あなざー ~もしも夜見山北中学3年3組に「現象」がなかったら~   作:天木武

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 暑い。ただただ、ジメジメと暑い。別に前の学校はクーラー完備とかそういうわけでもなかったので、授業中の体感温度としては変わらないはずだが、それでも夏場に入った教室は暑かった。今年は梅雨が長引くとか、そんな話もあり、雨が多くて湿度が高いのも拍車をかけていたのだろう。

 しかしそれでも担任の久保寺先生はほぼ毎朝のホームルームで、暑さを感じないような穏やかな口調で僕達に語りかけてきたものだった。

 

「心頭滅却すれば火もまた涼し。昔の人はいいことを言ったものです。暑いと思うから暑いのです。よろしいですか。授業に集中しましょう。そうすれば、暑さなど忘れることが出来ます。もう間もなく期末試験も待っています。皆さんのこれからの進路に関わる大切な試験です。くれぐれも気を抜かないように。よろしいですね」

 

 さすがは担任の先生だ。今日も素晴らしいご高説、もっともな意見である。そう、中間テストが終わって次は期末テスト。中学3年である今、気を抜いている暇はない。

 皆一様に緊張しているようだった。まあ中にはテストが嫌だと渋い顔をしていた生徒や、ここまで言われても普段と変わらない涼しい顔をしていた生徒もいたことだろう。しかしどんなに逃避をしてもテストはやってくるのだ。

 

「もし困ったこと、私の授業でわからないことがあれば遠慮なく、職員室の私のところまで聞きにきてください。出来る限り力になりましょう」

 

 ここまでは担任として、久保寺先生の言っていることは見事だった。だが、最後の最後、付け加えるように言った一言でクラスの皆がずっこけかけた。

 

「……何より職員室はクーラーが効いててここより快適ですからね。私も相談はそこでしたいものです。では、一限目を頑張ってください。私は安息の地へ退散させてもらいます」

 

 後ろの方から「横暴だー! 教室にもクーラーをつけろー!」という勅使河原の非難の声が聞こえてくる。しかし先生は不敵に僅かに笑っただけでそのまま教室を後にしてしまった。

 

「……ねえ望月。久保寺先生、あんなこと言うんだ」

 

 思わず僕は隣の望月にそう尋ねる。なんだかんだ気の弱そうなところがあったからか、気がついたら勅使河原同様僕は彼を呼び捨てにしてしまっていた。だが彼はそれを気に留めている様子もない。

 

「たまにね。見た目と裏腹に意外と熱かったり、あんな風にジョークとばすことはあるんだけど……。いっつも雰囲気が雰囲気だから嘘か本当かわからないことが多くて困るんだよね。今日のは確実にわかったからまだいいけど」

「ジョークセンスに問題ありよ。どこまで本気かわかんないからねー、久保寺先生」

 

 斜め前から綾野さんがこちらに身体を向けて会話に割り込んできた。

 

「こういっちゃんが来る前の4月の頭の頃とかそれはそれはひどかったよ。普段通りのあの深刻そうな声で『いいですか。私は懸命に教えるつもりですが……。もし教え方が悪くてわからない、ということがあれば責任を取るつもりです。そうですね、包丁でも持ち込んで……この場で首でも掻っ捌きましょうか』とか言い出してさ。もうクラス中ドン引き」

 

 身振り手振りで当時の様子を再現する綾野さん。そういえば彼女は演劇部だったか。そのせいかやけに再現がうまい……気がする。まあ僕はその場にいないから判断は出来ないが、先生の独特の雰囲気は出ていた。その様子に周囲の人達も小さく笑っているようだった。思い出したのもあるだろうが、やはり彼女の再現度が高かったのだろう。

 

「まあ咄嗟にいいんちょが『先生、それはちょっと笑えない冗談ですよ』って至極冷静に切り返したから大分空気戻ったけどさ」

 

 ああ、そこはさすが桜木さん。なんとなく予想できる。きっと笑顔を張り付けながら、しかし凍りつくような声で言ってのけたのだろう。きっと先生も一瞬驚いたに違いない。……いかん、桜木さんに対する印象が勝手に固まってきてしまっている。見抜かれたときが怖くなってきてしまう。

 

「あれはなかったよね。その点、今日のクーラーはまだマシだよ」

「でもずりーよな! なんで教師ばっか!」

 

 僕達の会話が聞こえていたのだろう。後ろから勅使河原の声が響いてくる。

 

「若いうちの苦労は買ってでもしろ、ってことじゃないの」

「じゃあなんだ杉浦、お前はこの暑さが気にならねえのかよ?」

「別に」

 

 振り返ると実に涼しそうな顔で杉浦さんはそう答えていた。というか、こんな日でも彼女は袖無しのパーカーを相変わらず着込んでいる。そこを見る限り、本当に暑くはないのだろう。

 

「そんなに不満なら、将来あんたが教師にでもなって『生徒にも快適な学習環境を提供しましょう』とか言ってみたら? それで教育現場が変わるかもしれないわよ」

「教師だぁ!? 俺が!?」

 

 突拍子もない声を勅使河原が上げる。それにつられるように後ろの方で笑いが起こった。

 

「勅使河原君が教師ってのは……想像がつかないね」

 

 と、高林君。

 

「無理に決まってる」

 

 これは王子君だ。

 

「キャラじゃないし」

 

 王子君の隣、江藤さんまで追撃をかけてきた。さらにとどめとばかりに無言で本に目を落としながらであったが、勅使河原の隣の柿沼さんまでもが首を縦に振っている。

 

「お、お前らなあ!」

 

 再び勅使河原が非難の声を上げたその時、丁度授業開始のチャイムが彼の声を掻き消した。ほどなくして一限目、数学の先生が教室へと入ってくる。勅使河原は不満そうに恨み言を全て飲み込み、桜木さんの「起立」というはっきりとした声に渋々立ち上がる。次いで聞こえた「礼」という言葉に、僕達も一緒にではあったが、彼は絶対にならないであろう教師に対して頭を項垂れたのであった。

 

 

 

 

 

 それからほぼ勉強漬けの日々が始まった。前の学校でのアドバンテージが無くなった僕も今度は余裕ではいられず、勉強する時間が中間試験の時より目に見えて増えた。

 そうなると帰宅部である僕は部活に楽しみを見出すことは不可能なわけで、学校内での楽しみを息抜きにしたくなるわけだが、如何せんこの梅雨という時期は言うまでもなく雨が多い。つまり屋上やら中庭やらで見崎と昼食、という楽しみも奪われてしまう。おかげで彼女と食べる機会もめっきり減ってしまっていた。とはいえ、クラスにいれば毎度毎度勅使河原が寄って来るし、それなりの頻度で赤沢さんもクループを連れて来てくれるおかげで、孤立するという事態が起こらないのは喜ばしいことだろう。その時に見崎も一緒に、ということもあるにはあったが、これまでのように2人きり、ということはなくなってしまっていた。

 しかし、よくよく考えればこれまでが特別だったような気がしないでもない。彼女といるのは、まあはっきり言ってしまえば楽しい。しかし、別に僕を避けてるというわけではないだろうが、元々彼女はあまり人とは接したがらない性格であろうから、向こうから声をかけてくるということはなかった。かといって僕も挨拶ぐらいはしてもその程度で、休み時間や放課後にいつの間にかいなくなる彼女を捕まえるのは困難であった。

 

 なんだか面白くない。彼女の正体を追い求めて必死だったあの日はもう遠く過ぎ去ってしまったような、あの頃のモヤモヤしながらも、どこか胸が高鳴るようだった思いを感じることはもうないのだろうか、などと思ってしまう。

 もっとも、そんなことをこの場で口に出せば失礼になる。今は半ば恒例となりつつある昼食会の最中。赤沢さんに申し訳が立たない。

 

「どうしたの恒一君? ないとは思うけど、来週のテストで悩み事?」

 

 だが口に出さなくても、どうも僕は顔には出てしまう性格らしい。赤沢さんは僕の顔を覗き込みながらそう尋ねてきた。

 

「いや、そういうわけじゃないんだけど……」

「赤沢、こいつに限ってそれはねえと思うぞ? このクラスじゃ桜木とお前とこいつは頭がいい3トップじゃねえか」

「そういうあんたは逆3トップだけどね、勅使河原。フラットスリーって奴?」

「ひでえ! しかも絶対意味わかってねえで使ってる! あとでサッカー部の川堀から正しい使い方聞いとけ!」

「……それから学年順位だと僕より風見君の方が成績優秀だったからね」

 

 彼の名誉のために僕は補足しておく。事実、クラス内の成績順はまず桜木さんがぶっちぎりトップ、次いで赤沢さん、風見君、その後で僕なわけだ。しかも前の学校でのアドバンテージのおかげでこの位置につけることができただけであって、おそらく次はもう少し落ち込む可能性が大いにある。

 もっとも、桜木さんは県内でも指折りの難関進学校を目指しているらしく、風見君もその彼女と同じ学校を志望。赤沢さんは都内の私立を狙ってるとかで3人とも成績に見合う進路先を考えてるようだ。一方の僕は……まだ明確に進路も決まってないけど。

 

「でも僅差だったからね。僕も油断は出来ないよ」

 

 と、普段通り眼鏡をあげつつ風見君。なんだか目の敵にされてるみたいであまりいい気分はしない。そもそも僕は争う気は全くないわけだ

 

「風見君、テストは優劣を決めるものじゃなくて、授業の理解度合いを確かめる意味合いの方が強いんじゃないかな? だから誰かと張り合うのもいいけど、真の相手は自分自身だと私は思ってるけどな」

 

 そこでそう言って僕にフォローを入れた形になったのは桜木さんだ。そして彼女にそう言われたとなれば……。

 

「そ、そうだね桜木さん。……なるほど自分との戦いか。言われてみれば、そうかもしれないね」

 

 やはりあっさりと掌をひっくり返した。彼女のが気になるのはわかるが、自分の意見を持つということも大切だぞ少年……。

 

「真の敵は自分、つまり思わぬところにいる……。敵は本能寺にあり、か。……ただし、向かうは尻馬に乗った形で、と」

 

 ボソッと呟くように杉浦さんがそう言った。幸いと言うべきか、聞こえたのは僕と勅使河原ぐらいだったらしい。「おい杉浦、今のどういう意味だ?」とこういうのに疎い彼は聞き返すが彼女は答えるつもりはないらしい。

 彼女はこう言いたいのだ。「敵は予想外のところにいた」あるいは「真の目的は違うところにある」。まあここまではいいだろう。明智光秀の有名な台詞だ。問題はその後。「自分の意見でなく他人の意見に便乗した状態で向かおうとしてる」、つまり流されるままに意見に乗った君は明智光秀ではなくその手下でしかなかったんだよ、と言いたいわけだ。相変わらず涼しい顔をして難しいことを辛辣に述べる人だ。

 

「……そういや泉美、お弁当を作るって話はどうなったの?」

 

 と、そこで赤沢さんの弁当箱を覗き込みながら、意地悪そうに綾野さんがそう尋ねた。それに対して質問された主は顔を赤くしながら反論する。

 

「い、今はテストの勉強期間中で忙しいからまだなのよ! テスト終わったらやるの!」

「あーはいはい。『明日から本気出す』ってやつねー」

「ぐっ……! 見てなさいよ、綾野! あんたが謝るようなすごいの作ってやるんだから!」

 

 赤沢さんは凄みを利かせて見せたが、綾野さんは堪える様子はない。「はいはーい」と軽くあしらっている。その辺り、さすが演劇部仲間といったところか。

 とはいえ、今は赤沢さんが言ったとおりテストの直前期間。部活動は原則禁止のはずで、演劇部も活動は出来ていないはずだ。その辺りもあって、普段より話す時間が足りないとかでちょっかいを出した、なんてこともあるのだろう。

 

 僕がそんな取り留めのないことを考えていると、段々と昼休みは終わる時間に近づいていた。皆昼食はもうとっくに食べ終わっており、「じゃあそろそろ」みたいな空気が流れて次の授業の準備へと移るため、自分の席へと戻っていく。

 それにつられて僕も次の授業に備えるかと思った矢先、ワイシャツの袖の左側が引っ張られた気がした。目を移すとそれは気ではなく、確かに見崎が僕のワイシャツを摘んでちょいちょいと引っ張っている。

 一応彼女もさっきの場にはいた。いるにはいたが、ほぼ一言も発してはいない。いつも赤沢さんに半ば強引に参加させられている、という感じではある。が、以前そのことについて聞いてみたら「別に嫌じゃない」ということだったので、それはそれでいいのだろう。ということはこれから話そうとすることはそれに対する文句だとか、そういう類ではないと思う。

 

「どうかした?」

「……お願いがあるんだけど」

「何?」

「放課後……時間ある?」

「まあ帰って勉強するぐらいしか予定なかったけど……どうして?」

 

 その僕の問いに対し、見崎は一瞬答えを躊躇った様子だった。だがすぐに僕を見つめなおして続きを口にする。

 

「勉強……教えてもらいたいの」

 

 

 

 

 

 まさか見崎の方から勉強の誘いが来るとは思ってもいなかった。こういう時の勉強会というのは一体どこがお約束なのだろうか。互いの家だろうか。放課後の教室だろうか。

 だが見崎が指定したのはそのどちらでもない、図書室であった。なるほど図書室、確かにお約束の場所といえなくもないだろう。

 しかし、そこはさすが見崎鳴。彼女が指定した図書室は普通の、皆が使用する第1図書室の方ではなく、当然のようにひっそりとたたずむ0号館の中にある第2図書室の方だった。

 

「予想はしてたけど……やっぱりここなわけね」

 

 前もって「図書室」とだけ告げられ、しかしB棟1階にある第1図書室を普通に素通りした瞬間、もうここしかないだろうなとは思っていた。そうでなくてもここは見崎が「好きな場所」といったところでもある。それを思えば当然の結果といってもよかっただろう。

 

「嫌だった?」

「そんなことはないよ。ただ……なんかやっぱり見崎らしいな、と思って」

「……褒めてないでしょ」

 

 勿論あまり褒めているつもりはない。普段はこんなやりとりをすると彼女は機嫌を損ねてしまい、つんけんされてしまうこともあるのだが、今日は僕に勉強を教えてもらう手前、どうやらそれが出来ないでいるらしい。僕としてはそれは好都合、というかまあ普段からかわれている分たまには少しやり返すのもいいだろうと思うのだった。

 

 古びた木の引き戸を見崎が開ける。当然のように「失礼します」はなし。だがそれが彼女が来た、という合図として、もしかしたら部屋の主の千曳先生には伝わっているのかもしれない。

 

「……見崎君か? 今は部活禁止期間中だ、そうじゃなくても部活動は本来君にとっての部室である隣でやってくれ」

 

 案の定、先生は来たのが見崎だということはわかっていたらしい。だがその見崎に続いて僕も本棚の陰から顔を出すと少し驚いたようにこちらを見つめてきた。

 

「なんだ、部活をしに来たんじゃないのか」

「今先生がおっしゃったとおり禁止期間中ですし。今日は勉強をする場所に、と思ってここに来たんです」

「ここは君の個人空間じゃないんだよ? この部屋の主である私の身にも少しはなってもらいたいな」

「でも部活禁止ですし、だったら顧問の先生もお暇なんじゃないかと」

 

 諦めた風に、千曳先生はため息をこぼした。

 

「……別に私も部活動を見ないのなら特に用はないからな。あまり遅くまでは残らないように」

 

 それきり、千曳先生は僕達への興味をなくしたかのように机の上の本を読み始めた。それを確認してから見崎は窓際の席に腰を下ろし、僕もその隣の席に座る。

 

「さっき部活って言ってたけど……見崎、演劇部なの?」

「違う。……言ってなかったっけ? 美術部」

「美術部の部室は本来ひとつ奥の美術室だ。なのにこの子は時々ここでスケッチをしているんだよ。私としては部室でやってほしいがね」

 

 本を読みつつ、千曳先生がそう補足してくれた。そうか、見崎は望月と同じ美術部だったのか。初めて知った……。

 そういえばこの間見崎の家に行ったとき、霧果さんが「部活動の」と言いかけたことを思い出した。今思えばあの時は2人のギクシャクした関係とか、藤岡さんのこととかで頭が一杯で忘れていたのだった、とようやく気づく。

 

「見崎、絵描くのが好きなの?」

「描くのも好きだけど……見るほうが好きかな」

「そうなんだ……。あ、もしよかったら描いてる絵見せてよ」

 

 が、これは少しばかり配慮を欠いた頼みだったかもしれない。彼女は一瞬、戸惑ったような表情を見せた。

 

「……あんまり見せるものじゃないから。完成したら、見せてあげないこともない、かな」

「でも美術部って文化祭で展示とかあるんじゃない?」

「……ある、かな」

「じゃあどちらにしろそのときは見崎の作品を見られるわけだ」

「ここに描いてるものとは違うけど、ね。……そういう榊原君こそ、部活入らないの? 望月君に美術部に勧誘されてたでしょ? 確か美術系の学校も考えてるとかって……。今から入部しても、文化祭の展示には作品間に合うと思うよ」

「僕は……」

 

 正直、返答に困った。実を言うと絵はうまくないのだが美術に興味があり、そっち方面の学校に行こうかと思っている、とは以前怜子さんと相談したことがある。だがあの人自身が兼業画家なわけで、大抵親から反対されるだの潰しが利かないだの、かなり現実的なことを言われてしまった。だがそれでも「やってみる前に諦めちゃうのは、かっこ悪いんじゃない」とも言われ、現在進行形で悩んでいる。

 だから美術部に入るということ自体、まんざらでもなかったりする。しかも見崎がいるとなればなおさら悪くないと思えてしまう。とはいえ、今はテスト準備期間中。この後は夏休みに入るわけで、それが空けてから入部となると文化祭まで日が浅い。作品を作るとして展示までこぎつけられるか、その前に部内での人間関係はうまくいくかとか心配になってきてしまうのだった。

 

「……君達は勉強しに来たのだろう? なら、雑談はほどほどに、その目的を果たしたまえ。……そして榊原君、部活動に困ってるなら演劇部は変わらず部員募集中だ。うちに来てくれても構わないよ」

 

 と、ここで千曳先生が横槍を入れてきた。しかも勧誘付きで。演劇部も面白そうといえばそうだが……。まあ僕にはあまり向かないんじゃないかと思う。

 そんな風に自分の中で考えをまとめ、千曳先生の誘いを断る意味でも「さて」と僕は荷物の中から筆記用具を取り出した。

 

「それで見崎、何を教えてほしいの?」

「基本的に理数系全般。国語と英語は問題ないんだけど、数学は今回結構危ないかも」

「ああ、そういえば中間の時も国語は相当時間余してたっけ。英語も得意なんだ」

「……英語かっこいいと思うんだけど。だから好きなの。ありふれた文章を英語で言うだけでなんだかかっこよく聞こえるし。欲を言うとドイツ語とかイタリア語とかのほうがかっこいいと思うけど、中学校じゃ教えてくれないから、それは今後の楽しみにしておくの」

「やっぱり……見崎変わってるね」

 

 英語がかっこいい。うん、今まで1度も抱いたことのない発想だ。なんで国によってこんなに言語が違うんだ、としか僕は思ったことがなかった。まったく昔の人はなんでバベルの塔なんてものを作ろうとしたのか、とまで思ったことがあるほどだ。彼らがそんなものを作ろうとしなければ神々の怒りを買うことはなく、今日(こんにち)でも僕達は共通の言語で話すことが出来たのだろうから。

 ……などと、まあそれを本気で信じているほど信心深いわけではないし、世界がこれだけ広ければそれは独自に言語が生まれるだろうということもわかってはいる。とはいえ他の言語、特に英語を「かっこいい」という目で見たことはやはり今までないだろう。

 

「……英語、かっこよくない?」

「あまり思わないかな。それよりは古き良き日本人の、慎み深い言い回しや表現のほうに僕は感銘を受けるよ」

「ならやはり演劇部に入るのはどうだろうか。それこそ古き良き日本人の……」

 

 まずい、話がややこしくなってきた。時々千曳先生という人がどんな人かわからなくなる。最初は小難しい人だと思ったけど、予想以上に面白そうな人だとは思う。だけど、それと演劇部に入るかはまた別な話だ。

 このまま目的を果たさずに時間だけを浪費するのはよろしくない、と僕は見崎に「じゃあまず数学から……」と事態を進めるように促す。彼女は教科書とノート――それもお世辞にもきちんと板書を取れてるとは言いがたいノートを僕の前に開いてみせた。

 

「それで……。どこがわからないの?」

「よくある話。……どこがわからないのかわからないの」

「あのねえ……」

 

 こりゃまずい。今日1日では到底終わりそうにない。しばらくはここ通いになるかもしれないと僕は頭を抱えた。だがまあそれもいいだろう。「人に物を教えることは自分に教えていることとも同義である」と言う言葉を聞いたことがある。もっとも、言った人は忘れた。もしかしたら僕かもしれない。とにかく、僕は復習が出来るわけだし、何より……見崎とこうやって放課後一緒にいられるのは、正直言って嬉しい。

 

「……じゃあとりあえず今回の範囲だから……中間テストの後のところからいくよ」

 

 今日授業で使ったページから大分戻して、僕は見崎の数学を教えることとなった。そして早くも不安感が胸を覆い始める。

 一体今何ページ戻しただろう。これをやりなおすとなると……。いや、考えるのはよそう。他ならぬ見崎からの直々の頼みなのだ。そして僕はそれを引き受けたのだから、出来る限り力になってあげようと、先月ぐらいにならった部分の解説を始めたのだった。

 

 




設定資料集のお陰で色々とすごく捗る

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