改訂版も含め、執筆は頑張っております!
side EMIYA
「‥‥ん、茹で具合はこんなもんか。やっぱり微妙に日本の野菜とは味が違うな。これは少しレシピを変更しないとダメかもしれないなぁ」
じっくり時間をかけて煮込み続けたスープの中の、野菜の欠片を一つお玉の上に乗せ、茹で具合を確認する。タイミングを見計らって投入した野菜は、柔らか過ぎず、固過ぎず、丁度良い茹で加減だった。
実はこの野菜の茹で加減というのが一番スープにおいて重要と言っても過言じゃないのだ。柔らかすぎていれば口に入れた途端に崩れてしまって食感が残念だし、固ければ当然食べづらい。
食感を保ちながら、丁度良い柔らかさを狙う。火加減と茹で時間の見極めは、どちらかというと俺よりも桜の方が上手い。まぁ洋食に関しては何時の間にやら抜かれてしまったけど、和食ならまだ負けるつもりはないからな。
「肉の方は‥‥うん、まぁこっちもこんなもんだろ。やっぱり安い肉だと煮込めるだけ煮込んでもたかが知れてるのが、な‥‥」
我が家のあまりよろしくない財政状況では、冬木にいた時のように高めの肉を買うわけにはいかない。
冬木の時は、やっぱり食事っていうのがコミュニケーションの一つとして重要な位置を占めていたし、何より馴染みの肉屋があったからそれなりの値段の食材を買っていたんだけど、倫敦だと色々と事情が違う。
まず遠坂の魔術に使う宝石の数が、普通に魔術師していた冬木の頃とは段違いだ。学生だから研究も増えるし、昔よりも色んな種類を揃えるようになったらしい。
遠坂の宝石っていうのは種類ごとに込められる魔力とか術式とかの向き不向きがあるそうだ。このあたりは宝石にも花言葉みたいなものがあるってことぐらいは知ってるし、そのぐらいは想像出来るけど‥‥実際はもっと大変なんだとか。
俺なんて魔術の修練に必要なのは、この身一つと精々が資料ぐらいあれば十分だから遠坂の大変さが身に染みて分かるってわけじゃないけど。まぁそれでも当然のこととして助力は惜しまないつもりだ。
「まぁ結局のところ俺のやることはあんまり変わってないのかもな。セイバーが手伝ってくれてるとはいえ、勝手が違うから家事も今まで通りってわけにもいかないし、忙しいよなぁ‥‥」
倫敦に来てから、そりゃ色々なことに変化はあった。ただでさえ不安な英語を抱えたまま別の国に行くなんてことが、なんでもないことなわけがない。
それでも個々人の立ち位置ってのは早々変わらない。なんていうか、一年ちょっとの間に衛宮邸でのそれぞれの立ち位置は完全に固定されちまっていた。
で、やっぱり俺の立ち位置っていうのはこの通り。基本的にはキッチンが俺の戦場だ。
正確に言うとキッチン周り、というよりも食事周りって言うべきか。たまにはセイバーにも頼むけど、やっぱり食材の買い出しとかも本当なら自分自身で行って、この目で食材を確かめたい。
最近じゃ本当に忙しくて、セイバーに買い物任せっきりだもんなぁ‥‥。どうも八百屋のおっちゃんとかセイバーと俺が夫婦だとか思ってるみたいだし。困ったもんだよ。
「‥‥って、言ってる端から何やってるんだ、セイバー?」
「シロウ、このスープには味がありませんが、どうしたのですか?」
「いや、まだ味付ける前だから。まったく、あれほどつまみ食いするなって言っただろ? ほら、昼に作ったケーキでも食べててくれよ」
「ふむ、わかりました。昼のチーズケーキはとても美味でしたからね。いくら食べても飽きが来ない。流石はシロウです」
昼に食後のデザートとして作ったチーズケーキを食べるように言うと、セイバーは合点がいったのか勝手に冷蔵庫の中を漁って、皿に数切れ乗ったチーズケーキを探り当てた。
濃い黄色のソレは正統派のもので、最近の流行であるクリームチーズケーキとは違う野暮ったいものだけど、俺はそういう菓子の方が好みだな。
隣のアパートに住んでる、この辺りの町内会長みたいなことをやってるハドソンさんも同じように、素朴で美味しいお菓子を作るのが得意で、よくレシピを教わる。
すごく若そうに見えるけど、あれで既婚者だそうだ。旦那さんはもう亡くなられたらしいけど、毎日元気に挨拶をしてくれる姿からはとてもそんな風には見えない。
「ふもっふ、もっふ、もっふもっふ」
「セイバー、頼むから口の中のものを全部片付けてから喋ってくれ。それじゃ何言ってるのか分からないぞ」
「‥‥ごくん、失礼しました。そういえば凜はどうしたのですか? 今日は‥‥というよりも、ここ暫くは講義が入っていないと昨日の夕食で話していましたが」
なにやら喉に詰まらせたらしいセイバーに冷蔵庫の中から牛乳を取りだし、グラスに注いで手渡してやる。
普段の食事ではの、礼儀正しく綺麗ながらもすごいスピードで食べ続けている姿からは想像できないけれど、セイバーは意外とこういうポカをやらかすことが多い。
そそっかしいというわけじゃないし、大事な場所で大きなポカをやらかすことはないけれど、生活感というか、セイバーも生きている人間なんだなと思わせるこういう素振りは、家族の一員であるという実感が湧く。
「そういえば今日は何で出かけたんだ‥‥? 確かに遠坂、今日は講義無いって言ってたよな?
まぁアイツは外食とか好きじゃないし、何か特別な用事があったら携帯から電話ぐらいできるだろ、流石に。この前ちゃんと使い方教えたし」
「英霊でありサーヴァントである私よりも現代機器の扱いに精通していないのは、むしろ凜こそが英霊だからなのではないかと勘ぐってしまいますね。まったく、一体どうすればボタンの位置と意味を覚えてくれるというのですか」
「ああ、でもそういえば紫遙も機械はあんまり使わないっていってたな。魔術師の伝統ってヤツだってことは知ってるんだけど‥‥。それでも必要最低限の機械の使い方ぐらい知っといてほしいよな。遠坂だけじゃなくて俺達まで困るし」
未だに携帯の持つ機能の内、電話と電話帳と、ついでにカメラぐらいしか使いこなせていない遠坂。しかもカメラは写真を取るだけでフォルダ分けも出来ないし、電話は本当にかけることと取ることしか出来ない。
まぁ最低限それぐらい知っていれば何とか連絡はつくんだけど、マナーモードとか機内モードとか運転モードとか全然分からないから、うっかり大事な時に着信音が鳴ったりしたら焦って電源を切ってしまうのは痛いよなぁ‥‥。
あれのせいで根本から電話がかからなかったことが何度か。そのたびに教えるんだけど、本人のやる気はさておき頑なに覚えられないのは何故だろうか。
もはや何かの呪いでもかかってるんじゃないかとすら思っちゃうよな。もう、どうしたらいいもんか遠坂の機械嫌いは。
「もしかしたら時計塔に行っているのかもしれませんね。ほら、ショーは相変わらず、あんな調子ですから‥‥」
「そう‥‥だな‥‥。紫遙のヤツも何がショックだったのやら、まさか引きこもって出てこないなんて‥‥。遠坂とかルヴィアが散々見に行ってるけど音沙汰無しだとか」
「あれほどに硬度な防御術式を張った扉では、普通の魔術師が手を出すのは不可能ですからね。私の対魔力も自分自身にしか作用しませんし、扉の管理人であるショーが自分の意思で出てくる以外には方法がありませんね」
紫遙の工房の入り口に施された術式は、秩序の沼とかいう高等魔術らしい。なんでもその中に取り込まれたが最後、魔術も何も使えずに沈んでいくしかないとかいう凶悪な代物で、こと魔術師が相手なら天敵以外の何者でもないんだとか。
そんな危険な代物を扉に設置したのは例の上のお義姉さんだそうで、既に面識のある今となっては思わず首を縦に振って納得してしまう限りだ。
あの蛇みたいに狡猾な目。それでいながら今まで会ったことのある誰よりも理知的な色をたたえ、実力の差というものを歴然と知らしめていた。
「‥‥結局、あのお義姉さんが説得に言っても音沙汰無しのままだしな。セイバーはあの後どうなったと思う?」
「さて、こと人と人との関係というものは他者の理解の及ぶところではありませんからね。私もショーが義姉上と如何なる会話を交わしたかというのは分かりません。
‥‥ですが、私が思うにショーにとって最上級の存在は、やはり義姉上でしょう。であればショーが義姉上から何らかのアプローチをもらって、変化がないはずはないと思います」
「そうか‥‥。でも、その変化ってやつが分からないとこっちとしても心配でしょうがないんだけどな」
「それはそうでしょう、しかし心配自体は、決して損などするものではないと思いますよ、私は。もちろん私の心配も無駄になることはない‥‥。もちろん心配の結果が悪い方向に成就した、というわけではありませんよ?」
「って、そっちは普通に考えてマズイだろセイバー‥‥」
喋りながらかき混ぜすぎたのか、お玉の先で芋が崩れた。ちょっと煮すぎたかもしれない。セイバーと喋っている内に絶妙な煮加減である時間を通り過ぎてしまったらしい。
まぁこの程度の煮崩れなら問題じゃないか。あとはビーフシチューにするから、この前に作っておいたルーを溶かして終わりかな。
「‥‥本当に、どうしちまったのかな、紫遙は‥‥」
ルーを溶かしたシチューをお玉でかき混ぜながら、考える。一体どうすれば紫遙は元の調子を取り戻してくれるだろうか。
実際、普段から俺達は紫遙と一緒にいるわけじゃない。一緒の学科にいる遠坂やルヴィアは講義で会うこともあるだろうけど、俺は学科も何もかも違うからそこまで会うこともないのだ。
アイツは基本的に講義以外では工房に籠もってることが多いらしいし、アイツがうろついてるところってあまりにも時計塔の中でも深すぎて俺の活動半径とは被らないし。
「‥‥おや、ドアベルが鳴りましたね」
「来客か? ハドソンさんかな、こんな時間にウチ訪ねて来る人って言ったら」
やけに古風なベルの音が、小さいながらも確かな響きとして台所の方まで聞こえてきた。
この家はやけに広くて、特に台所が無駄に奥の方にあるからこの辺まで来るとベルの音が非常に小さく聞こえる。こればかりは家の構造上仕方がない。
「またお菓子でも焼いて持ってきてくれたのでしょうか‥‥?」
「それはセイバーの願望だろ‥‥」
手を洗い、タオルで拭ってエプロンを取り、玄関へと向かう。
台所から見て正面に続いているダイニングとリビングの、左横にある廊下の先に玄関はある。家の大きさに比してやけに狭苦しく薄暗い廊下を抜けて、俺はサンダルを突っかけて古風なドアノブに手をかけた。
「はい、今出ます‥‥って、あれ?」
「お久しぶりですね、衛宮さん。冬木でお会いして以来だから一週間ぐらいしか経っていないけれど、その節はお世話になりました」
「黒桐‥‥さん‥‥?」
「あの、先輩、突然おしかけてごめんなさい。最初に連絡しようと思ったんですけど、電話番号のメモを衛宮の家に置き忘れたまま来てしまって‥‥。携帯も使えないし、本当にごめんなさい」
「桜まで、一体どうしたんだ? そりゃ突然来たのは驚いたけど、それ自体は別に問題ないよ。桜たちが来てくれるんなら大歓迎だ。
‥‥でも、ホントにどうしたんだよ二人とも。もしかして何か忘れ物でもしたのか?」
扉を開けた先に立っていたのは、つい先日まで冬木で一緒にいた二人の知人。
二人とも同じぐらいの髪の長さで、片方は黒、片方はすみれ色。妹分の方は髪の一房をリボンでしばっている。
見慣れた後輩と、つい最近知り合ったその姉弟子。以前に倫敦まで来ていたことがあったけれど、時計塔への進学はまだまだ先のはずで、何故ここにいるのかさっぱり分からない。
「えぇ、あの‥‥実は‥‥」
「まぁ待って下さいシロウ、立ち話というのもどうかと思います。リビングへと移ってはどうでしょうか?」
「そうだな、せっかくのお客様だけど‥‥もし良かったらお茶よりも夕食にしないか? もうそろそろシチューが出来るところなんだよ」
理由は分からないけど、とにかく遠路はるばる俺達を訪ねてくれた知人を無碍に扱うわけにはいかない。
すぐさま俺は踵を返すと、とりあえず二人分のスリッパを玄関から入ってすぐの廊下の床へと放る。来客用のスリッパはあまり数が多くないけど、この古い屋敷にスリッパなしで上げるのは流石にどうかと思う。
‥‥あぁ、そういえば外国であるにもかかわらず、この家では土足厳禁なんだ。こればっかりは日本人の性だから仕方がない。もちろん他の家では、郷に入っては郷に従えを実践するけどな。
「あら、折角スリッパを出してくれて悪いんですけど、実は二人じゃないんですよ衛宮さん」
「え? 二人の他にも誰かいるのか?」
「はい。もしよければ連れも‥‥上がらせていただいてもよろしいですか?」
「勿論。遠慮しないで入ってくれよ!」
黒桐さんの言葉に首を傾げると、彼女が身体をずらしてくれて扉の向こうに立っていた連れの姿が視界に入る。
連れは何と、予想に反して三人という大所帯だった。
一人は上着もズボンも靴もシャツも、上から下まで真っ黒な男の人。全体的に短い髪の毛なのに、何故か前髪だけ長くて左目を覆っている。
すごく優しそうな顔立ちをしているのに、まるで空気のように儚げな印象も受ける。それでいながらいざという時には頼りにしてみようという気すら湧く、不思議な人だ。
「藤乃ちゃん大丈夫? 調子悪くない? ほら、先に上がらせてもらいなよ」
「あ、ありがとうございます、先輩‥‥」
もう一人はまるで教会のシスターが着るかのようなカソックを纏った少女。俺と同じぐらいの年頃で、腰まで届く長い黒髪が目を惹く。
‥‥どこはかとなく、桜に似ている。容姿とかじゃなくて、全体的な雰囲気が。
それでも引っ込み思案のようでいて実は結構積極的な姿勢を持つ桜と違って、この子はどこまでも消極的に見える。いや、俺の一方的な主観に過ぎないから実際にどんな子だかは話してみないと分からないんだけど。
「それじゃあすいません、お邪魔します。ちょっと式、土足で上がらないでよ。わざわざスリッパ出されてるじゃない!」
「‥‥外国では土足で上がるんじゃなかったのか?」
「この家ではそれがルールなの! ていうか衛宮さんがスリッパ出してくれたんだからそれぐらい常識で判断できるでしょ?!」
‥‥そして最後の一人は、おそらくこの五人の中で一番人目を惹くだろう人物。
肩にかかるか、かからないかぐらいのところで髪の毛を切りそろえた和装‥‥ともちょっと違う独特の日本美人。
空色の品の良い和服は間違いなく似合っている。鋭利な光を宿した瞳と合わさって、まるで日本刀みたいな印象を受ける人だ。
問題はその他の服装。多分ここで一番問題なのは着物の上に羽織っている赤いジャンパーで、一体どうしてこんなファッションをしようと思ったのか全く、さっぱり、これっぽっちも見当がつかない。
いや、足下のブーツはまだ分かるんだよ。なんていうか、明治の香りがプンプンするけどさ。
「突然ごめんね、衛宮君‥‥だったかな? 初めまして、僕は黒桐幹也。そこにいる鮮花の兄だよ。こっちは両儀式。伽藍の洞の同僚でね」
「おい幹也、オレは別に橙子の部下でも何でもないぞ」
「あぁ、伽藍の洞ってわかるかな? 紫遙君から聞いてるんなら話は早いんだけど‥‥」
「こら幹也、人の話を聞いてるのか?」
五人を食堂へと案内し、まずは人数分の紅茶を出して自己紹介を始める。夕食を一緒にとってもらおうと思ったはいいけれど、当然ながらすぐに出すというわけにもいかないしな。
うーん、ウチの三人も足して八人で夕食になるわけだけど、元々シチューはかなり多めに作ってるから問題はないだろう。
「確か、紫遙のお姉さんが経営している事務所でしたよね? ‥‥あ、こちらこそ初めまして、衛宮士郎です」
「よろしく。‥‥うん、聞いていた通りの子みたいで安心したよ。君が紫遙君の友達で良かった。ほら、彼はああ見えて人見知りだから心配してたんだ。
さて、鮮花はもう知り合いみたいだから紹介する必要はないとして、こっちの子は浅上藤乃。鮮花の同級生なんだ」
「よろしく‥‥お願いします‥‥」
「あ、おう、よろしく。‥‥あぁそうか、それって礼園女学院の制服だっけ」
「はい。外出の時も着用する義務があるので‥‥」
「‥‥それって倫敦に来てまで履行する必要がある校則なのか?」
「でも、校則ですから‥‥」
ほとんど表情を変えないままに浅上が首を傾げて言う。じゃあ何故に隣の黒桐さんは普通に私服なのかという疑問が湧くけど‥‥これも個性なんだろうか。
遠く離れた冬木に住んでいる俺でも知っているくらい日本では相当に有名な礼園女学院の制服も、さらに遠く離れた倫敦では只のコスプレ、もしくは本職のシスターにしか見えない。
もっとも似合ってるのが怖いところで、およそ日本人がやっても似合うような格好じゃないと思うんだけどなぁ‥‥。
「両儀‥‥さんも、礼園の学生なんですか?」
一応かなりの数の椅子が備え付けてあるダイニングで、すごく不機嫌そうに紅茶を啜っている和装‥‥? の女の人に話しかけた。
この人は正直な話、服装のことが無ければ男にでも女にでも見えてしまう不思議な容貌をしている。そして同じように年齢不詳で、多分俺の前後五歳ぐらいしか離れてないとは思うんだけど、どういう風に話しかければいいのか見当もつかない。
「‥‥両儀はやめろ。式でいい」
「えっと、じゃあ式さん」
「式でいい。‥‥あと、オレは別に鮮花の同級生でも何でもない。ついでに橙子に雇われてるわけでもない。今日はコイツがわざわざ倫敦まで行くっていうから、何か厄介事に巻き込まれないようについてきただけだ」
式さ‥‥式はそういって、隣に座って紅茶をゆっくり飲んでいる黒桐さん‥‥なんか妹さんの方と被るから、幹也さんと呼ぶことにするけれど、その幹也さんの空いている左手を弱めの力でつねった。
この二人、すごく距離が近いな。物理的というか、ちゃんとした距離っていうわけじゃなくて精神的な距離が。
「‥‥この大所帯。どうやら只の観光というわけでもないみたいだな」
「そのようですね。‥‥あぁ、しかし先ずは夕食にしませんか。凜が帰ってくる様子もありませんし、お客様を待たせるのもどうかと思います」
なぁセイバー、言い分は分かるけど、それってお前が食事にしたいだけ、だよな‥‥?
◆
自分が自分であることが、これほどまでに難しいものだとは思わなかった。
そもそも自分というものを自分自身で定義するのに何が必要かだなんて、そんなことを考えるのは哲学家とかいう、暇で暇で他に何もやることがないようなニートという名の厨二病患者だけだと思っていたのに。
実際にはそんなものが必要ない生活をしていただけで、一度必要になると切実な問題になってくるのだ。
今になって思えば、これまで過ごしてきた人生というものがいかに平穏無事なものであったのかということが痛々しくなる程に実感する。
それは波瀾万丈なものでなかったとか、大きな事件に巻き込まれたことがないとかそういう問題じゃあなくて、つまるところ自分自身が揺さぶられるような出来事、もしくはそういう状態に遭遇しなかったというだけの話なのだ。
自分が揺らぐ、というのがどういうものか殆どの人は分からないだろう。
それは決定的なまでに自分の崩壊に繋がるものだ。自分の崩壊とは‥‥死に等しい。否、もしかすると死よりも酷いものかもしれない。
全ての感覚、全ての感情。そういったものは基本的に観測者、受容者である自分自身がいてこそ感知できるものだ。
グラフに例えて考えてみれば、原点である(0,0,0)が無い状況とも言える。いくら座標が設定されていても、原点が無ければその座標がグラフ上の何処を指しているのかさっぱりわからないだろう。
ぐちゃぐちゃになってしまう。自分が観測しているはずの何もかもが。
「今、帰ったぞ。‥‥そこにいたのか。あまり調子は良く無さそうだな」
「‥‥‥‥はい」
やることもなく微妙に埃臭いソファに座っていると、この家‥‥というよりは建物の主である女性が帰ってきた。
真っ赤、というにはややくすんで見える橙色の髪の毛を後頭部で一つに結んだ、見紛うことなき絶世の美女。
蛇のように狡猾で、刃のように鋭い瞳には何もかもが見透かされそうな、というよりも貫かれてしまいそうな眼光が宿っている。
その瞳の色はひたすらに冷たい。貫くという表現こそしたけれど、この人‥‥橙子さんからはそういう能動的な姿勢は感じられない。
ただそこにいて、俺を眺めるだけで圧迫感を与えてくる。いや、この場合は圧迫感というよりも圧倒感と言うべきなのか。格の違い、というものを思い知らされるのだ。
彼女にオレを見下す意思も、圧倒しようという意思もないというのに。それだけで彼女は俺より遥かに高位にいる。
「少しは外に出るとかしてみたらどうだ? 別に私はお前を監禁しているわけでも、軟禁しているわけでもないぞ。
部屋の中に籠もっていては調子を悪くするばかりだろうに。その辺りを散策する程度なら止める理由もないのだがな」
持っていた鞄を俺の座っているソファから少し離れた事務机に置き、橙子さんは羽織っていたコートを脱いでコート掛けに掛ける。
俺の知っているオレンジ色の、どこはかとなく趣味を疑うコートではなく、光沢のない曇った黒いコートだ。どうやらこちらの方が普段着に使っているものらしい。
コートの下が品の良いシンプルなブラウスと艶消し仕様なスラックスなのを考えると、こちらの方が似合っている気がする。要するに、あちらは魔術師仕様だということなんだろう。
「あぁ、魔術師は自身の体調を管理できるからこそ籠もりっきりでも大丈夫なのだぞ? 普通の人間は適度に日の光に当たらなければ身体を壊す。
文武両道、という言葉があるが、あれは頭も鍛え身体も鍛え、完璧な人間になったという意味だけを表すわけではない。例え完璧でなくともな、人間という生き物は極端な例を挙げれば勉強も運動も、どちらも同じぐらいにこなしておくのが一番良いということだ」
本当にオレに話しているのかよく分からない調子で、橙子さんは延々とよく分からないことをイイながら流しの方へと向かう。
事務所の規模に相応しい小さな給湯室で、珈琲でも湧かすつもりなのだろう。この人の生活サイクルを完全に把握できたわけじゃないけれど、尋常じゃないカフェイン中毒だというのは一緒に暮らし始めて数日で完全に理解できた。
「こらこら、人聞きの悪いことを言うのはやめてくれ。私は特別カフェイン中毒というわけじゃない。ただ、珈琲が一番楽だと思わないか?
流石にインスタントは好かんが、安物でもそれなりの味になるからなぁ、こいつは」
オレは知っている。そういうことを言いながらも、あまり気が長い方じゃない橙子さんは今日もインスタントの珈琲をマグカップに二杯入れて給湯室から出てきた。
きっと二杯目の珈琲はちゃんと淹れるつもりで、既に用意をしてきたんだと思う。一杯目を飲んでいる間に二杯目が出来上がるという寸法だ。基本的に面倒くさがりなくせに変なところで効率にこだわる人だよな。
「そら、飲むだろう? どうせ私が出かけている間に自分で勝手に飲んだりはしなかったんだろうからな」
「‥‥どうも、すいません」
「冷蔵庫の中のものは勝手に飲み食いして構わないと言ったはずだぞ、私は。今日はちょっとした商談だったから良いが、下手すれば一日二日いなくなることもあるんだから、その辺りは臨機応変に対応しろ」
この人はオレの知識と同じように、人形師として一般人向けの人形展をやる他にも建築家としての顔とかを持っているらしく、意外にも仕事に困っているというわけではないらしい。
まぁ同様に決して売れっ子というわけでもないらしいんだけど、今は丁度仕事が入っているということで、今週はしょっちゅう打ち合わせだか商談だか接待だかに言っている。
昼前くらいに出て行って、夜に帰ってくるのが大概だ。どうやら打ち合わせ→飲み会という学生かと疑う生活を送っているらしい。
「夕飯はどうした。まさか食べてないのか?」
「‥‥すいません、食欲が湧かなくて」
「ふん、そんなことだろうと思ったよ。ほら、寿司を持ってきた。
あぁ勘違いするなよ、別に私が寿司を食ってきたというわけじゃない。途中で良い感じの寿司屋を見つけたのでな。次に来ることもあろうと思って、代わりに包んで貰ったんだ。これなら入るんじゃないか」
「入ります」
「‥‥意外に現金なヤツだな、お前。まぁいい。なら珈琲よりも日本茶だな。
机の上を片付けておくから、茶を淹れてこい。給湯室のコンロの下にある棚に、急須と茶葉が入っている。湯は珈琲を淹れた残りが薬缶の中に入っているからな」
橙子さんの言葉に従って、給湯室でお茶を淹れる。
無駄にたくさん蛇口があるけれど、使えるのは一つだけだ。残りは全部縛ってあって使えない。どうも橙子さんがこういうことする正確だとは思えないから、このビルの前の持ち主———建築現場の人達がこうしたのだろう。
ちなみに嘘か定かか寿司を食べる際には粉茶と呼ばれるお茶が一番らしいけれど、生憎と伽藍の洞にあるのは普通の茶葉であり、どこからどう見ても粉ではない。
まぁ基本的に食事のランクというものにこだわるような生活をしていなかったオレがとやかく言うわけでもなし、日本茶というジャンルならば気にすることはないだろう。‥‥あれ、そういえば烏龍茶とか爽健美茶とかは中国茶っていうジャンルでよかったのか?
「あの、淹れて来ました」
「すまんな。さぁお前も座れ。昼から何も食っていないのでは腹も減っただろう?」
ソファに座り、二人分のお茶を用意してから橙子さんの開いてくれた寿司に手を着ける。
残念ながら単純な美味い不味い以上を知覚する舌なんて高尚なものは持ち合わせていないから、ある一定以上のランクの寿司屋だろうということ以外は分からない。
それでも少なくとも庶民と言われる生活をしてきたオレでは今まで食べたことがないくらい美味い。ていうか寿司なんて高校合格とかのお祝いの時とか、何かのパーティーの時の少し渇いた出前ぐらいしか記憶にないのだから当然か。
口の中に入れたらシャリが崩れるとか、そういう表現はグルメ漫画の中だけだと思ってたのに‥‥。
「美味いか」
「は、はい、美味しいです‥‥」
「そうか。私は食事をとってきたから、お前の好きなだけ食べると良い」
お言葉に甘えて、もう一貫口に運ぶ。やはり美味い。
ちらりと目線だけ上げて橙子さんの方を見ると、一口だけ啜った日本茶を放って自分が淹れたコーヒーを飲みながら、今日の夕刊を読んでいた。
言葉ではオレのことを気遣っているように聞こえるけれど、その実で全くの無関心。一応ポーズとして気遣うふりはしているし、実際に多少は気遣っているんだろうけれど、それは義務的なものでしかない。
———オレが伽藍の洞にやって来て、既に数週間が経っている。
あれから一週間ぐらいで何とか日常生活を送れるぐらいには回復したオレは、あれ以来仕方が為しに伽藍の洞の世話になっていた。
どうしようもない。少なくとも今までオレがいた世界というのが、この場所とは全く違う場所だというのは確かで、そんなところに帰る手段なんてものが早々見つかるはずもないのだから。
オレは只、ゲームとかアニメとかが好きな普通の高校生だ。学年上位という成績には程遠い凡才であり、運動神経もよろしくない。雑学なんてものも殆ど持っていない。
そんなオレでは帰る手段の見当すらつかなかった。
『まぁ一応は拾った責任というものもあるしな。片手間ぐらいには帰る手段も探してやるし、責任はとって養ってやる。生活については心配するな』
『いやはや面白い拾いモノだったわね。まぁ私が拾って来たわけじゃないんだけど。‥‥心配しなさんな、私もなんかそれっぽいもの見つけたら君の助けにならないかどうか調べてあげるから』
あの日、衝撃的な事態を知覚すると同時にもう一度気を失ってしまったオレが目を覚ますと、既に姉妹の間で話が決定していたらしい。
オレの待遇は伽藍の洞の居候。そしてオレの進退は二人が適当に帰り道を探すということで決まったそうだ。
最初こそ積極的にオレへとアプローチしてきた二人も、オレの傷が癒えるぐらいの頃にはその興味を大分失って来たらしい。橙子さんは次の日すぐに仕事へ出かけたし、青子さんに至っては元気な声で『バァーイ!』なんて言って失踪してしまった。
‥‥多分、二人とも本当のところはオレが帰る方法なんてないと思っているんだろう。いや、どちらかというとそれに割く労力に対して成果がワリに合わないとでも思ったのか。
何処に行ってしまったのか分からない青子さんはともかく、橙子さんには何か調べているような様子は見えない。机に座ってぼんやりと考え事をしている姿ばかり見る。
もしくはその考え事というものがオレの帰還手段についてかもしれないけれど、どちらにしても先行きは尋常じゃないぐらいに暗い。
何かをこなす、というのとは違って何をどうすればいいのかさっぱりなのだから、仕方がないと言えば仕方がないわけだけど、それにしたってこれは本当にお先真っ暗ってヤツだ。
『ふむ、確かにお前の言わんとするところも分かる。
並行世界に関することならば第二魔法の領分だ。魔法というのは確かに未知な存在だが、それでも第二魔法というのであれば解明の可能性はまだある。あれは魔法の中では一番世に知られているからな。
‥‥しかしお前に関して言えば、完全に話は別だ。お前がいた場所は並行世界などでは断じてない。並行世界とは違う‥‥異世界、そういうものだよ』
『異、世界‥‥』
『そう、異世界だ。並行世界とは違い、関連性といったものは基本的に無いに等しい。
私達の世界の話がお前の世界で創作として語られていたという関連性のみがあるが、その原因というものが不明な以上、魔術的に繋がりを見出すのは難しいだろう。
アノ手の空間移動や次元移動といった類の魔術は二つの場所、あるいは二つのモノに関連性を見出さなければいけないんだよ。
‥‥何より最初の手順として、相手側を認識する必要があるからな。お前の場合は、お前が元いた世界を認識、観測するということが必要になるだろう。でなければ魔術自体が成功したとしても、トンデモない場所に飛ばされる可能性が高い』
『そいつは、出来れば勘弁してほしいもんですね‥‥』
『だろう?』
オレは、魔術師でも何でもない。
だから帰る手段を探すとしても、オレに出来ることなんて何もないのだ。
魔術師じゃないオレには研究をすることは出来ない。
では知識だけでもと思っても、基本的に日本語で書かれた魔術書なんてないんだからどうしようもないのである。しかも橙子さんによればギリシャ語やらラテン語やらヘブライ語やらが読めたとしても、今度は暗号を解かなきゃいけないそうだ。
だとすると本当に、オレが帰れるのは遥か先の話。超一流の橙子さんが全ての力を傾注しても、魔法を目指すというのは元から果てのない道である。
そして橙子さんは、なんだかんだで辿り着けなかった人なのだ。あの人が凄い魔術師だってことは十分に理解しているつもりだけれど、それでも魔法使いじゃない。
青子さんは魔法使いだけど、だからこそ魔法を使ってオレを手伝ってくれるとも思えない。無知どころか、この世界に来て間もないオレだけれど、それでも魔法使いという存在に関しては、別の感覚を覚えた。
この時、というかオレがこの世界に来て意識の上では数週間ぐらいしか経ってないけれど、それでもオレは自分が元の世界に帰るアテというものが全くないことに気がついていた。
「‥‥どうした、もう食べないのか」
「一日中室内にいたんで、あまりお腹減ってないんですよ。ごちそうさまでした、すごく美味しかったです」
美味しかった、という本当の気持ちが出来る限り曲解せずに伝わるよう、精一杯に表現しながら頭を下げる。なにせ本当に寿司は美味しかったんだし、わざわざオレのために夕食を持ってきてくれたのが嬉しかったのも本当だ。
幸いにして、というよりは流石というべきか橙子さんはオレの言葉の中に虚言を見出すことはなかったようで、「そうか」と小さく呟いてまた無関心に新聞を読み始める。
ここ最近、というよりはオレが伽藍の洞に来て、橙子さんに仕事が出来てからの決まり切ったパターンだ。オレは何もすることがないけれど、部屋で一人が嫌だからココでぼんやりと座っていて、橙子さんは橙子さんでオレに全く注意を払うことはない。
ただ無為に、ただ意味もなく、日々を過ごす。
それはどうだろうか、今のオレにとってどの程度まで役に立つ毎日なのか分からない。もしかしたら意味があるのかもしれないけれど、オレ自身の感覚で言うならば意味がない日々に分類されるだろう。
「‥‥‥‥」
「‥‥‥‥」
暫く無言で二人、珈琲と茶を啜る。
伽藍の洞がある観布子は工業地帯と住宅街に別れており、伽藍の洞があるのは丁度その境目。ただ時間帯のせいか工場からの音は聞こえず、辺りは静まりかえっていた。
夕暮れで真っ赤に染まっていた部屋の中も段々と暗くなっていく。お慰み程度の照明が点るけれど、それでも元々が完成途中の廃墟同然なビルということもあり、不気味な印象は拭えない。
橙子さんが人払いの結界を張っておかなかったら子ども達が連日連夜の如く肝試しに訪れることであろう。
「‥‥どうした、何か気になることでもあるのか」
「いえ、別に‥‥」
ぼんやりと手を組んで真っ正面を眺めていると、珈琲を飲み終わったらしい橙子さんが、お代わりを鶏に行く途中で声をかけてきた。
さっきまで無関心だった橙子さんは、今度はニヤニヤと維持の悪い瞳でオレの方を見ている。
「嘘だな。悩んでいますと顔全体でアピールしているぞ。‥‥まぁ話してみろ。私としてもすることがなくて暇なんだ。若い者の話を聞くのも年長者の務めだ。暇つぶしにもなるだろう」
「暇って‥‥仕事はどうしたんですか?」
「あんなもの片手間でもカタが付く代物だ。気が向いたときにでもやればいい。それに目の前で辛気くさい顔をされていては気が滅入るというものだろうが。これでは仕事に身も入らんよ」
茶がすっかり冷めてしまったオレのために、新しく珈琲を持ってきてくれた。時間をかけただけあってインスタントよりは良い香りがするけれど、それでも安物の粉をつかっているのでたいしたことはない。
どちらかというと、味よりも温度の方がありがたい。凍える程ではないとはいえ、暖房が効いていない事務所はそれなりに寒かった。
「居候なのだから家主の命令には従うものだ。さぁ、話せ」
「‥‥‥‥」
暖かい珈琲が喉から胸の奥へと流れ込んできて、日本茶によって暖まった身体をさらに暖める。
身体の芯まで、というほどではないけれど、マグカップを包んだ手が温かいのは心を落ち着かせた。温もり、というのは人の心を和ませるし、落ち着かせるものだ。
オレの向かい側に座った橙子さんは本当に暇をしているのか、ゆらゆらと手持ちぶさたに組んだ足の先を動かしている。
「‥‥オレは、これからどうしたらいいんですか」
「ん?」
「正直に言って下さい。元の世界に帰ることは‥‥出来るんですか‥‥?」
ぴたり、と空気が静止する。気まずい静止ではなく、まるで只の空白だ。
橙子さんの反応を待っているオレと、反応する気があるのか無いのかわからない橙子さん。
‥‥いや、オレは質問の答えを本当に待っているのだろうか。本当は、答えなんて無いほうが いいのではないだろうか。
何故オレはこんな質問を橙子さんにしたんだ? 本当ならこんな質問しない方が良かったに決まっているっていうのに。
「お前からそういうことを言い始めるとは思わなかったな。‥‥聞きたいか」
「‥‥聞かなくても、今の状況は変わらないかもしれない。けれど、聞かなかったらずっとこのまま、オレは毎日を無為に過ごすだけになりますから‥‥」
オレは実のところ理解してしまっている。この質問の答えが、どういう言葉として返ってくるだろうということが。
それでいながらこの質問をしたというのは、今の停滞した事態が我慢ならないということだ。何の意味もなく、何の異議もなく毎日こうして座っているだけ。
確かにこうして伽藍の洞にいれば橙子さんに養ってもらえる。橙子さんに守ってもらえる。
ああ、成る程。最上級の魔術師にして封印指定の人形師がオレを守ってくれるのだ。それは安全ではあるかもしれない。
でも、同じくらい安全じゃない。
「‥‥気が安いとでも言いたいのか? 知っているぞ、お前がそう長くは保たない身だということは」
「———ッ?!」
心臓が、跳ね上がった。
「最近よく眠れてないんじゃないか? 何とか揉んだり洗ったりして誤魔化しているようだが、目の下に隈が見えるぞ」
あの時から、意識を取り戻した時から、常とは違う妙な感覚がオレの中にあった。
胸の中でもなく、頭の奥でもなく、手足の先でもなく、それは微かながらもはっきりとオレ自身の中に存在した違和感のようなものだ。
それは最初こそ微かな違和感でありながら、徐々に、着実に、オレを蝕んでいく。最初はつばを飲み込むときに少し引っかかったような気分。それが段々と動悸、息切れなどに近い感覚を覚えるようになり、最終的には脳震盪もかくやという目眩を起こさせる。
それは身体の異常として明らかになるようなものではないし、実際に身体に異常があるように感じるわけでもない。
なんていうか不思議で、かつ不愉快極まりない感覚なのだ。自分自身が揺さぶられるような感覚は、正体不明でありながら確実にオレを追い詰める。
自分の認識と、自分自身に齟齬があるような感覚は、子どもの身体に収まってしまった今のオレの状況からして存在していた。
それでも、あれから感じている不愉快な感覚はそれともまた違う。もっと根本的なところでオレに影響するものだ。
だからその影響が強くなって来た今となっては、最終的にオレの内面に生じていた変化は身体の方にまで影響を及ぼして来た。
具体的な症状はさっき橙子さんに言われたものを含む。
最初は少しばかり思考が乱れて、集中力が低くなったような気がした。
次に頻繁に目眩や立ち眩みがするようになった。頭が揺さぶられるような、頭痛とはまた違う妙な感覚を覚えるようにもなった。
実際のところ直接的な被害があったとは思えない。少し調子が悪い、それぐらいの意識だったろう。
風邪とか病気とか、そういう分かりやすい体調不良ではなく、ただ単にその日の期限やら気分やら運勢やらが影響して連続で体調が悪いのだと思っていた。
だってそうだろう? ただでさえ大火傷とか打撲とか骨折とか捻挫とか、それ以外にも煙を吸い込んでしまった喉や肺が痛んでいたりと散々な状況だったオレなのだ。少しぐらい体調不良が続いたって納得の範疇だと感じはしないか。
「頭が痛いんじゃないのか? 動悸はしないか? 胸が押しつぶされそうな不安や恐怖に苛まれたことはないか? ‥‥そういうのが頻繁じゃあないのか?」
「‥‥‥‥」
だから本当に異常に気がついたのはついこの前。
身体の少し悪いぐらいなら、まだ後遺症やら不調やらと理由をつけることが出来た。しかし、それが明らかに精神に作用しているとなると話が変わる。
例えば伽藍の洞の事務所で新聞を見ながらくつろいでいる時。例えば食事を終えて自分に与えられた空き部屋で一服している時。例えば一日が終わって、部屋の煎餅毛布とそば枕で就寝している時。
そういった何気ない、普通の時間に異常は発生した。何の予兆もなく、何の理由もなく、ただそれはオレの精神を蝕んだ。
ふと突然、全身を襲う寒気と震え。ふと突然、誰かに見つめられているような期がする悪寒。ふと突然、目の前に人間を遥かに凌ぐ力を持った獣が出現したかのような恐怖感。
そういった理由のない負の感情に襲われることが、ときたまある。それは最初こそ微かな感覚だったけれど、次第に大きく、頻繁に、かつ深刻になっていった。
全く兆候もなく、突然震え出す自分の身体。それは身体の不調というよりは、精神に影響された身体が当然の反応として自分の身体を震わせたものだ。
落ち着かない。一所にいるとたまらなく不安になる。誰かに狙われている気がするからだ。きょろきょろと、誰もいないはずなのに辺りを見回すことを止められない。不安というよりは、恐慌状態と言うべき精神状況が増えてきた。
夜も眠れない、普段も落ち着かない。それどころか不安や恐怖に苛まれて普段の生活すらおぼつかない。精神の不調は乃ち身体の不調へと繋がり、まるで不治の病にでも冒されているような気分がする。
通常の精神状態を保つことが出来ずに頭の中はしっちゃかめっちゃかだ。考えもろくにまとまらないし、不注意になってしまう。
常のオレならば布団に潜ってがたがた震えていたいくらいの不調。けれど、確とした理由もない状態で家主である橙子さんや青子さんに迷惑をかけるわけにはいかない。
歯を食いしばり、笑顔とはいかずとも、せめて仏頂面を装って日々を過ごす。目の下の隈はハンドクリームを流用して———もっと良い代用品があったと思うんだけど、男という身分故にそこには思い至らなかった———誤魔化した。
けれど流石は橙子さんというべきか、オレの小賢しい細工など簡単に見抜かれてしまっていたらしい。心配するわけでもなく、ニヤニヤとまるで嘲るか、もしくは面白い見せ物でも見るような視線だ。
「‥‥気づいてたんですか」
「当然だ。というよりも、よく気づかれてないと思ったと褒めてやりたい気分だぞ」
「‥‥‥‥」
ニヤニヤとした笑いは軽薄なものではない。そこにあるのは嘲りでありながら、傲慢ではなく不遜。自分の実力をこれ以上ない程に的確に認識しており、同時にオレとの間の力量差についてもしっかりと分かっている。
その上で、この人は上位者としてオレに質問をしているのだ。
「自分で理由は分かっているのか? 風邪を引いたわけでもあるまいし、病気にかかった兆候もない。あの重傷だった怪我の痛みは後を引くだろうが、お前のような症状が出るとは思えない。
脳、いや、精神に干渉するような原因。それは外傷というよりは感情に訴えるような何かである可能性が高いな。物理的なものというよりは、精神‥‥もとい魔術的なものである懸念が強いな」
「魔、術‥‥?」
「そう、魔術だ。あるいは神秘と言い換えてもいいかもしれんが、それの影響と考えるのが妥当だろう。完全に只の不調と言うには、お前の症状は深刻に過ぎる」
‥‥実際、今この時でも脅迫されてでもいるかのような感覚に襲われている。
橙子さんから感じる圧迫感《プレッシャー》だけじゃない。それを増幅させるというよりは、全く違う感覚としてオレを襲う。
個人から発せられる圧迫感ではなく、まるで深海の中にでもいるといえば良いのだろうか。水圧のような、あらゆる方向からオレを押しつぶしてくる感覚だ。
実際に肉体に圧迫感があるわけではないけれど、それでも胸の奥にある心や精神、あるいは“オレ自身”とでも言うべきものが押しつぶされているかのように。
「‥‥“お前自身”か」
「なにか、思い当たることでもあるんですか?」
「ふむ、決して確実なことではないが、理論としてはあながち間違いではない、か。
‥‥成る程、固有結界などと同様な反応と考えると確かに道理には適っている。いやしかし、流石に相手がデカ過ぎる。これはしっかりとした確証を得られないことには断定できん」
「橙子さん?」
オレの怪訝な声に、なにやら考え事に耽っていたらしい橙子さんはハッと現実世界へと戻ってきた。
独白めいた言葉は目の前に座っているオレに話しかけるためのものだったのか、それとも誰に聞かせるつもりもなかったのか分からない。なにせ橙子さんは考え事を口にして、なおかつ誰にも反応を求めないという面倒なところがあるのだから。
今のセリフも、端々によく分からない単語や文脈の分からない流れがあって、結局のところ橙子さんが何を考えているのかさっぱり分からなかった。
「‥‥一つ、基本的な話をしよう?」
「基本?」
「そうだ。お前は本職の魔術師ほどではないとはいえ、魔術や神秘の社会全体についての知識はアル程度持っているからな。その中でも更に基本の話だ」
向かい側のソファに座った橙子さんは、長い吐息をつくとまだ熱い珈琲を口へと運ぶ。
この伽藍の洞で、橙子さんが温くなった珈琲を飲んでいるところを見たことがない。この人が口に運ぶ飲み物は大体が熱い湯気を立てている。不思議な話で、もしかして魔術の一種なのだろうか。
スラリと伸びた足は組んでいるとやけに様になり、白いブラウスと黒いスラックスのコントラストが立っている時やデスクで仕事をしている時よりも良く映える。
さらに言えば特徴的な髪の色もあり、だからこそこういうシンプルで一見して素っ気ない格好が似合うのだろう。
「世界、という言葉について‥‥お前はどう思う?」
「‥‥世界?」
「そう、世界だ。単純にこの言葉からお前が思うイメージを言ってくれればいい」
‥‥‥‥難しい。
橙子さんは一体どうして何を思ってこんな質問をしたのだろうか。だって、そんな抽象的なものが今のオレに関わっているとは思えない。
いや、とりあえずオレは橙子さんの質問に答えなきゃいけないのか。こういう時に迂闊に質問を逸らしたり別なことを考えたりすると、間違いなく橙子さんから無言の殺気を向けられる。
「———地球とかだけじゃなくて、他の星とか、他の銀河とか、そういう全てを含めたもの‥‥ですか‥‥?」
「‥‥ほう、地球儀に載っている全てとでも答えるかと思ったが、まぁそれなりには考えているようだな。だが、間違いだ」
少し意外そうにした後、それでも橙子さんは我が意を得たりとでも言いたげにニヤリと笑ってみせる。
一見して分かりやすく、実のところは非常に答えの難しい質問をして困らせる、意地の悪い先生みたいな感じだ。
こういう時、橙子さんは本当に楽しそうに笑ってみせる。クツクツと喉を鳴らして、猫か、あるいは蛇のように。いや、蛇がどう笑うのかなんて知らないけどさ。
「この場合の世界とはな、魔術においては地球をはじめとする私達人類が存在し、生活している範囲を表すと考えても良い。まぁ可能な限り噛み砕いた場合の話だがな。
いいか、世界は私達の存在基盤だ。地球という言葉に置き換えるのも可能ではあるが、本当のところは置き換えることが出来ない。同一というわけではないんだよ。ちなみに、同じように宇宙までを表すわけでもない。魔術的に、神秘的にはな」
橙子先生の魔術講義は続く。
実際、ここまで魔術っぽい専門的な話を———初歩とはいえ———したことは未だかつて無い。オレはそれを魔術師としてのタブーだと思っていたし、橙子さんはその理由についても言及したことはなかった。
だからこういう話題を橙子さんが振ってくるというのは、オレの不調の原因云々を加味しても十分に驚きをもたらすものであったと言える。
「世界とは我々の基盤であり、我々を内包する存在だ。故に我々が所属していない他の星やら他の銀河やらは内包していない。
そして世界は、美しくあろうとする。自分が内包するあらゆるものに矛盾を許さないのだ。例えば顕著な例はお前も知っているだろう固有結界や、投影魔術。
‥‥さぁ、ここまで聞けば察しが悪いヤツでも分かるんじゃないか?」
ニヤニヤが一層、おそらくは最高潮に深まる。ここが橙子さんにとって、このお話しのクライマックス、決め所とでも言うべきところなのだろう。
理路整然と考えることが第一とでも言うべき魔術師でありながら、橙子さんの話はやけに遠回りで難解だ。結論を先に持ってくるのではなく、一見してどうでもいいような話題でひたすらに遠回りしてから結論へと持って行く。
しかも、こうして結論は嫌って言うぐらいに勿体ぶるのだから本当にどうしようもない性悪だろう。これは流石に本人の目の前で言うわけにもいかないけれど、本人だって勿論きちんと自覚しているに違いない。
そしてきっと、自覚していながら喜んでこういう問答を仕掛けてくるに違いない。楽しんでいる。人をからかって、人を悩ませて、楽しんでいる。
決して悪意ではなく、相手が心底不愉快に思うその手前で巧妙に、意地悪く。
ちゃんと程度を見極めて度を超していないとはいえ、それでも相当に趣味が悪い。でもオレが嫌々ながらも実質かなり前向きに橙子さんの問答に答えているのは、きっと命を救って貰ったことによる刷り込みのようなものだろう。
実際、橙子さんは意地の悪い態度をとっておきながら、嫌われないだけのカリスマを持っている。
「美しいということは矛盾を生じさせないということ。矛盾とは、世界の決めた規律、世界の理に反することだ。
世界の理とは物理法則や魔術法則、神秘の濃度にも関係する色々な要素があるが、つまるところ不自然なものや異物を許さないということでもある」
近づいてきた橙子さんが、オレの耳にかかっている髪の毛を細く白く、綺麗な手でかきあげた。
方針を考え、自分の中で見当をつけた順序に従って計算した問題の解答を見つけた時のように嬉しげに細められた目に映ったのは、オレのこめかみの上、髪の毛の生え際ぐらいに刻まれた無数の引っ掻き傷。
頭の中をかき回されるように、四方八方から押しつぶされるように、オレを襲う謎の不調。それに耐えるために刻んだ自傷の痕。
それは橙子さんがオレの追い詰められ具合を確認するのに十分なものだったはずだ。だからこそ、嬉しそうに、楽しそうに目を細めた。
「異物‥‥。つまり世界に所属しない
‥‥さて、本来ならそんなものを世界の一員である私達が知覚できるわけもないのだが、不思議な事に私は一件だけ、その条件に当てはまるものに心当たりがある」
左のこめかみから頬を伝い、顎を伝い、くいと持ち上げられてオレの顔は上を向く。
そこにあったのは予想していた通りの意地悪そうな色を湛えた瞳でもなく、皮肉気に歪められた唇でもなく、愉しそうに光る真っ白な歯でもなく。
一切の表情を廃した、それでいながらのっぺらぼうの無表情というわけでもない、不思議な穏やかさを孕んだ静かで柔らかい橙子さんの表情。
オレを気遣っている色もない。オレを心配している色もない。でも同じように、冷徹というわけでもない。
透き通るように透明な、色のない橙子さんの顔だった。
「———■■■■。お前は、世界に拒絶されているんだよ」
絶対の確信を持って告げられた言葉に、さらに証拠を付け足すように。
自分のものであるはずの名前が封印指定の人形師の口から出て、この世界に響き渡った途端。
オレの頭をかき乱す謎の不調は、今度こそ嵐のように荒れ狂って、呆気なくオレの意識を奪っていったのだった。
74th act Fin.