UBW~倫敦魔術綺譚 (未改訂版)   作:冬霞@ハーメルン

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新年度の多忙さで随分と空いてしまいました、申し訳ありません!
型月エイプリルフール企画、楽しかったですね!実は倫敦も一応こっそりとTwitterを使って企画をしていたりしました。
ちなみに今は改訂版の執筆と共に、驚きの番外編をご用意しております。執筆完了しましたら、すぐに投稿いたしますので、どうぞ今しばらくお待ちくださいませ!


第六十八話『漂着者の絶望』

 

 

 

 

 side EMIYA

 

 

 

「‥‥なぁ遠坂、色々と気になるのは分かるけど落ち着けって。そんなことしても何もならないぞ?」

 

「分かってるわよそんなこと。‥‥ただ、じっと思考をまとめるのって苦手なのよ。何か作業をしてたほうが考え事が捗ることってない?」

 

「いや、確かにそれは分かるけどさ」

 

 

 たとえば俺で言うなら土蔵でのガラクタいじりとか、何かで悩んだり行き詰ったりしている時には別の何かでカラダだけでも紛らわせた方が気分転換になったり、発想の違いが生まれたりすることは多々ある。

 確か同じクラスだった後藤君が昔言っていたな、『逃避エネルギー』だっけ? 何かやらなきゃいけないことから逃避して別の作業をしたとき、その作業を普通にする時よりもはるかに捗ったりすることがあって、そこに生じているエネルギーをそう称するんだと熱弁していた。

 ちょっと言わんとしていることが違うような気がするけど、何と無く納得できる気がする。物理学みたいに例える必要は無いと思うんだけど、確かに何かが生まれていることだけは間違いない。

 

 

「色々と考えることが多すぎるのよ。一つぐらいならそ知らぬ振りして考えることだって出来るのに、可及的速やかに対処しなきゃいけない懸案事項がいくつも平行してあるっていうんだから、もう私のオーエスはヒートアップ寸前だわ!」

 

「遠坂、それを言うならOSじゃなくてCPUだ」

 

「わ、分かってるわよ! ちょっと冗談言ってみたかっただけじゃない!」

 

 

 パソコンなんて全然出来ないくせに小難しい例えを使って自爆した遠坂は、さっきからずっと延々コツコツと硬質な音を立てながら指先の綺麗に整えられた爪でプラスチックに似た人口素材で作られたテーブルの表面を小刻みに叩いている。

 いらいらしている、というわけでもない。遠坂自身が言ったように、ただ思考に集中するために規則的にカラダを動かすことでリズムを作っているのだ。

 単調な作業、完全な静止なんてものは昔から思考の集中に利用されてきた。日本で言うなら座禅とか、延々とお経を唱えたりすることもそれに含まれる。

 もちろん最初からそういうことを考えて始めたわけじゃないだろう。きっと俺の言葉に反論するために咄嗟にとってつけた言い訳だ。まぁ、気にするところじゃないけど。こういう扱い方もそろそろ慣れたもんだしな。

 

  

「でも遠坂、気持ちは確かに分かるけど目立ってるぞ」

 

「え?」

 

 

 他人には分かりづらい遠坂の真意。学校の連中然り、一成然りと良くも悪くも誤解を生みやすい遠坂の態度の奥に隠された、遠坂が本当に言いたいことに気づけるようになった俺はいい。

 けどさ、当然ながら初対面とか、あまり深い付き合いをしていない人たちにとっては別。

 そして今、俺たちがいる大英博物館のカフェテリアには、それまた至極当然のように互いに互いのことを知らない、というよりも気にするつもりすらない赤の他人が大量に徘徊しているのだ。

 

 

「‥‥そう、ね」

 

「だろ?」

 

 

 大英博物館は世界に名高い大英帝国‥‥つまりイギリス、もしくはグレートブリテンおよび北部アイルランド連合王国なんて長ったらしい正式名称で呼ばれることのある国の、代表的な観光場所だ。

 世界でも一番‥‥っていうわけではないらしいんだけど、五本の指に入るぐらいには有名な博物館だから、とにかく外国人がたくさん歩いている。‥‥まぁ、欧米人の国籍なんて見ただけじゃわからないけどな。

 その中にも数多く紛れ込んでいる東洋人。おそらくはそのうちの半分以上が日本人だろうけど、その中においても堂々と、まるで大英博物館の主です、というような顔をしてカフェテリアの華奢な椅子に座っている遠坂はそれだけで目立つ。

 国籍によって美醜の基準って違うと思うんだけど、その中でもセイバーやルヴィアや遠坂は間違いなく誰に聞いたって、どこの国の人に聞いたって美人だという返答が返ってくることだろう。

 その百人が百人頷くだろう東洋系の美少女が、同じく誰でも分かるだろう不機嫌でイライラとテーブルをコツコツ叩いているのだ。嫌がおうにも周りの注目を集めていた。

 

 

「はしたない真似はやめてくださいな、ミス・トオサカ。一緒にいる私やセイバーの品性まで疑われてしまうではありませんか、みっともない」

 

「‥‥そういうアンタだってさっきから紅茶にティースプーン突っ込んでぐるぐる回してるじゃないの。ちょっとクロスに飛んでるわよ。それこそアンタの言うはしたない真似そのものじゃない」

 

「こ、これはちょっと紅茶が冷えてしまったから砂糖の溶け方がよろしくないせいですのよ! 別に貴女と同じように動揺したりなんかしておりませんわ。えぇ、絶対に!」

 

「相っ変わらず分かりやすい奴よね、ルヴィアゼリッタも‥‥。そんなんだからミス・ブルーに散々いじられて玩具にされたりするのよ」

 

「‥‥他人事だと思っていると、後で痛い目に遭いますわよ、ミス・トオサカ?」

 

「‥‥‥‥」

 

 

 それなりに広い、四人掛けの四角いテーブルに座っているのは定員ぎりぎりいっぱいの四人。俺とトオサカ、ルヴィアとセイバーの、冬木へと調査に赴いたメンバーだ。

 ただしバゼットは報告を兼ねた仕事があるといってさっき俺達にしきりに頭を下げてから何処かへ行ってしまったし、最後の一人の紫遙は以前として行方が知れない。お姉さんの言った通り、無事ならいいんだけどな‥‥。

 

 冬木に突如として現れた謎の魔術具、クラスカード。それらの回収と事態の大雑把な調査を依頼された俺達は、現実的に予想した最悪の展開こそ免れたとはいえ、まったくもって予想の範疇から外れた事態に遭遇して倫敦、時計塔へと戻ってきた。

 七枚のクラスカードは、バゼットが最初に取っておいてくれた分も含めて全て回収出来た。誰かが怪我したり、誰かが死んでしまったりしたわけでもない。

 でも‥‥今ここにいない二人の仲間の内の一人、俺達の友人である蒼崎紫遙は、この事件で心の大きな傷を負ってしまったらしい。ふらりと俺達の前から消えてしまった紫遙は、いったい何処へ行ってしまったのだろうか。

 

 

「‥‥はぁ、ホント考えることが多すぎて困るわ。いくら冬木で起きた事件自体は収束したっていっても犯人には逃げられちゃったわけだし、クラスカードも奪われちゃったから調査も出来なかったし、蒼崎君はあんな調子だし‥‥」

 

「確かに、あの魔術具を回収できなかったのは痛かったですわね。協会の方へ証拠物品として提出する前に私達でいくらか調べることが出来たかもしれませんでしたのに‥‥。

 これではいくらミス・トオサカに自分の管理地で起こった事件を解決するという義務があったとはいえ、まるで骨折り損のくたびれ儲けですわ。それはまぁ、大師父への弟子入りという約定は果たして頂けるようですが、やはり私としてはどうにも納得できません。ましてやショウがあの調子では‥‥」

 

 

 俺たちが冬木の調査を命令された主要な理由は、おおまかに分けて二つある。

 一つは現地に派遣した、時計塔が保有する武装集団としては一級のものである執行者の部隊が壊滅してしまったことにより、魔術協会総本山の中で即応できる最大戦力が、聖杯戦争の勝利者であり英霊をサーヴァントとして従えている遠坂であったこと。

 そしてもう一つはこじつけの、依頼に正当性を持たせるためだろうとは思うけど、事件が起こったのが遠坂が管理者(セカンドオーナー)として治めている管理地であったということだ。

 もっとも本来ならいくら管理者(セカンドオーナー)とはいえ学生である遠坂にこのような危険極まりない任務が与えられるのもおかしいというのがルヴィアの話なんだけど、その辺りは事件を耳にした宝石翁‥‥遠坂とルヴィアの魔術の祖である魔法使いの思惑があったらしい。

 

 ルヴィアが口にしたように、とても学生に命ずるとは思えないこの危険な任務に対する報酬も、大体二つくらい。

 まずこの任務を受けさせるための‥‥悪くいえばエサとして用意されたのが魔法使いへの弟子入りという大きすぎる報酬。いうなれば高校の運動部で練習していた生徒が、いきなりオリンピック選手のコーチをするかのような一流の講師につくことが出来るようなものなのだろうか。

 俺はそういうのよくわからないから漠然とした例えしか出来ないんだけど、とにかく遠坂たちにとって宝石翁、キシュア・ゼルレッチ・シュバインオーグへの弟子入りというのは願ってもいない、それこそ一生に一度の大チャンスだったようだ。

 なにせ生粋の魔術師たる二人が目指すのは全ての魔術師の目標地点である“根源”。そして根源へといたる最も代表的な方法である、魔法の習得。第二魔法の使い手である宝石翁に師事できるならと、一も二も無くとびついた。

 

 

「シェロやセイバー‥‥今はここにいませんがショウなどは、いくばくかの謝礼を受け取っただけではありませんか。あれだけ危険な任務から無事に生還してあれだけの端金とは‥‥まったく協会の懐度胸もたかが知れていますわね」

 

「あれだけって‥‥ルヴィア、あれ結構すごい金額だったと思うぞ。少なくとも遠坂の浪費癖を考えても一ヶ月は無収入で生活できるし」

 

「リスクに対してリターンが少なすぎると、私は言っているのですわ。‥‥まさかミス・トオサカ、二人の分の謝礼を巻き上げて研究費用にしていたりはしていませんこと?」

 

「そ、そんなことしてるわけないでしょ?! ‥‥えぇ、ホントのホントに!」

 

 

 ルヴィアの鋭い突っ込み遠坂は狼狽しながらも何とか否定の言葉を口にするけど、実際のところ、俺たちが稼いだ金の大部分は生活費へと計上されているからルヴィアの指摘もあながち間違いではない。

 確かに遠坂も臨時講師を度々引き受けているし、セイバーのアルバイトもここ半年以上ずっと続いている。俺がルヴィアの屋敷で執事として働いている給料もそれなり以上、というよりは紛りなりにも専門職に数えられる執事という仕事に俺のような若輩者がいながら、あの給料は異常だ。

 

 

「まぁ実際、凛の扱っている宝石魔術には尋常じゃない資金が必要になるものですからね。私もこちらに来て家計簿を担当し始めましたが、こうして家計のやりくりをしていると頭を悩ませるものがあります。

 王として国を率いていた時にも戦の際の資金繰りには苦労したものですが、ただでさえ収入と支出の割合がつりあっていない今はあの頃以上ですよ」

 

「まぁそういうなよセイバー、ルヴィアも。遠坂の研究が評価されれば助成金も出るらしいし」

 

 

 若い三人が、まぁ偽造パスポートがあるとはいえ外見年齢が非常に低いセイバーは好意で雇ってもらっているがためにさほど高い給料をもらっているわけではないけど、それでも俺たち全員が頑張って働いていても、我が家の経済状況はそこまで好転していない。

 もちろん食うのに困っているとかいうわけではなくて、単純に遠坂が十分に研究をするための資金が足りていないだけだ。それなら問題ないとか言う奴もいるかもしれないけれど、やはり魔術の勉学のためにロンドンへと来ている以上は優先してしかるべきである。

 客観的に見れば被害を蒙っているともいえる俺もセイバーも、遠坂の研究が滞るのはよろしくないと考えている。ただでさえ俺は遠坂のオマケみたいなもんだし、セイバーは形式的には使い魔(サーヴァント)だしな。

 

 

「やれやれ、ここまで師匠を思いやってくれる弟子と使い魔(サーヴァント)を持てるとは、ミス・トオサカは幸せ者ですわね。私も一度しっかりと弟子を取らなければ‥‥」

 

 

 魔術師は必ず弟子をとるわけじゃない。というよりも基本的に魔術とは一子相伝の技術であり学問。個人個人、家系によって千差万別。というよりも魔術を行使するための魔術回路自体が形成する際に大きく個人差が出る代物だから、自分の技術をそのまま伝えるというわけにはいかない。

 時計塔の中で教授が学生に対して個人講義を行うなどは師匠と弟子の関係とはまた別で、あれは決して教授が学生に対して自分の持っている技術を教えるような関係ではないのだ。

 本来ならば魔術師にとっての弟子とは血の繋がった我が子。もしくは少なくとも血のつながりがある跡継ぎである。遠坂と俺との関係も、正直に言えば時計塔でもそこまでメジャーなものじゃない。

 

 とはいえ遠坂やルヴィアはまだ二十歳前後。生まれてくるだろう子供に魔術を教えるのは随分と後の話だろうし、それまでに身の回りの世話をしてくれる従者を兼ねた弟子をとるというのは悪い話じゃないだろう。

 ルヴィアにしたって身の回りの世話自体はあの屋敷のメイドや執事さんがやってくれるけど、彼らは神秘の存在を理解はしていても魔術師じゃない。助手としては不適格だ。

 そういうことを考えたのか考えていないのか、ルヴィアは少し寂しげな貌をして唇の端を緩めた。

 

 

「‥‥ねぇルヴィアゼリッタ、もしかして貴女、美遊を置いてきたこと今でも悔やんだりしているの‥‥?」

 

「遠坂」

 

「‥‥‥‥」

 

 

 怖ず怖ずと切り出した遠坂の言葉に、ルヴィアは少しだけ眉の端を下げると目線を落とす。

 あからさまに話題に出すのは明らかに憚られる切り出しに遠坂も不安そうにしていて、俺も諌めようと思った端から言葉に勢いが無くなった。

 

 

「‥‥仮に私が悔やんでいたとして、それでどうしろというのですか? あれは仕方のないことでした。他に手段が、なかったのですから」

 

 

 ほんの数日前に俺たちを襲った不思議な出来事。

 被接触者の記憶を触媒にして、鏡面界という次元の狭間に作られた空間へと英霊を召還する規格外の魔術具、クラスカード。

 そのクラスカードが想定外の反応を示したのか、俺たちは侵入した鏡面界から脱出するときに自分達が元いた世界ではなく、全く別の平行世界へと迷い込んでしまった。

 もしあそこで誰かが何かをしたら、しなかったら。単純な話にするとそういうことの積み重なりで生まれる全く別の因子が支配する世界の中で俺たちが出会ったのは、俺たちの記憶では死んでしまっていたはずの雪の少女と鴉のような髪の少女。

 様々な要因が重なって仲間になった二人の少女、特に孤児だったところをルヴィアに拾ってもらった美遊は向こうの世界に置き去りになってしまっている。

 

 雪の少女、イリヤは向こうの世界に家族がいた。元々無理やりに近い形で俺たちの手伝いをしてもらっていた関係もあって、色々な蟠りはともかくすっきりと別れることが出来たと思うのは俺の身勝手なのかもしれないけれど。

 でも‥‥孤児院の出身で、俺たちの知っているコチラの世界のルヴィアが養子として引き取った美遊。美遊・エーデルフェルトは本来ならば一緒に連れてくる、というのが筋だったのかもしれない。

 ルヴィア自身、そう思っていたはずだ。俺たちがいたアノ世界が平行世界で、自分達が暮らしている世界とは別の場所だと知った後でだって、ロンドンのエーデルフェルト別邸に連れ帰って弟子として育てると公言して憚らなかった。

 

 

「あの場でミユ一人のために残ることは出来ませんでした。私達は大師父からの任務を達成するために、どうしても元の世界へ帰らなければいけなかったのです。ならば‥‥魔術師として決断することはなんら不思議なことではありません」

 

 

 だけど、最後の最後でルヴィア、いや、俺たちにも一つの誤算があった。

 俺たちが元の世界に帰るためには大師父謹製の魔術礼装であるカレイドステッキという、二つのステッキによって次元に穴を開けなければいけなかったんだ。そしてソレを行うのは当然ながらイリヤと美遊の二人。更に、これを行う奴は、一緒に並行世界へと転移することはできなかった。

 俺たちが元の世界に戻るには、美遊を置いていく必要がある。だからこそルヴィアは苦渋の決断として、あっちの世界のルヴィアに美遊を任せてこちらへ帰ってきたのである。

 

 

「なんら不思議なことではありませんが‥‥不本意であったのは紛れも無い事実ですわ」

 

「あぁ。今頃、美遊は何してるのかな‥‥」

 

 

 最後に、第二魔法を習得して必ず俺たちに会いに来ると叫んだ美遊。魔法なんてものが簡単に習得できるなんて誰も考えてはいないだろうけど、それでも叫んでみせた美遊の決意は俺たちにも伝わってきた。

 だからこそ心配する。あの後、無事に向こうの世界のルヴィアに引き取られることができたかどうか。あの後、俺たちが遭遇したかのような敵に遭ってしまうことはなかったかどうか。

 もちろん心配したからといって俺たちに何かができるというわけでもないかもしれない。でも、それでも心配になってしまうのは、やっぱりあの子達に俺たちがどれだけ世話になったかってことなんだろう。

 

 

「さて、私が向こうのオーギュストに渡した手紙がしっかりと機能しているならば、今頃は向こうの世界の私に引き取られて魔術師として修練をしていることでしょう。

 まさか私も、別の世界で別の育ち方をしたとはいえ自分が託された子供を切って捨てるような人間に成長しているとは思いたくありませんしね」

 

「だといいんだけどな‥‥」

 

「大丈夫よ。向こうの世界だろうとこちらの世界だろうと、似通った並行世界ならば魔術師の在り方だってそうそう変わったりはしないわ。それが自分にとって有益だと判断したなら、ためらうことなんてないはずよ。ましてや並行世界の自分がそう判断していたっていう前例があるならば、私だって捨てたりなんかしないわ」

 

「貴女にそう言われても安心できる要素にはならないのですが‥‥。まぁ、悪くはありませんわね」

 

 

 またもや、当然の理であるかのように必ず冷めてしまっているカップの中の飲み物を、全員で口に運んで一息ついた。もしかしたら俺たちはもうこのカフェテリアで温かい飲み物を頼むべきではないのかもしれない。

 不思議と俺たち四人が座っているテーブルの前後左右、つまるところ一ブロックづつ周囲に客は座っていない。別に人払いの決壊を張ったとかそういうことじゃなく、おそらくは俺以外の三人に近寄りがたいオーラが漂っているからだろう。

 特に四人が四人とも、陰鬱で思いつめた雰囲気を纏っているとなるとなおさらだ。それなりに重要な議題でありながら半ば現実逃避じみた話から、俺たちは最初の議題へと会議を軌道修正した。

 

 

「‥‥さて、それよりも今の問題は———」

 

「えぇ、ショウについて、ですわよね‥‥」

 

 

 一斉に全員が沈黙し、辺りに独特の空気が立ち込める。そもそもイギリス屈指の観光名所である大英博物館のカフェテリアは様々な国籍を持つ観光客が大量に談笑しているような空間で、今みたいな空気が流れるようなことはない。

 観光客以外の職員や学芸員なども利用はするけれど、どちらにしても大英博物館で勤務するような人たちだからか、誰も彼も情熱というか、日々を生きる希望にあふれて生き生きしているのだ。

 一瞬で立ち込めた気まずい、というよりはおそらく他の人たちまで重苦しい気分になるような空気は早々ない。‥‥とはいっても、こうして分析してる俺だってこの空気をどうにかする方法を知ってるわけじゃ、ないんだけどな。

 

 

「あのお姉さん‥‥ミス・ブルーの話が本当なら今、蒼崎君は自分の工房の中にいるらしいわね」

 

「とはいえ先ほど行ってみたところ、ウンともスンとも反応はありませんでしたわ。おそらくは、やはり居留守を決め込んでいるか、もしくは反応出来ないほどに憔悴しているか‥‥」

 

「どちらにしても長いこと放っておくわけにはいきませんね。私は向こうの世界での様子を直接見たわけではありませんが、あのショーの調子では遠くない内に体を壊してしまいます」

 

「ただでさえ無精気味だからね、蒼崎君は‥‥」

 

「放っておくと一週間でも二週間でも工房に籠もっているのは魔術師として普通ですけれどね」

 

「でもあそこまで追い詰められてる状況じゃあ憔悴するのも早いはずだぞ。最終手段として、無理矢理に連れ出すことも考えなくちゃな」

 

 

 紫遙は俺たちみたいに時計塔の外に住居を定めているわけじゃない。高位の魔術師とか部門の長とか教授とか、魔術協会に所属する重要人物達のために時計塔が作ったスペースに工房を構えて、そこに住んでいる。

 とはいっても当然ながら、実技はともかく研究面では次席候補とも言われるぐらいに優秀な紫遙だからって自分の工房を時計塔の中、それも最深部に近いぐらいの重要地区にもらえるはずがない。あれは何でも、魔法使いであるお姉さんのために用意されたものだそうだ。

 アイツの話によると、さっき会ったアノくせ者そうなお姉さんは魔術師の到達点である魔法使いのくせに工房を必要としていないらしい。半人前未満の俺にだって研究、というよりは修行するための場所が必要だというのに。

 基本的に世界中をフラフラしているお姉さんの使っていない工房を貸して貰って、紫遙は下手すれば一週間以上時計塔の中から出ないという生活をしている。たまに呼び出したりしなきゃホントに体を壊しそうだ。

 ただでさえ普段からそんな状況なのに今の紫遙の状態なら‥‥どうなってしまうか考えるにかたくない。

 

 

「とはいっても流石は魔法使い用の工房よ? 気になって軽く調べてみたんだけど、Aランク以上の魔術でもブチ当てないことには埒があかないわ、アレ。堅牢なんて言葉じゃ説明できない得体の知れない術式でガードされてる」

 

「私もショウが外出している間の術式の保全に協力していたものですから、アレの性質はよく理解しております。‥‥得体の知れない、というよりも悪質の一言に尽きますわね。どんな攻撃も吸収して、術者ごと自らの内に取り込むのです、アレは。

 中に入ったが最後、あらゆる元素を内包した秩序の混沌、終末の泥によって魔術回路の起動は適わず、たちどころに意識すらも失ってしまいますの。ショウの上のお義姉さまが構築したものだそうですが、意地の悪い術式をしておりますわよ」

 

「‥‥マジ? 恒常的に、しかも外部からは全くの普通に擬態した状態で終末の泥を起動させ続けているって尋常じゃないわよ‥‥」

 

「なんでもショウが言うには、『それが出来るからこその封印指定。正直、橙子姉に出来ないことなんてものは想像出来ないね』だそうですわ」

 

「あのシスコン魔術師、どこまでもそんなカンジなのね‥‥」

 

 

 何物にも成り、何物にも成らない原初の混沌、秩序の泥を再現した終末の泥。あらゆる矛盾と完成を含んだ特殊な術式を常に展開し続けていられるような防壁を用意されているとなると、直接の突破はほぼ不可能に近いと遠坂は独りごちた。

 最悪、最悪の話だが、もしもの時は俺かセイバーが宝具を使うという選択肢もある。流石に魔術回路が起動できないような魔術が相手でも、宝具をどうこうすることまでは出来ないだろう。それは流石に人間に出来ることの範疇を超えている。

 

 

「バカね、それで工房が崩れて蒼崎君が生き埋めになったりしたらどうするのよ。‥‥まぁ本当の本当に最後の手段ね、それは。出来れば他の方法を考えたいところだけど」

 

 

 四人、またも大きな溜息をついて視線を下へと落とす。染み一つない真っ白なテーブルの上に置かれたカップはとうの昔に湯気を立てるという努力を諦めているから、波紋一つ立てないでそこに鎮座坐している。

 どうにも空気が重くて考えも鬱なものへと偏り気味だ。普通の友達が相手で、普通の状況だったらそこまで悩むことじゃないのかもしれないけれど、状況が状況だからか俺達は有効な答えを出せずにいた。

 

 

「ホント、今すぐ首根っこ引っ掴まえて連れ出して、無理矢理にでも事情を聞き出すのが正しいんだけどね‥‥。そうもいかないとなると、ホントどうしていいものやら‥‥」

 

 

 首根っこ引っ掴んで連れ出せないのは当人が難攻不落の要塞に閉じこもっているから。そして無理矢理にでも事情を聞き出せないのは、当人の発狂しそうな錯乱振りを見せつけられてしまったから。

 迂闊に突けば何が飛び出してくるか分からない。でも突かないで放っておいたらソレはソレで自分で壊れてしまいそう。どうすれば一番アイツのためになるのか、そんなジレンマみたいな感情が俺達を包んでいた。

 まぁ遠坂なんかはちゃんと管理者(セカンドオーナー)としての利害とかも勘定してるんだけどな。利害関係を孕んだ友人関係の方が長続きするんだって、前に話していたっけ。

 

 

「聖杯戦争の記憶。‥‥おそらくショウが持っていたというその記憶が今回の事件を複雑化させた要因になっておりますわね」

 

「そうね。蒼崎君の持っていた知識が無かったなら、私達がサーヴァントを全員倒してソレで終わりって事件だったはずよ。あの謎の魔術師もクラスカードにはあまり終着していなかったみたいだしね」

 

 

 俺達が元の世界に帰って来た、その後にやって来た正体不明の魔術師。

 俺達の誰もが作れるかどうか、そもそも作り方すら分からない超一級の魔術具であるクラスカードをこともなげに作ったと言わんばかりに扱っていた、かなり上級の魔術師。

 何を期待したかは知らないが、冬木の街と、そこに生きる魔術師達の特性を自分の実験に利用した狡猾な魔術師。

 そして‥‥その魔術師はどういう経緯だかはさっぱり分からないけど、俺達の中では一番ノーマークだった俺達の友人、蒼崎紫遙へと目をつけた。

 

 大師父‥‥宝石翁から貸し出された、同じく一級の魔術礼装であるカレイドステッキを持っていたわけでもなく、俺みたいに固有結界が使えて、未来には英霊になる可能性まで秘めた人間なんかじゃない。

 蒼崎という、世界でも有名な魔法使いの家系の血を引いているのは確かだけど、あのヤロウはそこに目をつけたわけでもない。ただ‥‥おそらくは紫遙が異常なまでに錯乱した、英霊召還の触媒になりえるような“記憶”が鍵になっているだろうことだけが分かる。

 

 

「それが知られたら自分の破滅に繋がるような、いいえ、それだけじゃないみたいね。蒼崎君って自分だけの問題ならあそこまで取り乱すとは思えないもの」

 

「ショーはああ見えて神経質なところがありますが、自分のことにはあまり頓着しませんからね。もっとも私にしても彼との付き合いはこの一年弱ほどしかありませんから、確と言えたわけではありませんが」

 

「そこにお義姉様方が絡んでいるのは間違いないのですがね。彼が一番心動かされることといったら、お義姉様方についてと決まっておりますもの」

 

 

 ぎしり、と姿勢を正したら椅子が軋んだ。雑踏に近いぐらいの人混みに遠巻きに包まれたカフェテリアの中でしっかりと聞こえた音に、俺は更に眉間の皺が深くなったような気がした。

 ルヴィアの隣に座っているセイバーも、聖杯戦争の時とは違う渋面を作って空になってしまった、元は二つのケーキが狭そうに並んでいた皿を見つめている。

 最近はそれなりに自重しているセイバーは腹ぺこ王様って程じゃないけど、それでも食事が趣味といってもおかしくないぐらいには熱心に色んな食べ物を探している。

 例えば屋台とか、いわゆる食べ歩きの類がすごく好きなのだ。まぁこれなら趣味の一環ということで別に問題はないと思うんだけど、見た目とのギャップがなぁ‥‥。

 

 

「‥‥第五魔法について、とか? あれなら外部に知られちゃマズイでしょ。私が魔法使いだったりしたら弟だったとしても絞め殺すレベルだわ」

 

「ショウはミス・ブルーの使う魔法については知らないはずですわよ。そもそも概要を知っていたからといって簡単に習得できるようなものではありませんわ、魔法というものは。現に私達とて苦労しているではありませんか。

 その程度のことで自殺してしまいそうに見えるぐらいに憔悴していたら、私達よりも先にまずお義姉様方に折檻されてしまうことでしょうし」

 

「成る程、それもそうだな」

 

 

 実際に会ってみた感じ、やっぱり下のお姉さんは紫遙のことをすごく大事に思ってそうだった。

 お姉さんが紫遙の名前を呼んだ時、少し以上に心配してそうなのがよく分かったし、キョロキョロと弟を捜す視線は楽しげでありながら不安も滲ませていたんだから。

 きっと適当に面白そうだからって推薦したように見えて、実はすっごく紫遙のことを心配していたんだろう。大事な弟を執行部隊が全滅したような場所へ送り出して‥‥そしてこんな結果になってしまった。

 

 

「‥‥もしかしなくても、本当に心配してるのはお姉さん達だろうしな。俺達も何とかして力になってやらないと、今まで散々手伝って来てもらった分が返せない」

 

「そうね、魔術師にとって友人関係であろうと等価交換に変わりはないわ。借りっぱなし、貸しっぱなしっていうのは歪だものね」

 

 

 何度も繰り返すように、等価交換という魔術師にとって当たり前のはずの大原則は遠坂のトレードマークになってしまったかのようだ。決して冷酷とか冷静とかいう意味じゃなくて。

 義理とか人情とか、魔術師でありながら本当にそういった普通のことに厚いところは、遠坂に限らず俺の周りの魔術師みんなに共通してると思う。ルヴィアも、バゼットだってそんなカンジを受けるしな。

 

 

「‥‥失礼、隣よろしいですか?」

 

「え? あぁはい、どうぞ。すいませんこちらこそ占領しちゃって」

 

「いえいえ、お気になさらず。どうぞお話しを続けて下さいな」

 

 

 と、辺りも気にせず喋り続けていた俺達の隣のテーブルに、一人の女性が腰を下ろした。

 橙色のような、少しくすんだ赤い髪。今時珍しいシンプルな細い銀色のフレームのメガネをかけ、真っ白なブラウスと黒いスラックスというラフでありながらビジネスウーマンとも見えてしまう、不思議な雰囲気の女性だ。

 日本人‥‥なのだろう。髪の色はともかく見るからに東洋人である俺に話しかけた言葉は日本語だった。床に置かれた古めかしく頑丈そうなトランクを見るに、旅行者だろうか? ゴテゴテのスーツケースは日本からの観光客(カモ)だと吹聴してまわるようなものだから、選択としては正しくなくもない。

 優しげな言葉使いと細められた瞳は穏和にも見えるけど、席につく寸前にこちらの全員を見回した視線には、鋭いものが隠されているような気がして、俺はまさかと首を振った。少し神経質になってしまっているんだろう、久々の任務の後だったから。

 

 

「すいません、コーヒーをいただけますか?

 

「かしこまりました」

 

 

 近くを通りかかったウェイトレスに注文するのは、流暢なクイーンズイングリッシュ。出身こそ英国でないにしても生粋の欧米人であるルヴィアにも迫り、遠坂はともかく俺とは勝負にもならないぐらい綺麗な発音だ。

 ちらりちらりと横目で伺う俺に構わず、注文をとったウェイトレスが厨房の方へと行ってしまうと、その人はトランクの持ち手と一緒にくくりつけてあった小さめのバッグから、随分と分厚く色々な紙が挟まっている手帳を取り出した。

 すごく使い込んでいるのだろう。元はきちんとした茶色だった装丁は見事に年月を重ねて本当の渋い茶色へと変わってしまっている。まるで探検家が移籍の中で横たわる骸から見つけたものみたいだ。

 大英博物館へわざわざやって来たということは歴史家とか何かなんだろうか。どこはかとなく、研究かとかそういうタイプの人間に見えるのは俺の目が偏っているからかもしれないけど。

 

 

「‥‥とにかく、彼のことについては本当に出来る限り早く何とかする必要があるわ。このまま放っておいても悪くなりこそすれ解決なんかしないのは明らかだもの」

 

「例の“あの者”がショウを狙っているのは間違いないことですからね。あれほどの腕の持ち主、どのような手段をとってくるか分かりませんし、なにより彼があんな状況では対抗できるかどうか‥‥」

 

 

 隣に一般人がいるため、適当にぼかしながら無難に会話を続ける。どうやらココでの話し合いはこれが限界のようだ。流石にどこまで内容を分かりにくくぼかしたとしても、結局のところ物騒な内容には違いない。

 

 

「何とか、出来れば数日中に決着をつけてしまいたいところね。あの男がどれぐらいで用意を調えるかは分からないけど、あまり長くはないでしょう。‥‥絶対にどうにかしてみせるわよ、“士郎”、“ルヴィアゼリッタ”、“セイバー”」

 

 

 ぴくり、と空気が動いた気がした。

 遠坂が俺とルヴィアとセイバーの名前を出した瞬間、隣に座ってウェイトレスが持ってきた湯気を立てる温かいコーヒーを口にしていた女性から、仄かなプレッシャーが放たれる。

 プレッシャー、と呼ぶほどに凄みがあるものではなかったと思う。ただ、まるで蛙が蛇に睨まれた時のように、被捕食者が捕食者に目を付けられたかのような独特の怖気にも似た怯え。

 それはきっと戦ったらどうとか、学力とか知識がどうとか、権威とか地位がどうとか、本来ならそれら同士では比べられない色んなものを全て合わせた“実力”というものが違うんだ。

 俺とこの人では“実力”が違う。段違いに、実力が違う。そう思わせるような怖気だった。

 

 

「‥‥なるほど、やはり君達が“奴ら”だったか」

 

「え?」

 

 

 さっきの温和な口調とは一変、今度は冷たい、というよりも突き刺すかのような鋭い言葉が俺のすぐ横から聞こえてきた。

 首を返してみればさっきまでそこに座っていた穏やかな微笑を浮かべた女性はもういない。いや、いるにはいるんだけど全く印象が違うために既に別人に見えてしまう。

 外見はメガネが外れているだけ。それだけで優しげに細められていたはずの目は変わっていないはずなのに、まるで蛇のように狡猾に見え、口元までもが歪められている。

 まさに豹変。あまりの変わりっぷりに俺達の誰もが言葉を出すことが出来ない。

 

 

「衛宮士郎に遠坂凛。そしてその使い魔(サーヴァント)であるセイバーと、ルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトか‥‥」

 

「貴女、魔術師ね‥‥?!」

 

「この局面でそう判断しないということはあるまいよ、かの遠坂凛ならば、な。ふん、それにしてもまるで聞いていた通り、想像していた通りで面白い。私達自身の時にも思ったが、二次元での表現力というのもあながち馬鹿に出来たものではないな」

 

 

 ニヤリと笑ってみせたその人は、スラリとした足を組んでジロジロとこちらをまるでねめ回すかのように眺めてくる。実験動物を観察するかのようなその視線は、俺達が否応無くこの人の下位にあたる祖納なのだと思わせてくるのだ。

 

 

「そもそもああいうものは特徴を抜き出している分、対面しているときよりも分かりやすくなるものか。モンタージュと似たような状況になっていると考えるべきなのかな。なかなかに興味深い」

 

「ちょっと、一人で何言ってるのか知らないけど、魔術師がこうして私達に話しかけてくるっていうのがどういうことか分かっているんでしょう? 私達に何の目的があって接触したのか‥‥説明してもらおうじゃないの」

 

「まぁ焦るな。別に君達に敵対するつもりはないよ。そうだとしたらこうしてわざわざ接触する前に、君達を簡単に倒す方法なんていくらでも存在するのだからな」

 

 

 周りにはたくさんの一般人がいる。その中で、いくらなんでもあからさまに物騒な体勢をとるわけにはいかない。相手が魔術師と判明するや否や全員が魔術回路を起動させて臨戦態勢をとりはしたけれど、それでも席を立つことはしないでその場で女性を警戒する。

 この前に会った謎の魔術師の得体の知れなさ。それとは違う、仄かながらも確実に理解できる彼我の戦力差。実際に戦ったらどうか、という単純な戦闘力の比較じゃなくて、魔術師として、人間としての成熟度の違い。

 例えばセイバーと直接戦って勝てる人間が少なくても、絡め手なら分からない。それは直接的な戦闘力じゃなくて、他の部分でまかなわれるものだ。

 そういう意味で、もしこの女性が敵に回るなら侮れない。そんな印象と直感で俺はひどく体を緊張させていた。

 

 

「‥‥いくら大英博物館が魔術協会の本拠地にして一般人にも開放されているところとはいえ、ロンドンに入った魔術師は全て時計塔によって確認されているはず。貴女とてそれは同じ。それを踏まえてなお私達に接触するとは‥‥一体何が目的なんですの?」

 

 

 机の下からシャリ、と何か硬くて軽いものが擦れる音がした。多分ルヴィアか遠坂がポケットから宝石を出して万が一に備えているんだろう。

 おそらくは存在密度と遠坂からの魔力供給のラインを広げているセイバーも見習って、俺も即座に戦闘が起こっても大丈夫なように手のひらに設計図の準備をする。これでもしもの時には、すぐに投影することが出来る。

 繰り返すけど、ここは一般人ばっかりが大量に闊歩している天下の大英博物館のカフェテリアだ。ただでさえ魔術協会の総本山である時計塔の表の顔ということもあって、そうそう目立った行動をとるわけにはいかない。

 それはむしろ時計塔の学生である俺達よりも、まず間違いなく外来の魔術師である目の前の女性に対して不利に適用されるはずだ。‥‥だというのに、どちらかといえば余裕が無いのは俺達の方に見えるのは何故だろうか。

 

 

「目的、と言われてもな。本来なら私は君達には何の用事もなかったのだ。ただ単に別の用事があって時計塔まで来て、偶然カフェテリアで休んでいたんだよ。ただそれだけのことだよ」

 

「別の目的‥‥?」

 

「あぁ。とはいっても君達の風体にピンと来るものがあって聞き耳を立てさせてもらっていたわけだが‥‥。どうやら私の当初の目的と関係があるようなのでな。口を挟ませてもらったよ」

 

「‥‥私達のことを知っているのですか? 失礼ですが日本人の凛や士郎はともかく、私やルヴィアゼリッタは貴女と面識がありませんが」

 

 

 警戒態勢を解いていないながらも一応は丁寧な姿勢を崩さないセイバーが、しっかりと、それでいながら殆ど分からないぐらいに遠坂を庇う位置で問いかけた。

 ニヤニヤと意地悪そうに、そしてどうしてかは分からないけど楽しそうに笑う女性は魔術師なのだからセイバーの存在感ぐらいは分かるだろうに、一向に気にした様子がない。完全な自然体だ。

 英霊なんて存在は人間よりも遙かに上位に位置しているというのに、度胸という言葉だけでは説明できない何かを感じるような気がする。

 

 

「あぁ、そりゃ当然よく知ってるさ。‥‥“当然”な」

 

 

 元々釣りがちだった目が更に細められる。ニヤリと柔らかく、意地悪そうなのに美しいとすら思えるぐらい綺麗に口が弧を描き、いつの間にか外して片手に持っていたメガネを優雅に折りたたんで胸のポケットへとしまった。

 まるで人ごみ溢れるココが自分の家であるかのような堂々とした振る舞いで、その女性は俺達のほうを向いた拍子に顔の前へ垂れてしまった前髪を後ろへと撫でつける。

 

 

「あぁ、まず最初に自己紹介をしておくべきだったか。‥‥私の名前は蒼崎橙子。愚弟がいつも世話になっている」

 

 

 たっぷり数秒、俺達のテーブルの周りがシンと静まり返る。暖房が動いているのに何処からか入ってきた冷たい風が俺達五人の間を駆け抜け、それを肺いっぱいに吸い込んで、俺達は次の瞬間にその空気を盛大に叫び声と共に吐き出した。

 

 

「「「「えぇぇぇーーーっっ?!!」」」」

 

 

 今になって思えば、別に不思議なことでも何でもなかったのかもしれない。そりゃ本当は不思議なことかもしれないけど、その後もちょっと話す機会のあったあの二人が、義弟のピンチを嗅ぎ付けないはずも、駆けつけないはずもなかったんだ。

 だからやっぱり紫遙にとって最後に、そして最初に頼りになるのはお姉さん二人。友人としては少し残念なことだけど、まぁ仕方ない。本人がそう望んでいるんだから、さ。

 俺達は、俺達に出来ることをするだけだ。後日、憔悴していながらも少し血色のよくなった顔を俺達がお茶をしていた遠坂邸に出した紫遙を見て、俺はそう思ったのだった。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 カッチコッチ、カッチコッチ。時代外れの大きな柱時計が立てる大きな音が、普段よりもやけに気にかかる。

 時計塔最深部‥‥とはとても言えないけど、それでもかなり深い位置にある研究室が並んだゾーン。その中の一つ、一番奥まったところにある工房。殆ど人通りが無く、そして並んだ工房の中にもおそらく在住している者は少ないだろう。

 工房の持ち主は時計塔の中でも壮々たる面子。各部門の長や一世紀以上も続く魔術の家系の歴代当主のための工房。あろうことか果ては巨人の穴蔵(アトラス)の院長や彷徨海の最高責任者の名前まで見受けることができる。

 

 ‥‥当然だけど、それらの工房の持ち主がきちんとその工房を使っているかと言われれば、もちろんNo。この階層にある工房の九割九分九厘は未使用のまま整備もされずに、下手したら数世紀もそのままという状態だ。

 これらは最初から持ち主が使うことを期待されているわけではない。これらは、時計塔の腐った———ちゃんと機能はしてるけど、魔術師とは到底思えない連中だ———上層部が魔術協会の威光を内外に示すものとして据えたのである。

 およそ名の知れた、ありとあらゆる偉大な魔術師達の工房は時計塔に用意されている。聖堂教会と同じく世界最大の神秘を管理する機関として、このように工房を揃えてやるのは面子の問題だと聞く。

 

 はてはて馬鹿らしい。『〜の工房が時計塔にあるのだ』なんて言葉を、子供でもあるまいし時計塔の魔術師達が真に受けると思ったのだろうか。

 もしかしてこの案を考え出した奴も戯れのようなものだったのかもしれないけど、どちらにしても結果は同じ。ただ誰も注目しない数十の無人の工房が時計塔の地下深くに残されただけである。

 

 

「‥‥‥‥」

 

 

 カッチコッチ、カッチコッチ。時代外れの柱時計が立てる規則正しい音が、たった一人が空気と煙を吐いたり吸ったりする音だけが響く部屋に広がっていく。

 結局そういうわけで、俺が根城にしている“蒼崎家”、もしくは“第五の魔法使い、蒼崎青子”のための工房の周りには、十部屋に近いぐらいの範囲で誰も人はいない。

 だからこそ俺みたいな若輩者が、ここまで深いところに住んでいられるのだ。これよりちょっと上ったところにある人外魔境なんて、いくら俺が現役の魔法使いと封印指定の教えを受けた魔術師だとしても数日と保たないことだろうから。

 まぁどちらにしてもこの階層のやや下には封印指定を受けて、なおかつ執行までされてしまった魔術師達のサンプルが保管されているスペースもあるというから、物騒なことには変わらないんだけど。

 

 

「‥‥‥‥‥‥」

 

 

 ずっと閉じていた目を開けると、目の前は真っ白。いや、どちらかといえば灰色と言うべきか。もやもやとして実体のない‥‥要するに煙草の煙で満たされていた。

 きっと煙草をやらない普通の人間なら、呼吸するのも困難になってしまうぐらいの密度の煙がそれなりに広い部屋の中に充満している。完全に、向こうの冬木でのエーデルフェルト別邸の焼き直しだ。

 煙草で肺が鍛えられている俺も呼吸はともかく、少しばかり目が痛い。煙に燻されるあまり、きっと服どころか資材や実験材料にも煙草の匂いが染みついてしまっていることだろう。

 

 

「‥‥‥‥‥‥‥‥」

 

 

 思えばココ最近‥‥具体的には向こう側の冬木からこちらへと帰ってきて、アノ得体の知れない男に会ってから、煙草と水分以外を取っていない。水分だって酒が多めで、意識できていないだけで今の俺の体調は最悪を更に下回るものだろう。

 あれから俺は、食べ物を取ってないだけじゃなくて睡眠だって殆ど取ってない。酒を飲んで倒れるように眠ったのが一回で、しかもその時は酒のせいか逆に心が不安定になって二度と手を出す気にはならなかった。

 何をしても空回りして事態を悪化させてしまいそうで、工房に帰ってきて翌日からはずっとこのソファに座って煙草ばかり吹かしている。多分、今日の正午を知らせる柱時計の音がしてから両手以外は微動だにしていないに違いない。

 

 

「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥熱っ」

 

 

 しばらく、というかそれなりの時間ぼんやりとしていたせいか、燃え尽きた煙草の火が指に達して思わず短くなったソレを取り落とす。テーブルの上に置かれた灰皿からは吸殻が完全に溢れてしまっているけど、汚れなら左程気にかからない。

 どちらかといえば心配するのは今落とした、火のついたままの吸殻で木製のテーブルに焦げ跡が残っていないかっていうことだけど、それも頭の中ですらない遙か彼方でぼんやりと思っているに過ぎなかった。

 今、最大の懸念事項である“あのこと”以外の全ての心配事、のみならず考え事全てが頭の中から閉め出されてしまっている。“あのこと”について考えること以外は、自分の生命活動に関するものも含めて何も手がつかないのだ。

 ‥‥まぁ魔術回路と魔術刻印が頑張ってくれている間は、餓死したり渇死したりすることはないだろう。魔術師とは総じて普通の人間よりはしぶといものである。

 

 

「‥‥‥‥」

 

 

 目を閉じると、あの時の魔術師の姿が思い出される。闇夜に浮かび上がる真っ白なスーツと、蛇のように狡猾で気味の悪い視線。あふれ出てくる怖気の疾る狂気を。

 狂喜、としかいいようがないあの笑い声。俺に向かって、全力で突きつけられる強烈な感情の奔流。まったく理解できない狂喜が俺を、あの現実と共にひたすら打ちのめした。

 ひたすらに笑いつづける魔術師と、ひたすらに絶望に怯え続ける俺。相手が上に、俺が下に。立ち位置の違いが更に俺の絶望を加速する。処理しきれず気を失ったのは幸いだったのかもしれない。

 

 

「‥‥どう、しようか。このままこうしていても仕方がない」

 

 

 ボソリ、と久々にちゃんとした言葉を呟いた。頭の中は考え事で一杯なのに、どうじに何処か伽藍洞になってしまっているかのように空っぽだった。

 人は、あまりの絶望に直面した時、きっと思考を止めてしまう。それを理解していながら、俺もまた有効な解決策を考えようという気さえ起きなかった。ただただ恐怖と絶望がのし掛かってきて、それに耐えるだけで精一杯だ。

 ひたすら、ひたすらに耐える。ともすれば安直な逃げ道に走ってしまいそうな自分を、魔術師が自殺とは何事かと叱咤激励して歯を食いしばる。

 バンダナを外した額の魔術刻印にも、鏡を眺めてみれば幾筋もの爪の痕が残っていることだろう。顔面にも何本か走っているかもしれない。拳を握りしめた時に掌には抉ったような傷が出来てしまったし、爪もかなり割れていた。

 

 

「あぁ、仕方ないけど‥‥だめだ、何をしても、いや、何をすればいいんだろう、本当に」

 

 

 再び両手で頭を抱えて携帯電話のように体を折りたたむ。カサカサに乾いた唇は何かを喋る度に裂けて血が滲む。ぺろりと嘗めた舌も、どこはかとなく乾いてしまっているように感じた。

 

 

「でも何かしなきゃ。俺が何かしなきゃ‥‥この世界は———」

 

 

 矮小な俺の、ちっぽけな頭の中から溢れ出てしまった一つの秘密。それは本来ならば、一人の人間が隠し持っておくには重大すぎる情報だった。

 あぁ、本来ならそれは大したことじゃなかっただろう。オレの周りでは何人かも同じぐらいの、いや、それ以上に詳しい情報を持っていたし、オレもその情報を持っていることに何ら不都合を感じることはなかったのだから。

 だけど、あぁだけど、それはオレが俺になった瞬間から違う意味を持つようになったのだ。俺がオレであった時の記憶は、俺一人の手に余るものへと進化を遂げた。

 

 第二魔法。

 並行世界の運用は、れっきとした魔法の範疇に属している。

 逆に言い換えれば、並行世界の存在そのものが第二魔法の範疇であるということであり、つまるところ根源の、世界の中心の一部に繋がる秘奥でもあるのだ。

 きっとかなり多くの人が知っているとは思うけど、並行世界とは幾つもの可能性が更に分岐し合って生まれた数多の世界。例えばあそこで自分がああしなかったら、逆に別のことをしたら、そんな可能性によって生まれた世界だ。

 専門家である遠坂嬢に言わせれば、例えば昼の飲み物がコーヒーだったか紅茶だったか、なんて簡単な分岐はそもそも生まれないらしいし、時間の流れの中で完全に確定されて分岐しようがない事項というのも存在する。

 だから無数であってもそのような微かな違いしかない世界っていうのは統合されてしまうらしいし、逆に何から何まで、例えば物理法則とか神秘の定義とかが変わってしまう程に違うものは並行世界なんてものじゃないらしい。

 とにかく何が言いたいかって、これらはれっきとして、“世界”の中の、“根源”の中に位置する事象だということ。

 

 

「———異世界、か‥‥」

 

 

 ‥‥世界に属していないものなんてものはない。

 衛宮の投影、固有結界。そういったものは世界の修正力の対象になりはするけれど、それでも術者である衛宮自身が世界の産物であるから、タブーでありこそすれ決して禁忌ではない。世界から生まれたものもまた、世界にとってタブーであっても本質的に世界に、“根源”に属しているのだ。

 並行世界もまた世界に属している。とすればオレの存在は‥‥この世界に属しているのだろうか? あぁ、当然ながら答えは(No)。オレはこの世界にとって他人に過ぎない。

 

 俺は、橙子姉と青子姉のおかげで仮の国籍ではあるけど、何とか世界に間借りしていることが出来ている。でも俺の中にあるオレの記憶は、まだまだ世界による入国審査をくぐり抜けることが出来ていない。

 あぁ、これもまた当然だ。何せオレの記憶は、この世界とは別の、同じ根源に属した別の並行世界ともまた違う、完全な“異世界”から持ってきたんだから。

 

 

「こんな記憶、欲しくなかった‥‥。どうして何も知らないままに橙子姉や青子姉に会うことが出来なかった? ———いや、あの記憶が無かったら、そもそも縁も生まれなかった、か‥‥。ク、本当に参ったねこりゃ」

 

 

 オレの世界で存在していた、この世界の情報。そしてこの世界に存在していなかった、オレの世界の情報。

 いや、もしかしたらオレの世界にも何か裏の社会があって、そこで繰り広げられている物語がこちらの世界の某かの媒体で大衆へと発信されているという可能性もある。まぁともかく、どちらにしたってオレの世界とこの世界とは決して交わらない定めだったはずだ。

 魔法使いでもないこの俺が、交わるはずのない、ましてや根源に属しているわけでもない別の世界の記憶を持っている。俺の内にソレがある間はいいかもしれないけど、それが一度俺の外側へと漏れ出てしまったら‥‥?

 

 

「‥‥破滅だ。新たな定義が世界に持ち込まれたら、秩序が崩壊する。漏れ出したばかりの今はいいかもしれないけど、これが世界に蔓延したりしたら、秩序を崩壊させる原因になった異端は———」

 

 

 どうなるのか。そんなこと決まってるだろう。

 紛れ込んだ異物が些細なものならば、無視してもくれるだろう。ソイツが溶け込む努力をしているならば尚更だ。でも、ソイツが目立つようになってしまったら、もはや見過ごしてもいられない。

 

 

「———ぐ、あ、あぁ‥‥ッ?!」

 

 

 突如、両手で抱えていた頭の中が何かで真っ白に塗り潰される感覚が俺を襲った。

 圧倒的なまでの圧迫感と閉塞感。頭の中をぐちゃぐちゃにかき回されて、頭蓋の中にふくらみ続ける風船でも仕込まれてしまったかのように内側から何かが広がって、まるで弾けてしまいそうだ。

 

 ‥‥細切れに、激しく明滅する思考の中で気がついた。俺が今まで何も考える気になれなかったのも、そして実際に何も考えられなかったのも、決して俺が絶望と恐怖で頭の中がいっぱいだったからだけじゃない。

 

 これは世界からの拒絶だ。

 本当に久々に襲われる、世界からの修正力の猛威。これがあったから、俺はオレの記憶について考えるのを無意識の内に制限していたのだろう。

 頭痛、と単純に括ることの出来ない圧迫感。そして同時に襲ってくる吐き気や目眩、そして先程までの恐怖や絶望を更に凌ぐ心への攻撃。

 俺があそこまで動揺していたのもまた、世界からの攻撃と忠告の一種だったのだろう。でも、これはもう過去に経験したことがないぐらい強力なアプローチだ。

 

 

「ぐ‥‥が‥‥!」

 

 

 引っかき回される、俺の全てが。圧倒的な強者によって。

 耐え難い苦痛が全身を苛み、ありとあらゆる悪い影響というものが俺を襲う。これは忠告や警告を通り越して、完全に制裁だ。一応は間借りを許してくれていたらしいけれど、今回の件については厳正な態度を崩さないらしい、俺の大家さんは。

 

 

「‥‥ぎ———ぃ‥‥くそ———ッ!!」

 

 

 ふと、机の上のバスケットに、一振りのフルーツナイフが無造作に放り投げられているのが目に入った。

 あれはいつか、珍しく色んな果物の盛り合わせを持って工房へとやって来た青子姉のために俺が調達して来たものだ。

 もちろん青子姉がわざわざ持ってくる様なフルーツがまともなものだけであるわけはなく、ドリアンなどのお約束のみならず匂いが迷惑なものから、キングランブータンとかいう触手の化け物みたいにしか見えないキワモノまであった。

 それを切り開いた後に置き場所に困って飾りのように放置してあった、少しばかり装飾の綺麗なフルーツナイフ。

 もはや視界も激しく揺さぶれ、霞でいた俺は苦痛と恐怖と絶望で震える手で、無意識ながらソレを掴もうと———

 

 

「そこまでだ。‥‥間一髪だったな、紫遙」

 

 

 ひんやりとした冷たくて華奢な、それでいて力強い掌に腕を掴まれて動きを止める。

 あまりにも聞き慣れ、あまりにも切望したその声。綺麗に手入れされた爪から真っ白な腕へと視線を移動させ、そして、何よりも欲しかった顔へと辿り着く。

 

 少しばかりつり上がった、意地悪そうな目。それでも俺は、その目の持ち主がとても優しいと知っている。

 不機嫌そうにぐっと引き締められた唇。それでも俺は、その唇から俺を気遣う言葉が漏れてくるのを知っている。

 最初に会った時から全然変わっていない。最後に会った時からも全然変わっていない。

 いつでも俺を安心させてくれる、すっかり見慣れた、すっかり頼りにしている俺の一番の人。その顔を見た瞬間、俺の全身から力が抜けた。

 

 

「橙子‥‥姉‥‥?」

 

「こらこら私もいるわよー? まったく、こんなことになるっていうんなら面倒臭がって放っておくべきじゃなかったわね、このナイフ」

 

「青子姉も‥‥? どうしたんだ、二人とも一度に揃ってココまで来るなんて‥‥」

 

 

 後ろから両肩に手を置かれる。ふわりと匂う太陽と草の香りに振り返ると、長い茶髪を靡かせたもう一人の義姉の姿。

 会う頻度だけなら上の義姉よりも多い。特に倫敦に来てからは、何かにつけて振り回された活発な青の魔法使い。

 いつもとは少し違う、真剣ながらも飄々とした雰囲気を漂わせて崩れ落ちそうな俺の体を軽く支えている。華奢ながらも、力強い。‥‥そういえば何時だったろうか、俺がこの人の身長を追い抜いてしまったのは。

 

 

「何、久しぶりにお前の様子を見ておこうと思ってな。何より青子伝てに聞いていたとはいえ、こちらでどんな生活をしているかも気になっていたところだ。

 ‥‥随分と酷い顔をしているじゃないか、まったく。お前は放っておくといつもこうだ。この歳になってまで私達を煩わせる気か?」

 

 

 何とか立ち上がろうとする俺の肩を押して無理矢理に座らせると、青子姉が対面のソファに腰を下ろす。橙子姉は俺の横を素通りして、居間兼食堂の奥に拵えてある簡単なキッチンへと向かった。

 見れば手には紙袋を持っており、その中には何か色々と入っている。まさか仕事を持ってくるような人じゃないから、もしかして土産のようなものだろうか。

 

 

「どうせまた、ろくなものを食べてないのだろう。大体の事情は衛宮士郎や遠坂凜から聞いている」

 

「衛宮と遠坂嬢に?!」

 

「ちょうど昨日、博物館の方のカフェテリアで会ってな。ホラお前は座っていろ、たまには私が茶を淹れてやる」

 

 

 予想外にも手慣れた手つきで、言葉に反して橙子姉が素早く三つのマグカップにコーヒーを淹れ、簡単な菓子と一緒にトレイに乗せて運んで来た。

 久々に煙草以外の暖かいものに触れる。ガサガサになってしまった唇に滲みるけど、同時に体中にも染み渡るように感じた。‥‥あぁ、暖かい。

 

「‥‥あぁ、勿論ただ茶を飲みに来たわけじゃないぞ」

 

「え‥‥」

 

「事情は聞いたと言っただろう。随分と面倒なことになってしまったようだな」

 

 

 二人並んだ義姉と対面していると、不思議な気分になってくる。こうして三人だけで揃っているというのも、気がつけば数年ぶりかもしれない。

 伽藍の洞に式とか幹也さんとかが来てからは、たいてい賑やかな日常が主だったし、ね。

 

 

「さぁ、話してみろ。‥‥私達の助けが、必要なんだろう?」

 

 

 ベクトルこそ違えど自信満々な二人の顔。あれほど頑なに閉じていた俺の口が、解かれたように言葉を発し始めた。

 あぁやっぱり、うん、本当に俺はこの二人の義弟でよかった。

 

 だってそうだろう? 俺がピンチの時には絶対に、こうして瞬く間に駆けつけてくれるんだから。

 

 少し視界が滲んでしまったのは、きっと涙なんかのせいじゃなくて、久々に食べ物を体の中に入れたからに違いない。

 俺は絶対にばれてしまうことを分かっていながら、また心の中で少しばかりのウソをついたのだった。

 

 

 

 

 69th act Fin.

 

 

 


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