UBW~倫敦魔術綺譚 (未改訂版)   作:冬霞@ハーメルン

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やっと、やっと紫遙が拙作の主人公である証たる話に辿り着いた‥‥!
地味な主人公、空気なオリ主と呼ばれ続けて約一年、ここに辿り着くことが出来た!
何故にわざわざプリズマ編を敢行したのか、その答えまではあともう少しです‥‥!


第六十一話 『漂着者の驚愕』

 

side Luviagelita

 

「‥‥なぁ、本当に良かったのかい? 美遊嬢をこちらの世界に置いて行ったりして」

 

「何を仰いますの。元はと言えば貴方の提案したことではありませんか」

 

「ま、まぁ確かにそれはそうだけど‥‥」

 

「‥‥それとも、貴方はこの期に及んで決断を迷っているとでもいうのですか?」

 

「———ッ、そんなの‥‥迷ってるに決まってるじゃないか‥‥!」

 時刻は既に馴染みとなった深夜。私達はサファイアが探知したクラスカードの出現に対処するべく、冬木市街から離れた郊外の森にやって来ています。

 鬱蒼と茂った木々はただでさえ薄い月明かり一切通さず、それでいて市街地からもかなり離れているためにの人工的な灯りも届かない森の中は、ショウが掲げたルーン石が発する光によって辛うじて周囲が把握できるといった暗闇に支配されておりました。

 途中に崩れかけの廃墟のような建造物を見つけはしましたが、他に人の住んでいた痕跡は皆無。あの廃墟も荒れ具合から考えて最低でも十数年以上は経っているだろうことは間違いありません。

 というよりもそもそも廃墟があったことすら驚きではありますわね。周囲徒歩二十分圏内に民家はなく、まともに生活を営むために必須といえる市街地はといえば車でも三十分以上を費やさなければたどり着けない場所にあります。

 そういえばこの冬木の町には昔、かなり大勢の外国人逗留者がいたという風に聞きますが‥‥。もしかしたらその名残なのかもしれませんわね。

 

 

「‥‥考えてもみてくれ、ルヴィア。確かにあの時、美遊嬢を助けるにはサファイアの力を借りる以外に方法はなかっただろう。その結果としてサファイアが美遊嬢をマスターにすると我儘を言って聞かなかったのも仕方がないことなのかもしれない。でもさ———」

 

「十分にわかっておりますわ、ショウ。確かにサファイアがごねたのは事実でありますが、あそこは元マスターたる私、宝石翁からサファイアを託された私が断固として一般人への神秘の漏洩を懸念して拒否すればサファイアとて我慢したかもしれないということぐらいは、私も分かっているのです」

 

 

 一般人への神秘の漏洩。本来ならば私達はミユがサファイアによって治療された段階で、サファイアに契約を解除するように命じ、記憶処理を行っておかなければならなかったはずなのです。

 いえ、本来ならそれ以外の手段は存在しなかったはずなのですわ。それこそ最初にミユを見捨てる決断をするか、全く意味のないことではありますが治療の後に口封じとして殺すなどという手段以外には。

 仮に一般人がこの話を聞いたときは断固として抗議するか、もしくはイマイチ重要性を掴めないかもしれませんが、神秘の漏洩を防ぐというのはそれほどまでに重要なことなのです。魔術師が何よりも、それこそ自己の利益よりも優先させるべき原則といっても過言ではありません。

 神秘は大勢に分け与えられれば希釈されてしまうものですからね。まぁこれはもう何度も口にしていることですから今さらではありますか。

 

 

「もしそうしていれば、たとえ彼女の言葉通り孤児院で悪質な虐めをうけていたとしても、それでも彼女は平凡で幸せな人生を送ることができたかもしれませんわ。こういうのはなんですが、一般人が魔術の世界に足を踏み入れて幸せになれた試しはありません」

 

「‥‥それは、うん、そうかもしれないな。でも彼女を魔術の世界に引き込んだ責任は、君だけにあるわけじゃないよ。俺達だって止めなかったんだから同じさ」

 

 

 ショウの持つ松明(ケン)のルーンは決して眩い光を放つものではありませんが、それでも十分すぎるぐらいの明るさがあるはずなのに、その灯りは不思議と真っ暗でどこまでも続くかのような錯覚を覚えるほどに広い森の中へと吸い込まれてしまっているかのようでした。

 本当に不思議な森。クラスカードが放つ歪み以外の神秘はまったく感じることができないのに、何故か不気味な悪寒が背筋を這っていきます。まったくもって科学的、ないしは魔術的ではありませんが、これが空間の持つ雰囲気というものなのでしょうか。

 

 

「‥‥今になって思えば、あの血みどろの光景に動揺していたからかもしれませんわね。なんだかんだで、私は今の今まで全く実戦というものを経験したことがありませんでしたもの。本当に、口先だけでは何とも言えるものですわね‥‥」

 

 

 大師父からこの任務を受けて、それが実戦を、それも英霊という最上級の存在との実戦を含んだものだと告げられても、私は全く恐れはしませんでした。

 まがりなりにも私は時計塔では首席と目される身。自分の魔術の腕前には確固とした自信を持っておりましたし、そうでなくとも他人の評価に関係なく私は私の魔術はそれなり以上のものであると自覚していたのです。

 結果としてそれは間違ってはおりませんでしたわ。私の魔術は実際に時計塔の学生の中では一、二を———ミス・トオサカと———争うものでしたし、サファイアを使った最初の戦闘も圧倒され気味の辛勝ではありましたが、勝利を収めることができました。

 

 ‥‥だから私が間違えていたのは別のもの。実戦を、いえ、血を流すことを、命を失うということを自覚していなかったことなのですわ。

 あの時トラックに跳ね飛ばされたミユ。体は破裂してしまったかのように血を撒き散らし、手足は常とは違う方向を向き、顔を自らが流した血の海の中へと浸けた少女の小さな体躯。

 その姿を見た時、私は何をしたでしょうか? すぐさま治療に駆け寄ったバゼットと、彼女に促されて血まみれのミユを抱き締めて治療の手助けをしていたショウ達に比べて、いったい何ができていたでしょうか?

 そう、私は何も出来てはいませんでした。ただ最初の位置に突っ立って、何も出来ず、気を抜けばパニック状態になってしまいそうな自分をなけなしの矜持によって普段と同じように屹然と振舞おうと制御するだけで精一杯でした。

 

 ‥‥ミス・トオサカいかなるものぞと自信満々でいながら結局はこの有様。周りの方々は、それこそショウも気付いてはいなかったかもしれませんが、私自身が気付いていればそれで十分。自分の情けなさに涙も出る思いですわ。

 勿論まだ、というよりは今後も絶対にミス・トオサカにたいして私が引け目を感じるようなことはないでしょうけどね。これは私自身の不甲斐なさを嘆いているだけですもの。

 

「———貴方にそういって下さるのは非常に嬉しいことですが、それでも美遊は私の養い子ですわ。彼女について責任を負うのはあくまでも私でなければいけません」

 

 確かに私はあの時、魔術師として本来なら選ぶべきではなかった選択肢を選んでしまったのかもしれません。それでも私がミユから話を聞き、その上で責任もって彼女を養うと決めたのもまた事実なのです。

 もし勘違いされていたとしたら憤懣ではありますが、私は決して財力が有り余っていたからと戯れにミユを拾ったわけではありません。彼女をあのままにしていくことが不憫だったから、というわけでもありません。

 彼女は確かに、初代でありながら魔術師として大成できる、そうでなくとも私の弟子として相応しい能力を備えている。そう感じ取ったからこそ私は彼女を養子にすると決断したのですわ。

 

 しかるに私は彼女を自分の弟子として恥ずかしくないように全力で育てあげるつもりでした。また同じように、身寄りのない彼女の家族になってさしあげようと、決して軽々しくはない決断をしたのです。

 その時の私は当然ながら自分達が今いるココが並行世界であるなどとは夢にも思いませんでしたから、これまた当然のこととしてクラスカードを全て回収し終わった暁にはミユを連れて倫敦に戻る予定でしたわ。

 

 

「‥‥そのつもりではありましたが。はぁ、現実は中々にままならないものですわね。私とて本当は彼女を置いていきたくはないのです。それでも、それ以上に私はエーデルフェルトの当主として家に帰らなければなりません。あの家を継ぐのは、私しかいないのですから」

 

「名家の当主ともなると大変だね。俺はそういうのないから気ままでいいけど‥‥それでも、帰りたいって気持ちはこれ以上ない程に大きいよ」

 

「‥‥ショウ?」

 

 

 私の独白じみた言葉に、ショウは今にも泣きそうな顔を作って地面へと顔を俯けました。その横顔は未だかつてない程に切迫して見え、どこはかとなく脆そうな印象すら受けます。

 ‥‥それは今までに一度も見たことがない表情で、思わずそれにつられて私も不安気な声を漏らしてしまいました。

 

 

「‥‥俺はね、もうこれ以上この世界にはいたくないんだ。“俺と世界との繋がり”が希薄なんだよ、ココは。俺がココに在るっていう確信が持てないんだ」

 

 

 ショウの歩みが少しだけ、それこそ一緒に歩調を合わせているからこそ分かるぐらいに少しだけ遅くなり、身を切るような声でぼそぼそと喋りだしました。

 前を歩くミス・トオサカとシェロ、それにイリヤスフィールの声もしますが、それ以上に森の木々の木擦れの音と夜更かしな鳥の鳴き声が大きく聞こえます。

 目的地である空間の歪みが最大値で計測される場所までは目測であと徒歩五分もかかりませんが、それでもそれは普段の歩き方で計った場合です。足下が不安定なこの状況と、ましてやショウの歩みが遅くなってしまっている現状ではもう暫くかかることでしょう。

 

 

「世界から貰うあの圧力が煩わしくて、死にたくなるぐらいキツかったこともあったけれど、今になって思えばアレも俺がソコに在るっていう証明でもあったんだな。‥‥今はまるで、命綱もなしに宇宙遊泳してるみたいな気分だ」

 

「‥‥ショウ、本当に大丈夫ですの? 何か、その、普段と違いますわよ?」

 

「うん、もしかしたらおかしいのかもしれない、俺は。もう、さ、どんなに目を凝らしても瞳に写る景色がリアルじゃないんだよ。どうにか我慢してたんだけど、正直そろそろ限界かもしれない‥‥」

 

 

 眉間に刻まれた皺は私達が騒動に巻き込まれたり、講義で分からないところがあった時などに度々目にするものではありますが、今日に限ってはやや種類が違うように思えます。

 それは悩みというよりは、苦悩。そして言葉に直すならば、焦燥や不安、それに加えて恐怖すら宿した瞳の色。自信満々とはいかずとも、常に自分というものをしっかりと保って笑っているはずのショウが、今日はこんなにも頼りなさ気に歩いているのですわ。

 それは私にとって、確かに衝撃でありました。私が歩く道の横を常に、私に一歩遅れながらも負けない速さで着実に歩き続けていたはずの友人のこのような姿は、見たくなかったと言うしかありません。

 

 

「早く、帰りたいよ、伽藍の洞に‥‥」

 

「ショウ、しっかりなさって下さいませ。今は目の前のことに集中するべきです。どのみち私達はクラスカードを全て集めなければ元の世界に帰還することも適わないのですよ? ましてや今回行う貴方の調査がしっかりと行われなければ、クラスカードを全て集めても転移に失敗するかもしれないですわ」

 

「分かってるよ、ルヴィア。わかってるけど、弱音を吐かずにはいられないときもあるんだ‥‥。ま、大丈夫だよ。観測機器はしっかりと持ってきてるし、なにより帰るためだからね。しっかりやらせてもらうつもりさ」

 

「‥‥そうならいいのですが。とにかく、ちゃんとこなしてくださいませ!」

 

 

 あまり意味はなかったかもしれませんでしたが、それでも何とか前を向いて皺はそのままながらも眉を引き締めたショウに、私は少し安堵の吐息をつきました。

 決して安心できるものではないでしょう。前を向いたショウの瞳には相変わらず私すらも不安にさせる色が浮かんでおりますが、それでもしっかりと先程よりもやや速い歩調で、ちゃんと前を向いて歩く様子はまだなんとか安心の欠片を手に入れることができるものですわ。

 

 

「‥‥言い訳になるようですが、どのみちこちらの世界の人間であるミユを私達の世界に連れていくことでどのような弊害が出るかも分かりませんわ。今の貴方と同じような状態になるかもしれませんわね」

 

 

 ショウが何故、このような不安定な状態になったのかは私にはさっぱり分かりません。何故なら私もシェロもミス・トオサカも普段と全く同じように暮らしているのですから。

 こういう言い方はあまり良くないかもしれませんが、長年とは言わずとも二年ほどの付き合いから鑑みるに、ショウは魔術師的な感性に恵まれているとはいえません。どちらかといえば理詰めで術式を組み上げることを得意としています。

 故にこのように並行世界への移動によって、“世界と自分との繋がりが希薄だ”などという感覚的なことを言い始めたのは正直に言って驚きではありました。本当にショウには申し訳ありませんけどね。

 ‥‥ふむ、今になって思えば、ショウとミユは意外に似た者同士なのかもしれませんわね。流石にミユ程に頑固ではありませんが、ショウも十分に頭が固い部分がありますし。

 

 

「まぁそれもそうだね。‥‥ところで今更かもしれないけど、前回と前々回はどうだった? 実際に鏡面界に入った君達の感覚で、何か奇妙なところはあったかい?」

 

「私は特には。‥‥ですが、そうですわね、確かミス・トオサカが鏡面界への転移の際に一瞬だけ意識が空白になったとか、おかしなことを口走っていましたわね」

 

「意識が‥‥空白に?」

 

「えぇ、ほんの一瞬だけですけど、頭の中が真っ白になったかのような感覚があったそうですわ」

 

 

 何気なく呟いた私の言葉に何を感じたのか、ショウは先程までの不安そうな顔とは一転、いつもの真面目な、学者を彷彿とさせる理知的な色を瞳に湛えて、珍しくも彼より一歩後ろを歩く私の顔を覗き込みました。

 えぇ、やはりこれでこそショウですわね。彼も私も同じ魔術師、興味を持つ対象もまた同じですわ。魔術師にとって知的好奇心を刺激される事柄こそが大好物。無駄に思い悩まずに最初からこの話題を振っておけばよかったですわ。

 

 

「それは妙だな。‥‥君は否定するかもしれないけど、遠坂嬢の魔術師としての感性や能力は君とほぼ同等だ。それでいながら遠坂嬢にだけ影響が出るっていうのはおかしな話だと思わないかい?」

 

「‥‥釈然としませんけど、確かにそれは認めざるを得ませんわね。というか、そうでなければ私の好敵手たりえないわけですし」

 

「あのね、話がずれてるよ? 今はそういう話してるわけじゃないんだからさ」

 

 

 軽口のような言い合いになってしまいましたが、確かにショウの言う通り、これは妙な話ですわね。鏡面界への侵入の影響が出たというなら全員に影響が出てしかるべきですし、カレイドステッキの所有者であるミユとイリヤスフィールが除外されたとしても、ミス・トオサカにだけというのは道理に適いません。

 ‥‥何か条件があるのでしょうか? 私に無くて、ミス・トオサカにあるものが‥‥? 人種? 国籍? 魔術特性は同じですし‥‥。まさか、聖杯戦争に参加しているか否か? 考えてみれば、シェロも鏡面界に侵入するときに目眩を起こしていましたわね。

 だとしたら一体どのような術式で条件付けを行っているというのでしょうか。そのような限定的な効果のある術式を作り上げるのは精密な下準備が必要となるはずですわ。魔術はコンピュータとは違うんですもの。

 ましてや仮にそれが可能だったとしても‥‥。クラスカードを発端とする一連の事件は、確定的にミス・トオサカやシェロやバゼット、第五次聖杯戦争ないしは第四次聖杯戦争以前の聖杯戦争に参加していた者達を対象とした、非常に計画的な犯行であったということになります。

 だとすれば、もしや私達がこのままクラスカードの収集を続けることは、ともすればクラスカードを作り上げ、それをフユキの街に配置した何者かの都合通りとなるのでは?

 

 

「‥‥誰かに計画されていた? 遠坂嬢達がココにやってくることさえ、宝石翁が遠坂嬢や俺達に事件の調査を依頼することさえソイツの掌の内だったってことかい? ‥‥ぞっとしないな、それは」

 

「このクラスカードをばらまいた何者か。既に実感していたことではありますが、出来れば相対することは避けたいものですわね。悔しいですが、おそらく私達よりも遙かに格上の魔術師の仕業に違いませんもの」

 

 

 自分の力量を認めるのは、非常に難しくて大切なことです。しかし私達の置かれた状況から判断するに、しっかりと私達の敵対している相手が格上の存在だと認めるべきなのは疑問の余地がありません。

 一般的な魔術師は如何に封印指定級の者であろうと戦闘が得意とはいえないのが通例ではありますが、それは私達とて同じです。ましてや英霊召還の術式を組み上げることが出来る程に召還術に秀でた術者が相手だと考えると、全く油断はできませんわね。

 

 

「‥‥はぁ、とにかく今は情報が少なすぎるよ。とりあえずは目の前のことに集中することにする。君にも、そう言われたことだしね」

 

「それが得策でしょう。先を予測することができない以上、場当たり的でも一つずつ対処していくしか方策がありませんわ。先のことを思い悩むあまり、今の課題を失敗していては本末転倒ですもの」

 

「‥‥えーと、ルヴィアさん? 目的地につきましたよ? これから反射路を形成しますけど‥‥」

 

「あら、もう着いたんですの?」

 

 

 気づけば私達はほんの少し空が開けた森の中の広場とも言うべき場所までやってきていて、前では腕を組んだミス・トオサカと胸の前で両手でルビーを握りしめたイリヤスフィール、赤い外套を着込んだシェロ、そして僅かに心配そうにこちらを見るミユが立っていました。

 どうやらこの辺りが空間の歪みが最大値を記録している場所のようですわね。手首に下げた宝石の飾りを見れば、歪みを感知して細かく震えています。

 

 

「次の敵がアサシンかバーサーカーかは分からないけれど、やることは一つよ。二人とも、わかってるわね?」

 

「うん。距離を保って魔力砲で細かくダメージを与えていく。だよね、凜さん?」

 

「その通りよイリヤスフィール。どちらのサーヴァントも遠距離攻撃手段は持ってないはずだから、距離さえ取っておけば怖くはないわ。いざとなったら空中まで退避しなさい。そしたら絶対に追ってはこれないから」

 

 

 空を飛ぶ、というのは簡単に見えて実はかなり高度な魔力行使ですわ。時計塔で助教クラスの魔術師でも箒などの発動媒体や魔術礼装を使わなければ浮遊さえ適わないですからね。

 そもそも魔術であろうと物理法則に縛られているのは同じ。溢れんばかりの魔力によってイリヤスフィールなどは飛行を可能にしていますが、滑空などに比べて単純に飛行に制限が多いのは当然のことです。

 もちろんサーヴァントとてそれは同じですから、翼を持たない相手ならば空は格好の避難場所というわけですわね。もっとも当然ながら跳躍などの奇襲には注意する必要がありますが。

 

 

「今回、士郎は蒼崎君の護衛ね。蒼崎君は調査に集中できるように、鏡面界の端っこで戦闘に巻き込まれないようにしていて頂戴」

 

「了解。わざわざ戦場に突っ込んでいくような趣味はないからね、安全な場所で自分の職分を全うさせてもらうよ」

 

「間違っても弓で援護したりしちゃだめよ、士郎? そんなことしてサーヴァントが蒼崎君とアンタの場所に気づいたりしたら元も子もないんだからね」

 

「わかってるって。そんな念を押さなくてもいいだろ‥‥?」

 

 

 もはや毎度お馴染となりつつある注意事項を述べるミス・トオサカにシェロが不満げな声を洩らしますが、こればかりは私も彼女に同意せざるを得ませんわね。シェロは少々後先を考えずに突っ込んでしまう癖があります。

 シェロと共闘するのは今回の事件が初めてですけれど、それでも今までのシェロの様子からかんがみるに十分に彼らしい戦い方をすると結論を出さずにはいられませんでしたわね。まったくもって、堅実に見えながらも危なっかしいのですわ。

 それでも私達の中で近接戦闘に限れば最も重要な戦力と言えるのですが‥‥。どちらにしても、今回は遠距離からの攻撃のみに絞って戦闘を想定していますから、あまり危ない真似はしてもらいたくないものです。

 

 

『それでは皆様、準備はよろしいですかー? 反射路形成半径三メートル! 鏡面界に侵入しますよー!』

 

 

 ルビーの声が静かな森に響き、真っ暗闇の中に光が迸ります。ルビーを持ったイリヤスフィールの足元を中心として広がった魔法陣が私達の意識をぐるりと反転させ、次の瞬間には、つい今まで、一瞬前までいた場所と同じ景色、それでいながらまったく違う景色が広がっていました。

 ここが今回のバトルフィールド。空を不気味な闇と格子模様に覆われた異空間、鏡面界。

 

 

「‥‥おかしいわね、場所柄を考えても随分と静かだわ」

 

「敵はいないしカードもない‥‥。もぬけのカラというやつですわね」

 

「場所を間違えたとか‥‥?」

 

 

 通常、鏡面界に侵入してからさほど時を置かずに黒化したサーヴァントは現れるものです。これは経験則でもあるのですが、空間の歪みがクラスカードを原因として生じている以上は当然のことでもあります。

 クラスカードあるところに黒化したサーヴァントあり。鏡面界が発生した際にはすでに中に英霊が内包されていると考えるのが妥当でしょう。もちろん断言はできませんがね。もしかしたら鏡面界に何者かが侵入した段階で召喚がなされているのかもしれませんし。

 ですが私達が数分以上、おそらく五分前後も待っても尚、一向にサーヴァントの姿は現れませんでした。サーヴァントが現れず、空間だけが発生している。これは十分におかしな事態でしょう。

 

 

「‥‥これはおかしいですわよ。嫌な予感がいたしますわ。ショウ、調査は一旦中止です。サーヴァントが現れるまでは私達のそばに———」

 

 

 サーヴァントがいないということはありえません。となると考えられるのは、既に召喚されていてなお、潜伏しているということだけ。

 となるとおそらく相手はアサシン。ショウとシェロには鏡面界侵入直後に戦場を離れて頂く予定ではありましたが、そうなるとパーティを分割してしまうのは逆に各個撃破の危険性があります。

 今回でしっかりとしたデータを取っておきたかったのですが、命を失ってはそれこそ本末転倒でしょう。残念ですがともすれば調査はあきらめ、当初の予定通りに英霊を打倒することに専念したほうが得策。

 そう考えた私は背後に控えているはずの友人に指示を出そうとして振り返り———

 

 

「‥‥ショウ? いったいどうしたんですの?」

 

 

 そこにいたショウは私の予測通りに観測機器の支度をしているわけでも、戦闘に備えているわけでもありませんでした。

 服が土に汚れること構わず大地に膝をつき、あろうことか片腕の肘までつき、もう片方の手で頭を抱えてガクガクと激しく震えています。腕には血管が浮き上がって、さらには真っ白になるくらいに力が込められ、その様子はあからさまに異常。

 

 

「ショウ?! なにかあったのですか、ショウ?!」

 

「ちょ、ちょっと蒼崎君大丈夫?!」

 

「おい紫遙、どうしたんだ?!」

 

「紫遙さん?!」

 

 

 あからさまにおかしなショウの様子に、私を含めた全員が大慌てで蹲って頭を抱えている友人の元へと走り寄りました。近くに寄ってみれば顔には玉の様な脂汗が浮かび、その目は全く焦点を結んでいないのが見て取れます。

 力の限り食いしばっているらしい歯軋りの音。今にも髪の間から血が流れて来るのではないかというくらいにあらん限りの力を込めている指先。そして普段の様子を知らぬ者でも異常と断ずるに躊躇わぬであろう震え具合。

 一先ず辺りの警戒の優先順位を下げ、私とミユを筆頭に全員が近寄って肩を揺すったりしてみますが、こちらのアクションに対しての反応は一向に見られません。

 

 

「———た」

 

「はい?」

 

「———た、俺の———憶を———盗まれ———?! そんな、馬鹿な———だっ———れは———他人———れたら———!!」

 

「ショウ? しっかりして下さいませショウ!」

 

「———覗かれ———俺の———子姉———界が———」

 

 

 私達の声ではなく、まるで独白のように呟かれたショウの言葉は支離滅裂で、とても理解しがたいものでした。

 呟きが始まった彼の瞳から読み取れた僅かな色は、恐怖。それも私では想像すら出来ないぐらいの何者か、ないしは何物かに苛まれる恐怖に見受けられます。

 しかしコレだけはしっかりと分かります。私達には理解できないことでも、少なくとも彼にとっては尋常ではない事態が起こっているのだということだけは。

 

 

「ちょ、ちょっとルビー、蒼崎さんどうしたのかな‥‥?」

 

『ふむ、どうも転移の際に何か異常事態が起こったようですねー。あの取り乱し様は尋常じゃありませんよ。今までの転移ではなかったことですし‥‥。参りましたね、まだサーヴァントを見つけられてもいないというのに‥‥』

 

「困ったなぁ———ん、気のせいかな? 今、何かが動いたよう、な———」

 

 

 突然、少しだけ離れて私達の方を見ていたイリヤスフィールとルビーのやりとりに鈍い音が混じりました。

 

 

「イリヤスフィール?!」

 

「ミユ!」

 

砲射(シュート)!」

 

 

 私達がショウの周りに近づいている隙を狙ってか、イリヤの首を目がけて一条の黒い閃光が走り、瞬時に私達は蹲っているショウを囲むようにして陣取り、即座にミユが閃光の発された場所目がけて魔力弾を放ちました。

 地面に転がった、イリヤスフィールの首を狙って飛んできたものを見れば、それは黒塗りの短剣、ダークと呼ばれるもの。あくまで暗殺を主眼においたそれは間違いなくアサシンによって放たれたものでしょう。

 

 

「あうッ‥‥!」

 

『大丈夫、物理保護が効きました! 薄皮一枚です!』

 

 

 幸いにして瞬時にルビーが物理保護をかけてくれたらしく、イリヤスフィールは首筋から少しばかりの血を流しただけで済みましたわ。

 しかし気配も感じさせずに完全な急所狙い‥‥。一発でこちらを一人、削るつもりの攻撃でしたわね。正直言えば、今も防御が間に合ったことが奇蹟と言えましょう。

 瞬時に反応したミユの魔力弾も居場所を悟らせることなく避けた手際といい、見事なまでの暗殺者の手管。一瞬の油断すらも死に繋がりかねない危険な相手ですわ。アサシンとはいえ‥‥正直、甘く見ていましたわね。

 

 

「ショウ! 敵が出ましたわよ、気を取り直して下さいませショウ!!」

 

「———しよう、知られ———った、俺———を知られ———」

 

「ショウ! 敵が来ていると申し上げましたでしょう! 立って下さいませ!」

 

「お願いです、しっかりして下さい紫遙さん!」

 

 

 これほどの事態であるというのに、ミス・トオサカとイリヤスフィールとシェロに警戒を任せて呼びかけた私達の声にも反応せず、ショウは地面に四肢をつけてぶつぶつと何事かを呟き続けています。

 ‥‥異常などという簡単な言葉では片付けられません。学生レベルとはいえ私達の中では一、二を争う程に実戦経験のあるショウがこのような状態になってしまうなど、尋常なことではないですわ。

 ルビーが先程漏らしていたように、鏡面界に侵入する際に何かあった‥‥? それもショウにだけ、ショウにだけ何かの攻撃らしき干渉があったというのでしょうか?

 

 

『敵を視認! 総数‥‥50以上!』

 

「馬鹿な‥‥英霊が五十体だって?!」

 

「完全に包囲されてる?! なんてインチキ‥‥! 第五次聖杯戦争の英霊じゃないのはともかく、軍勢の英霊なんて聞いてないわよ?!」

 

 

 普段からは想像も出来ない程に緊迫したサファイアとシェロの声に気がつけば、私達の周りはいつの間にか一目には数え切れない程の髑髏の面を被った黒い影に囲まれておりました。

 ざっと見渡した印象では、どれもが同一の個体というわけではなさそうですわ。長身の者、筋肉質の者、手足の長い者と様々なサーヴァントが私達を上下左右から取り囲んでおります。

 ミス・トオサカの言う通り、ここに来て何故か第五次聖杯戦争に登場した英霊ではありませんでしたが、しかしそれは今は大した問題ではありません。

 一体一体がミユとイリヤスフィール二人がかりで倒さなければならない英霊が五十体以上。単純計算で一人につき十体の英霊。しかも数で劣っているのに囲まれているという最悪な状況です。

 

 

「くっ、まさか蒼崎君までこうなるとは‥‥! このままだと的にされるわよ、包囲を突破するわ! 火力を一点集中! イリヤ、ミユ、士郎、ルヴィアゼリッタ!」

 

 

 ポケットから宝石を取り出すと思しき音と共に聞こえてきたミス・トオサカの声に、不本意ながらも私もドレスの胸元から大振りの宝石を取り出し、蹲ったままのショウの腕を無理矢理取りました。

 体重で遙かに負けている私ではありますが、魔力で僅かに体を強化すれば男一人引っ張るぐらいは訳ありません。心配げにしている隣のミユにショウを任せるように目で合図すると、腕に力を込めて何とか友人の意外に広い肩を自分の肩へと担ぎます。

 

 

「ショウ、行きますわよ! なんとか歩いて下さいませ!」

 

「——————」

 

 

 ‥‥こちらの方が身長が小さい分、背負いやすいですわね。っと、今はそんなことを欠片でも考えている場合ではありませんわ。

 前方やや左と右でミス・トオサカとシェロが走り出すのを横目に見ながら、私は足にも魔力を回して力強く大地を蹴ったのでした。

 ‥‥相も変わらず焦点のはっきりしない瞳のまま、急かされるように、脅迫されているかのように何事かを呟き続けるショウの顔を私のすぐ横に感じながら。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

「———つ———ぁ———」

 

 

 ‥‥意識が、混濁している。まるで泥の中に使っているかのように体が重い。伸ばした手も泥の中で、いくら藻掻いても掴めるものを何一つ見つけることができなくて、ただひたすらに溺れていく感触。

 底もなく、水面もなく、そんな場所で一人助かろうと藻掻き続けている。そんな苦しい感覚からゆっくりと浮上して、オレは自分が自分を認識出来ていることを確かめた。

 

 

「‥‥ゴホッ! ゴホッ! ゴホッゴホッゴホッ!!」

 

 

 次の瞬間、今まで一度だって経験したことのない咳き込みに襲われて、肺の中に残っていた少しの空気———もちろんこれはオレの気のせいだったとは思うけど———をあらん限りの勢いで吐き出してしまった。

 

 全く心構えとか覚悟とか無しに咳き込んだせいで胸が熱い。胸が痛い。いや、それだけじゃないぞ、体中が余すところ無く激痛に苛まれている。

 思考どころか、正常な判断力すら回らなかった。とてもじゃないけどそんな余裕は体の外にも中にも、どこにだって存在しない。

 ただ覚醒直後の頭に雪崩か津波か土石流かという凄まじい量を以て押し寄せてくる痛みや苦しみ、その他様々な出来れば一生でも遠慮したい感覚を必死で処理していくことに全ての余地を割いてしまっているのだ。

 しっかりと目を開けているはずなのに、瞳に写る景色は真っ白か真っ黒かの二択。激しく明滅してスパークして、まるでオレの眼球の目の前でパシャパシャとフラッシュを焚かれているか、いっそのこと剣山でも突き刺しているんじゃないかってくらいに物理的に痛い。

 学校の身体検査で全く異常を感知しなかったはずの耳だって、ガンガンと頭痛を表現していると思しき大太鼓の音だけを伝えてくる。ここが仮に渋谷や新宿や池袋のスクランブル交差点のど真ん中だったとしても、何も聞こえないだろうことは間違いないぐらいに。

 

 ‥‥体の感覚は、殆ど激痛しかない。それしかオレの脳には伝わってこない。暫く、少なく見積もっても三十分以上は唸り声ともつかないだろう唸り声を漏らしていると、なんとか痛み以外にも気を配る余裕が生まれてきた。

 とはいっても余裕が生まれてきただけで相も変わらず目には明滅する白黒しか写ってくれないし、耳はトンネルに電車が入った時のようなゴーッという音が聞こえるだけ。どうやらオレの体はいつの間にか気がついたらポンコツ以下の以下になってしまっていたらしい。

 とりあえず分かったのは、オレは自分の体を全く制御できないということだけ。動かせば今の状況を更に越える激痛に苛まれるだろうことは明確なんだけど、まず動かすという選択肢がない。動かしたくない、じゃなくて動かせないのだ。

 まるで体の中に五つの股がある人型みたいな鉄の棒が指し込まれているかの様。それで固定されているから手足はおろか頭すら動かせないんだなんて言われても、今の状況なら納得してしまうんじゃないか?

 いや、むしろこれならセメントで固められているって言われた方が納得できるかもしれない。本当に、最初に目と口を思いっきり開けた以外には一切体を動かすことができないんだから。

 

 ちなみに“動かせば”って言ったけど、もちろん激痛は全く和らいでいない。微妙に痛みに慣れたから生まれた余裕であって、痛み自体は最初に絶叫を上げ———ようとし———た時から殆ど変わっちゃいないのだ。

 上手く伝えられるか分からないんだけど、全身を鋸引かれて、バーナーで炙られて、隈無く針で刺されて、あげく俎板の上に置かれて包丁の背かハンマーでタタキにするみたいに容赦なく叩かれているって言ったら想像できるかな? ‥‥うん、まぁ無理だろうね。

 実際こうやって必死に耐えてるオレとしても、多分こりゃ痛みが酷すぎておかしなこと考えてるだろうなーって思うんだから。なまじっか微妙に余裕が出てきたからこそ精神の均衡を保つためにおかしな電波を自分自身で発しているんだろう。

 

 

「—————?」

 

「———ぇ?」

 

 

 と、しばらくのたうち回ることすら出来ずにひたすら激痛や衝撃に耐えていると、ふと何か、そう、空気の震えのようなものを体に感じた気がした。

 脳に届けられるこの酷い激痛から鑑みるに、おそらくオレの体は全身傷だらけで見るも無惨な姿と化しているのだろう。きっとその分だけ微妙に肌の感覚が鋭くなっているのだ。

 まるでスピーカーの表面を触ったかのような感触に思わず疑問の声———であったと声を発したオレ自身は思うんだけど———を発するけど、自分の声ですら聞こえたかどうかはっきりしないぐらいに不確かだった。

 

 

「や———起き———、———で眠り———いるつもり———ったぞ」

 

「‥‥あ、う‥‥っあ‥‥」

 

 

 何位とか激痛を脇に置いて意識の数分の一かを体の外側に集中させてみれば、オレの体を震わせたそれは人の声を発端とする空気の振動だった。

 続けて何か、先程の声を発した誰かが何かを言っているみたいなんだけど、残念かつ申し訳ないことに俺も内容まで詳しくヒアリングが出来るほどには回復していない。何かを喋っていても、何を喋っているかまではさっぱりわからないのだ。

 動かない首を必死に曲げて声のする方向を向こうと努力してみたけれど、すぐに激痛が物理的にオレの動きに制約を加えていることに気がついて諦め、何とか声を発して言葉に割り込むことで意志を伝えようと頑張ってみる。

 それでも最初の数回の試行では全く声どころか音にもなってなかったらしく声の持ち主は喋るのをやめてくれなかったけど、多少の激痛を我慢して無理矢理に叫ぶぐらいのつもりで声を発すると、ようやく気づいて近寄ってきてくれたようだ。

 

 

「———んだ、声が出せないのか? ‥‥まぁ当然だな、あれほどの怪我ならばそんな状態でも仕方があるまい。というか私が治療してやるまで保ったことすら奇跡と言っても過言ではないな。お前、随分と運が良いぞ」

 

 

 おそらくオレは台のようなものに寝かされているのだろう。ベッドにしてはクッションが効いてないし、ソファにしては凹凸が無さ過ぎる。自分の惨状と照らし合わせて、真っ先に思い浮かんだのは病院の手術台だった。

 声の主はオレの必死———もう何回使ったか分からないけど、これ以上にオレの頑張りを上手く形容する言葉が見あたらない———の懇願に気づいてくれたらしく、ゆっくりながらもこちらのすぐ横、下手すればオレの腕と触れ合うだろう距離まで近づいてくれる。

 ‥‥どちらかといえばキツめな印象を受けるけど、老成した雰囲気を漂わせながらも若いという矛盾した声色は女性のものだ。看護婦というよりは、女医さんかな?

 

 

「———せん、貴———けて———んですか?」

 

「あぁ無理はするな。自分でも気づいてるんだろうが、今のお前は声を出せるような状態じゃないぞ? 無理をして死ぬのはお前の勝手だがな、わざわざ助けてやったんだから私の暇つ———用事には付き合ってもらいたいものだ」

 

 

 ギシリ、と何かが擦れるような音がした。多分、オレの隣で声の主たる女医さんが椅子にでも座ったんだろう。生憎とまだ首を動かすことができないからしっかりと確かめることはできないけど、多分近くに机でもあるんだろう。書類をめくるような音も聞こえてきた。

 ‥‥それにしても不思議な病院だ。普通こういう患者っていうのはクッションの効いたベッドにでも寝かせるものじゃないかな? あまりクッションのない作業台は背中が痛いような気がするけど、うん、そもそも背中も傷だらけに違いない。

 

 

「‥‥ふむ、意識が覚醒しただけでまともに会話を交わすまでには程遠い、か。コミュニケーションが可能になるまでもう少し時間がかかりそうだな。私はコーヒーでも飲んでくることにしよう」

 

 

 ギシリ、とまたもや安物と思しき椅子の軋む音がして、女医さんが椅子から立ち上がった気配がする。その途端、もういい年とまでは言わずとも自立した精神を持っているはずのオレは、例えようもないほどに強烈な“寂しい”という感情に襲われた。

 まるで随分と昔、それこそ小学生だった頃に風邪をひいて、看病を中断して家事に戻ろうとする母親を引きとめたように、寂しさに急かされるままに手を伸ばそうとして‥‥当然ながら体がまるで主の言うことを聞きはしないことを思い出す。

 ああ、なんて無様。結果としてはいい年をした男子高校生が子供のように見ず知らずの他人に縋るなんて無様を見せずには済んだけど、それでも情けないことには違いない。

 

 

「ほう‥‥。いやいや、そうしてやりたい気分ではないのでな。我慢しろ、いい大人だろう」

 

「———ぁ———ぅ———」

 

「‥‥ふっ、心配せずとも暫くしたら戻って来てやる。それまでに精々話せるぐらいまでには回復しておくことだな」

 

 

 間違いなく、女医さんは意地悪な笑顔を浮かべたに違いない。椅子を立ってからわずかに数歩だけこちらに近寄ってオレの様子を見たような気配がした後は、その気配はまっすぐに向こうの方に歩いてドアを開けると部屋から出て行ってしまった。

 残念なことにオレの欲求はしっかりと見透かされてしまっていたようだ。多分、結構若い人だったように思えるんだけど、随分と落ち着いた声の人だったように思える。

 

 ‥‥それにしても、やっぱり人気のない室内は気持ちが落ち着いて来た分やけに寒々しくて寂しい。やっと自分の体の外にも意識を向けられるようになったからか、シンと静まりかえった部屋の中は一つの世界のように感じられた。

 そしてオレは、その一つの世界の中に一人だけで寝っ転がっているのだ。眼球を裏側から押し出されるような、体と意識が拡散していく不思議な感覚。そしてオレ自身が拡散していくその感覚は、結局拡散したところで誰にも遭遇出来ないが故に、孤独感を増していく。

 体を動かせないからこそ、意識ばかりが強調される。あまりの孤独感にひとりでに涙が流れるのを感じてしまった。

 

 気がつけば、真っ白と真っ黒を繰り返していた視界も段々と元の能力を取り戻してきていた。端っこから順番にぼやけて見えるようになった視界が、徐々に明確なものへと変わっていく。

 はじめに目に入ったのは、当然ながらもはや言及する必要すら感じない程に知らない天井。何の色気も装飾もないコンクリートの天井に、古くさい蛍光灯が幾つか下がって頼りない光を放っている。

 流石に首を回すぐらいまでに回復はしてないから部屋を隈無く眺めることはできないけど、少しだけ鼻に注意してみればどこはかとなく埃っぽい。おそらく古い病院なのだろう。衛生管理が心配だ。

 ていうか病院ってもっとこう、清潔な匂いがするものじゃないのかな? なんていうか、消毒液っぽい匂いは確かにするんだけど、それに混じってニスとかそういう塗料系の匂いもあるんだよ。

 

 

「———ぁ———うぅ———いぇあー‥‥うん、なんとか、声も、出せるようになった‥‥かな‥‥?」

 

 

 頑張るたびに律儀にも喉や胸や顔に痛みが走るけど、これまた痛みを我慢して唾を飲み込み続けたおかげか漸く声が出せるようになってきた。

 それにしても酷い。掠れてるのはまだしも、喉を完全に痛めてしまったのか普段の声よりも数段高い。それも声の感じがナチュラルで、まるで声変わりする前の子供みたいな声だ。

 というか声を出してはっきりしてきたんだけど、体全体の違和感がハンパじゃない。怪我のせいか、すごく強ばっているのか、とにかく動かしづらいという意識があるのだ。‥‥動かせないけど。

 

 

「‥‥ふぅ、一体何がどうなってるんだ? ていうか、ココ何処? さっきから不思議だったけど、冷静になってみれば病院なんかじゃないよなぁ‥‥?」

 

 

 ちらりと目だけを動かして周囲を確認してみる。当然ながら台の上に寝かせられている俺では限られた範囲しか目に入らないんだけど、それでもこの部屋が病院でないことは暫く観察すれば気がついた。

 狭いわけではないんだけど、少なくとも決して病室ではない。壁には本棚の他に工作に使うような道具を並べてある棚もあるし、何より全体的に微妙に汚らしい。

 オレは基本的に健康体だから病院のお世話になったことは数える程しかないんだけど、それでもココが病院でないだろうことは分かる。だとすれば‥‥何処だ?

 

 

「何にせよ先ずはさっきのお姉さんに言われた通り、体を休めるのが———」

 

「姉貴ー! あの子起きたってーっ?!」

 

「———ってうわぁ?! なんだなん‥‥ゴホゴホゴホッ?!」

 

 

 と、自分の心を落ち着けるためにも静かに独り言を呟いていた俺の声を遮るかのように、壊れるどころか粉砕されてしまうんじゃないかという程に大きな音と共に扉が開かれ、驚きのあまり体を起こしてしまったオレは猛烈な激痛と咳き込みに襲われることになった。

 

 

「って、うわぁーーー?!」

 

「‥‥あら、大丈夫?」

 

「———ッ———ッッッ!!!」

 

 

 ‥‥襲われることになった、なんてレベルじゃない。痛みで制御が出来ない体で無理矢理起き上がったらどうなるか‥‥答は簡単だ。

 見事にバランスを崩したオレは意外にも狭かったらしい台から見事に転がり落ちて床へとダイヴ。結果として先程を遙かに超える激痛に苛まれることとなる。

 悶絶なんてもんじゃない。声にならない叫びを通り越して、今度こそ肺の中の空気を全て吐き出してしまった。空気の次は魂だ。力の限り痛みを処理するために口から固形物でも液体でもないものを色々と吐き出した。

 

 

「うーん、びっくりさせちゃったかな、君?」

 

「‥‥い、いえ、大丈夫、です‥‥!」

 

「全然大丈夫って顔してないわよー? 強がっても痛いもんは痛いでしょ。ましてやそんな酷い傷なんだもの。どんなに怪我に慣れた人だって涙が出るのは仕方ないわ。まぁ個人的には、強がってる男の子って嫌いじゃないけどね」

 

 

 落ちた時の反動か、不思議と体は激痛を我慢すれば何とか動くようになってきた。

 床に足を投げ出した状態で声のする方を見上げてみれば、そこには蛍光灯の明かりを反射して赤みがかってみえる茶色の髪を長く伸ばし、それを無造作に背中の方へと下ろした一人の女の人。

 ‥‥すっごい美人だ。気が強そうなんだけど、どっちかっていえば清冽な印象を受ける。多分、すっごく性格が悪くてすっごく気持ちの良い人だ。矛盾してるけど、きっとそうだという印象を受けた。

 あ、あとすっごく背が高い。そこまで背が高い方だとは思ってはいないけど、それでも百七十センチには届くというオレが座り込んでいて、首を———通常の状態に換算して———痛いぐらいに曲げなきゃ顔を合わせることができないぐらい。

 

 

「ホラ、今はそこでじっと休んでなさい。寝っ転がってるのが辛いんなら大人しく座っていても体は休息を取れるんだから」

 

「え? えぇ?!」

 

 

 そして次の瞬間、その女の人は驚くべきことにひょいっとオレの両脇に手を指し込むと、如何にも軽々と標準的な男子高校生の体を持ち上げて先程までオレが寝ていた台の上へと持ち上げたではないか。

 ‥‥いやね、別に痩せても太ってもいないけど、それでもさっきから何度も繰り返しているように俺は平均的な男子高校生だ。とてもじゃないけど、一見して華奢な体つきをした女性に軽々と持ち上げられるはずがない。

 この人、どれだけ力持ちなら気が済むんだ? すっごくスレンダーなモデル体型にしか見えないんだけど、もしかして実はウェイトリフティングの女子オリンピック代表だったりするんだろうか?

 

 

「ちょっと、今すっごく失礼なこと考えなかった?」

 

「い、いえそんなことはありません! あの‥‥ところで突然すみませんが、オレはどうしてこんなのところに?」

 

 

 ぐりぐりと頭をわしづかみにされて前後左右に揺すられる。また発見なんだけど、この女の人ってば手もすっごく大きい。

 ていうか首が痛いから止めて欲しいです、ホントに。

 

 

「あぁ、君はココの近くに傷だらけで倒れてたのよ。だから私が君をこの部屋まで運んで———」

 

「———おいこら、治療してやったのは私だし、見つけたのも私だろうが。本人がいないのを良いことに何を吹き込もうとしている? というか何時の間にこっちに来てたんだお前は?」

 

 

 ニコニコしながら自己紹介しようとした女の人を遮るように扉が開き、そこから先程の、オレが目を覚ました時に一緒にいてくれた女医さん(仮)が入ってきた。

 こちらも想像に違わぬ美人。そして声から受けた印象と同じく、全体的に鋭利な印象をこちらに植え付ける容姿をしている。

 細められた目は鋭く、オレンジ色というよりは橙色の髪の毛は後頭部の上の方でポニーテールにまとめられている。若々しい髪型だというのに、この人に関しては妖艶なぐらいに似合っていた。

 そういえば二人とも来ているのは非常にシンプルな服装だ。片や真っ白のTシャツで、片や同じく白いYシャツ。かといって素材というか、この人達自身が今までテレビや雑誌も含めて見たこともないぐらいの美人だから余計な装飾は必要ないのかもしれない。

 

 

「あら、嘘は言ってないわよ嘘は。だって玄関のところからこの部屋までこの子を運んで来たのって私じゃない?」

 

「本当のことを言っていれば何でも許されるわけがないだろうが戯け。というかだな、こんなどうでもいいことでこっそり手柄を取ろうとするんじゃない。思わず文句を言った私が情けなくなってしまうじゃないか」

 

 

 仮にも病人、怪我人の前だというのに、女医さん(仮)は事前に宣言していたコーヒーカップではなく火の点いた煙草を片手に持って立っていた。そういえばこの部屋も何処はかとなく煙草臭い。どうやら相当なチェーンスモーカーなんだろう。

 不機嫌そうな顔も、正直に言えば見惚れるぐらいに綺麗だ。美人が二人。思わずぽかーんと口を開けてしまっても仕方がない。そうだろ?

 

 

「‥‥さて、先程の話の続きだが———まずはお前自身に問おうか。自分に何が起こったのか、覚えているか?」

 

「え‥‥オレは、確か‥‥」

 

 

 女医さんの言葉に痛む頭を抱えて考え込む。そういえば何故、オレはこんな傷だらけで見知らぬ場所で寝っ転がっていたんだ?

 ‥‥そう、確かオレはあの日、クラ———んなと———ンに行———して———に乗———

 

 

「———っあ———?!」

 

 

 意識上ではほんの数時間前のことを思い出そうとした途端に、突如、オレの頭を猛烈な痛みが襲った。それこそ先程までの体の痛みなんてものじゃない程の激痛。頭が割れる、なんてもんでもない。破鐘が鳴るとかいう表現もあるけど、とてもじゃないけど形容するには桁が二つ以上は足りない。

 まるで頭の中で岩を削り出す時に使う発破を連続で何発もぶっ飛ばされてるみたいだ。まともに立ってもいられない。オレは今までの学習すら役に立たない激痛をバネみたいに体を伸ばして衝撃を少しでも和らげようとして———

 

 

「‥‥ふぅ、やはりか。どうやら何かのショックで記憶に混濁が見られるな。落ち着け、無理に思い出すと頭がおかしくなるかもしれんぞ」

 

 

 もう一度台から転がり落ちようとするところを、今度はすっと近づいてきた女医さんの方にしっかり受け止められた。

 煙草の匂いに紛れて、どこか落ち着く上品な匂いがしてくる。包まれるような感覚と命令のような口調に反して語りかけてくるような優しい声に、オレは即座に数時間前のことを思い出すのを止めて、ただ目を閉じて温もりに身をゆだねた。

 

 

「そうだ、思い出すな。今のお前には負担が強すぎる。焦るな、直に思い出せるようにもなるさ。まだ必要のない記憶だ、気にすることはない」

 

「う‥‥あ‥‥!」

 

「あらあら、姉貴ってば興味無さげに見えてやるわねー。しっかり餌付けしちゃってるじゃない、やらしーこと」

 

「よし、さっきは諦めたが今すぐにそのよく回る口を縫いつけてやる。顔を出せ」

 

 

 頭の上の方で物騒な会話がする。そういえばこの女医さん改め橙色のお姉さんも中々に体が大きい。オレをすっぽりと抱きしめられているんだから間違いなく二メートルは超えてるぞ。

 そんなともすれば失礼な考えがバレてしまったのか、橙色のお姉さんはフンと鼻で息をつくとオレを引きはがして再度作業台のようなベッドへと俺を座らせた。

 ‥‥あれ、やっぱりおかしいぞ。どうにも視界が普段と違う。例えるならばそう、誰かの悪戯で部屋の中の何もかもがいつもよりも1、5倍の大きさに設えられたような感じだ。

 

 

「さて、落ち着いたところで自己紹介をさせてもらおうか。‥‥一度しか言わないからよく聞いておけ」

 

 

 ニヤリ、と意地悪な笑みを浮かべた橙色のお姉さんがいかにも楽しげに口を開く。オレの背筋を何故か、とてつもない悪寒が隈無く駆けめぐった。

 それは今からオレの身に何かが起きる、とかいう悪寒じゃなかったと思う。不思議な話ではあるけれど、その時の俺は悪寒の種類というものをしっかりと判別していたのだ。

 どちらかといえば、そう、今の自分の状況を、正に“知らぬが仏”状態であった自分の状況を無理矢理に外部から自覚させられてしまうような悪寒。そんなものだったと思う。

 そしてまるで予定調和の如く、次に二人の女性から放たれた言葉もまた、オレの悪寒を証明するかのようなトンデモないものであった。

 

 

「私の名前は蒼崎橙子。封印指定の、人形師さ」

 

「んで私が一応その妹で、蒼崎青子。第五の魔法使いって、言わなくても君なら気づくかしら?」

 

 

 ‥‥嗚呼、この時のオレの心境をどう表現すればいいのだろうか。

 例えば現実的な非日常から覚醒した次の瞬間にどうして名前と容姿と仕草だけで非現実を自覚することが出来たのか、なんて実際にそういった状況を体験したことのない人は言うかもしれない。

 でも後になって考えてみれば、それも当然のことなんだ。なにせその時のオレは後に姉と呼ぶことになる二人によって記憶を穿り返された後で、“そういった”記憶が魂において記憶が記録される領域の表層に出てきていた状況だったのだから。

 

 あれが俺の新しい人生の第一歩。本当に第一歩だって言える出来事は皆も分かってるとは思うけど———面倒だから公言してしまえば、俺が二人の義弟として迎えられた時かな———また別にある。

 それでも俺がこの世界で暮らすようになった発端ではあるんだ。こちらに来る原因となったアノ事故もまた発端なのかもしれないけどね。俺としてはやっぱり、この世界での俺を象徴する義姉二人との出会いをこそ発端と言っておきたいのかもしれない。

 だって多分、今の俺を構成している大部分はあの二人によってもたらされた、いや、もたらしてくれたものだ。二人がいなきゃ俺はいないし、それは多分、俺というパーソナリティの崩壊だ。ありえん、想像できん。

 

 ‥‥はぁ、うん、まぁ認めるしかないんだろう———って今更かもしれないけど、これは確かなことなんだ。

 俺にとって義姉達は絶対の存在で、義姉達の言いつけともなるとソレはもはや神からの託宣に近い。絶対、なんてもんじゃない。それは俺にとっての行動原理だ。

 だからこそ、俺は絶対に二人の言いつけを破っちゃいけない。何があっても守らなきゃいけない。

 

 

 

 

『あぁ紫遙、これはお前も分かっていることだとは思うが、何度言いつけておいても足らないということはないからもう一度言っておく。

 

 ‥‥お前の記憶、絶対に誰にも知られるなよ。

 

 お前の為でもある。それが知られたら、お前はこの世界以上の神秘を宿す身として生け捕りにした真祖なんてものを越える絶好の研究対象だからな。

 

 だがな、言い方は悪いが、そんなことは大したことではない。実際問題として、そうなってしまったら私達が全力でお前を守ってやる。———おい、何を嬉しそうに笑ってるんだお前は? 真面目な話をしているんだぞ、分かっているのか?

 

 ‥‥いいか、その記憶、他の世界の実在を証明するその記憶はな。

 

 一度お前の外へと流れてしまえば、もはや世界を蝕む毒素となる。冗談抜きに世界が滅ぶ。第六法の発現だ。

 

 そうなれば、もはやお前はまともに生きること適わん。今までお目こぼしをくらっていたが、世界の敵と判断されて問答無用で排除されかねんぞ。

 

 ———だから守れ。絶対に、必ず記憶を守り通せ。いいか、わかったな紫遙?』

 

 

 

 

 62th act Fin.

 

 

 

 




まだまだ何が何やら、詳しい説明も出来ていませんが、それは次話にて言及していきたいと思います。
とりあえず冬霞はここまで辿り着けたことで感無量です。今までの六十余話が、ついに終着に向けて動き出す‥‥!
この調子で執筆頑張っていきたいと思います。どうぞ今少し、簡潔まで、応援宜しくおねがいします!!
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