一応こまめに頑張っておりますので、番外編ですが、近々新しいお話をお届けできる予定です!
side Luviagelitta
全身に突き刺さる敵意の視線。
普通の暮らしをしていた人間であるならば、一時に受ける敵意の数など精々が数十。だというのに、私は未だ嘗て経験したことがないような濃度の敵意を大量に受け、立っておりました。
“お前を殺してやる”。あるいは“喰らってやる”などという野蛮な敵意は、おそらく原初の概念であるが故に現代人が放つそれとは比べ物にならないぐらい濃厚。あまりの暴力的な視線に足が竦みそうになります。
「けれど、竦んでいるわけにはまいりませんわよね!」
ドレスの隙間から取り出した小粒のルビーを広い範囲にばら撒くようにして、投擲。
込められた神秘が焔として顕現し、爆発する。我がエーデルフェルトの家が第二法の使い手から指南された技術体系。宝石魔術。
あらかじめ魔力を込めておいた宝石を用いることで、外付けの魔術回路として扱うことが出来る、優れた技法ですわ。また、魔法の一つへの手がかりでもあります。
「‥‥ほう、やはりやり方を変えるおつもりですのね。まぁ、私としても群がるケダモノを相手にするよりは、エレガントだと思いますけれど」
宝石をばら撒き、周囲の敵を一掃すると、そのさらに外周部から私達を取り囲んでいた獣達がズルリと泥へ戻って行くのが見えました。
なるほど、これでは埒があかないと考えたようですわね。
「‥‥ルヴィア! “アレ”が来るぞッ!」
「存じ上げておりますわよシェロ! ミス・リョウギ! 伏せて下さいまし!」
海と化した泥は集まり、群から個へと変化。大きな影を作り出します。
横に広がる、屋根のような影は翼。地面に接する街路樹のような影は鉤爪のついた二本の足。私達の方を向いて唸り声をあげる凶悪な影は嘴。
下手な一軒家よりも大きなそれは、紛れもない鳥の形をしていながら、大きさだけが異常。いえ、如何に猛禽類の姿とはいえ、ここまで凶悪なものとなると———
「まさか、ロック鳥‥‥ッ?!」
「ろ、ロック鳥?」
「ルフ鳥とも呼ばれる、インディアの方の伝承に登場する巨大な鳥ですわ! 伝承によれば象をも持ち去る程の大きさの魔獣だったそうですが‥‥!」
彼のマルコ・ポーロの伝聞記やシンドバッドの冒険にも登場する、幻想種一歩手前の強力な魔獣。
船をも沈没させんとする大岩を投擲するだけの力を持ち、なによりその巨大な体躯は空の王者と呼ぶに相応しいと伺っております。
‥‥勿論、そんな生き物は現代まで生き残っておりません。そもそも絶滅した云々などという話すら起こらない、御伽噺にも近い存在なのですわ。
歴史上には、確かに存在していたと魔術の世界で語られる幻想種や魔獣、神族の他にも、根も葉もない妄想や勘違いだとされている化け物や伝承の類があります。ですから私も、物語の脚色のためのホラ話だと思っていたんですけれど‥‥。
「まさか実在していたとは‥‥!」
羽ばたきの一つで暴風が生まれ、その叫び声は戦場に響き渡る角笛にも勝る。
そしてその怪物の奥で堂々と立っているのは、黒い体に灰色の髪、深紅の瞳の吸血鬼。
二十七人いるという吸血鬼の王の中の一人。死徒二十七祖第十位。“混沌”ネロ・カオス。六百六十六の獣の因子を宿し、その獣たちを混沌の中から僕として召喚して使役する強力な死徒。
いえ、強力などという言葉では収まりきりませんわね。殺しても殺しても、その身の六百六十六の命全てを同事に殺しきらなければ、殺された身を混沌の沼の中へと戻し、再生させてしまうんですもの。
まず間違いなく世界最強の一角。如何にエーデルフェルトの家名と技術、魔術が優れていても、格が違うと認めざるを得ない敵。本来ならば、抗しようとするのも間違いな程に。
「———何をそこまで驚く、魔術師よ。我が系統樹は、六百六十六の獣で構成されると言ったはずだ。
これらはそのまま系統樹に保存されているわけではない。数多の獣の因子、魔獣、幻想種の因子が存在するからこそ、六百六十六を優に超える獣、魔獣、幻想種の顕現が可能になる。
貴様ら矮小な人間という存在が想像する範囲を優に超え、我が系統樹は無限の存在を創り出すことが出来るのだ。如何に策を弄しようと、人間という種族の枠を超えることは、出来まい」
‥‥吸血鬼、ネロ・カオスの言葉を借りるならば、彼の体の中に眠っているのは六百六十六匹の獣そのものではなく、その因子。また命そのもの。故に彼が使い魔、否、彼を構成する群体の一部として顕現させることの出来る獣の種類は、六百六十六に限らない。
またそれらの組み合わせによって生まれる幻想種、
魔獣、
事実、ロック鳥などという怪獣一歩手前の魔獣など未だ嘗て目にしたことはなく、私は背筋に疾る戦慄を抑えきれませんでした。
「■ィ■ィ■ァ■■ァァ———ッ!!!」
「ッお二人とも下がって!! ———
巨体のままに、墜落するかのように私達を襲って来たロック鳥に対して、小粒のルビーを持っていたのとは逆の左手で用意していたサファイアを躊躇なく投擲。
サファイアが貼るのは、風の結界。弾き返すのではなく、力の向きを逸すように、ロック鳥は後方へと交叉していきました。
「くそ、高いな。ナイフが届かない」
「どいてくれ式、ネロ・カオスの方を頼む! 俺は彼奴を‥‥撃ち落とす! ルヴィア、もう一度結界を!」
「了解ですわシェロ!」
さらに追加のサファイアを取り出す。宝石には限りがありますが、この程度ならば問題はありません。
隣で弓を投影し、構えるシェロが射撃に集中出来るよう、敵の攻撃を防ぎきらなくてはッ!
「———I am the born of my sword《我が骨子は捻れ狂う》」
巨体で素早く旋回し、こちらに再び迫るロック鳥に向かって、シェロが捻れたドリルのような剣を弓に番えます。
とても一人の魔術師が、人間が生み出すことの出来るとは思えない濃度の神秘が、捻じれ狂った矢のような形の剣から溢れ出しております。
あれこそがシェロのみが持つ秘奥。
本来ならば穴の空いたバケツに魔力を注ぎこみ続けるかのように費やす労力が膨大で、しかも鏡のような水面よりも壊れやすいものしか創り出すことが出来ないはずの、投影魔術。
だというのに、シェロのそれは常識を覆します。
投影したものはいつまでも消え去ることなく現実に留まり続け、特に剣に属するものは、宝具であろうと、多少の劣化こそすれ投影を可能にするのですわ。
それが、シェロに許された唯一の秘奥が齎す物こそが、あの
「———Wind der Gebote《戒めの疾風よ》! シェロ!」
「任せろッ!」
結界にと用意しておいた風の障壁を、シェロの構える捻じれた剣を本能で一瞬だけ畏れたロック鳥へと伸び、戒めの鎖とする。
あの巨体を、あの質量を長くは留めておけないでしょう。あの程度の魔術では物理法則を無視出来る程に強力な概要とはなり得ませんから。
ですが、文字通り鷹の眼と英霊へと至る腕を持つシェロならば、その一瞬で十分。
暴風のように荒れ狂っていた魔力が一気に収束。湖面のような静けさを一瞬だけ湛え、その神秘を解き放つ。
「———
解き放たれる、神代の暴風。
稲妻そのものと化した一筋の閃光が、暴風を引き連れて荒れ狂う。
例えば現代の世界で抑止力として十分過ぎる効果を持つ原子力爆弾。誰もが見るだけで恐怖し、怖じ気づき、畏れを抱くでしょう。その畏れこそが、武器の威力そのものですわ。
では、その爆弾が、恐怖が解放されたら?
爆弾ならば、炸裂するのは中に込められた爆薬。しかし宝具の解放ならば、炸裂するのは何千年もの神秘と概念、そして畏れ。
「宝具の真名を解放する、
宝具とは、決して凡百の概念ではない。世界に幾つあるかも知れない、国宝のようなもの。
それも歴史上での話。現代における宝具とは、両手の指で数える程度のものをのぞき、すでに伝説と化してしまっております。人間の中でも選ばれた超越者たる魔術師でも、一生の内にお目にかかれる者は何人いるでしょう。
吸血鬼であろうと目を奪われる、
「———余所見なんて随分と余裕だな、吸血鬼」
「ッぬぅ?!」
まるで地面を這うようにして、しかしその“速さ”はシェロの放った硬き雷に勝るとも劣らず。
蒼く光る瞳は死神のような輝きを宿し、湛えた微笑は酷薄で冷たく、同時に寒気が走る程に美しい。
逆手に構えた小さなナイフが、命を刈り取る大鎌。そんな美しい死神が、世界最強の一角たる吸血鬼に迫る。
「させるか人間ッ! 我が内に秘めし幻想を思い知るがいいッ!!」
喉元まで迫る刃を前に吠える吸血鬼。
指を曲げる、ただその動き一つで影から涌き上がるのは、ミス・リョウギの体を串刺しにせんとする細く鋭い節足。蜘蛛か百足か、とにかくおぞましいナニカですわ。
「はぁぁあああ!!!」
けれど、ミス・リョウギは突如足下から涌いて出てきたソレにも一切怯みはしませんでした。
低い姿勢から大地を蹴って跳躍。
最初の一本目の節足を交わすと地面に手をつき、大きく体を捻って右手のナイフを一閃。残りの全ての節足を斬り落とします。
「式ッ!」
「衛宮! もう一発アレを射て!」
「無茶言うな! 一応アレ必殺技みたいなもんなんだぞ! ポンポン気軽に何発も射てるわけないだろ?!」
「じゃあ何とかして道を開け! オレが踏み込む場所を作るんだ!」
「ッ分かった任せろ!」
ミス・リョウギが節足に手間をとられている間に、ネロ・カオスは大きく後退。
大きく翻ったコートの影から、再び大きな怪物が出現します。今度は見たこともない化け物ですわ。
「‥‥チッ、簡単に言ってくれるよ式も。まぁ、任せてくれるってんなら期待されてるってことかな。俺じゃあの吸血鬼を消し飛ばすのはちょっと無理だし‥‥よし、やるか!
———
———
鶏の頭に、獅子の体。蛇の尻尾に竜の翼。
伝承に聞くグリフォンやコカトリスにも似た異形。ですが、それらとは決定的に違う
「衛宮!」
「———停止解凍《フリーズアウト》! 全投影連続層写《ソードバレル・フルオープン》!!」
シェロの周りに浮かび上がる、数多の剣。
投影魔術によって生み出された剣の編隊が、ミス・リョウギを迎撃せんとする
‥‥いけない、私もぼんやりとしているわけには参りませんわね!
「砕‥‥けろぉぉぉおお!!!」
シェロの怒声と共に爆発する、剣。
剣の中に秘められた神秘と幻想が炸薬となって爆発し、
「爆発に紛れて接近するつもりか、人間。下策だぞ」
「いいえ! そうはさせませんわよ、ネロ・カオス! ———Abblase《吹き飛ばせ》!」
先ほど小物に投げたのとは別の、大粒のルビーを取り出して投擲。
地面に叩きつけるような投擲が引き起こした内蔵魔力の解放が生み出すのは、粉塵巻き上げる土煙。
今まさに鴉の弾丸をコートの中の闇から射出しようとしていたネロ・カオスの狙いをかき乱すのですわ。勿論その隙を、死神が見逃すはずはなく‥‥。
「———あぁ、そこか」
「おおおおおおぉぉぉぉッ?!!」
閃光、一閃。
横に横に、ネロ・カオスの存在しない死角へと周りこみ続けていたミス・リョウギが一歩踏み込みました。
ただ、その一歩が、たった一歩がとてつもなく速いですわ。まるで空間が歪み、繋がったかのように。一歩で恐ろしく遠いはずの間合いを踏み越えます。
「人間‥‥貴様ァ‥‥ッ!」
下から上へと疾った光が、ネロ・カオスを引き裂きます。なんとか仰け反って致命傷は躱した吸血鬼の左腕が、まるで出来の悪い喜劇のように宙を舞いました。
勿論、シェロや私の攻撃を受けた時のように、再生などしない。ミス・リョウギの『直死の魔眼』は存在が内包している死の概念を断ち切るのですわ。
本来ならばその身に潜める六百六十六の獣の因子を同時に滅ぼさなければならない強敵も、彼女の前には普通の人間も同じ。
まるで何の抵抗もないかのように斬り込む刃。紙というよりは、空気を裂いているかのようです。
「‥‥駄目だな。さすがに人間じゃないから、このぐらいじゃ死なないか。やっぱり核みたいな場所を殺さないと」
「その場所、分かるのか式?」
「さぁな。集中して視てみれば分かると思うが‥‥。接近すれば何とかなるかもな」
「‥‥じゃあ、式が接近するだけの隙を作らないとなッ!!」
ミス・リョウギに勝るとも劣らない爆発的な踏み込みで、シェロがミス・リョウギと入れ替わるようにネロ・カオスに迫ります。
策も持たぬ愚かな特攻。六百六十六の軍勢を持つ吸血鬼に対して、あまりに無力。故にネロ・カオスは嗤い、そしてシェロもニヤリと笑った。
「———ッ?!」
吸血鬼の魔手が届く寸前で、急制動。全開だった加速度をゼロ以下に。
いつの間にか手に持っていた双剣、干将莫耶をバスケットボールの試合で味方にパスをするかのような気軽さで、ひょいと放り投げました。
あまりにも場違いな、一投。それが巻き起こしたものは大きかったですわ。
シェロがいとも簡単に投影しているから気が回らなくなりがちですが、あの干将莫耶も純然たる宝具。シェロの投影によってランクが下がっているとはいえ、その内に秘めた神秘の濃度は現代の魔術を以てしても抗し得ない程のもの。
ならば先ほどの“硬き雷”と同じように、その神秘を爆発させれば如何でしょうか。
何千年にも及ぶ神秘。
本来ならば代え難いソレを爆発させれば、如何に世に名だたる宝剣や神槍には核が劣るとも、その威力は一人の人間が出せるものではなく。
使い魔でシェロを迎撃しようとしていたネロ・カオスも爆発に巻き込まれ、一瞬シェロを見失います。
「おおおおおおお———ッ!!!!」
再び、投影。両手に握る双剣の鈍い光が夜の闇に閃きます。
大きく反復横跳びのように左右へ跳躍し、ネロ・カオスをかき乱すシェロ。その魔手が吸血鬼の身体能力に比する膂力と速度を持っていようとも、シェロの猛攻はその全てを凌ぎます。
「小癪な! 人間風情がッ!」
「その人間にここまで良いようにあしらわれて、悔しくないのかよ吸血鬼ッ!!」
額から玉のような汗を流しながら、まるで水でも浴びているかのように飛沫を飛ばしながら、シェロが舞っております。
ゴール間近の、体力を絞り尽くしたマラソン選手のよう。真剣で、懸命で、必死。決して美しくはありません。けれど、化け物に挑む人間の、英雄の在り方は只ひたすらに尊いもの。
みっともなく、見苦しく、だからこそシェロは何とかネロ・カオスに食らいついております。
ネロ・カオスの体から涌いて出てくる獣達も、触れるが幸い斬り飛ばすシェロ。すでにその両腕は限界寸前でしょうが、それでも彼は止まりません。
「お、おお、おおおお、おおおおお———ッ!!」
咆哮、瞬間ネロ・カオスの体から溢れ出す闇。
蛇のような、龍のような見たこともない生き物が津波のように溢れ出し、シェロを襲います。
乃ち双つの剣では受けきれぬ猛烈な物量。その黒い津波を見た瞬間、明確に頭をよぎる確信。あのままではシェロが死ぬ。
そう
「顔を庇いなさい、シェロ!
「———ッ?!」
宝石も魔法陣も必要ない。魔術回路から生み出される魔力ですら。
必要なのはその名の通り、
合図を出す相手は宝石。既に私によって魔力が込められていた宝石は、魔力の持ち主が合図をすれば忽ち定められた通りに魔力を解放、術式を起動します。
シェロの羽織った真紅の外套。
何処ぞからロード・エルメロイが入手して来た聖骸布を譲り受けたショウがミス・トオサカに売り渡し、それを私がエーデルフェルト家御用達の礼装職人に仕立てさせた一品。彼の言うところによると、名を赤原礼装と言うそうですわ。
糸や飾り紐は言うに及ばず、縫製の仕方に至るまでが魔術の一環である現代最高級の礼装の一つ。こと護りという概念に於いてはこれに勝るものはないでしょう。
その外套の袖口にある飾り石。磨き上げられた光沢のある石の中に隠されたサファイアが、魔力を爆発させます。
吹き上がる烈風が指向性を持ってシェロの体を覆い、外側へとその猛威を叩きつけ、今まさにシェロを襲おうとしていた化け物達を吹き飛ばすだけでは飽き足らず、粉々に砕き、消しとばしました。
「———
決して少なくはない魔力を込められたサファイアは魔力を解放すれば砕け散ります。二度目はありません。
しかしシェロと私にはそれで十分。
今まで何度となく迫り、迫られ、消耗の先に待っている確実な敗北を知りながらの千日手を強制されていましたが、今ここが決めどころですわ。
「bertragung《伝達》, Decke《結界》, Verbindlich《束縛》, Verschlossen《封印》———ッ!」
キン、キン、キンと澄んだ音を響かせて私の手から宝石が弾かれます。
正体は不明ながらもシェロが投影した鎖で張ってくれた魔法陣。あれは大師父の系譜であるトオサカとエーデルフェルトに共通した、結界作成の基礎ですわ。
ならば私がそれに合わせられないことはない。いえ、おそらくは互いに一瞬の内に示し合わせたからこその一瞬のチャンス。
幾つも瞬間的に魔力を放出、あるいは維持していく宝石。星々の煌めきのように魔力を溢れさせていく様は実に優雅ですけれど、その威力は折り紙付きですわ。
「Passend《整合》———Bunte Gitter《彩の格子》!」
夥しい数の宝石によって織り成されるのは、虹色の光を放つ格子模様。
それぞれの
本来ならば捕縛とは、相手を縛り、留めること。ですがそれに使う労力は多大ですわ。特に相手が強大であればあるほど。
ならば、破られないようにするのではなく、破られ続け、修復し続ける結界を作ればいい。
発想自体は単純。形に出来たのは、私の研究成果。
「これは、正方行列による並列術式‥‥変数と単次式に異なる値を代入されても、定義された状態へと収束する結界式かッ?!」
「完全数に対して1だけ足りない平衡関数ですわ。流石に私では完全数を実現するまで至りませんけれど、格子を一つ破っても周囲の格子によって同値の関数に戻されてしまっては、貴方ほどの怪物であろうと脱出は困難。
さぁ絡めとりましたわよ、吸血鬼《ドラクル》!! ミス・リョウギ、準備はよろしくて?!」
煌めく格子は色とりどりに、混沌が腕を伸ばして束縛から逃れようとした端から光り輝き、効果を発揮します。
自らを捕らえる一つの格子を破り、次の格子を破ろうとしても、その時には周りの格子の効果によって最初の格子が復元され、次の格子を破ろうとしていた手が引き戻されるのですわ。
これこそ、過去に“蛇”と呼ばれた死徒二十七祖番外位、ミハイル・ロア・バルダムヨォンが過去に残した文献から得た術式。
彼は複数の術式を連立させ、一つを破壊しても他の式の働きによって完全数へと戻してしまう魔術を残しておりました。ですが、私では連立方程式による完全数の維持は出来ません。まだ力量が足らないのですわ。
ならば別な手段で、完全数と似た平衡定数を用意してやればいいだけですわ。もちろん元の術式に比べれば不完全ですが、だからこその安定感もあります。
如何にネロ・カオスがその身に混沌を宿すまでの魔術を身につけた吸血鬼であろうと、これを破ることは難しいはずですの。時間をかけて、順番に解いていくしかありませんわ。
ならばこそ、一瞬で解かれないからこそ、この結界は強くなります。私とシェロの二人で張った結界は、もう一人の戦友が走り寄るだけの時間を、優に稼ぐ。
「———あぁ、十分に過ぎる。なるほど、じっくり見れば見え方も変わるな。そういう
ひたり、と忍び寄る足音。それは紛れもない、死神のそれでした。
もどかしい思いを内に結界の解呪を進めるネロ・カオスの前にゆらりと歩み出たミス・リョウギは、まるで知人に挨拶するかのような気楽さで、混沌の具現たる吸血鬼に声をかけました。
目の前の凶悪な化け物に比べて、ミス・リョウギの存在感は実に気迫です。雲のように、空気のように、霧のように。けれど、それが何よりも不気味。
「六百六十六個のお前がいるわけじゃないんだな。お前は全ての自分を倒せとか言ってたけど、多分お前の中の混沌を束ねて、繋ぎ止めてるのは魔術か何かなんだろ?
随分と混ざり合ってるが、だったら話は簡単だ。六百六十六の因子を囲い込んでる、“ネロ・カオス”っていう世界の核を、繭を繋ぎ止めてる繋ぎ目を“殺して”やればいい」
すらりと伸ばした腕の先に構えたナイフが妖しく光ります。
狙う先はネロ・カオスの胸の中心。いえ、その更に奥でしょうか? 私にもシェロにも見えない、彼女にだけ見えている“死の点”が、おそらくはネロ・カオスそのものの核。
ならばそこを突けばいい。そう答えたミス・リョウギの瞳には確信が宿っており、私達は、戦いの終わりを確信しました。
「———オ、オオ、オオオオオォォォッ!!!」
「吼えるなよ。怪物。もう終いだ。お前の世界、オレが摘ませてもらう」
混沌が、膨れ上がる。
その身の内に喰らい秘めた有象も無象も純粋な力に変えて、ネロ・カオスが膨れ上がる。
どんな猛禽類よりも雄大に。どんな肉食獣よりも強靭に。どんな草食獣よりも俊敏に。どんな幻想種よりも凶悪に。
ありのままに獣の因子を具現するのではなく、全ての因子を一つへと集約させる。まるでルール違反のいいとこ取りですが、だからこそ、この世の何よりも強大な力が混沌の集約点に生まれます。
暴虐そのもの、と言ってもいいだけの力。しかし、それを見ても、不思議と結末への不安は覚えませんでした。
だってそうでしょう? 一度死神がその大鎌を振りかざしたのなら、決して死の運命は覆らないのですから。
「じゃあな」
力の暴風に耐えられず砕け散る、虹色の格子。
そして振りかざされる、暴虐の腕と爪。けれど、それにどれくらいの意味があったことか。
どんな大木だろうと容易く引き裂いてしまうだろう腕と爪の一撃が届く前に、ミス・リョウギがたったの十五センチも刺し込んだナイフが、ネロ・カオスの胸を抉りました。
まるで絹で出来たドレスを引き裂くように、いえ、水面に棒を差し込むように。そこには一切の抵抗がなく、躊躇もないように見えましたわ。
いえ、当然も当然なのでしょう。彼女にとっては、殺すならば殺すことが必然かつ道理。彼女の刃が死の点を容易く貫くだろうことも、また道理。
ならばそこに躊躇は不要。ただ、必然を必然のままに実行するのみ。
「これ‥‥は‥‥!」
砂のように、崩れていく表皮。
ネロ・カオスを覆っていた獣の肉体が砂のように、そして霧の様に崩れて空へと消えていきます。
彼の世界を繋ぎ止めていた核が殺されてしまったのです。ならば残された獣の因子は散り散りに消え去り、ネロ・カオスという吸血鬼は既に死に逝く
「そうか、成る程、そうだったのか」
「‥‥?」
既にその隆々とした体躯の殆どは消え去り、塵となった吸血鬼。
劣等種族、弱者と見下す人間に殺されるそのことがどれほどまでに無念なことか。ですが、不思議とネロ・カオスは穏やかな顔つきで下手人たるミス・リョウギを見下ろしておりました。
魔力が、幻想が、神秘が弾ける微かな音以外は何も聞こえない静寂の中。着物にジャケットを羽織った死神と大柄な悪魔の姿には、絵画にも似た美しさがあります。
あまりにも稀薄で、だからこそ死の気配がする死神。そして圧倒的な気配を今まさに霧散させようとしている吸血鬼。
どちらも両極端だからこそ、絵になるのでしょうか。そう、どちらもとても儚い‥‥。
「お前だからこそ、お前達だからこそ見えたのか。群体の中に溶け込み、消え去りかけた私を、ネロ・カオスという吸血鬼の中の、フォアブロ・ロワインを‥‥」
何処か満足そうな、その笑み。
魔術師によって具現された飛沫のような存在であろうと、そこには確かに自我がある。
だからこそでしょうか、彼は自身がそのような存在であることを知ってなお、笑みを浮かべたのでしょうか。
「そうだ、お前が、お前達が。
お前達だからこそ見つけられた。お前達にしか見つけられなかった。
嗚呼そうだ、だからこそお前達が、私の死、だった、のだ、な———」
煙草の最後の煙が消え去るように、ネロ・カオスという吸血鬼はその存在を虚空へと溶かして逝きました。
ただ受け入れ、ただ理解し、ただ消え去る。
それはどれだけ潔いことでしょう。どれだけ難しいことでしょう。どれだけ残酷なことでしょう。どれだけ孤独なことでしょう。
人間が覚える、それら全ての感情の先へと自ら歩んでいった人外、吸血鬼。ですが人外になろうとした彼が最後に感じたのは、その果てに消え去るだろう、いえ、今まさに消え去りつつあった自分自身。
‥‥おかしいですわね、先ほどまで殺すか喰われるかという戦いの最中にあったというのに。
私たちは一人の、いえ、六百六十六の吸血鬼が消えた虚空を、この空間が壊れるまでいつまでも眺めていたのでしたわ。
◆
「おおおおお!! 見てみろよ村崎、みーんな外人ばっかだ! これこそ外国に来たって感じだよなァ?!」
「騒ぐな加藤、喧しい。ていうか恥ずかしい」
「そうよ慎一郎やめなさい。これから私がこのデジカメで360度パノラマショットにチャレンジするんだから。邪魔よ、どいて」
「君も大概恥ずかしいなぁ?! 頼むからカメラ構えて高速で回転するのやめてくれないか?!」
「あぁ嗣郎君もやりたかったの? でも待ってね、先ずは私がチャレンジするから。どれだけ綺麗なパノラマ写真が取れるか、勝負よ」
「‥‥なんかサラリと呼び名が苗字から名前になってるし。ていうか止める気ないのはいいけど、高速で回転する必要はないだろ?」
「高速で回転すれば軌道が安定しそうじゃない?」
「そりゃ、ちゃんと高速で回転出来ればの話だぞ
「うっさい慎一郎! じゃあ私の次はアンタにやってもらうことにするわ。必ず綺麗なパノラマ写真撮りなさいよ!」
「おーおーいいだろう受けて立つぜ!」
「‥‥なんだこのカオスは」
遼か遠く、日本から十時間以上も空の旅を耐え抜いた先。紫色の雲、青い空、橙色の夕焼けを超えた先。
大英帝国とかつては呼ばれ、今では意味は同じながらもイギリスと呼ばれている世界の果ての島国。
いや、この国の人達からしてみればオレ達の方が世界の果てからやって来た黄色い人間なのかもしれない。そんな国の一番大きなハブ空港に、オレ達は降り立っていた。
周りを見れば隣で恥ずかしくも騒ぐ我が親友、加藤の言った通り。髪の毛の色、肌の色、瞳の色まで何もかもがまるで違った色とりどりの人々が忙しそうに歩いている。
色だけじゃない。背丈も体型も全然違う。日本人の中でも最近は昔に比べて生活環境が多彩だから結構な違いがあるらしいけれど、やっぱり外国ともなると人種が入り混じってしまっているからか、その違いはもっと顕著だ。
‥‥まぁ正直に言うと、さして高くない大陸人種特有の胴長短足が強調されてしまって何とも言えない劣等感に苛まれているだけかもしれないけれど。
「なぁなぁ加藤、逢坂。これからどうするんだ? ホテルとかは決まってんのか?」
「うむ、先ずはこの大荷物を何とかしなければな。身を軽くしなければ、気を楽に観光を満喫することなど出来はせん」
やけに明るい声と、渋く改まった口調の二つが聞こえてくる。
ヒースロー空港の真ん中で手持ち無沙汰に、若干交通の迷惑になっている日本の高校生十名強。全員が全員オレと同じクラスで、男子は加藤に、女子は逢坂に誘われて集まった酔狂な連中だ。
普通まだ高校の半ば、卒業旅行でもないうのにこうして海外旅行に来られるというのは、財力やら余暇やらが相当に潤沢な者だけだ。その点に於いてオレ達は、どうやらそれぞれ相当に恵まれていたらしい。
加藤と逢坂の家はそもそも二人が幼馴染であるように両親も仲が良く、二人の旅行に合わせてダブルデートに行くんだとか。他の家にしてもやたらと子どもの見聞を広めることに理解があったり、高校ではっちゃけるつもりだったのか本人の蓄えが十分だったりする。
オレの場合は加藤の調子の良さを鷹揚にも認めている奇特な母さんが悪ノリして送り出した、という説明が正しいんだろうか。オレも少しばかり出費が嵩むけれど、渡航費と宿泊費を出してくれたことは大きい
若い内から外国に行くのは良い経験になるわよ、と母さんは言っていたけど、こういう友達ばかりの旅行ではどうなんだろう。あまり意味はないように思えるけど、もし何かしらを得られるんなら、悪くない。
というか本当は何かを得なければいけないんだろう。せっかくそれを期待して、お金を出してくれたのだから。
「そうね、先ずはホテルまで行きましょうか。確か空港からバスが出てるはずだから、バス停まで行きましょう」
「おぉ送迎バスか。すごいな!」
「バカね海君、そんな立派なホテルに泊まったら幾らかかるか分かったものじゃないわよ? 古くも狭くもないけど新しくも広くもない、普通のホテルよ。普通の」
「‥‥つまり俺らは重い荷物抱えて路線バスに乗るのかよぉ。辛ェ‥‥」
「そゆこと。ま、すぐの辛抱よ。この時期のバスは混んでないって噂だし。最初にPasmoとかSuicaみたいなものがあるらしいから、それを買ってからシャトルバスに乗りましょ」
どうやら逢坂の話によると、ヒースロー空港からロンドン市街まで、便利なシャトルバスが出ているらしい。
ロンドンの街は東京にも負けず劣らず人が多い。特にビジネスマンもさることながら、街の中にだけでも四つもの世界遺産があり、また重要な有形文化財以外にも、形のないものだって観光しがいがある。東京よりは遥かに観光客が多いだろう。
そのためだろうか、ロンドン市街の乗り物は東京などでも非常に利便性の高い電子通貨のようなものが流通していて、それで大体の交通の利便が確保できるらしい。
日本のカードのようなそれと比べると、やっぱり色合いの違いだからだろうか、とてもスマートな印象を受ける。
「これ、チャージが足りなくなったら痛い思いするから最初は少し多めに入れといた方がいいよ? まぁそれは日本と同じだけどさ」
「‥‥そういや、この国ってユーロじゃねぇのか。ポンドって分かりづらいんだよなぁ、円とのレートが」
「別に他の国に続けて行ったりするわけじゃないのだから、構うまい。貴様はどうせドルと円のレートすらも記憶になかろうが」
「おぅおぅ言ってくれるじゃありませんか須藤サンよ。俺だってドルレートぐらい分かってるっつーの。確か‥‥120円ぐらいだったっけ?」
「‥‥加藤、それは数年間の話だ」
重い荷物を引きずり、オレ達は続々とシャトルバスへ乗り込んだ。
車内はそこまで広くはなく、そこまで長い滞在ではないにせよボチボチ多い荷物を持ったオレ達からしてみれば、それなり以上には手狭だった。
まぁ、とはいえ日本に比べてヨーロッパの旅行シーズンとは若干外れているから、そこまで乗客の数は多くない。オレ達の他の乗客はサラリーマンが多めで、彼らは荷物がやけに少ない。
「ってかさ、意外と日本人も多かったよね? さっきの空港とかもさ」
「まぁ流石は倫敦って感じだよね。東京もなんだかんだで外人さん多いけど、こっちは流石に外国、全然違うなぁ」
空港から長い長い退屈な時間が過ぎ、次第に近づいていく倫敦の街並み。
それなりに狭い車内だ、とても騒ぐような雰囲気じゃあない。多くの人間が狭い飛行機での疲労を狭いバスの中で寝って癒すという矛盾した行為に没頭する中、オレはずっと窓の外を流れる景色を見つめていた。
ヒースロー空港を出てすぐの、郊外そのものという光景ですら日本とは全く違う。そして次第に都心部に近づけば、また違う趣が広がっているのだ。
見慣れていない、というただ一点のせいだろうか。いや、やっぱり何かが違うのだろう。それが空気なのか、あるいは住んでいる人たちが作り上げている生活の臭いなのかはまだ分からない。けれど、柄にもないドキドキとした胸の高鳴りをオレは確かに感じていた。
「‥‥ここが、倫敦」
シャトルバスから降りて、大きく息を吸い込んだ。
空気の味なんてものはオレには分からない。けれど、日本で吸う空気に比べれば確かにそこには差異がある。
少し鼻につくような気がする。味は分からないけど臭いは別だ。やっぱり欧米人の日本人とは違う体臭や、食べているものの違い、他にも様々な生活臭が空気の中に染みこんでいるのだろう。
自分の中が、異国の空気に犯される。それは胸の中に凝りのように存在していた不安を膨らませ、同じくこの身と心を弾ませていた期待感をも膨らませる。
成る程、外国というのはこういうものなのか。
新しいことを知ると、少し自分が周りの人間に比べて成長した気分になる。それが卑小で勝手な優越感だとしても、思わず溺れてしまう。
それほどの興奮が、ただ外国にいるというだけでオレの中に生まれていた。
「なんだ、随分と楽しそうだな村崎よ」
「‥‥まぁ、興奮ぐらいするさ。オレだって外国に来るのは初めてなんだ」
「俺もさ。正直、興奮するのと同じくらい不安でもある。でもよ、だからこそ楽しみで仕方ねぇよな?」
「否定はしない。でも調子に乗って馬鹿騒ぎするのだけは勘弁してくれよ、加藤?」
「ハッハッハッハッハ! ‥‥保証は出来ん」
「おい?!」
ガラガラと、スーツケースを引きずってホテルへと向かう。
勿論シャトルバスはホテルが手配しているわけじゃないから、降りたすぐ目の前にホテルがあるわけじゃあない。ただ逢坂が手配した宿は安価な割りには随分と便の良いところにあるらしく、ここから十五分も歩けば着くらしい。
「なぁ加藤、この後のプランはどうなってるんだ? 二泊三日の短い旅だ、あまり余裕はないし回れるところも限られるよな?」
「焦るなよ五島、確かに倫敦は広いが俺たち全員が一度に動くには狭すぎる。先ずはホテルで何人かに別れて、それぞれ回るところを決めないとな。
こっちじゃ携帯が使えないから合流する時は時間と場所をしっかり決めとかんといかんし、もしもの時の連絡方法も考えないといざって時に詰むぜ?」
「そうか、携帯が使えねぇのか‥‥。じゃあお前の言うとおり、緊急の連絡とかはどうしても出来ないのか?」
「悲観することもないわよ海君、もともとは携帯電話なんてなかったんだから昔ながらの方法を取れば良いだけ。
これから行くホテルってご家族で経営してるらしくて、親身になってお世話してくれるらしいわ。何かあったら公衆電話ぐらいは使い方分かるでしょ? それでホテルに連絡して、事付けしておけばいいのよ。
もっとも本当に緊急の時は別の班からホテルに自分達で連絡しなきゃ、その情報が分からないんだけど‥‥。
それを防ぐためにも、やっぱり一日に何回か合流した方がいいかもね」
「修学旅行とかだと先生がホテルにいてくれるし、携帯も外国で使える奴が支給されるはずだから楽でいいよなぁ。個人で行く時は緊急の時には連絡もへったくれもないし、ちょっと今回は人数が多すぎたか」
「もっと多いなら、それこそみんなから少しずつお金貰ってケータイ調達してもよかったんだけどね」
十数名の集団は、確かに観光客としてもかなり目立つ方だろう。
中高生の修学旅行なんかだと、外国なら班ごとの移動よりもクラスでまとまっての見学やら何やらが多いだろうし、そもそも連絡用にケータイが必要になるぐらい広範囲の自由行動を許さない。
一方で個人や家族の旅行だったらそもそも旅行に来たメンバーが分割されるという事態が起こらないから殆ど問題がないわけだ。オレ達は今回かなり微妙な人数で外国旅行なんて難易度の高い催しに挑戦してしまったのである。
「しかし何処に行こうかねぇ」
「うむ、この街には世界遺産だけでも四つはある。それらに加えて人気の観光地を巡ろうと思うたならば、一週間あっても足りぬ。見るべきところは絞らねばなるまい」
「となるとやっぱり二手ぐらいが丁度いいのかねぇ。なぁ湊、どう思う?」
「私はショッピングもいいけど、やっぱり折角だから建物とか見て回りたいわね。大英博物館は外せないわ、なにせ“時計塔”だものね!」
「そうだな、“時計塔”だからなッ!」
「‥‥お前達少しは落ち着けよ」
前を歩く加藤と逢坂が二人とオレにしか分からない会話を弾ませ、あろうことか興奮してキャリーバックを左右に激しく揺り動かす。
とりあえず周りの人通りは少ないから迷惑ではないけれど、オレが迷惑だ。
「そもそも時計塔って言ったって、確か凛ルートの最後の方ちょこっとだけだろう? そこまで興奮することもないだろうに‥‥なんだよ、その驚いた様子は」
呆れて溜息を零しながら意見を口にすると、暴れながらも順調に歩き続けていた二人が目を丸くしてオレの方を見つめた。
ぽかーんと呆気に取られたように口まで半開きにしている。馬鹿にされているようで、あまり愉快じゃあない。
「‥‥いや、貴様から呼吸するようにエロゲーの話が出て来るのに違和感があってな。いやぁ人間変われば変わるもんだ、あの根暗な堅物が立派なヲタクになってしまうとは」
「無理やり勧めたのは、誰だと思ってるんだ‥‥ッ?!」
「そりゃ俺だけどよぉ、実際面白いもんだろ。お前っつったらさ、ええかっこしいのクラシックとかっつー印象があるからよ」
「ええかっこしい言うな。お前には分からないかもしれないけど、アレはアレで数百年も大衆に認められ続けた芸術なんだからな」
相も変わらずオレの昔からの趣味に理解を示してくれない加藤に再び溜息が漏れる。
そりゃオレみたいな若造がクラシックなんて古典を聞いていれば、気取ってるとか思われても仕方ないのかもしれない。けどオレはオレで理由があってクラシックが好きで、でもそれを上手く口に出して説明出来ないのがもどかしかった。
「大体それを言うなら加藤、お前だってオレに負けず劣らず違和感あるぞ。スポーツマンがヲタクって‥‥ステレオタイプのヲタクしか知らない奴からしてみれば仰天だろ?」
「そんなことはねぇさ、今じゃサブカルチャー‥‥ジャパニメーションはグローバルに広がってる。世界に受け入れられてるんだから、日本の中で広まらないわけはねぇよ」
「ま、慎一郎は元々アニメとか特撮とか大好きだったもんね。柔道の方が後なんだからスポーツマンやってる方がよっぽど違和感あるってば」
「違ぇねぇな」
ワハハハハと大きな声で笑う加藤はやけに目立っていた。
けれど周りの人から向けられる視線が日本での『迷惑な奴だなぁ』というそれではなく、純粋に驚いたもの、あるいは微笑ましいものなのが異国を感じさせる。
積極的に日本に比べて温かいわけではないんだろう。たぶん全てを比べれば日本だって暖かいし、おおらかで優しい。
「いいか村崎、大事なのは舞台を見て写真を撮って満足することじゃあないんだ。そんなぐらいだったら行かない方がマシだ」
「本当なら行く必要はないのかもしれないけど、私達は行った先で舞台を、登場人物を、空気を想像するのよ。
あぁここでああいう
「普通に作品を楽しむだけなら原作を何回でもやり直すだけで十分なのさ。でも俺たちはそれじゃあ足りねぇんだ」
「物語を見て楽しむだけじゃない。舞台を見て、知って、感じて、その材料を使って自分の中に登場人物達を、物語を“生き続けさせる”の。
物語を受け取るだけじゃなくて、自分達の中で生かすのが一流のファンよ」
「だから同人とかが存在してて、聖地巡礼ってのもあるわけだ。わかったかな、村崎君?」
熱っぽく語る二人には、情熱が溢れていた。多分、こういうのは俗にいう一般人達には理解出来ないことなんだろう。実際にオレも、少し引いている。
‥‥けれど、まぁ、理解出来ないことはない。その情熱が、間違っているなんて思えない。
実際に同じ物語に触れ、楽しみ、心動かされ、オレもここにいる。ならば、この思いの延長線上に二人がいるならば、オレも同じ道の上だ。
「なぁ想像してみろよ村崎、俺達は既に終わってしまった物語の舞台を見に行くんじゃあない」
「今、私達と一緒に生き続けてる、呼吸をしている物語の舞台に、物語そのものに行くのよ。
私達が憧れた、感動した、あの登場人物達と一緒に倫敦の街を歩くの。それってすごく素敵じゃない?」
興奮して迫ってくる二人に対して言葉もない。
もちろん完全には納得できないよ。なんだかんだでオレは二人に比べたら十分に一般人寄りの感性を持ち合わせているのだから。
けれど折角こうして二人に誘われてこの異国の地までやって来たのだ。ならば、最初に二人に誘われたのだから、最後まで付き合うのもまた一興。
‥‥多分、正確には他の連中と一緒に何処かへ行くことはないということを確信していたからだろう。オレは正直、あまり人付き合いが得意な方じゃなかったから。
———この時、何気なく口にした“最後まで”という言葉。
———これが本当にその言葉の通り、最後の最後まで一緒にいるはめになるとは。
———その時のオレも、今のオレも、そして俺も、全くもって気づいていなかったのだった。
86th act Fin.