side Saber Alta
閃く黄金の刃と、漆黒の刃。
踏みしめる大地は既に幾条もの抉れた跡を、あるいは鋭い劔痕を、はたまた擂鉢のように圧壊した痕跡を残し、もはやまともな踏み場を探す方が難しい。
刃や魔力は、土や岩など簡単に抉り、吹き飛ばす。まるで質量を持った暴風だ。我が腕が、我が腕に握った劔が巻き起こす暴虐は、実に心地よい陶酔感を私に齎してくれる。
「ハハッ、どうした
「———ッ!」
我が力を、我が腕を、我が劔を思う存分わがままに振るうことのどれほど気持ちの良いことか。
快感、などという簡単な言葉では表現しきれない。そこには蕩けてしまいそうな愉悦と胸が透くような爽快感、そして背筋に電撃が疾る程の背徳の悦びがあった。
人間はどうしても某かに縛られて生きなければならない生物だ。それは法であったり矜恃であったり、愚にもつかない他者への配慮であったり、道徳や遠慮であったりする。
しかし、その全てから解放されれば、これ程までに人間は自由でいられる! 言葉の上では分かりきっていたはずのことが、実際に体感してみれば想像を遥かに超える陶酔を私に齎した。
「そら、もっと腕に力を込めろッ!」
「が‥‥あ‥‥ッ?!」
両腕の力を存分に使い、思い切り体を捻って繰り出した一撃が白銀の鎧を纏った
その無様を見て、思わず零れる嗤い。自分と同じ顔が自分の手で傷つけられていく様は、不思議なぐらいに滑稽だった。
「‥‥あぁ、随分といい格好だな
「そのようなことが‥‥出来るものか‥‥!」
「
ワタシでは天地が逆転しても私の首を獲れん。それがどうして分からないのだ?」
「ぐ‥‥う‥‥!」
地に伏し、必死で立ち上がろうとする
せめてもの抵抗と睨みつける充血した瞳に宿った殺意が心地よい。まるで真夏の行軍の末に水浴びをした時のような爽快さだ。
「
さぁどうする
足の下の
鏡のように磨き上げられていた胸甲は罅割れ、砕け、潰れ、ひしゃげてしまって鎧としての用を為さない。重厚な
腰回りを保護する鎧など、既に大半が手甲と同じく崩れ落ちてしまっている。青いドレスは千々に破れ、隙間から見える素肌や下着は鮮血によって深紅に染まり果てる。もはや、そこにいるのは一人の敗残の騎士。
金細工のようだった髪の毛も、今は鮮血に彩られてくすんで見える。後頭部で結い上げていた髪も、いくらかほつれてしまっており無様さを助長する。
「どうした? 反論が出来ないようなら其の首、今この瞬間に撥ねさせて貰うぞ?」
ぴたりと真っ白な柔肌に聖剣を突き付ける。雪原のような白い肌は戦闘の興奮と運動によって流れるような汗をしとどに流し、潤っていた。
箱入りの、深窓の令嬢のように柔らかく、それでいて爪などの生半可な突起物では傷もつかないだろう強靭で張りのある肌だ。自分の、生気を失ったかのような白蝋の其れとは真反対だった。
僅かばかり刃を押し付けてみせたが、跡もつくまい。常なる人ならば触れることすら叶わないだろうものを踏みにじるのは、例え其れが私自身であったとしても愉悦である。
「それともこのまま頭を踏み潰されるのが好みか? 頭蓋を砕かれ、脳漿を撒き散らし、眼球を潰される無様を欲するか?」
少しだけ
好い。実に好い。
このままジリジリと頭蓋を圧迫してやれば
一息に踏み潰してやるのも面白い。その衝撃で脳漿は何処まで飛び散ることだろうか。飛び出た眼球を爪先で弄ばれるのは、
硬い鉄靴の底に当たる頭蓋骨の破片とへし折れた歯の残骸の感触を想像すると、今すぐにでもこの足を踏み下ろしてやりたくなる。
「抉り出した
「———ッ?!」
踏みつけた頭が、揺れる。
足に込められた力は先ほどまでと変わらない。第三魔法の一端によって不完全ながらも無限の魔力を供給されている私の膂力は目の前で無様に横たわる
だというのに、揺れる。力を込めた足に、確かに伝わる叛逆の意志を。
「———オ、オオ、オオオオオオオオオオッ!!!」
最初はか細く微かに、そして魂から絞り出すような咆吼に。
声そのものが力に変換されると信じているかのように、五臓六腑の力全てを咆声へと変え、
だが、本来ならば負け犬の遠吼えに過ぎない其れも、竜の咆吼ならば話は違う。その喉から口を通って出た咆声は魔力を帯び、力が籠もる。声を基点に全身へと魔力が迸り、魔力は本来ならば少女そのものである膂力を増幅し、沸き立たせる。
「‥‥驚いたな、そこまでの気力が残っていたか」
「貴様の、好きに、させるものかッ! 例え我が信念が揺らぐ時が来たとしても、それは貴様の為ではないッ!」
「それは、意地か」
「応!」
「‥‥情けないことだな、
構える聖剣の切っ先は小刻みに震え、吐息は荒い。
満身創痍と呼ぶに相応しい有様。本来ならば剣を構えるどころか立っていることも辛かろうに、何故かその瞳に湛えた闘志だけは最初に
乃ち敵は蹂躙されるばかりの子羊ではない。手負いの獅子は手強い。例え私自身が同じく獅子であったとしても。
「意地とは意志を貫き通すことだ。貫き通された意志とは、乃ち信念だ」
「言葉遊びだ、意味がない」
「意味はある! そこに私の思いがある!!」
動かぬ左手をそのままに、右手で構えた聖剣で突きを放つ騎士王。
血で滑る
少し離れた間合いを強引な魔力放出で一息に詰めてきた其の一突きが私の頬を掠める。油断したか? 否、油断の隙間のない余裕を
「往生際の悪いことだな、負け犬の分際で!」
「まだ‥‥負けてなどいないッ!」
躱されたと見てとるや、大きく足を踏み込んで回転。
足りない腕の力を回転による遠心力で補って、私の喉を狙うは黄金色の刃。
其処に在るのは消えぬ闘志と殺意。思わず、笑みが漏れる。
「‥‥悦いぞ、そうでなければな。蹂躙するのも心地良いが、そうでなくてはならぬ。
私と
「戯言をッ!」
鼻先を掠め、前髪を一筋掻っ攫っていった剣戟のお返しとばかりに、袈裟懸け一閃。
必勝の重みを乗せた斬撃を、しかし
近い間合いは片手が砕けているが故に膂力で劣る
其れはもはや正道の戦いではなく、しかし何よりも私達“らしい”。
正々堂々、魔力放出で得た膂力を以て真っ向から敵を斬り伏せるやり方は、実のところ正道なれど騎士道そのものではない。
戦場では騎士などという生き物は存在しない。其処に居るのは、一人の戦士。如何なる手段を以てしても敵を打倒する戦士なのだ。
それを
ならば、騎士王たる我らも戦場においては構えた聖剣のみを用いて戦うにあらず。我が名槍ロンゴミアント、短剣カルンナウェン、名馬ドゥン・スタリオン。全てを用いて、敵を打ち滅ぼす。
但し其処に背後からの騙し討ちは存在しない。それは私達が
「ならば
「逆に問おう、
「言ったではないか、間違いだったと! 理想を掲げ、正道を歩むだけでは騎士達はついてこないと! 常に他者を従わせるのは力だ! 力を以て王が権威を示さなければ、其れは乃ち王権の崩壊‥‥国の崩壊だと!
愚かな
理想を掲げながら、理想のための犠牲を謳いながら、
「———ッ!!」
踏み込む、と見せて蹴りこんできた鉄靴を頑丈な
黒く染まった聖剣の
本来は両手持ちで使用する聖剣を片手で使うことを強いられているがための変則的な攻撃。いや、決して間違ってはいない。むしろ戦場ではポピュラーな使い方と言える。が、
「己の意のままに振る舞う民草は決して為政者の思い通りには動かない。ならば! 力で無理やり動かす! そうしなければ政は成らぬ! 民草に平穏など訪れない!
それを何故拒んだ?! 理性で納得し、執行したつもりだったのか?! そんな程度では足りぬ!
‥‥綺麗事を謳う甘ちゃんめ、そんなことだからブリテンは滅びたのだ。圧倒的な力を振るう以外に、英雄の成すことなどない!」
堪らず上半身を逸らし、距離を取ろうと一歩後退すれば、そこは長大な聖剣の間合い。片腕ながら集中的に魔力によって強化を施した膂力にて万全の剣戟が鎧すら砕かんと振り下された。
だが、それもサクラによる、大聖杯による魔力の供給が十分な私との戦いにおいては拮抗こそすれ凌駕は到底不可能。十分に力を込めた黒の聖剣にて受け止める。
ギシリ、と刃が滑る音を置き去りに、追撃。しかし既に体を入れ替え足を組み換え、距離をとった
虚しく空を斬り裂いた刃は、そのまま其れを振るった持ち主に隙を齎す。長大な刀身の重みは如何に竜と等しき膂力を持つ私達といえども無視出来るものではないのだ。
強襲と待ちに徹し、先の先、後の先を十分に読み切った
「もどかしいと思う、耐えねばと思う、その思いこそが本物だった! 堪える必要も耐える必要もなかった! それが正しいのだから! 思うが儘に振るうが解だったのだ! そうすれば、ブリテンは滅びを迎えなかった!!」
例え鎧を刃が咬もうと、肉が削がれなければ欠片も気にならない。骨を断たれなければ戦闘に聊かの支障もない。
しかし我が刃は空を斬り、奴の刃は浅く私を捉える。
‥‥おかしい。どういうことだ。
いつの間にか膂力と体力、魔力、速さで勝っているはずの私が———
「‥‥ッ?!」
掠めるように振られた聖剣が、さして力の籠っていないはずの刃が、喉を防御するゴルゲットを弾き飛ばした。
この戦闘が始まって初めて感じる敗北への微かな恐怖。
背筋を走る緩やかな電撃。全身の骨を揺らす悪寒。心地のいい、生と死の狭間で剣舞に興じる感覚。
「何を、した‥‥?」
闘争には高揚と悦楽がある。そして苦痛と恐怖もまた同じようにある。
互いに傷つけ合い殺し合う。そこには確かに破滅的な快感があり、勝利への期待と敗北への恐怖を感じるからこその闘争だ。
だが、目の前に立つ死に体の獅子に、私を恐怖させる程のものがあるだろうか。
膂力、魔力、速さ、体力、損傷、全てにおいて私は
ただでさえ相手は片腕。ましてやマスターたる凛がサクラと戦闘中の今は、ほぼ無限の魔力を供給されている私に比べれば片肺を塞がれた状態に等しいはず。
道理に基づいて考えれば、私の勝利は必然。いくら一進一退の攻防を望むといっても、蹂躙を当然のものとしていたのは傲慢でも油断でもない、只の事実だった。
そう、只今さっきまでは。
「何をした
青眼に構えた黒い聖剣に一刀両断の気迫を込め、大きく振りかざして突進した。
渾身の真っ向唐竹割。綺麗に受け流された端から更に大きく一歩踏み込み、振り向きざまに魔力の霧すら纏って一薙ぎにするが、これもまた鎧に聖剣の腹を当てて左腕の代わりとし、受け止められる。
一切の遊び無く一閃二閃、数多の戦士達を斬り伏せてきた赤き竜の爪牙が、満身創痍の騎士一匹を仕留めきれない。
「———い」
「何?」
「———られない」
「何だ?」
「負 け ら れ な い の だ !」
まるで命を薪にくべるように渾身の魔力を一つ減った四体に回して、
片手とは思えぬ力が咬み合わさった聖剣から伝わってくる。其処には一点の曇りもない勝利への意志が、私を打倒するという意志が篭っている。
手負の獅子なんてものではない。手負いの竜だ。ブリテンを護る守護者、赤き竜の化身そのもの。叩きつけられる気迫、咆吼、殺気が濁流のように私を圧す。
「やっと、いつか征服王に言われたことが理解出来た。私自身に言われて、やっと
片腕の人間を、両腕で圧し放すことが出来ない。どうしても、出来ない。
歯を剥き出しにした表情は笑顔にも似ている。爛々と光り輝く瞳の中の決意には、聊かの迷いもなかった。
ただその光が、私には何より不可解な代物だったのだ。
「何を‥‥ッ!」
「
喉の皮が切り裂かれるのを物ともせず、体全体を使って私を突き飛ばす
負けてなどいない、劣ってなどいないはずなのに。何故か、圧される。
「そうだ、そうだ征服王、貴様の言うとおりだった。私の目は曇っていたらしい。自分自身を目の前にして漸く気づけた。
私は弱い。故に貴様のように全てを
「だが間違っていたではないか! ブリテンは滅びた! 我らのブリテンは!」
「そうだ! ブリテンは滅びた! 私は決して其れを許せぬ! ‥‥しかし確かに其処には思いがあった。貫いた信念が、徹した意志があった。
辛かった。苦しかった。全ての民と全ての騎士が国の滅びを嘆いて、其れを私は覆したかった。私自身が、誰よりも其れを許容出来なかった。
けれど、そうだ、其処には確かに栄光もあった、喜びもあった、誇りもあった。ならばそう、
笑顔は闘争本能の剥き出しだと言う。そして笑顔には、喜び、楽しみの感情と同等に哀しみ、苦しみの感情も込められていると言う。
流れるような滑らかな動きで斬りかかってくる
どれだけ今まで悩み続けていたことだろうか。それは他ならぬワタシのことだからこそ、私が誰よりも一番よく知っている。
そして目の前に立ち塞がった自分自身の言葉で気づく、自らの過ち。今まで目を逸らし続けていた、気づけなかった真実に気づいたのだろうか。しかも、自分自身の姿を目の当たりにすることで。
どれほどの苦痛だろうか、それは。自負心が、矜恃が、強ければ強い程に苦痛は強まることだろう。
気づけたからといって、吹っ切れるというわけではない。むしろ気づいてしまったが故に、どうしようもない苦しさが襲ってくる。人間とは、そういう生き物なのだ。
それらを客観的に、冷静に頭の片隅で思考しながらも、同じように私は吼えた。
「そんな、そんな戯言で何が解決するものか! そんなものは諦めだ! 何が変わった、その答で?! それが、そんなものが答だと曰うのか
供給される魔力の強大さに任せた剛力で流水の如く繰り出される聖剣を弾くと、そのまま渾身の力を込めて刃を振るう。
一振りだけの必勝の斬撃ではない。一度、二度、三度と繰り返される竜の爪牙。もちろん
戦いの主導権を取り戻したと見た私は更に
「違う、答など出ていない」
「なんだと‥‥!」
「だからこそ死ぬわけには、負けるわけにはいかないのだ!
黒い
だが
「黙‥‥れぇぇぇえええ!!!」
脳天をかち破ろうと振り下ろした刃が滑る。斜めに突き出された聖剣によって軌道を逸らされ、
ただ許せなかった。私が、私を生んだ
私は
私は
「‥‥もう、逃げられないのだ。私は向き合い続ける、答を探し続ける。どんなに辛くても、どんなに苦しくても、全てを受け入れられる答を見つけるまでは安易な終焉へと身を預けるわけにはいかない。
そうだろう、
突いた勢いそのままに互いにがっしと組み合った二つの影。
鼻と鼻が触れ合う程に近づいた
「———凛とシロウが、待っているのだ」
‥‥其処に、その一瞬に騎士王はいなかった。
まるで遠い昔に我が身と捨てた、一介の少女のような微笑み。いわば愛と形容される感情がそこにはあった。否、愛とは感情を超越した、概念だ。人間は愛で概念を具現化出来るのか。
それは私には、私達には生涯得られなかったもの。兄であるケイをして騎士王たる私にそれを感じさせることは出来なかったもの。役目に徹したギネヴィアでは互いに与えられなかったもの。
あゝそうか、私は羨ましかったのだ。
最初からそうだった、目の前の
騎士王としての生涯しか知らない私と、一時とはいえ友を、家族を得た
ただ、それに気づいてしまった。ならば———
「———ア、アア、アアア、アアアアアア!!!」
ならばこの身は、関門である。
もう私は亡霊でいい。アルトリアがこれから生きていくために乗り越えなければならない亡霊に過ぎなくて構わない。だからアルトリアよ、私を打ち負かせ。
もしお前が仮初めに得た未来に答を見出そうとするのならば、先ずは私を打ち負かさなければ適わない。
もはや憂いは互いに晴れた。
貴様は既に満身創痍。気迫で補おうとも、英霊たる我らの体であろうとも、その損傷は無視出来る域をとうの昔に超えている。
戦いの流れを左右していた言葉の応酬は今や不要。技量は同じ。これ以上戦いが長期に渡れば確実に
故に勝負は、次の一瞬で、決まる。
「———耐えてみせよ
全身から迸った魔力が両手でしっかと握り締めた黒い聖剣へと収束する。
ああは言ったが、片手が砕けた
しかし他は誓って一切の手を抜かぬ。サクラから送られる膨大な魔力の供給の殆ど全てを聖剣へ、我が
如何に竜の因子を持ち、生き汚い英霊と言えども此の一撃には耐えられまい。よしんば耐えた、避けたとしても、サクラの魔力ならばニ撃目に必要な時間も短い。
魔力の放出により自らの聖剣の間合いの外に弾き飛ばされた
「風よ、吼え上がれ! 『
黒い魔力の輝きは刃そのもの。触れれば斬り裂かれ、砕かれ、吹き飛ばされる魔力の風。
もはや圧縮された嵐に匹敵する力が、人間には到底出し得ぬ力が
「———ッ?!」
手応え、あり。
だが黒い刃に斬り裂かれ、吹き飛ばされたのは真っ二つに割れた
「———礼を言おう、お陰様で身が軽くなった」
「
「
比喩ではなく、
まるで円卓の騎士達の投槍もかくや、否、疾風か雷光のような目にも留まらぬ加速と突進。
刹那の内に踏み込み、脇に構えた聖剣は私の心の臓を貫くことだろう。だが、まだだ。
振り切った刃は魔力の風。乃ち本質的に実体はなく、それ自体と同じ長さの刃を実際に振るっているわけではない。
まだだ、まだ終わっていない。全身の魔力を、そして続けてサクラから供給される魔力の全てを注ぎ込み、再び目の前に迫る
刃を返した、その瞬間だった。
「———これは、サクラ! まさか?!」
闇の放つ光という、矛盾した光源によって支配された大空洞を満たす虹色の光。
背後から私の背を叩く圧倒的な魔力の嵐。呪いも憎しみも、何もかも吹き飛ばす煌めく光は、我らの振るう『
その輝きに飲まれ、サクラからの魔力供給が———途絶えた。
「おおおおおおお———ッ!!」
「———ッ!」
ガシャリ、ズブリ。
私の身体から聞こえてくる、硬いものを貫く音と柔らかい物を引き裂く音。
ひんやりとした感触が胸の中にある。冷たい水を飲み干した時のような、あるいは戦慄が走った時や驚いた時のようなひんやりとした感触がする。
「———ハ、ハハ」
それがどうにも可笑しくて声を漏らすと、胸の中は驚く程に冷たいというのに、灼熱のような液体が込み上げて来る。
軽く噎せ混んで吐き出せば、それは今まで見たことがないくらいに鮮やかな赤い液体であった。
ああ、いや、そんなことはない。過去に幾度も見てきた赤色だ。
怪我をした時でもなく、怒りに燃えたり悲しみに暮れたりした時でもなく、人が死ぬ時に流す血の色だ。
「負けるか、この
「そうだ、私の勝ちだ
「ハ、ハハ、ハハハハ‥‥!」
愉快だった。戦いの興奮とは違う高揚が私の胸の内に去来していた。
悪くない。決して悪くはない。妥協せず、油断せず、慢心せず、私は私の思いをぶつけたし、
もちろん決して互いを許せなどしない。許容など出来ない。肯定など以ての他。だが、これもまた
死闘の末、思いのぶつかり合いの末にこの結末があるとするならば、それは立派な幕引きである。役者は十分に、舞台を楽しんだ。
「なぁ
ただ貴い思いを胸に剣を執り、私達は王となったはずだった。
しかしその実どうだ、その生涯は常に無念というどうしようもない感情と一緒にあったと言っても決して過言ではない。
何もかもが無念に彩られていた。あの時代、敵対する者達も気持ちのいい連中ばかりで、倒せば其処に無念はあった。大勢のために村一つを犠牲にする決断をした前も後も無念だらけだ。挙句の果てには
その全てが無念だったからこそ、許せなかったからこそ、英霊になったのだ。始めは間違いなどではなかったはずなのに、いつの間にか無念が澱のように身の内に溜まっていって、真っ黒になってしまったのが私だ。私達だ。
「だから
視界が霞む。
あの湖の畔で息絶えようとしていた私は世界と契約して英霊となり、そして無念の内に英霊としての存在を過ごしていた私から、私は生まれた。
いつか世界と契約した存在ではなく、正真正銘の英霊として生まれる
嗚呼、しかし、もしも叶うものならば———
「また、戻りたいものだ。あのログレスの広野を駆けた頃に———」
国を救うだの過ちを正すだの、そんなことでは決してなく。
また思うが儘に剣を振るい、
思いのままに生きられるのならば、それはどんなに楽しいことだろうか。それはどんなに、輝いた生だったことだろ
うか。
そんな幸せな夢を見られるのならば‥‥それはとても、幸せなことだろう———
◆
倫敦滞在の時間は、帰る段になって振り返ってみれば驚くほどの速さで過ぎていった。
ツアーというわけでもあるまいし、時間の使い方は個々人の思う通りだと油断していたらしい。それなりにのんびりと外国での短いながらも有意義な生活を楽しもうと思っていた連中も、気が付いてみれば興奮に任せて倫敦の街中を東奔西走していたようだ。
実際、須藤や五島の言う通り、倫敦という街は観光地として極上のスポットであるに違いない。なにせ見るべき場所は両の手の指では数えきれないぐらいにあるし、首都であるからか普段の生活の利便性も東京に負けず劣らずといった感覚だ。
強いて言うなら物価の高さには辟易したけれど、海外旅行の最中だとあまり気にならないものらしい。この日のために貯金をしていたらしい皆は結構な勢いで散財していて、それを呆れたように見ていたオレもなんだかんだで多めに見積もっていた予算は殆どなくなっていた。
外国旅行、というのはやはり特別なものだろう。
国内の旅行だと自分から楽しんでいく、ということをしなければならない。日本という土壌の中に観光客であるオレ達が適応しているから、そこにゆとりと余裕が生まれる。
だから観光にプラスして、能動的に求めていかないと満足感を得られないのだ。日本でのツアー旅行はメジャーなわりにあまり人気がないのはこれに影響しているのだろう。安価なツアーや、目玉商品がないと客はついてこない。まぁ、人にもよるらしいけれど。
その分、海外旅行っていうのは異色なものらしい。なにせ英語ぺらぺら外国語楽勝な人間ならともかく、普通の旅行客っていうのは最低限の英語ぐらいしか喋れないし、ひどい場合はちっとも意思疎通が出来ないなんてことがザラらしい。
だからツアーが安心と言われるのだろう。入ってくる情報を処理するので精一杯で、自分から何かを楽しもうと工夫する余地がない。だからこそ興奮に素直に身を任せることが出来て、楽しい。
「おーい村崎ぃ、何のんびりしてやがんだ? もうそろそろ出国ゲートにいかないと間に合わねぇぞ?」
「あぁ悪い加藤、すぐに行く」
再びのヒースロー空港である。
行きも帰りも人混みの凄まじさは変わらない。やっぱり倫敦は影響力が低下したと言われる現代でも十分に情報や人の集積地点らしい。
その人波の中でオレたち日本の高校生達は、それぞれ満足した雰囲気を出しながらまったりと話したり、写真をとったり、あるいは売店を漁っていたりしていた。
各自、倫敦での日々を満喫し終わり、後は無事に日本へと帰るだけ。もちろん興奮は冷めやらないけれど、十分に満足した素晴らしい旅行だった、と思う。
実のところたいしたことはしていないんだけどね。各々行きたいところを宣言して、被った連中が着いていく。そして観たいものを観て、驚き、感動して、買いたい物を買って楽しんだ。
「それにしてもアッーという間に過ぎちまったなぁ。もうちょっとのんびり出来るかと思ったんだが」
「一番はしゃいでたのは貴様だろう、五島よ」
「おいコラ須藤、人を世界遺産巡りに引っ張ってきやがって、眼福眼福言ってたのは何処のどちら様だっての。おかげさまでカワイイ女の子に声もかけらんなかったっつの」
「‥‥五島、貴様英語が出来たのか?」
「‥‥いや、そりゃおまえ、出来ないけどよ‥‥」
加藤と逢坂は最初に色々言っていたけれど、オレがさっき心の中で呟いていたように、実際は色々と考える隙間なんて存在しなかった。
とかく倫敦は見る場所が多すぎる。海外旅行について少し話したけれど、それと全く同じ現象に陥っていたのは不思議な可笑しさがあるだろう。
正直、主体性というものに欠けると自己分析出来る性格のオレだというのに、この旅行中はずっと興奮しまくりだった。加藤が騒ぎまくり、逢坂と夫婦喧嘩を始め、それにオレがツッコミを入れるという旅行に来てからのパターンが、さらに激しくなったように思える。
二人がごちゃごちゃ言っていたことについて考える余裕はなかった。というか二人も考えていたのか定かではない。そのぐらいの興奮具合で、とにかく見るものを見て楽しむものを楽しんだ。それで精一杯だった。満足したと言えるかもしれないけれど。
「———ハッ、そういや聖地巡礼出来てないじゃないか?!」
「今頃気づいたのか加藤。ていうか大英博物館には行ったじゃないか」
「行ったけど、行ったけどさぁ! なんかガイドさんの話を解読するだけで精一杯でさぁッ?!」
「‥‥あのガイドさんの英語、半分も分からなかったんだけど」
「安心してくれ逢坂、オレもだよ」
原作において時計塔の所在地になっている大英博物館には行った。けれど確かに加藤の言うとおり、聖地巡礼云々の余計なことを考えながら楽しめたかと言えば、無理だったことだろう。
なにせ日本人のツアーに紛れ込めば日本語のガイドがついたことだろうけれど、残念なことにノープランで大英博物館に行った俺たちはがっつり英語のガイドさんについていくしかなく、当然ながら言っていることの半分も分からない。
ガイドさんの方もあからさまに日本人なオレ達に配慮したのか、かなり分かり易く喋ってくれているつもりだったんだろうけど‥‥如何せん人種の壁は分厚かった。
単語だけなら苛烈な受験戦争と暗記競争を生き抜いてきているジャパニーズ高校生にはそこまでツライ関門でもない。ただ、発音の違いだけはどうにもならないのだ。
何言ってるのか分からないっていうのはマジで文字通りの意味なのである。単語が分からないなら意味が分からないと言うわけで、何言ってるのか分からないというのはマジで聞き取れないことである。
いやぁ、それなりにリスニングの授業を受けてるというのに殆ど分からないのはそれなり以上に落ち込んだ。高校の勉強なんてものはクソの益にも立たないらしい。
「まぁ楽しかったんだからいいじゃない。海外旅行なんて高校生の身分じゃ早々出来ないでしょ?」
「そりゃそうだけどさ。‥‥素直に受け止めるべきか。写真もたくさん撮ったし土産も買ったし」
「クラスの連中に配って、親に配って、これぐらいで足りるかね? 先生方にも配らないと対面悪いよなぁ?」
「これだけあれば万全であろう。というより、情けなくもこれ以上の予算がないと正直に言うべきか‥‥」
「え、いや、だってお前そりゃ、やっぱり金使いすぎたし」
きまりの悪そうに口ごもる五島は目に映る食べ物を片っ端から買い漁っては食べ、あるいは土産にとホテルに持ち帰っていた。
加藤が武道家ならば、五島はアスリート。しかも乱暴かつ軽い性格ながら常に鍛錬を欠かさないが故にかなりの大食いだった。食べた分だけ体力に変えると普段から豪語するだけある。
もっともそれが原因で持ち金が尽き、最後の方などは仲間から借りていたのだから世話はない。なんだかんだ気持ちの良い奴だから借りた分はしっかりと礼までつけて返すことだろう。
「しかし五島、貴様は食い物以外の土産は買わなかったのか? 逢坂や他の女子などはネックレスやら何やら随分と出店で買っていたようだが」
「男がそんなもん買ってどうすんだよ。ホラ、みんな揃いでキーホルダーを一つ買ったじゃねぇか。それで十分だよ」
コペントガーデンの出店で買った、お揃いのキーホルダーを五島が弄ぶ。
色とりどりに染色された麻紐のようなもので出自不明、正体不明の何種類かの鉱石を編み込んだシンプルなものだ。どちらかというとイギリスらしい、というよりは何処ぞの民芸品のようだった。
少しずつ色の違う淡い石は控えめな装飾で、男子にも女子にも似合いそうだ。実際、これを見つけ出した加藤と逢坂のセンスはかなり良いと思う。
携帯に付けても良し、鞄に付けても良し、財布に付けても良し。実際もう全員が各々好みの場所に揃いのキーホルダーを付けていた。
「さぁもう行こうぜ、名残惜しいのは分かるが時間だ」
もう飛行機が出発する時間である。既に荷物を預けておいたオレ達は、軽装のまま飛行機へと乗り込んだ。
またもや始まる長い空の旅である。
行きは興奮があったからか他の乗客の邪魔にならないようにしながらも賑やかに喋っていたけれど、帰りはおそらく疲れて眠りこけてしまうことだろう。
あまり広くないエコノミーシートに腰掛けながら、オレ達は尽きぬ思い出話を語り合った。いくつかのグループに分かれて別行動をしていたのだ。倫敦にいる最中は本当に忙しくあちらこちらを走り回っていたから、やっとこさ他の連中の話を聞けるのだ。
加藤が馬鹿をやった、逢坂が馬鹿をやった、そもそも五島は馬鹿そのものだったなど、最後は多少ならず須藤の私情に塗れた話だったろうけれど、楽しく話し尽くした。
「‥‥?」
「どうした、村崎?」
「いや、今なんか不審な振動があったような気がしたんだけど‥‥なんだろうと思って」
「どうせタイヤが小石でも踏みつけたんだろ? そんなことよりさ、この緊急事態のガイドをcv若本で読み上げる大会やろうぜ」
「‥‥なぁにを言っているんだぁ加藤ぅ」
「あ、意外にノルんだ、お前」
そうこうしている内に、ゆっくりと飛行機は動き出す。
ぐるりと飛行場を回り、出発滑走路へ。そして加速して空へと飛び出した。
空を飛ぶという非人間的な行為に思わず体、五感、神経が緊張する。飛行機の振動全てが自分の手足で地面を、空気をなぞり、嵐の空を駆け上るイメージ。
その中に感じた少しの違和感に過度にビクビクしてしまうけど、そんなオレを加藤は軽快に笑い飛ばした。確かに気にし過ぎと言えば間違いなく気にし過ぎで、ちょっとナーバスになっていたのかもしれない。
毎月のように飛行機に運ばれている俺とはいえ‥‥あれ、おかしいぞ、オレはこれが飛行機に乗るのは二回目のはず———
「———いや加藤やっぱりおかしい! 加速が安定しない!」
「何ぃッ?!」
グングンと空へと上がる等加速のはずが、機体がスピードに乗っていない。
乃ち不十分な加速は不十分な飛行、そして不十分な滑空と不十分な降下を意味する。
いったい何があったのか俺にも分からない。しかし必要以上に焦るオレの様子を見て血相を変えた加藤も隣の逢坂も、早くも寝る姿勢に入った須藤も機内食のパンフレットを眺める五島も他のクラスメートも。
自分達に待つ未来が何なのかは直ぐに知ることになる。
『———Attention please, this plane has problem now! Set your seatbelt and keep your body to inmact———』
気持ちの良い滑空の感覚に背筋も凍る不安定な悪寒が疾る。
明らかな異常。それも命に危険を覚えるレベルの。機内が、騒然とした。
「なんだこりゃ?! おいこら須藤さっさと起きろ! 五秒で寝付くんじゃねぇ!!」
「め、面妖な! 一体何事なのだ?!」
「俺に分かるかよッ! とにかくシートにしっかり背中付けて歯ァ食いしばれ!」
不安定に上昇と下降を繰り返す機体。今まで安心して体を委ねていた飛行機が突然に壁も椅子も何もないジェットコースターに乗っている気分になる。
殆ど変わらない。このジェットコースターには何百人も乗っていて、普通のジェットコースターを遙かに凌ぐ鉄の塊で、上がり始めだったにしても高度は数百メートルを超え、おそらくこのまま落ちればオレ達は間違いなく、死ぬ。
「ちょ、ちょっと慎一郎どうすればいいの?!」
「落ち着け湊! 五島が言った通りだ! ショックに備えてシートにしっかり背中を預けろ!」
少し降下する、なんてものじゃない。この不安定な揺れは、どう考えても致命的な何かが飛行機に起きたことを意味している。
意外に冷静で緊急時のイロハを知っているらしい五島の指示で、全員がシートに背中を預けて耐ショック姿勢をとった。もう誰もがこのまま無事に飛行機の故障が直り、空の旅に戻れるとは思っていなかった。最悪の事態が、一番可能性の高い事態だと分かってしまっていた。
生半可な希望も楽観も出来ない状況に、全員の顔が歪んでいた。あの気の強い逢坂ですら懸命に歯を食いしばって、恐怖に怯えた瞳で前を睨みつけている。
歯を剥き出しにして怒りにも似た表情をしている五島。目をつむり、念仏を唱える須藤。そしてこちらを心配そうに見る加藤。
多分、ある瞬間に全員が全員、覚悟を決めた。
それは死ぬ、ということを許容するという意味ではなく、ただ死が迫っているという事態を確かめるということである。
だから完全に飛行機がグラリと揺れて墜落しようとした時に感じたのは、ああやっぱり、という悲痛な確信だった。
激しいGと、続いておそった未だかつて体験したこともないような衝撃。
それらによって脳から意識を吹き飛ばされる直前に去来した感覚は、意識と一緒に、何か自分の核のようなものが自分の体から離れていく。
そんな不思議な、感触だった———
87th act Fin.
改訂版の執筆を優先するつもりでしたが、ちょっと悩んでます。
リアルが忙しいので色々と遅れそうですが、なんとか書いていくつもりですので、どうぞ宜しくお願いします。