UBW~倫敦魔術綺譚 (未改訂版)   作:冬霞@ハーメルン

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第六十四話 『双つ界の星空』

 

 

 

 side Rin Tosaka?

 

 

 

「こっの、とっとと倒れなさいよ木偶の坊———!!」

 

「■■ォ■ォ■■ォ———!!」

 

 

 全力で放たれた魔力砲を喰らい、敵はその巨体を大きく自らの後方へ押しやられた。その身の丈をも超える直径の魔力砲は、私が瞬間に放出できる魔力量限界ギリギリの魔力をつぎ込まれた正真正銘全力の砲撃で、酷使した魔術回路が鈍く痛む。

 いくらルビーによって無制限に魔力を供給してもらえるからといっても、実際それを通すのは私の———それなりに自信があるとはいえ———、普通の魔術師の一般的な魔術回路だ。

 量と質こそ並じゃないといえども、ちょっと性能の良い家電に四六時中膨大な量の電気を流していたらどうなるだろうか。‥‥当然、想定された以上の負荷をかけられた製品は傷んでしまう。

 魔術師は魔術を行使する機械。一つの回路。だからこそ理論的には全く家電と変わらない。必要以上に負荷をかければ痛んで、いずれは壊れてしまうものだ。

 筋肉痛とも息切れとも、普通に過ごしている人間が感じるどんな痛みとも違う独特の吐き気。魔術回路が訴えている不調を、私は気合いと根性だけで無視して手の中のルビーを強く強く握りしめた。

 

 

「‥‥あっきれた、全然効いて無いじゃないの。どんな化け物よ、アレ」

 

『バーサーカーっていうのはスペック的に身体能力に優れたものですけど、あれはちょっと異常ですねぇ。協会側の資料によれば対魔力も備えてないらしいですし、流石に凜さんの全力砲撃で怪我一つないっていうのは‥‥』

 

 

 しかし私の全力の砲撃を喰らっても、目の前十数メートルまで遠ざけることに成功した影は無傷。その黒鉄のような体から湯気を迸らせながら、地面に着いていた片膝をゆっくりと起こして立ち上がる。

 本当に生物なのかと疑いたくなる隆々とした筋肉は黒く、堅い。全身が余すところ無くまるで岩か鉄のようで、ちょっとした拳銃弾や刃物なら簡単に弾いてしまうことだろう。

 体長は二メートルを優に越え、下手すれば三メートルにも届くかもしれない。鬣のように靡く髪もゴワゴワで、これもまた下手な刃物ぐらいなら絡め取ってしまいそうだ。

 声とも音ともつかない方向といい、肘から突き出た鰭のような突起といい、戦いの舞台であるビルの壁を簡単にぶち壊す腕力といい、とても人間とは思えない。

 ‥‥そうだ、これは人間じゃない。人の姿をしていても、その実態は獣。知能もなく、理性もなく、ただひたすらに目の前の敵と認識したモノに対して攻撃を仕掛けるだけの獣なのだ。

 

 

「どきなさいリンッ! はぁぁああ———!!!」

 

 

 その黒い獣の眼前に、鮮やかな青と銀が舞い込んだ。振りかざすは不可視の聖剣、私達には遠間がために空気の揺らぎすら見えないそれを渾身の力を持って獣に打ち込み、大地を踏みしめて再度大きく吹き飛ばす。

 砂金のような髪を持った小柄な少女に何故それまでの力が備わっているのか、とにかく彼女は今まで眼前の黒いサーヴァント、バーサーカーと、驚くべきことに互角以上に渡り合っているのだ。

 大きく吹き飛ばされたバーサーカーはビルの屋上の階段へと突っ込んでいくけれど、セイバーの剣には血糊が認められない。どうやらまた、聖剣による剣戟はヤツの皮膚で防がれてしまったらしい。悔しげに歯を食いしばったセイバーがこちらへと向き直った。

 

 

「アレの真名はギリシャの大英雄、ヘラクレス。その宝具は常時発動する肉体、『十二の試練(ゴッドハンド)』です! Bランク以下の攻撃は問答無用で無効化される上に、一度喰らった攻撃は例えAランクを超えていようと二度と通じない!」

 

「ヘラクレス?! ちょっと待って、そんなものが狂化されたりしたら‥‥!」

 

『この有様っていうことですねー。流石に霊格の高い英霊相手だと辛い戦いになりますね、あはー』

 

「無駄話をしていないで援護なさいなルビー! サファイア、魔力弾の密度を高めてもう一度ですわ!」

 

『了解しました、ルヴィア様』

 

 

 セイバーと私から見てちょうど三角形になるような位置に陣取っていたルヴィアが私の手元で楽しそうに身をくねらせているルビーを叱咤し、自分はサファイアに命じて魔力を収束させる。

 Aランク未満の攻撃は無効。ならば無理に砲撃自体を大きくしても無駄以外の何物でもない。魔力の密度を高め、範囲を犠牲にして攻撃の威力を高めないと先ずはあの宝具を抜くことが出来ないのだ。

 

 

「———速射《シュート》!!」

 

 

 収束された魔力弾がルヴィアの目の前に現れた魔法陣から放たれる。圧縮された魔力弾は見た目こそ小さく地味だけど、その分だけ速度と貫通力が上がっている。

 一瞬、視認も難しいぐらいのあっという間にバーサーカーへと達した弾は先程とは違い皮膚を穿ち、真っ黒な液体を吹き上げさせた。

 

 

「■ォ■ォ———?!」

 

『くっ、通りはしましたが効果が薄い!』

 

『純粋にスペックが違うんです! 宝具自体を抜いても、攻撃の規模が小さいからバーサーカー自体に効かないんですよ!』

 

「冗談じゃないわよ、こちとら普通に砲撃しただけじゃどんなに魔力を込めてもAランクには届かないわよ!」

 

 

 単純にAランクを超えるだけの砲撃なら、既に何回か放っている。それでも効果を発揮したのは最初の一回だけで、それでもバーサーカーを殺しきることはできず、しかも二度目からは一切ダメージを与えられていない。

 ‥‥つまり、私達の基本的な攻撃方法である魔力砲は一種類の攻撃と判断されたというわけだ。確かに性質を多少変えることも出来るとはいえアレは純粋な魔力攻撃だ。同じ種類といえば、どれも同じ種類と言えないこともないだろう。

 さっきAランクの砲撃を放ったのは私。そしてルヴィアも今の射撃でバーサーカーの宝具に攻撃を覚えられてしまったことだろう。私とルヴィアで一回ずつ攻撃が通ったのは魔力の波長が違ったからかもしれないけど、つまり私達は実質これ以上バーサーカーを攻撃する手段がないわけだ。

 もちろん、まだまだ工夫すれば何とか攻撃が通らないこともない。例えば黒いセイバーと戦った時みたいに接近戦仕様にしてもいいし、他にも色々やりようはある。

 ‥‥ただ、それも相手がもう少しばかり普通の敵だったらの話だ。この最悪最凶の狂戦士を相手に、そこまで試す隙があるだろうか。

 

 

「参りましたね‥‥。リンの砲撃と私の聖剣による斬撃で何とか四回殺すことが出来ましたが、命のストックはまだ八回分も残っていますし‥‥」

 

「っとに、自動蘇生(オートレイズ)なんて冗談じゃないわよ‥‥! もう私達の砲撃は効かないのに、あと八回もどうやって殺せっていうの?!」

 

 

 セイバーから聞いた『十二の試練(ゴッドハンド)』のもう一つの効果。合計十一回の自動蘇生(オートレイズ)。しかも、その全ては別の手段でもって殺さなければいけない。

 最初にセイバーが聖剣で首筋を切り裂いたので一回。その後の私とルヴィアゼリッタの、魔術回路も壊れよとばかりに全力で放った砲撃で三回。威力があれば同じ手段でも数回殺せるらしいけど、それでもまだ八回も命のストックが残っている。

 しかも、これを突破するにはAランク以上の攻撃でなければいけないのだ。‥‥なんて無理ゲー、そんなどうしようもない感想が浮かび上がってくるのも仕方がないといったものだろう。

 

 

「セイバー、貴女のアノ宝具じゃ殺しきれないの?」

 

「‥‥自信はありますが、確実ではないですね。失敗した時に後がないというのを考えると今やっていい賭ではないように思います」

 

 

 鏡面界に喚び出されたサーヴァントは軒並み黒化という、理性をはぎ取られて“英霊の現象”と化した姿になっているが、それでも戦闘能力は多少の劣化に抑えられている上に宝具までしっかりと使用することができる。

 宝具とは英霊と不可分、唯一の武装。英霊の真名が分かれば宝具がわかり、宝具の真名が分かれば英霊の真名も分かる。つまり宝具を使用した瞬間に、サーヴァントの正体はバレてしまうと言っても過言ではない。

 あの日、一度は完膚無きまでに封殺されてしまったキャスターへのリベンジを果たした私達は、続いて黒く染まった鎧を纏ったセイバーとの戦闘へと突入した。‥‥そう、並行世界に迷い込んでしまった私達に協力してくれた、銀と青の剣の騎士(セイバー)とそっくり同じ姿をした黒い騎士と。

 

 まるで白黒反転して、ついでに真っ黒な絵の具をかけたような敵の姿。あまりにも禍々しく、それでいながら清冽な気を放つ姿は今まで相手した英霊達とは全く違っていた。

 体に纏うは漆黒の魔力。あまりにも量と密度が濃いために実体化した魔力は通常の魔力弾による攻撃を遮断し、なおかつ剣を振るえば剣圧にまとわりついて斬撃をまるで飛び道具のように飛ばすこともできる。

 理性を失っていると言いはしたけれど、その戦闘本能自体は健在だ。あまりにも冷徹な判断力がそのままであるがゆえに戦闘という局面に限れば理性があろうと無かろうとそれは大した差ではない。

 最初に接敵した私とルヴィアゼリッタは軽くねじ伏せられ、キャスターに止めを刺していたセイバーが戻ってきた時にはあと一歩で逆に私達が止めを刺されてしまうところだった。

 

 ‥‥そして、間に合ったセイバーと黒いセイバーとの戦いは、私達二人して張り合おうと考えたのがアホらしかったぐらいに現実味に欠けた、それこそ正真正銘次元の違う戦いだった。

 今までセイバーには二人の英霊を倒すために手伝いをしてもらった。ライダーとキャスターとの戦いは、片や獣のように戦うしか術がなかったためにいとも容易く不可視の剣に斬り伏せられ、片や最初こそ空中というコチラの手が届かない場所に陣取られての戦いだったために一方的に退却するしかなかった。

 しかし次の戦闘では私とルヴィアゼリッタが飛行術を会得。空に上って何とかキャスターを叩き落とし、セイバーに止めを刺してもらったのだ。

 どちらにしても肝心なのは、セイバーは全く本気というものを出しておらず、黒化した英霊も英霊というには不十分すぎる劣化した存在だったということである。

 私達は英霊同士の戦闘がどんなものか、本当に理解してはいなかったのである。ライダー、キャスターともに劣化した存在ではセイバーの本気を引き出すまでには至らなかった。あの時の目の前の黒く劣化した同一存在でやっと、青と銀の少女騎士の本気を引き出すことに成功したのだ。

 まさに一挙一刀足の間合いで繰り広げられる凄絶な剣舞。繰り出す一刀一刀が必殺の威力を秘めた斬撃で、それを互いに避けては弾き、今度は自分が必殺の斬撃を繰り出していく。

 目に見えない、という程に早いわけじゃなかった。どちらかといえば剣の騎士(セイバー)は速さを重視したクラスじゃない。どっしりと地に構え、悠然と眼前の敵を屠る存在だ。

 それでも互いに交わす刃の軌跡は、傍から見ているからこそ目視できる速さ。実際に正対してみたならば、一筋目を見切る間もなく斬り伏せられてしまうことだろう。

 それほどまでに圧倒的な威力と速さを秘めた斬撃による剣舞は果てしなく続くかと思われたが、どうやら二人ともこのままではけりが付かないと判断したらしく、互いに大きく相手と距離をとると、必殺の言霊を秘めた真名を口にした。

 

 

約束された勝利の剣(エクスカリバー)

 

 

 日本ではイギリスの名で親しまれる大ブリテン王国。西暦九百年ぐらいにその地でログレスという王国を治めていた若き騎士王が持っていた剣は、今も最上級の聖剣の代名詞として語り継がれている。

 それは人類のユメに応えて星が作り出した最上級の神秘。戦場で斃れ往く兵士たちが今際に夢見た勝利の幻想。

 人間の手でも、英雄の手でも、神の手でもない。私達が存在しているこの星によって生み出された最上級の幻想は、担い手に絶対の勝利を約束する最強の剣。まさしく英雄の中の英雄と呼ばれしアーサー王の宝具の解放に、私達二人は網膜が焼き付いてしまうことを覚悟で目を見開いた。

 黒い光と、黄金の光。黒く化してしまった暗黒の剣も、不思議なことに眩く輝く黄金の剣と同じく清冽で美しい光を湛えて冬木大橋の橋桁の下に作られた小さな公園を焼き尽くす。

 破壊をまき散らした二つの聖剣の激突はしかし、最終的には私とルヴィアゼリッタが与えた宝石を呑み込んでいた銀と青の騎士王の勝利で幕を閉じた

 

 

「何より、正直な話ですが二日続けて宝具を放つというのは私にもかなりの負担です。リンと一時的にパスを繋いでいる以上は魔力に不足はないのですが、どちらにしても一度放てば二発目からは『十二の試練(ゴッドハンド)』に無効化されてしまうことでしょうし‥‥」

 

「どうしたものかしらね。ここのままじゃ間違いなくジリ貧よ」

 

「四回までは、一度に減らす自信があります。リンにも負担をかけますが、全力で魔力を供給すれば六回までは何とか削れることでしょう。ですから‥‥」

 

「あと二回、何とかして削らなければならないということですわね。まったく、無茶な注文ですがやらないことには仕方がありませんわ」

 

 

 セイバーの発言を受けてルヴィアゼリッタが大きく嘆息する。

 本来のマスターであるこちらの世界の遠坂凛との契約のラインが何らかの理由で捻じれてしまっているらしいセイバーは、魔力の供給が普段に比べてか細いらしい。だから共闘する前に、私はセイバーと一時的にラインを繋げていた。

 そして戦闘中である今、私がルビーから供給される魔力の一部は常にセイバーに流れ続けている。霊格の高さからそれなりに予想はしていたんだけど、セイバーってばものすっごく燃費が悪い。私の魔術回路が生み出せる魔力の半分ぐらいが常に持っていかれている。

 だから私は残った半分の魔力を上手いこと運営しなければならないのだ。供給自体が無制限でも一度に動かせる魔力には限界があるからね。

 だからこそ攻撃の要自体はセイバーと、支援にルヴィアゼリッタ。私はさらにその支援とかなり非効率的な戦いになってしまっている。それでもコレ以外に方法がないのだから仕方がない。

 

 ‥‥あと二回。十二回の中のたった二回ではあるけれど、それがどんなに大変なことか。Aランクを超える攻撃なんて、本来なら普通の魔術師がやっていい魔術じゃない。死を覚悟して、それで漸く放つことができる大魔術だ。

 ルビーとサファイアの支援がある私達二人であろうと、魔力供給があろうと魔術回路を著しく傷つける。そして私達の魔力砲撃は、もうバーサーカーには通用しない。

 となると残り選択肢はごく僅か。私達がルビーとサファイアに頼らないAランクの攻撃をするか、セイバーが聖剣の真名解放以外の手段でバーサーカーを倒すか。もしくは———

 

 

「‥‥リン先輩、一回だけなら私にも策が無いこともありません。もし、お手伝いして頂けるならですけど———」

 

「桜‥‥?」

 

「ちょ、ちょっと桜! 青子さんじゃあるまいし、私達があんなところに突っ込んでいってどうするっていうのよ?!」

 

 

 私達の後ろに控えていた、青に近い髪の毛をした女の子が口を開いた。桃色の落ち着いた服を着て、髪とよく似た色の瞳をした私より少しだけ年上ぐらいの年頃の女の子。

 元の世界の私もよく知る容姿。私の学校の後輩だった、間桐桜という名前の———魔術師だ。

 

 あの日、私とルヴィアゼリッタがこの世界へと迷い込んでしまったあの日。私達二人は新都の中央公園で出会ったセイバーの案内で、この世界で私の弟子をしているというエミヤシロウの屋敷を訪れた。

 冬木でも住宅地が密集している深山町にポツンと立っている大きな武家屋敷。隣には冬木では有名な藤村組の屋敷がある、私が住んでいる遠坂邸よりも大きな家だ。

 そこで出会ったのは私達の世界では穂群原学園初等部の教師をしていた記憶のある藤村先生と、今私のすぐ後ろまで近寄ってきた間桐桜。そして彼女の隣で無謀な発言を考え直すように必死で叫んでいる彼女の姉妹弟子であるという黒桐鮮花さんだ。

 何でも桜と藤村先生は日常的にエミヤの屋敷に出入りして、今はこの世界の私と一緒にロンドンは時計塔に留学しているエミヤシロウの代わりに保守管理をやっているらしい。

 桜は先日、来年度から入学する時計塔へ手続きをしに行ってきた帰りなんだとか。鮮花さんは桜と一緒にロンドンに留学することになっているので、ついでだからと冬木まで遊びに来たということだ。

 ちなみに二人は同い年。桜は来年から時計塔に入るってことだから‥‥ちょうど高校三年生ね。ってことは何、今の私ってば桜の一つ年下ってこと? ‥‥なんか複雑ね。微妙に彼女の方が余裕ありそうな感じするし。

 

 

「かいつまんで話してくれるかしら———っと!」

 

 

 桜を突き飛ばしながら、突進を仕掛けてきたバーサーカーを回避する。すかさずルヴィアゼリッタとセイバーが相手をして、話し合いを始めようとしていた私達からバーサーカーの注意を逸らしてくれた。

 フィールドが狭いからライダー戦の時のように悠長に作戦会議をしているわけにはいかない。行動は迅速に。そのスタンスの下、私はいざとなったら壁になれるように物理障壁に回す魔力を最大にして素早く桜と鮮花さんに近づいていく。

 

 

「‥‥で、何か策があるの?」

 

「あ、はい。一回だけなら何とかAランクぎりぎりの攻撃が出来るかもしれません。でも溜めが必要なのと狙いが甘いので、どうにか動きを止めて欲しいんですけど‥‥」

 

「って、ちょっと桜、もしかしてアレをやる気? やめなさいよ! 橙子師にもまだ止められてるでしょ?!」

 

「でも鮮花、ここを何とかしないと先輩たちが帰ってこないし‥‥」

 

 

 この二人、私達の不審な様子をすぐに見破って問い詰めてきたので洗いざらい話してしまったら、すぐさま手伝うと言い出した。桜にしてみれば私じゃなくて本来の遠坂凛の方が好いのは当然で、目の前で言われたにも関わらず私は少し嬉しかった。

 私の世界の桜がどうかは知らないけれど、どうやらこの世界の桜は間桐の家を継いで魔術師として立派に修行を続けているらしい。最近は何でも元々は鮮花さんの師匠であった封印指定の魔術師に師事しているらしく、鮮花さんの話によると随分と腕を上げているらしい。

 まぁ時計塔に留学できるってだけで十分過ぎるほどに優秀であることの証明になっているわよね。こういうこと言うと自画自賛みたいになるかもしれないけれど、事実だから仕方がないわね。

 

 

「それ以前の問題で、私達がバーサーカーを倒さなかったら逆に殺されちゃうでしょう?」

 

「う、確かに‥‥。こんなに狭いと隙を突いて逃げ出すのも無理があるわよね‥‥」

 

「ちょっとそこ、友情を確かめ合うのは良いけど結論は早く出して頂戴な。あそこで戦ってる二人も、そう長くは保たないんだからね」

 

 

 セイバーは容赦なく私から大量の魔力を吸い取って自分の五体を強化し、ロケット噴射のようにして巨大なバーサーカ−の攻撃を受け止めている。けど、当然ながら魔力が無限でも体力は有限で、ついでにいうと常時大量の魔力を供給されている私の魔術回路にも限界はあるのだ。

 その後ろでセイバーの隙を援護しているルヴィアゼリッタの攻撃にしても『十二の試練(ゴッドハンド)』の前には大した効果を上げることは出来ない。対魔力と違って掻き消すというわけじゃないから衝撃が牽制にはなっているけれど、戦闘本能がしっかりとある分、じきに慣れてしまうことだろう。

 

 

「‥‥本当にやれるの? 貴女、前にも一度失敗して酷い目にあったじゃない」

 

「大丈夫、出来る。だって出来なきゃ死ぬのは私達だもの。リン先輩も、ルヴィアゼリッタさんも、鮮花だって死んじゃうもの」

 

「背水の陣ってわけね。まったく、本当に桜ってば肝が据わるとトンデモないことばっかりやるんだから‥‥」

 

 

 鮮花さんが困ったように、それでも何処となく嬉しげに溜息を漏らした。私が思うに、この子ってば私によく似ている。一か八かの博打は、それなりに勝算があるなら私だって望むところだ。

 がっしと鮮花さんと桜が手を組む。桜が鮮花さんの師匠に弟子入りしてからそう長いこと経ってないはずなんだけど、それでも二人の間にはそれこそ歴戦の友人同士のような信頼が透けて見えた。

 

 

「Es erzahlt 《声は遠くに》 Mein Sc hatten nimmt Sie 《私の足は緑を覆う》———!」

 

 

 慣れ親しんだドイツ語の詠唱と共に、桜の影が大地を離れて主の体を這い上がっていく。それは途中で幾筋もの切れ目をつくり、そこに桜の魔力が入り込んで赤いラインを作り上げた。

 まるで魔女か悪魔。私達が相手してきた黒化した英霊のように禍々しく、美しい。迸る魔力と共に銀へと色を変えた髪と頬に浮き出た文様もまた、妖しげな雰囲気を助長している。

 今まで傍で簡単な魔術で援護するだけしかなかったけれど、これが初めて見る「魔術師・間桐桜」の本気の姿。体から溢れる魔力は普段の私が生成出来る量をさらに越え、姿同様に恐ろしげな雰囲気を辺りへと撒き散らす。

 ‥‥感じる属性は、まさか虚数? 闇、なんてものじゃない虚ろな感触は、私の属性である五大元素(アベレージ・ワン)よりも更に希少で扱いが難しいものだ。

 

 

「いきます、リン先輩」

 

「‥‥そう。じゃあ足止めは私達に任せなさい。大風呂敷広げたんだから、せめて一回は殺してみせなさいよね———!」

 

 

 ルビーからの魔力供給を受け、魔術回路が最大限に回転する。足止めの要であるセイバーが要求するだけの大量の魔力を供給し、彼女の邪魔にならない位置でひたすら弾幕を張るために、魔力弾を作り上げる魔力を用意する。

 クラスカードの収集が始まってから連日連夜無理をさせていた魔術回路は悲鳴を上げるけど、自分の体なんだからと無視。大丈夫、たかが一週間かそこら無理したぐらいじゃあ私の体は壊れない。

 何よりも今は目の前の、私達が元の世界に帰るために為すべきことをしっかりと成し遂げることが大事! 向こうでもきっと、こっちの私が頑張っているはずなのだ。何より向こうが成功してこっちは成功しないなんてことはプライドに障る。

 いくらこっちの私が今の私よりも数年ぐらい年上だったとしても、それでも自分に負けるなんてのは真っ平御免だ。ましてやたかだか数年歳上っていうのに弟子なんてとってるようなヤツに負けたくはない。

 

 

「では行きますよ! 隙を見て合図をして下さいね———ッ!!」

 

「Azolt———!」

 

速射(シュート)ッ!!」

 

 

 セイバーが私からの魔力供給を受けて強く一歩踏み出し、咆吼を上げるバーサーカーに斬りかかっていく。続けて鮮花さんとルヴィアゼリッタが援護のためにそれぞれ全力で攻撃を始めた。

 ルヴィアゼリッタの放つ無数の魔力弾が足場を削り、セイバーが攻撃されようとすれば鮮花さんが放った特大の炎がバーサーカーの視界を塞ぐ。

 私は一時的に自動治癒(リジェネーション)を解除すると、親指の皮を歯で噛み千切って血を出させる。それを同じように傷をつけて血を流した桜の指と重ね合わせて魔力を交わすためのパスを作り上げた。

 こんな簡単な血のやりとりで出来るのはそれこそ一回の戦闘の余波だけで解れてしまうようなか細い繋がりだけど、今はこれが私達の命運を左右する。パスを通じて、Aランク魔術に匹敵する量の魔力が流れていく。

 

 セイバーへの魔力の供給と、桜への魔力の供給とで私の魔術回路は完全に手一杯。少しぐらいなら魔力弾ぐらい放てるかと思ったけど、絶え間なく入ってくる魔力と出て行く魔力で頭がクラクラするからそれどころじゃない。

 

 突如、背後で恐ろしげな魔力が上がる。虚数、だからという怖気じゃない。これは負の感情だ。どういう魔術かは分からないけど、桜が負の感情を解放している。

 背中を奔る怖気が増すと共に、桜から迸る魔力もまた量を増す。背後に、Aランクを越える魔力が私達を屠ろうと待ちかまえているのだ。あぁ、なんてこと、桜ってばこんなに凄い魔術師だったのか。

 悲鳴をあげる魔術回路に顔中から汗が流れ落ちる中、私は確かに背後の怖ましい魔力に頼もしさを感じて思わず口の端を歪めたのだった。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

「‥‥寒い。なぁ紫遙、さっきからずっとこうして突っ立ってるけど、俺達これからどうすればいいんだ?」

 

「だから、それを今こうやって考えてるんだろ? 正直俺だって途方に暮れてるんだから、勘弁してくれよ‥‥」

 

 

 冬木。冬という字が地名に入っている日本海沿いの地方都市は、冬が長いから冬木って言うだけで実際はそこまで寒い場所じゃない。どちらかといえば夏はとても暑く、冬は程々に寒い温暖な地域だ。

 それでもこんな夜中、しかも街路樹が見事に頭を下げてしまっているぐらいに風の強い夜中に外に立っていれば、どんなに防寒対策をしていても凍えてしまうのは当然。

 しかも今の俺達は来るバーサーカー戦に備えて戦闘装備。衛宮が着ている真っ赤な外套は魔術礼装としての防御力こそ高いけど防寒具としては殆ど効果を発揮しないし、俺が着ているジャケットだって袖をまくれば一年中でも着られるぐらいの適度な薄さだ。

 ‥‥今になって思ったんだけど、橙子姉が何処からか拾って来てくれたコレ、本当に軍用なのかな? それにしちゃどうにも薄い気がするんだけど。

 

 

「どう考えても無茶ぶりだろ、コレ。遠坂嬢もルヴィアも忙しいとはいえ俺達に丸投げだもんなぁ‥‥。そもそも始まる前に対策練っておくべきだろって話なわけで」

 

「気持ちは分かるけど愚痴るなよ紫遙。誰かが何とかしなきゃ、俺達は元の世界に帰れないんだからさ」

 

「分かってるって。いや、分かっててもさ、どうしろっていうんだよ、年端もいかない女の子の口説き方なんて知らないぞ?」

 

「そういうこと言ってるわけじゃないだろ‥‥」

 

 

 目の前に建っているのは比較的大きめの普通の一軒家。そして背後にはとても普通とはいえない大きさとグレードの大邸宅。

 俺達が前にしているのがこの世界でのアインツベルン邸で、後ろに建っているのがエーデルフェルト別邸だ。どちらも主が不在にしているためか、仄かな明かりだけを残してシンと静まりかえっている。

 片方の屋敷の主、つまるところイリヤスフィールの両親は仕事で海外出張中らしいし、もう片方の屋敷の主であるルヴィアは遠坂嬢と美遊嬢と一緒にさっき発生した鏡面界に行ってしまっていた。

 鏡面界に召喚される最後のサーヴァントは、侵入の段階で俺がいない以上は間違いなくヘラクレスになるだろう。ランスロットと比べてどちらが強敵か、なんて比べるまでもない。本来なら霊格の低い湖の騎士が召喚された方がよかったんだけど‥‥俺は、もう頭の中を覗かれたくなかったのだ。

 

 

「今、美遊は一人であのバーサーカーと戦ってくれてるんだ。俺達が頑張らなくてどうするんだよ?」

 

「‥‥あぁ、確かにそうだな。美遊嬢にばかり迷惑をかけるわけにはいかない」

 

 

 鏡面界に侵入したのは美遊嬢と遠坂嬢とルヴィアゼリッタ、それにバゼットの四人。そしてバゼットは何とか傷が治りはしたけれど、残念なことに彼女の宝具は特性上バーサーカーに対して殆ど効果を発揮しない。

 『斬り抉る戦神の剣(フラガラック)』はカウンター系の宝具であるが故に、遣う局面が非常に限られる。また、事実上相手に出来ない宝具や必殺技というのもまた多いのだ。

 その代表格が同じく因果を操る宝具である『刺し穿つ死棘の槍(ゲイ・ボルク)』であるわけだけど、同じくらい、いや、もっと相性が最悪な宝具として常時発動型の宝具がある。

 反面、一見相手が難しいように見える常に発動しているタイプの宝具は、実は『斬り抉る戦神の剣(フラガラック)』でカウンターを取ることが出来る。しかも任意で発動できるらしく、それだけ普通の宝具よりも御しやすいと言えるだろう。

 しかし、その唯一と言って良いほどに例外なのが、バーサーカーの持つ『十二の試練(ゴッドハンド)』。フラガラックは通常の宝具とは違って消費型であり、数が限られる。

 しかもバーサーカーには一度使った攻撃が二度通じないという特性があるが故に、たった一度きりの必殺技であるフラガラックは非常に相性が悪いのだ。

 

 故に、鏡面界でバーサーカーに対抗できるのは美遊嬢のみ。遠坂嬢とルヴィアも気合い入れれば『十二の試練(ゴッドハンド)』を抜けるAランクの攻撃を出来ないこともないと思うけど、今は並行世界に移動してしまったことで宝石が不足しているはずだ。

 何より、言っちゃ何だけど二人とも基本的に戦闘が得意じゃない。ある程度以上に戦えるのは二人の基本スペックが異常に高いからで、本来は戦闘に向いている魔術師じゃないのである。

 狙いの甘い二人がバーサーカーにAランクに相当する攻撃を当てることが出来るかと言われれば‥‥実際に流れ弾にも当たったことがある身としては非常に不安だ。いや、絶対に無理だと思う。

 仮に本気で当てるとすれば、それこそFateルートのアインツベルンの森でやったように、バーサーカーの間合いの中に侵入しなければならない。一度で殺せるならともかく、十二の命を持つ相手に対して捨て身の特攻を仕掛けるのはあまりにも無謀だ。

 

 

「考えてみればトンデモないな、『十二の試練(ゴッドハンド)』ってのは。概念武装っていうのはあんな化け物も含めちまっていいのか?」

 

「そもそもアレは概念武装というよりは祝福や呪いの類に近いよ。自動蘇生っていう概念から考えるに、ヘラクレスの逸話を差っ引いても呪いの方が正しいかもしれないな。

 それに、先ず最初の前提として“概念武装”っていうのは限られた局面においてのみ効力を発揮する武装だからな。衛宮には釈迦に何とやらかもしれないけど、宝具にしても礼装にしても、概念っていうのは決して無敵の神秘じゃない」

 

 

 正確に言えば宝具は概念武装じゃないかもしれないけれど、そうした一面も持っている。そして限られた一つの事象を引き起こすことに特化しているがために、決して最強とはいえないのだ。

 

 特に駆け出しの魔術師、もしくは生粋の魔術師にも言えることだけど、彼らは魔術や概念、神秘といったものを最上級のものであると捉えがちで危うい。

 俺にしたって魔術の担い手であることを非常に誇りだと思っているし、自分が神秘に選ばれた特別な人間であるという自覚もある。不用意に現代機器に頼りたくないと思っているのも、一般的な魔術師と同じだ。

 けど、だからといって魔術こそが至高のものであると疑いもなく信じているわけではない。むしろ逆だ。現代の発展した科学は多くの分野において魔術を既に追い越してしまっている。

 

 

「例えばさ、サーヴァントには神秘が含まれない攻撃は通用しないってのが一般論になってるけど、アレ嘘だから」

 

「え、じゃあ前に遠坂から聞いた説明は間違いだったってことか?」

 

「決して間違いじゃないけどな。誤解を生じやすいんだけど、サーヴァントにだって物理攻撃は効くよ。セイバーもタンスの角に足ぶつけて悶絶したり、熱すぎるスープ飲んで舌に火傷したりするだろう?」

 

「あ‥‥」

 

 

 例えば完全な幽体ならば、確かに物理攻撃、というよりも物理的な干渉は殆ど効かないといっても間違いじゃない。一般的な幽霊のイメージと同じように、どんな干渉も理が違う彼らをすり抜けてしまうのだ。

 対してサーヴァントは一時的ながらも物理的な干渉が出来るように実体を伴って現世に存在している。ましてや彼らは元は人間、生きていた時代の普遍的な常識に縛られている存在でもある。つまり、結論としては物理攻撃も効く存在なのである。

 

 

「ただ、物理攻撃じゃ彼らの霊核にダメージを与えることが出来ないんだ。そういう意味で、サーヴァントは例え核ミサイルを撃ち込まれても消滅してしまうことはないっていうことなんだよ。当然ながら相応の衝撃とか物理的なダメージは受けるだろうけど」

 

「そうか‥‥。まぁセイバーにそういう攻撃を当てられるヤツってのはそんなに多くないとは思うけど、注意しとくべきなのかな」

 

「あぁ。そして魔術師だって同じさ。魔術師が使える攻性魔術で、Aランクのものだって家一軒吹き飛ばすのが精一杯だ。それなら旧式の大砲一つで事足りる。ウィッチクラフトで作る栄養剤だって、コンビニに行けばガキの小遣いで買えるんだからね。手間暇とコストが段違いだ。魔術は、決して万能じゃない」

 

 

 魔術は結果で語られる。でも、究極的に結果のみで語るならば魔術よりも科学の方が遥かに便利だ。

 遠い場所に行きたいなら飛行機に乗ればいい。傷を治したいなら包帯を巻けば十分に魔術以上の応急処置になる。遠くの様子を知りたいならば、監視カメラなんて便利な代物もある。

 だから魔術で全てを語るのは、本当なら間違いなのだ。魔術とは結果を論ずるものであるけれど、技術ではなくて学問なのだから。結果自体を論じていては始まらない。

 魔術師は、ただ自分が魔術師であることに誇りを持てばいい。他を見下す必要も、他と比べる必要もなく、魔術を行使するというそれだけで俺達は魔術師なのだから。魔術師は孤高の賢人。そう言われる理由の一端はここにある。

 

 

「———って、何を暇持て余して喋くってるんだ俺達は。‥‥こんなことしてる場合じゃない。美遊嬢一人じゃ、いくらクラスカードがあるからっていっても十二回もバーサーカーを殺すのは無理だ。どうしても、イリヤスフィールの手助けがいる。俺達は何とかして、彼女を説得しなきゃならないな」

 

 

 衛宮と二人で明かりの点いた暖かな家を仰ぎ見る。ごくごく一般的な外観と雰囲気は、とても俺達の世界では千年を超える歴史を持つ名家であるアインツベルンの一族が住んでいる家だとは思えない。

 ‥‥こんな寒い中で野郎二人っきりで立ちつくしているのが寂しくなってしまうぐらいに、家の中は暖かそうだった。時折居間の方から聞こえる笑い声などは、本当に自分たちは何をやっているのかと思わされる。

 

 そもそも何故、俺達は美遊嬢達だけを鏡面界へと赴かせて、こんなところで暇を潰しているのか。いや、決して暇じゃないんだけど、それにしたって意味が分からない行動かもしれない。

 前述した通り、美遊嬢一人ではルヴィア達の手助けがあったとしても絶対にバーサーカーに勝つことは出来ない。彼女の実力を過小評価しているわけでも侮っているわけでも何でもなく、これは冷静な判断によって結論づけられた紛れもない事実だ。

 そして本来ならば彼女と対になって存在するだろうカレイドの魔法少女、イリヤスフィール。彼女は昨夜、俺が異常を来したアサシン戦において同じく異常を来して引きこもってしまっているらしい。いや、余裕なかったから詳しい話は正直さっぱりなんだけど。

 

 彼女自身に、戦わなきゃいけない理由も責任もない。遠坂嬢や俺達が勝手に戦いに引きずり込んだのは紛れもない事実だ。彼女にはわざわざ危険を冒して戦いに赴く義務はなく、俺達の行動は理不尽なものだろう。

 それでも俺達はどうしてもクラスカードを回収する必要があって、そして美遊嬢一人では絶対にバーサーカーに勝てないから、俺達は俺達のエゴで彼女を迎えにやって来た。

 俺達には彼女を戦場へ赴かせる何の権利もない。だけど、理由はある。だからこそエゴと言ったのだ。イリヤスフィールの事情に関係なく、俺達は俺達の理由によって彼女を鏡面界へと赴かせなければならない。

 

 

「‥‥でもさ、流石に俺も風呂に入ってる女の子のところに突撃する勇気もないぞ? いくら時間が無いって言ってもさ」

 

 

 夕食をとったイリヤスフィールが自室に戻るところを見計らって接触するつもりだったのに、なんと彼女はそのままダイニングで寛ぎ、あろうことかそのまま風呂に入ってしまったのだ。

 これではイリヤスフィールが風呂から上がるまではどうしても接触するわけにはいかない。これが遠坂嬢なら彼女が風呂に入っていようがトイレを使っていようが突撃したのかもしれないけれど、男である俺達では変態の汚名を被ってしまう。

 

 

「お前なら行ける———っと、流石に無理か。まったく、こういう待ちの姿勢もキツイな‥‥」

 

 

 エロゲ主人公たる衛宮なら‥‥と思ったところで現実味がないことに気がつく。ゲームでは確かにヒロイン三人+αから好意を寄せられていたかもしれないけれど、実際衛宮はそこまでモテるわけじゃない。

 確かに女の子に対して非常に気が利き、優しい。それに今時の若者とは思えない程に芯がしっかりしてるからか、見目は普通なのにどこはかとなく頼りがいのある男に見える。

 女の子に優しくしまくるからか遠坂嬢は心配してるけれど、実際たまにご近所とかで話を聞いてもそこまで危機感を煽られるような噂は聞かない。たいていが奥様方の『婿に来て欲しい』という世間話だけだ。

 とりあえず何処ぞのエロゲ主人公のような特殊時空が発生するようなことはないだろう。というよりも俺はこの、今俺が暮らしている世界で補正的なものは魔術や神秘が絡んだ現実的なもの以外は見たことがない。

 

 

「‥‥なぁ衛宮。お前がもし、さ、衛宮切嗣氏に拾われてなかったら、どうなってたと思う?」

 

 

 あまりに暇を持て余して生じた沈黙。俺はジャケットのポケットからすっかり皺が寄ってぐしゃぐしゃになってしまった、冬木に来てから購入した安物の煙草を取り出した。

 これまた油の残量が危険なライターで火を点け、大きく吸い込んだ煙を真っ暗な夜空へと吐き出す。青子姉が倫敦の露天で買ってくれた銀色のライターは、この二年ぐらいで傷だらけになってしまっている。

 とはいってもそこまで頻繁に煙草を吸っていたという意味じゃない。ことあるごとに、意味も用もなくカチンカチンと暇つぶしに遊んでいた俺が悪いのだ。

 

 

「‥‥そうだな、やっぱり普通の家庭で、普通の暮らしをして、普通に死んでたんじゃないかと思うぞ。きっと魔術師なんかにはならなくて、もしかしたら本当に普通に穂群原学園に入って普通に近場に就職して‥‥」

 

 

 俺の突拍子もない質問、それでも衛宮はじっくりと考えてから口を開く。まだまだ短い人生ながらもあまりにも普通じゃない生き方をしてきた男が口にしたのは、あまりにも当然でありながら、あまりにも今とはかけ離れた想像だった。

 感慨深げでありながら、その横顔は果てしなくどうでもいいことについて語っているかのようだ。あくまで事実を語っているようで、感慨といったものが感じられない。

 

 

「‥‥あぁそうだ、それでも結局どうなったかもしれないかなんて、今の俺達じゃ分からない。想像も出来ないよ、切嗣(オヤジ)に拾われなかったらどうなってたかなんてさ」

 

「似たような結果が‥‥目の前にあるのに、か?」

 

 

 時を遡ることが出来ない以上は俺達が“もしかしたらあったかもしれない”選択肢を観測することは出来ない。それは第二魔法の管轄で、少なくとも俺や衛宮では到達できない領域だ。

 しかし、俺達の前にはその第二魔法の一端が広がっている。かつて、もしかしたら採ったかもしれない選択肢の果て。あり得たかもしれない未来が俺達の目の前に広がっている。

 

 

「なぁ紫遙、俺はオヤジに拾われる前の記憶がない。だから、本当に俺は切嗣に拾われて二度目の人生が始まったって言っても嘘じゃないんだよ。それ以前のことは、今の俺には関係ない。あり得たかもしれない未来も、さ」

 

「それは嘘だぞ衛宮。たとえ本人が意識できていなくても、今までに過ごした年月は絶対に無くなることはない。お前を構成する要素の中に、無意識の内に入り込んでる。今のお前を作り上げてる基礎の一つだ。無くなった、なんてのは嘘だぞ衛宮」

 

 

 遠い瞳でアインツベルン邸を眺める衛宮に、半ば八つ当たり気味に口を開く。

 意識できない、自覚していない事柄はその当人にとっての事実ではない。しかしそれと同時に、自覚していない事柄が自分に影響を及ぼしているのもまた事実だ。言い換えれば、影響を受けていればそれは自覚しているという状況だと言える。

 意識する、っていうのはすごく難しい概念なのだ。魔術においても表の社会においてもイメージというものが非常に大事な要素であるのと同じように、意識、自覚という要素は下手すればそれだけで重要な事柄を左右しかねない。

 ‥‥なんてのは、正直全く意味がない話だ。というよりもこじつけに近い。俺は美遊嬢のおかげで何いとか踏ん切りが付いていないこともなかったんだけど、それでも心の平静を未だ取り戻せていなかった俺は、珍しくも泰然自若とした様子の衛宮にイライラとしてしまったのだ。

 あぁなんて情けない。自分の方が腕のある魔術師であるのをいいことにこんな論説とも着かない難癖をつけるなんて、とても普段の俺とは思えない行動だろう。‥‥なんて、情けない。

 

 

「だとしてもさ、関係ないよ。大事なのは“今の俺”だから」

 

「‥‥衛宮?」

 

 

 自己嫌悪に陥りかけて一人電信柱に頭を打ち付けて反省しようか悩んでいると、いつもは何処はかとなく困ったようにしている眉毛をきりりと引き締めた衛宮が月光をバックに俺の方を向く。

 赤い外套———赤原礼装を纏った衛宮の姿が目が慣れる一瞬の間だけ黒いシルエットとなり、唐突に吹いた強い風に巻き上げられた髪がオールバックのようになる。

 まるでその姿は、つい先日に俺の前に一時だけ現れた赤い弓兵のようで、俺は思わず目を瞬かせて言葉を失った。

 

 

「今まで俺がどれだけ後悔したとしても、これからどれだけ後悔するとしても、今の俺が揺らいでなければそれでいい。つまり、そういうことだよ。関係ないって切り捨てたわけじゃなくて、さ」

 

「‥‥‥」

 

「大事なのは、今の俺だ。今の俺が揺らいでいなけりゃ、これから先どれだけ迷ったとしても、とにかく今は一歩踏み出すことが出来る。立ち止まって悩み続けることもない。‥‥聖杯戦争とか倫敦の生活で、俺はそう学んだよ」

 

 

 目はすぐに薄い逆光に慣れて、俺の視界に入るのは赤い外套の弓兵ではなく、同じながらも一回りは大きく見える外套を纏ったよく知った友人の姿。

 俺より幾つか年下の友人は今までずっと未熟で、俺はずっと世話を焼いてやらなきゃと思っていた。しっかり者の遠坂嬢と違い、ひたすらに甘くて世間知らずな魔術使い。でも、手のかかる友人はいつの間にか一年ぐらいの間に急成長を遂げていたのだ。

 思わず一歩、後ずさる。それと同時に小さくなるはずの衛宮の姿は、相変わらず俺には大きく見える。本当に、何時の間にこれほど頼れる顔をするようになったのか。なんとなく、コイツが主人公である理由をもう一度思い知らされた感じがした。

 

 

「‥‥はぁ、まさか衛宮に説教されるような時が来るとは、ね」

 

「俺にって‥‥なんかその言い方気になるぞ?」

 

「気のせいだよ、ソレこそ文字通りな。まぁ礼ぐらいは言ってやる。ちょっと、気合い入ったし」

 

 

 また、衛宮はいつも通りの衛宮に戻る。外套に着られているかのようで、頼りがいがあるのはそうなのかもしれないけど、それでもいつも通りの衛宮だ。

 不思議そう、不満そうに首を傾げる友人から視線を逸らして苦笑する。俺は、いつも通りに笑えているだろうか?

 

 

「‥‥さて、そろそろイリヤスフィールも風呂から上がる頃だろ。何とかして彼女を説得する方法を考えないといけないな」

 

「どうしたらいいもんかなぁ‥‥。俺も、この世界のイリヤとは最初に会った時からあんまり喋ってないんだよ。遠坂がさ、こっちの世界の俺と鉢合わせしたり噂になったりしたらマズイからって家から出してくれないんだ」

 

「‥‥それ、軽く監禁だよな? ていうか確実に監禁だよな? 遠坂嬢も、やるなぁ‥‥」

 

 

 何気なく呟かれた衛宮の言葉に思わず背筋がぞわりとなる。当然ながら遠坂嬢にはそんなつもりはないんだろうけど、それでもそのシチュエーション自体はあまり外聞がよろしくないんではなかろうか。

 というか衛宮もよく了承するよなぁ、一歩間違えれば完全に人権無視なその待遇。いくら家政夫(ブラウニー)が性に合ってるからって、少しも家から出ないってのは中々にストレスが溜まるだろう。

 ‥‥まぁ遠坂嬢の言い分もよく分かる。彼女やルヴィアと違い、衛宮はよりによって冬木エーデルフェルト別邸の目の前に並行世界の当人が居を構えているのだ。下手に遠坂邸から出てくるところを見られてしまっただけでも、狭い冬木のこと、一両日以内にはご町内の噂の的だ。

 ただでさえ衛宮の住んでるアインツベルン邸って、衛宮以外の住人は全員女だもんなぁ。1:3の恐怖の同居生活。絶対にご近所様からは毎日珍獣を見るような視線を向けられているに違いな———

 

 

「あら士郎、こんな時間に家の前で何やってるの?」

 

「「———ッ?!!!」」

 

 

 風が止んで木擦れの音すらしなくなった静かな深山町に、突如美しい女性の声が響き渡った。

 音量としては大したものではないだろう。そも絶叫とかそういうものじゃなかった以上は、その音の大きさもたかが知れている。それでもなおここまで大きく聞こえたのは、その声の主の持つ存在感のせいだろうか。

 ちょうど並んだ衛宮と俺との一関係的には俺の側から聞こえた見知らぬ声に、俺も衛宮も緊張を滲ませながら、それでも相手が一般人だった時に備えて違和感がない程度の速さで振り向いた。

 

 ‥‥一瞬、俺も衛宮もハッと息をのんだ。

 そこに立っていたのは一人の女性。高貴な色とされる紫色の上品な衣服を纏い、最上質の銀糸のような細い髪の毛を風に靡かせた、それこそ絵画に填め込んでも違和感のない美女。

 まるで、女神だ。あまりにも美しく、人間離れした美貌は現実味すら失くさせる。まるで雪の女神が地上に舞い降りて来て、何の因果か儚く消えて無くなることなく現世を謳歌しているかのよう。

 いや、もし目の前の彼女が容貌相応の儚げな微笑とか無表情とかだったなら神秘的な雰囲気だってあったかもしれないんだけど‥‥。残念なことに、というよりかむしろ安心したぐらいなんだけど、彼女が浮かべた表情とは普通の女性———よりもかなり豊かなものだったのだ。

 

 

「もう夕ご飯は終わったのかしら? 隣にいるのはお友達? そういえばそのヘンテコな服はどうしたの?」

 

 

 ニコニコと満面に笑みを浮かべ、楽しげに体を揺らしながらスキップするかのような足運びでこちらに近づいてくる。二十歳過ぎを越えた成熟した女性のような外見を持ちながら、その言動はまるで子供みたいだ。

 全く警戒心を持たず、こちらが呆然としている間にいつの間にやら本当の目の前にまで近づいて来た彼女は、正真正銘衛宮の目と鼻の先にやって来て上から下まで体中を眺め回す。

 首を傾げるとさっき銀糸のようだと形容した長い髪がゆらりと揺れて、しゃらりと鈴が擦れるような音が奏でられたような気がした。

 

 

「んー、どんな用事か知らないけれど、いつまでも外に居たら風邪ひいちゃうわよ? お友達にも悪いし、家に入ったら?」

 

「え、あ、いや、俺は‥‥」

 

 

 自分に親しげに話しかける見知らぬ女性に、衛宮は対応を図りかねてしどろもどろになってしまう。そりゃいくら美人を見慣れた衛宮といえども、彼女の美しさはまさに破格。ついでに見た目と言動のギャップが更に動揺を加速している。

 ‥‥銀色の髪の毛に赤い瞳。そして何処かで見たことがあるような上品な紫色の服。今にも、下手すれば五歳も離れていないだろう衛宮相手に抱きつきそうな雰囲気。どれも、記憶の端に引っかかる。

 決して見たことがある、というわけじゃない。ただ、何となく引っかかるものがある。いつか見たようなものを忘れてしまっているような———

 

 

「あ‥‥アイリスフィール・フォン・アインツベルン———?!!」

 

 

 はた、と思わず口走り、俺は即座に自分が犯した過ちに気づいて意味がないことを知っていながらも急いで口を両手で塞いだ。

 もちろん既に時は遅し。口から出てしまった言葉は二度と口の中には戻ってくれないし、誰かに聞かれてしまった言葉を忘れてもらうわけにもいかない。衛宮が俺の言葉に驚愕して目の前の女性へと視線を動かし、反対に彼女は先程までの雰囲気を一転、眉をつり上げ真剣な瞳へと変えた。

 

 

「‥‥私のことを知ってる只の一般人、っていうわけじゃなさそうね。魔術師、かしら。それもアインツベルンの魔術師としての顔を知ってるとなると、生半可な魔術師でもないのかしら。腕前か、それとも属している組織か、どちらが物騒なのかしら‥‥?」

 

 

 まるでお花畑を背後に咲かせたような雰囲気から一転、魔術師の証である魔術回路を起動させたのか、彼女‥‥アイリスフィールの体から魔力が迸る。

 その魔力、尋常な量ではない。流石に全開時のセイバーとまではいかないだろうけど、遠坂嬢やルヴィアを遥かに上回る。単純に量だけを比べるならば、青子姉にも勝るだろう。

 そうだ、彼女こそがアインツベルンの家が生み出した聖杯戦争に供するためのホムンクルス。完全に小聖杯として機能することを求められて作られたイリヤスフィールには劣るとはいえ、その体は魔術師として十全以上の性能を発揮する。

 

 ‥‥だけど、それは俺達の世界での話だ。それも、俺が前の世界で手に入れていた確かでありながらひどくあやふやな知識によるものでしかない。

 この並行世界で聖杯戦争が行われているかは定かではないけれど、少なくともイリヤスフィール自身野意識として、彼女は間違いなく一般人だった。だから一般人じゃなかったのは彼女の知らない彼女の家、つまりアインツベルン本家。

 アイリスフィール・フォン・アインツベルン。俺達の世界とは異なり、衛宮切嗣と共に生存していた彼女こそが今回の事件に関わる大きなキーパーソンなのだ。俺は、今まさにそう確信した。

 

 

「それに、よくよく見たら士郎の着てるのって聖骸布? ‥‥切嗣が私の知らない間に何か教えてたってことがないなら———貴方、“私の知ってる士郎”じゃないわね?」

 

「———ッ?!」

 

 

 鋭い瞳が、今度は俺から衛宮へと向く。ほんわかとした最初の印象に反して、スイッチを切り替えた彼女は紛れもなく純粋な魔術師だった。

 衛宮共々、冷や汗が走る。回数は少ないながらも誰よりも濃い修羅場をくぐってきた衛宮と、生まれてこのかたとはいかずとも魔術師として一級の英才教育を、最上級の教師二人によって施されてきた俺が気圧されている。

 

 

「それにしても僅かな魔力、生命力の波長もウチの士郎と同じ。わざわざホムンクルスなんか作る手間があるとも思えないし‥‥。だとしたら、信じられないけど、貴方とウチの士郎は同一人物ってことになるわね。ふーむ、つまるところ一番可能性が高いのは‥‥もしかして貴方達、第二魔法の実証者だったりするのかしら?」

 

「———ハ、驚いた。まさかこの人がここまで頭の回る人だとは‥‥」

 

「どんな印象を持っていたかは知らないけれど、魔術師を一面から判断するのは愚の骨頂よ? ましてや女なんて普通の人間ですらいくつも顔を持っているものなんだから」

 

「‥‥おい紫遙どうするんだよ、マズイだろこれ」

 

「わかってる! あぁもう、慎重にやって来たつもりなのにここにきてこんなへまをするとは‥‥!」

 

 

 目の前の小柄な女性から発せられるプレッシャーは尋常ではない。アインツベルンの魔術、錬金術は戦闘には向いていないと聞くけれど、そんなことを頭の端に思い浮かべることすら出来ないぐらいの実力差を感じた。

 ‥‥並行世界の存在と接触する。特に、こちらが並行世界の存在だとバレてしまうことは一番に忌避すべきことだと俺達は最初に決めていたのだ。

 慎重に行動さえしていれば、避けられることであった。とはいえ避けられずにこうなってしまったことは仕方がない。

 考えろ蒼崎紫遙、今一番に考えるべきなのは一体何か。俺達がなすべき行動とは一体何か。

 

 

「‥‥事情を説明した方が、いいですか?」

 

「当然‥‥と言いたいところだけど。貴方、本当は説明したくないんじゃない?」

 

「そりゃ、そうですけど‥‥」

 

「ふふん、実はこっちでも大体の状況は掴めてるのよね。イリヤと、この街が大変なんでしょう? 任せときなさいな、子供の世話は親の仕事よ。実は私ってば、そのために帰ってきたのよねー」

 

 

 ‥‥うん、まぁ、ちょっとビックリ。並行世界の存在なんてトンデモな代物を目の前にして、説明がいらないなんてのもまたトンデモな人だ。あまりにも予想外の返答に、俺の頭は停止してしまった。

 もちろん決して悪いことじゃない。こちらとしては情報を出来る限り漏らすべきではないのだし、今は時間がないこともまた事実なのだ。

 お互いに利害が一致している、というべきなのか。それでいながら不利なのは俺達には変わりなく、冷や汗をこっそりと拭いながらも俺は隣の衛宮と一緒にこれから先どうするのか、心底動きあぐねていた。

 

 

「まさか俺達は監視されていた‥‥?」

 

「そんなことないわよー? そうね、これはいわゆる“母親(ママ)の勘”かしら。魔術師的に言えば、血の繋がってる私とイリヤの間には精神感応が働いてるってことなんだけど」

 

「‥‥血の繋がってる、ね。それだけとは思えないけど‥‥今はどうでもいい、か」

 

「えぇ、どうでもいいわ。私はね、貴方達に私達に必要以上に干渉するつもりがないならそれでいいのよ。今日は何か迷ってるとか、困ってるらしい娘の背中を押しに来てあげただけ。事情はよくわからないけど、それでも今背中を押してあげなきゃってことだけは分かるのよ」

 

 

 寒空の下、雪の女神が楽しげに笑う。魔術師としての姿と普通の母親としての姿が重なり、俺も衛宮も思わず顔を見合わせて困った風な表情を作ってしまった。

 あまりにも調子が狂う。なんだかんだで行動が予想しやすい青子姉とも違う、完全なまでにアンノウンな人物は初めてだ。

 多分、衛宮も初めてなんだろう。俺にはさっぱり分からないけれど、きっと衛宮も藤村先生の行動ってのを大概予想できてるんだろうし。

 

 

「じゃ、私はもう家に入っちゃうわね。イリヤの背中は押してあげるから、後のことはよろしく頼むわよ? ‥‥くれぐれも、怪我させたりしないこと。それぐらい約束してもらえるわよね?」

 

「‥‥正直、どうして貴方がそこまで俺達を信用してくれるのかさっぱりだから約束はしかねるんですけどね?」

 

 

 ぴったりと衛宮にはりついていたレディ・アイリスフィールがアインツベルン邸の玄関へと足を向ける。振り向き様にまるで教師が生徒にするかのように言い放たれたお約束に、俺は何故か毒気を抜かれて呆れたような声を漏らした。

 何が起こっているかも大して把握してないくせに、初めて会った見知らぬ魔術師に娘を預けられるものなのか? そも魔術師ならば、今冬木で起こっている事象について多少なりとも情報を引き出そうとしないものなのか?

 そのトンデモな姿勢は魔術師としても一般人としても、普通の母親としても異常なことなのではないか。最近予想外の事柄が起きすぎて摩耗しつつあるらしい頭が、疑問符ばかりで埋められてしまったような気がする。

 

 

「なーにを今更言ってるんだか。だって今までイリヤが貴方達のことを信用してついてたんでしょう? だったら私は貴方達を信頼している、私の娘を信じるわ。そして何より———」

 

 

 もう一度、彼女はこちらへ歩いて来て衛宮の目の前で立ち止まる。

 そしてその白魚のような細い細い人差し指を、今度はまるで起き上がりこぼしにするかのように衛宮の額に押し当ててツンと突いた。

 悪戯っ子のような目つきに、衛宮はぱちくりと目を見開いて驚いてみせる。どうやら相当に接近されていたのが何かの琴線に触ったらしく、突かれた額を抑える手まで真っ赤になっているようだ。

 

 

「世界は違っても、私の息子が一緒にいるんだもの。これ以上信用できる人間はいないわ」

 

「———俺が、ですか‥‥?」

 

「もう、敬語なんてやめてちょうだい。貴方がどういうつもりか知らないけれど、私にとっての貴方は間違いなく息子以外の何者でもないわ。迷惑かもしれないけれど、しょうがないじゃない。私としては頷いてくれると嬉しいわねー」

 

 

 クスクスと笑う彼女は、本当に悪戯好きの妖精のよう。神秘的な仕草よりも彼女の美しさを際だたせているかのようで、この世で一番の美人を義姉に持っていると公言して憚らない俺ですら、不意打ちのようなその仕草に衛宮と同じく顔を朱に染めてしまった。

 

 

「じゃあ私は行くから、後はよろしくね。間違ってもウチの士郎とか、セラやリズには見つからないようにねー!」

 

 

 一通り俺達をからかって気が済んだのか、レディ・アイリスフィールは今度は振り返りもせずに玄関の鍵を開けて中に入っていく。

 残されたのは俺と衛宮、先程までと同じく寒風吹きすさぶ中に野郎が二人っきり、寂しく突っ立っている。

 俺はまるで突風のように去っていった彼女との温度差に思わず溜息をついて、隣に立って無言のままの衛宮へと視線を移した。

 

 

「やれやれ、とにかく今は彼女がイリヤを何とかしてくれることに期待した方がいいのか‥‥。なぁ衛宮?」

 

「あ‥‥うん、そうだな‥‥」

 

 

 いつも通りの同意の返事を求めたはずが、衛宮は呆然と何かを考え込んでいるかのように目の前を向いてぼんやりとしたままだ。

 どこはかとなく不審な様子に俺が怪訝な目で顔を覗き込むと、ハッと今意識が戻ったかのように体をビクンと震わせ、照れ隠しのように頭の後ろをガシガシとかいた。

 

 

「なんか、さ、もし俺にもか———いや、なんでもないや」

 

「‥‥? 変なヤツだな、もしかして並行世界への移動の影響がこんなところで現れたか?」

 

「んなわけないだろ! そんなんならとっくに影響出てるに決まってるだろうが!」

 

「こら大声出すなって。中の人たちにバレたらどうするんだよ?!」

 

 

 寒々しい風は相変わらず、俺達はさっきまでの陰鬱とした雰囲気はどこへやら、まるでガキのようなやりとりを繰り広げる。

 気がつけば風呂場の方からは姦しい声が上がっていて、おそらくはレディ・アイリスフィールがイリヤの入っている風呂に問答無用で突入したのだろう。背中を押してやると言ったのは、間違いじゃないみたいだ。

 きっと今も遠坂嬢やルヴィアや美遊嬢は、鏡面界で戦っている。こうやってじゃれ合うのも結構だけれど、何とかして早いところ合流してやらなきゃな。

 

 この街で起こっている非常識で物騒極まりない事件のことなんか嘘のように美しく瞬いている澄んだ星空を眺めながら衛宮の愚痴を横耳に流し、俺はそう思ったのであった。

 

 

 

 65th act Fin.

 

 


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