかねんぞ」
「仕方がないじゃない。私の魔法に関することなら、勉強しなくても何となく分かっちゃうんだもの。その場で分かんないことはつまり私に必要ないことってワケ」
「‥‥ふん、これだから私はお前が嫌いなんだ。姉妹だというのに、正反対じゃないか」
どうしても口寂しくて咥えた火の点いてないままの煙草が半分、噛み切られてボロリと床に落ちた。コイツは昔からそうなのだ。私と青子はお互いにぴったりと噛み合うぐらい得意の分野と不得意の分野が異なっていて、だからこそ逆に摩擦が大きくなる。
私はコイツの脳天気さが羨ましかった。私も何物に縛られることもなく、好き勝手に暮らしてみたかった。祖父の期待に応えて魔法使いとなるために勉強することにも存在意義と充実した義務感を感じてはいたが、それでも心の隅では青子が羨ましかった。
もちろん、それは今だからこそ思うことなのかもしれない。当時はこのように冷静にそれを感じ取ることは出来なかったし、もしかしたら当時の状況を今の私が客観的に分析した結果として導き出された解なのかもしれない。こればかりは過去の私でも持ってきて問答してみるしかないな。
「‥‥まぁ雑談はこれぐらいにしましょう。———姉貴、この子どうするつもりなの?」
青子が壁から背中を引きはがして真っ直ぐと立ち、横たわる子供の側へと立った私へ視線を寄越す。睨むわけでもなく、小馬鹿にするわけでもなく、ここ最近はついぞ目にしたことがない真剣な色を湛えた瞳で。
私は口の中に残ってしまった半分の煙草を工房の隅に向かって吐き出すと、中途半端に鼻にかけた眼鏡をとってクルクルと手元で回しながら俯いた。
「———では逆に問おう、青子。お前はこの小僧、どう見る?」
意地の悪い質問‥‥とは青子は受け取らなかったようだ。眉間に皺を寄せると一瞬だけ瞑目し、大きく吐息を吐き出した。
見下ろす先の小さな体は、当然ながらコイツの実際の年齢とは異なる。子供ではない。そして青子はともかく私は相手が子供であろうと余計な感情を持ちはしない。
「殺すか、洗脳するか、とにかく某かの口封じが必要ね」
「‥‥ほぅ、てっきり子供贔屓だと思っていたが、お前がそんなことを言い出すとはな。意外だぞ」
感情の揺らぎを一切見せない冷たい瞳で、青子は何の躊躇もなしに言い切った。壊すこと以外の魔術師としての腕前は並以下のくせに、魔術師としての心構えだけはしっかりとしている。
「この子はトンデモない爆弾よ。私達や、情報として知られている衛宮士郎や遠野志貴のみならず、ことは世界全体に及びかねない。聖杯、真祖の姫、直死の魔眼‥‥どれか一つだけでも他人に知られちゃいけないわ。芋づる方式でありとあらゆる災厄、それこそ第六法をも巻き起こしかねないもの」
そう、この小僧自身に降り懸かる危険など今は別に気にすることではない。問題は小僧が自身の存在によって周りに振り撒く災厄についてなのだ。
魔術師とは須く真理を探究する生き物である。そしてその過程において基本的に手段は問わないものであるし、結果として得た情報、真理は当然ながら自分のためにしか使わない。
そしてコイツの頭の中に眠っている情報は、もはや真理そのもの、いや、真理すらも通り越していると言ってもおかしくはない。まさしく、真理とはまた別次元で存在するものだと言っても良いだろう。
なにせ私達の世界とは完全に別の、平行世界ともまた別の概念の新たな世界の存在を証明した記憶だ。それは新たな魔法の、魔術の在り方を巻き起こすに違いないのである。
「魔術師は皆、自分の分を越えて欲張りなものだからな。こんな宝の山を見つけたら何もかもに手を出したくて仕方が無くなってしまうことだろうよ。‥‥そのような行いが何を呼ぶか、考えもせずにな」
「間違いなく大騒動‥‥いえ、世界全体を巻き込んだ大戦になるわね。手を出された真祖の姫が、聖杯を持った魔術師が、直死の魔眼を宿した『 』そのものたる少女が、どう出るかなんて私達にも分からないわ。ただ言えるのは、それは間違いなく厄介なものになるだろうってことだけよ」
魔法使いが非常に特殊な存在であることは言うまでもないことだろう。だがそれは魔法を習得したからというだけではない。魔法を習得したからというのは事実ではあるのだが、そこに単純に魔法という言葉だけでは語れない別の要素が介在する。
すなわち、世界の掟を破った存在でありながら、それでもなお、逆に世界に認められている異端でもあるという話である。魔法使いは自らの魔法に照らして世界の秩序を監視する役割があるのではないかと私は睨んでいる。
その青子がここまで言うのだ。確かに似たようなことを考えていた私の意見に裏付けが取られたと言ってしまっても構わないだろう。‥‥腹立だしいことではあるが。
「私としては姉貴が即座に始末しなかったことの方がよっぽど不思議よ。姉貴ならこんな厄介事なんて、すぐにアレに喰わせるなり解体して人形の材料にするなりしてもおかしくないって思ってたんだけど」
「だから貴様は私を何だと思っている‥‥? だいたい私は生き物を人形の素材にしたことは一度たりともない。そんな悪趣味な真似は時計塔の人外魔境共にでもやらせておけばいいのだ」
神秘が秘められた裏の社会では、生き物の命は非常に軽視される傾向にある。それは魔術師によって被害を受ける一般人だけではなく、我々魔術師にも共通して適用されることなのだ。
しっかりと警察組織などによって統制された表の社会に比べて、神秘を一般に漏洩させないという原則さえ守られていれば誰も関与などしない裏の社会では、弱い者は淘汰されるのみである。
利己主義がメーターを完全に振り切ってしまっている者達が人間で有る無しを問わず数多く存在する我々の社会では、魔術師とて弱ければ死ぬ。そうでなければ道理が通らないというものであろうが、とにかく命が軽視される傾向にあることだけは間違いない。
「それでも私は、殺人というものに対して慎重な姿勢をとらざるをえないのだよ。命とは、基本的に失われたら戻らないものだ。そして殺されるとはな、非常に苦しくつらいものだ。お前も一度でいいから殺されてみれば分かる。あれは何回も体験したい経験ではないぞ」
「‥‥それでいて私とは殺し合いするんだから、大いに矛盾をはらんだセリフよね。まぁ、いいわ。‥‥それで、結局この子どうするつもりなの?」
「‥‥難しい質問だな。記憶をいじるにも、目の前に私達がいるのではいつ何時封印が解けるかもわからんし、さりとて記憶だけ処理をして放り出すというのも中々に危なっかしい。ふむ、どうしたものやら」
いくら魔術の探求をも捨てかけた私とはいえ、このような危険物を拾ってしまった以上は無責任のまま適当に処理しておくというわけにもいかん。なにより青子にも言った通り、私は人殺しは好かんしな。簡単な手段をとることもできない。
できない、というよりはやりたくない。私は自分自身をも作れる人形師として、自分が自分であるというアイデンティティをしっかりと保っておかなければならないのだ。
「‥‥どっちにしてもまぁまずは———」
「あぁ。まずはこの小僧が目を覚ましてから、だな」
ひたすら傷を癒すために眠り続ける子供。傷や体力および血液の消耗だけではなく肉体と魂のアンバランスに加え、世界を渡った衝撃は早々リカバリーできるものではなかろう。目覚めるにはまだまだ時間がかかりそうだ。
「ふむ、ではコーヒーでもいれてくるとするか」
「あ、私のも頼むわ。なんだか疲れちゃったからミルクと砂糖たっぷり入れてね」
「‥‥だからここは私の家、というか工房なんだと何回言えば———いや、遠慮しろなど貴様に言ったところで聞くはずもない、か」
「わかってるじゃないの」
「やかましい」
暇潰しの種から厄介事へとランクアップした子供。責任感、というものもあるだろうが、それとはどこはかとなく違うような感じを受ける。
それはおそらく私の性分。周囲に与えられた環境や状況を受け入れてしまうという、ある意味では主体性のない私の姿勢によるものだろう。
祖父に師事して魔法を目指して勉学に励んだところから始まり、あのクソジジイをブチ殺してからはかつて顔を合わせて何言か交わした程度の魔術師の誘いで時計塔に入学した。
その関係で何度も不愉快な体験もしたし、嫌なことにだって関わった。それでも全て文句たらたらながらもこなした———いつの間にか借りと向こうが勝手に考えていた分は精算してしまっていた———さ。
それも、いわば私が受動的に物事をこなしていたからであり、結局のところ主体性に欠けるのは私のスタンスなのである。今更になって気づいたというわけではないが、まったく、我ながら情けなくはあるか。
しかし、とにかく今はこの小僧が目を覚ますまではアクションを起こせない。無理矢理起こしてしまってもいいのだが、やはり記憶を吸い出すために多少頭の中をかき回したこともあってか無理をさせると今度こそ致命的な障害を負ってしまうかもしれん。
ここまで体力を消耗していては早々起きたりはしないだろう。まずはそうだな、ふん、癪ではあるが私と青子のためにも、コーヒーでも淹れてきてやるとするか。‥‥安物ではあるが、な。
◆
冬木市、新都。
駅にほど近い新都のビル群の一角にある、この静かな街にしては非常に珍しい二十四時間営業のファミリーレストラン、『
そのちぐはぐ加減はもはや描写する必要はないと思う。四人中の半分は日本人ではあるんだけど、その組み合わせというか、日本人というカテゴリの中でも異質な外見と格好をしているのがよろしくない。
鮮花に言わせれば服装センスが最悪であるところの俺、蒼崎紫遙と、欧米風の顔立ちを持つ誰もが美少女と認める遠坂嬢である。
‥‥何が悪いって、俺以外の三人が国籍は別々だけど文句なしの美女、美少女だっていうのがね。店内に客は少ないけど、視線が集まっているのは嫌でも分かってしまう。
「どうかしまして? ショウ」
「いや、別になんでもないよルヴィア。ちょっと視線が集まってて、居心地が悪いだけなんだ‥‥」
「そういえば先程からこちらを見ている人が多いですね。‥‥何か不審な動きでもしたでしょうか? 一般人と変わらないように気を遣っているつもりなんですが‥‥」
「そういう意味じゃないわよバゼット。‥‥まぁ貴女に言ってもしょうがないとは思うけどさ」
俺の反対側に座った遠坂嬢が珍しく俺と同時に溜息をつき、バゼットとルヴィアは不可思議そうに、怪訝そうに首を傾げた。この二人よりは遠坂嬢の方が幾分世間慣れしているらしい。隣で衛宮も苦笑いしている。
目の前には全員そろってしっかりと夕食をとっていたがために、各自で好みに合わせて頼んだ飲み物と、テーブルが寂しいのを嫌がるルヴィアがメニューの名前だけを見て頼んだケーキが運ばれている。
‥‥けど、当然ながら彼女の口にファミレスレベルのお菓子が合うわけがなく、全員が一口ずつ口をつけた後は続けて食べられる兆候もなく寂しく放置されていた。
俺もクッキーとかならともかくこんなコッテリしたケーキみたいな甘いものは早々食べないしね。仕方がないことではあると思うわけです、ウン。
「この程度のケーキを出して本場の味などを語るとは、この国ではそのような似非な口上が平然とまかり通っているんですの? これが英国風、なんて題目でしたからまだいいですけど、フィンランド風などと称して同じようなゲテ物を出された暁には平常心を保てる気がしませんわね」
「だから、これはあくまで君みたいに舌が肥えている人に向けた口上じゃなくて、もっと値段相応な、庶民層を対象にしたものなんだよ。値段相応、さ。君が求めるレベルのものだと簡単に食べられるものじゃなくなっちゃうだろう?」
残念ながら口直しにと唇をつけた紅茶にしても、ルヴィアの求めるレベルには到底届いていないようだ。まぁこれもまた前述したケーキについてと理屈は同じであり、紅茶だけはそれなりのレベルのものを調達している俺としても少し残念なのは同じである。
もちろん前世も今世も庶民としての生活から一歩たりとも逸脱していない俺としては十分に許容できる範囲なわけだけど、やっぱりルヴィアは少し許容範囲ってやつを広くする必要があるんじゃないかな?
いや、貴族って正直よく分からないんだけどね。彼女とも二年ぐらいの付き合いになるわけだけど、そういうところに踏み込んだことは互いに一度もないし。
「ふむ、皆さん召し上がらないのでしたら私が頂いても構いませんか? ちょうど小腹が空いていたところでして」
「あぁ、構わないわよバゼット。よかったら、ていうか出来るなら全部食べちゃって」
「ありがとうございます、凜さん。では失礼して‥‥」
遠坂嬢に許可をとったバゼットがフォークを片手にもりもりとケーキを頬張り始める。セイバーと同じく決して下品ではないけど、食べるペースが速いことに加えて、食事というよりは処理というイメージを受ける食べ方だからか何となく辟易としてしまうような感情を覚えるのは彼女に悪いだろうか?
バゼット自身、何でも美味しいと———除く雑な料理———言ってみせるセイバーと違って全く味というものに興味がない性分だから仕方がないとは言えるんだけど。
「‥‥まぁ雑談はこれぐらいにしようか。そろそろ本題に入りたいと思うんだけど、いいかい?」
「構わないわよ。こっちも質問したいことでいっぱいだし、ルヴィアゼリッタにしても同じみたいだしね」
「当然ですわ。互いに情報を交換して共有しないことには効率の良い任務達成というわけにはいきませんもの」
ごほん、と周りの視線をしばらく逸らさせるために大きく咳ばらいをした俺は、注文した紅茶とは別に置いてある水の入ったグラスを持って席から立ち上がる。
そのまま指をグラスの中へと指し込んで水に浸し、四人が座るテーブルの四隅に指を使って文字を書き込んでいく。器用貧乏———というか超貧乏———と称されることの多い俺の得意とする数少ない魔術であるルーンを使った結界だ。
種別としては単純な認識阻害。まるでそこが川の中の岩であるかのように、周りの人々の視線は滑らかに俺達を避けていく。
ついでに喋っている内容も外には漏れないし、逆に外の物音はしっかりと中まで通る。これは比較的単純なベクトル操作の一種で、概念的にはそこまで難しいものではない。操る対象が空気の振動に過ぎないからね。
「では最初に私達の方から状況を説明しましょうか。とはいってもさほど複雑なものではありませんわ。当初の予定通りに、少々エッセンスが加わっただけですからね」
「あれを少々と言い切ることのできる君の姿勢には心底感服するね、ルヴィア。俺としては中々衝撃的な出来事だったって思い出に刻み込んでもいいぐらいだと思うけど」
「お黙りなさいショウ。‥‥まず私達と一緒にいた娘、ミユですわね。今、サファイアのマスターは私に変わって彼女が務めています」
俺の結界が確実に機能していることを———寂しいことに———全員が各自で確かめた後、ルヴィアが顔をしかめながら紅茶を一口すすり、ゆっくりと話を始めた。
「‥‥私達が深山町を歩いていた時でした。彼女が一人で外を出歩いてたのを目撃したのですが、次の瞬間にはトラックに轢かれてしまって‥‥」
「‥‥手遅れ、かと思ったよ、俺も、あの時は」
「なん‥‥ですって‥‥?!」
ぼそり、と呟くようなバゼットと俺の発言に遠坂嬢が目を見開いて驚きを露わにする。ルヴィアまでも悲痛な表情をしたことから状況の深刻さを一瞬で理解したらしい。
もちろん全ては終わったことである。美遊嬢の怪我は無事に治ったし、なにより孤児院で虐められていたという彼女がルヴィアの元で引き取られたのは悪いコトじゃないと思う。
それでも、今まで死徒などとの戦闘ぐらいしかこなしていなかった俺は、あの光景を決して忘れることはできない。
自分の血なら死ぬほど見たから平気だとは思っていたんだけど、やっぱりか弱い少女の命の灯火が今にも消えそうになっているという光景は心臓に悪いなんてもんじゃない。あれは、衝撃的とかいう言葉を越えて恐ろしかった。
「既に私達の治癒魔術では間に合わないぐらいの重傷でしたわ。‥‥それで、彼女をサファイアと契約させることで何とか一命を取り留めたんですの」
「成る程、そういえばカレイドの魔法少女には一級の自動治癒《リジェネーション》がかかってたっけ。それなら助かるのも当然ね」
「まぁその後はセオリィに則って記憶処理をしてから家に帰そうと思ったのですが‥‥」
「サファイアが妙に美遊嬢のことを気に入っちゃってね。他にもまぁ色々と複雑な事情があって今に至る、ってワケさ」
俺とルヴィアは互いに顔を見合わせて小さく溜息をつく。転がってしまった事態《モノ》は仕方がないけど、随分とまたおかしな状況に巻き込まれてしまったもんだ。
美遊嬢についてだって、ルヴィアに拾われたからって必ずしも今までよりも幸せになるとは限らない。なにせ彼女はサファイアや俺達と出会うことによって、吸血鬼や外道の魔術師や魔獣が跋扈する裏の世界へと足を踏み入れてしまったのだから。
‥‥ただ、ある種では彼女に似た状況にあって橙子姉に拾われた俺の意見としては、決して拾われたことを後悔なんてしていない。
確かにさ、結構つらいことも痛いことも、死にかけたことだって多々ある。なにより四六時中心の何処かで怯えてるってのはあんまり愉快な状況じゃないかもしれない。
それでも、縋ることのできる、そう、心の軸を持つことができたのは俺にとってかけがえのないことだったのだ。あのまま放り出されていたらと思うと恐ろしくて肩を抱えてしまいたくなる。
もちろん美遊嬢と俺とじゃ全く状況が違うわけだけどさ。それでも俺は、行く宛もなくフラフラと深夜に外を徘徊するような羽目になった孤児院よりは、ルヴィアに引き取られた方が良いと思う。
というか結局のところサファイアが完全に彼女から離れるつもりがない以上、どうしようもないことなんだけどね。言うなれば偽善的な自己弁護なのかもしれないけど。
「彼女は孤児という話ですわ。この街の孤児院に預けられていたそうですが、今回の一件に際して私が養女として引き取りました。こうなった以上は弟子として育てていくつもりですから、そう不安げな顔をしなくてもご心配なく」
「べ、別に心配してるわけじゃないわよ! アンタが責任持つっていうなら私がどうこう言う話じゃないわ。‥‥こっちの件についても色々あることだしね」
遠坂嬢の言葉に俺達三人が即座に眉を引き締める。素性不明という一点のみが不確定要素だった美遊嬢と異なり、遠坂嬢が連れていた少女は問題過ぎる要素を持っていた。
「‥‥アインツベルン、でしたか。まさかと思いますが、アインツベルンとは“あの”アインツベルンで間違いありませんね?」
「何が言いたいのかしら?」
「それを聞きたいのはコチラです、ミス・トオサカ! あの引きこもりで有名な錬金術の家系がどうしてこんな極東の国で、しかも貴女の従者になっているのですか?!」
当然ながら言葉を濁した遠坂嬢に、ルヴィアが思いっきり爆発した。もちろん認識阻害と防音の結界を張ってあるから声が周りに漏れることはないし、突然立ち上がったからって周りの視線がこちらに向くことはない。
でもやっぱり目立ってしまうんじゃないかと慌ててしまう俺は小心者なのだろうか、小市民なのだろうか‥‥。もしくはそのどちらかとも言えるわけだけど、遠坂嬢とかは結界を信用して全く様子が変わらないのが何ともね‥‥。
まぁ俺の結界を信用してくれているって思えば嬉しいとは言えなくもないんだけどさ。
「まず、例のごとく最初にルビーが暴走したのよ。私と一緒にはいられない〜って」
「‥‥うわ、容易に想像つくな、その様子。どうせまた『もっと面白いマスターと〜』とか言ったんじゃないかい?」
「似たようなものよ。ホント、困っちゃうわあの不愉快型魔術礼装には。まぁそういうわけで逃げ出したルビーを追いかけて、追いついた時にはあの子と契約していたってわけよ」
珍しく炭酸にチャレンジしたらしい遠坂嬢がジンジャーエールをストローで一口すすり、先程のルヴィア同様に顔をしかめて唇を放した。やっぱり彼女には炭酸の刺激がキツすぎるらしい。
‥‥うーん、それにしてもやっぱりルビーは暴走したか。当然と言えば当然の顛末ではあるんだけど、そこまでして楽しいことを追い求めたいのかあのステッキは‥‥。
「分かりやすいようで全然分からない。そもそもどうして彼女とルビーが契約することになったんだい?」
「そんなのはルビーに聞いてちょうだい! きっと顔が可愛かったとか反応が可愛かったとかその辺でしょ。あいつの思考回路なんて私には理解できないわ」
「言い訳はともかく、みすみす魔術礼装の命令無視を見逃すとは‥‥これは重大な失態ですわよ、ミス・トオサカ」
「うっ、わかってるわよそのくらい! なんていうか、どうにも私の隙を突くのが上手いのよねルビーは‥‥」
ノリと勢いのまま有耶無耶なムードに入りつつある遠坂嬢をルヴィアが真剣な目で窘め、一気に冷静に戻った遠坂嬢が意気消沈とばかりにうなだれる。
ちなみに普段は殆ど気にしてないんだけど、俺の見立てでは遠坂嬢よりもルヴィアの方が若干精神年齢が高い。彼女はかなり早い段階からエーデルフェルト家の次期当主として活動していたから、悪い言い方にはなるけど日本の片田舎で完璧に過ごしながらも温ま湯の中にいた遠坂嬢よりは修羅場をくぐった経験が多い。
まぁ倫敦に来てから遠坂嬢も加速度的に修羅場くぐってるから今ではあまり変わらないみたいだけどね。特に実戦経験が殆ど無いルヴィアに比べて、遠坂嬢は倫敦に来てからもルドルフと戦ったりしていたわけだし。
「‥‥それでは事態の顛末としてはそれでいいとして、彼女の正体について話してはくれないのですか?」
バゼットに続いて、俺とルヴィアも一旦気持ちを落ち着かせて遠坂嬢の方を見る。
全員の視線を集めた遠坂嬢も今度は大きく息を吐くと、またいつものように名前を体現したかのような凜とした瞳でこちらの視線に返した。
そう、事態の顛末自体はそこまで予想を外れたものではない。俺達にして全く別のベクトルではあるけど似たような状況を経て美遊嬢とサファイアの契約という現状に至ったわけであるのだから。
だからどちらかといえば問題になっているのは、あの雪の少女、イリヤスフィール・フォン・アインツベルンが何故に冬木にいて、しかも遠坂嬢と一緒に脳天気にカード集めなんてものをやっているのかということだ。
再三になるけど、アインツベルンは殆どといって良い程に巷に情報が流れていない引きこもりの一族だ。
千年を越える長きに渡って家名を保ち続けているからこそ多少の噂などが出回っていないこともないけれど、それでも殆ど一切の外部との接触を断って自領に引きこもり、第三魔法へと至るべく関係あるものから関係ないものまで様々な研究を続けているらしい。
この外部と一切接触しないというのがアインツベルンを神秘の跋扈する裏の社会に於いてなお神秘的な存在として位置づけられている所以である。なにしろ家名と大まかな研究内容ぐらいしか伝わっていないのだから当然とも言える。
そしてそんなアインツベルンの名前を持った少女が以下略。とにかくルヴィアやバゼットにしてみれば仰天動地もいいところといった事態だろう。
「‥‥結論から言えば、イリヤスフィールは“あの”アインツベルンであって“あの”アインツベルンではないわ」
「‥‥んっんー? 君の言ってることがよく分からないんだけど、もう少し分かりやすく説明してくれないかい?」
「抽象的だけどこれが一番簡単な説明なのよ。あの子の育ったアインツベルンが魔術師の家なのかと言われれば、頷きもできるし、出来ないわ。まぁちゃんと詳しい説明はするから私の話をしっかり聞いててちょうだい」
再び俺達三人は顔を見合わせる。簡潔で筋道のしっかりとした話し方をする遠坂嬢には珍しい言い回しだ。最初に意味が分からないぐらい抽象的な結論を持って来て、その後から回りくどく説明していくのは、どちらかといえば橙子姉の専売特許である。
橙子姉はああ見えてかなり世話焼きで蘊蓄好きで、ついでに説明屋でもあるのだ。とはいってもその説明というヤツが常人とは少々ズレた所を基準に話されるため、読み解くには聖書と同じくらいの労力を要するんだけど。
ちなみにその影響を受けたのか生来のものなのか、ルヴィアなんかは俺の説明は随分と分かりにくい、説明になってない、自己完結しているなどと言っている。なんとも情けない話で申し訳ない。
「そうね、見たところ彼女に魔術の知識はないわ。魔術回路も元から持っていたみたいだけど、ルビーと契約して開いたみたいだったし‥‥。ただ、その量と質が、とても一般人とは思えないんだけど」
「つまり本人に自覚があるかどうかはさておき、魔術師の‥‥魔術師たるアインツベルンの家系の出身である可能性は高い、ということですのね?」
「あとはまぁ記憶が封印されてるとか、私や契約を行ったルビーにも分からない巧妙な擬装を施していたってことも考えられるわね」
記憶の封印‥‥確かにありえない話じゃない。記憶は魂に刻み込まれるものなわけだけど、外部から精神を経由して間接的に接触して、別の記憶を捏造して、その溝を埋めてしまうかのようにして記憶を暫定的にせよ改竄してしまう手法は確かに存在する。
もっともそれでも記憶自体が変異してしまったわけではないから、面倒ではあるけど手間をかければ埋められてしまった記憶も掘り返すことができる。
その場合には表層とはいえ魂を強引に穿り返すわけだから相当な後遺症、ないしは反動が見受けられることが多々あるわけだけど‥‥。
「でもね、本当の問題はそんな些細なもんじゃないのよ」
「本当の、問題‥‥? かのアインツベルンの血族が極東の片田舎で確認されたことよりも、重要な問題があるというんですの?」
‥‥そうだ。言わば世界的に有名な他の国の皇族がひょっこり目の前に現れたに等しいアインツベルンの血族の登場より、遥かに重要な問題が此処には存在する。
重要なのは決してアインツベルンという家名でなければ、当然ながらドイツでは貴族であることを表すフォンなんて付属物でもなく。
ただ一個人を表す、イリヤスフィールという名前だったのである。
「あるわ。‥‥あの娘、イリヤスフィールはね、本当なら此処に居ていい存在じゃないわ。アインツベルンだからとかじゃないのよ。‥‥だってあの娘は、イリヤスフィールは第五次聖杯戦争の時に死んでいるはずなんだもの」
「「———?!」」
ルヴィアとバゼットが絶句し、俺は三人に悟られないように微かに肩を強ばらせた。
遠坂嬢は真剣な顔を欠片も崩さずにまた無理をして炭酸を一口すすって一息つく。この際にまた飲み慣れない炭酸のせいで文字通り一息つくという醜態を晒しそうになったみたいだけど、なんとか我慢して飲み込んだのは流石の遠坂嬢と言うより他ない。
「イリヤスフィールは私達が戦った第五次聖杯戦争でバーサーカーのマスターだった子よ。バーサーカーはヘラクレス。イリヤスフィールは魔術回路も魔術刻印も桁違いで、それでもイレギュラーだった第八のサーヴァントに‥‥殺されたわ。私達の、目の前で」
「‥‥‥」
「だから本当なら彼女がココにいるはずがないのよ。死者蘇生は魔法が幾つも必要だし、あの子は心臓も奪われてしまったから別の方法で復活させるにも問題がある。あの子にそっくりなホムンクルスをアインツベルンが作ったっていう可能性もあるけど‥‥」
「この局面で持ってくるっていうのは中々に不可解だね。魔術協会と全面戦争でもする気があるんじゃなかったら、聖杯戦争が終わってまだ間もない冬木に手を出すなんてナンセンスだ。ましてや魔術協会の調査部隊が来ていたんなら、たとえ下手人がアインツベルンじゃなかったとしても静かにしてるのが得策だろうし」
遠坂嬢の考察に補足する形で口を挟む。
アインツベルンはその閉鎖的な家風から魔術協会に所属していない。それどころかまともに交流のある家も一切ないだろう。
それにしたって魔術協会が聖堂協会に次いで世界において巨大な組織であることは変わらず、たとえ魔術の家に共通して見られる特徴として魔術協会や他の家を軽視していたとしても、多少なりとも頭の良い家や魔術師なら決して魔術協会を心底から軽く見たりはしないものだ。
巨大な組織だからこそ下手に逆らったりしたらどんなに大きな家だって痛い目に遭う。出来る限り穏便に、互いに不干渉を貫くことが最善の策なのである。
だからこそクラスカードと呼ばれる謎の魔術具が出現し、魔術協会からの調査団までもが殺害され、学生とはいえ冬木の
「‥‥この件をルビーに問い詰めたら、一つの仮説が生まれたわ」
「仮説‥‥ですか?」
「えぇ。‥‥私達が、平行世界に迷い込んだっていう可能性が、ね」
絶句と驚愕、を通り越してルヴィアとバゼット、のみならず俺の頭まで真っ白に凍結《フリーズ》する。遠坂嬢が真剣な表情と声音ながらも唐突に吐き出した台詞は、それほどまでに俺達の意識を揺さぶるに十分なものであった。
平行世界。
漫画やアニメ、小説などでは比較的にポピュラーな概念だから親しみのある人も多いかとは思う。つまるところ、俺達がとるはずだった、とらなかった行動を集めた“if”の世界という解釈で構わない。
例えば俺が橙子姉に拾われなかったら、例えば衛宮が衛宮切嗣氏に拾われなかったら、例えば桜嬢が間桐の家に養子に貰われなかったら、例えば———。
もちろんそれは“もしも”の話であり、俺達が取った道筋っていうのはたった一つ、現在のものしか有り得ない。ならば別の世界なんてものが実際に存在するだろうか。
‥‥そう、存在するのだ。その存在そのものを示すのが、遠坂嬢やルヴィアが研究している第二魔法、“平行世界の運用”である。
魔法。平行世界の存在そのものが魔法の一つ、一種であるのだ。その魔法の一端に触れるためですら格の違う魔術の名家ですら何世代もかける必要があるというのに、こんなところでひょんに触れてしまった驚愕はいかほどのものであろうか。
バゼットや、あまつさえ異世界という場所からこの世界へとやって来た俺はさておき、ルヴィアの受けた衝撃は尋常ではなかったのだろう。いち早く茫然自失状態から覚めた俺達が顔を覗き込んでも、微動だにせずに遠坂嬢の方を見つめている。
「‥‥信じられませんわ。此処が、私達が今いる此処が、エーデルフェルトの家系が気の遠くなる程の年月を費やして追い求めた第二魔法の実証であるとでも言うのですか?」
「確証はないわ。でも仮にも第二法の行使手である宝石翁によって生み出されたルビーの言うことだから、それなりに信頼性はあると思うのよ。‥‥アイツの性格は置いといて」
吸うつもりはないけれど、考え事をする時の癖として胸ポケットから煙草の箱を取り出し、中から一本を摘んで指先で弄ぶ。平行世界‥‥こう言葉にしてみても全く実感が湧かないな。
思わず今ここにいる俺の立ち位置さえ不安になってしまう恐怖感。自分はしっかりとこの両足で立っているのだろうか? それでも得体の知れない状況に置かれていることだけはしっかりと把握できた。
俺の専門は橙子姉と同じく人体に関することで、平行世界とかいう概念的な魔術、魔法とは全くと言って良い程に縁がない。自分の出身地たる異世界の存在、六つ目‥‥いや、本来なら存在したであろう第六法を含めれば七つ目の魔法にすら成り得る考察についても放棄した程に。
故に専門家たるルヴィアや遠坂嬢に比べれば受けた衝撃は微々たるものだったのかもしれないけど、やぱり衝撃は衝撃だ。思わず押し黙ってしまうぐらいには、ね。
「‥‥とりあえず事態の真偽は置いておいて、ここが平行世界だと考えましょう。原因は‥‥何だと思う?」
「———愚問ですわね。仮に此処が平行世界だと考えれば、間違いなく鏡面界への侵入、あるいは脱出が原因でしょう。論理的に考えれば私達が冬木に来るまでは私達の共通概念としての固有世界に存在していたでしょうから」
「そうね。だとすれば、私達が次にするべきことは———」
遠坂嬢の溜めた間に、一拍、全員が全員を違いに見回す。
全員が全員、俺自身に関しては憚りながらも、それなりの頭脳と教養、知識を兼ね備えた存在だ。ついでにいえば決して短い付き合いでもなく、相手の瞳の色を見ることで全員が遠坂嬢の放つ次の言葉に賛同していることを把握し、遠坂嬢へと向き直ると小さく続きを促した。
「——そう、鏡面界へ赴いて、情報を採取することよ」
しっかりと確信を持って口にされた遠坂嬢の言葉に、もう一度俺達は頷いた。
クラスカードは非常に短いスパンで現れている。早ければ明日、ランサーとアーチャーとの感覚を鑑みれば遅くとも二、三日ほどまでには再びいずれかのカードが現れるだろう。
ならば俺達がとるべき行動の最初の指針を躊躇う意味も時間もない。やるべきことは幾つかあるけど、俺達が基本原理とするべき行動はただ一つなのだ。
時間は既に深夜を大きく周り、時計の針は一般的な日常を過ごしている人達なら日の差す時間でしか目にしないような時刻を指している。
俺もルヴィアもバゼットも、明日‥‥もとい今日は冬木に拠点を築く作業をこなさなければならない。ましてやルヴィアは美遊嬢をしっかりと学校に通わせるために手続きその他を行う気マンマンだし、忙しくなりそうだ、間違いなく。
冬木で過ごす日々はまだまだ先が長い。任務の終わりもまだまだ、回収すべきカードは半分以上も残っている。
腰を据える必要がある。焦っても事態は停滞こそすれ進展はしない。
俺は詳しく話をするために明日の集合場所、集合時間を話し合う遠坂嬢とルヴィアを横目に、一先ず外に出たらこの妙な気分を晴らすために煙草を一本吸わせてもらおうと、密かに心の内で決めたのであった。
59th act Fin.
大事なことは繰り返して言ってます。今回は特に同じような言い回しが続いたので一応。