side Conrad=Einnash=Widhoelzl
人の精神、というのは非常に難解かつ魅力的な存在であると私は定義している。
そもそも魔術師ならぬ只人の中でも、人間が三つの要素で構成されているという話は比較的ポピュラーな考えとして定着している場合が多々ある。
ふむ、実際に人間を魂や精神のレベルでかっ捌くことの適わない一般の人間でも、結局のところ頭を絞れば似たようなところに辿り着くというのは非常に面白い話であると思うのだが‥‥まぁ、関係はない。
結局のところ、実体を知らないままに実態について論じたところで意味がないのだ。一生を費やしてみたところで、実態を知らなければ実体は分からず、実体のみを知っていたところで思考を放棄すれば実態には辿り着かないのだから。言葉遊びのようだが、真実だ。
人間を構成する三つの要素。
即ち、第一要素である魂。これは人間の中で最も重要であり、その人物について定義している代物と言っても構わないだろう。これが無ければ、人間は‥‥いや、人間でなくともソレがソレで在ることは出来ない。
次に第二要素である肉体。人間が物質界に干渉するためには肉体が絶対に必要だ。これが無ければ、物質界に人間が存在していることは出来ないのだ。それが何物であっても、肉体無しには人間は物質界にいられない。
そして、第三要素である精神。他の二つに比べれば大したことがない物のように思うかもしれないが、それでも肉体と魂を繋ぐ存在である精神がなければ、同じように人間は存在していられない。
ふむ、重要な二つを結ぶ架け橋。だからこそ‥‥人の精神とは面白い。
魂こそが人間の根本的な部分を定めるところであるが、それでも個人の持つ人格と呼ばれるようなものを定めているのは概ね精神であると言われているし、ふむ、私としてもそれは肯定してしかるべきだと思う。
魂が同一だとしても、精神が変われば人格は変わる。というよりも魂と精神は基本的に同一の持ち主の下にあるのだから、このような議論も意味のないものであるのだが、ふむ。
その人物のパーソナリティを認識したいのであれば、魂よりも先に精神が重要になってくる。魂に刻まれる記憶というものを読み取る際にも、重要になるのは魂自体よりも精神の方だ。
何故ならその記憶を持っている者自身も、直接に魂へと働きかけて自身の記憶を呼び起こしているわけではない。精神からの能動的かつ自立的な干渉で記憶を思い出している。
魂自体に干渉するのは魔法に片足突っ込んだ荒技である故に、精神への干渉こそが魂への干渉の第一段階ということになるのだ。その割に他の魔術師共は魂にばかり気を取られ、一番簡単な道を忘れてしまっている。まったく、笑いが止まらん。
さて、精神と一口に言ったところで、これが何であるかと定義するのは非常に難しい。
“魂と肉体を繋ぐ”というのも抽象的だ。具体的にどのような役割を、どのようなプロセスを用いて担っているのかというのを説明するのは小一時間では済まない‥‥というより、説明される側にも私の足下に及ぶぐらいには知識が必要となる。
ふむ、一々分かりやすく、蒙昧な連中に私がわざわざ魔術の基礎を説いてやるのも面倒極まりない。とにかくそのようなものだ、と認識出来るだけの機転が回れば問題なかろう。
あやふやな存在でありながら、最もその人物のパーソナリティを象徴する存在。であるからこそ、精神とは自我が宿る場所ではないかと私は考えている。
その人物の全ての情報を、それこそ前世を含めてありとあらゆる情報を格納する場所が魂。そして人間的な活動をするためのあらゆる要素、機能が詰め込まれているのが肉体。
ならば自身が認識できないものこそ、自身そのものであるべきだ。そう考えれば自我と呼ばれるものが精神に宿っていると考えるのは何ら不思議なことではあるまいよ、ふむ。
とすると、だ。
人間と呼ばれる存在を読み解こうとしたとき、一つの疑問が浮かび上がる。
例えば商品を吟味するのであれば、その商品につけられたタグや、商品そのものを調べることが大事になる。例えばタマネギを考えてみれば、どこで育てられたタマネギなのか、誰が栽培したタマネギなのか。
そしてタマネギ自体の表皮に傷はないか。腐ってはいないか。収穫されてからどれぐらいの時間が経っているのか。そういうことを調べるのが一般的な手段だろう。
しかし人間ならば‥‥いや、例えば競走馬や犬などならどうだ? これらはタグや商品自体‥‥商品の外側だけを見ても購入の決断はつけられない。
その犬の性格、気性、飼い主になるだろう自分との相性。単純に外見だけを見ても手に入らない、そういった様々な情報を入手しなければ調べられないのだ。
これと同じことが人間の精神にも言える。すなわち人間という存在を調べるならば、一番大切なのは魂でも肉体でもなく、精神だ。
ただここで注意しなければならないのは、先程までの議論と同様に精神が非常に捉えづらいものであるということだ。
まず定義自体が難しい代物を、どうやって解析しろというのだろうか。自分自身が自分自身の精神を捉えられていないのに、どうして他人の精神を捉えられるものだろうか。
一般人にかける魅了の魔術とは話が違う。そもそも常に身体に微弱ながらも魔力を流している魔術師という人種には基本的に魔力を叩き込む魔眼や魅了、暗示などの魔術は利き難いものであるし、ナンセンスだとして研究する魔術師も少ない。
ふむ、その点でいえば私は———幸いという言葉はあまり好きでないにしても———生まれの点で非常に得をしていたと言わざるをえんだろう。死徒二十七祖の一つの血をこの身に宿し、もちろん傍流ではあるにせよその研究成果の一端を、そのノウハウの一部を受け継ぐに至ったのだから。
長い長い時が必要になった。
まず精神というモノの基礎構造を研究するために、様々な種類の人間に暗示をかけて実験に利用した。
簡単な暗示をかけてみる。魅了や洗脳、そういった基本的なものから、今度は複雑な条件付けが必要になる強制契約などまで、それこそ種類を選ばず様々なものを。
その反応を見て、魔術的な干渉に対して一般的な精神がどのように反応するかをプロファイリングしていった。このあたりは、一般社会における実験のようなものと何ら違いはない。
魔術師のやる研究というのも、結局のところジャンルが違うだけで大して変わりはしないのだ。ひたすらに試行を繰り返し、その中から結果を得る。試行錯誤こそが研究者としての在り方だ。
ひたすら、ひたすらに僅かな条件の違いを設定して、試行と実験を繰り返した。いわゆる精神というものは個人によって千差万別で、およそ普遍的な反応というものは得られなかったが、それでも中間値とでも言うべきものを手に入れることは出来た。
妥協とは違う。こういうものは結局のところ多くの人に共通してある一定の成果が得られるという成果がベストである。たった一つの結果を要求される術式でなければ、基本的にはそういうスタンスで研究していくのが一般的だ。
そして手に入れたデータを元に、今度は新たな術式を、精神の構造を探る術式への構築へと踏み切った。これもまた、多くの時間を有したが‥‥。
私が根源を見限るまでの間、私の研究の殆どは精神に関するものに向けられていたといってもおかしくはない。
初めて封印指定をくらったあの、土地の記憶を実体化させる擬似固有結界も、実のところ精神干渉の技術を基本に組み上げたものである。土地もまた、システムさえ開発してしまえば人の記憶と同じように操作できると気づいたのは、いつのことだったか。
根源を見限り、様々なものへと根源以上の存在を求めて手を伸ばした後も、やはり精神に関する技術は私の役に立った。人間に関するものを調べる際には、これ以上の手がかりは無い。
あらゆることは人間が行う営みだ。もちろんこの中には死徒や妖精、妖怪、悪魔、その他もろもろの人間的な知能を持つ生物とて含まれている。
‥‥人間が行う営みの中に、例えどれだけ意味がないように思えても人間が、即ち精神が影響している。ふむ、ならば精神について研究することはあらゆることに同じく影響する要素を持っていると言えよう。
「ク、クク、ククククククク‥‥‥‥」
根源以上の存在を求めて続けた果てしない試行の繰り返し。
確実にそこにあるはずの根源とは違い、本当にあるのかどうかも分からない存在へのアクセス。それは本当に果てが見えないものであり、私は自らを機械のように試行を繰り返す存在へと変化させることで、その永遠に近い試行に耐えた。
繰り返すことは、耐えることだ。それが例え意味のある行為だったとしても、望んだ行為だったとして、それでも繰り返すことは耐え難い苦痛、苦行である。
特に私のように長い年月、数えるのも馬鹿馬鹿しくなる回数だけの試行は、並の人間ならば十年も耐えることも出来まい。だからこそ、私は自分を機械にしたのだ。
ふむ、例えそれを私が望んでいたとしてもだ。
「ああ、長かった。長かったなぁ‥‥。ここまで来るのは、長かったなぁ‥‥」
根源以上の存在とは、何か。私にはそれが分からない。しかし、だからこそ目指す価値があるとも言える。
傲慢でも驕りでもなく、魔術師として最高峰の腕を持ったこの私。その私が足を踏み入れることが出来なかった根源という存在。
だからこそ、私は根源を見限ったのだ。根源など、我々魔術師が目指すべき存在ではないのだ。私は選ばれなかったのではなく、選ばなかった。それだけの話である。
ならばこそ、私は根源以上の存在を確信する。それが例え理論では実現するかどうかも分からない代物であったとしても、私は私の意思でこそ存在を確信しているのだ。
実態も分からず、存在も不確か。あやふやで、どうやって辿り着いたらいいものか、どうやって掴めばいいものかも分からない。
「‥‥しかし、それも終わりだ。ついに見つけたぞ、ついに、ついに見つけたぞ。私は、見つけたのだ。クク、クククククク‥‥‥‥」
全てがある、と言われている根源。全てが其処から生まれた、と言われている根源。
ならば根源以上の存在とはいったいどのようなものか。今度は全て以上、などというワケの分からない言葉遊びのようなことをするつもりはない。
根源へと達すれば、全能か。しかし魔法を得ることは決して全能というわけではない。ならば魔法などという遠回りな方法ではなく、直接根源へと辿り着かなければ私の欲しかったものは得られなかったことだろう。
ふむ、とするとだ。やはり“根源以上の存在”へは直接至らなければ意味がない。魔法のように、遠回りな方法でのアプローチは論外だ。
直接、根源以上の存在へとアクセスできる方法を探さなければならない。
不完全な方法で根源以上の存在へと辿り着いても、意味がないのだ。徹底的に、完全に、完膚無きまでに私は根源を超える。根源以上の存在へと辿り着き、私自身が根源を超える。
「ああ、どれほどまでに夢見たことか。私が、私の存在が証明されるこの時を。私という存在を取り戻す、その時を。
分かるか? 私がどれほどまでに絶望したことか。失望したことか。‥‥切望したことか。
私が私を正確に定義しているのだから、私を正確に定義していないのは周りの連中だ。しかし私は、私が私自身を正確に定義しているという程度の認識で満足など出来ない。それでは‥‥不完全なのだ」
私には決して、自己顕示欲などという低俗な欲望はない。私は全てのものが正確に、平等に定義されることを望む。私にあるのは、即ち知識欲と正当なものへの欲求だけだ。
ならばこそ私は、私自身が正当に評価されることを望む。たとえそれが私でなくてもいいあらゆるものが、正当に評価されるべきだ。しかし今は、一番に評価されてしかるべき私が評価されていないのだ。それは、正当な評価たらしめられていないという事実そのものを侮辱している。
不完全な評価は、不完全な認識は、不完全な定義は‥‥不完全な世界を導き出す。不完全なものは許せない。
私は完全であるものを望むのだ。完全であることを望むのだ。‥‥完全なものが、欲しい。完全になりたいのだ、私は。
「あぁ、楽しみだ! 楽しみだなぁ! まず最初はどうしようか、精神の表層を刺激して記憶を呼び起こし、一つ一つ解していくのがいいかなぁ?」
久々の、弄り甲斐のある素材。自分の専門分野に関する話なだけにいくらでもやり方はある。
最終的には、精神からの間接的な干渉(アクセス)によって記憶を探り、そこから根源以上の存在、上位世界への道筋を探るという形になるだろう。しかしそれまでに、色々とやらなければいけないことは多い。
その過程で、少しばかり楽しもうという気持ちが働いても仕方がないことだろう。いや、その程度は許されて然るべきだ。
上位世界の存在。誰もが、おそらくは初めて遭遇するだろう上位世界の存在の精神。それをどう解体していくか、どう解析していくかは本当に楽しみである。
実際に記憶を読み取った、あの短時間の中では普通の人間と大した違いを認めることは出来なかった。しかしアレは、あくまで黒化した英霊の召喚のための触媒を得るという目的の一環に過ぎない。
それ自体を目的に精神を探れば、もっと様々なことが分かるに違いない。表層だけの検索だけでは分からなかった、様々なことが。
最終的な目的である、根源以上の存在、上位世界へのアクセスの過程。それもまた楽しみになる。
およそ新発見というものについて、殆ど期待というものをしていなかった今までの私の試行の繰り返し。それを打開するような、期待の詰まった新たな研究対象。
どれほどまでに、それが私にとって素晴らしいものであったことか。どれほどまでに、それが私にとって愛おしかったことか。
「あぁ待ち遠しい、待ち遠しいぞシヨウ・アオザキ‥‥! 無為に過ぎていくだけだった毎日が、まるで百年にも引き延ばされたかのようだ! 待っていろ、用意が調い次第、すぐに迎えにいってやる‥‥!」
部屋を用意した。普段なら簡素なもので済ませてしまう食事も、一人増えるということでそれなりの素材を調達してきた。
何を試そうか、という魔術師としての思考と同時に、何をしてやろうか、という不思議な思いも働いている。ふむ、これは一体どういうことなのであろうか。初めての体験に、何度となく捻った首を再び捻る。
特定の個人に向ける感情としては、今まで体験した中で最も濃い衝動。シヨウ・アオザキを研究対象として見るならば、純粋にその価値観を論じればいい。他は全てが不要であり、不純なものであるはずだ。
しかし現に私は、魔術師としては不完全で不純な感情を覚えている。それも、今まで全く経験したことがない類のものを。
これは一体どんな感情、衝動だろうか。本来ならば研究以外には殆ど意識を向けないはずの私が、このような余分な感情を抱くのもおかしな話だ。
まるで、話に伝え聞く恋のよう。純粋に存在の要素同士が惹かれ合っている。性別など問題にならない、互いが互いの存在に対して価値を見出せば惹き合う理由には十分過ぎる。ふむ、非常に興味深い。
「クク、ククク、ククククククク‥‥! あぁ楽しみだ、待ち焦がれているぞシヨウ・アオザキ、お前のことを! お前は私のところに来るべき存在だったのだから、この展開も当然と言えよう、ふむ。
ハハハ、楽しみだ、楽しみだなぁ! やはり出迎えは盛大に、私達の栄光の幕開けとしてそれなりの用意を調えなければ———ん?」
「ぐ‥‥う‥‥!」
心の奥底から湧き上がる歓喜に身をゆだねていた私の耳に、小さな、本当に小さな呻き声が聞こえた。
今の今まで完全に頭の中から存在が抹消されていた、とるにたらない要素。私がこの城へ冬木から戻ってきた翌々日に訪れた、私が管理する霊地‥‥つまり此の地に住まう魔術師の一人である。
「‥‥貴公は、自分が何をしたのか分かっているのか、ヴィドヘルツル公! 魔術協会によって認知された他の霊地に無許可で忍び込み、あまつさえ魔術協会から派遣された調査部隊や、執行部隊まで全滅せしめるとは‥‥!」
「ふむ、何をそのようなどうでもいいことについてグダグダと述べているのか? 必要なことがあれば、する。魔術師として当然の行動とは思わんかね?」
広間の中央に一時的に出現した柱に、幾本もの頑丈な鎖で縛り付けられた魔術師。
私の家名‥‥ヴィドヘルツルの家によって管理されるこの霊地に昔から住み、我が家とも古くから親交を結んで来たそれなりに名のある家系の現当主だ。
名前は忘れてしまったが、どうやら私が長らく代替わりに気づかず、あるいは気にしないで隠遁していた時代に、管理者(セカンドオーナー)としての仕事を代行していたのもこの魔術師であったらしく、此の地に住まう他のいくつかの魔術師達の取りまとめ役も担っているらしい。
「思わん! いいか、貴公には貴公の行動が何を招くかという認識が欠けている! 貴公自身が封印指定されても処刑されても、それは貴公自身の責任だろう。しかし貴公は、貴公は此の地の管理者(セカンドオーナー)なのだぞ?!
貴公の行動によって此の地そのものに、我々にもペナルティが課せられるという可能性を、少しも考えなかったというのか!!」
名も知らぬ魔術師は、散々痛めつけられ今も尚それなり以上の力で縛り続けられている身にも関わらず、その身体のどこにそんな力が残っているのかと不思議になるほどの声で怒鳴った。
何かの思惑があって私の城に来て、あまつさえ遙かに実力に劣る身でありながら説教を、さらには愚かにも捕縛などを試みたのであろうが‥‥。ふむ、いまいち要領をえない奴だな。
「ふむ、私がする行動が、君達にどのような影響があるというのか。私は君達が何をしようと私には関係ないと思っているし、私が何をしようとそれが君達に関係することはないとも思っている。
私は、魔術師として私がやりたいこと、やらなければならないことを何の躊躇いもなく行う。魔術師にとって必要なことを、躊躇したり再考したりする必要があるのかね?」
「‥‥貴公は、我々や貴公自身がどうなってもいいと申すのか。我々は魔術師であると同時に、人間なのだぞ。集団を組んで動いている以上は、集団を意識して行動しなければならないのは当然の理だろう!」
「ふむ、それは凡人だからこそ、そう思うのだ。私には、私にしかやり遂げられぬ崇高な使命がある。それを遂行することを思えば、凡人達がどれだけ群れていようと、どれだけ喚いていようと、私には関係ない。
たとえお前が、どれだけ喚こうとも。私のすることに利益がないのならば一切気にはしない」
「貴公は‥‥管理者(セカンドオーナー)としての責務を放棄するというのか‥‥ッ!」
「興味が無い」
「ぐぅ‥‥ッ!!」
魔術師は私を殴ろうとでもしたのか、一歩前に出ようとして鎖に戒められ、再び呻き声を漏らす。
哀れなことだ、魔術師という超越者であることを選びながら、只人のように組織や他の有象無象に縛られている。この者を縛る鎖は単純に視覚的な、物理的なものばかりではない。今この男を縛っている鎖は、この男の境遇そのものを表しているのだ。
「‥‥ふ、ふふ、ふふふはははははは‥‥‥‥!」
「ふむ?」
「なるほど、そうか、そうなのか。ならば終わりだ、我々も、貴公も‥‥!」
俯いていた男が、戒められて不自由な肩を震わせて笑い出す。まるで気でも触れたかのように、最初は小刻みに、そして最後には精一杯に身体をゆすって大きな声で。
人の精神を解読していく上で何度も眼にした、最も眼にした感情。すなわち、絶望。言葉で表すとおりの絶望が、男の身体からあふれ出していた。
「知っているか? 此の地に用事があるときは管理者(セカンドオーナー)として全く仕事をしない貴公ではなく、慣習的に私のところへ手紙が来ることを。そして貴公が帰って来ると同時に、私の元に魔術協会から一通の手紙が届いたことを」
「‥‥ふむ、知らんな」
「貴公が! 冬木の地で行った愚行のために! 貴公には再度封印指定が執行されることとなったのだ! しかも、すぐに! そして此の地は魔術協会の直轄地になるということも!
直轄地というのがどういう意味を持っているのか、貴公は理解していないだろうな! あぁそうだろうとも! 貴公は、今の今まで全く自分の研究以外に興味を払ってこなかったのだからなぁ!?」
男の顔は口を極限まで笑いの形に変え、目を血走るまで開ききった醜悪なものだった。
普通の人間ならば、人の顔がここまで醜悪に変えられるのかと驚愕しただろう程に醜悪な笑顔。それも、絶望というスパイスの加わった。
だがしかし私にとっては左程見慣れぬものでもない。私が研究の過程で様々な感情を人間に味合わせた際に、最後に見れるのはどれもこれも押しなべてこのような絶望の諦観の笑顔であったのである。
「‥‥直轄地とは、全く自由度の許されていない場所なのだ。我々の研究内容は逐一報告しなければ在住を許されず、何かあれば問答無用で協会の使いっ走りにさせられる。魔術協会という組織そのものに最初から隷属している魔術師でなければ、とてもじゃないが耐えられん!」
「出て行けばよかろう。私は、ソレを気にすることはない」
「何処へ行けばいいのというのか?! 他家の霊地など新参者が入れる場所ではないし、仮に入れたとしても到底許容できない重課を課せられるに決まっている!
貴公のせいで、貴公のせいで此の地に住まう全ての魔術師が破滅の道を歩むことになる! 百年続いた我が家もな! 貴公が、貴公さえいなければ! 貴公が貴公でさえなければぁ!」
みしみしと嫌な音を立てて軋む。この男が全身全霊、ありとあらゆる手段を以て私の魔術による戒めに抵抗しているのだ。
だが、この音は決して鎖がその抵抗によって壊れてしまおうとしている音では決してない。むしろ、新たな段階へと向かう知らせの音である。
「呪ってやる! 呪ってやるぞ! コンラート・E・ヴィドヘルツル!! 貴様さえ、貴様さえ凡百の魔術師と同じような人間ならば! 貴様さえいなければ、我々は! 私の家系は———グアァァァアアアッ?!!!」
痛みに慣れた、痛みをコントロールする術に長けた一流の魔術師が初めて叫び声を上げる。苦悶の声ではなく、まるで獣のような叫び声。
基本的に魔術は行使するのに痛みを伴う場合が非常に多い。そんな魔術師がこのような叫び声を上げるとすれば、それは断末魔に他ならない。
「ア、ガ、ガァ、ガァァァアアア!!!」
魔術師を戒めていた、つい先程まで激しく軋んでいた鎖が赤く輝く。
これは捕縛していた相手が一定以上の負荷を鎖にかける程に暴れた場合、自動的に動く仕掛け。強度的には何の問題もないのだが、捕縛を続けるのが困難だと思ったがために途中で方向性が変わってこうなった。後悔はしていない。
柱に強く、きつく縛り上げていた鎖は、赤く輝きながら縛り上げていた魔術師を更に強く、きつく縛り上げていく。その強さは縛り上げるレベルを優に超え、もはや絞め殺す勢い。当然だ、それが目的なのだから。
「が、あ、あぁ、あぁぁぁあ‥‥!」
口から血を撒き散らし、何か堅い物が砕けるような音を立てて魔術師は崩れ落ちた。
魔術師は、魔術回路と魔術刻印の働きによって死ににくい身体を持っているが、それでも流石に体中の骨と内臓を砕かれ、破裂させられては生きていることは適わない。
口から大量の血を吐き出して俯いた魔術師は、大きくビクリと痙攣するとすぐに動かなくなった。外見上は少し全体的に青くなっている程度だ。ふむ、まぁ大量の血によって真っ赤に彩られている、という違いはあるが。
「ふむ、やはり魔術的な抵抗を阻害する効果を付加(エンチャント)しておいたのは正解だったか‥‥ん?」
名のある欧州の教会の大聖堂にも匹敵する、広い広い室内。豪奢かつ大きな椅子があるこの部屋‥‥というよりは広間を、私は便宜上“玉座の間”と呼んでいる。
無駄に広いこの城は、隅から隅まで私の目を光らせているとはいえ常に把握している部屋や箇所というものは存外に少ない。大体の部屋には封印をかけたり、もしくは研究材料や研究成果の保管場所として用いていた。
ちなみに普段から私がいるのは地下にある工房であるが、他の魔術師が攻めて来た際の備えとして各種の罠を機動する司令塔としての役割はこの広間が担っている。とはいえ制御機器があるというわけではなく、私が術式を制御しやすい場所だという話だ。
この広間にいれば、城の中全てが手にとるように分かる。その私の感覚網とでも言うべき術式に、一つの異常が感知された。
それは些細な異常などでは、例えば神経を凝らして漸く見つけることの出来るような、隠匿された異常では決してない。
むしろどちらかといえば堂々としたものだ。宿直中の警備員が気を抜きながらもちらりと横目で見た監視カメラの映像に不審な人影を見つけた、そんなものではない。どちらかといえば、堂々と予告状まで出した怪盗がスポットライトを浴びながら空から降りてくるような、そんな感覚。
自らの来訪を一切隠すことはない。何一つ自分のすることに恥じるところなどないとでも言いたげに、私の領地の入り口へと訪れた。
いわば、盗人や暗殺者などのような訪れ方ではなく、正々堂々と果し合いの名乗り上げをする英雄のような、そんな昨今稀に見る訪問者。
今までこの古びた城を訪れた客人が管理下にある魔術師か、あるいは一般の盗掘者などのような連中ばかりであったがために、このような来訪は初めてだ。
「ふむ、これは‥‥まさか‥‥」
視界を切り替えて、我が領地の入り口、きちんと舗装されていながらも古びた山道の麓を映す。
近世に入ってすぐにおざなりに舗装された道はひび割れ、かろうじて車一台が通れるぐらいの広さだが、普段なら村人以外は人っ子一人寄りつかない山奥の集落の入り口に一つの人影があった。
特にこれといった特徴のない平均的な体格のモンゴリアン。おそらくは、日本人。
やたらと頑丈そうな、無骨なミリタリージャケットを羽織り、短めの髪だから必要ないだろうに色が擦り切れた紫色のバンダナを額に巻いている。
なにやら太い筒を背負い、道の先を睨み付けるその姿はまさしく先程に例えた決闘者のよう。そして挑戦されるのは、私だ。
「‥‥まさか、まさか君の方から逢いに来てくれるとは‥‥!」
その姿を見た瞬間、私の頬が一気に緩む。待ちに待っていた恋人が、向こうの方からやって来てくれたのだから、これを喜ばずにはいられないだろう。
こちらから、迎えにいくはずだったというのに、君の方から私へ逢いに来てくれた! ふむ、ふむ、ふむ、ふむふむふむ、素晴らしい! あぁ素晴らしい!!
そうだ、分かっているべきだろう。我々はそれぞれが、それぞれの価値というものを持っている。そしてその価値を最大限に生かせるような生き方をするべきなのだ。
私にとっての自分の価値とは、即ち根源以上の存在を目指すこと。そして彼の価値とは、その別世界の記憶を元に、私の研究に貢献することに他ならない。
ふむ、それ以外に何があるというのか。誰もが個性というものを、それのみが自分のアイデンティティー、存在理由として所持している。ならば、それは自身の最も特異な一点でのみ表現されるべきである。
つまり、ならば蒼崎紫遙‥‥いや、■■■■は異世界の住人であるという、それこそを自分のアイデンティティとするべきなのだ。
それこそが個性。それこそがアイデンティティ。そして彼の知識が及ぶ範囲を歴史が通り過ぎてしまった以上、彼の存在価値とは即ち、私がこれから試そうとしている実験へと貢献することである。それ以外に、存在価値など認められない。
「‥‥よろしい、よろしい。ならば盛大に出迎えてやらなければいかんな」
魔術回路を回転させる。盛大に出迎えると宣言した以上は、私の全力を以て彼の決意、覚悟に応えなければならない。
私も、彼も、魔術師。ならば私がするべきことは先ず、私の魔術師としての力量を見せつけること。
さぁ始めよう、蒼崎紫遙。そして■■■■よ。
我々は新たな段階へと進む。根源を目指していた存在を魔術師と呼称するならば、根源に達した存在を仮に魔法使いと呼称するならば。
我々は、根源以上の存在を目指す我々は更に高次の存在へと昇華する。魔術師などという言葉では表現できない、新たな存在へと。
◆
「‥‥ここが、ヤツの根城か‥‥」
ドイツの片田舎。山中に寂しく、細々と埋もれた山村‥‥いや、一応は街という体裁を整えている小さな集落へ、俺はやって来ていた。
昔は一つの城下町として、大きく繁栄していたのだろう。そこまで建物の数は多いわけではないにせよ、古く頑健な造りは何か敵の襲撃でも想定しているかのようで、当然のように集落全体が城壁で囲われている。
そもそも山の中にあるという時点で、かなり敵襲に対して有利な状況を調えているのだろう。惜しむらくは城下町の規模が小さかったのと、あまりにも山奥にあったがために物流から外れてしまったことか。
今の今になっても細々と人々が暮らし続けている集落は、とても静かで、とても寂しい。
「‥‥まるで中世の頃から、全然変わってないみたいだな。魔術師が支配する霊地っていうのは、こんなもんなのかもしれないけど。まぁ、冬木が特殊なだけ、か」
冬木のように、一級の霊地でありながらたくさんの人が集まってそれなり以上の規模の地方都市になっているという場所はそこまで多くない。
俺が名字としている“蒼崎”の支配する、三咲町の近くの霊地にしても人はそこまで多くない。まぁ三咲町にしてもそれなり以上の霊地としての格を持っているし、観布子も同じだ。というより、あの辺り一帯は土地の力が強い。
おそらく日本ぐらいだろう。あの国は狭い領土を持ちながらも非常に土地の力が強く、そしてその狭い領土に驚く程に大量の人が住んでいる。だから、霊地にたくさんの人が住むという異常な事態が許容されている。
ヨーロッパとか、他の国ならば一級の霊地にはそれなりの備えというものがあるし、そもそも霊地の多くは人の手が入りにくいような場所にあるものだ。
反面、人が多く集まった霊地なんてものもある。そもそも霊地だからこそ、人が集まったような場所とおも言うべきだろうか。霊地にも色んな種類があって、それでもそういうところにはそれなりの備えがされている。
この霊地はどちらかというと、二番目の例に当てはまるらしい。人の手の入りにくい場所に霊地があって、そしてそこに強引に人が住み着いた。
元々、人が住むような場所にない霊地に人が住むと、それなりと祟りみたいなものがあって当然だ。おそらくここは、霊地によって障られたが故にここまで寂れてしまったのだろう。元々は城が建つぐらいには栄えていただろうに、当時の領主が何かやらかしたのかもしれない。
霊地は、ただそこに住んでいるというわけにはいかない場所なのだ。遠坂嬢だって管理者(セカンドオーナー)として霊地に対しての責任を果たしているのだから。
「‥‥しかしここまで人気がないのも異常だよなぁ。まさか、ヴィドヘルツルのヤツが何かやったか‥‥?」
冬木のような大規模な場所ではそうそう美味くいかないけれど、この程度の規模の霊地ならば支配者である管理者(セカンドオーナー)によって、何らかの仕掛けを施すことも不可能じゃない。
おそらく、おそらくは何かの術式を集落の全てに張り巡らせているのだろう。‥‥軽く匂いを嗅ぐに、多分、“夜”という概念を強化した結界の一種だ。
夜に、人は外に出ない。特にその概念を強化された結界の中に閉じこめられれば、夜遊びや深夜の出歩きを許容する現代の人間達でも家の中に閉じこもって大人しくしていることだろう。
「やってくれる。どうやら、この村に入る道の入り口に踏み入れた段階でバッチリ把握されてしまったらしい」
人っ子一人いない道を迷うことなく奥へ奥へと歩いていく。
やたらと蛇行して、しかも狭い道は敵襲を予想しているものだろうけれど、現代に至っては物資の流通や人通りに不便なだけの狭っ苦しい道にしかなっていない。
そして住人が少ないがために一本道。狭いから一度に通れる人数は少ないだろうけど、残念ながら襲撃者を迷わせる効果はなさそうだ。
「‥‥この中にどれぐらいの魔術師が住み着いているんだろうね。これだけ小さな集落で、しかも霊地。住民の一割が魔術師でも驚かないぞ、俺は」
城下町を通り過ぎ、また少しばかりの山道を登る。日本の城のように城のすぐ近くに町が広がっているわけではなく、ここの城は町から少し離れているらしい。
一応は開かれている山道を過ぎれば、目の前にはこれまた廃墟レベルにまで荒れ果てた古い古い城がそびえ立っていた。
「‥‥さて、魔術師の工房に真っ正面から突っ込むなんて真似をしようと思ったはいいけれど、ここからどうするか?」
俺の身長の二倍ぐらいはある扉は苔生し、蔦に覆われている。まるで数十年‥‥いや、もしかしたら百年は開いたことがないのではなかろうか。
下手すれば廃墟レベルを通り越してそのまま廃墟、むしろ遺跡と言うべきか。とにかく人が住んでいるような場所には見えない。が、逆に魔術師の住居と考えればこれほどまでに相応しい場所もないだろう。まぁ、目立ちすぎるけれど。
「分かっているんだろう、俺が来たことは。バカみたいな訪問の仕方で悪いが、とっとと扉を開けろ。仁義を切りにきてやったぞ」
もはや大声を出す必要もなく、普通に目の前の人と話すように声を出す。おそらくヤツが相手なら、聞こえるはずもないこの声もしっかりと聞こえているはずだ。
ああそうだろう、分かっているんだろう。さぁ俺が来たぞ、お前が待ち望んだ俺が。待っていたんだろう、俺が来るのを、俺を手に入れるのを。
ならば急いで迎えに来い。
しっかりと気づいているはずだ、俺がただお前の軍門に下るために来たわけじゃないことぐらいは。
だとしても俺を拒むことなどできないはずだ。変態的な言い方になるから非常に嫌なんだけど、それでもお前は俺は迎えるはずだ。
俺がお前を殺す気だろうと、お前は俺を城に迎える以外にない。そして俺の挑戦を受け入れる以外にない。
それがお前という魔術師の在り方だろう。誰よりも傲慢で、誰よりも不遜。情けない話だけれど、俺はそこにつけいれさせてもらう。
『ク、ククク、ククククク‥‥! あぁ楽しいな、おもしろいなぁ君は! いいだろう、入りたまえ蒼崎紫遙!』
何処からともなく聞こえてきた、声。それは冬木で遭遇した、全身白尽くめの魔術師の声。俺を、心の底から揺さぶった魔術師の声。
おそらくはニヤニヤと笑っているんだろう。醜悪な顔で、吐き気が出るくらい醜悪な顔で、どこまでも楽しそうに嬉しそうに笑っているんだろう。
俺が、怯えそうなぐらい怖い、恐ろしい顔で、恐ろしい声で、そいつはきっとそこにいる。
ギシリ、と苔生した扉に生えていた蔦が千切れていき、そして扉は開かれる。
中は真っ暗で、何も見えない。窓という窓が閉ざされて‥‥というよりも、そもそも窓なんてものはあるのだろうか。とにかく中には灯りらしきものは一つもないらしい。
まるで何もかも飲み込んでしまうかのような暗闇へ、大きく息を吸いこんだ俺は一歩、足を踏み入れた。
「よく来てくれたね、蒼崎紫遙。君も漸く君自身の価値をしっかりと理解し、その使命に殉じる覚悟をしてくれたようで嬉しいよ」
「冗談抜かすな、コンラート・E・ヴィドヘルツル。いや、天災ヴィドヘルツルとでも呼ばれたいのか、お前は? まぁ肩書きなんてものに興味を持つような性格には見えないけれど」
「ふむ、よく私のことを分かってくれているじゃないか君は! クク、互いのことを分かり合うというのは素晴らしいものだ、あぁ素晴らしいものだ! やはり私と君との仲は運命づけられているのだろうよ、素晴らしい素晴らしい素晴らしい素晴らしい素晴らしい!!」
足を踏み入れたところは、まるで城という想像通りの広間。豪奢な装飾がいたるところに、それこそ芸術品に疎い俺が見ても分かるぐらいに素晴らしい装飾が施されている。
床は綺麗なタイル張り。単純に俺の語彙と知識が不足しているからタイルなんて風情の無い言葉を使ったけれど、実際にはちゃんと中世当時の素材なわけだから別の尤もな言い方があるのだろう。
ただし全てが全て当然のように古びていて、ひび割れ、欠け、汚れている。百年以上の月日を重ねているのならば当然と言えるけれど、灯りのない広間は更に不気味な雰囲気を醸しだしていた。
「魔術師同士の研究において大事なのは、単純に利害関係だ。信頼には意味が無く、そこにあるのは僅かな信用だけだ。
利害関係があればこそ、魔術師は共同研究の相手を裏切ることはない。裏切ることにメリットがないと認識していれば、魔術師は魔術師を裏切ることはない。しかし、裏切ることでメリットがある、もしくは裏切ることによるデメリットがなければ何の躊躇もなく裏切る。
ふむ、君と私との関係も同じだな。いや、違う、またそれとも違う高次元な関係と言える。お互いに、お互いの存在意義や在り方、在るべき姿として引き合っている! そうだ惹き合っているんだよ! ここに信頼すら生まれる! あぁ素晴らしい、素晴らしいと思わんかね?!」
「人の話を聞くつもりがないのか? なぁおい、コンラート・E・ヴィドヘルツル」
「いやいや分かっているとも、もはや私達の在り方というのは魔術師同士の関係というものとも違う。いや、進化したともいえるものだ!
根源を目指すのが魔術師ならば、根源以上の存在を目指す私達は魔術師以上の存在だ! ならば魔術師としての常識に捕らわれるのも滑稽と言える。我々は、我々の新しい在り方を探さなければならん」
「人の話を聞くつもりがないんだな、そうだろ、コンラート・E・ヴィドヘルツル」
広間の奥、この広間の横幅の半分近くを占拠する広い広い階段の上に、その男は立っていた。
冬木で出会った時のような、上から下まで真っ白いスーツ。白いボルサリーノに、白い三つ揃いのスーツ。靴下も驚くくらいの純白で、当然のことながら靴も白。靴紐まで、真っ白だ。
年月を経た、手入れをしていない金細工のようにくすんだ金髪によって疎らに覆われた瞳が、まん丸に見開かれている。驚いたのではない。喜んでいるのだ。限度を超えて、喜んでいる。
細く歪むのなら、まだ常人の範囲内。ここまで目を見開けば相手に恐怖を与える程の尋常じゃない喜び。狂喜。見るだけで、知っていても怖気が走るぐらいのもの。
「何を言っているんだ蒼崎紫遙? 君と私とはもはや一蓮托生、運命共同体‥‥いや、共に運命を切り開く同士じゃないか。君と私との間に言葉など要るのかね? いいや要らないね、必要ない。そうだろう、君と私との仲じゃないか!
私達の意思は私達のあるべき姿に向けられている。私は根源以上の存在を目指し、君はその知識を以て私の研究に貢献する。そして二人で、私達で新たな世界へと道を開き、根源を超えるのだ!」
「あぁよく分かった、要するに俺の話を聞く気はないんだろう、まったく」
階段の一番上で、高笑いを続けるコンラート・E・ヴィドヘルツル。狂人の倣いとして人の話を全く気にしちゃいない。
俺にとっては何の意味もなく、というよりも意味の分からないことを大きな声で喋り続ける。
「はてさて、君が何を言っているのか全く分からないが、とにかく既に用意は出来ているぞ? 君のために必要なものは全て揃っているし、術式の支度も万全だ。今すぐにでも始められるぞ!」
「俺にはお前が何を言っているのかさっぱりだ。‥‥いいか、念のため確認しておくけれど、俺は別にお前の研究の糧になるためにここへやって来たワケじゃない」
「‥‥?」
「———
またしても、何を言っているのか分からないとでも言いたげな顔で沈黙するヴィドヘルツルに対し、俺は大きく溜息を、いや、吐息をつくと階段の上の魔術師を睨み付けた。
真っ直ぐに立っていた身体を斜めに、相手に対する面積を減らす。左肩を前に、腰の後ろに柄が右になるように差した短刀をすぐにでも抜き放てるような体勢をとる。
左肩に担いだ筒の中の魔術礼装は俺が手に取らなくても問題はない。始動キーを唱えて魔力を注げば、勝手に飛び出してくれる。だからこそ左肩に背負ったのであり、そちら側をヤツに向けた。
身体の戦闘準備を調えたのなら、次は魔術師としての根本的な戦闘準備を調える。衛宮にとっての、『
体中に張り巡らされた魔術回路から生成された魔術が、俺の身体から迸る。一流の魔術師に比べれば大した量じゃないかもしれないけれど、それでも俺を魔術師たらしめる俺の魔力だ。
僅かに鈍い痛みを伴うこの感覚。これこそが、魔術師である証。魔術師である実感。
「俺は魔術師として、俺の秘密を知ったお前を許さない。俺から抜け出した秘密がこれ以上広まらないように、お前を殺す。存在の一片も残さず、消滅させる。‥‥そのために、来た」
「‥‥‥‥」
「魔術師として、尋常の決闘を申し込む。‥‥古いしきたりだけど、同じくらい古い魔術師であるお前なら知っているだろう。
‥‥古い魔術師の決闘は、つまり殺し合いだ」
魔術回路が、戦闘可能なレベルまで励起される。即座の魔術行使も問題ない、魔術師としての戦闘準備が完全に整った。
左肩に提げた橙子姉謹製の魔術礼装も、腰に差した短刀も、同じく腰に括り付けた袋の中のルーン石も、そして懐に潜ませた幾つかの切り札も。
全てが準備完了。俺は、俺の全てを以て、魔術師としての全てを以て目の前の敵を打倒する。不利益を看過することは出来ず、故に俺は俺の敵を始末する。
その決意を以て起動した魔術回路。そして魔術師としての俺。蒼崎、紫遙。
「さぁ、殺し合いをしよう、コンラート・E・ヴィドヘルツル。例えお前が俺を掴まえる気だったとしても、俺はお前を殺すつもりだ。その存在の一片たりとも残しはしない。お前の細胞一つ一つに俺の秘密が息づいているのなら、細胞一つ残さずに消し飛ばす!」
俺の魔術回路の励起に合わせて、まるで同調するかのように左肩に提げた『魔弾の射手(デア・フライシュツ)』が震えた。いつもいつも、俺と一緒に死線をくぐり抜けてきた相棒は、精一杯に俺の期待に応えてくれるつもりらしい。
魔術師同士の戦闘は、決して初めてじゃない。数回にも満たない経験ではあるけれど、魔術師との戦いは確かにやったことがある。けれど、決闘という定義の戦闘は初めてだ。
今も世に伝わる、魔術師の決闘とはまた違う古いやり方。純粋に魔術の実力を競うのではなく、全ての戦力を用いた殲滅戦、即ち戦争。
古い魔術師の決闘とは、つまるところ戦争なのだ。相手の全てを尽く叩き潰し、消滅させる戦争。そこには決闘という世間一般的な言葉に含まれるロマンなんてものは一切入ってない。
「さぁ、魔術回路を起動しろ! 術式を張り巡らせろ! 俺は、お前の敵だ!」
「‥‥‥‥」
全身に戦闘の意欲を漲らせ、階段の上、俺よりも遥かに高い位置に立った魔術師を睨み付ける。
全てをぶつける、そんな覚悟と意思を露わにした俺に対し、その男‥‥ヴィドヘルツルは全く反応を見せずに立ちつくしていた。
ただ、俺を見ている。何の感情も見せない、驚くほどに純粋な色を湛えた丸い瞳で。子どものように無垢で、痴呆のように白けている。
まるで機関銃‥‥いや、それでは自分を過大評価し過ぎだから精々が拳銃だろうけれど、武器を構えた強盗を前に手ぶらで、何の構えも用意もせずに立ち尽くしているようだ。
全くもって、不可解。普通の人間ならば挑発しているのか、バカにしているのかと怒るところかもしれないけれど、俺としてはそこまで単純な話ではないだろうとも思う。
この狂人の理屈が理解不能なものであることは先刻承知。しかし理解不能でありながらも、そこに理屈があることは間違いない。
だからこそ、意味もなく立ちつくしているわけではないのだ。
「‥‥成るほど、成るほど成るほど成るほど成るほど成るほど」
「?」
「確かに君の言いたいことも尤もだ。しかし残念だよ、蒼崎紫遙。私は君が私のことを十分に信頼‥‥いや、せめて信用してくれているものだとばかり思っていたが、どうやらまだ私の力を理解してくれていないようだ、ふむ。
私としては、冬木の一件で君に私の実力というものを見せて、信頼を勝ち取ったように思ったんだが‥‥。成る程、ふむ、それだけでは君は不足だったようだな」
「はぁ?」
何に納得できたのだろうか、ヴィドヘルツルはニヤニヤと何度も何度も何度も激しく頷いてみせる。
頭だけではなく腰から上まで激しく前後に振って、その両腕はぶらんぶらんと激しくしっちゃかめっちゃかに、てんでんばらばら、全然ばらばらに動いていた。まるで、出来の悪い、古い古い玩具のように。
「———よろしい、ならば再び君に私の力を見せて差し上げよう! 君が私を、君自身を共同研究の資料として差し出すに相応しいパートナーとして認められるように、私の力を、君に見せて差し上げようじゃないか!」
「はぁ?!」
「ふむ、実のところ私は、君には全く用がないのだよ。“魔術師”である“蒼崎紫遙”は、本当なら私にとっては全く価値がない。
私が必要なのはキミであって君ではないのさ。なぁそうだろ? ———“■■■■”?」
「———ッ! その名前で俺を呼ぶなっ!!」
一気に、俺の中のボルテージが上がる。胸の中に、俺の一部として仕舞い込んだオレの名前を呼ばれ、瞬間的に俺は完全に激昂した。
それはもう、この世界で呼ばれて良い名前ではない。捨て去ったわけでもなく、置いてきたわけでもなく、俺が俺の一部として、俺の中に仕舞い込んだもの。
だからそれは、もはや橙子姉や青子姉にだって触れることが出来ない場所にあって、あの二人の義姉だってソレを分かっているから二度とその名前で俺を呼んだりはしないし、当然ながらオレを呼ぶこともない。
言うなれば、俺の中にある一つの聖域(オレ)。そんな場所を無遠慮に踏みにじられれば‥‥怒るのは当然。
橙子姉のことよりも、青子姉のことよりも、それは正真正銘の俺の中の逆鱗(オレ)。触れられていいところじゃない。触れていい、ところじゃない。
「オレを‥‥呼ぶな‥‥ッ! もうその名前で呼ばれていい人間はこの世にいない。いや、どの世界にもいない。オレでも、俺でも、誰でも、その名前で呼んでいい人間はいないんだっ!」
腰の鞘から、式に貰った短刀を抜き放つ。
魔術師としての戦闘ならば本来なら必要ない代物。魔術師としての俺を象徴するものではない代物。しかし、この決闘では全てを以て相手を妥当する戦争こそを由としている。
これは、戦う意思の表れ。そして短刀は魔術師としての俺を象徴するものではないにしても、魔術師となったオレの、俺の絆の、むしろ俺そのものを象徴する武器だ。
もう、揺らがない。俺の中にあるのは純粋な怒りだけ。コイツを殺す、理由が増えた。
「‥‥戦争だ。始めるぞ、俺と、お前との戦争だ」
「君にとっては戦争なのかね? ふむ、私にとっては戯れ合いに過ぎない認識だったのだが」
「うるせぇ、俺は戦争やる気まんまんなんだよ変態。いいか、宣戦布告はしたぞコノ野郎。無抵抗で嬲り殺しにされるのが好みなら、そうしろ。そうじゃなかったら、とっとと魔術師として尋常に立ち会いやがれ!」
ソイツは、幸いにして今まで一度も出会わなかった俺の宿敵は、今度こそ俺の言葉にニヤリとした笑いを崩して大まじめな表情を作ってみせた。
大仰に広げた手は、まるで何かを迎えるかのよう。そして、『魔弾の射手(デア・フライシュツ)』を操る時の俺にそっくりの、指揮者のような姿にも見える。
その瞳は先程とは真逆のベクトルの、それでいながら同じく一切の感情が排除された冷たい瞳。俺が切望した魔術師としての瞳。でも、俺が目指している魔術師の瞳ではない。
例え目の前の男が魔術師として、この世の誰よりも正しく、強く、優れていたとしても。それは俺の目指す魔術師では決してない。
俺は、蒼崎だ。“蒼崎紫遙”だ。
蒼崎紫遙として、蒼崎紫遙がするべきことをする。蒼崎紫遙に必要なことを、蒼崎紫遙がすべきことをする。
回転し続ける魔術回路は熱を帯びているかのように俺の身体を火照らせる。
握りしめた短刀は、使うかどうかは別として、俺の思考を身体と反対に冷たく凍えさせていく。それでもやはり身体は熱く、まだ封印したままの魔眼まで熱い。
舌の滑りを確認して、呪文を紡ぐ。ひとりぼっちの、初めての戦争。
緊張も、高揚もなく、冷めていく心を落ち着けて。睨み付けた視線は鋭く、何物も見逃さないように。
開戦の合図とばかりに振り上げたヴィドヘルツルの手に呼応して現れた何体もの鎧甲冑の兵士が押し寄せてくる数を全て冷静に数え、俺は呪文を紡ぎ、左手に握りしめたルーン石を振り撒いた。
全ては俺が、オレを俺の中に押しとどめるため。俺の中のオレを守るため。
そしてオレの秘密を、この男と俺との中で消滅させるために。
72th act Fin.