お止めくださいエスデス様! 作:絶対特権
幸福を突く
「エスデス」
「何だ、ハク」
お嬢ではなく、恋人として隣に立つ男として。ハクは腕の中にすっぽり入った蒼銀の女性の名を呼んだ。
透き通るような白い肌は名を呼ばれる喜びに上気し、華が綻ぶかのような笑みが浮かぶ。
名は、符牒。その人間の魂に根付いた一つの呼び方であると言ってよかった。
その呼び方は主に自分では使わず、他者によって使われる。
故にその符牒の呼び方の変化には、呼ぶ者と呼ばれる者という両者の双方の関係の変化が如実に表れていた。
「いつ族長には挨拶に向かう?」
「へ?」
馬鹿みたいに真面目な、つまりは冗談などは到底吐きそうにない口がエスデスの予想外の敬語の外れた言葉を吐く。
正直、彼女が求めているのは容姿を褒めるような言葉だったり、内面を褒める言葉だったり、その読み難い心情を解せるほどの詳細な感想だったりであって、断じて父親への挨拶ではなかった。
「私は貴女を抱いた。名を呼ぶことにもした。それはつまり貴方を妻として迎えても良いということではないのか?」
「……ま、まだ早いような、気も、するんだが」
透き通るような肌にさっと朱が差し、その気持ちの昂りを示す。
迂遠にとは言え、抱いたのだから妻として嫁に来いと告白されて鉄面皮を保てるほど、彼女の精神力は強くはなかった。
「……本当に、私でいいのか?」
「でなければ二度も抱かないだろう。遊びではないのだからな」
またしても、時は朝。まだ少し痛みの残る一昨日は飛ばし、健常になった昨日に、エスデスはまたしてもそれとなく誘っていたのである。
「私の認識違いであるならば、率直に言ってほしい。貴女は普段は率直に過ぎるが、色事においては婉曲が過ぎる」
「お前が率直過ぎるだけだ」
どこに大臣にからかい気味に『お二人、最近は中々にお熱いようですな。熱いとは温度のことではなく、関係性のことですが』と言われて『それは当然だ。嘗ては主従、今では相思相愛になるべく互いを理解し合っている最中なのだからな。それは見ていて熱くもなろう』と返して黙らせる男が居るのか。
と言うより寧ろ、オネストと言う政界の巨人を一言で黙らせることのできる彼が異常だった。
「私は恥ずかしかったぞ……」
そして、ニヤニヤ見つめながら無言で肩を叩いてきた大臣がこの上なくムカつく顔をしていて、二重に赤面する羽目にもなっている。
エスデスの私情がかなり混ざったもう少し婉曲にしろと言わんばかりの発言に、ハクは手を翳して待ったをかけた。
「……貴女は隣に立つに相応しい者として私を選んだのではないのか?」
「そうだ」
「ならば恥じる必要はないだろう。それとも、相応しいと言うのは嘘か?」
つまり、恥ずかしいというのは隣に居る男が自分を彩る装飾品として相応しくないと思い、それを恥じる事によって生まれる感情であると、彼は思っている。
確かにそれはそうだ。だが、この場合は意味合いが違う。
「……恥じてはいない。恥ずかしいんだ。似て、非なる感情だ」
「どう違う」
それは、とだけ言ってエスデスは少し黙り込んだ。感覚的に理解している『暗黙の内に共通認識となった言葉や表現』を、更に口語訳するのは非常に難しいのである。
「無様やなさけない様を晒すのが恥で、内を晒されるのが恥ずかしい、だ。我ながら巧いな、これは」
「……なるほど。では貴女は私の前では恥を積み重ねているが為に、それを口に出されると恥ずかしい、と。そういうことですか?」
確かにだだ甘な彼女はなさけない。いつもの氷のような美貌は蕩け、好きな男から与えられる幸せという感情と優しさ、節々に感じられる愛に溺れ切っているのが、今の彼女だった。
その耽溺具合はもう、埋没しているとさえ言える。
「………………」
正に墓穴を掘るとはこのとこだ、と。そう気づいた時にはすべてが遅かった。
「そう言うことですか?」
「……私は!」
駄目押しの的確なタイミングにドSの素質と自分との共通項になりうる匂いを敏感に嗅ぎ取りながら、エスデスは取り敢えず怒鳴ってみる。
他人を黙らせたり、注目を集めるには、大声。古来より続く法則であった。
「私はお前に甘える自分を恥ずかしいと思ったことは一度もない。甘えたいから甘えたいんだ。そこにあるのは欲望だけだ。私はお前にずーっと甘えていたい」
自分の発言を顧みたらおそらく彼女は悶死するであろう。それほどに赤裸々な告白だった。
ハクはこのある意味予想通りである意味予想外な――――方向性としては予想通りで直接性からすれば予想外な――――を受けて少し笑い、エスデスの頭を優しく撫でる。
温かみに盈ちている細い腰を抱き寄せると、彼の胸板にあたっていた豊かな胸が柔らかに形を変えた。
「私も貴女と共に在りたいと思っていますよ」
「うん……」
一昨日までは考えられないほどに熱烈な求愛にうっとりとしたエスデスは、完全に身体から力を抜く。
これ以上ないほどに無防備で、その信頼の程を表すかのような姿勢だった。
「ところで。今日は非番でしょう。私は一向に構いませんが、室内でだらだらとしているだけでいいので―――」
しょうか?。そう続けようとした唇が前に自分がやったことを塗り替えすように、一本の指に塞がれる。
「前もだが、敬語はいらん」
「わかっている。が、慣れないものでな」
出会った時からほぼ敬語で突き通してきただけに、敬語に対する慣れというものが僅かな違和感を生んでいた。
「エスデス、と。呼べ」
「エスデス」
限りない愛と信頼を込めて、熱い体温を冷ますようにひやりとした額を彼女の額に当てながら、彼はその名を呼ぶ。
「質問に答えてほしい」
「……あ、ああ。挨拶か」
近づいた鷹のような鋭さを持つ黒眼に魅せられ、エスデスは少し吃った。
同じ恋愛経験零同士でも、何故か彼女が先に立って遊べない理由がそこにはある。
何というか、天然ながら急所をついていくのだ。彼女にある攻められれば少し怯み、咄嗟に出てしまう恥じらいがないのも勿論あるであろうが、それにしても狙っているが如く的確である。
「挨拶は、何だ。私を娶る……ということを決めたというように取るぞ?」
「無論、こちらも娶りたいからそう言っている。そして、今日の非番を利用して行きませんか、とも言っている」
率直過ぎる言葉に再び硬直したエスデスの様子をまだ不十分にしか伝わっていないが故の膠着と誤解したのか、ハクは抱き寄せた彼女の肩を持ち引き離した。
視線の先まっすぐに鷹の目があり、彼からすれば海のような色を湛える蒼玉がある。
「何も求めん。その軍服のまま嫁に来い」
今となっては何の変化も強いない。戦争道楽も、狩りも、拷問も。好きなだけやるといい。
その表現のあらわれが彼からすれば『軍服のまま』であった。
自分がそう言われたならば直訳するくせして、自分が言う時は中々に詩的な語を好むのが、如何にも彼らしいと言える。
「―――は、い」
絞り出すように、鷹の目から逃げるように、彼女はか細い声でそう応えた。
本当ならば、今すぐ抱きつきたい。抱きついて、嬉しさを表したい。
身体が思い通りにならない経験は、これで何度になるだろう。彼女は感じる幸福が上限を超すともう何もできなくなる質らしかった。
「―――と、言いたいのだが」
「へ?」
割りと目の前の男のいいように使われている華奢な身体が再び彼の意志で膝に乗り、長い髪が腹から背へと流れ落ちる。
「止められた。大臣に」
急転直下、奈落の底。夢の実現から一気に振り出しに戻された彼女は、少しではなく戸惑いながら怒りを見せた。
まあ、順当な反応であろう。
「……何故だ?」
そして気を取り直して更に問い質したのもまあ、順当であった。
しかし、これに対する答えもまた順当である。
「我らが帝都を離れると、な。四方からこれ幸いと敵が来るらしい。あと、ブドーに対する抑えがいなくなる」
戦争中と、政争中。まだまだ敵は多いし、尽きる気配などは微塵もなかった。
「……日帰り新婚旅行なぞは、私は嫌だぞ」
「私も南方の島によさそうな浜辺があると聞いていて、そこを予定していたのだがな。日帰りはきつい」
脚が長いから胴が短いエスデスの頭の上に顎を乗せ、ハクは少し考える。
そもそも挙式も新婚旅行も無理だからこそ、せめて挨拶だけはと思ったのだ。だが、このエスデスの上がり切ってはいるが下がったテンションではそれもままならないことは明白であろう。
ならば。
「エスデス、逢引きに行くか」
「い、いやに積極的だな……」
耳元で鳴る俗に言う美声に、エスデスは少し背筋が震えるのを感じた。
割と色々なところが責めたら弱い彼女は、例に漏れることなく耳も弱い。
それを知ってか知らずか、彼はよくよく頭の上に顎を乗せながらぽつりぽつりと喋りかけることが多いので、尚更である。
「……そうだな」
急いていたようだ。すまん。そう続けようとしたハクの思考と自分の発言の失態を目敏く察知し、彼女は素早くフォローに回った。
「いや、全然悪くはない!
寧ろ、もっと私の魅力の虜になれ。うん」
「……いや、時を重ねる度に貴女への愛しさが増していく。虜になって視界を狭める気はなかったが、そうなるのも時間の問題かもしれん」
またまた硬直したエスデスの頭を愛しげに撫で、ハクは僅かに苦笑する。
(愛しいな)
柔らかな幸せが、二人を優しく包んでいた。