お止めくださいエスデス様!   作:絶対特権

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執着を突く

エスデスはその日、白い喪服に身を包んでいた。

いつもの露出の多い服装ではなく、無改造の式服。

 

猛獣のような活発さも溌剌とした英気も完全に白に沈み、色を喪う。

 

いつもどこかに獰猛なものを含む彼女らしさは欠片もないが、その憂色の淑やかさはまた彼女の中で何かが変わったことを表していた。

 

「……弱かった」

 

やけに虚しく、味気なく感じる世界でポツリとそう呟く。

群衆も何もかもが視界に入らず、あるのは黒ずんだ茶色の棺だけだった。

 

「ハクも弱かった。それだけだ」

 

そう言った瞬間、胸が張り裂けるように痛む。

それが肉体に負った傷ならば、笑って自分に一太刀浴びせた敵の腕を讃え、戦い続けられた。

 

なのに、この傷の痛みは治まらない。立てないほどに、強く痛む。

 

「ハク、痛い」

 

キュッ、と。その名前を口に出した瞬間にまた疼いた。

 

どうしようもなく、喪った者が大きすぎる。

 

「何とかしろ」

 

いつもなら、側にいてくれた。

自分が無茶を言っても、嫉妬に任せて理不尽な振る舞いをしても、だらしなくても、世界の全てが敵に回っても黙って側に居てくれそうだと、そんなことを思っていた。

 

「……痛いんだ」

 

今は、居ない。もう、世界のどこにも居ない。

自分の声が何の応えも齎さずに虚しく響く。

とてつもない虚しさは大切な何かを喪い、空になった内に反響していた。

 

「お前の所為だぞ」

 

必死に痛みを堪えて、立ち上がる。その何気ない一動作だけで視界が暗く染まりそうな程に辛く、苦しかった。

 

棺から背を向けるのが、怖い。彼を見失うことが、怖い。

 

他の二人とは違って屍すら遺らなかった愛しき人の棺を再び見て、喪失に啼く空いた心に憎悪が満ちる。

 

憎悪と、虚無感。もう二度と笑えないであろう自分を噛み締めながらもう一度繰り返し呟き、身を翻した。

 

これからは、ただ殺す。愉しみもせず、悦びもせず。虫でも殺すかのように踏み潰す。

 

暗い感情に閉ざされようとした心に、一筋の光が差し込んだ。

 

「それはどうでしょうか」

 

閉じようとした心が開かれ、聞き覚えのある平坦な声が耳朶を打つ。

視界に入るのは、血の気のない蒼白の肌。

形容するならば、幽鬼のような。

 

「……ハク?」

 

「如何にも。朝帰りではありますが、少しばかり誤解されているような気がしたので参上した次第です」

 

エスデスは文字通り目の前が真っ暗になっている状態だったのでわからなかったが、ハクと現在は空気を読んで席を外している従者二人も一応その葬儀には参加していた。

 

エスデスの前に律儀に線香を上げて手を打ち、瞑目してから静かに立ち去る。そんな一般的な礼節が崩されるほどに、彼女の挙措は哀しいほどに美しかったのである。

 

「見事な挙措でした。群衆もあなたに眼が釘付けにされていましたよ」

 

彼女はもう本当に何も見えていなかったから気づかないのだから仕方がないが、葬儀でとった礼と挙措の淑やかさは限りがなかった。

 

喪った悲哀と白い喪服が絶妙に合わさり、群衆が彼女へ向けた畏敬と同情の念は計り知れないものがある。

 

計算ではなく、心胆から発して哀しみが民の心を打ったと言ってよかった。

 

「お嬢?」

 

黙りこくり、縋るように袖の裾を握り締める。

 

怒るかキレるかの選択肢でしかないであろうと思っていたハクにとって、これはかなり意外な反応だった。

 

「……黙って、そのまま。後、鎧を解除しろ」

 

復活した硬い鎧が、血の通った温もりを遮っている。

そのお陰で傷の殆どが癒え、瀕死から少し具合が悪い程度の体調にしてくれのがこの鎧だとは言っても、今ばかりは邪魔だった。

 

無言で頷き、光と共に鎧が消えた。

その瞬間にふわりと白い喪服と黒い軍服が重なる。

 

群衆が一種幻想的なまでの美しさの魅了から解き放たれ、我に返った。

 

「……もう」

 

少し濡れたような声と、震える身体。

エスデスはいつになく自らの弱々しさを露出させていることに、自分ですら気づいていない。

 

虚しさを復讐心が満たし、その昏さに光が差した。差した光に素の自分が照らされ、剥き出しになってしまっていたのである。

 

「どこにも、いかないで……」

 

突き刺さるような、懇願。

 

恐怖を知らないが故に、彼女は凄まじく強かった。その恐怖の知らなさは弱点が無いと言ってもよいであろう。

 

だが、恐怖を自覚してしまった。

他者を喪うことの恐怖が光が差した後の心を満たし、弱みを作ってしまったのである。

 

今や最強の戦士であるという強者の誇りとも言える殻は恐怖に剥かれ、生の女の部分が顔を出してしまっていた。

 

「……一緒に居て」

 

甘えるのではなく親に縋る子のようにしがみつく彼女に戸惑いを抱き、ハクは柄にもなく少し慌てながらエスデスの細い手首を掴み、宮殿へと歩む。

 

「お嬢、場所が悪い」

 

群衆からの痛い視線から守るように盾となりつつ、手首を掴まれながらも何の抵抗も示さない彼女を訝しみ、彼はやっとこさ宮殿内の私室へと辿り着いた。

 

あくまでも自分が主導権を握るのだ、というこだわりのあったエスデスとは思えないほどのおとなしさに少し瞠目し、一先ず彼女を抱きしめる。

 

何となくだが、そうした方がいいと彼女のすべてが思わせた。と言うよりは彼にそう思わせてしまう程、今の彼女は壊れやすそうに見えていたのである。

 

「帰還、お待たせいたしました。誠に申し訳なく思っております」

 

まず彼は、謝った。それほどに彼女は疲れ切り、悲しんでいた。

色気より強烈な何かを男に直接的に訴えるような妖しさが、今の彼女には備わっている。

 

「いい」

 

何かが変わったことを如実に表すような、一言だった。

 

思わずはっとしてしまうような濡れた眼差しが彼を射竦め、竦んだ彼の頸にほっそりとした腕が力なく巻かれる。

 

「……一緒に居てくれ。頼むから」

 

「それは、無論のことです」

 

哀しさを感じさせるような痛切な懇願を聞き、ハクは彼女となるべく向かい合うように距離を取ろうとして、止まった。

 

目の前に、長い睫毛がある。きめ細かな肌も、あった。

 

「……無論なら、こんな寂しい思いをさせるな」

 

身体が糸の切れた人形のように前に倒れ、完全に普段とは異なる彼女の様子に気を呑まれていたハクを容易く押し倒す。

 

何となくだが、彼女は普段の英気のようなものが戻りつつあった。

 

「私を、温めろ」

 

わかるだろう、と。その濡れた目が語りかける。

 

「それは、あなたの副官としてですか?」

 

「女を淋しさに叩き込んだんだ。男がすることはひとつだろう」

 

淑やかさと、艶美までの妖しい魅力。並の男でも、それ以上でも、その注意の全てを吸い付けるような女が、そこには居た。

 

あくまでも、女なのだ。彼女は自分を異性として慕ってくれている。

 

悪い気はしないが、普段の色気も何もない頼りっぷりからの差から生じる戸惑いの方が勝った。

 

無論、嬉しいと言う感情が彼の中にもある。しかし、彼女が求める男と言う役柄になりきれないと言うのも事実だった。

 

「嫌なら、いい」

 

「…………嫌では、ありません」

 

微妙に着崩れた喪服が艶めかしい。元々魅力的な容姿が、艶のようなものを帯びている。

 

女というものをてんで知らない彼にも、女性的魅力はなんたるかというものはわかった。

そして目の前に居る雛のように守り、育んできた女性がそれをふんだんに備えているということも、わかる。

 

彼は馬鹿ではない。彼女がどれほどの覚悟を以って切り出したのかもわかっているし、彼女が自分を攻めあぐねていることもわかっていた。

 

未知に対して臆病な一面を持つ彼女が相手から手を出してもらおうとして、せっせせっせと誘惑していることもわかっている。

 

だが、武に生きてきた彼に色事をどう決裁すればいいのかわからないのが最大の問題だった。

 

「私は、副官です。それ以上になれるとも思えませんし、なろうとも考えたことがありません。何故私なのですか?」

 

彼はここで、遂に疑問を投げ掛ける。

 

「私に色事は向いていない。私にはあなたの意図が掴めない」

 

槍なのだ。彼女に生きる意味を与得られたその日から、彼は人ではなくなった。

 

常に半歩、前へ。

誰よりも、速く。

 

彼は今もなおこの二つの柱の忠実な履行者で有り続けている。

 

ただ一本の槍として仕え、使われ、折れたならば打ち捨てればいい。それが彼の彼女に対する想いだった。

愛しては、いる。だがそれは、対価を求める愛ではない。一方的な、恩義を資本にした見返りの要らない愛だった。

 

「私は槍だ。私にはあなたの欲するところがわからない。戦士としてならば、最上の武技を以ってあなたに応えるが、こればっかりはどうしようもない。あなたに執着はありますが、物に恋愛はできないのです」

 

「……なら、理解せずともいい。取り敢えず私を抱いてみろ」

 

内面的に一度死んだが故の執着の無さと、天性の無欲さが変に混ざってややこしいことになっている。

さっさとそのことを見抜いた彼女は、すぐさま腹を括った。

 

もうこれは荒療治しか仕方ないのだ、と。

 

「何故ですか」

 

「抱けば私はお前の物だ。私に対する執着が僅かでもあるなら、無理矢理にでも深めてやる」

 

―――嫌ではないのだろう?

 

挑発するような声音には、やはり少しの恐怖が孕んでいる。

断られることに対する恐怖、のような。

 

「……では、そうしましょう。どうすればいいのですか?」

 

「…………私もわからんが、何だ。本能のままにいけば何とかなるのではないか?」

 

始まる前から、前途多難であった。


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