あなざー ~もしも夜見山北中学3年3組に「現象」がなかったら~   作:天木武

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#23

 

 

 

 中央の大階段の下は物置となっていて通り抜けは出来ない。迂回して大階段の前を通る。立派ではあるが落ちてきたら怖いだろうなというシャンデリアを見上げつつ、正面から見た場合の左側へと足を進めた。

 こっち側はまず事務室、隣接して管理人室と僕達は入れない、というか直接的に関係のない部屋が続く。その隣のオープンな場所が談話スペースとなっている。

 案の定、というか、そこは既に数人に占拠されていた。自販機は2台、その前に数人が座れるソファが背中合わせで2つずつ置いてある。そこに座っているのは猿田君、王子君の吹奏楽部コンビに同じく吹奏楽部の多々良さん。さらにその多々良さんの前の席である藤巻さんと、運動部繋がりで軟式テニス部である藤巻さんの同室の水泳部の江藤さんの5人だった。

 

「お、またペアぞな」

 

 独特な口調で茶化し気味に言ってきたのは猿田君だった。そう言ってる君達も男女一緒にいるじゃないか、と返したいが不毛なことになりそうなのでやめておくことにする。

 

「また、ってことは何人か通ってるの?」

「辻井柿沼に中尾杉浦。三神先生と望月も入れちゃっていいのかな?」

 

 茶髪気味の、東京にいたころはそこそこ見ていたような「いかにもイマドキの女子」という雰囲気の藤巻さんが指を折って数える。風見桜木ペアはこの前を通過していないのか。

 まあとりあえずその話はほどほどにして僕は2台ある自販機のラインナップを見る。……こういう古い建物だから古い自販機、かと思ったら街中で見るものと対した変わらないものが、別メーカーで2台あるだけだった。大抵ホテルの自販機というものは少し値段が高めな気がするのだが、それが据え置きというだけでも善意を感じる。

 

「榊原君も柿沼さんと一緒でネタ探しか何かかい?」

 

 僕があまりにしげしげと自販機を眺めていたからだろうか。不意に王子君がそんな風に尋ねてきた。

 

「そういうのじゃないよ。古びた建物だし、置いてある物も変わってるのかなと思って見てただけ」

「ああ、そういうことか。随分熱心だったから同じ趣味を持っているのか、あるいは自販機マニアか何かだと思ったよ」

 

 何だ、自販機マニアって……。少なくとも僕はそういう趣味は持ち合わせていない。

 それにしてもやはり、というか、談話スペースと銘打たれた場所は自販機と申し訳程度にソファ、それからついたてで仕切られた形で公衆電話が2台あるだけだった。本当の意味での合宿向けの施設、ということになるのだろう。

 

「何もないでしょ、ここ。部活の合宿場所としてお世話になってて、その点ではいい場所だけど……。そういう目的がない場合、遊ぶものがないと退屈になる場所なのよね」

 

 と、自慢の長い黒髪をひと撫でしつつ多々良さん。そういえば吹奏楽部はここを合宿場所に使っているという話だったか。道理で詳しいわけだ。

 

「ま、一応対策としてトランプを持ってきてるから、暇で暇で困った時は一声かけてほしいぞな」

 

 そう言って猿田君は屈託の無い笑みを向けてきた。無いとは思うが、もしものことを考えて「その時はよろしく」と一応返事を返しておくことにした。

 

「榊原君、先行こう」

 

 そこで見崎にそう促された。確かにまだバルコニーに行っていない。先生達の部屋にある方の階段から上に行くかと考え、「じゃあもうちょっと見て回るから」と言い残し、僕はその場を離れることにした。

 そうして談話スペースから離れて角を曲がった辺りだった。それまで僕を引っ張るように歩いていた見崎が速度を緩め、ため息をこぼしたのがわかった。

 

「……愉快な人達だとは思うけど、疲れる」

「思っててもそれは口に出しちゃダメだよ。特に本人達の前じゃ」

 

 まあ見崎の気持ちもわからないでもない。彼女は静かな場所を好む傾向があるようだし、人付き合いも得意な方ではないだろう。とはいえ、心配して声をかけてきてくれてるわけだからそれを無下に扱うのもあまりよろしくないとも思うわけだが。

 

「そこの階段から上に行くと、榊原君の部屋の近くに出るんだよね」

「えっと……。しおりの見取り図によるとそうだね」

 

 今僕達がいる付近の角部屋が客室の中で1番大きな106号室。おそらくここは4人ぐらい入れるのだろう。このまままっすぐ進んで千曳先生の102号室と久保寺先生の101号室を過ぎれば階段があるはずだ。そこを目指そうと足を進め、102号室の前を過ぎようとした時だった。

 

「……ああ! なぜ私の愛は届かぬというのか! どれほどまでに請おうと、祈ろうと、我が願いが叶わぬというのなら……。私は絶望と共にこの手を血で染め、そしてあの方の愛でそれを洗い流そう!」

 

 突然、部屋の中からそんな声が聞こえてきて、思わず僕と見崎は身をすくめて足を止めた。今の声は赤沢さんのはずだ。はず、というのは、普段の彼女の声以上に張った凛々しいものだったために一瞬わからなかったのだ。次いで今度は聞き取れないが、何かあれこれと言っているような男の人の声が聞こえてくる。

 

「……そっか。ここが千曳先生の部屋、ってことは演劇部の練習してるのね」

 

 見崎にそう言われてなるほどと納得した。そういえば海に行った時に車の中で聞いた話だと、「叶わぬ恋と嫉妬に狂って王子に刃を向ける騎士の物語」とかだったはずだ。今のセリフから察するに大詰めの辺りの部分だろう。それにしても……。

 

「赤沢さんすごいな……。普段と別人みたい」

「文化祭の演劇部、毎年面白いよ。赤沢さんの演技もとても上手だし」

「桜木さんもそう言ってたかな。ちょっと聞いただけだけど、今のでなんとなく納得できたよ」

 

 同時に、さっき談話スペースで中尾君と杉浦さんが一緒に歩いていた、と聞いたのを思い出した。仲が良い赤沢さん達演劇部の面々がこの部屋で練習しているとなると杉浦さんは1人だったかもしれないわけで、そこで中尾君が声をかけて一緒に歩くというのは普段の顔ぶれから演劇部を抜いた場合としてもなんらおかしくはないのだろう。……というのは建前としても十分に成り立つ。本当のところは……本人たちのみぞ知る、と言ったところか。

 

「……上行こう。なんだか練習を盗み聞きしてるみたいであんまり良い気分じゃないかも」

 

 同感。それにストーリーも楽しみにしているのだから、それを知ってしまってはやはり文化祭での面白みも減ってしまうだろう。見崎と並んで、そのまま階段の方へと向かうことにした。

 

 両脇の階段は中央階段と違い、あくまで補助的な役割らしい。階段の幅も人2人が通れる程度で、この館の入り口を入ってすぐ目にするそれと比べると半分以下のサイズでしかなかった。それでも中央階段に遠い角を曲がってからの客室の住人にとって助かることは間違いない。あまり考えたくないが、もし火災が起きた場合、いち早く1階に逃げるには僕や見崎はこの両脇にある階段を使った方が早いのは確実だろう。

 そんなことを考えながら階段を上り切ると、確かにそこは201号室だった。僕が割り当てられた202号室の前を素通りし、角を曲がって男子の部屋の入り口を右手に歩く。フロント部分の吹き抜けに出ると、まだ先ほどのソファで金木さんと松井さんは話しているようだった。が、バルコニーには誰もいなかった。運がいい。今度こそ行きたかった場所に行けるなと思いつつ、僕は外の空気の元へと出る。

 しかし、少し残念なことに思ったよりもバルコニーは手狭だった。あと2人も来たら結構な人口密度になりそうな程度の広さしかない。まああくまで外の空気を取り入れるために窓を作って、ついでに入り口上のスペースを有効活用しようという感じの場所なのだろう。多分。

 

「あんまり広くないね」

 

 少し遅れて出てきながら、見崎も僕と同じ感想を抱いたようだった。ただ、そのすぐ後に「まあこのぐらいの方が落ち着く雰囲気だけど」と、彼女としてはこのぐらいのスペースでも好印象らしかったが。

 ここからは中庭と入ってきた門がよく見える。眺めとしてはなかなかいい。今は夏場なので外の空気は少し暑いが、ここは丁度日陰になることもあって不快なほどではない。元はどこかの企業の保養所、ということはお酒を飲んだ後ここで夕涼みなんてこともあったのかもしれない。とはいえ、酔った状態で足元がおぼつかないのではここから落ちる可能性も否定できないわけで、いくらここが2階とはいえど落ち方が悪ければ大怪我や命に関わる場合もあるだろう。……まあどの道飲酒年齢に達していない僕が今考えても詮無いことではある。

 と、そんなことを考えながら視線を彷徨わせると、中庭を歩く1組の男女を見つけた。見れば望月と三神先生。やはり部屋を出た後、彼は110号室に直行したらしい。池、と呼ぶには少々小さい気もする水溜りの前で何やら話をしている。池と建物をバックにデッサンしたら面白そう、とか話しているのだろうか。

 そこでそういえば、とふと思い出した。先週の海の時に美術部のOBOGと話した内容。まだ見崎には言っていなかった。

 

「ねえ見崎」

「何?」

「もし僕が夏休み明けに美術部に入る、って言ったら、見崎は、その……嬉しい?」

「……榊原君、美術部に入るの?」

「まだ未定。だけど先週海に行ったときにちょっとそういう話が出て。なんだか文化祭に間に合うように作品展示さえ出来るなら問題ない、みたいな話も聞いたからどうするか迷ってて」

 

 だが僕の期待した反応とは異なり、見崎は特に喜ぶでもなく、ただ「ふうん」と相槌を打っただけだった。ちょっと反応が薄かったことに……まあショックといえばショックだ。

 

「入部したとして、作品の予定あるの? 何か制作? 粘土辺り?」

「あ、やっぱりそれ部内で慣習化してるの?」

「短期間で出来るから、困ったらそれっていうのは半ば伝統っていうか、逃げ道みたいにはなってる」

 

 やはり15年ぐらい前からその風習は変わってないらしい。いや、ひょっとしたらその話をした当人の松永さんが作り出した風習なのかもしれないが。

 

「見崎はどうしてるの? 絵描いてるんだっけ?」

「油絵。……でも夏休み明けてからじゃ絶対間に合わないよ」

「だよね。まあまだ考え中だし、入るってなってもおとなしく伝統に則って粘土細工辺りにするつもりだけど。ただ、美術関係に興味はあるし、もし可能なら何かちょっと制作してみたいって気はあったからさ」

「そう」

 

 またしても薄い反応。別に彼女目的で入部したい、と言っているわけでは無いのだが……。それが理由の何パーセントかを占めていることは否定できないわけで。それに対してこうも微妙な返事が続くと、前向きに考えていた気持ちが少しげんなりしてしまうのは否めなかった。

 

「……館内歩き終わったし、そろそろ部屋に戻ってもいい?」

 

 そして追い打ちをかけるように彼女はそう切り出した。元々見崎は静かな場所で1人でいることを好むことが多い。そんな彼女を連れまわしたのだから半ば無理を聞いてもらった、と言っても過言ではないだろう。となれば、そこで「ダメ」とは言えず、僕は「まあ歩き回ったもんね……」と適当なことを言ってお茶を濁すことしか出来なかった。

 じゃあまた後で、と言い残して見崎がバルコニーから去ろうとする。ああ勅使河原よ、お前の気持ちが少しわかった。本当にお前という奴は打たれ強いんだな、なんてことを考えてため息をこぼしつつ、中庭を何気なく眺めることにした。

 が、遠ざかった気配が止まった。それに気づき、僕は思わず一旦外に向けていた顔を館の方へと戻す。その察知した気配は間違っていなかったと証明するかのように、見崎は顔こそこっちを向けていなかったがまだその場で足を止めていた。

 

「……さっきの、美術部の話だけど。強要するつもりはないけど、榊原君が入部してくれるなら、私としては嬉しい……かな」

 

 ポツリとそう言い残し、今度こそ見崎は館内へと戻って行った。やや面食らった形となり、僕は彼女の姿が客室の方に消えていくまで呆然と見続けることしか出来なかったが、その姿が消えてから思わず再びため息をこぼしていた。

 ……今のはずるい(・・・)ですよ、見崎さん。一見まったく興味なさそうに振舞っておいて、去り際にその一言。本人としては意図的にやったわけでは無いのだろうが、人間というものは一旦ないと諦めかけた物があった時というのは、嬉しさを倍増して感じるんじゃないかと思っている。

 これは後で部屋に戻ってきた望月に相談するしかないようだ。彼女にそう言われてしまった以上、僕としてはこの案件は前向きに検討せざるを得ないのだから。

 

 

 

 

 

 これまで述べてきている通り、咲谷記念館は地元企業の保養所だったところを、夜見北に寄贈された施設だ。だが、保養所というのはホテルとはノットイコールだ。……いや、今現在僕の心の中でその断定系は「はずだ」という推論が入る形に弱まっている。と、いうのも……。

 

「すげえ、なんだこのハンバーグ! めちゃうめえ!」

 

 勅使河原が発したその一言に尽きる。この料理の味はその辺のお店のレベルを遥かに越えている。それこそ、どこかの高級ホテルの夕食のハンバーグと間違えるほどだ、とまで言ってしまっても過言ではない。事実、僕と彼だけの舌がおかしいことでないのは他のクラスメイトのざわめきにも似た「おいしい」と聞こえてくる感想からも裏付けされているだろう。

 

 今は夕食の時間である。大抵こういうところの食事というものははっきり言ってしまえばあまり期待は出来ない。配膳されたメニューを見たときに僕の中でその気持ちはより強くなった。洋風ということらしく、プレートに盛られたご飯とメインがハンバーグ、そこに付け合わせとしてフライドポテトと人参グラッセ、茹でたブロッコリー。さらにサイズは小さいがエビマカロニグラタンも付け合せに並んで鎮座していた。それからグリーンサラダにスープ。ほぼお約束といってもいいメニューだな、と失礼ながら僕は見た瞬間には思った。ただ少し違うとすれば、スープがどうやら冷製スープらしい、ということだった。大抵このラインナップならコンソメスープ辺りが無難というか妥当というか、作る側としては面倒ではないだろう。しかし冷房が効いているとはいえ暑いこの季節に暖かいスープではなく冷たいスープを選んだという点は僕の中で評価が高かったというか、どちらかというと違和感の方が強かった。冷製というのは冷ますというだけでも何気に手間がかかる。それをわざわざ選択したということが、はてと心の中で引っかかっていた。

 

 そしてメインのハンバーグを一口食べた瞬間、その違和感は間違いなかったと確信したのだった。これは勅使河原じゃなくても冗談抜きでうまいと思う。元々の肉の品質、焼き方、捏ね方、おそらくその辺りも素晴らしいのだろうが、何よりこのハンバーグを「ホテル級」とまで思い込ませた所以(ゆえん)は、かかっているデミグラスソースだ。これは素人はおろか、失礼かもしれないがその辺りのファミレス程度では到底真似できない。このソースがハンバーグを噛み締めた時に溢れる肉汁と、肉本来の味を殺していない絶妙の焼き具合と捏ね具合に合わさることによって、まさにプロ級の味を演出している。これは尋常ではない。

 

「喜んでいただけたようで光栄だ」

 

 そう言ったのは食堂と厨房を結ぶ扉から出てきた千曳先生だった。さすがにコック帽こそ被ってはいなかったが、長い髪を後ろで1つにまとめ、服の上にエプロンを着けている。そういえば料理が趣味とか言っていたはず。ということはこれを作ったのはこの人ということになるのだろうか。

 

「特にソースは前乗りした一昨日から仕込んである。……さすが本格的な調理設備のある施設は違う。私の家では長時間ソースを仕込むのは難しいが、ここなら遠慮なく長時間、材料もふんだんに使って作ることが出来るからね。肉の方も知り合いに頼んでいい肉を仕入れて挽かせてもらっている。それから暑いだろうからスープは冷製にしてみた。こっちもそれなりに手はかかっているから、おいしいと思ってもらえると嬉しいね」

 

 無愛想にそう述べた千曳先生だったが、なんだか普段よりどこか得意気な表情だった。かく言う僕も自分で作った料理を見崎に「おいしい」と言われた時は嬉しかったし。ちなみに勧められた冷製スープはじゃがいもをベースにその他の野菜も使ったポタージュらしい。これがまたおいしい。これだけの人数分を作るのは骨であろうに、丁寧に作られている感じがスープを通して伝わってくる。やはりそのうちコツなどを聞かねばなるまい。

 

「確かに部活の合宿の時にちょっと夕食作りに手を貸したって話は聞くことがあったけど……。本格的にやるとここまでだとは想像してなかったわ……」

 

 そう呟いたのは同じテーブルの赤沢さんである。部屋が同じ望月と食堂までは一緒に来たのだが、夕食のテーブルは自由、ということで言うまでもなく彼は僕と同じテーブルには着かなかった。さてどうしたものかと僕が考えるより早く、既に部活の練習は終えていたのだろう、赤沢さんが杉浦さんと中尾君を連れて僕を同じテーブルに誘ったのだった。まだ見崎は来ていなかったし、そこで彼女の誘いを無下にするのもなんだか気が引けたので今同じテーブル、ということになっている。

 

「料理をする榊原君からみてこの味はどうなの? やっぱりおいしい?」

「それはもう。このソースは数日かけて仕込まないと多分出来ないよ」

「泉美の場合、聞かなくても専属料理人の作る料理の味と比較してわかるんじゃないの?」

「いるわけないでしょ、そんなの! ……まったく人のことを何だと思ってるの?」

「お嬢様でしょ」

「俺もてっきり赤沢さん家にならいると思ってたんだが……」

 

 杉浦さんと中尾君にそう畳み掛けられ、思わず赤沢さんは押し黙った。次いでポツリと「……いたらもっと腕前上達してるわよ」と呟くのが聞こえる。

 

「……まだ諦めてなかったのね」

 

 そういえばそんな話もあった、とその話になって思い出した。つまり僕も忘れていたわけで、てっきりもう諦めたか立ち消えになったと思っていた。今の杉浦さんの一言じゃないがまだ諦めていなかったのかとも思う。得手不得手は人によってあるわけだし、そうじゃなくても赤沢さんは頭が良いうえに、噂話と盗み聞きから演劇の方もかなりすごいとわかる。あれもこれも出来てしまったのでは天は二物どころか三も四も与えているということになってしまう。

 ……まあそうは思ったが、下手なことを言って刺激するのもよろしくないだろう。沈黙は金だ。僕は余計なことは口にせず、黙ってこの料理の味を堪能しようと思った。

 

「ちなみに明日の夜の献立はビーフシチューの予定だ。もう仕込み終わっているから、これから1日寝かせることになる。明日の登山と清掃で腹を空かせておいてもらいたいところだ」

 

 千曳先生がそう言い終えたところで、おお、と生徒達から歓声が上がる。今日のハンバーグがこれだけおいしいのだから、明日のビーフシチューも期待できる、ということだろう。事実僕も楽しみだ。

 

「さあさあ、皆育ち盛りなんだからどんどん食べてくださいね。ご飯のおかわりも用意してありますから」

 

 そう言って管理人の妻の方が食堂隅の机に大きな炊飯ジャーを置いた。確かにこれだけおいしいおかずならご飯も進みそうだ。

 

「ハンバーグのおかわりはないんすか!?」

「残念だがそれはない」

 

 そこで調子に乗った勅使河原だったが、あっさりと退けられた。まあおかわりはなくても、ソースをなんとか手軽に作れないか、暇を見つけたら後で聞いてみたいとは思う。とにかく、食事は間違いなく豪華な合宿だなと思うのだった。

 

 

 

 

 

 食後は再び自由時間だった。さすがに外は暗くなっており、出来るだけ館内で過ごすように先生に言われたこともあって、館内は先ほど歩き回ったときより明らかに人の気配が多くなっていた。望月も今度は出歩かずに部屋にいるようだったので、かねてから考えていた美術部入部の件を相談してみることにした。彼も海に行ったときにちょっと話したこのことを頭に入れていてくれたのか、さっき2人で歩いているときに少し話題に上がったらしい。望月も三神先生も特に問題ないだろうという見解らしく、男子は少ないから短期間でも是非、と言われた。元々前向きに検討していて段々と心は入部の方に決まりつつあったので、これはありがたいと思う。

 そこまではよかった。その辺りまでを望月と話したところで、ノックもなしに部屋に乱入者が現れた。その男の名はトラブルメーカーの勅使河原。奴は入ってくるなり青ざめた表情で「ああ、やべえ、やっちまった……」などと呟いて肩を落としている。

 

「何、どうしたの?」

 

 こんな様子のこの男は珍しい。何か本当にまずいことでもやってしまったのかと思い、心配してそう尋ねたのだが――。

 

「赤沢に致命的に勘違いされちまった……」

「勘違い?」

「俺はあいつをダメ元でバルコニーにでも誘おうと思っただけなんだよ。それであいつの部屋の前まで行ったところで、ちょうどあいつと出くわして……」

 

 ああ、心配して損した、とちょっと思ってしまった。部屋の前まで行った、確実にそう言った。つまりこの男はあろうことか2階の右側、つまり女子の部屋の方に行ったということになる。日が昇っているうちはまだいいかもしれないが、さすがに夜のこの時間に女子側に行くということはなんだかあまりいい気分ではないというか、下心があるようで気が引ける。だから部屋でおとなしく望月といたわけだが、それをまったく考えずに勅使河原は特攻したらしい。

 

「で、誘えたの?」

「それどころじゃねえよ! あいつ、俺を見るなり『なんであんたが女子の部屋側にいるのよ』とか『部屋覗くつもりだったんでしょ』とか、あることないこと散々ぶつけてきやがって……。今日のはやべえ、マジでやべえよ……」

 

 自業自得だろ、と言いたかったが、ここまで落ち込んでるこいつにさらに冷たい言葉を浴びせるのはなんだかかわいそうだった。望月と目で合図し、仕方ないと励ますことにする。

 

「大丈夫だよ、きっと。赤沢さんもそんなに根に持たないと思うし。相手が勅使河原君ならいつものことだと思って多分明日には忘れてるよ」

「望月……全然フォローになってない……」

 

 僕達のこんなやりとりにもこの男は何も返してこない。これは相当に重症だ。とりあえず「あんま気にすんなって」とか、「赤沢さんもそんな気にしてないと思うよ」とか適当にフォローを入れるが、効果が薄いらしい。部屋の壁を背に体育座りという実にこの男らしくないへこみ方をしている。

 どうしたものかと困っていたところで、ようやく助け舟が現れた。勅使河原と同じ部屋の風見君だ。一応事情を説明したのだが、「いつものことだし自業自得だからいいよ。寝れば忘れるのがこいつだし。迷惑かけてごめんね」と一方的に引き摺って部屋を後にしたのだった。

 

 それで完全に調子を狂わされてしまった。望月にはまだ相談したいことがあったのだが、もうそういう気分ではなかった。段々と消灯時間も近づいてきていたし、交代で入浴を済ませ、明日の山登りに備えてその日は消灯時間にはもうベッドに入ることにした。

 

 が、少々気合を入れすぎたらしい。朝食後、出発まで随分と時間に余裕があると思ったら、夜見山神社の方は30分もしないうちにその前を通過、その後も山登りというよりはハイキング気分で、辛い道などほとんどなかった。そして1時間程度で山頂へ到着。確かに祖母に言われたとおり見晴らしは非常にいい。夕暮れに染まる町並みをここから眺めたらさぞかし素晴らしい景色だろう。

 時間としては少し早いが、そこでお昼ということになった。お弁当はやはり千曳先生が手を加えたらしく、非常においしかった。いっそ小料理屋とか開いた方がいいんじゃないかと思う。いい景色を背景に写真を撮る人もいたようで、しばらく食休みをしてから来た道を引き返すこととなった。

 

 夜見山神社まで降りて戻ると、既に千曳先生が待機していた。「文化財を大切にすべきという久保寺先生の考えには全くもって同意だからね」ということらしい。夜見山神社はこの街の名前がついているというのに、思ったより小さい。が、境内の中は手入れが行き届いているとは言いがたく、やはり合宿前に先生が言ったとおり「市もまともに管理してない」という状況らしい。暑い中での作業は大変ではあったが、クラス全員ということが幸いしてさほど時間がかからずに作業を終えることが出来た。

 

 結論から言ってしまえば、その後は特に何も無かった、というところだろう。夜のビーフシチューは思わず部屋全体からため息がこぼれるほどに美味であったし、食後は時間という万能薬によって復帰した勅使河原が中心となってあまり話したこと無いようなクラスメイトとカードゲームに興じたりもしたが、初日の見崎との館内探検のような心躍るようなイベントは特に無く。と、いうか、2日目以降は見崎と話すこともあまりないままに合宿は最終日までの日程を無事に消化してしまった。

 しかし代わり、と言っては何だが、彼女以外にも普段クラスであまり話さないような人達と話せたとは思う。渡辺さんやら柿沼さんやら、意外な一面も見れたことだし。それに、僕の勝手な思い込みかもしれないが、見崎は「たまに繋がるのは悪くない」と言ってくれたが、四六時中「繋がっている」のはあまり好ましくは思わないのではないか、と考えている。が、少なくとも僕が美術部の話を振ったとき、「入部してくれるなら嬉しい」と言ってくれたのは確かだ。だったらその答えで十分だろう、と思うのだった。

 

 何はともあれ、2泊3日のクラス合宿、3年3組の皆との楽しい思い出となったことだけは確かだった。

 




原作では合宿1日目までしか描かれていないので(厳密にはしばらく経った後の様子の恒一と鳴が歩くシーンはありますが)原作の時間を越えることになります。
楽しいクラス合宿で火事が起こったりシャンデリアが落ちてきたりバトロワみたいな展開が起こるわけないじゃないですかーやだなー。

ちなみに千曳さんの料理上手は漫画版の設定です。おそらくあの人が唯一コミカルに描かれた場面かと。


一応誰も得しないと思うけど、今回名前出したモブクラスメイト紹介。
・猿田昇……語尾に「ぞな」とつけて話す男子。吹奏楽部所属でクラリネット担当。王子といることが多い。
・王子誠……恒一の後ろの席のイケメン。猿田同様吹奏楽部所属でクラリネット担当。原作の合宿ではバックドラフトで黒焦げに。通称「王子焼き」。
・多々良恵……黒髪ロングの美人な女子。吹奏楽部所属でフルート担当。合宿不参加で台詞もないのに人気があるらしいキャラ。かわいいからかな。
・藤巻奈緒美……茶髪ショートの女子。合宿不参加で特に台詞もなかったが、軟式テニス部という公式設定だけは存在する。
・江藤悠……恒一の斜め後ろ、王子の左の席のショートカットの女子。合宿不参加で特に台詞もなかったが、水泳部という公式設定があり、設定資料集に競泳水着姿のバストアップの絵がある。
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