side Rin Tosaka?
「‥‥成る程ね、話は大体分かったわ」
「何が分かったと言うんですの、
「う、うるさいわね! とりあえず話がすっごくややこしいもんだってことは分かったでしょ?!」
目の前に立つ銀色の甲冑と青いドレスを纏った少女から、ことのあらましの大体を聞いた私は小さく、それでいながら非常に深い溜息をついて眉間を揉みほぐした。
無駄に広い新都の公園に街灯は少なく、私達は数少ないソレの下で立っている。くるくると相変わらず意味もなく楽しげに飛び回るルビーは気にしてないんだろうけど、今夜はやけに寒く、吐き出す息は白い。
「あらまぁ、確証どころか事態の一端すら掴めていないというのに“分かった”などと言うとは‥‥貴女は随分とおめでたい頭をしていらっしゃるようですわね」
「‥‥ワケが分かんなくなって思考停止しちゃってる何処ぞのドリル頭には言われたくないわね」
「な‥‥ッ?! 誰がドリル頭ですか遠坂凜《トオサカリン》!」
「何よ喧嘩売ってんの?!」
「受けて立ちますわよ!」
がっしと額同士をかち合わせて互いに睨み合う。腰の位置にまで引いて握りしめた拳は互いに何か動きがあれば即座に目の前の金髪縦ロールの腹にたたき込んでやるつもりマンマンだ。
ルヴィアゼリッタも両手を腰に当てているけど、これも無防備に見えて私が動きを見せればすぐにでも私の肩を狙って飛び上がってくることだろう。
『はいはいお二人とも、いちゃつくのはそこまでにして下さいねー。セイバーさんがびっくりして目を丸くなさってますよー?』
普段に比べて不気味なくらい落ち着いているルビーの言葉にハッと互いに近づけていた顔を話して横を向くと、そこには確かに目を丸くしてこちらを伺う少女‥‥セイバーの姿がある。
信じられない‥‥とまではいかなそうだが、それなりに奇妙なものを目にしてしまったとでも言いたげな表情だ。間が抜けたようで、最初の凜とした態度とのギャップからかどこはかとなく可愛いらしい。
「い、いえ、別に驚いたというわけではないのですが‥‥。私の知る凜とルヴィアゼリッタはこれほどまでに険悪ではありませんでしたもので」
銀色の少女‥‥セイバーの言葉に私とルヴィアゼリッタは思わず互いに互いの顔を見合わせた。
私とコイツが今の状況よりも険悪じゃないですって? 冗談、今だってかなりセーブしてこれだっていうのに!
だいたい私とコイツの仲が悪いのは時計塔の鉱石学科の授業で出会ったその時からで、それから一度たりとも互いに歩み寄ったことはない。今回一緒の任務を受けたのが初めてのことだろう。
まぁそうなるための経緯は経緯だったわけだし、つまるところは自業自得って言えなくもないわけなんだけど‥‥。とにかく、一緒の任務だからって最大限まで自重してる今の状況より険悪じゃない仲なんて信じられないわね。
「‥‥ふむ、やはりルビーの話は本当のようですね。にわかには信じられませんが、まさか並行世界とは‥‥」
『私もマスターをごにょごにょっていうのは機能として持っていますが、実際に並行世界に来ちゃったのは初めてですよー。まさか宝石翁の御技以外でこのような魔法クラスの出来事に遭遇するなんて、まったく驚きですね、あはー』
真面目なようでいて欠片も緊張感を覚えさせない脳天気な声に、セイバーの言葉をきっかけに再び睨み合いを始めてしまった視線を元に戻す。
私の魔術礼装、つまるところ従者であるはずのルビーは今は銀色の甲冑を纏った少女騎士の隣に浮いていて、先程までは激昂していた彼女に硬直してしまっていた私達に代わって事態を説明していたのだ。
「‥‥ホント、冗談じゃないわよ。まさか遠坂の悲願である第二魔法にこんな笑い話みたいなシチュエーションで遭遇しちゃうとか、御先祖様が聞いたら憤死しかねないわ」
「エーデルフェルトとて同じですわよ。しかも実験の結果ではなく事故のようなものでとは‥‥。まともな器具もないこんな状況では正確なデータがとれませんわ!」
今度も腹立だしいことに、絶対に気が合わないはずのルヴィアゼリッタと二人揃って先程とはまた種別の違ったしかめっ面を作って唸り声のような溜息を漏らした。
感じたのは激しい理不尽。誰が悪いってわけでもないし、もしかしたら、ううん本当は小躍りして喜ばなきゃいけないような素晴らしい偶然なのかもしれないけど、やっぱり複雑な気分にならざるをえない。
なにしろ私達の置かれている状況は、遠坂とエーデルフェルト、のみならず世界中に散らばる宝石翁の家系全てが追い求める究極の一そのものとも言えるのだ。唐突に眼前に突き付けられるなんてあまりにも勿体無さ過ぎる。
こういうのはやっぱりそれなりの下準備とか保険とか、充実した実験器具とかを揃えて観測されるべきだ。というかそうじゃなかったらまともな結果なんて出てこないし、これからの研究にも生かせない。
魔術師ってのは直感的に何でも出来る生き物だと思われたら大迷惑だ。魔術ってのは直感的な技術とか天性の才能とかじゃなくて、本来なら純粋な学問なんだからね! しかも個人じゃなくて家系が積み上げてきたものなの!
天才がひょいひょーいって出来るようなものじゃないのよ。私もルヴィアゼリッタも天才とは呼ばれてるけど、人の何十倍勉強したと思ってるんだか‥‥。それが分からない俗な連中ほどちょっかい出してくるんだから困ったもんよ。
ま、そういう連中は一人残らず殴ッ血killて来たから問題はないんだけど。
「‥‥ふむ、つまり私のマスターであるこちらの世界の凜や、シロウやルヴィアゼリッタ、ショーやバゼットは貴女達と入れ替わりで貴女達の世界の方へ行っているということなのですか?」
「全然別の他の世界へ行ったっていう可能性もあるけど‥‥。平行世界は次元を順番に移動していかないと行けないっていう説があるから、多分それで間違いないと思うわ。
ホラ、三次元の断面って二次元でしょ? お互いに鏡面界の下位次元である二次元世界を経由して入れ替わったっていうのが推論としては妥当なところよね」
平行世界論と次元論っていうのは切っても切り離せない関係にある。噂によると第五魔法っていうのも次元論に関係することらしいから、魔法って実は全て繋がっているのかもしれないわね。
‥‥あれ、今の仮説を当てはめるなら、この私も平行世界の私も同じ鏡面界にいなきゃいけないってことになるわね? 当然ながら私はもう一人の私なんて奇天烈極まりない存在に遭遇しなかったんだから、この仮説は成り立たないわ。
空間が重複していた? あの鏡面界の発生の原因がクラスカードにあるんなら、英霊の座に接続《アクセス》する際に誤作動が起こったのかもしれない。
例えば、これはさっきと同じく完全に仮定の話になるけれど、別々に並列している二つの平行世界から英霊の座に同時にアクセスしたらどうかしら?
次元論と平行世界論において、英霊の座っていうのはどの世界からも、どの時間軸からも切り離されて存在していると考えられている。故に英霊っていうのも千差万別で、同じ名前、同じ伝承を持つような英霊でも細かい違いがあるんだとか。
だとすれば英霊の座が二つの世界からの接続《アクセス》に同時に答えようとして、クラスカードが鏡面界を生成する際にそれぞれ別々の鏡面界を作ってしまった可能性があるわね。
今の仮定に則って考えるならば、それはまるで螺旋を描くように違いに接触せず、それでいながら同じタイミングで英霊の座に接続《アクセス》したがために下位次元である二次元において接触してしまっている。
‥‥うーん、だとすればマズイんじゃないかしら。私達、どうやって帰ればいいんだろうか?
「ところで少々お待ちになってミス・セイバー。今、私と遠坂凜《トオサカリン》の他にもいくつか聞き慣れない名前が混じっていたように思えるのですが‥‥」
と、深く思案に埋没し始めた私の思考を、ルヴィアゼリッタの一言が遮った。
まさか私がこうやって考えていることをコイツが考えていないわけはないと思う———悲しいことにコイツは気にくわないけど能力だけは認めざるをえない———けど、直接セイバーと話していた私よりは言葉に耳を配れていたらしい。
確かに思い返してみれば三つ程、覚えの無い名前が混ざっていたように思える。いや、確かその内の一つは———
「‥‥バゼット・フラガ・マクレミッツなる封印指定の執行者ならば、先のランサー戦で負った傷を癒すために病院におりますわ。しかし‥‥ショーとシロウというのは一体どなたですの?」
「ご存知、ないのですか? 凜の弟子であったシロウ・エミヤと、貴女の友人のシヨウ・アオザキですよ?!」
「アオザキって‥‥あの蒼崎よね? ルヴィアゼリッタ、アンタそんなトンデモない知り合いなんか持ってたの?」
「存じませんわ。どうやらこちらの世界の私達は少々大所帯だったようですわね」
セイバーが口にした二つの名前はどちらも聞き覚えがないものだったけど、その内の片方の苗字と思しきものには魔術の世界の一般常識として知識があった。
蒼崎。第五魔法を後継に伝えるという稀有な家系であり、魔術協会では厄介事の代名詞として忌み嫌われている一族だ。
今代の当主はマジックガンナー・ミスブルーと巷では呼ばれている若い東洋人。これが人間ロケットランチャーとか呼ばれてもいて、頼んでもいないのに破壊と厄介を撒き散らすらしい。
ついでにミスブルーの姉は封印指定の人形師で、彼女が在籍していた時代の知り合いが噂するところによれば、これまたやっぱりかなり凶悪な性格をしていたりしていなかったり(?)するんだとか。
つまるところ蒼崎はそんな一族なわけで、まぁ他にも細かい逸話———しかもどれも最近———には事欠かない色々と有名な苗字なわけだ。
ちなみに一方もう一つのエミヤなる苗字には全く心辺りがない。私の弟子? いや、私まだ弟子なんてとれる状態じゃないわよ? ‥‥まさかコッチの私って、この私よりも優秀だとでも言うのかしら。
「そう、ですか。貴女達の世界にはショーも‥‥シロウもいないのですね‥‥」
「どうかした?」
「いえ、なんでもありません。とにかく今は当面の打開策を考えることにしましょう
淋しげなセイバーの、私の方を見る視線がやけに意味ありげだった。自分の知り合いがいないという淋しさだけではなく、まるで私を気遣っているようにも見える。
どうにもその瞳に湛えた色が気になった。私は何か、もうコッチの私が手に入れたかけがえのないような何かを手に入れていないのかしら?
‥‥いけない、今は瑣事に心囚われている暇はないわ。私達には宝石翁から命じられたクラスカードを回収するという重大な任務と、何より自分達の世界に戻るっていう使命があるんだから!
「私達がコッチに来ちゃった原因は十中八九クラスカードが作り出した鏡面界にあるわ。っていうことは、一先ず次のクラスカードが現れるまで直接的なアクションは起こせないわね」
「新たな鏡面界が現れた時に、なんとか情報を収集するしかありませんわね。サファイア、貴女には観測や情報の整理などの機能がついておりますの?」
『問題ありません。鏡面界が生成、維持、崩壊されている時のデータを集め、下位次元への接続《アクセス》を可能にする準備を致します』
『もともと並行世界の検索や限定的な接続《アクセス》なら私達単体でも行えますからねー。十分なデータさえ集まっていれば鏡面界の下位次元を経由してジャンプも出来ると思いますよ、あはー』
本来ならしっかりとした観測機器が必要なところなんだろうけど、今回はルビーとサファイアがその代わりになってくれるらしい。
考えてみれば性格はさておきチート性能な魔術礼装だ。人工精霊に魂まできちんと備わっているかはわからないけど、仮にも私達と同じ様にしているってことは記憶から考察まで勝手に出来るってことなんだろうし。
「やっぱり一朝一夕では無理かしら?」
『流石にデータがないことには不可能ですねー。最初からこういうことが起こると分かっていたらデータも取れたとは思うんですが、凜さん、ちゃ〜んと覚えてますか? 私達は黒化した英霊ともバトらなきゃいけないんですよー?』
「あ、そういえば‥‥」
あまりにも衝撃的な出来事が連発し続けていたのですっかり頭の片隅に追いやられてしまっていたけど、私達が任務を達成するには鏡面界に出現した英霊を打倒しなければならないのだ。
つまり私達が鏡面界に侵入してから英霊と戦闘を開始するまでの僅かな間、戦闘を終えてから鏡面界が崩壊するまでの僅かな間にデータの収集は行われなければならない。
『じっくり時間をかければ一回の調査でデータが取れるんですけどねー。流石に予想される短時間ではちょっと数回かけないと無理そうです』
「残されたカードは残り五枚‥‥。平行世界とはいえ私達もカードを集めなければ大師父からの指令を果たしたことには出来ませんし、戦闘が苛烈になるほどデータの採取も難しくなるでしょうし、これは大変な仕事になりそうですわね」
大師父の下した任務も、私達が元の世界に戻るのも、どちらも両立してこなさなければならない大事な仕事だ。ベストは大師父の任務をこなして彼の弟子となること。それも、私達の世界においての話である。
如何に大師父からもたらされた一級の魔術礼装を所持していようと、任務の過酷さは変わらない。特にこれから私達が相手しなきゃいけない相手には
戦闘が始まる前にデータの採取に集中していては不意打ちを食らう恐れもあるし、戦闘が終わった後にデータ採取に割く余力が残っているかと問われれば、今回の戦いを鑑みると中々に頷き難いものがある。
「しかし、どう出るにしてもまずはクラスカードの出現を待たなくてはならないでしょう。‥‥安心して下さいお二人共。元はといえば私とてこの任務を授かった身の一人、出来る限りの助力は惜しみません」
「え、本当に?!」
「はい。
胸を張ってえっへんと微笑んでみせた少女はどちらかといえば背伸びをしているかのようで可愛いらしかったが、それでいながらこれ以上ない程に頼もしい。
なにせ一見———身に纏った甲冑はさておき———何の変哲もない絶世の美少女にしか見えない彼女も、これから私達が相手しなきゃならない英霊に等しき存在であるのだ。
静謐ながらもひしひしと感じる威圧感《プレッシャー》はさっき私達が何とか倒した黒い外套の弓兵にも劣らな———ううん、あんな紛い物の英霊なんかより遥かに格上だ。その彼女が手伝ってくれるなら万の援軍にも匹敵する。
「そういえば二人共、カードを回収して貴女達の世界に戻るまでの宿はどうするつもりなのですか?」
「は? いや、宿って言っても私は自分の屋敷が‥‥って、あ‥‥」
その無害ながらも自然と溢れ出る威圧感を緩め、先程までのきりりと引き締まった眉を緩めてセイバーが問い掛けてくる。
外国人で他所者のルヴィアゼリッタじゃあるまいし、とその問いに自分としては至極当たり前の返事を返そうとして、私はまた大変なことに気付くと思わず声を上げてしまった。
そうだ、ここは、私の世界じゃない。
「始めに言っておきますが、凜の家は使わせませんよ? いくら並行世界の同一人物とはいっても、主の城に無断で他人を入れるわけにはいかない」
「そ、そのぐらい良いじゃないセイバーのケチ! ふん、いいわよそんなこと言うなら! 同じ家なんだし私で勝手に———」
「もう一つ言っておきますが、当然ながら結界の解号も数回変えているはずですよ? 見たところ貴女はこちらの凜より数年若い。貴女の屋敷と解号が同じだとは思わないことです」
「ぐ、ぐぅ‥‥!」
実は入れ代わりになっちゃったんだし同一人物だし、こっそり屋敷を借りちゃってもいいかなーなんて私の目論みは主に忠実な
ホント、どういう経緯でこんな超一級のゴーストライナーを
‥‥決めた。私もいつか絶対にセイバーみたいな強くて可愛い従者を手に入れてみせる。そうじゃなかったら同じ人物だっていうのに不公平ってもんでしょ。
「‥‥しかし困りましたわね。流石に私も現金はホテルに数泊出来る程度しか持ち合わせておりませんし、荷物は殆ど向こうの世界に置いてきてしまいましたし‥‥」
「セイバー、貴女お金は———」
「当然、持っておりませんが」
「そうよね‥‥。はぁ、どうしたもんか‥‥」
荷物は全て向こうの世界の遠坂邸に置いてきてしまっていた。今、私の手元にあるのは幾つかの宝石と財布とルビーだけだ。戦闘に行くつもりだったから当然ではあるんだけど、今となっては合理的な自分の行動が悔やまれる。
さっきルヴィアゼリッタも言っていたけど、残るカードは五枚。つまり最低あと五日はこちらの世界で過ごさなければいけないわけだ。しかもカードの出現状況によっては更に伸びるだろう。
流石に勝手の知れた街でそれだけの間野宿をするというのは中々に堪える。士気とか体力の問題もあるし、できることならば野宿は勘弁してもらいたいものね。
「‥‥仕方がありませんね。私としても円滑にカードの収集が進まないのは困ります。ここは、エミヤの屋敷に間借りさせてもらうことにしましょう」
あまりにも考えなきゃいけないことが多くて脳みそがオーバーヒートし、思わず頭を抱えてしまった私とルヴィアゼリッタの様子を見てセイバーが溜息をつく。
そして困ったように頭を振ると、しばらく悩んでみせた後にこんなことを言い出した。
「エミヤの屋敷って‥‥こっちの私の弟子だっていう?」
「はい。シロウは魔術師としてはかなり特殊で、工房らしい工房を持っていません。あの屋敷なら貴女方を泊めても問題ないでしょう。‥‥私も一人では食事が確保できませんし」
「何か仰いまして?」
「な、なんでもありません! とにかく、それで問題ありませんね?」
最後に少しだけ口ごもったセイバーにルヴィアゼリッタが疑問符を投げかけると、何かマズイことでも呟いていたのか顔を真っ赤にさせて激しく両手を振って否定する。
恰好に目をつむってその様子だけを見るなら可愛いらしい普通の女の子だ。あ、ホラついに鎧も消しちゃった。青いスカートと白いブラウスはシンブルながらも彼女によく似合うわね。
「注意して欲しいのは、あの屋敷には既に貴女達と面識のある人間が数人寝泊まりしている可能性があるということです。調子が悪いとか誤魔化して頂いた方が賢明だとは思いますが、出来る限り状況に合わせて振るまってもらいたい」
「‥‥ちょっとそれって致命傷じゃない? なんでわざわざそんな鬼門もかくやってところに私達を泊めようとするのよ?」
「それ以外に貴女達を泊める場所がないからですよ。凜の屋敷に入れるわけにはいきませんし、私はお金を持っていませんからホテルも無理でしょう。ですから仕方がないことなのです。えぇ、決してシロウの料理が食べられないならせめてサクラの料理に舌鼓を打とうと思っているわけではありません」
「‥‥なんとなく、貴女の性格が読めてきたように思えますわ」
ルヴィアゼリッタのジトーっとした目が堪えたのか、セイバーは大きく踵を返すと公園を出ようと歩き出す。
どこまでも真っ暗な冬木の空には、今日は星が見えない。まるで神秘のぶつかり合いの余波を嫌ってどこかへと逃げ去ってしまったかのようだ。
‥‥そういえば、久しぶりに故郷へと帰ってきたくせに今の今まで一度も空を眺めたり、数年ぶりの景色を眺めたりすることもなかったように思える。
透き通るような空は倫敦よりも綺麗だけど、やっぱり普段の冬木とは違う。これがクラスカードのせいだとは論理的に考えられないけれど、それでも私はどこはかとなく今回の一件について不愉快な感情を覚えた。
昔に見た空。ずっと見続けた空。平行世界とはいえ私の土地の空。別段綺麗だと感じたことも大切に思ったこともなかったけれど、いつもと違うように思える空を、私は許せない。
故郷に対する愛って程でもなかったかもしれないけど、私はこの事件を解決しなければ、本当に冬木に帰って来たと思えないに違いない。
だから私は私自身の精神衛生のために、何よりこの冬木を治める
そして必ず、本当の自分の土地の空を眺めて、やっとそこで帰ってきたのだと実感するのだろう。
ああ、やってみせる。必ずやりとげてみせるとも。
「どうしたのですか
「すぐいくわ! あと馬鹿みたいにってのは余計よ!」
隣のルビーが珍しく静かに、それでいて私にもしっかり聞こえるように大きな溜息をついたのが聞こえる。
きっと『また喧嘩して、しょうがない人たちですねー』とでも思っているんだろう。腹は立つけど、今はどうでもいいことだ。
ルビーをひっつかんで私は少し早歩きで公園の外へと歩き出した。ルヴィアゼリッタはちゃきちゃきと正場についていってしまっている。流石に私だって初めて行くエミヤの屋敷なんて場所は分からないし、置いて行かれたら確かに大変だ。
また見上げた冬木の空はやっぱりいつもと違う色。それでも私は、なんとはなしに自分のテリトリーでの勝負に決して負けてはならないと、また決意を新たにしたのであった。
◆
「‥‥なるほど、やっぱり鏡面界の特異性が平行世界への転移の原因になっているわけかな?」
「昨晩も言いましたが、やはりそう考えるのが一番妥当だと思いますわ。私達の侵入と脱出の方法もイレギュラーなものでしたから、その点でも不具合が生じたのかもしれませんわね」
「本来術者が想定していた状況じゃなかったってことかい?」
「そうでしょう。そもそもこのような方法で第二法への足がかりが得られるのであれば自分で試しているはずですわ。私達が対象でなければ意味がなかった、と考えることもできますが、手段としてあまりに限定的というものでしょう。魔法へと至る手がかりとしては不十分と言わざるを得ません」
品の良い調度品に囲まれた暖かな室内。俺はもはや相棒と称しても構わないだろう関係である親友のルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトと共に机の上に散らばった書類を手にとって盛んに議論を交わしていた。
時刻は既に昼を大きく回り、もう少しすれば夕暮れが夜の帳を引き連れてやって来るだろう。観布子程じゃあないにしても、冬木の夕焼けはとても美しい。
「しかしどちらにしても不可解ではありますわね。まだ説明しきれていない部分が多々ありますし」
「そうだね。俺は専門外もいいところだから漠然とした違和感しか感じないんだけど‥‥君はどう思う?」
執事であるオーギュスト氏がいれてくれた一級品の紅茶を啜る俺達の前には、様々な線や数式、図などが数種類の色をつかってびっしりと書き込まれたホワイトボードが据えられている。
重厚なアンティークに囲まれたこの屋敷には甚だ似つかわしくない代物だけど、こればかりは合理的に考えて仕方がない。なにせ黒板はチョークの粉が紅茶に入ってしまうのだ。
「‥‥私達がいた世界をA、この世界をBと考えると、鏡面界を含めた三つの世界は間にあの異空間を挟んで積み上がった状態と言えますわ」
赤いホワイトボードマーカーを持ったルヴィアの細くて長い手が、ボードの真ん中に書いてあるショートケーキの断面みたいな図を大きく丸で囲った。
彼女の言葉通り、これが並行世界論によって仮定された三つの世界の相関図であるらしい。本来は隣接しているはずの二つの世界の間に鏡面界が挟まった状態だ。
門外漢の俺にはよく分からないけど、これは随分と特異な構図なんだとか。そもそも鏡面界なんて代物がトンデモ魔術だとは思うんだこど、当然ながら第二魔法の前にはそれも霞む。
こう言っちゃなんだけど、英霊を召喚するだけなら聖杯戦争という儀式の方が完成度は高いし、異空間の創造なら固有結界の方が異端だ。既に実在する別物がある以上、それ自体の重要度はさほど高くない。
もちろん十分過ぎるくらい異常な魔術であることには違わないんだけどね。今はもっと重要な案件が控えているってだけで。
「並行世界への転移は既に第二魔法の範疇ですわ。これを行うのは容易なことでは‥‥いえ、正直なところ今の私やミス・トオサカの実力では不可能です。
‥‥しかし、ルビーやサファイアの力を借りた鏡面界への侵入、脱出なら?」
AからBへと一気に引いた矢印に×印をつけ、今度はAから鏡面界へと向かう矢印、そして鏡面界からBへと向かう矢印の計二つをルヴィアが図に書き込んだ。
一つの図に書き込まれた二つの経路。それはベクトルの計算にも似て、過程は違えど結果は同じ。一方で費やされる仕事の量は異なっている。
「しかし先に申し上げた通り、不可解な点もございます。順当に考えれば私達は最初に侵入した時の経路を逆に辿って鏡面界を脱出するべきですわ。一体どのような理屈でもう片方の並行世界に道が開いてしまったのか‥‥」
「ルビー達が強引に作った道とはいえ、そればかりが原因でも無さそうだからね。だとしたら次の転移で都合よく帰れる、なんてことも無さそうだし」
「それは少々期待し過ぎているというものでしょう。まぁ今は鏡面界の次元データを採取、解析して地道に努力していくしかありませんが‥‥」
そう、専門家ではない俺の目から見てもこの仮設にはいくつか不審な点がある。
その最たるものがAという世界とBという世界が“どうして鏡面界を通じて繋がったか”だ。なにせ並行世界は無数に存在する。その中でどうしてこの世界が俺達の世界と繋がったのだろうか。
イリヤスフィールがいたから? いや、そんなことはない。その程度の可能性なら他にも星の数程あるに違いない。
「クラスカード‥‥でしょうね。この世界にもクラスカードがあったから、それが私達の世界と繋がった原因でしょう」
「はぁ、だとしたら結局は最初の予定通りにやっていくしかないみたいだね。面倒なのか面倒じゃないのか‥‥」
話し始めたのが昼頃。既に夕焼けは住宅街の空の半分ぐらいまで侵食していて、もうすぐ夕飯の準備が調ったとメイドから連絡が入ることだろう。
エーデルフェルト邸の食事の時間はおしなべて早めだ。‥‥それが日本であろうと。
「‥‥それにしても、拠点を作る拠点を作るって言うから何のことかと思ったら、まさか本当に“作る”‥‥屋敷を建てちゃうとはね」
そう、ここは決して倫敦の郊外にあるエーデルフェルト別邸でもなければ、当然ながらフィンランドにあるエーデルフェルト本邸でもない。極東の島国の西日本という地域の、日本海に面した冬木という田舎町だ。
だというのに俺は倫敦のソレとほとんど変わらないエーデルフェルトの屋敷でこうして紅茶を飲んでいる。たまにルヴィアのところへ研究の助言を受けに行ったり助言をしに行ったりした時と同じように。
‥‥あぁそうなんだ。信じられないと思うけど、彼女、倫敦のエーデルフェルト別邸とそっくり同じような屋敷を冬木に新しく建てちゃったんだよ、これが。
ミソは、これが決して移築ではないことかな。家具から屋敷から何までしっかりと材料は現地調達しているところが凄い。というか有り得ない。
流石にメイドや執事やコックは連れて来たらしいけどね。倫敦の別邸の方には管理をする数人しか残されていないそうだ。ちなみに彼らを連れて来るときにも飛行機を一機チャーターしたらしいから、本当に彼女の金銭感覚には未だに驚かされてしまう。
「何を仰っているのですか? 魔術師の拠点を適当に調達するわけにはいきませんし、それなら新しく建ててしまった方が都合が良いではありませんか」
「いや、そもそも俺達みたいな庶民にはそういう発想が出来なくてね。慣れてるつもりではあったけど、正直今回ばかりは意表を突かれてしまったのは否めないな。‥‥うん、いや、別に悪いことじゃないんだけどね」
「‥‥相変わらず歯切れが悪い喋り方をいたしますのね。問題が無いならそれで良いではありませんか?」
もちろん問題なんかない。むしろこういう風に新しく作ってしまった方が、確かに魔術師である俺達にとってみれば都合が良いことには変わらない。なによりこちらの世界にいる間はこの屋敷を間借りしている身、快適な環境は大歓迎だ。
もっとも任務が完了した暁にコイツをどうするのかなー、とかいう疑問は恐ろしくて口には出せない。驚くべきことにこちらの世界のルヴィアがどうしているのかは知らないけど、なんと俺達が平行世界云々に気づいた時には普通にこの屋敷が準備されていたのである。
どうも二つの世界の同一人物の行動はかなりシンクロしているらしい。多分こっちの世界のルヴィアも宝石翁か時計塔から似たような依頼を受けて、同じように行動したんだろう。やってきたオーギュスト氏らいつもの面子も全く違和感なくルヴィアと接していた。
仮に、仮にの話だけど、もしこちらの世界のルヴィアが俺達と入れ違いで俺達の世界にやって来ていたとしたら‥‥?
だとしたら‥‥きっと向こうは相当なカオスになっていることだろう。ちょっと想像するのも嫌になってきてしまうぐらいには。
「こちらはそれでいいとはいえ、遠坂嬢と衛宮は大丈夫だったのかな? こっちの世界の藤村教諭や桜嬢をごまかすことができたなら良かったんだけど‥‥」
「フジムラ? ‥‥それが誰かは知りませんが、シェロ達ならばミス・トオサカの屋敷に逗留しているはずですわよ。先程そう連絡がありましたもの」
「そうなのかい? ‥‥うん、まぁこちらの世界の遠坂嬢が君と同じように所在不明だっていうならその方が安心かもしれないけど‥‥」
そういうばよくよく考えてみると衛宮の屋敷がこちらにあるという保証もない。
確か衛宮の義父である切嗣氏はアインツベルンと悶着を起こしていたから、こちらでも実の娘である可能性が高いイリヤスフィール、つまりアインツベルンが暮らしている街に堂々と居を構えているってのは不自然だろう。
そうやって思考を巡らせてみれば、表の社会の創作物では比較的ポピュラーな題材とも言える並行世界論のいかに難しいことか。いつ、どこで、だれが、どのように分岐したのかを仮定すればそれこそ無限のシチュエーションが考えられる。
それでもこれが要素として別の並行世界と掛け離れ過ぎていたら、それはもう並行世界ではなく異世界なのだという。ホントにもう専門外の人間じゃ何が何やらさっぱりだな。
「この世界の私達‥‥ですか。成る程、私達と入れ代わりで転移が発生したとみなすと、また一考の価値がありますわね」
「おいおい、研究の肥やしになるのは分かるけど、あんまり熱中して本来の目的を忘れないでくれよ? 俺達が元の世界に戻れるかは君達に懸かってるんだからね?」
「わかっておりますわよ、そのくらい。今回は鏡面界という異空間を通じて並行世界への移動を成すという概念を発見できただけでも十分な収穫ですわ。時計塔に戻ったら早速これを元にした新たな論文に着手することにいたしましょう」
それがたとえ他の魔術師によってもたらされたアイディアであろうと、自分にとって有益なものであれば躊躇なく利用する。自分の研究に取り入れる。
人並み外れた
まぁ魔術師っていうのはそういう人種って言えばそういう人種なんだけどね。他人の研究成果なんて奪って当然。そういう表社会では保護されているモラルっていうのも保護されてるわけじゃないし。
これはもう何回か言ったと思うんだけど、別に時計塔は表の社会でいう政府みたいに魔術の最高権力っていうわけじゃない。そりゃまあ管理地としての認定とか冠位を贈ったりとかはしてるけどね。
だから魔術師を守るのは魔術師自身しかいないのだ。もしくは身内、かな。だから魔術師は身内に驚くぐらい甘い、なんて橙子姉が言ったりするわけで。
「‥‥おや、帰ってきたようですわね。どうぞお入りなさい」
「失礼します、ただいま帰りました」
「お疲れ様、美遊嬢。初めての学校はどうだった?」
「いえ、特に何も。いつも通りに授業をこなして来ました」
ふと、重厚な扉から響くノックの音。ルヴィアがそれに気がついて声をかけると、扉を開けて椅子に座った俺達と同じくらいの身長しかない少女が静かに入ってきた。
そこまで長くないにせよ鴉の濡れ羽と称すに相応しい黒い髪に、琥珀のような茶色がかった黒い瞳。昨夜までのシンプルな私服とは違って、落ち着いたブラウンの可愛らしい制服を着た美遊嬢だ。
彼女はこの近くにある小中高一貫の穂群原学園という私立学校に通うことになった。ルヴィアが普段の金銭感覚で全く自重をしなかったこともあるけど、彼女が今まで通っていた小学校以外の学校はそこしかなかったのである。
もちろん孤児院出身ということもあって通常の金銭感覚を持ち合わせていた美遊嬢当人は私立の学校に通うということを激しく遠慮したんだけど、何がどう悪いのかさっぱり分からなかったルヴィアを説得することはできなかった。
この辺り、完全に貴族と平民との間の意思疎通が困難であることの証明だ。彼女は本当に良い友人なんだけど、まぁ時にこういう大チョンボをかますから困る。
「あぁ、君も送迎お疲れ様、バゼット」
「礼を言われる程のことではありませんよ。私は怪我のせいで戦闘力が低下していますしね。彼女の護衛ぐらい務められなければミユやイリヤスフィールに申し訳ありません」
続けて扉を開けて、髪と同じ小豆色のスーツを纏った長身の女性が中に入ってきた。泣き黒子がトレードマークの鉄拳魔術師、バゼット・フラガ・マクレミッツである。
彼女の言葉通り、バゼットはアーチャーとの戦闘で活躍した際にランサー戦で負った傷が開いてしまったらしい。あの後かなり無理をしていたらしいけど、ここに来てルヴィアが拠点を築いたことで安心したのか一気に体調を悪くしてしまった。
突然倒れてしまった時には尋常じゃないぐらい俺もルヴィアも美遊嬢もパニックに陥ったんだけど、今は何とかこうして立ち直って元気に美遊嬢の送り迎えに同行してくれている。
いくらサファイアを手に入れて英霊に等しき力を持つに至った美遊嬢といえど、クラスカードという謎の大魔術を作り上げた魔術師が冬木に潜伏している可能性を持つ以上、安心は出来ない。
なにしろ彼女が戦闘を行うには一度転身を行う必要がある。鏡面界に侵入してサーヴァントを打倒するならばそれでも構わないけれど、突然の襲撃に対するにはいささか以上に問題がある。出来ることなら護衛は必要だ。
「今日は歩いて下校してみましたが、今度からは念のため車による送迎を考えてもいいかもしれませんね。まぁ下校路には特に問題が見あたるようには見えませんでした、が‥‥」
バゼットが美遊の方をちらりと見て言い淀む。彼女としては珍しい態度だけど、美遊嬢は口ごもったバゼットをチラリと横目で見ると、さして特別な感慨を感じさせない普段と全く同じ口調で続きを引き取った。
「この屋敷の前の家がイリヤスフィールの住んでいる家でした。それだけです」
「ミユ、それだけでは‥‥」
「特に、問題はありません。そうでしょう?」
「‥‥‥」
美遊嬢とバゼットが二人しか分からない不思議なやりとりをするのを、俺とルヴィアは顔を見合わせて不思議に思いながら見ていた。
どうも下校の最中、イリヤスフィールの家とか彼女とかに関係した何かが起こったらしい。それもバゼットが言い淀んだことから察するに、中々に気まずい事態であったようだ。
「‥‥ふむ、貴女がそう言うならば問題はないのかもしれませんわね。ですが何か貴女自身が問題と思うようなことがありましたら、必ず報告なさいね?」
「はい、わかりました」
「ところでサファイア、次のクラスカードの出現について何か情報は得られましたの?」
少し俯き気味に視線を落として頷いた美遊嬢を気にした様子もなく、ルヴィアがその隣にフワフワと浮くサファイアへと問いかけた。
最初にランサーが出現してからアーチャーが出現するまでに要したのは三日ほど。そしてアーチャーからライダーまではたったの一晩だ。
次のクラスカードが出現するまでにどれだけ時間がいるかを考えたら、最短で一晩の内に現れることになる。つまり、今夜。
前回はランサーのクラスカードを
今回の相手に
残念ながらライダーの宝具と予想される
『クラスカードの出現は今夜と予想されます。場所は座標223.24.58‥‥冬木大橋の下です』
「先程探知魔術を使った結果と同じですわね。‥‥やはりクラスカードの種類までは特定できませんの?」
『申し訳ありません、流石にそこまでは‥‥』
残るクラスは四つ。
単純な砲撃戦なら魔力の差で勝てると思われる
となると事前にクラスを特定できるなら非常に利点が大きいわけなんだけど‥‥。流石にそこまで話はうまくいかない、か。
「‥‥冬木に来てから不思議だったのですが、どうして貴方は第五次聖杯戦争に登場したサーヴァントの真名を全て知っているのですか?」
「え、あ、あぁ、そりゃロード・エルメロイにお願いして遠坂嬢が時計塔に提出した資料を閲覧させてもらったからね。と言っても覚えてるのは名前ぐらいで、大した情報はないよ?」
「そうでしょうか‥‥? まぁ、既に第五次聖杯戦争のサーヴァントが登場すると特定なさっているようですが、早合点は禁物ですわよ。もっと始末の悪い英霊が出現する可能性も頭に入れておくに越したことはありませんわ」
まるで教師が生徒にするかのように人指し指を立てて———もちろん反対の手は腰に当てて———注意を促したルヴィアの言葉に、俺は眉を寄せて考えこんだ。
英霊を召喚するには某かの触媒が必要だ。それは英霊自身の遺物であったり、英霊に関係する何かであったりする。神殿の柱や山門、ともすれば血筋そのものでも構わない。
特に個人が行う不安定な儀式ではなく、土地の霊脈を使って長きにわたり組み立てられた聖杯戦争の召喚儀式ならば希薄な繋がりであろうとも触媒と成り得る。例えば人格や性格などでも構わないわけだ。
ちなみにこれは実のところ起源や運命といった根源的なものなんだけど、とにかくそれでも今回の召喚は極めて特殊に過ぎると俺は思う。
英霊七人分の触媒の用意が可能だったかどうか、というのも疑念の一つではある。しかし一番気にかかっていたのはアーチャー‥‥エミヤが消える際に残した言葉だ。
“第五次聖杯戦争から記憶が連続している”とエミヤは言った。それは乃ち、喚び出されたのは単なる英霊エミヤではなく、“第五次聖杯戦争に参加したアーチャー”であることを指す。
つまり用意された触媒はクー・フーリンや英霊エミヤ、メドゥーサを喚ぶためのものではなく、第五次聖杯戦争のランサーやアーチャー、ライダーを喚ぶためのものであった、喚べるものであったということだ。
そんなもの、早々用意できたりするはずがない。というよりも何を用意すればいいのか見当もつかない。
理屈として成り立っていても、実際に可能かと言われれば激しく疑問なのだ。やはり今回の一件はあまりにも情報が少ない上に、理解しがたい。
「まぁどちらにしても今は大して情報が集まっていないことには変わらないよ。たとえ第五次聖杯戦争のサーヴァントが召喚されるって仮定したとしても、次に出てくるサーヴァントの候補は四体。とてもじゃないけど今夜までに四体分の英霊の対策を立てるのは困難だ」
「ですわね。ですが一先ず備えられるだけの備えは立ててしまうことにいたしましょう。ミユ、貴女は荷物を部屋に片付けてオーギュストのところへお行きなさい。そこで仕事を教えてもらって、夕食を終えたら仮眠をとってから鏡面界へ赴くことにいたしましょう」
「はい、わかりましたルヴィアさん」
「頑張って来て下さいね、ミユ」
ルヴィアの指示に簡潔に返事をして頭を下げると、美遊嬢は仕事だからとサファイアを置いて扉を静かに開け、出て行った。どうしても無償で世話になるのは嫌だと譲らなかった彼女はハウスメイド待遇でルヴィアの屋敷に収まっているのだ。
屋敷の主の部屋に残ったのは俺とルヴィアとバゼットだけ。先ほどまでも真剣ではあったけど、空気は一気に魔術師たちのソレへと変わる。
美遊嬢も非常に優秀ではあるんだけど、それでも彼女はまだ子供だ。結局は彼女を拾って———ルヴィアだけではなく、俺達にも責任はある———サファイアのマスターとして英霊と戦わせている俺達の言うことではないかもしれないけど、やっぱり子供には殺伐とした話に混じってほしくない。
「それで、実際に共に戦ってみてどうですか、ミユは?」
『まだ手に取るのは二度目であるにも関わらず咄嗟に宝具の使用を選択できる判断力。御年に似合わぬ高い知性と教養に加え、基本的な身体能力も一般的な同年代の水準を大きく上回っています。私のマスターとして申し分ありません』
「‥‥初めて会った時にも思ったけど、本当に子供離れしてるな美遊嬢は」
『同じように歳に似合わず多少融通の利かないところはありますし、ルヴィア様に比べれば魔術回路の質も劣ります。しかし総合的な戦闘能力であればルヴィア様やトオサカ様にもひけはとらないと判断いたします』
今日一日べったり美遊嬢と一緒にいたサファイアは自慢とすら思えるぐらいの声色で、普段の様子からはかけ離れているとすら言える興奮度合いを見せた。
やっぱり美遊嬢と最初に契約した際に“最高のマスター”と称したのは決して間違いではなかったらしい。実際に昨夜の戦闘も一瞬だったとはいえ素晴らしい判断力だったから納得できる。
穂群原への編入試験も一部の国語の問題を除いて満点であったことだし、ルヴィアも養い親として少し嬉しそうだ。まだ会って数日という関係とはいえ、養い子という初めての存在に色々と考えるところもあるらしい。
「ところでバゼット、さっき何か口ごもっていたみたいだけど、何かあったのかい?」
「大したことではないと思うのですが‥‥。実は帰りの道で一緒になったイリヤスフィールと、少々、その、口喧嘩というか何というか‥‥」
心底困ったように呟いたバゼットに、俺は驚きのあまり思わず「へぇ」と感心したような声を漏らしてしまった。
これまたルヴィア同様短い付き合いに過ぎないけれど、基本的に彼女は礼を失しない非常に謙虚で控えめで、それでいながら他人とはかなりの距離をとっているような子に見える。
だから些細なことだとはいえ口喧嘩という積極的なコミュニケーションを図ったのがとても面白いように思えたのだ。
「いえ、口喧嘩という程に相互的なものではなかったのですが。なんというか、一方的に言いたいことだけ言って別れたような感じでしたよ」
「それでは言い逃げではありませんか、ミユ‥‥。仕方がありませんわね、いくらミス・トオサカの従者とはいえ共に任務をこなす同僚とそのような態度ではいけません。ここは人生経験豊かな私がしっかりと諭して———」
「ま、まぁちょっと待ちなよルヴィア」
「ちょ、何をするんですのショウ?! 急に引っ張るとバランスが———あぁ?!」
急に席を立ってやる気満々で扉に手をかけようとした養い親の手袋に覆われた手を何とか掴んで引き戻す。
どうやらちょうど反対側の手がドアノブに手をかけようとしていたところだったらしく、俺に掴まれることで空ぶった手が腕ごとバランスを崩し、ルヴィアは見事に転倒した。‥‥俺を巻き込んで、後ろに。
「痛痛痛‥‥。なぁルヴィア、俺達大人が子供の諍いに口を挟んじゃダメだろう? 子供同士の喧嘩や仲違いは子供同士で解決しないと」
「しかしショウ、確かに普通の友人という関係ならそうかもしれませんが、ことはサーヴァントとの戦闘でのチームワークにも影響するかもしれませんのよ? 今はまだ少しささくれだっているぐらいの間かもしれませんが、これが悪化する前にミユに注進しておかなければ‥‥」
「いやいや、美遊嬢はそういうことはしっかりと分かっている子だよ。下手に口を出した方が変に意識してしまうかもしれないじゃないか。ここは大人らしく、気にしないで見守ってあげよう」
しばらく不満げにしていたルヴィアも、俺の説得でようやく納得して席に戻ってくれた。脇に置かれた小さな机に乗っていた紅茶を彼女らしからぬ豪快な飲み方で口に注いで、今度は溜息ではなく吐息をつく。
「まったく参りましたわね。ただでさえ他にやることが多いんですもの。ミユの成績が非常に優秀だったとはいっても穂群原学園にはかなり強引な編入をしましたから、これから彼女の入学に関する書類も揃えなければいけませんし‥‥」
はぁと一息短く、それでもかなり深刻な様子で溜息をついたルヴィアに苦笑してみせる。本当に、何の後ろ盾も責務もないはずの並行世界にやってきたというのに俺達にはやらなければいけないことが多すぎる。
いや、どうにも今回はそういうことばかりじゃないな。実際問題としてイリヤスフィール関連のことを除けば俺達自身は並行世界だという事実以外に影響されることはない。
何せこちらのルヴィア達の行動っていうのは俺達の世界のルヴィア達の行動とほとんどまったくシンクロしているんだから、これがロンドンとかならまだしも殆ど初めてでまったくしがらみとかが存在しない冬木の町に来ているとこうなるわけだ。
もっとも、俺としてはとてもじゃないけど怖くて伽藍の洞に電話してみたりはできない。これで原作通りに伽藍の洞から橙子姉がいなくなってしまっていたり、いたとしても俺のことをまったく知らなくて攻撃されたりしたら、誇張表現でも何でもなく心が壊れてしまいかねないから‥‥。
「まぁ地道にこなしていくしかないね。何だかんだいって相手しなきゃいけないサーヴァントは残り四対しかいないんだ。それぞれ一週間ぐらいかかると考えても一月で済むよ。最後のサーヴァントを相手した後に自分達の世界に帰って、そうしたらゆっくりと休息なり研究なり———」
俺の言葉を先程と同じく、重厚な扉を通して響くノックの音が遮った。どこか躊躇いを含んだ美遊嬢のノックに比べて、今度の音は俺も聞き慣れたリズムと大きさを持っている。
「どうかしたのですか、オーギュスト?」
「はい、お嬢様。穂群原学園からお電話でございます」
扉を開けて足音も聞こえない見事な歩き方で室内へ入ってきたのは見事なカイゼル髭をたたえた執事長のオーギュスト氏。手には古風な電話を乗せたトレイを持っているけど、電話機にコードはついていない。
実はこれが一体どういう仕組みになっているのか一度聞いてみたことがあるんだけど、ものごっつい良い笑顔で『エーデルフェルト家の秘密にございます、アオザキ様』と返されてそれ以上質問することができなかった覚えがある。
ああいうのが超一流の執事っていうんだろうね。普段はまったくと言っていいほどに存在感がないにも関わらず、時には思わず首を縦に振ってしまうような迫力を持っているのだから。
「ミユの入学に関してですか? さすがに昨日の今日で書類を準備するのは不可能ですわよ?」
「いえ、初等部ではなく高等部からでございます。お嬢様は今日転入のご予定でしたが、何故いらっしゃらなかったのかと」
「‥‥は?」
一瞬、俺やバゼットも含めて空気が凍りついた。
ルヴィアの年齢は俺も詳しくはしらないけれど、ハイスクールは普通に出ているはずで、正直そろそろ二十歳に近いはずだ。その程度の教育はすでに済ませてしまっているし、何より少なくとも日本の高等学校に通うような歳ではない。
‥‥うん、やっぱりまだまだ俺達はやることがたくさんあるみたいだ。それこそイリヤスフィールの存在とか美遊嬢の色々とかクラスカードとかの非常に重要な案件だけじゃなくて、本当なら普段の生活の流れで処分できるような、瑣末事まで実に多彩に、色々と。
中途半端に真っ白になってしまった頭でオーギュスト氏を追い出してから受話器をとるルヴィアを横目にそんなことを思いながら、俺は心底困惑した目線を同じように困惑した顔で立ち尽くすバゼットへと送ったのであった。
60th act Fin.