UBW~倫敦魔術綺譚 (未改訂版)   作:冬霞@ハーメルン

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第七十七話 『救援隊の道行』

 

 

 

 side Rin Thosaka

 

 

 

 倫敦から飛行機で数時間。

 ドイツの巨大なハブ空港までやって来たら、今度は電車で数時間、いや、十数時間?

 とにかく私達の目指す場所はやたらと遠かった。

 

 ドイツの中でも片田舎。

 主要な都市からは何時間も、下手すれば一日ぐらいかかるような辺鄙な寒村。

 ドイツの国内地図からも下手すれば名前が消え去りかねない、出稼ぎや進学によって若手の殆どが流出してしまった小さな村。

 一番近い駅からも、車で数時間。そして車を降りて歩くこと更に数時間。

 私が生まれた時から住んでいる街。一生を過ごす覚悟をしていた私の領地、冬木だって立派な駅はあった。

 けれどこの村には、駅はおろかバス停だって有りはしない。というかバス路線から完全に外れてるし、そもそも道路が舗装されてないし。

 

 

「‥‥ていうか、もしかして霊地って大体こんなもん?」

 

「ジャパンが異常なのですわよ、ミス・トオサカ。

 特殊な霊地は一般人をも惹き付けますけれども、大概の霊地は僻地に存在しているんですのよ。エーデルフェルトは管理人(セカンドオーナー)ではありませんが、情報自体はそれなりに仕入れておりますので」

 

 

 いつも通りの真っ青なドレスを着たルヴィアゼリッタが、何が誇らしいのか憎たらしい胸を張りながら言う。

 一応片手に古式ゆかしい、昨今の流行であるジュラルミンケースのような無粋なものではない旅行鞄を提げ、青いリボンのついた真っ白い帽子をかぶっているのが嫌味なぐらいに似合っていた。

 清楚にも、高飛車にも、豪華にも、不遜にも見えるのは彼女の人柄というものだろう。こればかりは認めざるをえないところで、育ちっていうのはやっぱり多分に人格にも影響する。

 

 

「そういえば聖杯戦争が起こるぐらいだから、冬木だって一級の霊地なんだよな」

 

「先輩が住んでいる衛宮の家も遠坂の屋敷や龍洞寺ほどではありませんが、それなりに位階の高い霊脈の上に立っているんですよ?

 もちろん間桐の屋敷も、あとアインツベルンが郊外に建てている城も、霊脈にかすってますね。冬木の霊脈って結構密度があるんで、あそこの土地には潜在的に魔術回路を発現しやすい環境が整っているといえます」

 

「へぇ‥‥普通に住んでる分には気づかなかったけど、もしかして魔術師にとってみれば恵まれた環境だったのか?」

 

「はい。霊脈の上で修行をすれば、当然それだけ効果もあがりますし」

 

 

 私の横で荷物持ちをしている士郎の隣で楽しそうにお喋りをしているのは、予想もしなかった気の強さを見せ付けて強引についてきてしまった桜。

 冬木の地に根ざす三つの魔術の家系の中の一つ。間桐(マキリ)の家の当主である、間桐桜。

 時計塔に私が進学するのと入れ替わるようにして亡くなられた間桐の前当主である妖怪、間桐臓硯に代わって、今度は蒼崎君のお義姉さん、封印指定の人形師である蒼崎橙子さんに師事しているらしい。

 

 

「私達の事務所がある観布子は、霊地に擦ってる程度だから残念よね。まぁ私に限れば、霊地とか龍脈とかはあんまり関係ないんだけど」

 

「魔術師の工房としては十分な霊脈だと思うよ? まぁあの事務所にいる魔術師って、厳密には私と橙子先生の二人だけだから何とも言えないけど‥‥」

 

「確かに、私も真っ当な魔術師じゃないし、幹也は一般人で鮮花は超能力者。‥‥式って、どんなカテゴリに入れたらいいのかしら?」

 

「オレが知るか」

 

「別に返事なんて聞いてないわよっ!」

 

 

 ‥‥なんだこれは、まるでピクニックだ。

 ドイツの片田舎、幽霊嬢と呼ばれる霊地を目指す一行は、私を入れて総勢9名。

 そのうち、便宜上『伽藍の洞』勢と称するメンバーが楽しげに話をしながら歩いている。

 

 一人はさっきも話した、私の‥‥後輩である間桐桜。

 魔術師という顔でいるからか、昔から一緒にいた私達、冬木勢とは離れて学友達と喋っていた。

 その姿は私達と一緒にいる時とは、また違う自然な一面を覗かせている。いくら家族と言いはしても年上で目上の人物だった私達に比べ、同年代の友人達との付き合いはまた別なものなのだろう。

 

 

「大体アンタは昔っから私の場所に横入りしてきて! 幹也だってそうだし橙子さんのことだってそうじゃないのよ!

 幹也を最初に狙ってたのは私だし、橙子師のとこだって私が礼園でのんびりしてるあいだに、いつの間にかアンタが‥‥!」

 

「なんで鮮花にオレがとやかく言われなきゃいけないんだ? 意味がわからないな」

 

「そ・れ・は・わ・た・し・の・せ・り・ふ・よッ!」

 

 

 その友人達の筆頭が彼女。

 白いブラウスと品の良いベストを着込み、キッチリとタイをしめ、極めつけに膝下までのスカートと清楚でしっかりした格好で決めた魔術師、黒桐鮮花。

 件の桜の師匠である封印指定の人形師、蒼崎橙子の二番弟子にして、現在は直接教えを受ける身だという彼女は焔の魔術が得意らしい。

 

 彼女が操るのは、厳密には魔術とは異なる異能。

 発火という先天属性を備えながら、魔術回路は持たないが故に才能を超能力という、ある意味では歪な形で顕現させた才女だ。

 更に厳密に言えば超能力ともまた違う。どちらかといえば魔術寄りで、それでいながら決して魔術でもないらしい。

 魔術と同じような術式使ってるんだから、魔術でいいような気もするけど。

 

 

「‥‥二人とも、喧嘩しないでちょうだい。共倒れは望むところだけど、今はそんな朗らかにしている時でもないでしょう?」

 

「ちょっと藤乃、何サラリと毒吐いてんのよ貴女。段々と露骨になってきたわよ、気をつけなさい」

 

「鮮花は良い友達よ。でも先輩は一人だから、分け合うことは出来ないし」

 

「‥‥なぁ浅上、お前やっぱあの時殺しておけば良かったか?」

 

「あら奇遇ね、私もそう思っていますよ、式さん」

 

 

 ゾクゾクと背筋に悪寒が走った。

 なんか私の後ろで地味に修羅場が展開している。見たところ一人の男をとりあって、三人の女が争っているわけだから、これは相当な修羅場だろう。

 

 ていうか幹也さんて、黒桐さんの実のお兄さんでしょ? しかも両儀さ‥‥もとい式さんの婚約者なんじゃなかったかしら?

 

 ちなみにさっきからボソボソと小声で、それでいてよく聞こえるぐらいの大きさで毒を吐き続けているのが、浅上藤乃さん。

 この子も聞くところによると超能力者で、『歪曲の魔眼』を持っているらしい。

 蒼崎君みたいな例外的な魔術師ならともかく、他の魔術師が持っている魔眼っていうのは大概が後天的なもので、霊視以外だったら魅了や暗示が関の山。

 だから歪曲なんて破格の魔術を———いくら超能力とはいえ———内包している浅上さんは、相当なポテンシャルを秘めていたのだろう。

 

 

「やれやれ、こんな騒がしい道中になるとは思いませんでしたわ。いくら人数が多いからといって、気を抜きすぎではありませんの?」

 

「十分に予測出来たことだと思うわよ、この面子じゃ。そりゃ式さんとか浅上さんとは初対面だけど、お通夜に行くみたいな道行きになるはずはないってね。

 ごめんなさい、シエル。代行者の貴女からしてみれば、ストレスたまるわよね、こんな戦友達じゃ」

 

 

 一番後ろを、静かに微笑みながらついてくる青みがかった黒髪のシスターへと振り向いて、苦笑いしてみせる。

 黄土色の外套をカソックの上から羽織り、随分と時代外れな丸眼鏡の奥に柔和な瞳と表情が見えていた。

 歳は私より幾分か上だろう。まぁ三十はいってないだろうけど、精神年齢はかなり上ではなかろうか。

 

 美人でスタイルもよくて、しかもカソック姿。

 何処にでもいる、って表現するわけにはいかないけど、それでもこの人は紛れもなく一般人ではない。

 教会の中でも異端狩り、魔獣狩り、たまに悪魔祓いなどを行う狂信者。

 仮に、教義に忠実な信徒を敬虔な信者と、キリスト者と呼ぶのであれば、彼等は背信を以て信仰を証明する、教義に縛られない背信者(イスカリオテのユダ)

 殺人、造反、魔術、銃器、ありとあらゆる背信を彼等は許容し、許容される。

 存在しない第八の秘蹟を受けた、彼等は神の代理人。神罰の地上代行者。

 彼等の使命は、彼等の神に逆らう愚者を、その肉の最後の一片までも絶滅すること。

 

 

「いえいえ、いつもは一人の任務が多いですから、こういう道中も中々“おつ”なものですよ、凜さん。

 もちろん気を抜いているわけではないでしょう、彼女達も。皆それなりに、それぞれの修羅場をくぐってきた者特有の臭いがしますから」

 

 

 本来なら許されざる異端狩りに特化した彼等の中でも、彼女は別格。

 七名と一人の予備役のみで構成される、代行者の頂点たる埋葬機関の第七位。

 またの名を、弓。

 そのカソックに潜ませた代行者を象徴する投擲武器である黒鍵を、雨あられと投擲する代行者の看板的存在。

 常人を遥かに凌ぐ最高レベルの身体能力と体術。鉄甲作用や各種葬儀式典を施した黒鍵、そして噂に聞く謎の再生能力(リジェネーション)

 彼女は紛れもない、世界最大戦力の一人なのだ。

 

 

「‥‥しかしまぁ、それにしても大人数ですね」

 

「その通りね。実際どうしてこうなったのか、私でもよくわからないんだけど。

 あの時はなんか、その場のノリみたいな軽い調子でとんとん拍子に決まっちゃったけど、それにしたって私達は封印指定級の魔術師と戦いに行くっていうのに‥‥」

 

 

 延々と続く、坂道。もとい山道。

 鬱蒼と茂った木々の先は真っ暗で、ちょうど今日の天気が曇りだからか目的地は影も形も見えない。

 既に車を降りてから随分と歩いている。地図の通りに空間がしっかりと繋がっているのなら、そろそろ着いてもおかしくないんだけど。

 

 

「コンラート・E・ヴィドヘルツル、ですか。

 出発する前にも言いましたが、聖堂教会でも所有している資料はさほど多くはありません。彼が封印指定を受けるきっかけとなったポンペイの事件において、彼の訪問前と訪問直後に管理人(セカンドオーナー)であった第八秘蹟会の代行者が提出した報告書にあるのみです」

 

「ポンペイの管理人(セカンドオーナー)って、代行者だったの?!」

 

「はい。あそこは位置的にローマ、およびバチカンにも近いですからね。立場としてはコウモリのような人間が一番好ましいのですよ。

 十数年前のことですから、私も記憶には無いんですけどね。どちらかというと魔術協会よりも聖堂教会の方が先に目を付けていた魔術師と言えます」

 

 

 幽霊城と呼ばれる、ヴィドヘルツル家の領地。

 既に魔術協会では先の事件、私の管理地である冬木に侵入した挙げ句、魔術協会の派遣した調査部隊や執行部隊を壊滅させた件によって、この領地の保証を行っていない。

 とはいえそれはつい最近、昨日か一昨日のことだ。領地における影響力、支配力は全く衰えていないはずである。

 

 

「オーギュストの調べによると、その幽霊城という場所は、住民二十弱の村から少し離れた場所にあるようですわね。どうやらその村も、領地の一つということですわ」

 

「‥‥参りましたね。その手の霊地は、村の方まで領主である魔術師の手が回っていることが多い。厄介なことにならなければ、良いのですが」

 

「厄介なこと? 貴女らしくないわね、シエル。こんな時は、厄介なことが必ず起こるに決まってるじゃない」

 

 

 私の管理する冬木という霊地みたいに、不特定多数が住んでいる場所ならば管理人(セカンドオーナー)の立場も精々が元大地主といったところ。

 けどあまり人が住んでいない霊地ならば、そこは魔術師の工房の延長線上だ。

 特に今回のように城を領地とするような魔術師が相手なら、もはや要塞を攻めるぐらいの心持ちでないと攻略なんて夢のまた夢。

 蒼崎君が掠われて、それを助けに行くなんて時点で相当な厄介事なのに、それ以下を求めるというのは楽観的希望を通り越して、奇蹟を願うに等しい。

 

 なんていうか、

 きっと私ってば人生の合間に厄介事が起こるんじゃなくて、厄介事の合間に人生があるんだろう。

 

 

「黒桐さん達も、いい加減そろそろ気を引き締めて。

 もう少し歩けばヴィドヘルツルの領地よ。そこからは私達の行動の全てが監視されているし、何時何処から攻撃が来るかも分からないわ」

 

「‥‥強力な精神干渉、ってことですか?」

 

「いえ、それは早計ですわよミス・マトウ。

 あのクラスカードの術式にしても、基部は精神干渉でありながら、実際に行使する段階まで行くと別の要素を多分に備えてまいりますもの。

 次元干渉、空間干渉、異空間創造、英霊の座への干渉(アクセス)、霊脈からの魔力の強奪など、主立ったものを数え上げるだけでもこれだけの数の要素が犇めいていますわ」

 

「要するに、何でも出来るような奴だって思った方がいいってこと?」

 

「その通りよ、黒桐さん。貴女だって直に会ったわけだから分かるでしょう?

 蒼崎君が貴女のお師匠さんのことを『幾つかの手段を使ってありとあらゆる結果を出せる人』って表現してたけど、アイツに関しては別。

 そもそもからして『ありとあらゆる手段を確保できる奴』よ。正真正銘の、化け物ね」

 

 

 前に私達の屋敷で蒼崎君が言っていた。

 彼の義姉である封印指定の人形師、蒼崎橙子は、ありとあらゆる結果を用意できる魔術師なのだと。

 ありとあらゆる手段を使って、ありとあらゆる結果を作り出すわけではない。彼女は彼女に用意できる限られた手段を以て、ありとあらゆる結果を創り出す、らしい。

 魔術師として、理想型だ。私達は過程ではなく結果で成果を証明する生き物だから、蒼崎橙子という魔術師の在り方は完成したものなのだ。

 

 しかしヴィドヘルツルは、違う。

 奴はおよそありとあらゆる魔術に精通した、天才。

 ああ、もちろん全部確認したわけじゃないわよ? それでも実際に目にしたクラスカードという規格外の魔術具や、ポンペイで起こした惨劇。

 そういう得られる限りの情報を考えると、あの魔術師は底が見えない。魔法に直結するような大魔術をくつもの種類習得しているのは確実だし、それ以上も容易に想像できる。

 

 では一体それが何を意味するのかといえば、これもまた容易に結論づけることが出来るだろう。

 即ち、採ることの出来る手段の多さ、そして多様さ。

 こちらにこれだけ手数がいれば、たとえ相手がどれだけ強大だろうと、戦闘手段の多様さに関していうならば、普通は太刀打ちできるはずがない。

 どれか一つに対応しようと思うと、他の八人の手段に対応できなくなってしまう。

 ただでさえ九人いるそれぞれが誰も彼もが、魔術師だったり超能力者だったり退魔士だったり英霊だったり代行者だったりと際物(キワモノ)なのだから。

 

 けれど奴が相手だと、その優位は必ずしも成立するわけじゃない。あらゆる手段を持ってきて、対応してしまう可能性が非常に高いのだ。

 もちろん純粋な数の優位ならば、圧倒的だろう。普通に戦うだけならば、英霊や埋葬機関の代行者なんて世界最大戦力を有した私達の価値は揺るがない。

 

 

「‥‥注意するのは、あくまで今回は攻城戦だってことですわね。堅固な城壁をたった九人ぽっちで崩すと考えますと、むしろ少ないぐらいですわ」

 

「そんなもの、かしら?

 言っちゃなんだけどルヴィアさん、私達だって決して実戦経験が無いわけじゃない。むしろ、そんじょそこらの魔術師よりは多いつもりだわ。橙子師のところにいると、色々厄介ごとは舞い込んでくるし」

 

「それでも、ですわ。

 今回は確かに本物の城が相手ということもありますけれど、それを差っぴいても魔術師の工房は正しく要塞ですの。

 我々魔術師の工房に課される基本的なコンセプトは、『来る者拒んで去る者逃がさず』ですわ。一度相手を誘い込んだならば、そこは守るための要塞ではなく、殺すための処刑場。ありとあらゆる要素を駆使して、必ず殺す。それが魔術師の工房ですわ。

 私が今住んでいる別邸は不完全なものですが、フィンランドの本邸ならば、このメンバーに襲撃されても殺し尽くす自信がありますわよ」

 

 

 フィンランドが誇る名門、エーデルフェルト家の誇りがそうさせるのか、場違いなぐらいに鮮やかな笑顔をルヴィアゼリッタは浮かべてみせる。

 悔しいけど、確かにエーデルフェルト本家の屋敷ともなれば、私が暮らしていた遠坂邸では足元にも及ばないレベルの防備が施されているに違いない。

 

 そしてエーデルフェルトほどではないにしても、ヴィドヘルツルだってそれなり以上の歴史を持った家だ。

 実際、家の力というものについては衰えきっていて見る影もない。時計塔の序列は中の下といったところだろうし、あの家系が持つ意味というのについても、既に忘却の彼方だろう。

 しかし、何処の家にも突然変異というものはあって、それがたまたま今代の当主であるコンラート・E・ヴィドヘルツルで、そして奴がたまたま、蒼崎君に興味を持った。

 

 下手に歴史のある家系に生まれた、狂った天才。

 そんな奴が管理している領地に、何の仕掛けもされていないはずはない。用意周到手薬煉(てぐすね)引いて、というのは奴の性格的に考えられないけど、何某かのトラップはあって当然。

 

 

「‥‥皆、止まってください!」

 

「どうしたの、セイバー?」

 

 

 突然、最前列で先を警戒しながら進んでいたセイバーが制止をかけ、私達は足を止めると同時に反射的に戦闘体勢をとる。

 直感スキルを持つ彼女がもし悪い予感を感じたとするならば、それは間違いなく脅威となって私達に牙を剥く。やはり緊張していたのだろう、ポケットの中の宝石を握りこんだ掌は、微妙に汗ばんでいた。

 

 

「私が一歩、踏み込む先に境界線のようなものを感じます。おそらくは、ヴィドヘルツルの領境だと思うのですが‥‥凛、どうですか?」

 

「‥‥確かに、霊脈を繋いで街一つを定義した境界線ね。ここから先は、奴の懐の中よ」

 

 

 厳密に言えば、土地に境界線なんてものはない。

 土地という概念は、市町村とか都道府県とかの概念とは全く別だ。人間が地図の上に勝手に線引きしたものを、土地が認めるわけがないだろう。

 だから霊地の管理者(セカンドオーナー)は、霊脈を繋ぎ合わせて擬似的な境界線、結界に似たようなものを作り上げて領地を主張する。人間が勝手に作り出した地図ではなく、霊脈を使って境界線を作り上げるのだ。

 

 管理者(セカンドオーナー)は別に、境界線の内側だけに関与できるというわけではない。

 霊地から発生している霊脈は縦横無尽に広がって、管理者(セカンドオーナー)が作り上げた境界線の更に外側へと伸びて行く。そちらにも、ある程度は影響力があるのも当然だろう。

 だけど境界線の内側は、真にその土地の管理者(セカンドオーナー)の思うが侭だ。

 もちろん魔術師という生物の定義を超越した力を操ることは不可能だけど、それでも他の魔術師に比べて圧倒的なアドバンテージを持ち合わせているのも事実。

 十分に気を引き締める必要がある。私達が足を踏み入れようとしているこの先は、相手の牙の射程内、いや、もはや爪に引っ掛けられた状況とすら言える。

 

 

「いい? みんなよく聞いて頂戴」

 

 

 振り返り、全員の方を向く。

 先程までの軽いノリは一転して、全員が緊迫した空気を鎧のように身に纏っている。‥‥いや、一人だけ、式さんだけは泰然磁石とした様子を崩していないけれど。

 

 

「私達の第一目標は、蒼崎君の奪還よ。それ以外は基本的に用が無いわ。

 例えばヴィドへルツルを倒す必要もない。運良く蒼崎君を救出することが出来たら、あの変態なんて放置して、とっとと尻尾巻いて逃げ出すつもり。おっけー?」

 

 

 さっきも話していたけれど、封印指定の魔術師を相手にするなんて、本当ならまともな神経でやる行為じゃない。

 確かに戦闘向きの魔術師ではなさそうだったけど、それでも封印指定は伊達じゃないのだ。どんな手を使ってくるか分かったもんじゃない以上、油断は即、死に繋がる。

 蒼崎君が前に言っていたけれど、魔術師の基本は『自分が強くなるのではなく、自分より強いものを用意すればいい』というもので、直接戦闘に結びつかない魔術でも、工夫すれば手強い相手となるだろう。

 

 ベストなのは蒼崎君が囚われているだろう場所を探し出し、救出、脱出。

 そして、その間に一回もヴィドへルツルと接触しない。これが最高、完璧のシナリオだ。

 

 

「‥‥けどまぁ、そういうわけにもいかないでしょうね。だから可能な限り戦闘を避けながら深部まで進んで蒼崎君を探索、確保次第全力で撤退ってところね」

 

「そこまで上手くいけば良いんですけど‥‥」

 

「まぁ無理ですわね。そもそも此処に来た時点で、覚悟は決めているというものですから、むしろ望むところですわ!」

 

「‥‥まぁ私は兄弟子に力を貸すって義務感で来てるようなもんだし、別にそれ自体はどうでもいいんだけどね。

 もちろん流石に死にかけたら紫遙置いても撤退するけど。それぐらいは許してくれるでしょう? ルヴィアゼリッタさん?」

 

「私は最初から強要したつもりはありませんわよ、ミス・コクトー?」

 

 

 手早く各自、自分の得物をチェックする。

 私とルヴィアゼリッタは隠しポケットの中に収納してあった宝石を、シエルはカソックの下に仕込んでいるらしい黒鍵を。

 黒桐さんは彼女に似つかわしくない革の手袋を嵌めている。‥‥もしかしてアレ、火蜥蜴の皮じゃないかしら? 今じゃ入手も加工も難しい逸品なのに、よく持ってるわね。

 どうやら式の武器はナイフらしく、一回抜き放ったそれを腰の鞘に戻す。一方で桜と浅上さんは特に武器を持たないらしい。

 まぁ魔術師である桜は触媒を必要としない魔術も使えるだろうし、浅上さんも超能力者だし‥‥。

 

 

「冗談、そういう言い方はよしてよね。けしかけてるつもりなら失敗ですよ、ルヴィアゼリッタさん」

 

「もちろん私とて意地悪で言っているわけではありませんわよ? 貴女の意思が確認できて良かったですわ、ミス・コクトー。

 私としましても、蛮勇を振るうような方に背中を任せるわけには、いきませんから、お気を悪くなされたのでしたら、謝りますわ」

 

「別に、その必要はないわ、そんなどうでもいいことで腹を立てる程、子どもじゃないつもりだし」

 

 

 サラリと真っ直ぐに伸びた黒髪を書き上げて、鮮やかに黒桐さんは笑ってみせる。

 自信にあふれた表情に、思わずこっちの口の端まで吊り上る。前に倫敦に来たときにも思ったけど、やっぱり彼女には負けてられないものね。

 

 

「それじゃあ皆、行くわよ。私と士郎とで前に出るから、それに続いて。シエルは殿をお願いね」

 

「任されました、安心して前方を警戒してください」

 

「頼りにしてるわよ、埋葬機関の第七位」

 

 

 一歩、おそらくは領地の境界線であろう線を踏み越えた瞬間、私たち全員の背筋を這うように悪寒が走る。

 ああこれは、見られている。自分の領地に入り込んだ敵を爪先から髪の毛一本に至るまで、隅から隅まで観察している。

 

 

「‥‥レディの体を不躾にも眺め回すとは、マナーのなっていない殿方ですわね」

 

「そうね、しっかりと女の子に対する礼儀ってやつを教えこんでやらないと」

 

 

 体を何かが這いまわるような不快な感覚に耐えながら暫く歩くと、小さい家屋がいくつも散り散りに並んだ、開けた場所に出た。どうやらここが村のような場所らしい。

 城下町の多くが城の中へと収納されているのに対して、この村は特に防備に対して意識を払っていないらしい。せいぜいが、道が曲がりくねっているというぐらいか。

 それにしてもすでに大部分の建物が風化したり破損したりしていて使い物にならず、城下町としての機能は半分はおろか、四分の一にも満たないことだろう。

 住んでいる気配がするのは、せいぜいが二十人程度。本当に小さな村らしい。昔は、一角の城下町として栄えていたのだとしても。

 

 

「‥‥おかしいですね、いくら寒村だとしても人の気配が無さ過ぎる」

 

「結界よ、藤乃。自分の領地だからかしら、霊脈を利用して結界を張り巡らせているわ」

 

 

 村中に魔力の流れが生じている。大きな霊脈から葉脈のように魔力を枝別れさせ、そこから結界‥‥というよりは、霧のように何らかの効果を持つ術式を発動させているのだろう。

 どうやら家屋の中には、ふつうに住人が暮らしているらしい。けど、おそらくは普段からほとんど来訪者がいないだろう村に九人もの大所帯が訪れたにも関わらず、まったく出てくる様子がない。

 

 

「それにしても狡い手を使うな、そのヴィドヘルツルっていう奴も。キャスターも聖杯戦の時は色々やってたけど、それには及ばなくてもすごい念の入りようじゃないか?」

 

「でも霊地の人間とはいえ一般人を巻き込むよりもよっぽど良いわ。狂ってるとばかり思ってたけど、一応は神秘の秘匿に気を払うぐらいの常識が残ってるみたいね」

 

「ああ、確かに聖堂教会としてもそのあたりはしっかりと守ってほしいものですね。後で記憶操作をすればいいという問題でもありませんから、こればかりは」

 

 

 城へと続く道は、曲がりくねっていながらも分かりやすかった。そもそも都市設計の観念から、迷路のようにするわけにもいかなかったのだろう。

 侵入者を分断するという利点があっても、住民の生活が著しく不都合になるとすれば、微妙。そのぐらいは領主の考えておくことだ。

 

 

「‥‥それにしても」

 

「どうかしまして、ミス・アサガミ?」

 

「いえ、“領地”に入った段階からそれなりの反撃があると思ったんですけど、そんなことがなかったので拍子抜けしてしまいました‥‥」

 

 

 確かに、小さな村とはいえ、歩いている最中に襲撃の一つや二つ、罠の一つぐらいはあってもいいはずだ。

 けれど私たちは既にとっくの昔に領地の境目を踏み越え、もうそろそろ村の出口にも差し掛かろうとしている。

 目の前には村に入るまで程ではないけど、鬱蒼とした森。その億、視線をやや上の方へと伸ばした先に小さめながらも立派な城の塔の先が見て取れた。

 

 

 

「———いや、違う。構えろ」

 

「え?」

 

 

 不審に思って立ち止まった次の瞬間。

 今までずっと言葉少なだった式さんが、突然ジャケットを煽ると腰の後ろに差してあったナイフを抜き放つ。

 

 

「‥‥む、確かにそういうわけでもないみたいですよ。皆さん、周りを見てみて下さい」

 

 

 続いてシエルも両手に都合六本の黒鍵を構え、重く静かに注意を促す。

 その言葉に従って辺りを見回せば、いつの間にか、私たちの周りにはまるで霧のような魔力の揺らぎが生じていた。

 

 

「これは———ッ?!」

 

「ヴィドヘルツルの魔術ですわ! 正体は分かりませんが、気を付けてくださいませ!」

 

 

 外を向いた円陣を瞬時に作った私たちの目の前で靄のようだった魔力が急速に形を取り始めた。

 全長は女ばかりの私達よりも高め。人の輪郭から、徐々に細部が細かく刻みこまれていく。

 バケツのような兜、鎖帷子と簡素な手甲、手に持った剣や盾、槍。その姿は正にヴィドヘルツルの居城が全盛期にあった中世の兵士そのもの。

 

 

「‥‥なるほど、主の居城を守る兵士ということですか」

 

「どういう理屈で彷徨い出てきてるのか知らないけど、いいじゃない、こっちの方が手ごたえがあっていいわ。やっと討伐っぽくなってきたわね、遠坂さん」

 

 

 魔術回路が唸りを上げる。私の二つ隣ぐらいで、一番最初にナイフを抜き放った式さんが肉食獣のように体を撓らせた。

 ここからが、闘争の始まり。封印指定の魔術師を相手にした小さな戦争。

 

 

「さぁみんな、目標はあそこに見える貧相な砦よ。周りには構わず突っ切るから、ついてきて!」

 

「貴女に指図される謂れはありませんわよ、ミス・トオサカ! 貴女の方こそ、私に着いていらっしゃいませ!」

 

「よく言ったわね! それじゃあ絶対に、遅れたりするんじゃないわよ!

 ———Anfang《セット》!」

 

 

 森の向こうに見える尖塔目がけ、邪魔になる謎の兵隊達目がけて宝石を投げる。投げつけた宝石は、大きな爆発を起こして兵士達を巻き込んだ。。

 巻き込まれた兵士達は陽炎のように消えて無くなり、城へと向かう道が開ける。

 

 ‥‥ああ、今よくよく考えてみれば、どうしてこんなことまでして蒼崎君のことを助けようと思ったんだろうか。

 そりゃ彼が大切な友達なのは、事実だ。

 倫敦に来た私達を迎えてくれたのはまぁ、仕事の一環だとしても、ことあるごとに手助けをしてくれたのは間違いない事実。

 けれど魔術師ならば、本当ならここまで危険を冒すこともないんじゃないかって、そうも思ってしまう。

 

 蒼崎君と長い付き合いのルヴィアゼリッタに引っ張られて来たっていえば、確かにそうなのかもしれない。彼女の熱意にほだされて、友達だから、恩を受けたからっていう理由を後付けしたのも、まぁ事実の一部ではあると思う。

 結局のところ、そういうのって魔術師だからという理由で完全に切り捨てることが出来ない。等価交換という概念は、既に私達が蒼崎君から恩義を受け取っているっていう認識を持っている以上、履行を確約されたようなものだ。

 

 でも、そういう理屈を抜きにしても、きっと誰もが感情による衝動でこの場に来たことだろう。

 それは彼が魅力的な人物だから、っていうのともちょっと違う気がする。確かに良い友人ではあるけれど、人間的な魅力という定義づけからは外れる人柄だ。

 

 私が思うに、きっとこれは私が士郎に惹かれたのと同じ。

 ほら、私がその、士郎とこうして付き合うようになったのは、それは士郎の人柄とか色んなものが影響してるわけよ。

 でも多分、そのきっかけみたいなものは、士郎の持っているナニカなんだと思う。

 それは士郎がどれだけ優しいかとか、頼もしいかとか、そういう問題じゃないはずだ。

 蒼崎君との関係も、それに似ている。ただし、おそらく最初に魅入られたのは彼の方からじゃないだろうか。

 

 

(‥‥癪に障る話だけど)

 

 

 運命、なんて大袈裟な言葉でも、強制力のあるものでもないけれど、物事には“流れ”というものがある。

 地面に少しでも傾斜があれば、髙いところから低いところへと緩やかにでも水が流れるように。

 必ず、っていうわけではないけれど、ただ“こうなるべき”という流れに物事は沿いやすい。

 おそらく蒼崎君に関わることも、その“流れ”の調和の一つに当てはまっているのだろう。私達がそれに従わされているというわけでもなく、ただ、自然な流れとして。

 

 ‥‥いえ、本当に流れの中心にいるのは蒼崎君なのか、そういう疑問もあるけれど。

 とにかく今は、蒼崎君を助けると決めたから。

 前に進みましょうか、必死で。

 私達の大事な友人を掠ってくれたトンデモ魔術師(へんたい)から、救い出してやらなきゃいけないんだから。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

「‥‥‥‥え?」

 

 

 寝起きにしては、妙に清涼な意識の中で俺は目を開いた。

 身体はいつの間にか、各所を締め付けないゆったりとした寝間着に変わっていて、当然のように靴も履いていなければ、昨今稀にみるぐらいリラックスしている。

 何の心配も恐怖もなく、ひたすらに安心して眠れたらしい。いや、ともすれば眠っている間に何か起こるなんて想定そのものがなかったのだろうか。

 

 

「天井、か?」

 

 

 目の前には清潔な真っ白い天井。

 目が覚めたという状況に、そぐわないぐらい清潔だ。基本的に俺は汚い、というよりは年季の入った天井の下でしか生活したことがないから、何処はかとなく違和感がある。

 

 

「———って、ここオレの部屋じゃないか。なに変なこと考えてたんだよ‥‥。

 くそ、寝起きだからかな、どうかしてる」

 

 

 むやみやたらと明瞭な頭を振って、突然どこからか沸いて出てきた奇妙な感覚を振り払う。

 一瞬、一度も来たことがないような場所にいたかのような違和感を覚えてしまったけれど、落ち着いて周りを見渡してみれば、よくよく見慣れたオレの部屋だ。

 

 見上げた天井はやたらと低い。ロフトベッドだから当然なんだけど、これも何故か微妙な違和感が残っている。

 角部屋だから二方向から陽の光が差し込むけれど、これもまた不思議なことに違和感。もっと朝は暗いべきだ、なんて頭の片隅で思ってしまう。

 

 ただ、こういう違和感も本当に微妙な、それこそ一瞬『ん?』と思ってしまう程度のもので、次の瞬間には何事も無かったかのように元に戻っている。

 靴の紐を結ぶ順番を、普段と間違えたぐらいのこと。それでもこんな頻繁に、短時間に連続してこんな違和感なんて早々ないことだ。

 別に特別なことなんてしてないはずなのに、どうも今日はおかしな感じだな。

 

 

「‥‥なんか額がスースーする。寝癖でもついたかな?」

 

 

 ロフトからゆっくり、特に今日は調子がおかしいから慎重に降りる。

 六畳ほどの丁度良いオレの私室は、まぁ男子高校生らしく程よい生活感に包まれていて、その辺りは特に感慨深いものじゃないだろう。

 

 特筆すべき点もない、ごく普通の部屋。最初からあった部屋に、必要な家具やら趣味の品———少量の少年漫画やらCDの類、あとは勉強道具ばかりだ———が棚に押し込まれているだけ。

 

 唯一、高校生男子が持つには微妙に過分な大きさのCDコンポぐらいがオレの趣味をはっきりと主張している。たぶん相当にオヤジくさいと思われるけど、オレの趣味はクラシックやオペラ、ミュージカルの鑑賞だった。

 

 

「‥‥こんなにCD、少なかったかな」

 

 

 いくらそれが趣味とはいっても、バイトも程々にしかやっていないオレが大量のCDを持ち合わせることが出来るわけがない。

 小遣いだって必要経費ほどしか貰っていないから、ごくごく常識的な数のお気に入り以外は図書館などから頻繁に借りる、という形をとっていた。

 

 

「なんか物足りないな、この並び方。もっとこう、横に倍くらいの列あったような気がするんだけど‥‥そんなこと、あるはずないよなぁ」

 

 

 一つ一つCDを確かめていっても、やっぱり微妙に聞きなれたタイトルが存在しない。

 それらはちょっと前に借りたけど、一度図書館に返してしまったはずだ。流石にオレだって図書館のものを自分のものだと混同することなんてないだろう。

 

 というか、そもそも目の前に鎮座まします最新式のCDコンポ。

 お小遣いはおろか、お年玉まで投入して買った念願の最新モデル。もはや音響設備だけなら、これ以上のものを望むならば、そもそも場所をとるために選択肢に上がらなかったホームシアターぐらいしか望めないだろうという“高校生基準で”最高級のお気に入り。

 ハイテクの結集のそれにも、また同じように違和感がある。

 

 

「‥‥うーん、どうかしてるんじゃあるまいか、今日のオレは。脳みそと体の接続がうまくいっていない、ような」

 

 

 その気になればネットやら何やらに接続して好きなだけ———違法だけど———聴くこともできる。購入する前からカタログをためすがめつ眺めては、自分がそれを手に入れたところを創造してニヤつくほどのお気に入りだったというのに、今では微妙な不快感すら覚えているような気がしてならない。

 いや、確かに頭を数回振ってしまえば消えるぐらいのわずかな違和感ではあるんだけど、それでもやっぱり気になってしまう。まるで、自分が自分でないかのような違和感だ。

 

 

「‥‥‥‥」

 

 

 とりあえず肩やら首やらを回し、吐息をついた。

 頭はこれ以上ないぐらいにすっきりしているのに、何故か思考だけが上手く回転してくれない不思議な状態だ。いうなれば、まったく現状を把握できていない。

 これもまた、ある種で寝惚けているというべきなのだろうか。今まで一度も経験したことのない特殊な状況ではあるけれど、これなら一度、本腰入れて活動する前にシャワーでも浴びて頭を本当の意味でスッキリさせるべきなのかもしれないな。

 

 

「———ちょっとアンタ、さっきから一人で何やってるの?」

 

「え?」

 

「え、じゃないわよまったく。昨日は夜遅くまで居間でゲームやってたんでしょ? それのせいで寝とぼけてるんじゃないの?」

 

 

 くるりと視線を後ろの方へ移動させると、そこには一人の女性が呆れたように立ち尽くしていた。

 歳の頃は四十ぐらいだろうか。少なくとも五十には達していないだろうし、三十というには微妙に若すぎる。どこにでもいる、ありふれた主婦という風体。

 

 

「母、さん‥‥?」

 

「あらあら、ほんとに寝とぼけてるみたいね? 鍵がかかってなかったから勝手に入らせてもらったけど、もうそろそろよい時間よ? これからすぐにご飯食べて、支度して、急いで出なきゃ一限間に合わないんじゃないかしら」

 

 

 また振り返って壁に架けてある時計の方を見ると、大きめのデジタル時計———アナログ時計はカチコチという秒針の音が耳触りで嫌いだ———は既に普段の起床時刻の三十分も後を指していた。

 ハッと、圧倒的な事実を前に一気に意識が覚醒する。オレの家から高校までは総計三十分ちょっと。結構近いけど、流石に授業が始まる十分くらい前には到着しておきたいところだ。

 ましてやシャワーを浴びたり朝食を摂ったりすることを考えると、急いだほうがいい。

 

 

「いっけね、こりゃゆっくりしてらんないや! 起こしてくれてありがとう!」

 

「分かったから、とっととシャワー浴びてきなさいな。朝ごはんは準備しておいてあげるから」

 

 

 椅子の背にかけてあった制服一式を掠めるようにして取ると、急ぎ足で風呂場へと向かう。

 即座に飛び込んで、出始めの冷たい水を顔に浴びせた。春も近いとはいえ冬場の冷水の温度はもはや暴力的なまでに凍えるけど、体と脳みそを冷やせば確実に意識は覚醒するものだ。

 

 

「‥‥今日、何の授業があったっけ」

 

 

 さっきは脳みそと体の接続がどうこうって思ってたけど、よくよく頭を捏ねくり回してみれば、どちらかというと昨日との接続が上手くいっていないような感覚だった。

 今日何をすればいいのかっていうのは、たいてい昨日の内に大まかなプランが出来ているべきもので、だからこそ今日になって全くのノープランな状態というのは珍しい。

 

 

「あー、ダメだ、やっぱり時間割見なきゃ思い出せん」

 

 

 体を拭き、風呂場から直接つながったリビングダイニングへと向かう。

 食卓には普段通りの朝食が広がっているけれど、ちょっと今日は時間がないのでゆっくりと味わっている暇はないだろう。ちょっと早食いっていうのは体によくないから嫌いなんだけど、仕方がない。納豆ごはんを勢いよくかっ込み始めた。

 

 ちなみにウチの納豆は卵とネギだけの簡素なもの。カラシは抜くけど、納豆パックについているタレはしっかりとかける。

 昔は大根おろしを入れてみたり、キムチを混ぜてみたり、山芋と一緒にしてみたり、麺つゆを使ってみたりしたんだけど、やっぱりシンプルイズベスト。

 個人的には納豆ごはんに、味噌汁と漬物があれば他にはなにもいらない。これはもう日本人としてDNAに組み込まれているのではないかと思うぐらい、オレの食生活にぴったりと合っている。

 ベーシックなキュウリや白菜の浅漬けも大好物だけど、今日の食卓に上っているのはあまりスーパーなどでは一般的ではない白瓜の漬物。

 加熱した瓜とかはあんまり好きじゃないから最初はどうかと思ったんだけど、これが食べてみるとびっくりするぐらい美味しい。キュウリや白菜がシャキシャキしているのに対して、城瓜はコリコリと独特の分厚い噛み応えがある。

 以来、白瓜の旬を待ち望むようになってしまうぐらい大好きになってしまった。

 

 

「アンタ本当にそれ好きよねえ。たくさん作っても父さんと二人で一日もしない内に食べ尽くしちゃうんだから」

 

「いや、だってこれおいしいし。ついつい箸が進んじゃうんだよねぇ‥‥」

 

「はいはい。また作ってあげるから、急いで食べ終わっちゃいなさい。ホントにいい加減にしないと今度こそ遅刻するわよ!」

 

「あぁ、確かに」

 

 

 母さんの忠告に従って、半ば飲み込むようにして朝食を終えると洗面所で歯を磨く。

 やっぱり納豆は好きだけど、これを食べるとしっかり口臭対策をしなくちゃならない。いくら女子にモテたいとか積極的に思ってるわけじゃないとしても、それでも身綺麗にしておかなければ好かれる以前に嫌われてしまうことは請け合いだ。

 

 

「忘れ物はない? 今日は何時に帰るのかしら?」

 

「そんなに遅くはならないと思うよ。夕飯までに帰れなかったら、またメールするから」

 

「そう。それじゃあ気を付けて行ってらっしゃい、嗣朗(しろう)

 

「おっけー、行ってきます」

 

 

 オレの残した食器を洗いながら、キッチンから顔を出して声をかけてくれる母さんに挨拶、玄関を出る。

 貿易商をしているらしい父さんのおかげか、一般的なレベルではあるとはいえ一戸建ての家は、三人暮らし———比較的頻繁に母子家庭———にはちょっと広いかもしれない。

 

 生まれたときから十五年以上も住み続けている我が家。

 朝から続いた違和感は、朝食の前ぐらいにはほとんど払拭されていたはずなのに、何故だろうか。

 

 振り返って眺めたオレの家には、

 『村崎』の表札がついたオレの家には、

 

 どうしてだか、自分の住処であるという安心した感情を抱くことが出来なかった。

 

 

 

 

 78th act Fin.

 

 

 


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