ポケットモンスター Reversed 作:アダス・セッシャー
トラウマ、という物が成るには様々な要因がある。壮絶な苦慮の記憶。壮絶な激痛な記憶。壮絶な渇望の記憶。もしくは――壮絶な絶望の記憶。
そのような記憶は、これもまた様々な要因があるのだが――しかし、そのような記憶は得てして血の赤色に染まっている場合が多い。
未だ齢十二の少年、メギにも……脳裏に焼け付くように刻まれた、一つの赤い記憶があった。
殺人事件やドラマなどに表される絵に描いたような惨劇は、口から吐き出される血の塊、とくとくと地面に広がりゆく血溜まり、部屋全体を斑模様に覆う派手な血飛沫。そんな、視界を赤に塗りつくすような凄惨な光景が思い浮かぶ。
だが、二年前――当時十歳のメギの心を千々に裂いた"赤"は、涙のようにさらりと流れた、ただ一筋の血で出来た線のような幽かな物だった。
『あたしの事なんて……気に病まないで』
彼女はメギに弱弱しい顔で笑いかける。彼女はメギよりいくらか年上のように見えて、身長もメギより高かった。
そんな彼女は今――自分より体躯の小さいメギの背に担がれて、力無く彼に身を預けていた。
『あたしは貴方の事、利用しようとしてた……当然の報い、だったんじゃないかな。これも……』
彼女の口から一筋の血がつぅと垂れる。それがぽたりとメギの頬を掠めた。メギはわずかに振り返るように首を動かして、首横の彼女の顔を見やった。
それがメギの心に強烈に焼け付いたのは、その血があまりに赤かったから――そして、
血の気の引いた顔に驚くほど栄える血の赤は、芸術品のような美しさのようにすら見えた。
顔だけでなく、服から覗く手足や首筋も彼女の身体は驚くほどに綺麗な物で、傷一つすら見当たらない。それなのに、どうして彼女が血を流しているのかメギには理解できなかった。
震えるメギの手に、彼女の手がそっと添えられる。そのメギの手の中に握られていたのは――空っぽなモンスターボール。
その手にかかる力は酷く弱弱しい。そしてだんだんとその僅かな力すら抜けていくのを感じる。
メギは背中にかかる彼女の体重が、自分が生まれ持った業の重みだと知った。
これは麗らかな春の日、それでいて
この日を境に、メギは自らのポケモンを持ったことは今に到るまで一度も無い。
【●】
「……その通りだとして、だとしたらあんたは俺を家に連れ戻すのか?」
メギは目の前の男を睨みつけた。その言葉には、今までの会話には含まれていなかった敵意が湧きだしている。
目の前の男が捕まえんとする素振りを見せれば、直ぐにでも脱兎の如く逃げ出す腹積りだったが、メギの予想に反してローバイはふるふると首を振った。
「そうだな……無論、そうする事は世間一般的に正しいと胸を張って言えるのだが……だがしかし! 私の中の正義は"それで良し"と望んではいない!」
ローバイは一瞬だけ悩んだような素振りをしたように見えたが、すぐさま組んだ腕をほどいて笑いながら手を振った。
「ゴーストタウンから中心街、この距離、戻りたければ何時でも戻れたことだろう! だが、その上で少年が自分の意思で、二年もの間家に帰らなかったという事実を鑑みれば、そこにはきっと、私には計り知れぬ、山より高く海より広い深淵な理由があるに違いない! ならば! この私が少年の人生に口を挟む権利などあるはずもない! 君の好きなように生きるがいい少年! 私もまた、計り知れない力を以てしてこの事件を闇に葬ろうではないか!」
メギはローバイの発言にまたもあっけにとられた。
――この男の発言に驚かされるのは一体何回目だろうか。そんなことを思いながら、心の中で自分が小さく笑ったような気がした。
「……正義の味方とは言ってたが、俺の親の味方はしないんだな」
「親という者は子の思いを尊重するものだ。君の親が如何な人間であれ、私が君の親にその考えを強要しよう! なあに、心配するな少年! 確かに君を家に連れ戻す気は無いが、ちゃんと私は君の親の味方でもあるさ! 君の安否はそれとなく伝えておこう! 上手くやるさ。なにせ私は正義の味方だからな!」
ローバイは自信満々といった様子できっぱりとそう言い切った。そんな様子のローバイに対し、メギが一つ質問をした。
「正義の味方か……その割にはポケモンで人を攻撃したり事件を隠蔽したり……正義のためならば、法を破ってもいいのか?」
どこか皮肉にも取れるような問いだったが、メギにとってはそんなつもりは無く、ただ純粋な質問のつもりだった。ローバイもそれに特に嫌な顔をすることもなく、平然として答えた。
「良い。私にとって重要なことは、ただ機械のように法を守るようなことではない! 私が私の定めた正義を貫く事だ! 堅い岩で作られた石垣のような法の壁には無数の隙間がある。よって、そこから漏れ出さんとする巨悪の企みもまた存在する! 私はそれを防ぐために、曖昧でふわふわとした掴みどころのない正義を以て日夜正道を邁進しているのだ!」
ふう、とローバイはそうやって自分の根底にある正義論をメギに向かって話し終えると、脱力するように壁に向かって倒れるな勢いで座り込んだ。
「……納得してもらえたかな?」
「俺はあんたじゃないからな……正直全部は理解できない。でも、きっとあんたのような人間も必要なんだとも思う。あんたみたいなやつばっかりでも困るけどさ」
ゴーストタウンの生活の中で、メギはこれまでに少なくない数の法に触れるようなことを犯してきた。罪の一つ一つは小さくとも、積もり重なった罪の重みはメギの精神を少しずつ削り取っていく。そのような荷重に対し、メギは"生きるために仕方ない"と断じて、逃げるように暮らしてきた。
先ほどの問いは、メギのそうした弱さが口に出させた、救いを求めるような問いだったのかもしれない。
そして今、自分が犯した"罪"に対して堂々と向き合い、有ろうことかそれを「罪など無い」とまで言い切った目の前の男が、どうしようも無く輝いて見えた。
いつか、自分もこの男のような強い芯を持てたら――などと考えていると、なんだか急に居たたまれなくなったような気がして、メギは急に居心地が悪くなるのを感じた。
「……そろそろ俺は行くよ。探し物もあるからな」
「ほう、探し物か。奇遇だな、私もちょうど探し物の最中だったのだ! まあ、今はそれよりも優先すべき事柄があるからな……。探し物はひとまず置いておくとしよう」
ローバイは爪先で身動きの取れない男達を小突いた。それでローバイは、一つ戦闘中に行ったやりとりで思い出すことがあった。
「そういえば、君はトレーナーになる気は無いのかね?」
「なれないよ」
メギは即答した。
「なりたくないのか?」
「なりたくないんじゃない、なれないんだ」
またもメギは即答した。ローバイはそれを受けて、また一つ少年には厄介な事情があるのだろうな、と理解した。その事が分かったと同時に、ローバイは残念そうな表情を浮かべる。
「……君ならばいいトレーナーになれると思うのだがね」
「いいや、なれないよ」
またも即答。しかし今度は、ああでも、とそれに一つ付け足した。
「あんたのバトルを見て、少しだけトレーナーを目指していた時の自分を思い出した気がしたよ」
別れ際にそう言って、メギはローバイの前から去ろうとした。
しかしその時だった。
「きゃああああぁぁぁぁ……」
という絹を裂くような悲鳴が風に乗って遠くの方から聞こえてきた。
その声に、まずメギが、そして続いてローバイがその声の主の正体に勘づく。
「リンネ!?」
「……あの少女か!」
ローバイは険しい表情を浮かべて立ち上がったが、途端にその表情が固まる。その顔は笑みの印象が強い今までのローバイには、あまり見られないような表情だった。
笑みの消えた表情のまま、ローバイは一つ、メギに向かって"要請"した。
「少年。残念なことだが私はこの辺の地理には疎い。君が少女を助けに行ってくれ。きっと君ならば少女を助けることが出来る! このローバイが保証する! 現場に急行してくれ! 悲鳴が上がったということは、既に時は一刻を争うような事態だ!」
メギはそのローバイの言葉を最後まで聞くまでも無く、その途中で既にリンネの声が上がった方角に向かって駆け出していた。その言葉を背中で受け止めたメギは、まっすぐ前を向いたまま答える。
「言われるまでも無い!」
そう言い残すと、メギは建物の間を縫うように走り去り、すぐにローバイから見えなくなった。
そして一人その場に残されたローバイは、ゆっくりと近くの建物に入り、壁に手を突きながら階段に向かっていた。その移動の合間にも、ローバイは先程の言葉に言い知れぬ自身への怒りを覚えていた。
――危険な現場に少年を斥候として遣わせるなど……正義の名折れだ!
右足がズキズキと痛む。先程ピジョンに受けた"体当たり"の影響だ。ローバイは自身のコンディションさえ万全ならば、メギは待機させその足で現場まで駆けつけるつもりだった。しかし、先ほどの体たらくの所為で素早い動きを封じられ、あまつさえその結果守るべき市民を危険に晒してしまった。そもそも自身がきちんと少女を確保していれば起こらなかった悲劇であろうと考えると、ローバイは腸が煮えくり返る思いだった。
――今はとにかく急がねば……。少女を護れなかった挙句、少年にも何かあろうことならば、決して許さんぞローバイ!
【●】
はあはあ、と男に追われていたリンネは裏路地の片隅で休憩していた。
リンネが逃走のために通って来た経路は、メギから教わった裏道を交えており、土地勘のない人間ではぴったりと追跡されない限りはまず追い切ることは出来ないような道筋だった。恐る恐るリンネは振り向くが、どうやら追手は撒いたようで、後ろから誰かが追ってくる気配はもう無い。リンネはほっと一息ついた。
いきなり走ったせいか喉が渇き、腰のモンスターボール掛けの一つにひっかけておいた水筒を取り上げて、中身の水道水をくぴくぴ飲んでいると、不意に近くの建物に扉の隙間から中に入る小さな影が横目に見えた。
(……何だろ?)
リンネはこそこそという音が似合いそうな挙動で建物の側に近寄ると、窓の下から半分だけ頭を覗かせるような形で中の様子を伺った。
すると、空段ボールの箱の山にごそごそと頭をもぐりこませて、黄色と黒の尻尾が目立つ身体がばたばたと足を動かしていた。
それを見てすぐにリンネはピンと来た。
(ぴ……ピカチュウだ!!)
驚きのあまりリンネは声を出しそうになるが、あわてて口をおさえてこらえた。ここで声を出して逃げられてはひとたまりもない。
(ほんとにいたんだ! ど……どうしよう!)
とりあえずリンネは背中に背負った四角くて小さなバックパックを降ろして、何か使えそうなものが無いか模索する。とりあえず真先に転がり出たモンスターボールをベルトの所定の位置に付けた。ちなみに闇市のモンスターボールの値段は、リンネがメギに与えられている二週間分のお小遣いに匹敵する。
バックパックの中には色々と入っていたが、リンネはまず透明なビニール袋に入ったポロックのくずを取り出した。これはポロックを四角く成形するときに出るもので、ポロックを扱う個人店などではこのように袋にひとまとめにして格安で売っている店も多い。
リンネはそのポロックくずを一掴みして、ゆっくりと半開きの扉に近づきその隙間から投げ入れた。
段ボールに頭を突っ込ませるのに夢中になっていたピカチュウは、最初はそのことに気づきもしなかったが、先ほどまでは無かった甘い香りが背後から漂って来ているのに気付き、顔を引っこ抜いてそちらの方を見た。すると、後ろの方でバランスを崩した段ボールの山ががらがらと崩れて、ピカチュウは段ボールの雪崩に巻き込まれてしまった。
思わずリンネはあっ、と声を出す。そしてとてとてと崩落した段ボール群に近づき、ピカチュウが呑まれた辺りの段ボールをどかしてやった。
「……だ、大丈夫?」
「……チュウ」
ピカチュウはぺたりと地面に身体を広げており、ここに来るまでに何かあったのかやけに疲れているように見えた。
それを察したリンネは、座ってビニール袋の中からもう一つかみポロックくずをつかみ取ると、今度はピカチュウの鼻先にぱらぱらと置いてやった。
「食べて食べて」
そうリンネが話しかけると、ピカチュウはリンネの顔とポロックを交互に見比べてから、少し訝しげにくんくんとポロックの匂いを嗅ぎ始めた。
それから吟味するように小さ目の欠片をひょいと取ってぽりぽりと食べる。毒が無いこととその味を確認したピカチュウは、ようやく一つ、また一つとポロックを食べ始めた。
リンネはその様子を笑って楽しんだ。
「まだあるよ!」
そう言って、今度は袋の底をつまんでひっくり返し、全ての中身をざーっとピカチュウの前に落とした。袋の中身はすっかり空っぽで、リンネはそれを確認するとくしゃくしゃに丸めてポケットに押し込んだ。
数分後、ピカチュウはそれをあらかた食べ終わると、仰向けになって空腹感を楽しんでいた。目の前の少女に対する警戒心はすっかり解けてしまっていて、うとうとと眠気すら感じ始めた。
だが、そんな安らかなひと時も束の間だった。
仰向けになったピカチュウの眼に、リンネのベルトに引っかかった空っぽのモンスターボールが写されたからだ。ピカチュウの脳裏に、先ほどの数人の男達と交えた戦闘の数々が思い出される。
ピカチュウは仰向けからうつ伏せになり、そして四肢を立てて起き上がってリンネの顔を見上げる。
「あ、どうしたの? もっと食べたかった? ごめんねー、もう無いんだ。でも付いてきてくれるならいつでも……」
そして、そのリンネの顔を若干睨んだ後――脱兎のごとく逃げ出した。
「え!? うそー! そんなのって無いよ! 待ってー!!」
建物から出た後、どうにかリンネは今もまだ逃げるピカチュウの後を追えていた。ピカチュウが疲れていたから、ということもあったからかもしれない。
「待ってー! 乱暴、しない、からー!」
精一杯ピカチュウに向かって声をかけるが、走りながらなので上手く声を出せない。もちろんピカチュウがその呼びかけに答えて止まってくれるはずも無く、リンネは無駄に体力を消耗した。
「ま、待って……」
いよいよリンネの持久力も切れかけて、だんだんとスピードが落ちていく。ピカチュウとの差がどんどんと開き、あわや見失うと思ったその時――前を走っていたピカチュウが急ブレーキをかけた。
「え……?」
どうしたんだろう――とリンネが思った瞬間、いきなりピカチュウの前方の建物の壁が
そしてその崩れた外壁の隙間から、緑の体色に巨大な体躯、そして真っ赤な光が迸る眼光と低い唸り声、まさに恐怖の塊と言えるような雰囲気を放つ凶暴なポケモン――バンギラスが姿を表わした。
あまりの恐怖に、ピカチュウとリンネは固まって動くことも声を出すこともできなかった。
このままこのバンギラスに食べられてしまうのだろうか――リンネがそんな未来に身を震わせていると、その予想とは裏腹に、バンギラスはまるで電源でも切れたかのようにゆっくりと倒れこんでいった。
「え……?」
――助かったの……?
リンネは何が何だか分からなかった。しかし、バンギラスが壮健な状態のまま、その爪を振るってこちらへ襲い掛かってくるのに比べれば、今の状況はまさに神が与えてくれた奇跡の時間のように思えた。
リンネは強張る身体を無理やり動かし、自分よりさらに前線で身を固めているピカチュウを抱きかかえてすぐにこの場から立ち去ろうとした。
だが、リンネは気づく。自分が今抱いているピカチュウの視線が倒れたバンギラスに注がれていないという事に。
リンネもそのピカチュウの視線を追う。そして、ピカチュウが見ていたものがリンネの目にも入った。
そこにあったのは――首からペンダントを下げた、
そして、そのピカチュウは、頬袋を光らせて、今まさに電撃を放とうとしている所だった。
そして、リンネの視界が白く染まる。
数秒後――リンネの視界に視界が戻った時、周囲の全てが沈黙していた。
ピカチュウも気を失い、バンギラスも気絶し、もう一匹のピカチュウも何も物を言わない。そして、リンネの目の前に……もう一つ、物言わぬ物体があった。
リンネの前に倒れ込んだ、
その服はボロボロで、指一本ぴくりとも動かさない。
リンネに再び恐怖が湧き上がってきた。先ほどの自身の死の恐怖とは違う、他者の死の恐怖。
さきほどまでは出そうにも出なかった叫び声。緊張が解かれた今、リンネはようやくそれを吐き出すことが出来た。
「きゃぁぁあああああああ!!!」