side Saber
黒い、黒い、黒い太陽が空に浮かんでいる。
太陽とは光り輝き、私たちを照らしてくれる存在のはずだ。
作物に、草木に光を与え、成長を促す。我々に実りを、生命を提供してくれる。
朝、太陽が昇る時。私たちは安息の夜から解放され、活動の昼へと呼び起こされることになるのだ。朝の光を浴びて体に活力が漲り、眩しい日差しに脳髄は痺れ、覚醒。心身共に一日の活動を始める準備を得られるだろう。
朝日抜きに、一日は始まらない。
例え曇天の空であっても、太陽は必ずそこにある。生まれてから太陽の光を浴び続けた私たちは、ほぼ条件反射のようにそれを受け入れ、身体は動く準備を整え、精神は乱れることがない。
その太陽が、黒い。
確かに光り輝いている。外の光が一切差し込まない洞窟の中だというのに、仄かながらもしっかりと私たちは周りを見ることが出来ている。これは光源が無ければ不可能なことだ。
だが、これほどまでにおぞましい太陽を、ついぞ私は見たことがない。
いや、これほどまでにおぞましい太陽を、一生の内に一度でも見ることがあるなど、誰が想像するだろうか。
黒い太陽。さん然と輝く黒い太陽。
そんなものはこの世に在ってはいけないはずなのに。
‥‥黒い、というだけでも、ただそれだけでも
背骨がガタガタ不安定に揺れているかのように怖気を感じるというのに、その黒い太陽はとてつもない瘴気を漂わせていた。
どのような大広間よりも広い大空洞。その奥底に存在する黒い太陽の真下には、まるで玉座であるかのように同じく黒い、ところどころ赤く脈動する塔のような構造物が聳え立っている。
そしてその根元からは、醜悪極まりない瘴気を放つ泥が、泉のように湧き出ているのだ。
大空洞の中は地形が複雑に入り組んでいるが、私たちが立っている部分はそれなりに広い面積が舞台のように平ら。そしてその周りは一段下がり、そこを川のように泥が流れていた。
当然、このように醜悪な代物から流れでる泥が真っ当であるわけがない。
高純度の魔力の塊。しかも属性を本来持つべき無色のそれから大きく歪められ、負の想念、あるいは悪という概念によって染められたもの。
「‥‥なんという光景。こんなところで地獄の釜の蓋が開くとは」
これが仮に、人の世に流れ出したとしたら、何が起こることだろうか。
離れていても感じる程に濃密な負の想念。魔術師や英霊である私たちは特に感覚として驚異を感じるが故に忌避しようと考えるが、基本的に霊体や魔力などを感知する能力に欠ける一般人———この場合、魔術回路や異能を持たない人間を指す———にすら、明確に存在の意味すら確信出来る程のもの。
当然、こんなものに触れれば誰であってもタダでは済まない。精神は犯され、肉体は蝕まれ、二度と今までと同じ人物には戻れない。
「凜‥‥シエル‥‥」
視線を彼方に巡らせれば、そこに構えているのは我が現マスターである遠坂凜と、ひょんなことから親交を結ぶことになった聖堂教会の人間、埋葬機関の第七位たる“弓の”シエル。
現代の魔術師では、同年代に並ぶ者がいない才女である凜と、世界最強の一角に名を連ねるに十分な実力を持つシエル。その二人が焦りを露わに対峙する相手は、何と形容すれば良いのだろうか。
髪は背中の中程までも伸び、凍り付く雪のように白い。そして驚く程に生気が籠もっておらず、美しいと同時に不気味。
衣装は影が足下から這い上がって来たかのような、漆黒。ぼろ布のようでありながら不思議な光沢と艶を持った衣には、血のようなラインが走っている。
剥き出しになった素足、顔、全てが透き通るように青白く、美しく、生気に欠けていた。頬には同じく血管のように赤い線が走り、唇は酷薄に歪められている。
彼女の背後には、影の巨人。
非現実的に聞こえるかもしれないが、そう形容するより他にない存在が不気味にもそびえ立っていた。
のっぺりとした、漆黒の体。体積というものがなく、二次元的な体躯をしている。顔にあたる部分にはいくつかの光点があり、あれが目の代わりをしているのだろうか。あるいは弱点なのだろうか。
とにかく巨大。まるで冬木に居た時に一度だけ目にした特撮映画に出てきた怪獣か。あるいは高所作業用のクレーンか。
このぐらいの大きさになると人間が相手にしていい大きさではないだろう。私の
純粋な魔力によって編まれた巨人は、もはや存在そのものが驚異といえる。
「———ッ!」
「むぅ?!」
いくつもの巨大な影と対峙する凜、そしてシエルが心配で仕方がないが、その私の思考を黒い影が遮った。
その膂力、その速度、その技術。どれも私に遜色劣らぬ、否、ともすれば凌駕されてしまうのではなかろうか。
ともすれば背筋に疾る怖気を抑えられない。今まで私が出会った敵の中でも、最上級に手強い相手。
「———フッ!!」
ギィン、と聖剣が軋みを上げながら鍔競り合いから脱出する。
渾身の力を込めた振り払いは、相手を間合いの外へと弾き出し、それでも体勢を崩し、隙を作るまでには至らない。
黒く染められた鎧は禍々しく、
額の上から鼻辺りまでにかけて覆う仮面には恐ろしげな紋様が走り、表情を隠してしまっている。だが、不思議なことかもしれないが、私はそれがどんな顔をしているのか、よくよく知ってしまっていた。
「‥‥以前に戦った時よりも、さらに手強い。内包する魔力が桁違いだな」
ジリ、と間合いを少しづつ詰めていく。一気に飛び込んでしまえば間違いなく隙を晒し、斬り払われてしまうだろうことは間違いない。
相手は私と同じだけの技量と、ともすれば優に私を超える魔力量を持っているのだ。身体的なパラメータにおいては一歩譲り、自我がないことによる
剣戟の曇りにおいてのみ私に勝機が存在する。
‥‥あの時と、同じだ。並行世界へと紛れ込んだシロウや凛に置いていかれ、別の並行世界の凛やルヴィアゼリッタと共に戦った、クラスカード事件のあの時と。
「やれやれ、確かに私が相手というのならばコイツを持ってくるのは有効かもしれないが‥‥。こう何度も自分に似せた人形を見せられては、不快感を隠せない———ッ!」
少しずつ詰めた間合いがギリギリの位置へと達し、足に集中させた魔力を爆発させて一瞬の内に敵の間合いの中へと踏み込む。
振るう刃は鋭く、重く、必中必殺の覚悟を以てヤツの喉元を目指す。
コンクリートや鉄板であろうともバターのように斬り裂き、砕くだろう一撃。だが、それが届かぬこともまた、私は知っていた。
「———ッ!!」
鋭い呼吸音と共に振られる漆黒の剣。円を描くような軌跡が、私の剣を巻き落とす。
黒く染まった剣は、悪という属性に染まりながらも聖なる剣であり続けている。それは星が生み出した幻想。ありとあらゆる戦場において今わの際にいた兵士たちが最期の瞬間に夢見た勝利という概念の具現。
私の持つ、黄金色に輝く覇気を纏った聖剣と根源的に同じ存在。即ちブリテンを守護する赤き竜の化身たる、ウーサーの息子、アーサー・ペンドラゴンの持つべき聖剣。
『
「雄雄雄雄雄雄雄ォ———ッ!!!」
間髪入れず、追撃。
巻き落とされた剣を手首の回転を使って剣戟を修正し、踏み込みと共に脳天目掛けて振り下ろす。
追撃、追撃、追撃。
手首と体全体、足裁きを用いた円運動。一撃一撃に必殺の意志と重さを込めて、繰り出す剣戟はもはや紫電そのもの。
だがその全て、まるで鏡に映したかのように見事な剣舞によって弾き返される。同じ速度、同じ重さ、同じ技を以て。
「覇ァアッ!!」
一際鋭い逆袈裟の一撃。相手の袈裟掛けの斬撃と交差、衝突、再び鍔迫り合いとなる。
恐るべき膂力、私も魔力放出を最大にして抵抗しなければ即座に圧し負けてしまうことだろう。違いの魔力が火花を散らし、削れるはずのない刃金が悲鳴を上げた。
「‥‥なんと醜悪な。わざわざこの場においてまで私の存在を反転させた
クラスカードによって生じた英霊は、生じた鏡面界という異空間に取り込んだ魔術師の記憶を媒介に召喚される擬似的なサーヴァントだ。
但し、聖杯を介した召喚ではないこの儀式で、正当なサーヴァントが召喚されることはない。能力こそ内包する魔力が多いがために元の英霊と遜色ないが、理性はなく、まるで
技術はあっても、それを振るう心がない。まるで英霊の現象。黒く歪んだ姿、邪悪に染められた属性、それがどれほどまでの侮辱であることだろうか。
確かに、この凶悪な魔力を粮ににしているというのなら私よりも全体的にスペックが上になるのは当然のこと。
技量自体も、私と同じ。私よりも力が強く、私よりも素早く、私よりも剣は重い。だが———
「———魂の籠もっていない剣に、私が負けると思うのか。笑止!」
鍔迫り合いをする聖剣に、力を込める。
クラスカードの魔術の応用。おそらくは、あのサクラも凜の記憶から再現され、歪まされ、召喚された存在に違いない。英霊の座から呼び出すのではなく、どこから持ってきたのかは知らないが、あのおぞましい魔力を使って編み上げているのだろう。
パーティを分断し、それぞれに適した精神攻撃。なんとも恐ろしい策略。
だが、いくら不愉快とはいえ姿形を似せたところで、私が動揺すると思うとは‥‥浅はかな。確かに身体能力では劣っていようとも、心が伴っていない剣になぞ負ける道理があるものか。
「‥‥魂、か」
「———ッ?!」
すぐそばで声が聞こえた。
怒りを込めた私の叫びを鼻で笑うような、私と寸分違わぬ声。
剣戟が掠ったのか、ピシリと仮面に罅が入り、素顔が露わになる。くすんだ金色の髪に、淀んだ金色の瞳。肌は白く、生気が通っていない。
だが、その瞳には、くすんだ金色の瞳には光が宿っていた。意志の光が、意思そのものがしっかりと宿っていた。
「貴様は何を以てして、魂が籠もっていると判断するのだ?」
英霊の現象には、クラスカードによって召喚された黒化した英霊には決して宿らぬ意思の光。そして言語を解す能力。
私はあまりの驚愕に剣を握る力が弱まり、一気に払われ、何とか後退して体勢を立て直す。
「———バ‥‥バカな、何故サーヴァントに、黒化したサーヴァントに自我があるのだ」
「‥‥どうしたのだ、何をそんなに動揺している?」
「クラスカードによって召喚されたサーヴァントは、その歪な召喚方法によって例外なく黒化‥‥自我を失い、属性を歪められた状態で現界する。
今まで私が相手したサーヴァントは皆、そうだ、『お前も』同じ様にそうだった! だというのに、どうして‥‥ッ?!」
「‥‥フン、たいした勘違いだな。なるほど、だとするならば貴様がそこまで動揺するのも理解できるしかし、まぁ何とも無様なことだ、とても私とは思えない」
浮かべる表情は、嘲笑。唇を歪ませ、目を細め、歯をむき出しにする。
顔の造りは私と全く同じなのに、浮かべる表情はまるで違う。自分で自分の顔を四六時中眺めていたことなどないが、少なくとも私はこんな表情をした覚えなどない。このような、悪意に塗れた表情など私が浮かべるはずがないのだから。
「愚かなワタシ、散るがいいッ!!」
「くっ?!」
ギィン、と大きな音を立てて再び剣を払い、距離をとる。
金属製の脚甲が耳障りな音を立てて大地を削り、二つの、二条の跡を残した。恐ろしいぐらいに強い力が鬩ぎ合ったせいで、腕の筋肉が断裂したかのように痛んだ。痺れが走り、剣を持っているのが精一杯だった。
相手の保有する魔力、供給される魔力は私を優に上回る。特に魔力放出というスキルで膂力の低さを補っている私にとって、バックグラウンドである魔力の量は大きな問題だ。
「ク、クク、クククククク‥‥」
「何を嗤うかっ?!」
「いや、何を嗤うかと言われてもな、貴様の滑稽っぷりが可笑しくて仕方がないわけだが‥‥クク、ククク‥‥」
「‥‥滑稽だと、それはいったいどういうことだ!」
「滑稽も滑稽、喜劇の中で自分だけが何一つ知らず、空回りして見せる役者ほど面白いものはないさ! 貴様、まさかと思うが今も“私がクラスカードによって生み出された英霊の現象”だとでも思っているのか?」
「何?!」
黒い仮面が割れたソイツは、ひたすら顔面をゆがめて嗤う。私がどんな鏡を使っても、終ぞ見たことがないぐらいに凶悪で、醜悪な表情。
どこまでも醜い。それは実際に世間一般的な価値観に照らして醜悪というわけではないのかもしれない。おそらくは、私自身の嫌悪感に依る主観的な感情。
だからこそ私は目の前で、私の顔をして嗤うソイツを許せなかった。自分自身に少なからぬ矜持を抱く英霊たる身、どうして醜悪な己を許せようか。
「先程、間桐桜が言ったではないか? ここは蒼崎紫遙の記憶に依って作られた世界。私も間桐桜も、蒼崎紫遙の記憶に依って作られた存在。クラスカードは関係ない」
「ショーの記憶? ‥‥これが、ショーの記憶だと?」
「そうだ。無数ある並行世界の何処かでありえた事実。そのうちから貴様らを滅ぼすに足る舞台と役者を呼び寄せた。この城の主、コンラート・E・ヴィドヘルツルがな。———フッ!」
「くぅ?!」
踏み込み、斬戟。二つの動作が一度に行われ、唐竹割りにされそうになる頭蓋の真上に聖剣をかざして何とか受け止める。
そのまま流れるように体を回転させて続けての斬戟に移ろうとする
「貴様が、私の有り得た未来だと言うのか?!」
「その通り」
「戯れ言を抜かすな! 如何に私が英霊の座へと招かれていない非正規たる英霊といえど、我が生涯はあのカムランの丘で終わった……! ましてや私が、私が貴様のような醜悪な存在と化すものか!」
「何故そう思う? 並行世界は無数に存在する。そして聖杯戦争もまた、同じく無数に。そのいずれかで何が起こっても不思議ではない。
例えばまさか、英雄王と同じ用に、あの汚れた聖杯の泥を浴びて
「‥‥‥‥ッ!」
「無様な言い分ではあるが、貴様には現実を見る能力が欠けているな。自分が誤っていると考えもせず、自らの道を突き進む。しかし、それは肯定ではなく否定の道だ。自ら以外の、全てを否定する王道。
ハッ、笑わせる。まるでその
黒い鎧を擦る刺突に構いもせず、お返しとばかりに鋭い突き。肘を添えた聖剣の腹で受けると、続けざまに踏みしめた足を狙う、手首の効いた薙ぎ払い。
漆黒の旋風かと見まごう一閃を、片足を上げて回避。そのまま前へと力の限り突き出し、蹴りを見舞った。
「グッ‥‥! フン、足癖の悪いことだな!」
「ほざけ! この程度で撓む甲冑であるものかっ! このまま‥‥押し切るッ!」
「させるか戯け、身の程を知れッ! 叩き斬るッ!!」
「く‥‥う‥‥ッ!!」
お返しとばかりに蹴り込んだ脚をそのまま踏み下し、続けざまに三回の刺突。彼のアサシンとまではいかずとも、十分な速度の刺突はしかし、紙一重の見切りを以て体を捌いた黒騎士によって鎧の表面を削るに留まる。
予定調和の如き剣戟が二人の騎士の間で交わされ、全てが弾かれ、躱され、状況に変化はない。
いや、少しずつだが、私が圧されている?
「そら、どうした
吠えるわりには不甲斐ないぞ。そんなザマで騎士王を名乗れると思っているのかっ?!」
「吠えろ‥‥っ!!」
一際強い衝撃が剣に奔り、たまらず膝を付いて堪えた。
やはり、魔力供給の問題だろうか。凛に不満があるわけではないが、こいつの魔力は無尽蔵ともいえる黒い泥から供給されているらしい。だとすれば、魔力放出スキルの恩恵を受けた膂力は私を圧倒するに足る。
鍔迫り合い‥‥否、競り合うという表現は相応しくないだろう。既に黒い聖剣は私の頭蓋を圧し潰さんと迫っているのだ。少しでも力を緩めてしまえば負けてしまう。
「ああ、しかし本当に面白い人間だな、ショー・アオザキは。私ですら知らなかった
たとえ全ての所行がコンラート・E・ヴィドヘルツルによるものだったとしても、そこには間違いなく彼の存在が影響している。‥‥この世界を回す舞台装置みたいではないか?」
「‥‥いったい、何を言っているのだ貴様は」
少しだけ圧迫感が緩み、代わりに顔が私へと近づく。
澱んだ瞳に宿る、狂気ともつかない異常な光。そこには異端としての自我はあれど、異常な精神構造ではない。おそらくは私と同じような精神を持ち、異なる思考をしているのだろう。
たとえば先の第四次聖杯戦争の時分に干戈を交えたキャスターのサーヴァントのように、精神汚染のスキルを持ち合わせている様子がないのだ。黒化し、凶悪な側面を剥き出しにしてはいる。しかし甚だ癪だが、それは個性の枠に収まる変化だ。
「いいだろう、片手間になら説明してやる。‥‥私の攻撃を凌げるのなら、なっ!」
「———ッ!!」
鋭い刺突が一息に何条も、そしてそれに続いて踏み込んでの斬撃。下から構えの隙間を縫うような鋭い斬り上げを紙一重で躱し、その軌道に添うようにして思い切り弾き上げてやる。
どれほどの膂力を込めていたのであろうか、恐ろしい力で振り上げられた黒い聖剣は、さらに恐ろしい速度で頭上へと腕を連れ去っていく。一瞬の見切りによる、僥倖。この機を逃すわけにはいかない。
「雄ォ!!!」
弾き上げてやったはいいが、同じく振り上げた聖剣はすぐに戻すことが出来ない。咄嗟に私は左肩を前に、体重全てを乗せてのショルダータックルを敢行、
「これで‥‥終わりだぁっ!!」
「———嘗めるなよ、
もはや、倒れた
自分の喉から出てきたとは思えない獣のような唸り声、それは一体、どちらの口から発せられたのだろうか。
ショルダータックルの勢いもそのままに、倒れこむように聖剣を突き出した。
「く‥‥ぬぅ‥‥ッ!」
「ぐ‥‥おぉ‥‥ッ!!」
翳した黒い聖剣を掠め、
お返しとばかりに寝転がったまま私の頸動脈を掻っ切ろうとする黒い聖剣を、そのまま突き刺した聖剣を斜めにすることで堪えた。
拮抗した力が鬩ぎ合う中で、鼻と鼻が触れ合うぐらいまで近づいた顔が、目が、視線が、敵意が、殺意が交錯する。
「‥‥何をそんなに怒り狂っている? 何がそんなに許せない?
品行方正な騎士王とは思えない振る舞いは、何がそうさせているのだ、
「‥‥何がそんなに面白い。何故そんな顔をして嗤えるのだ。お前は、ワタシだろう。
たとえ並行世界の果てに私がお前のようになる未来が存在したとしても、それが無様であることには違いない。
だというのに、元は私であったはずの
剣に込める力はそのままに、剣戟の代わりに言葉を交わす。
確かに許せなかった。しかし、何より不思議だった。解せなかった。
仮に
そんな、“英霊などとはとても言えない状態の自分”が、許容出来るはずがない。許容できず、それでも隷奴の身に甘んじるより他なかったとしても、何故嗤っていられようか。
英雄が清冽であるべき、とは言わない。そして自分が清冽である、とも言えない。しかし如何に自分が歩んだ王道への疑問を抱えていたとしても、そこには確かに誇りがあった。
だというのに、私の存在意義を否定する英霊たる存在の黒化。受諾するより他ない状況だとしても、何故それを許容できる?
「‥‥成程」
「何‥‥?」
「成程、
「‥‥ッ!」
私は剣に、間違いなく渾身の力を込めている。
だというのに私の目の前の
まるで子どもとじゃれ合っているかのように。まるで私がムキになっても。一切気にしていないかのように。
「実に、浅薄。まったくもって浅薄に過ぎる。
‥‥何故そう思うのか? 短絡的だ、浅薄だ。いや、むしろ微笑ましいとすら言える。物事を単純に考えることが出来るのは、物事を深く考えることが出来ない奴の特権なのだからな」
「貴様、私を愚弄するかッ?!」
「愚弄? ‥‥ふむ、愚弄と言えば愚弄かもしれないが、私としてはむしろ賞賛、いや、哀れみか? とにかく貴様を罵っているわけではないのだがな。
今の私と、今の
「それを愚弄と言うのだ、たぁッあぁぁぁッ!!」
「———クッ、いい闘志だ、胸が滾る。‥‥フッ!」
鎧に、衝撃。
強烈な蹴りによって踵に重心がかかり、もんどり打って倒れる。
鎧のおかげで打撃によるダメージはないが、衝撃によるダメージは鎧を通して肉体に伝わる。だが、それも実のところ大したことではない。
問題は、衝撃によって崩れた体勢。隙も見せずに跳ね起きた
「風よ‥‥吠え上がれッ!」
「———風よ、荒れ狂えッ!!」
互いに開放する、
宝具としての神秘は含まれないが、怖気が疾る程に濃密な魔力によって形作られた黒い刃は立派に宝具と打ち合える性能を持つ。
私が解放した風の鞘と、黒く染まった魔力の塊。ぶつかり合った魔力と神秘の奔流が辺りを揺るがし、血が固まったかのように赤黒い大地に罅を入れた。
「‥‥泥を浴びて、それだけで今の私がいると、そう思うのか? そこには原因と結果の二種類しかない。あまりにも短絡な考えだ」
「‥‥‥‥」
「あの泥は『
「‥‥ッ?!」
その特性上、ひとたび攻性の宝具として解放してしまえば、連続して使用することは出来ない。一度解放してしまった風を再び圧縮しなければならないからだ。圧縮と解放には、それぞれそれなりに力を要する。
だが
即ち、奴が使って見せた
「———クッ!!」
「そら、どうした? 足掻いて見せろ」
次々に襲い掛かる黒い魔力の刃。
こと魔術に分類される攻撃ならば尽くを無効化出来るAランクの対魔力スキルを持つ私だが、属性が違うとはいえ純粋な魔力の塊であるこの攻撃は防げない。
まるで波濤のように、あるいは大蛇のように襲い掛かって来る魔力の奔流。それらを聖剣で弾き、逸らし、足捌きを以て避ける。
だが人間の腕が二本なのに対し、
「どうした、その程度か。騎士王の名が無くぞ!」
「ほざけ———ッ?!」
視界全てを埋め尽くす、泥。
避ける、叩き落とす、逸らす、そんな小手先の対処など一切が及ばぬ暴力の具現。
言葉で説明すれば長くなる状況も、実際に相対してみれば息を飲む刹那の瞬間よりもさらに短い間に過ぎない。既に振り抜いていた聖剣を再び構えるだけの暇もなく、まさに泥は私を飲み込まんと迫り来る。
「させ‥‥るかァァァアアア!!!!!」
瞬間、全身から迸る、泥にも負けぬ青白い光の奔流。
私がサーヴァントとして保有するスキルの一つ、魔力放出を用いた完全に力任せの乱暴な迎撃。
瞬間的に黒く染まった泥そのものが純粋な魔力の塊。通常の手段では抗し得ない存在であるそれらも、同じく圧倒的な魔力の放出ならば対抗できる。
‥‥だがそれも、一時凌ぎに過ぎない。
私が放出する魔力はマスターである凜によって供給されるもの。そして凜が現代の魔術師としては最高峰の魔術回路と魔力を保有しているとはいっても、そも前提条件として英霊一人を現界させる魔力の量というのは並ではないのだ。
ましてや瞬間的とはいえ全身から放出しようと思うならば、魔力の量は凄まじい桁へと達する。もはや宝具にも匹敵する消費量だ。とても乱発は出来ない。
ましてや切り札と言っても遜色ない威力の魔力放出には、当然のように隙が生じる。
それを
「———逃がさん!」
「ッ!」
「『卑王鉄槌《ヴォーティガーン》』———ッ!!」
無理を強いたがために全身を襲う硬直。
コンマ数秒の差とは言えども、私達の戦いにおいては致命的な隙。
圧倒的な魔力によるバックアップを持つ
「‥‥ぐ‥‥が‥‥ぁ‥‥!」
黒い聖剣の周りに現れたのは、暴虐を形にしたとしか思えぬ黒い魔力の輝き。
質量すら保有するに至ったその魔力はまるで
それを喰らえば、もはや勝負が決する程の確実な痛手を負ってしまうことは間違いなかった。だが刹那の瞬間とはいえ、完全に体が硬直してしまっていた私に成す術など存在しない。
勝利を確信した
「———ハ、ハハ、ハハハハハハハハハ!!! どうした
「ぐぅ‥‥!」
もはや指一歩も動かせぬ。そう思ってしまう程に、私の全身は黒い聖剣によって打ち据えられていた。
首を掴まれ、持ち上げられる。小柄な私とはいえ鎧を含めれば重量はそれなり以上だというのに、
息が苦しい、意識が遠のきそうになる。だがそこまで簡単に負ける程、私の身体は弱くなく、苦痛だけが継続する。
「‥‥あの泥に飲み込まれた時間は、一瞬でありながら永遠のような長さだった。
ひたすらに負の感情という概念そのものを叩き付けられ、そして私自身の生の醜さをも見せつけられる。
何故、私は斯様な生き方をしなければいけなかったのか? 何故、私は斯様な最期を遂げなければならなかったのか? 私はどう生きるべきだったのか? 私はどう成るべきだったのか‥‥?」
白磁のような顔が、歪む。
それは私が持っていた、いや、今もなお持っている後悔と苦悩。それを表したような渋面。
自分自身を殺してしまいたい、八つ裂きにしてしまいたいと思う程の葛藤。それを強いて見せられ続ければ、どうなることか。
負の感情を凝縮した泥によるものだ。それも生半可なものではなく、真っ当なものでもあるまい。
この世全ての怨嗟の声を、自分の責任だと聞かされ続けるのならば‥‥果たして私に耐えることが出来ようか。
「‥‥なぁ
「‥‥‥‥」
「国のためを思い、民のことを思い‥‥故に多くの民のため、必要であると定めた僅かの民を犠牲にする。
公正であるためには、感情に左右されてはならない。そうやって感情を切り捨てたから、人の心が理解出来ない。
馬鹿な騎士共だ。王とはいえど人なのだから、心が理解出来ないはずはないというのに。理解出来るという様を見せられなかっただけだというのに。
挙句の果てには正しい選択の末の誤りを王の責任として責めたてる。あの
「‥‥我が
「だが事実だ。
全ては
「‥‥‥‥!」
「そら見ろ、そうだ、
あのカムランの丘で、後悔はしただろう。疑問を抱きはしただろう。そこで自身の人生を再評価するために思考を巡らせ、しかしあの一瞬は間違いなく自身を信じ、進んでいたはず」
朦朧と翳み、しかしそれ以上は決して楽に落ちることが無い意識の中で、その言葉だけがしっかりと耳に残る。
ああ、確かにそうだ。
躊躇いが無かったわけではない。悩まなかったわけでもない。所詮は王と言えども人間。人の身にて人ならざる理想の王たる存在たらんとしたのだから、当然のことだ。
だがそうだ、結局は私はその生き方を選択したのだ。
そこには間違いなく、自分自身の意思による決定があった。
「どう思ったのだ? 裏切られ、裏切り、失敗して死んだ。その瞬間だろう、後悔したのは。
全て無かったことにしたかったのは、辛い思いをし続けたからではない。全ての積み重ねの後に訪れた、あの絶望に耐えるためだ。ただただ与えられる結果を享受するだけでは、とても耐えられなかったからだ。
どんなものであろうと題目を付けて、理由を付けて、自分自身の絶望を能動的に肯定する。そうでなければ耐えられなかった。そうでなければ、『そこで終わってしまった』。
シロウと凜の行く末を見守る? ハッ、笑わせる。
『終わってしまった』存在に、これからを生きる者達へしてやれることなど何もない。貴様は『終わってしまった自分』を認められなかった。『終わってしまうこと』が怖かった。だからこそ、惨めにかりそめの生にしがみついている。みっともなく、な」
「黙‥‥れ‥‥!」
私の精神を蝕んでいく。
どれだけ手を尽くして耳を塞いだところで、遮断出来るのは外部から入ってくる音だけだ。内から聞こえてくる音には、決して耳を塞ぐことなど出来ない。自分自身の語る言葉は、聞こえないふりを許さない。
どうにも力の入らない左腕で、私は憎しみすら込めて目の前の黒く染まった
まるで鏡に映った自分自身の首を、絞めている気がした。
「反則紛いの行いで、それだけの猶予を手に入れて、満足出来る答えは得られたのか? なぁ、
「‥‥!」
「得られてないのだろう? このままでは満足してあのカムランの丘に戻ることも出来まい。惨めなことだ、酷いことだ、まったくもって度しがたい愚かさだ。見るに耐えん」
「黙れ! 虚構の、偽りの存在で何を言うか、下郎!」
「笑わせる。偽っているのは貴様の方だ。‥‥私は、答えを見つけたぞ?」
「何ッ?!」
怒りで我を忘れ、痛みを忘れ、しかし忘我を超える力を込められ、堪らず反射的に
刺々しく攻撃的な装飾が施された小手が首の皮膚を傷つけ血が滲むが一向に力が緩まる気配はない。
だが強まる力に反比例して薄まっていくはずの気配は、激昂によって高ぶった精神によって、しっかりと保たれていた。
「———英雄とは一つの脅威だ。
人々では到底敵わぬ化生、怪物を打ち滅ぼす。人々の敵を、絶対困難な状況で圧倒する。人々に利する存在。人々の敵を滅ぼす存在。‥‥だがそこには感謝、憧憬、興奮を凌駕する負の感情が存在している。
絶対的な力に対する根源的な恐怖。自らとは異なる存在への猜疑。そして人々の敵は人外であるとは限らない。英雄が利する英雄によって存在を否定された『敵』は、理不尽なまでに圧倒的な暴力に対する憎しみを。
これこそ道理に基づく、当たり前の現実。故に———!」
「が———ァ———ッ?!!」
左肩に疾る、灼熱。
突き立てられた黒い聖剣が、私の肩甲骨をガリガリと削る。
まるで腕がもげてしまいそうな激痛。あと数センチ外側にずれていれば、間違いなく私の左腕は胴体を離れてしまったことだろう。
激昂よりも何よりも、酸素不足によって霞む意識を覚醒させる刺激。だが、私の視界に入るのは愉悦と自虐に歪む、
「———憎まれ、疎まれることこそ英雄の本分。ならば何故、取り繕う必要がある? 必要なのは体面でも題目でもなく、ただ英雄としての役目を全うするというだけだったのに」
「ぐ‥‥あ‥‥!」
「不平不満など押し潰せば良かったのだ。そこに必要があるならば、他の何も気にする必要などない。思い悩む必要などない。ただ必要なことを、実行するのみ。
そうだ、なぁ
喧しい騎士共など力でねじ伏せ、従えればよかったのだ。理解など得る必要などなかったのだ。
徹底した統治。自由なき自由こそ王の生業。ならば騎士道も王道も、全てがそれに準ずるべきだった。私達は、理想の王たらんとするあまり、余計なものを内に淀ませてしまった」
「———ぐ、う、うあああああああぁぁぁ!!!」
首から手が外され、私の身体が黒い聖剣のみによいって宙釣りとなる。
自らの身体と甲冑の重みが一つ箇所に集中し、襲い来る激痛。そのあまりの痛みは脳髄に閃光が疾る程。
骨に引っかかった聖剣がガリガリミリミリゴリゴリと音を立て、直接脳髄へと振動が走って音を伝える。なんとおぞましい音か、自分の五体が失われる様は。
「婦女子のように泣き叫ぶか。ふん、みっともない」
「ご‥‥がぁ‥‥ッ!」
もはや英霊としての矜恃も何もあったものではない。
流石に涙を流して懇願するようなことはしまいが、それでも喰い縛った歯の根だけでは抑えきれなかった苦痛が外へと飛び出す。
その様に満足したのか、
「‥‥この悪趣味な舞台装置の主役は凛とサクラ。我々は本来は前座に過ぎず、この舞台に上がる資格などない。だが、それはつまり筋書きに従う云われなどないということ……!」
ガチャリ、と重厚な響きをあげて黒い聖剣が構えられる。鈍く光る切っ先は、私の血で紅く彩られていた。
……左手は流石に動かない。如何に英霊と言えども、肩の骨を抉られてなお、剣を握る手に力を込めることなど不可能。
今も脳髄を苦しめる激痛は、戦いの興奮によって立ちどころに消え去るだろう。凜からの魔力供給も、次第に細くなりつつはあるが、健在。
「本来ならば露と消え去る定めの我が身だが、私と
ならば、ならば私が
「戯れ言を‥‥抜かすな‥‥!」
戦える。まだ十二分に戦える。
だが、それが正しいわけではない。正しいとは、到底認められない。
あれはもう一人の自分自身が出した答え。誰にでもある二つの側面の、片方が出した答え。
だが、私は、『この私』はそれを認めない。
苦悩に満ち、絶望に塗れ、贖罪を望み、しかし私はこうして今、ここに立っている。
もしかすれば、いつか私が本当に、
暴君と化し、全てを壊し尽くして座に戻る日が来るかもしれない。
しかし、それは今ではない。
いつか私がとるかもしれない選択肢を提示されたところで、今の私がそれを洗濯するとは限らない。そして少なくとも、今の私は、それを選択するつもりなどない。
私の未来を限定するな。私の選択を限定するな。
ならば私は、『今の私』という存在に賭けて、その選択を否定しよう。
私と同じ、
それこそが、『今の私』の選択なのだから。
「遠い日の理想よ‥‥。さぁ、今度こそ永遠の絶望に身を委ねるがよい。祈りも、誇りも、全てはあのカムランの丘に果てていたのだ。
我が内なる光よ、せめて優しい夢の中で眠れ」
震える手で構える聖剣は、幾多の城壁を破った竜の息吹。
だが今回の敵は、私と同じくブリテンを守る赤き竜の化身。その身に宿す力はすでに証明された。聖杯戦争以来。二年近くぶりに見える同等以上の怨敵。
姿形は同じ。精神は真逆。
到底許せぬ王道なれど、その在り方は紛れもない騎士。その覇道、許すわけにはいかぬが、認めよう。
認めた上で、否定しよう。これは互いの王道の、信念のぶつかり合い。かつては迷いがあったがために参加出来なかった、征服王と英雄王との王道合戦が、今まさに繰り広げられようとしている。
‥‥申し訳ありません、凜。どうやら貴方の援護は出来そうにない。
圧倒的な魔力を内包するサクラとの戦い、助太刀したい気持ちはやまやまですが、今は目の前の
ならば私は一人の英霊として、いや、貴方のサーヴァントとして、恥じぬ戦いをしてみせましょう。
かつての私が生んだ虚像。‥‥否、確実に有り得たもう一つの現実を打ち倒し、貴方の下へ帰還しよう。
そのときにこそ、答えは得られるのでしょうね。‥‥きっと、その時に。
Act 83 Fin.
残念だなぁ紫遙の分の出番がないや