あなざー ~もしも夜見山北中学3年3組に「現象」がなかったら~   作:天木武

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 夕暮れの帰り道、僕は1人で河川敷を歩いていた。結局のところ、クラスの出し物は大好評という範疇を超え、全クラス中の文化祭最優秀賞なんてものにまで選ばれてしまった。おかげで勅使河原は大はしゃぎだし、久保寺先生は涙声で「教師冥利に尽きると言うものです」などと言い出すし、文化祭終了後のホームルームは相当浮ついたものだった。

 文化祭の片付け自体は明日になる。今日は冷めやらない熱のまま、この後「打ち上げ」と称して遊びや食事に行く人達も多いことだろう。かく言う僕も勅使河原に誘われた。が、どうにもそういう気分にならず「疲れちゃったから」と断っていた。

 なぜだろうか。クラスの手伝いをさほどやってもいないのだから、別に言い訳に使った疲れというのは言うまででもなくさほどでもない。ただ、体のほうはそうでも心の方がクラス出し物で創作劇なんてものをやって、自分も主役なんてものをやったからそっちは本当に疲れていたのかもしれない。しかしそれよりも、本場演劇部の赤沢さんの演技にやはり当てられた(・・・・・)らしく、余韻に浸ると言うか圧倒されたと言うか、なんだか心が落ち着かず、とりあえず1人になりたい気分だった。

 

『泉美の奴……まさか本番の最後の最後でアドリブ入れてくるなんて聞いてなかったしさー』

 

 綾野さんの言葉が頭をよぎる。一度アクターズハイだかプレイヤーズハイだか、なんとなく経験したような気になっているから、わからなくもないとも思える。赤沢さんはあの時もしかしたら、そんな風になっていたのかもしれない。あれがアドリブかと思うと、正直言って今でも心が震える。ともかく、それもあってあの演技は本当に素晴らしいもので、クラス出し物でやった自分の演技を「まあ我ながら……」なんて思っていた自分としては恥ずかしく思ってしまうものだった。だから、1人こうやって帰っているというのもあるのかもしれない。

 

「ま……一晩寝ればいろいろ冷めるか」

 

 自分に言い聞かせるように呟き、ふと道路わきの土手を下る。そのまま河川敷に腰を下ろし、空を見上げて息をひとつ吐いた。

 

 夕焼けが綺麗だ。そして、勅使河原に半ばでまかせで言ったはずなのに、なんだかやけに疲れた感じがした。今日は別にそこまで見て回ったわけでもないし、あまり見たくない自分の演技を見たわけでもない。それでもなんだか釈然としないでいるのは文化祭の余韻に浸っているのか、はたまたやはり赤沢さんの演技に当てられてなのか。まあもう少しこうやってここで川の流れと夕焼けを眺めていてもいいかなとか思う。

 

 そういえば、以前もこうやっていたことがあったような気がしたのを思い出した。母の帰省についてきたときだったか。当時住んでいた場所の景色ともまた違って、今みたいに河川敷から川の流れと夕焼けをただぼうっと眺め、なんだか綺麗だなとか思っていたこともあったような。

 

 そんな風に過ぎた日に思いを馳せていた、その時。

 

 

「痛ッ!」

 

 カコン、という音と共に頭に何かがぶつかったのを感じた。見れば転がっているのはアルミ缶。それは痛いわけだ。スチール缶でなかっただけまだ救いかもしれない。

 そんなことを考え、頭をさすりつつ缶を手に取って眺めていると、「すみませーん!」という声が聞こえてきた。声の方を振り返ると自分と年が同じか少し下であろう中学生っぽい女子と、その後ろから保護者と思われる男性が駆け寄ってきている。

 

「すみません、うちの娘が蹴った空き缶がぶつかってしまったみたいで……」

「ごめんなさい、本当にごめんなさい。狙ったつもりは全然ないんです」

 

 平謝りに2人は頭を下げてくる。別にもともと怒ってるつもりもないし、これだけ頭を下げられると逆にこっちが申し訳なく思ってしまう。「いや、いいですよ。別になんともないですし」とその場を立ち上がって去ろうとしたのだが。

 

「あ、お兄さん……」

 

 不意に、缶をぶつけた女子がそう切り出した。はて、面識があっただろうか。記憶を探ろうとすると――。

 

「さっき見てきた夜見北文化祭のクラス映画で主役やってた人ですよね!?」

 

 ああ、直接の面識はまったくなかったようだ。そして知らぬ間に僕は多少有名人になってしまったらしい。彼女の父親も父親で「おや、本当だ」などと言って笑っている。……あまりこっちとしては笑いたいことでもなかったりするのに。

 

「面白かったですよ、あの映画!」

「あ、それはどうも……」

「いやあ実は私はあの学校のOBなんだけどね……。最近はすごいもんだ。私のときは劇がせいぜいだったのに」

 

 そんなことを言って親子共にノリノリになってしまった。気分をよくしていただいたのは嬉しいが、あまりあれを褒められると、やはりどうしてもむず痒い。

 

「ありがとうございます。……ああ、僕はそろそろ帰らないといけないので」

 

 親子には悪いが、適当に言いつくろってその場から逃げ出すことを決めた。

 

「ああ、そうですか。とにかく、娘が缶をぶつけてしまってすみません」

「大丈夫ですよ、気にしてませんし、大したことありませんから」

「あ、なんだか引きとめてるようで申し訳ないけど……。そういえばまだ千曳先生はそちらに残っていらしたと聞いたもので。クラスを担当しているとか?」

 

 まさか知った名前が出てくると思っていなかった。帰ろうとしていた僕だったが、その質問に面食らってもう少し話してみようと思った。

 

「千曳先生をご存知なんですか?」

「昔担任していただいたことがあって。あの人も長いことここにいるもんだ」

「今はクラスは持ってません。たまにお世話になってる第2図書室の司書と、あと演劇部顧問です」

「へえ、司書か……。だから会いそびれたのかな。……ああ、もし会うようでしたら、でいいんですが、一言伝えておいてください。夜見山(・・・)がよろしく言っていた、と」

 

 そこで、父親の口から出たその一言に思わず僕が固まる。夜見山。目の前の人物は今確かにそう言った。

 

「夜見山……?」

「珍しい苗字でしょ? この街と同じ苗字なんだ。だからお父さんが母校の文化祭を見に連れて来てくれたんだよ」

 

 娘さんがそう補足してくれたが、頭に入ってこない。夜見山、そして千曳先生が担任だったこともある人物。

 

「あ、あの!」

 

 僕に背を向けて「さようなら」と言いかけたその後姿へ、声を投げかける。

 

「夜見山さんの……お名前は……」

「私かい? ()だよ。夜見山岬(・・・・)。……ああ、そういえば君のクラスの創作劇も、犯人の名前は『ミサキ』さんだったかな。私は当時3年3組だったし、そこまで同じだと因果なものだね」

 

 そういうと、今度こそ夜見山岬その人は「じゃあこれで」と僕に背を向けなおした。娘さんも手を振ってくる。それにつられるように僕も手を振りつつ、頭は全く別なことを考えていた。

 

 夜見山岬。

 

 当時母の同級生で、千曳先生が担任だった時にクラスの創作劇として実質主役を演じた人物。そしてその話は見崎によって尾びれ背びれをつけられ、転校してきた当初の春先、僕の耳に怪談まがいの情報として入ってきた。

 なんという数奇な巡り会わせだろうか。巡り巡って、僕はとうとうその夜見山岬本人と会話を交わすことが出来た。藤岡さんが以前「偶然や運命が複雑に噛み合わされて、この世界って成り立ってるんじゃないか」と言ったのも、今なら分かる。当時は大げさだと思っていたが、こうも巡り合わさってはあながち外れているとも言えないだろう。

 

 予想外の事態ではあったが、なんだか少し気分転換にはなったし、帰ろうかと思う。この河川敷はいい場所だが、座っているとあまりいいことがないらしい。缶が飛んでくる呪いでもかけられているのかと思えてくる。

 

「……えっ?」

 

 そこまで考えたところで、意図せず疑問の声を僕は上げていた。今、なんと思ったのだろうか。「缶が飛んでくる呪い」。確かにそう思った。なんでそう思うまで忘れていたのだろうか。

 既視感(デジャヴュ)。そう、さっきの缶がぶつかった時になぜそのことに気づかなかったのだろうか。僕の「ミサキ」を巡る輪の起源に存在するであろう、夜見山岬に会ったことで、不意に記憶の蓋がこじ開けられたのかもしれない、という妄想すら抱く。

 

 僕は以前、ここで今日同様に空き缶をぶつけられたことがあった。

 

 そのことをはっきりと思い出すと同時に、おぼろげながらそのときの記憶も呼び覚まされてくる。今日僕に缶をぶつけたのと、年が同じぐらいの少女。謝ろうとしたのだろう、慌てて土手を駆け下りようとして転び、立ち上がるのに僕が手を貸して……。

 

『ごめんなさい! ちょっと気が立っていて、丁度足元に缶があったから、つい……』

『この街の人じゃ……ないですよね?』

『いいな……都会。私、都会に憧れてて』

『また……会えるといいですね』

 

 ああ、そうだった。断片的に、しかし蘇るその記憶に僕は左手で頭を抱えた。

 なぜ、今の今まで忘れていたんだ。もしかしたら、あれは、あの時の女の子は彼女(・・)だったのではないだろうか。だから今まで、あれほど熱心に……。

 

 

 

 

 

 文化祭の片付けはさほど苦ではなかった。美術部としては作ったものを持って帰るだけだし、クラスのほうも設営を解除するのはさほど手間ではない。わざわざ丸1日を片付け期間としているのに、ものの数時間もかからずに僕が関わった関係の片付けは終わってしまった。

 だが問題はそこではない。片付けの間、いや、昨日の帰り道からずっと頭の中を占めていること。それを話そうと該当者を探したのだが、彼女(・・)はクラスのほうにまだ顔を出していなかった。部の方が忙しいからだろうか。待つついでに勅使河原や望月と言ったいつものメンバーの話に、適当に相槌を打つ。

 

「お、演劇部お疲れー」

 

 しばらくしてから、不意に勅使河原はそう声を上げた。演劇部3人、クラスのほうへと戻ってきたのだ。

 

「クラスの方の片付け、もう終わってる?」

「そりゃな。特に何したわけでもないし」

「なんかごめんねー。任せたみたいになっちゃってさ。衣装小道具大道具その他、結構演劇部は片付けるもの多かったんだわー」

「気にすんなって。それよか、昨日の劇すっげえよかったぜ。……あ、小椋、首大丈夫か?」

「……痛い。まあ大したことないって言われてるけどね」

 

 演劇部3人に勅使河原が絡む。それに合わせるように、僕はそっと席を立ち、彼女の肩を叩いて小声で呼びかけた。

 

「赤沢さん」

「何?」

「あの……話があるんだけど」

 

 その一言に、彼女は僅かに目を丸くした。次いで、視線を外して一度息を吐き、僕を見つめなおす。

 

「……いいわ。ちょうど私もあったし。出来れば2人きりで話したいから、屋上でいい?」

 

 僕は頷く。それを確認するが早いか、彼女は方向転換し、足早に教室を後にした。僕も遅れまいとそれに続く。

 

「おい赤沢、どこ行くんだよ?」

「ちょっと野暮用よ。……余計な詮索しないで頂戴」

 

 こうピシャリと言われてはさしもの奴も反論は出来ないようだった。何か言いたげではあったが諦めた様子で演劇部残りの2人と話を続けることにしたようだ。 

 

 着いた屋上には誰もいなかった。10月ということもあってか、風は少し肌寒くなってきている。

 

「それで、話って?」

 

 手すり付近へとゆっくり歩きつつ、彼女は背を向けたまま僕に尋ねかけた。

 

「赤沢さん、ずっと言ってたよね? 僕と会ったことがないか、って。……まだ、確信じゃないんだけど、2年前……つまり、ここに転校してくる1年半前、夜見山川の河川敷に座っている時、空き缶をぶつけられたことがあったんだ」

 

 一瞬、肩が震えたように見えたが、赤沢さんはこっちを向くことなく、屋上の手すりに肘を乗せて体を預ける。

 

「何でずっと忘れてたんだろう。あの時、缶をぶつけたのは、もしかして……」

「何でずっと忘れていたのか、答えは簡単よ。……そんなの、恒一君にとって取るに足りないことだったから」

 

 やはり彼女は、背を向けたままだった。だが、ため息をこぼしたのは、わかった。

 

「……ほんと恒一君ってそういうところ読めないわよね。『もしかして』じゃなくて、嘘でもそこは『やっぱり以前から会っていたんだね』とか言いなさいよ……」

「えっと……ごめん……」

 

 何に対しての謝罪か、いまひとつ分かっていないが僕はそう口にしていた。そこで彼女はようやくこっちを振り返り、今度は手すりに背中を預ける。

 

「……おかげでこっちも色々話そうとしてたことがめちゃくちゃになっちゃったわ。……まあいいけど。恒一君の問いに答えてあげる。その時缶をぶつけたのは……確かに私よ」

「やっぱり……」

 

 だから、彼女はあんなに熱心に「会ったことがないか」と聞いてきたのだ。一緒に帰ったときも、一度もなかったはずなのに僕がどこで曲がるのか、それを把握していた。あの日、僕が曲がるその道までは一緒に歩いたからだ。

 

「でも恒一君はそんなことは忘れていた。……夏に海に行った時に言ったわよね? 『何てことがない出来事も、人によっては運命とも感じられるし、別な人からすればそれは取るにも足らないことでもある』って」

 

 確か言っていた気がする。つまりそれが……。

 

「それが、私とあなたの、初めての出会いよ。私は運命的とさえ思えた。だけど……恒一君にとっては取るに足らないことだったのよ」

「そんなこと……」

「ない、って言うつもり? でも、忘れてたんでしょ? なら、そういうことなのよ。……いいのよ、それを責める気はないから。だって、普通に考えたらちょっと会って話しただけの、名前も知らない相手のことなんてすぐ忘れちゃうじゃない」

 

 そうかもしれない。なのに、赤沢さんは覚えていた。それはなぜか、知りたい。

 

「じゃあ、どうして赤沢さんは僕のことを……」

「……私が1年の時、演劇部でシンデレラをやって、その主役に抜擢されたはいいけどいまひとつうまくいっていなかった、ってことは知ってるわよね?」

「うん……」

「ガラスの靴を履いて舞踏会に行ったシンデレラは王子様と恋に落ちる。よくある、簡単な話よ。……でもね、演じるとなったらそうはいかなかった。私も人並みに恋ぐらいはしたことがあったつもりだった。でも、初めて会った相手をいきなり、それも王子様だなんて経験はなかった……。だから、どう演じたらいいのか、わからずにいたわ」

 

 そこで、赤沢さんは一度深呼吸を挟んだ。そして、ゆっくり口を開く。

 

「そのときに会ったのが……。あなただった。あの日も練習がうまくいかず、むしゃくしゃして缶を蹴ったら人に当たって、慌てて謝りに行こうとして、土手で転んで……。その時差し出された手の主を見たとき、私は直感したわ。きっと舞踏会で王子様に手を差し出されたシンデレラはこんな思いだったんだろうな、って。それこそ、この人こそが私にとっての白馬の王子様なんだろなとまで思えたわ。……ああ、ここ、笑うところよ。大体缶をぶつけたのが運命の出会いとか、ロマンの欠片もないじゃない。私の口から言えたものじゃなかったわ」

 

 そう言って彼女は自嘲的に小さく、わざとらしい笑いを挟んだ。だが僕はそんな気にはなれず、そしてどう答えていいのかもわからずにいた。

 

「そのおかげか、私の演技は最終的に絶賛された。……校内新聞には『文字通りシンデレラとなった』なんてことまで書かれたわ。だけど、シンデレラは王子様と一緒になっただろうけど、私はそうはならなかった。……そして今年の4月よ」

 

 もう、段々と何が言いたいのか、鈍いと自覚している僕でさえわかってきた。だが彼女の独白とも言える話は続く。

 

「恒一君、あなたが転校してきた。……ああ、厳密には5月だったかしら。まあ細かいことはさておき、あなたを見たとき、私の心臓は高鳴ったわ。……かつて1度だけ会った、あの時の人が、今目の前にいるんですもの。

 ……でも、あなたは私と会ったことなんて忘れている。それに……アプローチかけたって全部空振り。もう脈がないんじゃないか。そうも思ったわよ。……思ってたはずだったのよ。

 ……でも昨日、適わぬ恋に悩む騎士を演じたあの時、練習のときは一度もなかったのに、本番に限って……そんな適わぬ愛を願い続けて散っていくこの騎士は、なんて切ないんだろう、って思ってしまった……」

「それで……アドリブが……」

 

 独り言のように呟いた僕の言葉だったのだが聞きとがめたのだろう。赤沢さんは露骨に顔をしかめる。

 

「誰から聞いたの? 綾野? ……まったくあいつってば余計なことばっかり言うんだから。

 ……ええ、そうよ。だから斬りかかる演技の瞬間に思ってしまった。……己の愛こそ誰よりも深いと信じて疑わないのに、どうして王妃はそのことをわかってくれないのか。いえ、なぜそんな互いに愛し合えないという星の元に出会ってしまったのか。

 そう思ったら、本来は『怒り』の感情でもって、逆上して斬りかからなければいけなかったのに、『悲しみ』という感情に摩り替わってしまっていた。

 同時に……私はどうだろうとも思った。そんな不幸な騎士とは全く違う立場にある。なら……私は騎士のような障害はない。アドリブで口走ってしまったような『永遠に伝わることはない』などということはない。伝えようと思えば、自分の気持ちは伝えることが出来る。……昨日舞台を終えて家に帰ってから、ずっとそのことばかり考えていたわ。

 そして……私の心は決まった。今日、この気持ちを伝えよう。そう、心に決めた」

 

 赤沢さんが手すりから背を離す。姿勢を正し、真正面から僕を見据えた。

 

「恒一君。初めて会ったあの日から、私はあなたのことがずっと好きよ」

 

 告白されると、わかっていた。僕も一応は人間だ。鈍いながらも、彼女がこれだけ改まって何かを言うなら、それしかないとわかっていた。

 

 だけど……。僕はその心に応えることは出来ない。赤沢さんはお世辞とかを抜きにして魅力的な女性だと思う。芯の強いしっかりとした性格には魅かれるし、僕のことをずっと思っていてくれた、という言葉も嬉しい。いや、嬉しいを通り越して勿体無いぐらいだ。

 そんな風に思っている。思っているのは事実だ。でも……。

 

「……ごめん」

 

 そう、述べるのが精一杯だった。でもそれだけじゃまるで彼女を拒絶しているみたいじゃないか。そう思って続けてフォローの言葉を述べようとしたところで、赤沢さんの右手が僕のその先を制していた。

 

「それ以上は言わないで。……恒一君が優しい人だということはよく分かってる。でもね、そこでフォローしようというのは……逆に酷よ」

「赤沢さん……」

 

 彼女はかざしていた手をひらひらと横に振って、再度僕のその先の言葉を遮った。次いで、両手を広げて肩をすくめてみせてから、天を仰ぐ。

 

「……ああ! なぜ私の愛は届かぬというのか! どれほどまでに請おうと、祈ろうと、我が願いが叶わぬというのなら……。私は絶望と共にこの手を血で染め、そしてあの方の愛でそれを洗い流そう!」

 

 不意に、彼女はここが舞台かと錯覚するような張られた声を上げた。確か昨日の劇で赤沢さんが演じる騎士が発したセリフだ。

 次いで、一瞬だけ作ったその空気をかき消すように、彼女は小さく、しかし自嘲的に笑う。

 

「……馬鹿よね。自分の気持ちを言葉にして相手にはっきりと伝えようともせず、そんな行動を起こしてさ。あんなの、自分が愛した人が悲しむだけじゃない。自分だけの愛を押し付けるなんて、そんなの愛じゃないわ。百歩譲ってそういう形の愛が存在するとしても、私は認めない」

 

 何も応えられないでいる僕に、彼女は優しく微笑みかけた。普段見ることのないような、慈愛に満ちた笑顔。

 

「だから、私の恋はここまででいいの。恒一君の恋路に口を出す気もないし、無論私の気持ちを押し通すつもりもない。あなたが望む人と一緒になってこれから歩いて幸せになれるのなら……私にとってそれが1番嬉しいから」

 

 そう言うと、彼女はゆっくりと屋上の入り口のほうへと歩いていく。その彼女の目から、僅かに何かが零れたように見えた。

 

「赤沢さん……!」

「さっきも言ったでしょ、恒一君」

 

 何か言葉をかけなくてはいけない。しかし、そんな思いで声をかけた僕に、彼女は背を向けたままで応対した。

 

「恒一君が優しいのはよくわかってるわ。でもね、その優しさが時には逆効果になることもあるかもしれない、ということは忘れないで。……あなたは優し過ぎる、もっと人に厳しくてもいいと思うわ。

 ……それからもう1点。この私の告白を蹴ったんですもの、あなたは自分の思い人と必ず両思いになって、私が嫉妬するぐらい見せつけるぐらいはして頂戴。それなら……私も諦めがつくから」

 

 彼女の姿が屋上から消える。が、僅かにそこから身を乗り出し、付け加えるように声が響いてきた。

 

「ああ、あと肝心なこと言い忘れてた。……出来ることなら、これからも『いい友達』ではいてもらいたいわ。中学校最後の学年のクラスメイトだし、10年後とかに同窓会で会ったみたいな時は余計な気を使わずに話せるような間柄でいたいから……ね」

 

 そう言い終えると「それじゃ」という言葉と共に、赤沢さんの気配が校舎の中へと消えていった。

 

 それでもしばらく、僕はその場に立ち尽くすことしか出来なかった。

 結局、僕は赤沢さんの気持ちに何も応えてあげられなかった。おそらく涙を流していたであろう彼女を、会ったことを忘れていたというのにそれを咎めもせずずっと僕のことを思っていたと告げた彼女を、ただ黙って見ていることしか出来なかった。なのに、赤沢さんは優しかった。

 

『あなたが望む人と一緒になってこれから歩いて幸せになれるのなら……私にとってそれが1番嬉しいから』

 

 拳を握り締める。別に男だからとか女だからとか、そういうのを言い訳に僕は使いたくないが――ここまで言ってもらえたのに彼女の意思を踏みにじったら、もう男じゃない。そのぐらいの分別は僕にだってつく。

 緊張し過ぎたからか、意気込み過ぎたからか、胸が一瞬ズキッと痛んだ。でも、こんな痛みなど、と瞬時に意識からそれを消し去る。赤沢さんが押し込めた思いに比べたら、取るに足らないはずだ。彼女の思いは心から伝わった。だけど、僕はその気持ちには応えられない。そうも分かっていた。

 

 屋上を後にする。きっと、ここには後でもう1度来ることになる。そのときはさっきと違う女性と、そして今度は聞く側から話す側に変わって、この場を訪れるんだろうと思いつつ、屋上を後にした。

 

 

 

 

 

 屋上を後にした僕は一路教室へと戻る。目的の人物は十中八九、そこにはいないだろう。なら教室に戻る理由はただひとつ、その彼女を呼び出す魔法のアイテム、携帯電話をあいにくかばんの中に入れっぱなしにしてしまったからだった。

 

 教室に入ると同時、何人かの視線が僕に集まるのを感じた。が、それを無視して僕は足を進める。

 既に教室は片付けやら掃除やらも終わっていて、どうやらもう帰っている人もいるようだった。事実、窓際の席へチラリと目を移すと、赤沢さんの机からは荷物が綺麗に消えており、あの後すぐに帰ったものだと推察できる。

 

「サカキ」

 

 自分のカバンから携帯を取り出すと同時、勅使河原がそう声をかけてきた。表情が硬い。対照的に望月が動揺している様子から、なんとなくこいつが言いたいことを察した。

 

「ちょっと面貸せ」

「……わかった」

 

 目的物の携帯をポケットへと入れ、勅使河原の後に続く。止めようとしているのか望月が何かを言いたそうだったが、軽く愛想笑いを作ってごまかしておくことにした。そして後ろの扉から教室を出ようとしたその時。

 

「……泉美を泣かせたこと、許さないから」

 

 ポツリと、不意に聞こえた声に思わず足が一瞬止まる。その声の主である杉浦さんの表情を確認するなり弁明するなりしたかったが、いや、と自分を抑え、勅使河原についていくことにした。

 階段の踊り場、到着と同時に振り返った奴の表情は、明らかによいものではないと一目で分かった。

 

「お前……どういうつもりだよ!」

「……何が?」

 

 火に油、と分かっていてもあえてそう答えた。言いたいことはなんとなく分からないでもないが、まだ確証はない。

 案の定、勅使河原は隠そうともせずに怒りの表情を浮かべた。続けて左手で僕の制服の胸元を乱暴に掴み、力任せに詰め寄った。反射的に数歩後ずさり、背中が壁にぶつかる。

 

「赤沢のことに決まってるだろうが! あいつ……見るからに泣きながら教室に戻ってくるなり荷物まとめて帰りやがった。あの杉浦が何かを聞こうとするより早く、だ。そして続けてお前が来た。その前にお前と赤沢が一緒に教室を出て行くのを俺は見てる。なら……原因はお前だろ!」

「確かに……そうだね」

「赤沢に何言いやがった!」

「……それは言えない」

 

 掴まれた手に力が篭るのが分かった。再度、背中が壁にぶつかる。

 

「言えねえだと!? じゃあ代わりに言ってやろうか! お前……赤沢に告られたんだろ! なのにてめえはそれを振りやがった、違うか!?」

 

 ノーコメント。いくらなんでもデリカシーがなさ過ぎる。だがそれをここで言ってもこいつは納まらないだろう。僕は沈黙を通す。

 

「なんでだよ!? あいつはずっとお前ばっか見てやがった。それはお前だってわかってたろ? なのに何でだよ! なんであいつを悲しませるような答えを出したんだよ! そんなに見崎がいいのか!?」

 

 具体的に名前を出されては、さすがにここで黙っていられるほど僕は人間が出来てはいなかった。思わず頭に血が上り、奴を睨み返す。

 

「お前には関係ないだろ! これは僕と赤沢さんの問題だ!」

「てめえ……!」

 

 勅使河原の右拳が固められ、振りかぶられる。一発殴ればこいつの気も済むだろう。それで済まないにせよ、多くて数発がいいところだ。血が上りながらも頭は冷静にそう分析し、来ると思って身を硬くしたのだが――。

 その拳が飛んでくることはなかった。上げた右手を震わせながら落とし、次いで左手も離して僕の胸元から離れていく。そして彼は大きくため息をこぼした。

 

「……やめた。俺らしくねえわ」

「勅使河原……」

「だってよ、そうじゃねえか。ここは『せっかく恋の最大のライバルが減ったんだ、ラッキーだぜ!』とか言った方が、俺らしいだろ?」

 

 そう言って、おどけた様子の勅使河原は、もう普段通りの彼に戻っていた。だがどこか無理をしている。そう分かる様子だった。その証拠に、彼は僕に背を向けて話し出す。

 

「……あいつの泣き顔見たら、思わずカッとなっちまってよ。……悪かったな、サカキ」

「いや……」

 

 気持ちは分からないでもなかった。教室を出る間際に赤沢さんの親友である杉浦さんにも言われたことだし、好意を抱いていたという勅使河原なら彼女の泣き顔を見て激高するのも頷ける。殴られなかっただけでも御の字、と言ってもいい。

 

「……先教室行ってるわ。杉浦は……まあなんとか説得しておくからよ」

「期待しないでおくよ」

 

 僕の軽口に、彼は背を向けて歩きながら左手を上げて応えただけだった。今言ったとおり、その件はあまり期待しないでおくことにしよう。

 

 それより、と僕は携帯を取り出す。さっき教室にはいなかったが、まだ彼女が学校内に残っていることを祈りつつ、電話帳から彼女の番号をコールした。

 何度かの呼び出し音の後、電話は繋がった。

 

『……もしもし』

「見崎? 今まだ学校にいる?」

『第2図書室にいたけど……。どうしたの、携帯にかけてくるなんて……』

「話があるんだ。屋上に……いつも一緒に昼食を食べてる屋上に来てもらいたいんだ」

 

 

 

 

 

 さっきまで赤沢さんと2人きりだった屋上へと再び戻ってきた。風はやはり先ほどまでと同じく、少し肌寒い。だがそれを特に気にする余裕もなく、僕は心を落ち着かせようと一度大きく深呼吸する。緊張しているせいか、それに呼応するように胸の奥がわずかに痛んだ気がした。

 もうすぐ見崎が来る。伝えるべきことは決まっている。だが、その伝えるまでの道筋をまだ決め切れていない。

 半ば勢いで電話をしてしまった、という思いはある。それでもこのことをいつまでも保留したままというのはよくないし、何より赤沢さんに合わせる顔がない。たとえうまく言葉に出来なくても自分の思いだけは見崎に伝えよう。そう思っていた。

 

 しばらくして、屋上の入り口の扉が開いた。姿を表したのは僕が呼び出した相手である見崎鳴。彼女は僕の姿を確認すると、ゆっくり、普段通りの足取りで歩み寄ってきた。

 

「どうしたの、急に。電話じゃなくて直接話したいこと、って」

「……僕達さ、ここで一緒によくお昼ご飯食べてるよね」

 

 ああ、やはりいきなり本題に入る勇気はなかったか、と自己嫌悪。当たり障りのないところから話を切り出してしまった。

 

「そうね。……今日はお昼持って来てないけど」

「まあ、そうだね」

「それで、お昼の誘いじゃないなら、なんで?」

「えっと……」

 

 やはり切り出せない。ばつの悪さを感じ、思わず彼女に背を向け、手すりの方へと足を進めた。背後から彼女が距離を保とうとしている様子は分かる。

 

「……僕が見崎と初めてちゃんと話したのも、ここだったよね」

「……そうだっけ」

「そうだよ。体育の授業の、見学の時。不真面目に見学してる君は、ここから校庭の様子を眺めてた」

「そう……だったかも」

「ここにいる君の姿を見て、僕はここまで駆け上がってきた。そして話しかけた。その時……なんて言ったか覚えてる?」

 

 全くもって話が進まない。進められない。焦るように、心臓の鼓動が大きくなるのを感じる。

 

「……なんだっけ」

「『私には、あんまり近寄らない方がいいよ』だよ。今なら笑い話だけどさ、あの時はまるで本当に君が幽霊か何かか、そんな風にさえ思えたよ」

 

 ドクンドクン、と心が早鐘を打つ。つられるように、呼吸も少し荒くなってきているかもしれない。

 

「それを鵜呑みにしてくれたなら……。それはそれで面白かったけどね。だけど、私はここにいる」

「そう。幽霊でもなんでもなく、君は、見崎鳴は確かにここにいる。そんな君に最初は振り回されて、でもなんだかんだ一緒にいる時間は増えていって……。そして、段々気づいていったんだ」

 

 いや、正確にはそれは違うかもしれない。本当に初めて病院のエレベーターで見たあの時から、もう僕はその思いにたどり着いていたのかもしれない。

 赤沢さんは「白馬の王子様」と言ったときに「笑うところ」と言った。だが、僕は笑えなかった。それは、二重の意味で、だ。ひとつはそのジョークで笑えるほど、あの時余裕がなかったから。そしてもうひとつは、その言葉の意味が「一目惚れ」だとするなら、僕も見崎に対してそうだったからだ。

 僕はゆっくりと見崎の方へと振り返る。そして彼女をまっすぐに見つめる。が、恥ずかしさを感じたのか、見崎は視線を逸らした。

 それでも、構わない。数歩、前へ。彼女との距離を詰める。変わらず胸は早鐘を打ち、痛いぐらいだ。だが、あとはもう自分の思いを言葉にするしかない。

 

「見崎、僕は……。僕は、君のことが――」

 

 その時――。

 

 文字通りの激痛が、僕の胸に走った。言いかけた言葉の続きを口にすることなど到底適わず、胸を押さえて膝から屋上の床に崩れ落ちる。

 

「榊原君!?」

 

 耳元で聞こえるはずの見崎の声が遠い。耐え難いほどの激痛と息苦しさに反して頭は随分と冷静で、彼女にしては珍しく焦った表情をしているな、なんてことを思っていた。

 

「どうし……さかきば……しっかり……」

 

 途切れ途切れに聞こえてくる見崎の声が段々と遠くなっていき――。

 

 僕は、そこで意識を手放した。




前回の後書きで書き忘れたけど、小椋さんが2階から落ちてブリッ死とかあるわけないじゃないですかーやだなー

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