UBW~倫敦魔術綺譚 (未改訂版)   作:冬霞@ハーメルン

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第七十話 『漂着者の決意』

 

 

 

 side Bazett Fraga Mcremitz

 

 

 

「やぁバゼット、遅くにすまない。怪我の調子はどうだい?」

 

「‥‥‥‥は?」

 

 

 縦に、地下に向かって伸びた縦長の構造をしている時計塔の中層部。魔術教会の中でもあまり表向きには出来ないながらもしっかりと存在している様々な組織の事務室や待合所などが存在している階層であり、私の基本的な仕事場所でもある。

 学生達が使う教室が並ぶ上層階とは違い、一つ一つの部屋の感覚は狭くない。むしろ、間に同サイズの部屋がもう一つ入ってしまうのではないかというぐらいに空いていた。

 実際に間に何があるのか、というのは私も知らない。というよりも私の同僚の内の誰もが知らないと答えることだろう。

 ドンドンと部屋の壁を叩いてみると、かなり微かにだけれど反響している音がするのだ。どうもやはり、間に何か部屋もしくは謎の空間があるらしい。

 とはいっても上の階からも下の階からも、当然ながらこの階からも通路らしきものはない。仮にも世界に名高い魔術協会の本部が無意味な構造をしているわけがないから、おそらくは某かの理由が存在するとは思うのだけれど。

 

 

「最後にバーサーカーと戦ってた時、隠してはいたけど傷を庇ってただろう? もしかしてまた傷が開いてたんじゃないかって気になってね。ただでさえ一週間ぐらいで完治する傷だとは思えなかったし」

 

「あ、いえ、傷自体はだいぶ良くなっています。こちらに戻ってきてから執行者の中でも治療が得意なものに処置をしてもらいましたから‥‥」

  

 

 執務室‥‥というよりは先程に私が自分で話した通り、事務室もしくは待合所とでも言ったような雰囲気を醸し出している室内は、中々に乱雑としていた。

 封印指定の執行者は総勢三十名。その三十名分の机が会社のオフィスのようにいくつかの列になって並んでいるのだが、ただでさえ長い歴史を持つ時計塔のこと、一つ一つが重厚なアンティークであるため中々に違和感がある。

 更にコンピューターに精通していれば情報も電子化が可能なのだろうが、残念なことに全員が全員、ほぼ生粋の魔術師である執行者達には現代機器を使いこなすならともかく好んで使用したがる者は皆無。

 故にこれからの仕事の予定に関する書類。既に執行が完了した魔術師に関する報告書の控えや資料。ついでに活動予定表や会計、その他もろもろの書類が大量にそれぞれの机に積みあがって、まるで複数の山脈が生まれているかのようだ。

 壁には隙間無くコルクボードが掲げられ、そこにはそれぞれの執行者に対する雑多な、それこそ任務の依頼から極限まで散らかった机周りの整理の依頼などが分別なく留められており、これもまた結果として乱雑な印象を強くしてしまっている。

 

 部屋の中心にこのようなカオスな執務用の空間があるのは仕方が無いにしても、入り口から見て右側にある待合室のような休憩所はさらに酷い。煙草の吸殻や使わなくなった書類、携帯食料の食いカスなど、散らかっているという状態を通り越して汚らしい。

 こちらに置いてある三組の大きなソファと一つの机も元はそれなりの代物であったはずなのだが、今となっては骨董品というよりは粗大ゴミに近い。家具職人が見たのなら怒りのあまり憤死してしまうことだろう。

 

 それというもの、全ては封印指定の執行者という職業自体に問題があるとしか言えない。

 執行者達は上役から書類を間接的な手段で受け取ると、それを自分なりのスケジュールと資材でもって執行しに行く。つまり、基本的には単独行動ばかり行っているから執行者達が一同に介するという場が無いに等しいのだ。

 もちろんチームになって執行を行う場合だって多々ある。例えば先日の、封印指定の執行者が十人も一同に介して派遣された、冬木におけるクラスカード事件(仮)。これは前代未聞ともいえるぐらいの、大出動劇と相成った。

 とはいえ珍しいことには違いがないし、チームを組むといっても大概が二人か三人だ。しかもその組み合わせというのも基本的にはずっと固定されていて、結果的には一人であるのと全く代わりが無い。それぞれ、好き勝手に動いているのであるのだから。

 

 ちなみに一番酷いものになると、部屋の中で一番大きなコルクボードに貼られた、封印指定されるべき魔術師のリストから好きなものを一枚破りとって勝手に執行しに行ってしまう。というよりも性格上これを行う執行者が一番多い。

 結果としてある程度の数の執行者が執務室に同じ時間帯に留まっているという状態が非常に珍しく、自分がこの状況を許容できるのであれば誰も掃除などしようと思わないのだ。

 まぁそれは私も同じだから責めることは出来ないのだけれど。

 

 

「———って、そうではなくて! 一体今まで何処にいたんですか紫遙君?!」

 

 

 他に一人だけ執行者が作業をしている、そんな陰気な執務室の中で、私は突然ひょいと目の前に現れた一人の友人に大きな声を張り上げた。

 机の上に置いた書類に向かって作業をしていた顔を上げてみれば、そこに立っていたのはがっしりとした頑丈な仕立てのミリタリージャケットに身を包んだ青年の姿。少し固そうな黒髪を、古びた紫色のバンダナで彩る、ともすればセンスを疑ってしまう独特の服装。

 それでも多種多様な人々が住んでいるロンドンの街ならば簡単に埋もれてしまうような友人を前に、私は心底驚き叫び声を発してしまったのであった。

 

 

「空港に着いた途端にフラリといなくなって‥‥! 遠坂さん達やルヴィアゼリッタがどれだけ心配したと思っているのですか!」

 

「いや、ごめん。ちょっと精神的に逼迫してて、自分の工房に閉じこもっちゃってたんだ。本当に、ごめん。心配かけて申し訳なかった」

 

 

 ズボンのポケットに突っ込んでいた片手の人差し指で頬をかき、申し訳なさそうに笑う。まるでいつものような姿は、つい数日前の尋常ではない程に憔悴し、落ち込み、緊迫した様子が嘘だったかのように普通だった。

 これではいつも、たまに用事がある時に私のアパートを訪ねる時とまったく同じ‥‥。そう思いかけてふと気づく。ハの字に端が下がった眉の下、細められた目の更に下には拭いようがない憔悴の痕が残っていることに。

 

 

「‥‥本当に、大丈夫なのですか? 言っては何ですが、私の怪我など日常茶飯事です。確かに重傷の部類には入るかもしれませんが、結局のところ活動できていたのだから私にとっては軽傷と言っても問題はない。

 それに引き替え貴方は完全に活動不能の状態に陥っていたではないですか。身体に傷を負っていなかったとしても‥‥」

 

「いや、大丈夫。‥‥実は義姉達が来てくれたんだ。おかげさまで、何とか持ち直せたよ」

 

 

 人好きのする穏やかな、いつも何処はかとなく困っているかのような表情が変わる。

 曖昧な笑みの形だった唇が緩やかに、けれど確実にそれと分かるぐらいの弧を描き、細められた眼の置くには明らかな喜色が見受けられる。これは私もそれなりに長くなってしまった付き合いの中で何度も見た表情だ。

 彼がこういう表情をするときは、決まって特定の人物について、つまるところ彼の唯一の肉親にして赤の他人である二人の義姉について考えている時。

 その隠しているようで隠しきれていない、本当に嬉しそうな表情を見て、私も今度こそ不安や心配が消えうせていくのを感じた。

 

 

「———なるほど。そういえば昨日、私のところに事件についての情報を得る許可証付きで来訪者が二人やって来ましたが‥‥あの二人が封印指定の人形師と、第五の魔法使いだったのですか」

 

「え? まさかバゼット、二人のことを知らなかったのかい?」

 

「一応、封印指定の執行者ですから、基本的な情報や紫遙君から耳にたこが出来るぐらい聞かされた情報ぐらいは持ち合わせていますよ。しかし実際に会ったことはありません。私の魔術教会‥‥時計塔での位階は決して高い方ではありませんから」

 

 

 もともとマクレミッツ‥‥フラガの家は魔術協会に所属してはいない。いや、本当のことを言えば魔術協会に所属しているのは私一人であって、フラガの本家と私とは勘当同然の状態になっている。

 魔術協会は軽く十世紀を超える程の、いえ、おそらくはそれ以上の圧倒的な歴史を伴っている巨大な組織。その世界全土への浸透性自体は聖堂教会に劣るものの、無いほうしている歴史自体は圧倒的だ。

 その圧倒的な歴史の中で、時計塔の上層部の席に陣取っている家系は限られる。はるか昔、それこそ時計塔の成立以前からの関わりがあるような家や、その係累以外への上層部の席は無いに等しい。

 

 魔術師の集まりとしての組織であるが故の弊害、必要悪、そのようなものに満たされた場所が此処、時計塔。それ自体は魔術を学ぶ、魔術に関わる上ではどうしても改善できない点である。

 もちろん一部にはそれを由としない、革新的な考えを持つ者もいる。恩恵を受けている家系、魔術師が少ない分、これもまた数多いと言ってもいいかもしれない。

 例えばその筆頭が彼の有名な、紫遙君つながりである程度の親交を個人的にも持っている名教授、ロード・エルメロイⅡであり、また彼の率いる———実際に率いているわけではないが———派閥全体だ。

 これは本当にifの話になるのだけれど、もしかしたら十数年未来には彼の名教授が主導になって時計塔という組織を改善しようという動きも生じるかもしれない。本当に、もしもの話になるのだけれど。

 

 

「‥‥あぁ、気にしないでください。人形師・蒼崎橙子の封印指定は凍結されたままです。私達も暇ではありませんし、別に戦闘狂というわけでもないですから、凍結された封印指定に喧嘩をふっかけるような真似はしませんよ」

 

「べ、別にそんなことは思ってないんだけどなぁ‥‥。まぁありがとう、と言っておくよ、一応」

 

「ふふ、初めて会ったときから随分と成長したと思っていましたが、お義姉さん方のことについてだけは昔から変わりませんね、紫遙君は」

 

 

 時計塔に入りたての少年魔術師。高校を卒業したばかりの、まだ十代だった蒼崎紫遙は、やはり蒼崎の名前を冠するだけの実力を持ちながらも歳相応の少年であった気がする。

 それなりの物議を醸し出す騒動を巻き起こしながらの入学。その当初の私は情報を人伝てに、また有名な人形師の封印指定の凍結という業務上の大ニュースに付属しての入手であったから、大変そうだなぁと他人事に思うだけだった。

 けれど今になって、こうして友人として付き合いをしていると思うのは、彼はやはり、あの当時の色々な陰口や抽象の類が———たとえそれなりに根拠のあるものだったとしても———くだらなく思えてしまうぐらいに“蒼崎”だったということだろうか。

 

 

「でも立ち直ったのは嬉しいですが、紫遙君、ルヴィアゼリッタや遠坂さん、士郎君には後できちんと謝っておくんですよ?

 私もそうですが彼女達は本当に心配していたんですから、さっきみたいに突然なんでもないように現れては不義理というものです」

 

「あー、うん、本当に悪かった。自分のことばっかりで周りに気が回せないなんて、立派な大人としてなってないな、俺は‥‥」

 

「‥‥いえ、別にそれを咎めているわけではないのですよ。紫遙君にだって色々と事情があるでしょうし、その人にとってそれがどれだけ深刻なことかというのは、本人にしか分からないものですから。

 ですから心配をかけた分だけ、しっかりと謝るのが道理ですよと言っただけです。まぁ紫遙君の言う通り、大の大人に言うようなことではないかもしれませんが‥‥」

 

 

 言葉だけを捉えれば普通の反応なのかもしれない。本当に申し訳ないという思い、そして心配されていたことへの感謝と気恥ずかしさ。でも、その中に少しの躊躇いのような感情が見えた気がした。

 そこまで短い付き合いでもないつもりだけれど、そこまで長い付き合いというわけでもない。そもそも他人の感情の機微を読み取るのが苦手と友人にも散々言われた私が、そのような感想を持つのもおかしな話しなのかもしれない。

 

 

「‥‥紫遙君? 私の話を聞いているのですか?」

 

「え? あ、あぁ、ちゃんと聞いてるよ? ホントにみんなには悪いことしちゃったと思ってる。‥‥後で、そう後でちゃんと謝っておくよ」

 

「‥‥そう、ですか。それならいいのですが。えぇ、別に」

 

 

 まだ微妙に違和感があるが、確信があるような違和感でもない。何よりあの状態から元に戻った紫遙君の様子を見ていると、そこをわざわざ追求するような気にもならなかった。

 困ったような笑いに戻った紫遙君は、本当にいつものとおりに見えて安心する。それほどまでに、あの冬木での紫遙君は不安定だったのだ。

 

 

「ところで今日はどうしたのですか? まさか私に挨拶するためだけにこんな穴蔵(ところ)にまでやってきたわけではないでしょう?」

 

「自分の職場なのに散々な言い方だなぁ‥‥」

 

「私の職場は基本的に戦場ですよ。昔から書類仕事は苦手なんです。というよりも今回は事件の直後でしたから執務室に詰めていましたが、普段なら殆どここには寄らないんですからね」

 

 

 何度も言ってはいるけれど、執行者は基本的に戦闘向きであり、特に脳みそ筋肉族と呼ばれるような連中が多い。根本的には魔術師であるから戦闘狂ではないのだが、どちらにしても魔術師に書類仕事を望む方がおかしいのだ。

 研究者が、特に魔術師という人種が書く文章といえば、自分の研究成果を自分にだけ分かるように記した記録だけ。とてもじゃないが報告書など書けるような者はいない。

 

 

「いや、バゼットがいてくれてよかった。‥‥実は例の、今回の事件の黒幕について何か情報がないかと思ってさ。封印指定の執行者なら、多少の情報は掴んでるんじゃないかと思ったんだけど」

 

「‥‥あの全身白(へんたい)スーツの魔術師ですか。確かに、あれから執行部隊の方にも調査依頼が来まして、ちょうど資料を掘り出して来たところです。‥‥見たいですか?」

 

「うん、頼むよ」

 

 

 真剣な表情を作った紫遙君の言葉に頷き、それなりに広い机の上に散らばった書類の山の一番上から、走り書きのような一枚のメモをとる。

 いくらずぼらな連中ばかりが集まっているとはいっても、流石に封印指定の資料を机の上に置きっぱなしにしておくようなことはしない。これは資料が何処においてあるのかを書いたもので、資料自体は隣の部屋に保管してあるのだ。

 

 

「ちょうど私も確認しようとしていたところでしたから、丁度良かった。今とってきますから、少し待っていて下さいね」

 

「ゆっくり待たせてもらうよ。あぁ、ここにあるティーセットは使っても大丈夫かい?」

 

「‥‥多分、大丈夫でしょう。念のため一度洗浄した方が望ましいかもしれませんが」

 

 

 メモを持ち、隣の資料室へと向かう。

 これまた資料室というよりは図書室と言ってもいいような、非常に古めかしい棚が並んでいる。一つ一つが尋常じゃない年月を重ねた棚の中に、現代的なバインダーが収められているのは中々にシュールだ。

 封印指定は遥か昔から行われている。そしてこの資料室には、それこそ初代の封印指定から延々何百年分の資料が保管されているのである。

 入り口近くのものはココ百年以内の資料だから近代的な装丁のものが多いが、最奥に行くと博物館にでも展示されそうなぐらい古いものが魔術も併用して納められている。もはや存命しているのかも危ぶまれる魔術師の資料だが、一応は保管しておかなければ後々不便になるかもしれない。

 家系というものが重要な魔術師という人種。資料はどれだけ古くても役に立つのだ。

 

 

「持ってきましたよ、コレです‥‥って何をやっているのですか貴方は?」

 

「え? 何って‥‥お茶を淹れただけだけど。あ、紅茶は苦手だったかい? コーヒーの方がよかったかな」

 

「そういうわけではありません。いえ、あまりにも自然に淹れていたので、少し面を喰らってしまっただけです」

 

 

 書類を手にとって戻って来ると、適度に片付けられた机の上に何処から掘り出してきたのか、華奢ながらもそれなりの骨董と見受けられるティーカップの中でストレートの紅茶が湯気を立てていた。

 完全に机の上が綺麗になっているわけではなく、適当に整理された書類を左右に除けているだけなのは、おそらくあの状態が私にとって整理されているものだという場合を想定していたからだろう。

 こういう細かいところで気が利くのは‥‥やはり彼の普段からの行動や発言から鑑みるに、お義姉さん方の教育の賜なのではないかと思う。はぁ、しかしまぁあの二人ならばそれも納得できますか。

 

 

「‥‥それが例の魔術師の資料、かい?」

 

「はい。意外にも奥の方にありまして、探すのに手間取りました。私も一度は確認していたのですが、どうやらその後に誰かが閲覧していたらしくて、別の場所に入っていたんですよ」

 

 

 分厚い資料は、詳細に封印指定の内容について調査が進められていたことを示す。しかし紫遙君に手渡した資料はやたらと薄く、重要度が高くないのか入り口に近い棚の中でも、奥の方に押し込まれていた。

 つまり元々は封印指定として登録されてはいたが、そこまで重要度が高くない。封印指定された魔術自体は再現可能なレベルに近かったということだろう。

 

 

「‥‥コンラート・E・ヴィドヘルツル」

 

「齢、既に百年を超える魔術師です。数十年以上前に、土地が持つ記憶を擬似的な固有結界として利用する大魔術を生み出し、封印指定されています。もしやご存じなのでは?」

 

 

 普通の人間より遥かに長生きする魔術師は少なくない。自らを死徒と化すことで単純に魔術の探求に費やすことのできる時間を増やす者は多いし、そうでなくとも魔術回路や魔術刻印を弄ることで寿命を先延ばしするのは決して不思議なことでもおかしなことでもないのだ。

 もちろん死徒となれば教会から追われる可能性も秘めているからそれなりのリスクもあるが、他の手段ならば普通は百年未満の猶予を数十年伸ばせる余地もある。これは、大きい。

 

 

「ヴィドヘルツル、なんて家系は聞いたことがない。名前からしてドイツ系かな? ‥‥このEっていうのが気になるところだけど?」

 

「よく気づきましたね。‥‥何でも調査によれば、そのEは“Einnashe”のEだそうですよ」

 

「Einnashe‥‥? まさか、死徒二十七祖第七位、腑海林アインナッシュの系譜か?!」

 

 

 『腑海林アインナッシュ』。死徒二十七祖の第七位にして、悪名高い『生きた森』。

 直径数キロにも渡って、数年に一度活動して周りの動植物を襲い出す森は、厳密に言えば死徒ではなく吸血植物の集合体であり、生きた森などという表現は似合わないのかも知れない。

 その秘密を探るため、もしくは目立つ活動をしている死徒に対する一辺倒の行動の一環として、魔術協会や聖堂教会も毎回数多の調査員や代行者を送り込むが、当然のことながら全員が全員、餌となって未帰還を迎えている。

 まさに動く天災。どうしようもない災害のような存在は、現在も時計塔に留まり続けている宝石翁こと死徒二十七祖第四位とは別の意味で有名すぎる死徒の一人だった。

 

 

「いえ、あの歩く迷惑は二代目のアインナッシュです。元々初代のアインナッシュは魔術師上がりの死徒でして、かの白の姫君によって討伐された際、近くに生えていた吸血植物がその血液を啜ることで生まれたのが、現在のアインナッシュなんですよ。

 だからこのEが指すアインナッシュとは、先代アインナッシュのことです。‥‥彼はどうにも、記憶に関する魔術において比類無き実力を誇ったと聞きます。おそらくは彼も、その血を継いでいるのでしょう」

 

 

 先代死徒二十七祖第七位は、その性質上から魔術協会からも封印指定をされていた。それ故に少ない量ではあるが、かろうじて資料が残っていたのである。

 あの真祖の姫君をも退ける程の強力な精神干渉の魔術。当然ながら死徒は基本的に子孫というものを残さないから、今回の事件に関与しているアノ魔術師は直系というわけではあるまい。

 しかし、それにしてもノウハウの一部、魔術刻印の一部を受け継いでいたりすれば十分以上の脅威だ。なにせ、資料を調べる限り、あれ以上の精神干渉を得意とする魔術師は未だかつて現れていないのだから。

 

 

「とはいえ、その家系も封印指定が執行されたのと同じく、数十年は前に完全に断絶してしまっています。どういう趣向かは知りませんが、彼は最後の一人のようです。子孫を残さない魔術師、というのもおかしな話ですがね。

 それに封印指定にされてはいますが、術式自体は十分に再現可能なものであることが判明したので、一つの土地の管理者(セカンドオーナー)を任されているそうですから。居城は既に判明しています」

 

 

 数十年前のイタリアの都市廃墟、ポンペイで起こった一夜の悲劇。魔術関係者で当時ヨーロッパにいた者ならば、記憶に残っている者も数多いのではないだろうか。

 火山によって瞬く間の間に灰に埋もれ、住人達が逃げまどう際の苦悶の表情や体の動きまでもが火山灰の中に保存された、貴重な遺跡。今もなお調査団や観光客が数多く逗留するこの都市の静かな夜、遥か太古の惨劇が再び繰り返された。

 あらゆる人々を一切の贔屓なく再び飲み込んだ溶岩。ヴェスビオ火山は噴火の兆候すら見せていなかったのに、火砕流が発生するまでの条件をただ一つ満たしていなかったのに、突如として出現した火砕流はポンペイの遺跡の中にいた全ての人々を巻き込んで、一夜のうちに消える。

 そこに残ったのは苦悶の表情のまま、あるいは何が起きたのか分からないままに死んだ人々の遺体のみ。遺跡を包み込んだはずの泥や灰は何処にも、欠片だって見あたらず、不可思議な事件として少々の修正を加えられて処理された。

 

 それこそ、コンラート・E・ヴィドヘルツルが封印指定を受けるに至った原因。土地の記憶を用いて、太古の惨劇すら再現する疑似固有結界。決して固有結界でないが故に再現可能なものではあるが、様々な要素を鑑みるに、おそらくは彼以外に再現するのは不可能であろう。

 駆けつけた魔術協会の魔術師達が、あるいは必死に魔術を操って事なきを得た、その場に居合わせた一握り未満の魔術師達が、一体何を思ったことであろうか。

 魔術では再現不可能なレベルの天災を再現してみせた異常な手管。恐怖すら覚える、卓越した魔術行使の痕跡。それなりの思惑があったからこそ現在でも封印指定が凍結‥‥というよりは手出し無用の状態になってはいるが、どんなに、恐ろしいものだろうか。

 

 

「私も知識としては知っていましたが、まさか封印指定にされた魔術だけではなく、ここまで芸達者な魔術師だったとは思いませんでした。

 いえ、ここまで多彩に多方向に超越した魔術師など、天才という表現すら生ぬるい。『天災E・ヴィドヘルツル』とはよくぞ言ったものです。彼が封印指定に至った疑似固有結界のことも合わせて、ね」

 

「俺もこの話は知ってるよ。まさか、こんな魔術師が俺のことを狙ってるとまでは思わなかったけど‥‥成る程、これだけの実力があれば納得できる。橙子姉も凌ぐ化け物だな、コイツは」

 

 

 紫遙君の言葉に僅か瞠目する。基本的に義姉こそが至上の存在として考えているフシがあるこの青年が“義姉をも凌ぐ”という言葉を持ち出すあたり、本当に問題は切迫しているのだろう。

 もちろん彼とて、蒼崎橙子という封印指定の人形師が最高の魔術師であるなどという妄想にも似た夢を抱いているわけはないだろうが、それでも口に出すというのは、自分自身が積極的にその事実を認めるということでもあるのだ。

 

 

「資料はこれだけかい? 他に何か、注意しとく話とかあったら聞いておきたいんだけれど」

 

「いえ、どうやらあまり調査が進んでいなかったらしくて、あまり情報が揃っていないんですよ。本拠地の場所は資料の中にありますし、例の疑似固有結界についての調査結果もまとめてあります。まぁ、基本的に調べれば分かる程度のものですよ」

 

 

 資料をペラペラとめくる紫遙君の表情が段々と険しく、引き締まっていく。ひたすらに錯乱するだけだったあの夜。立ち直っていたにしても、何か思い詰めたような緊迫した様子を漂わせていた冬木での彼。

 それら全ての表情とも違う、今まで見たことがない決意の色。これから何をしようというのか、思わずそう問いかけながら立ち去っていく肩を掴んでしまいたくなる決意の瞳。

 

 信頼するのも友人。しかしそれと同時に、心配するのもまた友人。

 

 だからこそ私はその衝動に逆らわず、椅子に沈めていた腰を上げ、自分でも驚くぐらい強い力で同年代の友人の腕をとった。

 

 

「‥‥紫遙君、何をしようとしているのですか? 言っておきますが、宝石翁からの報告によって執行部隊は再編の途中です。次の執行予定は、他家の管理地に手を出し、再度封印指定級の魔術具を撒き散らした彼の魔術師の予定になっています。

 色々と思うところはあるでしょうが、彼に関することで紫遙君が悩むことなどありはしません。封印指定は間もなく執行されます。何か懸案事項があるのでしたら、捉えたヴィドヘルツルを尋問することだって出来るんですからね」

 

「‥‥‥‥」

 

 

 宝石翁を挟み、事後承諾ながらも時計塔の正式な任務となった今回の事件。当然ながら事の顛末は被害を受けた執行部隊の方にも一部ながらしっかりと伝わっており、元凶たる魔術師に対しては厳粛な裁断が下されている。

 他家の管理地に無許可で足を踏み入れたのみならず、同じく無断の魔術行使。そしてあろうことか時計塔が派遣した調査団と執行部隊を全滅せしめ、あまつさえ再度の封印指定レベルの魔術具の露出。

 問答無用、執行猶予なしの封印指定だ。私も軽い傷と判定されたらしく、一週間以内には十名前後の部隊———現状ではほぼ最大戦力である———が派遣されることとなった。

 

 

「いいですか、紫遙君。君も色々と考えることがあるのも分かります。お義姉さん方から何か言われただろうことも予想はできます。しかし君は、あくまでも素人に過ぎません。

 今回の件は既に時計塔の方で処理する問題になっています。余計な手出しは、時計塔に対して悪印象を与えかねませんよ」

 

 

 何をしようとしているのか、理解できる。大体、予想できる。

 彼ならば確かにそうしようとするだろう。それは当然の要求であるし、当然の権利と言える。

 しかし今回ばかりは相手と状況が悪すぎる。許すわけにはいかない。魔術師としてではなく、友人として、彼の暴挙は止めなければならない。

 

 

「いいですか、無理です。諦めて下さい。その資料を渡したのも、君が納得出来るようにするためです。いいですか、それを使って何かをしようとするなら、私はそれを全力で止めます」

 

「‥‥あぁ、そうだろうね」

 

「本当に分かっているのですか?! とにかく、私の言葉に反するようなら時計塔側から何らかのペナルティがあるものと覚悟してくださいね!」

 

「‥‥あぁ」

 

 

 全く、気のない返事が返ってくるが、問いただすわけにもいかない。彼が本当に意思を変えるつもりがないなら私がいくら言葉を尽くしても無駄だろうし、意思を変えるつもりがあるなら、今の脅迫じみた説得で既に諦めてくれていることだろう。

 それなりに頑固な魔術師という人種の中で、比較的に融通が利く蒼崎紫遙という魔術師。しかし彼も、やっぱり魔術師に過ぎないのだ。根本的な部分では自己本位であり、我が侭で放埒。

 当然ながら私も組織人でありながらもある程度はそういう要素を持ち合わせており、遠坂さん達だってそうだろう。なにせ魔術師とは、そういう人種なのだから。

 

 

「‥‥私はこれから書類を整理して、執行計画を立てなければなりません。今日はもう、帰って下さい。君も復帰したばかりで疲れていることでしょう。遠坂さんや、ルヴィアゼリッタのところにもきちんと謝りに行くんですよ」

 

「うん。分かってる。本当に、すまない。すまない、バゼット」

 

「‥‥‥‥」

 

 

 ギィ、と重苦しい音を立てて開いた扉が再び閉まる。最後まで不安を拭えないまま、紫遙君は執務室から出て行った。最後の最後まで、私の期待した『大人しくしている』という言葉を残さないままに。

 

 

「やはり、実力行使しかないようですね。この書類仕事が終わったら、遠坂さんやルヴィアゼリッタにも言っておきますか。念のため、ロード・エルメロイにも手紙を出しておいた方がいいかもしれませんね。

 ‥‥放っておけば、彼は間違いなく行ってしまうことでしょう。まったく、お義姉さん方は何を言って彼を唆したのやら」

 

 

 ———後になって、私はこの時の決断をどれほど悔やんだことだろうか。

 確かに結果としては決して悪くはなかったかもしれない。それでも私が、このとき彼のココロの機微を読み取れなかったことが、一部の悲劇の呼び水になってしまったことは紛れもない事実である。

 

 昔からそういう繊細な事柄は苦手だった。あまり努力する機会が無かったとはいえ、それでも努力はしているつもりで、それでも私はやはり感情とか工作とか、そういう繊細で几帳面なことは苦手なのだ。

 本当にそれを、どれほど私が後悔したか、悔やんだか。

 

 それでも私の数少ない友人は、無事に帰って来た彼に向けて低く低く頭を下げる私に向かって、何ら気負うことない笑顔と謝罪の言葉をくれたのだから、本当に、友人にだけは恵まれた私は、不器用でもがさつでも、幸せだったのだろう。きっと‥‥‥。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 この二年近くの間にすっかり見慣れてしまった、第二の我が家とも言えるぐらい慣れ親しんだ地下の匂い。蒼崎の名前を持つ者に対して用意された工房の中で、俺はゆっくりと煙以外の普通の空気を吸い込んだ。

 煉瓦造りの、煤けた壁。魔術師の工房に余計なものは要らないとばかりに、絨毯や家具以外の調度品は殆ど置かれていない室内は殺風景でありながら、積み重ねた年月のせいかそれなりの風格というものを醸し出している。

 窓がないから光も差さなくて、旧式の———とりあえず一応は電灯である———ランプだけが灯りになっているから薄暗い。

 ここは居間兼食堂となっている場所だけれど、魔術師の住処は往々にして薄暗く、不気味であるべきだから、これは決して間違った光景ではないし、俺自身も、別に灯りを改善しようとする気はないんだけど、ね。

 

 

「そうか、もう二年か。そう考えてみると、ここも結構長いんだなぁ‥‥」

 

 

 調度品がないとは言ったけれど、よくよく考えてみればそれも間違いなのかもしれない。

 確かに美術品や壁紙の類は設えていないけれど、部屋の外周にはぐるりと雑多な品物、特に魔術書の類が大量に積まれていて、一種のインテリアのようになってしまっているのだから。

 この内の過半数は既に用済みとなってしまっていて、それでも時計塔の奥の方に位置するという立地条件から処分が面倒で放置しているものだ。俺の研究には膨大な資料が必要で、それでも実際に役に立つ資料はその中で僅かしかない。

 結果として用済みの資料が大量に残るわけだけれど、まぁこれも結局はこの部屋の特色というものなのだろう。血まみれの作業室、なんてものよりは遥かにマシだ。

 

 

「‥‥あぁ、なんで落ち着くのかと思ったらそうか、ここってば伽藍の洞に似てるんだ」

 

 

 今更になって気づく。部屋の周りに積まれた本は、伽藍の洞では旧式テレビ。壁紙の無い壁はコンクリートと煉瓦という違いこそあれ似たような雰囲気を持っているし、書類が乱雑に散らかった食卓も、似たようなものが伽藍の洞にある。

 あの時、殆ど寄らないくせに青子姉と橙子姉がこの部屋の主であるかのように全く持って違和感なく溶け込んでいたのも、やはりはそういう理由なんだろう。

 無意識にそうしてしまったのか、それともそもそも俺のいるべき場所というのが伽藍の洞だからか。どちらにしても、もしかしてこれは当然の結果だったのかもしれない。

 

 

「———さぁ、忘れ物はないかな」

 

 

 荷物はそんなに多くない。バゼットが持っているものにもよく似た、それでいて少しばかり長めのラック。いつもいつも命を預けてきた、数少ない俺の大切なもの。

 腰に不格好にぶら下げられたポシェットの中にはルーン石がこれでもかという程に詰め込まれ、すっかり擦れてしまったミリタリージャケットの裏側には式から貰った古い短刀が仕込んである。

 道中の宿泊や食事は、全て金で調達すればいい。財布の中には十分すぎるくらいの資金がある。出来るだけ、身は軽くしておきたい。

 

 挨拶をしたのは約束に反してバゼットだけ。衛宮や遠坂嬢、ルヴィア達には何も言わずに出て行くつもりだ。

 おそらく彼女達は、俺が未だに工房の中に閉じこもって震えていると思っていることだろう。義姉達に会って、しばらくは落ち着くと期待しているのかもしれない。

 

 ‥‥それでいい。それでいいんだ。

 

 喧嘩を売られたのは、確かに遠坂嬢だって一緒かもしれない。自分の管理地に侵入されて、なおかつ魔術行為まで看過したとあっては管理者(セカンドオーナー)の面子は丸つぶれだ。

 でも、実際に奴と相対すべきなのは俺だ。そればかりは、たとえ遠坂嬢が相手であっても譲れない。

 例えば遠坂嬢が奴に制裁を喰らわせようと意気込んだとしても、それは一方通行にしかならない。なぜなら奴の行動の全てのベクトルは、今のところ俺へとだけ向けられているからだ。

 今回の事件の発端は、確かに無差別なものだったのかもしれない。奴の発言から鑑みるに、信じがたいことではあるけれど、特に重要ではない試行だったらしいのだから。

 しかし結果として、奴は俺に目を付けた。俺は奴に、目を付けられた。それは一度関わってしまった以上、俺が奴の実験場として選ばれた冬木へと足を踏み入れてしまった以上、必然とも言えるぐらいに当然のことであった。

 

 運命、なんて陳腐で簡単な言葉で片付けるつもりはない。

 あらゆる要素が原因となり、絡み合って、当然の結末として導き出された解の一つ。ならばこその必然。ならばこその当然。だからこそ、俺もまた当然の結果として奴に立ち向かわなければならないのだ。

 

 

「‥‥連中、どれだけつくろっても実際に会ったら何か気づきそうだしなぁ」

 

 

 義姉達にだけかと思ったら、存外に自分は隠し事をするのが苦手らしい。バゼットにはあっさりと気づかれ、半ば脅迫じみた説教までされてしまった。

 だから、本当ならちゃんと言っておかなければいけないだろうことも、言わない。会っておかなければいけない人達にも、会わない。もう障害は何物をも残さず、俺はただ魔術師として、自分のなすべきことをする。

 実際には、俺だって常に魔術師でいられるわけじゃない。結局は人情に流され、普通の人間と何ら変わりのない日常を過ごしてしまったり、そんなことばかりだ。

 けれど当然、必要な時に魔術師でなければいけない。そしてそれは今であり、ここからの俺は完膚無きまでの魔術師でなければならない。

 

 

「後で、謝っておこう。帰ってきたら、ちゃんと‥‥」

 

 

 暗闇の中、僅かな光に反射する刃の輝きを確かめてから鞘に戻す。ポシェットの中のルーン石を触り、バンダナの締まり具合を確認し、ラックを担ぐ。

 確か、資料にあった奴の領地まで飛行機を使ってドイツまで行って、そこからはタクシーかバス。色々な準備を調えるのに向こうでも数日かかるだろうから、どんなに上手く行っても帰ってくるまで一週間弱。

 その間の工房の管理は、いつも通りルヴィアゼリッタに頼むわけにもいかない。仕方があるまい、こればかりは。あまり時間が経つわけでもなかろうし、強度を重視して整備不要の状態にしておかなければ。

 

 

「さぁ、行くか———と、なんだ急に‥‥電話?」

 

 

 部屋の中心、妙に足が短いダイニングテーブルの上に散らばった書類の山に埋もれた、旧式の黒電話からけたたましい呼び声が鳴り響いた。

 一応は時計塔の中とはいえど、電気はともかく電話線ぐらいは通っている。流石に全部が全部、使い魔を通した連絡などで済ませるわけにはいかない。

 とはいえ滅多に、それこそこちらから電話をかける時ぐらいにしか使わない黒電話からの着信に、思わずドキリと、いや、ビクリと肩が震える。

 

 

『もしもし、紫遙? やれやれ、やっと繋がったわ。昨日から何回も電話かけてるのに上手く繋がってくれないんだもの、困った困った』

 

「‥‥鮮花? どうしたんだ一体、コレクトコールなんかで電話かけてきやがって」

 

 

 少し埃に塗れた受話器をとると、そこから聞こえてきたのはちょっと前まで聞き慣れた妹弟子の声。

 声に激しく抑揚のある元気で快活で何処はかとなく上位者な雰囲気を漂わす声の少女は、それなりに久しぶりの会話であるはずだけれど、全く変わった様子がない。

 そういえば彼女にはココの電話番号を教えておいたんだったか。以前に、仮の住居に定めていたアパートの方の電話番号を教えて、大失敗したことがあったから。

 

 

『どうしたんだ、じゃないわよ! どうも一昨日から橙子師が失踪してるみたいなのよ! 幹也も居場所が分からないって言うし、もう今日の講義はどうするつもりなのよ‥‥!』

 

 

 ‥‥どうやら、橙子姉は鮮花達“伽藍の洞”の住人に何も言わないでロンドンまでやって来たらしい。自分の講義を放り出された鮮花が血相変えて連絡してきたようだ。

 どっちかっていうと本当に血相変えたのはちゃんとした従業員として雇われていた幹也さんの方だろう。雇い主がいなくなってしまった従業員なんて、想像するだけでも恐ろしい。まぁどっちにしろ幹也さんの給料の半分は俺が払っていたようなものだから関係ないっちゃ関係ないけど。

 

 

『大問題よっ! 幹也なんか今まで必ずメモか何かを残してたのにって、あっちこっち探しに行くって出かけちゃったのよ‥‥式と一緒に!』

 

「はぁ、そりゃ君にとっては大問題だろうね。というか俺にとってはそこまで問題じゃないんだけど」

 

『こらアンタ! 義姉が失踪してるのに気にしないの?!』

 

「いや、失踪って言うか、昨日からこっちにいるんだけど‥‥。ていうかホントに何も言わずに出かけたのか、橙子姉‥‥」

 

 

 まさに電話の向こうでは烈火の如く怒りながら怒鳴り散らしているだろう鮮花の姿が目に浮かぶ。とにかく一番の問題は幹也さんが式と一緒に出かけてしまったことであり、橙子姉がいないのは二の次に過ぎないのだろう。

 既に結婚式を目前に迫った二人だというのに、鮮花はまだまだ諦めるつもりがないようだ。まったく、おそらくは実際に結婚したり‥‥子どもが出来たりしても一向に諦める気はないに違いない。

 

 

『何ですってぇ?! まったく橙子師ってば何考えて突然アンタのところに行ったりしたんだか! 幹也も一々振り回されて‥‥。どうせ切っても裂いても煮ても焼いても死なないんだから、放っておいても大丈夫なのに』

 

「そいつぁ言い過ぎだぞ鮮花。流石にそれぐらいされれば橙子姉だって死ぬ。‥‥まぁ、死んだところで大した意味はないんだけど」

 

『つまるところ、それを死なないって言うのよ。‥‥で、橙子師はどういう用事でアンタんところに行ったの? まさか私達に連絡も無しに行くってことは、なにか簡単じゃない事件でも起こったってところでしょ?』

 

「‥‥‥‥」

 

 

 一転して鋭く聞き込んでくる鮮花に、俺は沈黙を以て返した。基本的に鮮花とのやり取りはコメディタッチのものになりがちだけれど、やっぱり鮮花は頭と勘が良い。

 橙子姉の行動の痕跡から、既に某かの事件が起こったことを突き止めている。こりゃ、下手して幹也さんとかを巻き込んだりしたら簡単にコトの顛末を解明されかねん。

 

 

「‥‥まぁ、そんなカンジだ。既に橙子姉に話はしたよ。大丈夫、こっちが済んだら多分すぐに橙子姉も伽藍の洞に戻るはずだ。幹也さんにも、そう言っておいてくれ」

 

『はぁ?! ちょっと紫遙、いくら何でもそんな説明で幹也が納得するわけないでしょ! もっと詳細で納得いく説明を———』

 

「あぁ悪い、電話代が心配だからもう切るよ。幹也さんにはくれぐれもよろしく」

 

『え?! ちょっとコラ紫遙待ちなさ———』

 

 

 ガチャン、とやけに軽々しい音を立てて受話器を電話騎へと下ろす。これ以上話していると、変なことまで勘づかれてしまいそうだ。

 今さっきの瞬間まで喋っていたせいか、自分が立てる物音以外が無くなった部屋は妙に静かで寂しく思えた。落差、という奴だろうか。寒々しくも思えてくる。

 

 

「‥‥鮮花とか幹也さんにも、謝らなきゃいけないかもなぁ。参ったね、こりゃ。謝らなきゃいけない人間が段々と増えてく騎がするよ」

 

 

 一度は下ろしたラックを再び担ぎ、大きく息を吐き出してから踵を返す。ここには暫く戻ってこられないから、掃除は念入りにやっておいた。‥‥まぁ、整理はしてないけれどさ。

 乱雑な方が好きだけれど、不潔なのは嫌いだ。それは俺も橙子姉も、青子姉も一緒で、あの伽藍の洞だって散らかってはいるけれど埃は綺麗に掃除してある。

 

 

 さぁ、行こう。

 魔術師が魔術師へと挑む決闘は、稀であるし古びているけれど、様式として実際に存在しているものだ。

 でも俺が今からするのは決闘なんて流麗な代物じゃない。これは、制裁だ。一人の魔術師が、自分に手を出した魔術師に対して、二度と刃向かう気にならないように、制裁を加えるのだ。

 

 俺はオレを、俺を守るために。そして何より魔術師として、奴を殺す。

 

 叩き潰す。

 一切の遠慮呵責なく、容赦もなく、加減もなく、全力を以て塵の一片、存在因子の一欠片も残さずに消し飛ばす。

 あぁ、思い知らせてやるさ。奴に、求めた者が奴にとっての光り輝く財宝なんてものじゃないことを。簡単に手に入れられるようなものではないということを。

 手に入れようと手を伸ばせば、その腕ごと喰い千切られてしまう竜の顎。まさにそれが、俺も含めた蒼崎というもの。それを、思い知らせてやる。

 

 

 額の魔術刻印が、熱を持つ。体中の魔術回路が、俺の意思に反応を示す。

 いつもより静かに、ゆっくりと閉めた部屋の扉。封印の術式を施して踵を返し、長い長い階段を目指して歩いていく。

 幕開けだ。魔術師の闘争の、幕開けだ。

 決意に込めた、魔術師としての怒りと矜恃。そして何より、蒼崎という名前。

 一歩一歩に魔力を込めるかのように、俺は歩き出す。その道の先に、きっと今までと変わらない未来と日常が、待っていると信じて。

 

 

 

 71th act Fin.

 

 

 

 




次回から最終章となります。改訂版も頑張って執筆していきます!

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