UBW~倫敦魔術綺譚 (未改訂版)   作:冬霞@ハーメルン

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第七十六話  『灰の街の天災』

 

 

 

 

 side Giovanni di San Sebastian

  

 

 

「‥‥ようこそポンペイへ、コンラート・E・ヴィドヘルツル卿。ご来訪を心よりお待ちしておりました」

 

 

 イタリアの地方にある、古代都市ポンペイ。

 遥か太古に火山の噴火による被害を受け、一夜にして灰の海に沈んだと言われる悲遇の都市。

 今では観光名所として毎日大勢の観光客によって賑わう場所だが、その本質が墓場であることには変わらない。

 イタリアの眩しい太陽に照らされた古代の町並みは白い壁を美しく輝かせる。

 しかし建物の陰にまで、光を当てることは出来ないのだ。美しく磨き上げられた遺跡の陰には、それこそ真っ黒な影が史実として広がっているのだから。

 

 

「はじめまして。私は聖堂教会から任命された、ポンペイ教会の司祭です。故あって性は捨てておりますので、どうぞジョバンニとお呼び下さい」

 

「ふむ、こちらこそ初めまして、であるか。コンラート・E・ヴィドヘルツルだ。‥‥そちらはジョバンニ神父でよろしいか?」

 

「構いませんよ。この際、呼び捨てに頂いても私としては一向に気にしないのですがね。まぁ初対面でそこまでフレンドリーに話すわけにもいかないでしょう」

 

 

 遺跡からは微妙に離れたポンペイ駅のホームに現れたのは、真っ白い町並みにも負けず劣らず、全身白尽くめの一人の男だった。

 病的なまでに、滲み一つない純白のスーツ。偏見的でありながら隔離病棟をイメージさせる気味の悪い白さは、頭に被った帽子にまで同じく、あろうことか靴までもが同色で統一されている。

 

 細いようでいて、がっしりともしているのは、おそらく骨太だからだろうか。それとも体格のみが目立っているのだろうか。

 痩せているのは間違いないのだろう。しかし同じように肩幅は広く、身長も高い。

 何よりこちらへと歩いてくる姿からは、体重というものが感じ取れなかった。

 そこに確かにいるはずなのに、存在を感じ取れない。まるで幽霊か何かのようだ。

 もし我々の生きるこの世が一つの絵画だとするならば、彼のいるところだけ消しゴムで消されたように、あるいは最初から何も書かれていないように、もしくはキャンバスですらないように空白である。

 

 

「事前にこちらへいらっしゃる旨、魔術協会を通じての連絡、ありがとうございます。

 やはり昨今は勝手に入ってくる魔術師が増えましてな。マナーを論ずるのは意味のないことだとは思っているのですが、それでも困ってしまいますよ」

 

「いや、あちらは私の領地の家令のような者がやったことでな。私自身は関与しておらんよ、ふむ」

 

「そうでしたか。いや、しかしこちらとしてはありがたい限りです。

 如何に魔術師個人の来訪とは言えども、魔術協会と聖堂教会に無用な諍いを引き起こすことは慎むべきですからね。私としては、細心の注意を払っても十分ということはないと考えております故」

 

 

 ホームから離れ、観光客でごった返す街路をゆっくりと歩いていく。

 迎えたヴィドヘルツル卿は何もかもに興味を示すかのように、態度に反して淡泊な目をあちらこちらへせわしなく動かしてはすぐに別のものへと視線を移す。

 始終その調子でゆっくりと歩を進めている様は、帝王か領主。

 

 人間は基本的に、他者との共存で生活していく生き物だ。

 群れを為すのは人間以外の動物でも当然のように行うことであるが、しかし社会まで形成する種族は限られる。

 どの程度のものであれ、他人との関わりは人間にとって必要不可欠とでも言うべきもの。

 だというのに彼はあくまでも泰然と構えて、他者に感心を示す様子がない。

 彼が多少なりとも関心を示すのはモノぐらいなのだろう。視線は全て人を擦り抜け、隣を歩く私にすら無機質な目を向けている。

 

 

「ご存じでしょうが、このポンペイは非常に面倒な立場に立たされていると言っても過言ではありません。

 遺跡がある都市といえば何処も同じようなものですが、魔術協会と聖堂教会両方の権威が及んでいる土地ですからね。特にローマに近いのも、ある意味では災いしていると言えましょう」

 

「ふむ、聖堂教会の司祭であるにしては妙な言葉だな」

 

「私はこのポンペイの管理者(セカンドオーナー)も兼ねてますからね。神の僕であると同時に魔術師‥‥。俗世は面倒で仕方がありませんな」

 

 

 名のある遺跡は、その多くが霊地であることが多い。

 例えば我が領地であるこのポンペイもそうであるし、有名なところではイギリスにあるストーンヘンジなども同じく一流の霊地である。

 しかし遺跡と化す程の歴史を持った霊地だと、表の社会とも、無関係ではいられない。特にローマに近いポンペイの街ならば、聖堂教会からの干渉とて考慮しなければならないのだ。

 

 故に私の家は、代々聖堂教会の司祭として活動している。

 魔術師であると同時に、聖職者。矛盾してはいるが代行者であるならばそこまで問題はない。そもそもからして、聖堂教会の代行者達は決して信仰が第一というわけでもないのだから。

 聖堂教会としても、ある程度こちら側の言い分に理解を示す管理者(セカンドオーナー)は都合が良いようだ。それは既に、私の先祖が証明しているわけであるが。

 

 

「どうですか、この街は?」

 

「ふむ、悪くはない。土地に染みついた過去の無念、怨念、そういった負の感情が歴史として積み重なった‥‥良い街だ。

 我々魔術師にとっては、だがな、ふむ」

 

 

 靴音が小気味よく石畳に響く。真っ白な革靴には一切の曇りは無く、陽の光を反射して鈍く輝いている。

 相も変わらず無機質な目は、それでも興味深げに建物や道などを注意深く観察していて、手元に持った自前の地図に何事かを書き連ねていた。

 

 コンラート・E・ヴィドヘルツル。

 ドイツにある“幽霊城”と呼ばれる領地を治める管理者(セカンドオーナー)であり、一時期時計塔に在籍していたこともある。

 そしてそのときに、その余りの才能から褒め称えられ、稀代の天才の名前は欧州の端であくせくと魔獣の類との戦いに勤しんでいた私の耳にも届いていた。

 曰く、ありとあらゆる魔術に精通し、どんな課題でも完璧にこなす学生。そういうふれこみの彼は、確かに期待通りの成長を遂げたのだろう。

 当時既に齢五十に達していた老齢の学生だったと聞くが、あれから数十年経った今では私など足下にも及ばないということがありありと分かる。

 

 

「聖職者としては悲しむべきことなのかもしれませんがね。人々の無念が実際に形として残っているこの街を見せ物にするというのは‥‥。

 私などは生まれたときから此処にいますから、その思いは尚更ですよ。確かに観光客を呼ぶことでこの街が繁栄しているのも事実ですが、同じく厄介事も舞い込みますからね」

 

「ふむ、そうか」

 

「貴方とて管理者(セカンドオーナー)でしょう?」

 

「そのような些事は領地にいる別の魔術師が担当している。私に必要なのは、ただ探求のみ」

 

「‥‥いやはや禁欲的なことですね。まぁ、よろしいんじゃないでしょうか。

 多少世俗に塗れているとはいえ、私も魔術師ですからね。そういうことには共感を覚えます」

 

 

 辺りを見回す目とは打って変わり、やはり私の発言に対する返答は感情の色が見えない。

 正直な話をすれば‥‥彼の愛想の欠片も感じることが出来ない態度は不愉快に思うが、聖堂教会と魔術協会の双方から接待を依頼された身としては相手をしないわけにはいかないだろう。

 

 

「いかがです、遺跡の方へいらっしゃいますか? もしご覧になられるようでしたら私が是非に案内させて頂きますが」

 

「‥‥ふむ、折角の申し出だが、遠慮させてもらうとしよう。

 遺跡も心そそられるモノがあるが、その前に街の中をじっくりと見させてもらいたい。出来れば街の入り口や周囲もチェックしたいところだな、ふむ」

 

 

 まるで子供のように、渡した地図に隅々まで指を走らせるヴィドヘルツル卿。

 確かに普通の観光客ならば遺跡や、駅から中心部までの道などにばかり気を取られてしまうことだろう。

 しかし魔術師であるならば、しかも管理者(セカンドオーナー)から正式に招かれている魔術師ならば、他にも見所は多い。

 

 

「確かに、霊脈は決して遺跡に集中しているわけではありませんからな。

 街の周囲にも魔力溜まりのような場所はありますし、お好きに見て回ってもらって構いませんよ。ですが調査だけにして下さいね。

 流石に霊脈をいじられたりしては管理者(セカンドオーナー)として面目が立ちませんので。あぁ、念のため使い魔も同伴してもらいますよ」

 

「ふむ、理解しているよ。十分に注意するとしよう」

 

 

 他の霊地ならば話は違うだろうが、流石に私の領地であるポンペイでは一般的な対応が必ずしも出来るとは限らない。

 そもそもからして観光地だ。いくら魔術師の流入を規制しようにも無理がある。

 これだけの量の観光客に紛れられてしまっては、どうしようもない。どれだけ土地勘があっても人混みに撒かれてしまうことだろう。

 

 だからこそ大事なのは独自の姿勢を作り上げることこそが大事。

 私の領地であるポンペイでは、基本的に魔術師の流入を規制しない。

 勿論、訪問する前にはしっかりと私への連絡をしてもらいたい。それは原則として魔術協会にも伝えてあるし、所属未所属に関わらず今まで守られていたルールだ。

 

 そもそも霊地の管理者(セカンドオーナー)の立ち位置というのは果てしなく微妙なものだ。

 時計塔に席次があるわけでもなく、魔術を行使する上でのメリットも大して存在しない。精々が霊地の魔力を操る権限を持っている、というだけのことだろう。

 その土地に住まう魔術師達からの上納金という旨味があると言えば、まぁ確かにあるが、それにしたって魔術師としてのメリットではない。

 

 結局のところ管理者(セカンドオーナー)なんてものは、最初からなると決まっていた者がなる役職であるのだ。

 わざわざ好きこのんで新規に管理者(セカンドオーナー)などになるものではない。正直、面倒なだけである。

 まぁ大抵の管理者(セカンドオーナー)はその土地に代々住み着いているような古参の者であるから、その心配も杞憂と言えるが。

 

 ああ、そういえば霊地を悪用するというのも、中々に難しい話ではあるな。

 

 

「ではホテルの方にはこちらから連絡をいれておきましょう。遺跡は見学できる時間が決まっておりますので、ガイドブックを見て注意しておいて下さいね」

 

「ふむ、理解した」

 

「では私は雑務がありますので、失礼します。どうぞお気を付けて」

 

 

 体勢は全く変わらないまま、言葉だけでおざなりな返事をしたヴィドヘルツル卿が遺跡の反対、ゆっくりと街の外へと向かって歩いていく。

 悪態を突きこそしないが、それでも私は去っていくその背中に重い重い溜息をつくのを堪えられなかった。

 果てしなく相手をするのが疲れる客人だ。正直な話をすれば、一応は管理者(セカンドオーナー)という立場にある私が何故ここまで気を使わなくてはならないのか。

 

 

「まったく、私は執事でも何でもないのだがな。便利屋とでも思われているのか?」

 

 

 ‥‥いや、愚痴はやめよう。

 私とて先代の跡を継いで管理者(セカンドオーナー)になった時から、このような立場に置かれることは覚悟していたはずだ。

 似たようなことなら、いくらでもあった。もっと面倒なことなら、更にあった。

 遺跡をめちゃくちゃに荒らそうとしたモグリの魔術師を血祭りにあげたことや、姑息にも遺跡の物品を持ち出そうとした魔術師。他にもネタには事欠かない。

 

 

「やれやれ、一人を受け入れると吾も吾もとポンペイにやって来るから困る。

 暫くは書類仕事に追われそうだな。まったく、いくら故郷を守るためとはいえ細々とした事務処理は面倒だ」

 

 

 一体此の地に来て何をするつもりだというのだろうか。遺跡以外に、魔術的な要素などありしない。

 ここまで怨念が籠もった霊地というのもそこまで数がないかもしれないが、それにしたって物珍しい以上の何物でもないだろう。

 何を勘違いしているのか知らないが、まぁ私としては面倒を起こさなければ私の仕事が増える以外に問題はない。それさえ自覚しているのなら、まだ私は頑張れるさ。

 

 

「‥‥まずは家に帰って書類を支度する、か。ヴィドヘルツル卿の不興を買わんようにホテルへの連絡はしっかりとしなければな」

 

 

 ちょうど高台にある私の屋敷へと向かう道に歩を進める。

 街を歩く殆どが観光客であるが、一部の住人達は私を見ると軽く会釈をしてくれる。既に先祖代々の付き合いであるからか、誰も彼も顔見知りだ。

 

 近くにヴェスヴィオという活火山があり、過去に大災害を経験しているがためか、住人達は思いやり深く連帯感も強い。

 私自身が聖職者ということもあろうが、魔術師としては研究を、そして表では聖職者として地域との交流をするという充実した生活を送ることが出来ていた。

 

 私はこの街を、ポンペイを愛している。

 この街のためならば、身を粉にして働こう。この身に代えても、私はこの街を守ってみせる。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

「ジョ、ジョバンニ神父! ジョバンニ神父! お願いですジョバンニ神父起きて下さい!」

 

 

 夜中、既に魔術師であろうと寝静まっている深夜。

 当然のように教会の自室で就寝していた私の部屋の扉を、いつになく切羽詰まった勢いで叩く音が聞こえ、私は泡を食って飛び起きるとドアノブに手を掛けた。

 

 

「おお、ジョバンニ神父! いらっしゃって安心しました、もうどうしたらいいか‥‥」

 

「一体どうしたというのですか、ピエトロ?! そのように慌てふためいて、いつもの貴方らしくありませんよ」

 

 

 扉を開けた先に立っていたのは、祖父母の代から親密な付き合いをしている隣人。

 一昨年に他界した彼の両親と私が親友であり、彼が子供の頃から面倒を見てきた仲だ。

 普段は温厚で人当たりがよく、近所のまとめ役にもなっている年下の知人の同様しきった声に、私も驚きを隠せない。

 

 見慣れた友人は、普段はまるで常に酒に酔っているかのような赤ら顔をすっかり青ざめさせて、徒競走の後のように激しく息を切らせている。

 感想して熱い気候とはいえ、ここまで汗をかいているというのは尋常の事態ではない。ただでさえ、普段からあまり運動せずに太り気味なピエトロならなおさらだ。

 

 

「な、なにを言っているのですか! ぼんやりしている場合ではありませんよ、ジョバンニ神父!」

 

「はぁ?」

 

「昔から寝付きが良いんだから貴方は‥‥! あああ、とにかく外に出れば分かります! ほら! 速く!」

 

 

 パジャマに使っているラフな部屋着の上から長衣を羽織り、手というよりは腕を引かれ、慌てて着いていく。

 ポンペイは遺跡の発掘調査でかなりの時間まで灯りが点いているが、それにしてもこのような時間に出歩く人間がいるはずもない。だというのに、不思議なことに窓のカーテンの隙間から見える空は、やけに明るい気がした。

 

 

「‥‥これ、は」

 

「信じられないでしょう、神父様。火山が、ヴェスヴィオ火山が噴火しているんです! さっきまで何の兆候も無かったのに!!」

 

 

 外に出れば、市街地を挟んで向こう側に悠然とそびえ立つウェスウィウスが、真っ赤に染まっていた。

 百年も経たない昔にも一度噴火し、村々を壊滅に追いやったヴェスヴィオ火山。しかしそれは、昨日の夜までは確かに普段と変わらず、泰然と我々を見守っていてくれたはずだったのに。

 今は古の神々のように怒りを振り撒き、理不尽な死を撒き散らす恐怖の象徴と化している。

 

 真っ赤に染まった火口からは、火口のサイズを上回るかもしれないぐらいの太さの噴煙が、まるで天上を支える柱のように果てが無く立ち上っていた。

 ここからでも断続的に小規模な爆発を繰り返しているのがよく分かる。たまに白い粒のようなものが撒き散らされており、どうやらあれは火山弾らしい。

 外に出れば、部屋の中では気づかなかったが灰が降り注いでいるのがよく分かる。雨のように降ってくる灰で、街行く人々の頭が微妙に白く染まっているのだ。

 

 まるで現世の終わりを告げ知らせるかのような、地獄そのものと言うべき有様。

 それは確かに、十分に覚悟していたことだった。我々はもとより、この地方に住む全ての人間は、いつか理不尽な神の怒りに触れることぐらい十分に覚悟していた。

 

 

「‥‥ピエトロ、貴方は火山が噴火する記録映像を見たことがありましたね?」

 

「え、えぇ」

 

「ならば私の言いたいことも、分かりますね?」

 

「も、もちろんです! あの状態は間違っても噴火直後なんてものじゃありません! どう考えても、噴煙の規模と火山灰の量からして一昼夜以上は噴火し続けていないとおかしい!」

 

 

 高々と天を支える噴煙は、ついさっき噴火が起こったのでは生じるはずがない。

 地面は小刻みに揺れている。眠っていたから気がつかなかったらしいが、少なくとも火山の噴火の時に起きることが出来なかったというわけはあるまい。

 既に降ってくるのは灰だけでは無くなっている。砂利のような小石から、こぶしよりも大きな礫岩まで、火山の噴火で巻き上げられ、散弾銃のように襲いかかって来ているのだ。

 

 

「‥‥まさか、ここまで突然に噴火が起こるとは」

 

「しっかりしなさい、ピエトロ! あの様子だとすぐに火砕流が迫ってきてもおかしくありません。急いで避難するのです!」

 

「神父様‥‥しかし神父様は?!」

 

 

 ともすれば腰が砕けそうなまでに震えているピエトロを叱咤激励して、街の出口、駅の方面へと背中を押す。

 深夜だから電車が動くはずもないが、駅前まで行けばバスに乗れる可能性もある。私の脳裏では、既に飽きるほどに読み返した各種の文献の記録が蘇っていた。

 

 

「‥‥私は、他に避難出来ていない人がいないか確認してきます。お年寄りや、病人などが居たら近くの人に頼んで一緒に逃げて貰わなければ」

 

「しかし神父様! そんなことをしている時間はありませんよ?!」

 

「そういうわけにはいきません。私はポンペイの信者である皆さんのおかげで生活できているようなものです。皆さんのために出来ることは、なんでもしなければ」

 

「神父様‥‥」

 

 

 都合の良い言葉を使いはしたが、それは真実。

 この街の領主、管理者(セカンドオーナー)としての義務がある。矜恃がある。誇りがある。

 何より愛する街の住人達を見殺しにするわけにはいかない。魔術師として可能な限りの領民を、聖職者として可能な限りの迷える子羊達を救わなければならない。

 

 

「さぁ、急いで。もし歴史の通りに火砕流が来るとしたら、命の限り走らなければ助かりませんよ!」

 

「‥‥わかりました。神父様も、お気を付けて!」

 

 

 走り去っていくピエトロの背中を暫しの間だけ眺めた後、反対方向へと私も走り出す。

 街道の方は阿鼻叫喚の有様だった。老若男女問わずありとあらゆる住民達が街の外へ、外へ、出来る限りヴェスヴィオ山から遠い方へと逃げていく。

 大体の顔見知りを、その道中で確認出来た。どうやら私は相当悠長に惰眠を貪っていたらしく、他の人間達は大半が既に避難を開始していたよいうだ。

 

 

「ああ、しかしあの規模の噴火では仮に火砕流まで発生するとして、人間の足では逃げ切れん‥‥!

 途中で車か何かをピックアップせねば、私も焼け死んでしまうかもしれんぞ」

 

 

 流石に義務感で死ぬのは勘弁したい。私だって、自分の命が一番大事なのは変わらないのだ。

 ‥‥どうやら住人の多くは自分の家から逃げ出し、家の中に残っている者はいないらしい。やはり私のような間抜け以外は敏感に異常に反応したのだろう。

 結構な速度で走っているからか瞬く間に街道を走ってくる住民達の姿は見えなくなった。‥‥後は住民以外の、ホテルに泊まっている観光客達か。

 あちらも従業員が、古くからポンペイに住んでいる従業員達が上手く対処してくれていると信じたいが、気になる。

 なにせホテルには彼のヴィドヘルツル卿も宿泊している。大丈夫だとは思うのだが、彼に死なれると立場上マズイ。

 

 

「‥‥やはり、人気はないな。一応上の方まで調べておくか。高いところからなら、ヴェスヴィオの様子も見ることが出来るかもしれん」

 

 

 ホテルもそこまで大規模な建物ではない。

 エレベーターを使って最上階まで上がって、あとは階段で屋上まで出る。

 常ならば雄大なウェスウィオスと白い遺跡群を眼下に望む素晴らしい景勝が、今は地獄の顕現を目の前にする、この上なくありがたくない地獄の一丁目となっていた。

 

 

「む、貴公は?!」

 

「‥‥ふむ、来たか。

 此の異常を察知すれば直ぐに嗅ぎ付けてくるとは思ったのだが、予想以上に遅かったな」

 

 

 全身白尽くめの魔術師が、怒り狂うウェスウィオスを背後に悠然と立っていた。

 まるで原初の世界に神が与えたもうた光のように真っ白な全身には、不思議なことに火山灰による汚れを確かめることが出来ない。

 自分がこの世界の王であるかのような態度も変わらず、本来ならポンペイの地においての立場は上のはずの私を、余裕を以て見下ろしている。

 

 

「何をなさっているのですか、ヴィドヘルツル卿! 早く避難なさって下さい! もうすぐにでも火砕流が押し寄せてくるかもしれません!」

 

「ふむ、確かに」

 

「火砕流が来れば、このホテルも持ちこたえられないかもしれませんよ!

 我々魔術師と言えども、自然の猛威には逆らえない‥‥。さぁ急いで! 街の外まで逃げて車を拾い———おおぉっ?!」

 

 

 大きな爆音と地震と共に、ウェスウィオスの火口から立ち上っていた煙の柱が、崩壊した。

 あれは只の煙ではない。溶岩や、水蒸気や、火山灰、火山弾、礫岩の複合物だ。

 巨大な柱が崩れ、その崩れた柱が我々の街、ポンペイへと襲いかかってくる。遠目だからゆっくりに見えはするが、恐ろしい勢いで押し寄せてくることだろう。

 

 

「‥‥まさか、本当に火砕流が。これでは過去の惨劇の繰り返しではないか」

 

「ふむ、確かにその通りだろう。“そうなるように”したのだからな」

 

 

 単調で、何の感慨も感じない言葉。確かに私に向けて言っているはずなのに、当たり前の事実を淡々と確認するかのように無機質。

切迫した状況にまるで似つかわしくない悠長な台詞回しに、私の“一瞬でも早く逃げ出さなければ”と逸る心境は拍子抜けして空白を生じさせる。

言葉の内容など、殆ど頭に入ってなど来なかった。

何よりもヴィドヘルツル卿の一本調子な、昼と何ら変わらない態度こそが、目の前の地獄とのギャップを以て私に得体の知れなさを感じさせた。

 

「な、何を仰っているのですか、ヴィドヘルツル卿? 浅薄にして私には貴公が何をお伝えになられたいのか、さっぱり‥‥」

 

「ふむ、思考を止めるのは魔術師として致命的だと言わざるを得んな。このような滅多にない光景に出くわすことが出来たのだ。もっと建設的な話をした方が益になると思うのだが、ふむ」

 

「い、いえ、確かに貴公のような才能溢れる素晴らしい魔術師と意見交換が出来るというのは、未だ未熟な私には過分の光栄でありますが……。

ああしかし、今は悠長に議論を交わしている場合ではありませんぞ! さぁお早く避難を! もうすぐにでも、火砕流がやって来ます!」

 

 既にヴィドヘルツル卿の背後に聳えるウェスウィオスから、雪崩のように火砕流が迫って来ているのが肉眼で見てとれる。

 素人にはゆっくりした速度に見えるかもしれないだろうが、我々からしてみれば冗談ではない。

 急な斜面で位置エネルギーを運動エネルギーへと変えた圧倒的な質量は、あと十分もしない内に、人間が作り出す生半可な兵器では到底抗し得ない破壊力を以て、この街を蹂躙することだろう。

 

 人間など触れるだけで消し炭にしてしまう熱。水蒸気と毒ガス、そして数多の熱された泥や礫岩、途中の山肌で削り取ったありとあらゆる物体が。

 熱による焼死。泥による溺死。濁流に打ち据えられる殴打死。ガスによる窒息死、中毒死。ありとあらゆる死因によって我々は打ちのめされることだろう。

 

 

「ふむ、見てみたまえジョバンニ司祭。美しい‥‥。我々人類では抵抗することの適わない、圧倒的な自然の猛威。自然の怒りだ」

 

「‥‥ヴィドヘルツル卿?」

 

「太古の昔、このポンペイを襲ったと言われる大噴火。

 近い過去にも一度噴火で村が一つ焼き滅ぼされたこともあるが、これほどの噴火は歴史に残るあの大災厄ぐらいだろう。

 ふむ、君は誇るといいぞ、ジョバンニ司祭。仮初めとはいえ歴史の再現を、その目出見ているのだからな」

 

  

 硝子のように透明な無表情だった顔に、初めて喜色に近い感情が籠もる。

 派手なエフェクトや美しい背景で構成されたド迫力の映画を目にした子供のように、キラキラと目を輝かせている。

 それこそ子供が日々の生活の中ふと思い付いたささやかな疑問を解消するために実行した、同じくらいささやかな実験が成功した時なように、興奮している。

 

「ああ、素晴らしい。まさか私も、これ程までのものとは思いもしなかったよ‥‥」

 

「そ、そんな、馬鹿な‥‥。ヴィドヘルツル卿、まさか貴公は‥‥?!」

 

 状況証拠に、手が震えた。

 まさか、そんなことがありえるのだろうか。人間には出来る範囲と、出来ない範囲があるというのに。

 仮に、もし仮にこの規模の物理現象、自然現象、あるいは魔術現象を起こすとして、どれだけの労力と手間、そして時間が必要になることだろうか。

 否、もはやこれは手間や労苦という問題ではない。人間に再現できる現象の範囲を完全に逸脱してしまっている。

 為すのが魔術師であろうと、聖職者であろうと変わらない。この規模の天災を再現できる人間など、両手の指で数えた方が早いことだろう。

 

 

「如何にも。

 君にも説明してもらった通り、こういった土地には過去の怨念や妄執、負の感情が染みつくものだ。それは過去のものでありながら、決して摩耗することなく、むしろ土地の奥底で熟成されるものだよ。

 これらの醸された感情が膿んでいる記録(レコード)を引き出し、人間の精神へと転写して過去の事象を再現する‥‥。

 乃ち、これぞ我が大魔術、疑似固有結界『メモリー』。私の研究の結集と言っても過言ではないよ、ふむ」

 

 

 喉の奥の奥まで、一気に乾燥してしまった。

 本当なら有り得ない、そんな錯覚までしてしまう程の圧倒感。

 私を物差しにしては到底計ることが出来ないぐらいの器の違いを感じてしまい、反射的に足が竦みそうになる。

 が、しかし私も魔術師だ。

 震える足を叱咤して、乾ききった喉の奥から声を絞り出した。

 

 

「馬鹿な‥‥そんなことが、出来るはずがない!

 土地の記憶、そんな曖昧なものを対象に術式を構成できるものか! どうやってそれを割り出す?! どうやってそれを確かめる?! どうやってそれを形象化するというのだ?!」

 

 

 私は、精神関連を専門とする術者ではない。だからこそ、おそらくは精神に作用する術式を組んでいるのだろうヴィドヘルツル卿の大魔術についても詳しく分かるはずもない。

 しかし魔術師としての一般的な知識を基にするに、やはり彼の魔術は尋常ではないほどに異常なものだった。

 

 

「ふむ、精神へ映し出す、と私は言わなかったかね?」

 

「い、いや似たような事は言ったが‥‥」

 

「怨念、妄執、負の感情。それらは全て、残りさえしていれば人の営みであることに違いはない。

 ならば同じものを同じものへと転写するのは、さほど難しいことではないよ、ふむ。まぁ私以外の魔術師に可能かと言われれば、そこは無理なのではないかと答えさせてもらうが」

 

「‥‥なんと、そのようなことが、可能だというのか?!」

 

「可能だ。その結果こそが目の前の天災であるというわけだが‥‥これを前にして、まだ納得出来ないと言うのかね?」

 

 

 愕然と、する。

 こともなげに言い放ったそれが、どれだけ困難なことだろうか。どれだけ恐ろしいことだろうか。

 もはや恐ろしいというよりは畏ろしい。そこに感じるのは恐怖というよりは畏敬の念。魔術師としてどうしようもないほどに、この男が畏ろしい。

 

 

「‥‥いくら就寝していたとはいえ、それでも事前に霊脈への細工は必要なはず。

 使い魔での監視をかいくぐって、術式の発動自体を私に悟らせず、魔術師である私にすら、ここまで完璧な精神干渉とは‥‥!」

 

「ああ、だから安心したまえジョバンニ司祭。君の懸念していたことは起こらない。

 これは人間の精神に働きかける術式だ。故に目の前のこれらは、ある意味では私によって精神に干渉された君達が見た妄想とも白昼夢ともいえる。

 もうすぐに此の街を襲うだろう火砕流が、史実と同様に建物を打ち崩すことはない。このホテルとて、例外なく無事だろう」

 

「‥‥なんだと」

 

「もっとも白昼夢とはいえども影響は当然に出るぞ?

 一度薬缶に入ったお湯で火傷した赤ん坊が、薬缶から注がれた冷水で火傷することがあるように、人間の精神というものは往々にして肉体へと干渉することもある。

 ふむ、これほどの規模の火砕流を眼にした普通の人間の想像する末路とは即ち死。これもまた例外なく、“火砕流に呑み込まれた”と認識した人々は尽く死に絶えるはずだ」

 

「———ッ?!」

 

 

 阿呆のように開け放たれていた唇が引き締まり、ギシリと自分の口の中から歯軋りが聞こえた。

 見開かれた瞼から零れ落ちそうになっていた眼球も、同じく鋭く険しく、目の前に愉快げに立ってクスクス笑いを浮かべているヴィドヘルツル卿を睨み付ける。

 

 

「‥‥左様か」

 

「ふむ?」

 

「此の現象が貴公の起こしたことだというならば、もはや目の前に迫り来る火砕流を止めるためには、貴公を殺すしかないということだな。

 どうせ貴公は、この術式を止める気はないのだろう?」

 

「当然」

 

「ならば私のやることは‥‥此の地の管理者(セカンドオーナー)として、聖職者としての私がやることは、只一つ!」

 

 

 魔術回路を起動させる。

 聖職者であり、魔術師である私にとっての魔術とは、どちらかといえば手段に近い。

 否、もはや私にとって魔術師であることも、本来ならば手段の一つに過ぎないのである。

 魔術を手段にするのが魔術使いと蔑視されるならば、魔術師であることを手段にする私はどう呼ばれるべきだろうか。

 体中に魔力が満ち満ちていく感覚と共に、毎回思っていたことが自然と脳裏によぎる。

 

 ああ、だが今だからこそ言えるのだろう。

 私は此の地、ポンペイの管理者(セカンドオーナー)であるのだ。此の地を守ることこそ、我が使命。

 ならば本当のところ、他の肩書きなど果てしなく意味のないことだと言える。私の持つアイデンティティ、存在意義は此処に証明されているのだから。

 

  

「Sanctus,Sanctus,Sanctus《聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな》」

 

「む‥‥!」

 

「Dominus,Deus Sabaoth《万軍の神なる主》 Pleni sunt cli et terra gloria tua《主の栄光は、天地に満つ》

 Hosanna,in excelsis《天のいと高きところにホザンナ》」

 

「これは‥‥栄光の賛歌か。聖書と魔術を関連させ、イメージとする、か。ふむ、中々に興味深い」

 

 

 祈るように合わせた両掌の隙間から迸る魔力。

 たとえ凡百の魔術師と言われようと、管理地での管理者(セカンドオーナー)は舐めたものではない。

 一級の霊地に支えられ、その魔術は一段階上のものにシフトする。霊地の特性を知り尽くし、霊地のために身を砕いてきた我々ならば、最高の状態で魔術を行使できるのだ。

 

 

「Benedictus qui venit in nomine Domini《褒むべきかな、主の名に依りて来るもの》

 Hosanna,in excelsis《天のいと高きところにホザンナ》」

 

ここまでは、単なる起動キーのようなもの。

 いや、厳密に言えばそのようなものでもない、ただ自分を鼓舞するための句。

 聖職者でもある私は神への祈りがイメージとして確固たるものになっているのだ。故に魔術師である私が祈りを捧げていても、さして問題はない。

 

 そもそも魔術師の詠唱とは、呪文とは、所詮自己暗示に過ぎない。

 美辞麗句や韻を駆使する者が多いというのも、自己暗示に効果があるからに過ぎないのだ。自己に陶酔する、と言い換えても良いだろう。

 祈りによって自己に埋没する。結局のところ自身にのみ適応されるような祈りが、果たして祈りと呼べるのかという話もあるが‥‥。

 

 

「コンラート・E・ヴィドヘルツル。

 此のポンペイの地の管理者(セカンドオーナー)として、此の地に仇為す貴公を討伐する!」

 

「‥‥ふむ、よかろう。

 相手をしよう、ジョバンニ司祭。その力、私に見せてみるといい」

 

 

 顔の前で合わせていた手を大きく横に広げ、掌を上にして瞑目。

 霊地と同調し、私自身の力を割り増しさせていく。如何に私よりも年下とはいえ、相手は名高い大魔術氏だ。

 簡単に勝てるはずもない。いや、勝てるかどうかすら、分からぬ。

 

 

「負けるわけにはいかんよ、ヴィドヘルツル卿。私は、此の地の領主にして迷える子羊たちの導き手。

 たとえ此の身に代えることになったとしても、貴公を殺し、私の街を救わなくてはならない!」

 

 

 私が、先祖が、全ての住人達が愛したこの街を、このような男に壊させるわけにはいかないのだ。

 あぁそうだとも。

 この戦いに、敗れるわけにはいかん。たとえ最後に私の命が費えたとしても、それでも相討ちにはしてやろうではないか。

 

 そう、たとえ刺し違えたとしても。

 

 私は必ず、コイツを殺す。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 存在価値、という言葉がある。

 

 本当なら考える必要がないことかもしれないけれど、

 

 自分という人間はどうしてこの世に生を受けたのかと、

 

 そういうことを考えなかった人はいないんじゃないだろうか。

 

 

 それはとても愚かなことで、

 

 だけど俺達が人間という生き物に生まれてきてしまった以上、

 

 どうしても余計な思考は避けようがないことでもある。

 

 これが家畜や野生の動物とかなら、悩むこともないはずなのに、

 

 俺達は考えることを学んでしまった生き物だから、

 

 生きること以外にも色んなことを考えてしまう。

 

 

 どうだろうか、

 

 俺達は生まれて、ただ死ぬためだけに存在するのだろうか。

 

 その過程で何をするべきか、何かに期待されはしなかったのだろうか。

 

 何かをするために、何かを担うために、

 

 きっとオレ達は生まれてきたんだ。

 

 そう、思ってしまう時がある。

 

 

 神様が存在するというのなら、まだ話は分かるかもしれない。

 

 けど実際には、遙か昔に確かに存在していた神々は何処かへ行ってしまった。

 

 そして俺達も、神様によって生まれたわけじゃあない。

 

 神様なんてのは一つ上のレベルの生き物、あるいは存在というだけで、

 

 俺達の因果に最初から干渉しているとかいうわけじゃあないのだ。

 

 

 もし俺達が自分の存在意義がほしいとするなら、

 

 きっとそれは自分自身で、自分自身の中から見つけ出さなければいけない。

 

 

 でも本当に、そんなものは存在しているのだろうかと思うこともあるだろう。

 

 家畜も、野生の動物も、

 

 自然界あるいは社会の食物連鎖とか以外では、何か意味があるとは思えない。

 

 けれど確かに俺達人間のが生きていく中では、何か意味があるとしか思えない。

 

 俺達は無為に生きることも出来るのに、日々こうして悩んで生きている。

 

 それこそが意義の存在の証明ではないだろうか。

 

 

 ああ、だけど、俺達は英雄なんかじゃない。

 

 例えば歴史に出てくる英雄とかなら、まだ自分の存在意義というものが分かりやすいことだろう。

 

 後世に残るような偉業を成し遂げること、社会を大きく改変させること。

 

 しかし凡人では、俺達のような凡人では、

 

 自分自身の存在意義を確かめることなんて出来はしない。

 

 なにせどうやって生きていけばいいか、そんなことだって適当なんだ。

 

 

 もちろん存在意義なんてものを知らなくても、人は生きていくことが出来る。

 

 存在意義とかいう随分と曖昧で無価値なものは、所詮人生の付属物に過ぎないという考えが多いだろう。

 

 所詮、人間とて惰性で生きていくことだって出来る。

 

 精神疾患の一つなのかもしれない、こんな面倒な思考なんてものは。

 

 

 ‥‥俺だって、そう考えていられたなら、それはどれほどまでに良かったことか。

 

 

 あるいは俺がオレのままで、あの世界に留まっていたのなら、

 

 それは確かに考える必要のないことだったのかもしれない。

 

 だってそうだろう、

 

 オレ達はごく普通の日常というものを謳歌していて、それはきっと一生涯変わらない。

 

 そんな毎日の中で、

 

 自分のやりたいことについて、将来の夢について考えることがあったとしても、

 

 “存在”なんて曖昧な定義について語ることがあっただろうか?

 

 遅れてやって来た厨二病ならともかく、

 

 普通に生活している間ならば、流れている時間の感覚ぐらいが関の山で、

 

 経過していく時間の、自分の前に続いていく時間の先を、

 

 考えることぐらいが、事象の認識としては精一杯だったんだからさ。

 

 

 ああ、でもその認識は完全に覆されてしまった。

 

 覆された、というよりは、むしろ更新されたと言い換えるべきかもしれない。

 

 ある意味では、より高次元の考え方なのだろうか。

 

 それとも、もしかしたら髙いとか低いとか関係ない、別次元の話なのかもしれないけど、

 

 

 神様によって生まれた物や者ならば、きっと神様から、何か意味を与えられているんだろう。

 

 オレは神様によって生まれたわけじゃない。

 

 人間は神様によって生まれたわけじゃないのだ。

 

 世界中の宗教が何を言おうが、それは変わらない事実だということを覚えていてほしい。

 

 先にも言ったけど、

 

 世界中に色んな神様が太古の昔に実在したことは確かなんだから。

 

 それは俺も知っているサーヴァント達や、現存する宝具達が証明している。

 

 だとしたら世界中に散らばる人間達は、

 

 少なくとも全ての神様が集結して一緒に作ったんじゃない限り、

 

 別々の要素を持った存在じゃなきゃいけないしね。流石にそれは、ないだろうよ。

 

 

 じゃあオレではなくて、今の俺はどうなんだろうか。

 

 オレは確かに、向こうの世界で生まれた存在で、

 

 もちろんこれも当然のこととして、そこに神様による意思なんてあるはずがない。

 

 けれど俺は、オレがこっちの世界にやって来てから生まれた。

 

 俺なんて存在はそもそも、全くの皆無だったはずなんだ。

 

 

 今まで俺はオレを否定して、肯定して、混同してしまっていた。

 

 そこにはおそらく、主体となる俺がいて、追随するオレがいたんだと思う。

 

 ああ、けれど、よく考えてみれば、

 

 本当は仮初めの存在なのは、オレじゃなくて俺の方なんだろう。

 

 心を病んでしまった人が作り出した第二の人格のように、

 

 本来、存在していたものを主とするならば、

 

 主体であるはずなのは‥‥オレの方。

 

 俺なんてものは虚構の存在に過ぎないはずなんだよ。

 

 

 此の世界で生まれた俺は、

 

 オレに望まれて生まれた俺は、

 

 それじゃあオレか、

 

 あるいは、

 

 オレが此の世界に来ることになった、

 

 某かの理由と、それを引き起こした何者か、もしくは何物か、

 

 そういう存在から、

 

 何かの期待をされているんじゃないだろうか?

 

 

 一体オレは、否、俺は、

 

 何のために生まれたのだろうか。

 

 何のために、此の世界に生を受けたのだろうか。

 

 何のために、此の世界にやって来たのだろうか。

 

 

 前の世界には存在しなかった、

 

 あるいは気づけなかった、神秘という異質な存在。

 

 その中には運命やら、宿命やら、そういったある意味では眉唾な事象も含まれていて、

 

 結局のところ、どれだけ否定しても因果の存在は証明されてしまっている。

 

 存在意義も、また同じ。

 

 俺には、何かしらの因果が存在しているはずなんだ。

 

 例えば衛宮が、守護者になる定めを背負っているかもしれないのと同じように。

 

 

 じゃあそれは、一体どうやって分かるんだろう?

 

 歩き続けていれば、見えるのか?

 

 考え続けていれば、見えるのか?

 

 

 いや、きっと違う。

 

 俺が、いや、オレが俺の存在意義を、存在価値を知るためには、

 

 きっとオレが俺になった瞬間を理解する必要がある。

 

 見つめ直す、必要がある。

 

 オレが俺になった、その瞬間を、

 

 そしてオレが、此の世界に来ることになった、その瞬間を。

 

 

 

 ‥‥さて、俺は一体何でまた突然、こんなことを考えていたんだっけ?

 

 えぇと、確か橙子姉達に励まされてドイツへ旅立って、

 

 それで憎き怨敵であるコンラート・E・ヴィドヘルツルとの戦争を経て———

 

 

 

「———ッ?!」

 

 

 何故か普段のように、上手に回ってくれない頭でそこまで考えた時。

 カチャッという無機質な音と共に、視界が突然真っ白に染まる。

 

 ひたすら暗いトンネルの中を、何の光も無しに歩いていて、漸く見つけた出口から外に出た瞬間のように、俺の瞼を焼く光は暴力的。

 本来なら大して強い光量ではなかったろうに、何故か随分と長いこと暗闇の中にいたような感覚が俺の中にあって、極めて常識的なレベルのその光は、容赦なく俺の視覚中枢を刺激した。

 

 ‥‥身体が温かい。

 頬に触れる空気は季節に合わないぐらいに冷たいのに、胸元から下だけが温々と、安心できる温度に包まれている。

 さっきまで魘されていた、という意識があるのに、こんなに身体はリラックスしている。

 久しぶりに感じる安心感に、俺はどちらかというと当惑と衝撃すら受けた。

 

 

「‥‥こら■■、一体いつまで寝てるつもり?

 アンタ分かってると思うけど、今日は月曜日よ。学校でしょ、早く起きなさい」

 

「‥‥は?」

 

 

 ぱちくり、と見開いた目の前に飛び込んできた、ごくありふれたザラザラした白い天井。

 そして俺に母親がもしもいたならば、こんな年頃だろうなぁという声色の女の人の声。

 

 今度こそ完全に衝撃によって、俺の頭にあった色々な思考は完全に吹き飛んだ。

 

 何が何やら、完全にさっぱりという状態。

 

 そんな訳の分からない精神状況で、オレはその日、目を覚ましたのであった。

 

 

 

 77th act Fin.

 

 

 ¥

 




前半部分はヴィドへルツルが『天災』と呼ばれるようになった、ポンペイの悪夢の話ですね。
オリキャラ出てきてますけど、今回限りの登場です。
彼は以前にシエルから話があった、元第八秘蹟会所属の代行者ですね。
後半部分はいつもの独白。ここから、物語は加速していきます

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