UBW~倫敦魔術綺譚 (未改訂版)   作:冬霞@ハーメルン

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第七十四話 『霧の街の邂逅』

 

 

 

 

 side Azaka Kokuto

 

 

 

「‥‥う〜、相変わらず美味しいわね、衛宮さんの料理。悔しいけど適いっこないわ、これじゃ。私、それなりに修行したから料理は結構できるつもりだったんだけどなぁ‥‥」

 

 

 今晩の献立はビーフシチューにシーザーサラダ、そして手作りと思しきパン。この前にお邪魔した時みたいにテーブルの上を隙間無く料理が埋め尽くしているというインパクトは無いけれど、一口シチューを味わった途端、その違和感は氷解した。

 たったスプーン一掬いのシチューに、まるでお椀一杯を飲み干したかのような深みがある。どれだけの材料をどれだけの手間と時間をかけて丁寧に煮込んだのであろうか。

 野菜の出汁と肉の出汁が、これでもかという絶妙なバランスで混ざり合って解け合って、まさか素人の料理とは思えない。

 前にも言った覚えがあるけど、この味なら礼園(ウチ)の食堂でメニューに載っても文句でないレベルよ?

 

 

「そ、そうか? まぁこればっかりは毎日作ってるものだしなあ。世辞でもそう言ってもらえると嬉しいな」

 

「シロウの料理は世辞を挟む隙間が無い程においしい。ですからシロウ、お代わりをお願いします」

 

「お、おう、ほら茶碗貸せって。黒桐さんも遠慮しないでお代わりしてくれよ。今日の夕食がシチューで良かったよ。多く作るからな、この献立は」

 

 衛宮さんは私にお代わりを勧めるかのように片手を差し出してくるけれど、流石に私だってそこまでたくさんは食べられない。というか、セイバーさんのあの小さな身体にどうしてあれだけの量が、あの勢いで入るのか納得出来ないわね‥‥。

 きっとあれも、英霊だからって言葉で済まされてしまんだろうか。やれやれ、本当に神秘の世界ってのは理解に苦しむ。

 

 

「なに、サーヴァントはマスターからの魔力供給以外にも自分で食事を摂ることで僅かながらも魔力を補充できるのです。凜に負担をかけないためにも、私が食事を摂ることは何ら不思議なことではないのですよ、アザカ」

 

「‥‥まぁそういうことなら、仕方がないのかもしれないけど」

 

 

 明らかに別の理由がありそうだけれど、得意そうにフフンと笑うセイバーさんを見ていると反論の一つも消え失せてしまう。理屈が、というよりは気力が。

 カリスマというよりは人柄だろう、こういうところで垣間見せる朗らかな雰囲気は。

 

 

「いや、でもセイバーさんの言うとおりだよ。士郎君、本当に料理が上手いんだねぇ」

 

「ありがとうございます、幹也さん。そういえば幹也さんは、向こうの方では料理とかしないんですか?」

 

 

 既に大皿に盛っていたサラダは底をつき、素早く台所から代わりの大皿を持ってきた衛宮さんが幹也に話しかける。

 幹也は背も高くないし細身で、そこまで背が高くない衛宮さんのガタイがやけに大きく見える。‥‥ていうか、幹也との対比は置いておいても意外に衛宮さんって良い体格してるわよね。鍛えてるのかしら。鍛えるって、魔術師の印象とは外れるけれど。

 

 

「いや、残念なことに僕は料理が苦手でね。式が良く作りに来てくれるから和食は良く食べるんだけどね。洋食を食べる機会はあんまり多くないから、新鮮だな」

 

「そうなんですか。式さ‥‥式は和食が作れるのか?」

 

「‥‥まぁな」

 

 

 衛宮さんに話しかけられ、式が無愛想に応じる。基本的に関心を持たない人間にはお世辞や社交辞令未満の挨拶すらしない式にしては珍しい。もしかしなくても、衛宮さんに小指の爪の先ぐらいには興味を持っているのかもしれない。

 あとやっぱり幹也のヤツ、それなりな頻度で式の訪問を受けてるらしい。もしくは幹也自ら式のアパートに行っているという可能性もあるけれど、どちらにしても私にとっては愉快なコトじゃないわけで。

 ‥‥嗚呼、もう式と幹也の、け、け、けけ、けけけけ結婚式だって近いものねぇ!! くっ、折角幹也が倫敦に行くなんて言うから私と二人っきりの旅になるかと思ったのに、なんでまたこうして何人も集まってしまったのか。

 本当に最初はこっそりと幹也と二人で出て行くつもりだったのだ。‥‥最悪、式は良いとしても桜と藤乃はどうやって倫敦行きを聞きつけたのかしらね。

 いつの間にか当たり前のように空港に旅装で立っていて‥‥あぁ、全く本当にどうしてこうなったのか。

 

 

「式は料理が上手なんだ。和食限定なんだけどね」

 

「へぇ、意外だなぁ。‥‥そういえば式の名字って“両儀”だったよな? もしかして倫敦にある両儀流の道場の関係者だったりするのか?」

 

「‥‥倫敦支部のことか。ああ、まぁ、オレは両儀流の跡取りだからな」

 

「跡取り?! 式が、両儀流の?!」

 

「おかしなことか?」

 

「いや、そんなことはないと思うぞ。でもほら、式って女の子だしな。まさか武術やってるなんて‥‥って、よく考えれば遠坂もセイバーも似たようなカンジか。いや、すまなかった」

 

「別にいい」

 

 

 式は相変わらず言葉数が少ないけれど、それでも微妙に衛宮さんに興味を示しているのを肯定するかのように、まるで鑑賞するかのように無感情にテーブルの向こうで話す衛宮さんを眺めている。

 観察‥‥という印象を受けないのは、多分興味を持っていることが鉄面皮から読み取れるから。これもまた珍しい話で、今まで式と少なからず付き合いのあった私からしてみれば、式が殺す相手以外にああやって興味を示しているのは見たことがない。

 

 

「‥‥って藤乃、そんなに食べて大丈夫? 貴女、それなりに食が細くなかった?」

 

「大丈夫。こんなに美味しいご飯を食べるのは久しぶりだから、ちょっと手が進んじゃっただけで」

 

 

 隣の藤乃は普通の人なら十分未満、それでも彼女本人を知る人間ならばちょっと眉を顰めてしまう量の食事を摂っている。

 本当に美味しかったんだろう。寮の食事だって純粋に味だけを比べるなら衛宮さんの料理よりも美味しいはずなのに、彼女はあまり食べなかったから。

 

 

「衛宮さんの料理は、心が込もっているから。寮の料理は確かに美味しいけれど、あれはたくさんの人に作った料理だから。こういう風に、誰かに料理を作ってもらうのは‥‥始めてなの」

 

「‥‥そう、なの」

 

「うん、だから凄く美味しい」

 

 

 儚げに、それでも綺麗に笑う藤乃はとても美しく見えた。

 いつもいつも消え去りそうな雰囲気すら抱えている彼女が楽しそうに笑うのは伽藍の洞の面々と一緒に居る時だけで、学校に居るときでも悲しげな無表情を崩すことはなかったというのに。

 

 

「‥‥そこまで褒めてもらうと逆になんとも言えないな」

 

「良いではないですか、シロウ。私としてはシロウの料理が美味しいことを、普段の食事で証明しているはずですが」

 

「それも、身に染みて分かってるよ‥‥」

 

 

 無言でお代わりのための器を差し出すセイバーさんに、士郎さんが何処か諦めたかのような士郎さん。なんというか、実に絵になっている。

 もちろん恋人とかいう意味じゃなくて、どちらかというとパートナーっていう意味だと思う。遠坂さんと衛宮さんだって十分に絵になるし、当然のように遠坂さんとセイバーさんでも絵になるから。

 ‥‥私の審美眼的には、幹也と式でも絵になっているというのが非常に腹立だしいところではある。っとに、尋常じゃないくらい苛々するわよ、っとにもう!

 

 

「‥‥なぁ、ところでみんなはどうして倫敦まで来たんだ? 特に黒桐さんと桜はちょっと前に来たばっかりだろ?」

 

 

 セイバーさんにお代わりをよそった士郎さんが立ちつくしたままこちらへ問う。

 やけに濃い、というよりは艶消しの赤色をしたエプロンには『贋作』と大きな文字で書いてあるけれど、一体何のことなのやら。そもそもエプロンの贋作ってどういうことだろうか。

 

 

「もしかして忘れ物でもしたのか?」

 

「いえ、そんなことはありませんよ先輩」

 

「私達は用事無かったのよ。でも兄さんが‥‥」

 

 

 既にいち早く食事を終えて倫敦には似つかわしくない緑茶をすする幹也を見る。まだ二十代のくせにやけに爺臭い仕草ばかりする兄には、湯飲みを両手で大事そうに抱える姿がやけに似合っていた。

 

 

「衛宮君も僕たちの上司が紫遙君のお姉さんの、蒼崎橙子さんだっていうのは知ってるよね?」

 

「あ、はい。紫遙からもよく聞かされてますし‥‥この前、大英博物館のカフェテリアでご本人にもお会いしました」

 

 

 衛宮さんの言葉に、伽藍の堂勢から一斉に溜息が漏れる。

 事前に知ってはいたことであっても、それでも『ああやっぱり』とでも言うような吐息が溢れてしまうのは、もはや仕方がないことだろう。

 なにせ私達の上司は基本的に好き勝手な人間で、一所に落ち着いているのが性分だなんて公言しておきながらフットワークが軽すぎる。

 

 

「‥‥はぁ、実は僕たちがこっちに来たのは所長を追っかけてきたからなんだよ」

 

「所長?」

 

「橙子師のことよ。ホラ、紫遙がこっちで何かあったらしいって何も言わずに突然飛び出しちゃったから」

 

 

 工房・伽藍の堂の所長を務める人形師、蒼崎橙子。

 表の世界でも人形関連の分野ではそれなりの知名度を誇り、神秘の世界の技術を使用しない真っ当なやり方にもかかわらず生きているかのような美しい人形を作る芸術家。

 そして神秘の世界では封印指定の魔術師として名を知られる、凄腕の術者。人体を通じて根源へと至ろうとし、今は何故か研究をやめてしまったけれど、それでも魔術の腕前は超一流だ。

 

 

「鮮花が紫遙君に電話してくれたおかげで大体の事情は理解しているつもりだけれどね。僕も特別危機的な状況ってわけじゃないなら心配もそんなにしないんだけど、ちょっと今回ばかりは焦る事情がこっちにもあってね」

 

「事情、ですか?」

 

「うん。実は所長が受けてる依頼で、今週中に出さなきゃいけない書類があるんだ。もう書類自体は出来てるんだけど、所長のサインが無いと向こうさんに提出できないから困っちゃってさ」

 

「それって本当にサインが必要な書類なんですか? 倫敦に来てまでサインを貰う程でも‥‥」

 

「いや、所長はかなり自分の好き嫌いで仕事を受ける人だから、今回の仕事も結構珍しい大口の依頼なんだよ。だからこそ期限を守らないと信用が得られないし、ましてやお金も‥‥ね」

 

「成る程、大変なんですね‥‥」

 

 

 幹也の言葉通り、単純に橙子師が失踪しただけだというならこうまで必至に探しはしない。妹さんの青子さんほどじゃないけど、橙子師もそれなりに放浪癖のようなものを持っている。

 行き先を告げずに出て行くのは基本で、帰る時間はおろか日にちすらも残さずにふらりといなくなってしまうことだって何回かあった。

 

 

「ただでさえ幹也の給料の支払いは滞っているからな。これでさらに仕事まで無くなったら大問題だ。橙子のヤツ、従業員の面倒も見られないくせに弟の面倒ばっかり見やがって‥‥」

 

「‥‥それに乗じてちゃっかり兄さんに食事作りに行ったりしてるくせに、よく言うわよ」

 

「鮮花には関係ないだろ」

 

「関係大ありよ! てゆーか私が誰の妹だと思ってたのよアンタは?!」

 

「‥‥橙子?」

 

「ざっけんなぁぁぁああ!!!!」

 

 

 抜き打ちでいつもの手袋無しで掌大の焔を礫として投げつけるが、同じく音もなく抜き放ったナイフで素早くかき消されてしまった。

 衛宮さんが目を丸くして驚いているけど、幸いにしてこの部屋の中には神秘を解する人しかいない。

 

 

「え‥‥、幹也さんは黒桐さんのお兄さんだからいいとして、浅上も式も魔術師だったりするのか?」

 

「両儀の家は退魔士だ。浅神も‥‥まぁ、そうだな」

 

「私は超能力者‥‥ですから。鮮花や衛宮さんについても、多少は知識にあります」

 

 

 既に話が進みながらも流れるように食事は終わり、驚くほどの手際の良さで何時の間にやら机の上は綺麗に片付けられている。

 食後のお茶まで全員分が流れるように出現していて、あまりの手際の良さに今度はこちらも眼をぱちくりさせてしまう。どれだけ主夫スキルが高いのだろうか、この人は。

 

 

「はぁ、それにしても所長は何処にいるのかな‥‥。直に会えさえすればサイン貰って、FAX使って先方に送ることだって出来るんだけど」

 

「この前に橙子さんと会ったのは大英博物館‥‥時計塔だったから、紫遙の様子を見てるって可能性が高いなら工房にいるかもしれませんね」

 

「時計塔、か。だとしたら僕じゃちょっと行くのは難しいかもしれないね」

 

「そうですね。ミキヤがどのような伝手を持っているかは知りませんが、普通の人間だったら簡単に時計塔に入り込むのは不可能です。例え魔術師の付き添いという形でも無理でしょう。

 私も時計塔の規則に詳しいというわけではありません。しかし前にアザカ達が入れたのは時計塔に入学する予定があったという、それなりの理由のためだと思います」

 

 

 確かに、関係者じゃないとは言えなくとも一般人でしかない幹也では時計塔に入ることは難しいだろう。いくら神秘の世界では公的に開かれた場所とはいえ、魔術協会の総本山である時計塔の警備はそこまで甘くはない。

 となると手段としては橙子師に電話をするとか、橙子師が時計塔から出て来てくれるのを待つとか、伝言を頼むとか、そういうものに限られる。

 ‥‥いやぁ、ちょっと難しいわよねそれは。ただでさえフリーダムに動き回って拘束されるのが大嫌いなあの人を掴まえるのはちょっと困難だ。

 

 

「‥‥俺が代わりに探しに行ってもいいんだけど、あまり深いところにいるとなると簡単にミイラ取りの何とやらになっちまうしなぁ。俺達が普段使ってる教室の階層より下の方に行くと、分かるの紫遙だけだし」

 

「そんなに酷いの?」

 

「あぁ。というか何処まで深いのかわかんないんだよ、あそこ。紫遙の工房だって相当奥だと思うけど、あれより更に下があるってんだから驚きだよな」

 

 

 時計塔は随分と魔境らしい。事前に橙子師から聞かされていたことではあるけれど、既に一年ほども倫敦で暮らし続けている衛宮さん達ですら深入りするのを躊躇うとは。

 

 

「何か、館内放送みたいなのはないのかい?」

 

「時計塔ってそういうところじゃないんで‥‥困りましたね」

 

 

 基本的に無関心な式と、部外者という立ち位置からスタンスを決めかねているらしい藤乃以外の全員が顎に手をやって首を捻る。

 特に生活がかかっている幹也が必至なのは分かるけれど、それと一緒に悩んでくれる衛宮さん達は本当に優しいのだろう。

 

 

「‥‥そうだな、先ずは遠坂に聞いてみないことには動けないだろ。幹也さん達には悪いけど、俺は遠坂の弟子っていう扱いで特別に入学させてもらったようなもんだからさ。

 もし時計塔の方で橙子さんを探すっていうなら、遠坂の方がよく分かる。まぁそれでも見つかるかどうかは分からないけどな‥‥」

 

 

 確かに、特待生という扱いで教授の覚えもめでたいという遠坂さんなら多少なりとも手がかりを知っているかもしれない。

 それに考えるための頭は多いに越したことはないだろう。そうでなくとも慣れた観布子の街ならともかく、右も左も分からない異国の街では勝手も違う。

 とすると例え遠坂さんが何か橙子師について情報を持っていなかったとしても、勝手が知っている人に助けてもらうことは下策というわけでもないはずだ。

 

 

「‥‥そういえば遠坂、結局どうしたんだ? なんか勢いで夕食も済ませたけど、ずっと戻って来ないし」

 

「さて、何か用事があったとしても、そろそろ帰ってくるはずですが‥‥」

 

 

 確かに、言われてみればこの屋敷の主であるはずの遠坂さんの姿がない。てっきり時計塔か何処かに用事で言っているものだとばかり思っていたのに、衛宮さん達も把握していなかったらしい。

 

 

「え‥‥と、私達だけ先に夕食を頂いてしまっても良かったんでしょうか?」

 

「まぁせっかくのお客さんだし、日本から遙々来てくれたんだから腹減ったままじゃアレだしさ。それにこれ以上遅くすると身体にも悪いし。

 ‥‥しかし本当に遠坂はどうしたんだろうな。今までは必ず何処に行くかぐらいは残していったのに」

 

 

 遠坂さんとは、この前ロンドンに来た時に大分言葉を交わした仲だった。

 第一印象は、凄く“華のある人”。そこにいるだけで周囲の人の目を、視線を自然と惹き付ける綺麗な一輪の花のように。そして名前と同じように凜と咲く花のような人だと私は思った。

 ただ、それは遠坂さんが綺麗だとかそういう話ではないとも思う。例えば遠坂さんがそこら辺を歩いていそうな普通の女子のような容貌をしていたとしても、遠坂さんが人の目を惹き付ける存在であることは変わらない。

 彼女の存在というものが、在り方というものが人を惹き付けるのだ。ベクトルこそ違えど式にも似た存在感を周囲に放っている。

 とすると私と多少ならずと衝突するのもまた当然だったのかもしれないと考えてしまうのは、私自身に華があると誤解されてしまうかもしれないけど、これまた一抹の事実が隠れている気がしてならないわね。

  

 

「‥‥ん、鍵の音がしたな?」

 

「凜でしょうか。出迎えに行って来ま———」

 

 

 普通の家に比べて少し距離が遠い玄関の方から、何か金属的な物音が聞こえた。

 おそらく今のは、この家に誰かが訪れた音だろう。家の鍵を開ける音‥‥ということは、遠坂さんが帰ってきた音だろうか。

 

 

「士郎君! セイバー! 紫遙君を知りませんかっ?!!」

 

「———って、はぁ?」

 

 

 玄関から一直線に近づいてきた足音がダイニングと一続きになったリビングの扉が大きな音を立てて開かれ、一人の女性が姿を現した。

 想像していた遠坂さんの姿ではない。長い艶のある黒髪ではなく、短い小豆色の髪の毛。前に見た赤い洋服ではなく髪と同じ小豆色のスーツを纏い、身長も心なしか随分伸び‥‥っていうか、別人だ。

 

 

「‥‥バゼットじゃないか。いきなりどうしたんだ? っていうか鍵はどうしたんだ?」

 

「鍵は凜さんに開けて貰いました。決してピッキングなどはしていませんよ」

 

「なんだ遠坂もいたのか。‥‥二人とも一体どうしたんだ、そんな深刻そうな顔をして」

 

 

 バゼットと呼ばれた長身の女性の後ろから、なんとなくしっくりとくるツインテールに髪を結んだ遠坂さんがひょっこり顔を見せる。

 しかし、その顔は決して帰宅直後の家主の顔ではなかった。バゼット‥‥さんと同様にどこか焦ったような、緊迫したような、そんな顔だ。

 きっとここまで走って来たんだろう。不思議ときっちりスーツを着込んだバゼットさんの方は汗一つかいていないのに、遠坂さんの方は息を切らせている。

 

 

「‥‥その質問には私の問いに答えてからにして下さい、士郎君。繰り返しますが、こちらに紫遙君は来ていませんか? もしくは何処でもいい、この数日で彼を見たことはありますか?」

 

「いや、冬木から帰って来たあれっきり見てないけど‥‥何かあったのか? もしかして、紫遙が工房から出てきたとか」

 

「‥‥ただ出てきただけならどれほどまでに良かったことか。士郎君、本当に紫遙君の姿は見てないんですね?」

 

「あ、あぁ」

 

 

 衛宮さんの答えに、バゼットさんは歯軋りと共に苦虫を噛み潰したかのような、それでいてそんな穏便な表現が当てはまらないくらいに物騒な顔をする。遠坂さんも、また同じ。

 だけど私にはそんな緊迫した様子よりも、二人のやり取りの間に出てきた一つの名詞の方が気になった。

 

 

「ちょ、ちょっと待って下さい二人とも! ‥‥もしかして、紫遙って蒼崎紫遙のことですよね?」

 

 

 それは勝手の知れない異国の土地にあっても聞き馴染んだ知人の名前。

 この場においては耳にしても当然な名前であっても、何となく、焦った様子で飛び込んできた人の口から出るとなると、気になる名前でもある。

 

 

「‥‥確かに、その紫遙君で間違い在りません。しかし、ところで貴女は誰ですか?」

 

「あ、自己紹介が後になってしまいましたね、すいません。‥‥私は黒桐鮮花。魔術師、蒼崎橙子の弟子で、紫遙の妹弟子にあたります」

 

「おや、紫遙君の妹弟子だったのですか。こちらこそ初めまして。私はバゼット・フラガ・マクレミッツ。封印指定の執行者をしています」

 

 

 一旦落ち着き、初めて会う長身のバゼットさんと握手する。掴んだ手の体温は低めで、がっしりとした男らしいものだった。

 封印指定の執行者って、確か橙子師みたいに封印指定された魔術師を捕縛、もしくは殺害して魔術回路やら魔術刻印やらを協会まで持ち帰るっていう物騒極まる職業だったはず。

 それは言うならば、橙子さんに匹敵する腕前を、超一流の腕前を持った魔術師だということを表している。そうでなかったら封印指定の魔術師なんて化け物達相手に大立ち回りなんて出来やしない。

 

 

「あぁ気にしないで下さい、黒桐さんと言いましたか。マイスター・アオザキの封印指定は既に執行を凍結されています。その縁者に対して何か思うところがあるというわけではありませんよ。

 ‥‥なにより、私自身も紫遙君の友人であるつもりですから。そうだ、紫遙君ですよ問題は。参りましたね、ここにも来てないとなると、本当に‥‥」

 

「そうね、貴女の話を考えると、これは踏み切ったとみて間違いない‥‥」

 

 

 二人して溜息よりも遥かに重い吐息を噛み殺したかのように漏らす。事態を全く把握できていない私は知り合いの名前が深刻らしい状況の中で出ているというのに、目を白黒させるばかり。

 そんな私をさておいて痺れを切らせたのか、衛宮さんが何処かもどかしいような素振りで二人の話に割り込んだ。

 

 

「ちょ、ちょっと待ってくれよ二人とも! さっきから紫遙について何か話してるみたいだけど、説明してくれないんじゃ何が何やらさっぱりだ。

 先ず二人がどうしてそんなに焦ってるのか、最初にそれを話してくれ」

 

「‥‥失礼、多少ならず取り乱しておりました」

 

「私もね。‥‥悪かったわ、士郎。バゼットの話を聞いて思ったより動揺してたみたい」

 

 

 最初は大きく、その後は落ち着いた低めの声で諭すように言葉を紡いだ衛宮さんのおかげなのか、今度は小さく長い吐息を零してバゼットさんと遠坂さんが調子を取り戻す。

 ちなみに私の横をちらりと見ると、無関心な式と部外者のスタンスを崩さない冷静な藤乃はともかく、幹也は何が何だか本当に分からない様子で目を白黒させていて、きっと私もさっきは似たような顔をしていたのだろう。

 私と幹也とは男と女という違いこそあるけれど、それでもやっぱり兄妹らしい。藤乃とか橙子師とか、さっきから名前の挙がっている紫遙なんかにも良く言われた。

 

 

「‥‥蒼崎君が工房に閉じこもってたのは知ってるでしょ? ———あぁ黒桐さんは知らないと思うけど、ちょっと色々とあってね。精神的にピンチになっちゃってたのよ、彼」

 

「紫遙が‥‥精神的にキテるってことですか?」

 

「そう。私としても蒼崎君があんなに不安定になるとは思わなかったから本当に驚いたんだけど。とにかく冬木から帰ってきてからこっち、ずっと工房から出て来なかったの」

 

「———ッ?!」

 

 

 愕然と、した。

 私の知る蒼崎紫遙という人間は、魔術師だ。

 そして魔術師とは厳密に言えば人間とは違う人種であり、超越者である。それを端的に表しているのは橙子師だろうけど、もちろん当然のこととして紫遙だって超越者の範疇である魔術師に属する存在である。

 

 超越者、という言葉には全てにおいて魔術師が普通の人間を上回るという意味を表してはいないはずだ。

 橙子師だって単純な運動能力で言うなら、そこら辺の高校の運動部とかにも劣ることだろう。知識量だけを比べるなら、学者とかなら十分に匹敵するに違いない。

 魔術師は人間を超越している。それは単純にスペックを比べるわけじゃなくて、魔術師その人が自分自身を超越者であると定義しているからだ。

 もちろん、それは自分勝手に身の程も知らずに名乗っているわけじゃない。自分の在り方全てをふまえた上で、超越者であることを“選択”した。

 

 超越者である魔術師が、前述のことをふまえてそれでも具体的に何処で違うのかと言われれば‥‥。

 それはやはり、精神と魂と言うしかないだろう。特に人間を構成する三大要素の一つという意味の精神というよりも、心の違いというのが妥当だろうか。

 強靱で頑強で、波一つ立てない揺らぎない心。そんな心と精神を持った人間こそが魔術師たりえる。

 果てのない“根源”への道を、ひたすら淡々と歩んでいける。いける、という言い方が当てはまらないなら“敢えて自ら歩む”という言葉を選びたい。そういう選択こそをするのが、魔術師だ。

 そういう選択を出来る心を持つ決意をして、それを実行に移して完成した存在が魔術師だ。

 

 紫遙は私の、それなりに身近な場所にいる存在と言える。そりゃ兄弟子とはいえ別に尊敬とかはしてないし敬ったりしたつもりもないけど、それでも魔術師としての蒼崎紫遙は私だって欠片の疑いもなく認めるところである。

 “その”紫遙が、まさか一年近くも一緒にいるのだろう友人達がここまで心配する程に、精神を乱し、心を乱し、あろうことか知人に心配させっぱなしの状況を放置したままで工房に引きこもっているという。

 普通の人間ならまぁ、ごくたまにならそのくらいあってもおかしくないと思うようなことであろうと、こと魔術師がそのような状態に陥っているとなると話は別。

 蒼崎紫遙という魔術師がそこまで揺らぐとなると、並大抵のことじゃない。この場にいる誰よりも付き合いが長いであろう私としては、言葉を失うには十分以上の衝撃だった。

 

 

「———まさか紫遙が、そんな。‥‥衛宮さん、遠坂さん、紫遙に一体何があったんですか?」

 

「俺達にも、よく分からないんだ。黒桐さんだって冬木で紫遙の様子は見ただろ? 俺としては、アノ通りだとしか答えられないな」

 

「アイツに記憶を盗み見られた、って言ってたけど‥‥。ねぇ黒桐さん、紫遙が記憶を見られるだけであそこまで動揺する理由って、何か見当つかない?」

 

「えーと、私では何も‥‥」

 

 

 思い出すのは、冬木のビルの上。

 鏡面界という異空間を挟んで反対側にある並行世界から帰還した紫遙や衛宮さん達を出迎え、そして出てきた事件の黒幕とも言える、全身白尽くめの魔術師(へんたい)

 正直、まだまだ未熟者を自認する私では、ヤツが言っていることも遠坂さんやエーデルフェルトさんが言っていたことも良く分からない。

 だけど、ヤツを前にした紫遙の動揺具合だけは今でもはっきりと覚えている。そして、勿論それに対して覚えた衝撃だって。

 そのときの私は、そりゃ紫遙だって魔術師だって多少は驚愕したり動揺したりすることもあるさと、そう楽観的に考えていたけれど。まさか、今の今になるまでダメージを負う程の衝撃だったとはとても思わなかった。

 

 

「私とルヴィアゼリッタは今までね、蒼崎君を何とか工房から引きずり出そうって話し合ってたのよ。

 さっき黒桐さんにも聞いたけど、やっぱり本当のところは蒼崎君に聞かなきゃ始まらないし、理由ってものを知らなきゃ私達だって力になってあげられないもの」

 

「そういえばその前に大英博物館のカフェテリアでセイバーとも一緒に話してた時に、橙子さんに会ったんだよな。‥‥恐ろしい人だった。格が違う、っていうのを久しぶりに肌で感じたよ。

 黒桐さんも、あんな凄い人に師事してるなら腕の立つ魔術師なんだろうな。紫遙もそうだったけど、来年度が楽しみだよ」

 

「わ、私は魔術師というよりは異能者ですから、そう期待されても‥‥」

 

 

 顔は普通の落ち着いた表情だというのに、目だけがキラキラと光っている子どもっぽい視線を向けられて思わず困惑してしまう。

 そりゃ衛宮さんは確かにどちらかというと童顔だけど、体つきは相当に鍛えているらしくがっしりとしていながら引き締まっていて、かなり男らしいというのに。こういう風にふとした瞬間に見せる子どもらしさにドキッとする。

 いや、別に女として惹かれているとかそういうわけじゃないのよ。先ず遠坂さんが怖いし、私には幹也がいるしね。そうじゃなくて、なんていうかこれは人としてのカリスマみたいなものなんだと思うのよ。

 ‥‥いや、カリスマっていう言い方だと不的確かもしれないわね。純粋に、惹かれる人間性をしているって言い方の方が相応しい気がする。素朴な衛宮さんには、ソッチの方が似合う。

 

 

「話を戻すけど、それでルヴィアゼリッタと二人でロード・エルメロイのところに相談に行ってたら、突然バゼットが飛び込んできたの。それこそさっきみたいに血相変えて、汗だくでね。もしかしてあれ、執行者の執務室から全速力で走ってきたの?」

 

「‥‥予断を許さない状況だったんですよ、本当に。封印指定の執行者という仕事は冷静さを求められはしますが、私とて常に平静でいられるというわけではありません」

 

 

 普通ならからかわれているとでも思ってしかるべき言葉にも、バゼットさんは深刻な表情を崩さないままに真剣な声色で返答する。

 冗談に反応する余裕もない、というよりは、遠坂さんの方でも冗談を言ったつもりはないようだ。あくまでも真剣に、友人である紫遙のことについて考えて焦っているという風にも見える。

 

 

「ちょっと前置きが長すぎるような気もするのですが。結局のところ凜、いったいショーに何があったのですか?」

 

「‥‥何があった、っていうわけじゃないわね。どっちかっていうと、何かした、ってところかしら」

 

「は?」

 

 

 苦々しげに遠坂さんが呟き、ちらりとバゼットさんの方へと視線を移す。

 話の流れから、どうやら最初を知っているのはバゼットさんらしい。自然とその場の全ての人の目が男装の麗人へと移った。

 

 

「‥‥数日前、私が指向者の執務室にいる時に、紫遙君が訪ねてきたんですよ」

 

「紫遙が?! アイツ、調子が戻ったのか?!」

 

「ええ、私も最初はそう思いました。‥‥いえ、実際に言えば確かに精神状態は安定していたようでしたから。どうやらお義姉さん方が揃って発破をかけに来たようなのです。

 あの紫遙君の様子を見れば皆さんも安心したに違いありません。流石、蒼崎姉妹の力は偉大だと思いましたね」

 

 

 知らない人から聞いたことでも、確かにそれは納得だと私は自然に吐息を零した。

 私だって伊達に紫遙の妹弟子をしているわけじゃない。もう数年もの付き合いになる内の殆どの間、紫遙と橙子師や青子さんとの関係を見せられて来たのだ。

 紫遙は、あの二人の義姉に最大級の敬意と憧れ、そして信頼を寄せている。紫遙の全てがあの二人によって構成されていると断言してもおかしくない。

 他人である私がこう言うのもおかしなことかもしれないけれど、例えば紫遙があの二人のどちらかに「死ね」と言われたならば、多少の迷いはするだろうけど、その理由に納得さえしたら何の躊躇いも無しに自ら命を絶つだろうことは間違いないだろう。

 それほどまでの信頼を寄せている二人が、紫遙の中で最もスペースを占める二人が紫遙に発破をかけにやって来たというのなら、そりゃ疑いの余地がない。結果にも、過程にも。

 

 

「‥‥発破をかける方向は、私達が予想したものと違ったようですが」

 

「は?」

 

「簡潔に言いましょう。あの時の紫遙君の様子、そして今現在彼がロンドンにいないことを考えると‥‥。

 どうやら彼は、たった一人きりでコンラート・E・ヴィドヘルツルとの決着をつけにいったようなのです」

 

 

 ピタリ、というよりはピシリと空気が固まった。

 事情がよく分からないはずの幹也と藤乃も、バゼットさんの発した言葉の内容に凍り付いた衛宮さんとセイバーさんにつられて、息を飲んだまま呼吸を止めている。

 

 

「‥‥どういうことですか、バゼット」

 

「どういうことも何も、言ったとおりですよセイバー。彼は先日、私がいる執務室にやって来て彼の魔術師の資料を求めました。

 ‥‥あの時は力になれるかと思って渡しはしましたが、今になって思えば下策でした。まさか、忠告も無視して一人で飛び出して行ってしまうとは!」

 

 

 ギシリ、という歯軋りの音が聞こえるくらいに額に青筋を立てたバゼットさんの様子は、心配を通り越して既に激怒してしまっている。よほど腹に据えかねたのだろう。

 握りしめた拳の中に下手な宝石でも入っていたものなら、粉々に砕かれてしまいそうだ。

 

 

「コンラート・E・ヴィドヘルツル‥‥?」

 

「紫遙君達と一緒に、あの冬木の夜に遭遇した全身白尽くめの魔術師(へんたい)ですよ。

 ヤツは十年ほど前に封印指定を受けた魔術師で、“天災”と呼ばれるほどの腕前です。いえ、あの夜に相対しただけでもヤツの魔術師としての力量は十分に実感できたというもの。

 ならば一人で挑むのは無謀に過ぎると、彼ならば理解出来たでしょうに‥‥!」

 

 

 状況を頭の中で整理する。

 まずあの冬木の夜に出会った白スーツの魔術師の名前はコンラート・E・ヴィドヘルツル。どうやら橙子師と同じ封印指定の魔術師で、トンデモない腕前らしい。

 そして紫遙はあれからロンドンに帰ってきてずっと工房に引きこもって鬱になっていたけど、橙子師や青子さんのおかげで立ち直り、そんでもってあの魔術師と決着を付けるために出て行った、と。

 ‥‥ちょっと、何考えてんのよアイツ。

 

 

「いや、無理でしょ。普通に考えて無理でしょ。とてもじゃないけど紫遙で太刀打ちできる相手じゃないわよ」

 

 

 紫遙の魔術師としての腕前は私だって認めるところだ。そりゃ頼りないけど、純粋に魔術師としてなら紫遙は一流‥‥とはいかないでも、それなりのものを持っているはずだ。

 でも、それは“魔術師”としての話。確かに腕前っていう表現を使いはしたけれど、本来なら魔術師同士で力量を比べるっていうのはすごくナンセンスな話になる。

 魔術師っていうのは個々を比べることの出来ない存在だ。一つ一つの魔術の完成度や熟練度でおおよその腕前の程度というものは計れても、総合的な力量を絶対的に比べるのは不可能だ。

 

 確かに蒼崎紫遙は魔術師としては、特にあの年齢では相当に真っ当に、かつ“よく出来た”魔術師をしているだろう。

 けれど魔術師として優れていても、“戦闘者”として優れているかはまた別の問題だ。それを言うと、紫遙は致命的なまでに“魔術師”であって“戦闘者”ではない。

 こと戦闘に関してなら、伽藍の洞では幹也に次いで弱いのだ。式はともかく藤乃もまぁ良しとして、私にだって負けてしまうことは必至だ。

 それは紫遙だって当然のことだと理解しているはずなのに。理解して、許容して、肯定しているはずなのに。

 自分が闘いに赴くのは最低の下策だと理解しているはずなのに、何故に紫遙は一人で闘いに、否、戦いに行ったというのだろうか。

 

 

「鮮花さんの言うとおりです。紫遙君では、決してヴィドヘルツルに勝つことはできない。だというのに一人で旅立ったということは‥‥おそらく、お義姉様方の発破が原因と見て間違いないでしょう」

 

「‥‥あの人、何を思ってそんな真似をしたんだ? って、そういえばルヴィアはどうした?」

 

「ルヴィアゼリッタなら、今あっちこっちの航空会社に連絡を入れてるわよ。私達よりもアイツの方が伝手が多いからね。遥かに効率が良いのよ。

 バゼット曰く、あの魔術師の本拠地はドイツの片田舎らしいから、もし本当に蒼崎君がヤツと戦いに行ったなら飛行機を使っているはずだからね」

 

 

 衛宮さんが話の隙間を縫って淹れてきた紅茶を口に運びながら、遠坂さんが答える。そういえばルヴィアさんって良いところのお嬢様‥‥というか貴族様だっけ。

 だとしたら確かに、ロンドンに来た異邦人である遠坂さん達よりもあっちこっちに伝手があってもおかしくない。

 まぁ思い返すとルヴィアさんもイギリスの貴族じゃなくて、フィンランドの人だったはずなんだけど。まぁ、お金を持っていると色んなことがあるんだろう。

 

 

「‥‥で、どうするんだよ遠坂。ルヴィアに調べてもらってはいるみたいだけど、もう紫遙が例の‥‥コンラート・E・ヴィドヘルツルとかいう魔術師のところに行っちゃったのは殆ど確実なんだろ?」

 

「そうね。バゼットの話からすると、そう見て間違いないと思うわ」

 

「だったら黙って見てるわけにいくか! 紫遙一人じゃ勝てないんだろ?! だったら助けに行かないと、今度こそアイツ捕まっちまうぞ!」

 

 

 冷静に表情を変えないで呟く遠坂さんに、衛宮さんが大きな声を出す。

 紫遙のことを心配してくれているのか、どうやら助けに行くつもりのようだ。今頃アイツは、バゼットさんの話が確かならドイツにいるだろうに、考える時間も無しに、言い切った。

 

 

「‥‥それはそうなんだけど、ね」

 

「遠坂!」

 

「落ち着きなさい、士郎。確かにアンタの言いたいことも分かるけど、ちょっと性急に過ぎるわよ」

 

「だって遠坂、紫遙がピンチだっていうのに黙ってられるかよ!」

 

 

 ダン、と大きな音を立てて衛宮さんの拳を受けたテーブルが軋む。

 衛宮さんは今にも走り出して行きそうなぐらい浮ついた様子で怒気を孕み、バゼットさん同様に歯を食いしばっていた。

 ただの友達、それも一年ほどしか付き合いのない友達のために、遥かに強大な敵へと挑む。しかも、その選択肢を選ぶまでに逡巡もなく。

 でも———

 

 

「遠坂さんの言うとおりですよ、衛宮さん。事情はまだはっきり分からないんですけど、まずは落ち着かないといけません」

 

「黒桐さん、紫遙は君の兄弟子だろ?!」

 

「だから落ち着いて下さい! そりゃ、私だって紫遙が危ないっていうなら黙ってられないのは同じです。でも計画も無しに飛び出すわけにはいきません!」

 

 

 衛宮さんと同じように、他人様の家だから気は引けるけどテーブルを叩く。掌が痛いけど、それでも痛みと引き替えに飛び出た大きな音は衛宮さんの激昂を一瞬でも落ち着かせた。

 ‥‥私だって鬼や悪魔っていうわけじゃない。それなりに長い付き合いで、一応はそれなりに世話になった紫遙がピンチだっていうのに、関係ないなんて決め込んではいられない。

 でも衛宮さんは、ただがむしゃらに走っていこうとしているだけだ。そこには実が伴っていない。

 実際、紫遙を助けにいくというのは、紫遙のピンチを知った段階で私の中では確定事項であるのだから。

 

 

「話はルヴィアさんの調査の結果が出て、それからじゃないんですか。紫遙を助けたいのは私だって同じなんです。力を惜しむつもりはありません。

 でも、それでも準備も同意も得ないで走り出すんじゃミイラ取りが何とやらってもんですよ。助けは惜しみませんから‥‥さぁ、作戦会議と行きましょう」

 

 

 本気の目をした遠坂さんとバゼットさん、そしてセイバーさん。

 事情を知らない幹也や式も、真剣な目でこちらを見ている。身内に何かあったとすれば、実際に手を貸すかどうかは別として、まずは前向きな姿勢を示すのは人間として当然のこと。

 ましてや私は、否、私達は魔術師だ。

 

 本来ならば孤高であるべき存在。そして孤独に、それでも何かに急かされるかのように盲目的に貪欲に根源を追い求める私達が、数多の幸運と僥倖によって手に入れることの出来る、数少ない“身内”という存在。

 だからこそ魔術師は、本来ならば不要と談じるはずの身内をこの上なく大事にする。

 それらは正しく得難い存在。いや、本来なら得るはずのなかった存在だ。それがどれほどまでに貴重なものか。どれほどまでに魔術師にとって大事で、大切なものか。

 

 紫遙にとって私は身内。そして私にとっても、私自身の紫遙に対する評価がどうであれ、紫遙は身内なのだ。

 身内のためなら多少の骨身は惜しまない。魔術師としても、黒桐鮮花としても勿論それは当然のことで。

 

 きっと周りの皆も、面倒臭そうに無関心に見える式でさえも、それは同じ。

 ‥‥全く本当に世話を焼かせてくれるわね。人にはあれだけ散々色々と苦言を弄しておいて、こういう時に今までの私の色んなポカを帳消しにするぐらいの大ポカを、大迷惑をやらかしてくれるんだから。

 ホントに、この借りは大きいわよ? ねぇ紫遙、もし無事に戻ってこれたなら今までの貸しは全部帳消しで、ついでにこれでもかってぐらい嫌味たくさん言ってやるんだから。

 覚悟してなさいよね、兄弟子さん?

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 細かく小さな雨の粒が地面に叩きつけられる音を、何処か遠いところで起きている出来事のように聞いていた。

 分厚いコンクリートの壁の向こうで、きっと雨が降っているんだろう。大粒でもなく、激しくもなく、ただただ陰鬱な小雨だけが降り続いているんだろう。

 事実なはずなのに、不確実な現実感を振りまいている雨音は、おそらくだけどオレの心象状況を表している。つまり、外部に気を払うことが出来ないくらいに自己に埋没している証拠だ。

 

 自己に埋没するという表現をどのように解釈するか、それなりの意見があるだろう。周りのことが何も分からない程に何かに集中しているという状態を表す人もいるだろうし、あるいは自己中心的に盲目的に活動しているような状態を表す人もいる。

 それらは個々人によって全く解釈が異なるものだからしかたがないと言えるけれど、ここで一つ、字面というものを額面通りに捉えて考えてみて欲しい。

 埋没するというのは能動的な意味合いをあまり含んでいない。微妙に不適切な表現だから少し言い換えれば、前向きなイメージを含んでいないのだ。

 底なし沼に埋もれて行くように、自分の中へずるずると沈んでいく。本来なら人間は足を動かし続けていなければならない生き物であるというのに、それをせず、無抵抗で自分の精神を自分の精神の中へと埋没させていく。

 

 埋まり、沈むということは自分の周りが沈んだ先で囲まれるということである。自分の外側を、沈んだ先で埋め尽くすということである。

 どうして人は自身に埋没しようとしたがるのか。本来なら群れを為して、社会を為して生活するべき生物である人間が、何故周りとの接触を隔絶してまで自己に埋没したがるのか。

 自己の周りを自己で覆う。それは自己の保護である。

 周囲から自身を隔離し、自身を保護しなければどうしようもないときがある。それは一般人、普通の人間であってもそうだろうけれど、今のオレにとっては深刻極まりないものであった。

 

 

『‥‥世界から拒絶される、ということをお前は実感としてしっかり持っているか?』

 

 

 あの日、橙子さんからオレの現状について知らされた後、情けなくもオレは何かによる衝撃で意識を失ってしまった。

 目を覚ませば伽藍の洞の、自分に割り当てられた部屋。薄いベッドの上で尋常じゃない倦怠感と共に、頭の中で破鐘を叩くような鈍痛がする。

 正確には頭が痛いというわけでもないのだろう。頭が痛むというよりは、精神が、魂が痛みを訴えているのだ。

 まぁもちろん魂が、精神が頭に宿っているというわけでもないだろうけれど、それでもオレ自身がそう感じているのだからそのものと言えるだろう。

 

 

『自分が描いた絵の中に、おかしな色が混ざっていたらどうする? そこに本来なら在るべきだった色で塗り潰すのが道理というものだろう。

 塗り潰された後に、元あった色がどうなるか‥‥。まぁ簡単に考えはつくところだろうな。塗り潰されれば元の色は消える』

 

 

 目覚めたオレの隣に座っていた、橙子さんの言葉を思い出す。

 オレはこの世界という、完成された絵の中に何故か混ざり込んでしまった、“本来なら描かれていないはずの人物”だ。描き手である“世界”にとって、オレは完成された絵の中に在ってはならないはずの存在だった。

 ならば描き手によって修正されてしまうのも道理。

 ‥‥しかし実際のオレは絵の具で塗ったくられた絵なんかじゃない。世界に修正されてしまったら、一体どうなってしまうのだろうか。

 

 

『さて、それは実際に私も見たことがないから分からんな。

 だが少しばかり憶測を立てることが出来る。例えば投影物についての前例などを引き合いに出せば、まぁ多少なりとも判断材料にはなるだろう』

 

 

 そう言いながら橙子さんは、机の上に置いてあったマグカップを投影魔術のようなもので複製してみせる。魔力‥‥というのだろうか、霧が輪郭から始まって正確にマグカップを形作る様は、実は初めて見る魔術としては十分過ぎる程に神秘的だった。

 

 

『魔力で生み出された投影物は、魔力の結合が世界からの修正力‥‥いわば圧力(プレッシャー)を受けて崩壊するわけだな。

 しかし魔力で構成された投影物と異なり、既に確定された存在である人間は早々消えん。例えこの世界の人間ではない、お前でもな。ならば今度は人間を構成する三大要素の内、最も脆い精神辺りを狙ってくるのが予想される』

 

 

 精神への攻撃‥‥。つまり、今オレが受けているこの頭痛やら圧迫感やら倦怠感やら、そういう不調全てまとめて世界による仕業だということだ。

 一人、年代物っぽいアルミパイプのベッドの上で膝を抱えながら、寒くもないのにあまりの悪寒にがたがた震え、指の爪を深爪するぐらいまで歯で噛み砕いている。

 ちなみに右手の指の爪は噛みすぎて既に噛むところが無くなってしまったので、今度は指の節に噛み跡がある。流石に噛み切るぐらいまではまだ追い詰められていないけど、それも時間の問題だろう。

 

 精神への攻撃、ということは一体オレは何をしてそれに対抗すればいいのだろうか。

 今のこの状況だけを打開したところで意味はない。世界からの圧力は恒常的に、継続的に襲いかかってくる類のものだ。長く通用する対策を施さなければ全く効果が出ない。

 

 

『‥‥それはお前が見つけることだよ、■■■■。

 私からある程度の実用性のある解答を用意してやることは出来る。しかしそれでは意味がないのだ。これはお前自身が、解答を見つけなくてはならない。

 世界との付き合いというのはな、意外にも人と人との付き合いに似ているものだ。もちろん相手が絶対強者であるということは絶対に覚えておかなければいけないことではあるが、な。

 人と人との間の付き合いに亜人が口を出してもろくなことにはならん。だからこそお前はお前自身で答えを、付き合い方を導き出さねばならん。

 要するにお前のするべきことというのは、世界という大家に媚を売って自分の部屋を確保することだ。この世界の産物ではないお前が、この世界の一員になること。それがお前自身を救う早道なんだよ』

 

 

 ‥‥オレが、世界の一員になる。

 この世界から退出することができない以上、オレはこの世界で過ごしていくしかない。ならばオレは、あらゆる手を尽くしてこの世界に間借りさせてもらうしかないのだ。

 オレがこの世界にいるという矛盾を、オレ自身が必死で誤魔化さなくてはならない。そうしなければこの世界からの圧迫感、修正力は消えず、結果としてオレは精神崩壊という悲惨な末路を辿ることになるだろう。

 

 

「———嫌だ」

 

 

 掠れたような、自分の呟き声が静まりきった部屋の中でやけに大きく響いた。

 そうだ、嫌だ。そんなのは嫌だ。精神崩壊なんてそれこそ死んでもゴメンだ。絶対に、そんな末路は迎えたくない。

 正直な話をすれば、あの事故‥‥と思われる大惨事から生還できただけでも御の字だとは思っている。それでも、せっかく拾った命は何だかよく分からない理由で消費したくない。

 更に正直な話をすれば、実のところオレは今の状況を上手く把握できていないのだ。おそらくは創作物の‥‥オレが好きだった型月の、世界に、来ちゃったことは、間違い、ないんだろうけど‥‥ああやめよう、この話について考えるのは、修正力が、きつく、なる‥‥。

 

 

「冗談じゃ‥‥ない‥‥。訳が分からないまま、死んでたまるか‥‥!」

 

 

 強く、強く自分の頭を掻き毟る。これ以上、立ち止まっているわけにはいかない。

 まるで虫歯みたいだ。最初は全然平気だと思っていても、ある一線を超えると酷く自分を痛めつけてくれる。これは中々に辛い。 

 もう我慢出来る範囲は超えてしまった。もう無視できる段階を超えてしまった。

 

 

「あぁ、でも‥‥」

 

 

 そうだ。橙子さんの言っていることは間違いなんかじゃないだろうけど。

 

 ———一体オレは、どうやってこの世界の仲間入りをすれば、いいのだろうか。

 

 

 

 

 act75 Fin.

 

 

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