あなざー ~もしも夜見山北中学3年3組に「現象」がなかったら~ 作:天木武
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5月6日。結局1週間程度と目論んでいた入院期間は大事を取って10日間となり、退院日直後がゴールデンウィークと重なったこともあって、初登校の日はこの日までずれ込んでしまっていた。
今は朝5時。眠れなかった、というわけでもなく、どうやら病院での規則正しい生活の名残のようだ。……まあ今日から登校となるわけだが、授業中に気胸が再々発しないか、とか、新しい環境で友達はできるか、という不安があったから、知らず知らずのうちに目が覚めてしまったという可能性は否定できない。
こんな時間だが既に祖父母は起きているようだった。「年を取ると朝が早くなる」とはよく言ったものだと思う。茶の間を横切ろうとした時に台所の方で祖母が何やら作業している音が聞こえてきた。祖父は、と言うと……。
「おお、恒一か。早いなぁ」
茶の間でテレビを見ているらしかった。僕に気づき、声をかけてくる。
「おはよう、おじいちゃん」
「恒一も今日から中学校かあ。中学生になったかあ」
「いや、僕はもう中学3年生だよ」
「そうかあ。大きくなったなあ」
1年半前に会った時からこの兆候はあった。早い話が、祖父には認知症の気配があったのだ。最近は以前にも増してその様子が顕著になりつつあるようにも感じる。
「あら、恒一ちゃん、起きてたの。おはよう」
僕と祖父の話し声を聞いたからだろうか、祖母が台所から顔を出してきた。祖母は祖父と違って全くそういった様子はない。未だしっかりしておりまだまだ元気、車の運転もお手の物だ。おかげで入院中もいろいろと助かったのは事実だ。
「おはよう、おばあちゃん」
「オハヨ、オハヨー。レーチャン、オハヨー!」
「はいはい、おはよう」
呆れ声で僕は聞こえてきた
「オハヨ、オハヨー!」
「怜子は今日も元気だなあ」
この九官鳥を買ってきたのは祖母らしい。今の症状が見え始めた頃の祖父が、日中に「怜子はどこだ?」と自分の娘を探して時々辺りを放浪してしまうこともあったからだそうだ。2人いる娘のうちの片方がどこぞの馬の骨と知れない大学教授に連れて行かれてしまった、というのもあったのだろう。残ったもう1人の、つまり僕の母とは年が離れた娘は手元から離したくないという思いが強くあったのかもしれない
そんなことがあり、その怜子さんの代わり、というわけじゃないけど動物を飼うことで気を紛らわすことが出来るのではないか、という話になったそうだ。その時に擬似的にでも話せる相手の方が症状がよくなるかもしれない、と九官鳥を選んだという。
それ以来九官鳥を怜子さんと思い込んで話しかけることが多く、名前を決める時に「自分の分身みたいなものだから」と、怜子さん本人がレーちゃんと名づけたのだった。残念ながら祖父の症状はあまり改善された様子はないが、それでもレーちゃんと話してるときは嬉しそうにも見える。
「ご飯これから用意するから、もうちょっと待っててね」
「あ、気にしないで。僕が早く起きちゃっただけだから。ちょっと縁側で外の空気でも吸ってくるよ」
僕はそう言い残して、言葉どおり縁側へと向かった。天気のいい外への戸を開けて縁側に腰掛け、一つ大きく伸びをする。うん、体の調子は悪くないみたいだ。
一息ついたところでポケットに手を突っ込み、携帯電話を取り出す。さて、どうしたものかとそのまましばらく手にした携帯を見つめていた。
父には退院前に一度電話をかけてはいる。気胸が再発したが心配するほどではない、ということを伝えるためだった。
電話の向こうで父は少し驚いたようだった。だがその後で「まあ俺も2度やってるからな」と、言って笑っていた。いや、こちらとしては笑い事ではないのだが、「一度再発しただけだからもう次はないだろう」とも言っていた。どうも血筋だったらしい。が、根拠はそれしかないだろうと言えなくもないわけだが。
しかし一応報告はしているため、別に今無理にかける必要はない。こちらが朝の5時過ぎだから、向こうは深夜2時ぐらいだろう。夜型の父だが、もう寝ているかもしれない。そう思い当たった時点で、別に今電話をかける、という選択肢を消し去ってもよかった。が、その携帯をポケットにすぐには戻せなかった。今日から新しい学校だから、何か踏ん切りがつかないために、親の言葉が聞きたいとか迷っているのかもしれない。
まあいいか、とため息をひとつこぼす。もし父の邪魔をしてしまったとあれば気が引ける。そう思って携帯をポケットにしまおうとしたその時だった。携帯が震え出す。
はたして発信者は、今自分がかけようとしていたその相手、父からだった。
「はい、もしも……」
『熱いぞ! インドは!』
携帯を耳に近づけると同時。スピーカーから響いてきたやかましいほどの父の声に思わず耳を離す。それを一瞬迷惑に思いつつも、元気でやってることに変わりはないかという安心感も心の中に生まれていた。
「……何? どうしたの?」
『なんだ、挨拶だな。今日から学校だろう? お前のことだ、緊張でなんだか早く起きちゃった、とかなってるんだろうと思ってな』
図星だ。さすがは親か、見抜かれている。
『そっちは朝の5時ぐらいか?』
「まあそんなところ。でもインドは夜中じゃないの?」
『ああ、深夜2時ってところだ。これから寝るところだ』
「そう。相変わらず夜遅いんだ。……母さんは?」
『理津子か? 今シャワーを浴びてる。なんなら電話を持っていってやろうか?』
「あ……ならいいよ。元気だってだけ伝えておいて」
そもそも携帯は防水じゃないだろうに。前回も丁度買い物に出ていたとかで母の声は聞きそびれてしまったが、元気なようだから、と諦めることにする。
『そうか。……まあ気胸について前も言ったと思うが、俺も再発はしたが再々発はしてない。だから心配はするな』
心配はするな、と言われてもそれだけではいそうですか、とは納得しかねてしまう。根拠が弱すぎるというか適当すぎやしないか。しかし父なりに僕を安心させようとしているのだろう。
「わかった。そう思うことにするよ」
『病は気から、だ。あんまり気にしすぎるな。だが一応健康には気をつけておけよ。お前は俺と理津子にとっちゃ大切な一人息子なんだからな』
「大切な……ねえ……」
祖父母の家にその息子を預けたのに、と言おうかとも思ったが、母に父と一緒についていくように言ったのは僕だ。そしてその時に僕を信頼してくれたから今2人はインドにいるわけで、だったら余計なことは言わない方がいいと判断した。実際、大切に思ってるからこうやって電話をくれてるわけだろうし。
『ともかく、お前は俺たちの半身みたいなもんだ。怪我とか事故とかもやめろよ。あとは新しい学校を満喫でもして来い』
「うん、わかった。……じゃあ切るよ」
「おう」という声を聞いた後で通話を終える。携帯をポケットに入れて何と無しに空を見上げた。
「半身……か……」
そして今さっき電話の向こうで父が言った、僕に対する言葉を口にする。
『待ってるから。可哀想な、私の半身が』
この間エレベーターで一緒になった不可思議な少女。その少女も、「半身」という単語を使っていた。
「ミサキ……メイ……」
あの時の、言葉にしにくいような感覚。不気味、というよりミステリアス、というか。奇妙、というよりそれでいて惹かれるところがあったというか。彼女の名を呟きつつ、僕はその感覚を思い出していた。
もしかしたら同じクラスだったりして。……いや、そんなよくあるドラマや漫画じゃあるまいし。そもそも学年が一緒かすらわからないか。
一度大きくため息をこぼしたところで、
「恒一ちゃん? ご飯できましたよ」
聞こえてきた祖母の声に空想をやめて意識を現実へと戻した。そして立ち上がりつつ祖母の方へ返事を返す。
「はーい! 今行くよ!」
◇
「私がクラス担任の久保寺です。よろしくお願いします、榊原君」
「榊原恒一です、よろしくお願いします」
祖母に送ってもらい、夜見山北中学校に初めて登校した僕は職員室へと足を運んでいた。今僕の目の前にいるのが担任の久保寺紹二先生だ。眼鏡をかけた痩せ型の体型は見るからに生真面目そうな、言ってしまえば事務を淡々とこなすような風格に見える。
「体の方はもう大丈夫ですか?」
「はい。体育は無理ですが普通に学校生活を過ごす分には問題ないみたいです」
「そうですか。それはよかった。……成績の方を拝見させていただきました。これだけの成績なら、授業に置いていかれるということもないでしょう。しかし気を緩めず、勉学に励んでください」
「あ……はい」
僕が緊張しないように丁寧に話してくれているのかもしれないが、いやに丁寧すぎる話し方で逆に緊張してしまう。その口調と、さらに僕がさっき受けた印象も相俟って、なんだか普段から苦労しているような、どこか頼りなさそうな雰囲気にも見える。
「何か困ったことがあったら担任の私か……」
そう言って久保寺先生は視線を後方へと逸らす。その視線の先には黒く長い髪を胸元に垂らした若い女性の先生が立っていた。
「
◇
はっきり言って、授業は退屈だった。僕が前いた学校の進み方が早かったのか、今授業で教えられている内容は既に終わっていた。しかし転校初日からいきなり居眠り、などというのもまずい。が、不幸なことに今日は朝早くに目が覚めてしまったせいで、こういう状況になっては眠気が襲ってくる。僕はなんとか意識をつなげようと眠りそうになる目をこすりつつ、どうにか授業を聞こうとしてはいた。
そうしつつ、だがどうしても集中しきれずに、左手の後方へ一瞬チラッと視線を移す。その視線の先、僕が集中できずに、先ほどからどうしても気になってしまっている存在。その張本人である
◇
「榊原恒一です。よろしくお願いします」
人前で挨拶する、という慣れないことをしているのは自分でもわかっていたが、転校してきたのだから、クラスへの挨拶がないということはまずありえない。嫌な緊張感で硬くなりつつ、僕はクラスメイトへ向けて頭を下げた。
視線が一様に集まる、というのはどうも気分がいいものではない。テレビに出ている芸能人とか偉い政治家なんて人たちはよくこんなことに耐えられるなと感心してしまう。
「榊原君はご両親の都合でこちらに越してきました。本当は4月から登校の予定だったのですが、急病で入院したために今日からの登校となりました。皆さん仲良くしてあげてください。よろしいですね」
クラスを見渡してみる。やや時期外れの転校生を珍しく見つめる目が多いが、
奥に向かっていた視線が手前に戻ってきた時、最前列に2人、知っている顔を見つけた。クラス委員の風見智彦と桜木ゆかりだ。桜木さんと一瞬目が会い、小さく微笑み返される。どぎまぎして思わず視線を逸らしてしまった。
「では榊原君はこの列の空いているところに座ってください」
そう言って先生がさしたのは風見君が座っている列、廊下から2列目だった。空いている席は前から4番目、後ろから3番目。随分中途半端な場所が空いてるなと思いつつ、僕は席へと向かう。が、向かいつつ気づいた。本来僕は4月から登校予定、だったらこのクラスの編成時点で座席表は決まっていた、ということになるのではないだろうか。なるほどそれならありえる話かと勝手に納得することにした。
「今日は赤沢さんと高林君が休みですね。では朝のホームルームを始めていきましょう」
先生がそう言った時、丁度かばんを机の横にかけて椅子にかけようとした時だった。窓際の列の1番後ろ、頬杖を着いて外を眺めていた少女の姿に「あっ!」と声を上げそうになった。その彼女との視線の間にいる隣の席の美少年が不思議そうな顔でこちらを見てきたので、怪しまれないように一先ず椅子に腰掛ける。
やや間を開けてもう1度その少女の方を見つめる。今度は外ではなく机を見つめていたその顔に、間違いないと確信して、誰にも聞こえぬようにポツリと彼女の名を呟いた。
「ミサキ……メイ……」
レーちゃんを飼った理由が原作と異なってます。原作では直接的に「現象」が関係しているはずですので。
ですが、そもそも祖父が認知症気味になった原因も「現象」が少なからず関わっているのではないかと言ってしまえばそれまでなんですが……。
それから三神先生のポジションを変更してあります。