あなざー ~もしも夜見山北中学3年3組に「現象」がなかったら~   作:天木武

15 / 32
#15

 

 

 6月6日、僕は今日も病院に来ている。5日前の検査の結果がわかる日だからだ。予約の時間は前回と同じく11時。今日も学校はあるため、やはりその中途半端な時間に対してどうすべきか再び頭を悩ませたのが昨日の夜だったのだが、またしても少し酔い気味の怜子さんの「別に休めばいいじゃない」というありがたい助言により1日休むことにしていた。

 1度やってしまったから慣れたのか、病院へと向かう道中の時点から、今日は休んだことに対してそれほど罪悪感が浮かんでこない。これに味を占めてサボり癖が付かないようにだけはしないといけない。中間試験は終わったが、この後は期末試験もあるし、さらに長い目で見れば高校受験なんてものも控えている。もっとも、サボり癖を付けるつもりなど自分としてはさらさらないつもりだが、人間というものは未知なる感覚やら堕落やらを知ってしまうとどうにも戻れなくなる、という可能性はあるわけだ。だからこそ古い時代の旧約聖書から、知恵の実を食べてその味を知ってしまったアダムとイブは神によって楽園を追われた、と描かれているのだろう。

 まあそういう点からすると、僕はある意味知恵の実を食べてしまった、と言ってもいいのかもしれない。実際、検査の結果を聞くために病院に来なくてはいけないことは事実だが、その後藤岡さんの病室に見舞いと称して話をしにいくつもりでいるわけなのだから。そういう若干(よこしま)な考えもあって、今日は学校を休んで病院に来ることを大して苦としていないわけでもある。

 ああ、これはいかん。両親の日本不在の間に息子がグレて(・・・)しまった、ということになったらインドにいる両親はおろか、僕を預かってくれているおじいちゃんおばあちゃん、そして怜子さんまでショックを受けることになってしまうではないか。それはまずい。

 

 ……どうにも病院の待ち時間と言うのはこういう取り留めのない妄想をするのにうってつけの時間らしい。暇を潰すように一応本を持ってはきたのだが、それも大した読まずに僕はぼーっとそんなことを考えていた。今日は待っている患者の数は前回ほど多くは無い。ただ、病院内のスタッフの人達だろうか、白衣やナース服を着た人が多く歩いていたようには感じた。

 そんな上の空だった状況に加え、病院関係者が多く往来していたからだろう。僕にとってはこの病院の名物看護婦と言ってもいい人物の接近に全く気づかずにいた。

 

「あれれ、ホラー少年。今日は読書もせずに考え事?」

 

 不意に声をかけられたために、思わず飛び上がりかけてしまった。こんな呼び方をこの病院内で、いや、そもそも僕の知っている範囲でしてくる人なんて1人しかいない。

 

「ああ、水野さん。どうも」

「今日はどうしたの? また悪くなった?」

「いえ。数日前の検査の結果が出たので、それを聞きに来たんですよ」

「あ、そういうこと。まあ再入院になっても心配は無用よ。そうなった場合はスーパーナースのこの私がちゃんと責任を持って看護してあげるから」

 

 謹んで遠慮させていただきます……。別に水野さんのことが嫌いなわけではないけど、この人のドジっぷりに付き合わされたら治る病気も治らないんじゃないか、と思ってしまう。

 

「それよりいいんですか、こんなところで油売ってて。まあ見たところ随分と暇そうですけど……」

「暇じゃないわよ。昨日今日と大変だったんだから。そうじゃなくたってこの病院、人少ないんだし。……それはさておき、結果を聞くだけならそう時間はかからないわよね?」

「え? ええ、まあそう思いますが……」

 

 この間のように待たされて予定時刻より大幅に遅れる、なんてことが無ければという前提付きだけど。

 

「その後は学校?」

「いえ、今日は休むと連絡してあります」

「あら、サボタージュ? その年でサボり癖が付くと後々大変になるわよ?」

「『真面目すぎるから適当に抜くところは抜いた方がいい』って、怜子さんに言われたんですよ」

「怜子さん……。ああ、あの美人な叔母さんね。顔に似合わず案外適当なのね」

 

 それをあなたが言いますか、と心の中で突っ込みを入れておく。まあ厳密には水野さんの場合適当、というよりドジ過ぎと言う方が正しいわけではあるが。

 

「じゃあ今日はこの後暇なわけね?」

「そうですね」

「私も今日は昼にあがりだから、ここで会ったが百年目……じゃなくて何かの縁だし、一緒にお昼でもどう? 奢るわよ」

「え……? いいんですか?」

「昼食を食べてから帰るつもりでいたから。用事があるなら無理にとは言わないけど」

 

 これは正直言って予想外だった。前回病院に来た時は色々あってお昼を食べ損ねてしまったわけで、今日はさっさと帰って家にあるもので何かを作って食べようかと思っていた。しかしせっかく誘われたのだし、たまには外食するのも悪くない。

 

「じゃあお言葉に甘えて……」

「よしよし、そうこなくちゃ。それじゃ13時にロビーで待っててもらっていいかな? もしかしたら少し待たせちゃうことになるかもしれないけど……」

「それなら大丈夫ですよ。御馳走になるんだし、そちらに合わせます。それにそのぐらいの時間のほうがこちらとしても都合いいですし」

 

 思わず本音を口にしてしまったわけだが、言ってからまずかったと後悔した。そんな意味ありげな一言を言ったらこの人が食いつかないわけがないじゃないか。

 

「都合? 何、この病院で検査以外に何かあるの? もしかして……この病院に恋人でも入院してるとか?」

 

 ほら、やっぱり食いついてきた。さてどうやって誤魔化すものかと僕が頭を悩ませている時だった。

 

「あ、水野さん。悪いけど手が空いてるなら手伝ってもらえる? 上に上げなくちゃいけないものまだまだあるから、人手が必要なのよ」

 

 丁度いい具合に彼女の先輩看護婦さんだろうか、横から声をかけてきた。それを聞いて水野さんはつまらなそうに唇を尖らせながらも僕との会話を切り上げることにしたようだった。

 

「もう、人使い荒いんだから……。ま、しょうがないか。じゃあ榊原君、13時にロビーでね」

 

 そう言うと水野さんは早足で廊下を歩いていった。余計なことを聞かれずに済んだ、と僕は思わず胸を撫で下ろしてため息をこぼす。それとほぼ同時、「榊原さーん」と呼ばれる声が聞こえてきた。今日の時間はほぼ予定通り。これなら藤岡さんのところに顔を出しても悠々予定時刻に間に合うなと思いつつ、僕は待合場所の椅子から立ち上がった。

 

 

 

 

 

 医師からの検査結果の報告は実に事務的なものだった。「今のところ特に問題はないね。生活にも全く支障が出てないみたいだし心配ないと思うけど、あと1ヶ月ぐらいは激しい運動は控えた方がいいかな」と、前もって用意されていたと思われる文言を読み上げるように告げてきた。とにかく問題なし、という事態は喜ぶべきであろう。後はまた1ヵ月後に検査のために来るように言われた。そこで問題なしと判断されればある程度の運動も解禁、さらには1ヶ月おきの検査も3ヶ月おきに伸びる、とのことだそうだ。

 そんな結果に安堵しつつ前回よりもはるかに安い会計を済ませ、僕は4階の405号室に向かった。藤岡さんは実につまらなそうに昼時のワイドショーを眺めていたが、僕が来たとわかると途端に顔を輝かせた。それから学校の話やら見崎の話やら前回も話したような話が始まる。

 が、結論から言うとそれも長くは続かなかった。昼時、ということで丁度食事の時間となったのだ。さすがに食事中の彼女を邪魔するのは悪いと僕はお(いとま)することにしたのだが、次の僕の来院が7月頭であることを告げると「もうここにいないかも」と彼女はどこか嬉しそうに言っていた。今月末に退院する目処が立ったらしい。それは喜ばしいことだと思いつつ、僕は彼女の病室を後にし、入り口付近のロビーの椅子に腰掛けて持って来た本を読みながら水野さんを待つことにした。

 

 その水野さんが現れたのは約束していた13時を15分ほど回ってからだった。業務が少し伸びてしまったらしい。彼女は私服姿で、これまで見ていたナース服以外の服装は新鮮に思えた。そのまま車に乗せてもらってファミレスに到着。そして現在に至る。

 ……至るわけなのだが。

 

「あの……。水野さん、もしかして疲れてます?」

「あ……。わかる……?」

 

 そりゃわかるでしょ、そんだけどんよりされて机に突っ伏されたら……。

 これだけ疲れているということはドジを起こす確率も飛躍的に上昇していたはず。車が事故らなくてよかったと心から思わずにはいられない。

 

「昼に上がったってことは……。もしかして夜勤ですか?」

「そうなのよ。しかも聞いてよ、昨日の深夜に使う人もほとんどいなかった相当ガタの来てた古いエレベーターが故障しちゃってさ。幸い1階に止まってたし誰も乗ってなかったから怪我人は出なかったんだけど、地下2階までストーンと落ちちゃったらしくて」

「うわ……」

「ナースステーションにいたら轟音したから驚いたのなんのって。お陰で今日は原因調査だのなんだの、さらにはスタッフ用のエレベーターも以前の点検から大分経ってるから一斉点検するって止められちゃって病院の裏側はもうてんやわんやよ。患者用はさすがに止めるわけにいかないし点検してからさほど時間経ってないっていうから、外来が減る午後から数台ずつ交代で点検するらしいけど。それで今日はスタッフ総出で医療に必要な物資を人力で運ばなくちゃならなくなっちゃったってわけ。患者用のエレベーター1つぐらい封鎖して使っちゃえばいいのにさ」

 

 ああ、それで、と僕は納得した。今日はやけに病院スタッフが多い気がしたのはそういうわけだったのか。だとするなら「暇そうですね」なんて水野さんに声をかけたのは見当違いも甚だしいというところだろう。

 

「でも危なかったわ。まああのエレベーターなんて乗ったことすらないんだけど。もし乗っていたらと思うとぞっとするわ。ダミアンに呪い殺されるわけだったわけね。日付も日付だし」

 

 僕は「ホラー少年」などと言われているが、正直言ってそこまで詳しいわけじゃない。が、そのぐらいは知っていた。たまたま見た、というやつだ。それに今日はよりによって「6月6日」なのだから、その辺りもかけているのだろう。

 

「でもそれ、さっき水野さん『昨日の深夜』って言いましたよね? だったら『6月5日の深夜』じゃないんですか? だとするとダミアン関係ないと思うんですけど」

「そういえばまだ日付またいでなかったような気も……。って、いいのよ、細かいことは! だったら6月6日のマイナス1時とかでいいじゃないの!」

 

 もう何を言っているかわからない。ただひとつ言えるのは、この人はどうあってもあの有名なホラー映画にこじつけたがっている、と言うことだった。

 

「それに1階から地下2階だとすると落下したのは2階分でしょう? 確かあの映画はもっと高い場所から落ちたはずだし、それに落ちたこと自体じゃなくてその後切れて落ちてきたワイヤーの方が問題のように描かれていたと思うんですけど……」

 

 僕としては難癖をつけようと思って言った事だった。が、これはどうやら完全に逆効果だったらしい。ニヤッと水野さんによくない(・・・・)笑みが浮かぶ。

 

「へえ……。1じゃなくて2の方を、しかもそこまで詳しく出してくるとはさすがホラー少年。私の見る目は確かだったわ」

 

 言われるまで今言った内容が「1じゃなくて2」であることすら知らなかった。数年前に何のきっかけか忘れたが、ふと見てしまった映画、としか覚えていなかったからだ。その中でも特にエレベーターのシーンだけは鮮明に覚えている。エレベーターが最上階付近から落下したものの助かった、と思っていた直後に上から落ちてきた切れたワイヤーによって胴体が真っ二つにされしまうなんてトラウマもののシーンは、見てしまった後しばらくエレベーターに乗りたくないと思ってしまうほどに強烈なインパクトだったのだ。

 

「まあいいわ。ホラー少年がやっぱりホラー好きだってわかったところで本題に入ろうかしら」

「本題?」

 

 本当は「やっぱりホラー好き」ってところは否定したかった。が、話の腰を折るのもよくないと飲み込むことにする。

 

「ええ。弟から聞いたんだけどね。……ってにっが! コーヒーにっが!」

 

 「本題」に入ろうとした矢先、コーヒーを口に運んで水野さんはむせた。話題を自分で変えておいて自分でその話の腰を折る。僕がわざわざ話の腰を折るのを我慢したのに、である。なんという自爆話法だ。しかしお節介焼きかもしれないんが、ここは突っ込まずにはいられない。

 

「ちょっと、この店のガムシロ偽物なんじゃないの? 全然甘くなってないんだけど」

「そもそも入れてないでしょ……」

「そんなはずないわよ」

「そんなはずありますよ。大体そこにガムシロの空の容器が1つもないじゃないですか」

 

 あなたが今飲んだのは正真正銘ブラックコーヒーです。そりゃ苦いでしょう。

 だがそんな当たり前の説明では彼女は納得しなかったらしい。何やら小難しく考えながら、今度はちゃんとガムシロップをコーヒーに入れる。

 

「私は確かに入れたはずなのに入ってなかった……。ダミアンの仕業かしら? なんだか話がホラーめいてきたわ……」

「めいてないです。あと6月6日だからってなんでもかんでもダミアンのせいにするのはやめてください」

 

 まあ夜勤で疲れてるんだろう。入れたか入れてないを覚えてないというだけだというのに、なぜこんなに話をでかくしようと出来るのだろうか。そこに呆れつつ、話を「本題」と言った方向へと戻そうと僕は思った。

 

「それで、本題ってなんです? 弟がどうのとかって……」

「ああ、弟から聞いたのよ。……榊原君、クラスでハーレム作ってるんだって?」

「……は?」

 

 話が突拍子もなく飛んだために僕は間の抜けた声を上げてしまった。ハーレムとは何ぞや? 僕はそんなものを作った記憶は微塵もありはしない。

 僕にしては珍しい声を上げたからだろう。水野さんは続ける言葉を切って少し考え込んだ。それから「ああ」と言って手を打つ。

 

「言ってなかったっけ? 弟、榊原君と一緒のクラスなのよ。水野猛、知らない?」

 

 そういえば……いた気もする。勅使河原が「スポーツマン」とか言ってたような。バスケ部だったっけ。

 

「まああんまり弟と仲良い方じゃないんだけど。どうも榊原君の転入先が弟のクラスらしいから、ちょっと学校でどんな感じか聞いてみたの。そしたら弟が言ってたのよ、『昼休みにクラスの女子集めてハーレム作ってる』って」

 

 ……激しい誤解だ。曲解だ。そして冤罪だ。僕はそんなものを作っているつもりは毛頭ない。あれは赤沢さんを筆頭に、半ば強引に行われている昼食会、といったようなものだ。……もっとも、見崎と2人で食べてるところを目撃されていたらそこは言い訳も何もできないのだろうけど。

 

「弟さんに僕がそれは違うと言っていたと伝えてください……。僕はそういうつもりは全くありませんから」

「でも『つもりはない』ってことは女子を集めてるのは事実なの?」

「集めてる、じゃなくて集まってくる、ですけどね。実際昼食の時に女子が来ることがあるのは否定できません」

「おお!? さすがもてる男は辛いわね」

「やめてください。だからそんなつもりはありませんって」

「そうよねー。本命は405号室の子だもんねー」

 

 目の前にあるドリンクバーの炭酸を飲もうとした僕の手が止まる。……なんでこの人が藤岡さんのことを知ってるんだ?

 

「あの……。水野さん、なんで藤岡さんのこと知ってるんですか?」

「あ、藤岡っていうんだ。かわいいの?」

「えっと……。いや、ちょっと待ってください」

 

 迂闊なことを言うのはやめておこう。そりゃ見崎と似てるってのもあるが藤岡さんはかわいい。が、それをこの人の前で口にするのは、ミステリ小説で「こんな殺人鬼のいる部屋にいられるか! 俺は1人でも部屋に戻るぞ!」と言うのと同義だ。要するに自爆は免れない、ということになる。

 だったら触らぬ神に祟りなしだ。余計なことは言わずにおくに越したことはない。

 

「……繰り返し同じ質問になりますが、なんで水野さんが藤岡さんのことを知ってるんですか?」

「さっき言ったと思うけど、今日はエレベーターが使えないから荷物の運搬に私まで駆り出されたのよ。それで運搬してる時に4階でたまたま榊原君を見かけてさ。405号室に入ったのは見えたから、4階の人に聞いてみたら榊原君と年の近い女の子だって言うじゃない。そりゃ本命に違いない、って思ったのよ」

 

 なんということだ。病院内でもっとも知られたくない人に知られてしまった。いや、あの病院でこの人の他に知られて困る人なんていないんだけど。

 だがこれは放っておくと少々面倒なことになってしまうかもしれない。少なくともこの人の誤解だけは解いておいたほうが絶対にいいだろう。……解ければ、という前提の話ではあるが。

 

「確かに僕は彼女を知ってます。知り合いの知り合い、ってところですかね。検査前に水野さんに会った時にポロッと『そのぐらいの時間の方がこっちとしても都合がいい』って言ったのは、彼女のお見舞いに足を運ぼうと思ってたからです。でも本命とか、そういうつもりはありませんよ」

「はいはい。じゃあそういうことにしておいてあげるわ」

「本当ですって。……まあ通じないでしょうけど」

「そこまで言うなら信じてあげるけど……。じゃあ何、今榊原君フリーなわけ?」

「いや、フリーって……」

「あーでもまだ中学生か……。まあ5年後とかなら考えてやらんでもないよ?」

 

 なんですか、上から目線のその態度……。生憎僕には某望月氏辺りと違って年上趣味はないんですよ。大体あなたも僕のような子供にかまける前に本気でお相手でも見つけたらどうですか?

 ……と、言ってあげたいところだったが、残念ながら僕はそこまで言えるほど度胸があるわけではなかった。苦笑を浮かべて流しておくのがもっともな対応だろう。それに今日はこの人もちで昼食をご馳走になるわけだ。

 

「……ところで、今日僕を昼食に誘ったのはそういうどうでもいい話のためですか?」

「どうでもよくはないわよ。私は榊原君の行く末を心配して……」

「はいはい、それはそれはありがとうございます」

 

 どうやら余計な心配はしなくていいらしい。本当にただ四方山話(よもやまばなし)をして、ついでに自分の昼食の時間と被ったから誘ったようだ。

 だったら話は適当にしつつ、自分にとって致命的な勘違いやら誤解やらだけは避けるようにしておけばいいかと、僕は彼女の話に合わせることにした。

 

 

 

 

 

「恒一君、ちょっとここ座りなさい」

 

 夕食後の一休みを経てお風呂から上がったところで、部屋に戻ろうとしていた僕は怜子さんに呼び止められた。手には缶ビール。既にそれなりに酔っている様子が窺える。が、どうも声の雰囲気は真面目なように感じられた。とはいえ、目が据わっているのは酔っているからかそれとも真剣な話なのかは測りかねる。とりあえず言われた通りにおとなしく僕はキッチンの椅子に座ることにした。

 

「えっと……なんですか?」

 

 ビールの缶をやや乱暴に机に置き、怜子さんも椅子を引いて腰かける。今の様子からこれは酔っているな、と僕は判断した。「進路どうするか決めたの」というような真面目な話だったらどうしようかと思ったが、これならそういうことではないだろう。愚痴をぶつけられるとか酔った勢いで絡まれるとか、そういう類だと高を括る。

 

「今日、学校を休んだわね?」

「あの、それは怜子さんが休んでいいと……」

「ええ、そうね。確かに恒一君は成績もそこまで問題でもないし、元々真面目すぎるから。だからそれはいいの。私が聞きたいのはその先、……お昼はどうしたの?」

「えっと、外食を……」

「母もそう言ってたわね。それで恒一君にしては珍しいと思ったから質問なんだけど、どこで食べたの?」

 

 まずいかもしれない、と直感的に思う。この誘導尋問(・・・・)が行きつく先はどこかがうっすらと見えた。

 外食をする、と言ってもこの辺りで入れるお店など高が知れている。せいぜいが入りやすい、という点でチェーン店だ。そのチェーン店と言うものは大別すると2つだろう。牛丼やらラーメン屋といった1人で入ることが多い店、ファミレスのような1人では入りにくい店だ。もっとも、ハンバーガー店の場合はどちらにも当てはまるかもしれない。

 その上でこのやりとりをまずいと思っているのは、あいにくと僕は嘘を着くのが苦手なのだ。誘導尋問されたら素直に答えてしまうしかない。だから、今の質問に対しては大人しくこう答えざるを得ないのだ。

 

「その……ファミレスで……」

「へえ、ファミレス。随分といいところで食べたのね。……で、そこに1人で入ったってことはないわけでしょ?」

「まあ……そうですね」

「誰と行ったわけ? 学校をサボった誰か、とかだったら非常に問題になるわけだけど」

「看護婦さんですよ。僕が入院していた時に担当してくれた水野さん。丁度今日夜勤明けで、帰る時間が僕と被っていたから誘われたんです」

「ああ、なるほどね」

 

 相槌を打ちつつ、怜子さんの顔が僅かに引きつるのを僕は見逃さなかった。もしこれが「サボった学校の同級生ですよ」と言っていたら、はたしてどれほど露骨に顔色が変わったことだろうか。

 

「弟さんが同じクラスなんです。それに加えて僕の担当をした縁もあったし、ということで……」

 

 フォローを入れたが、それでも怜子さんの表情は普段より冷たく感じられた。さてあとはどう話を付け加えるかと迷っていたが――。

 

「恒一君。私は理津子姉さんからあなたを預かっている以上、悪い虫がつかないようにしないといけないと思っているの」

 

 それより早く、怜子さんは次の言葉を口にしていた。仕方なく僕は「はぁ……」と曖昧な返事を返すしかなくなる。

 

「年上趣味があるというなら止めはしないけど、女性と付き合うなら、出来ることならもっと年の近い女性と健全的に付き合うべきだと思うわ。年上に(たぶら)かされた、なんてことになったら、私はどんな顔をして帰って来た姉さんに会ったらいいかわからないもの」

 

 さっき水野さんの時も思ったことだけど、僕には某望月氏のような年上趣味はありませんって。そこだけは否定しておいた方がよさそうだ。

 

「別に水野さんはやましい心があって僕を誘ったとかじゃないと思いますよ。……まあ5年後なら考えてやらんでもない、とかものすごく上から目線では言われましたが。でも僕にそんなつもりは毛頭ありませんし、今怜子さんに言われた通り、付き合うなら年が近い女性を望みますね」

「……そっか。私みたいなおばさんじゃ相手にしてもらえないか……」

「え……」

 

 ちょっと、これは僕はどう答えるのが正解だったんですか? 結局解答が八方塞だったのでのではないでしょうか?

 

「冗談よ、冗談。ただ一応釘刺しておこうかな、と思ってね。なんでも最近じゃクラスでも大人気らしいし、あまり節操のない行動はダメよ、と言っておきたかったの」

 

 ……よくご存知で。今日1日で2回も年上の女性から似たようなことを言われるとは思ってなかった。特に怜子さんの場合、若い頃の母に似ているというせいもあってなんだか母さんから小言を言われているような気になってしまう。

 

「……どうしたの恒一君。なんか笑ってるみたいだけど」

 

 そしてその考えはポーカーフェイスということが出来ない僕の顔に苦笑と言う形でそのまま出てしまっていたらしい。怪訝そうに怜子さんが尋ねてくる。

 

「ああ、すみません。……なんだか若かった頃の母さんに言われてるみたいに錯覚してしまって。写真で見たことしかないんですけどね」

「ははあ、なるほど」

「なので……怜子さんがさっき言った『おばさんじゃ相手にしてもらえない』って言うのは、あながち外れてもいないわけですよ。ただ、『叔母さん』は漢字で書くほうになりますが。要するに……なんだかどこか母の面影を被せてしまうんです。マザコンですかね」

 

 手玉に取られっぱなしというのもちょっと面白くないと思ったので、僕はそう返してみた。

 が、どうだろうか。効果覿面とばかりに怜子さんは固まってしまった。ビールの缶を手にしたまままるで彫刻のように動かない。

 

「あ、あの……怜子さん?」

 

 僕の呼びかけに、ようやく彼女は我に返る。そして手に持った缶の中身を口元に寄せると傾け、中身を全て飲み干したらしかった。

 

「まさか恒一君からそういうカウンターが飛んでくるとは予想してなかったわ。……今日は私の完敗ね」

「いつから、しかも何の勝負してたんですか?」

 

 さあ、と言いたげに怜子さんは肩をすくめて立ち上がった。冷蔵庫の方に向かったところを見ると新しいビールを探しに行ったのだろう。

 

「怜子さん、あまり飲みすぎないでくださいよ」

「そういう小言を言われると、私も恒一君を息子だと思っちゃうんだけど?」

 

 どこが完敗だろうか。見事なカウンターへのカウンターじゃないか。

 

「あ、話は終わりだから。まあ要するに付き合うなら健全なお付き合いをしなさい、節操のない行動だけは慎みなさいって言いたかっただけだし。もっとも、いらない心配みたいだったけどね」

「肝に銘じておきますよ。じゃあ僕は部屋に戻ります。……重ねて小言になっちゃうかもしれませんけど、お酒はほどほどにしてくださいね」

「仕方ないでしょ。今日は酔えないみたいなんだもの」

 

 既にビール3本ほど空けておいて何を言うか、と心の中で突っ込む。ついでに酔えないなら無理に飲まなくてもいいものを、とも。

 しかし晩酌は怜子さんの楽しみなのだからあまり余計なことを言うのも野暮と言うものだろう。部屋に戻って明日の準備を適当に済ませたらさっさと寝るかと僕は席を立ち上がった。

 

「それではお先に。おやすみなさい、怜子さん」

「ん。おやすみー」

 

 ゴソゴソと冷蔵庫の中を漁る怜子さんに背を向けて僕は部屋へと戻る。今日丸1日休んでからの明日の学校だが、憂鬱感はない。どうやらまだサボり癖は付かずに済みそうだと思いつつ、むしろその心配はあと1ヶ月とちょっともすると夏休みになるのだから、それが明ける時にするべきかもしれないとも思ったのだった。




ダミアン……言わずと知れた「666」で有名な映画に登場する人物。ちなみに自分は2だけ何かの拍子で見たことがあります。ホラーは得意じゃないので進んで見たわけじゃないのだけは確かです。アニメにおいても水野さんが結構深くこのネタに切り込んでいたので入れてみました。そうじゃなくてもあのシーンはオマージュっぽいですし……。

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。