五話くらい後からまともに深海棲艦と戦い始めるようになると思います。
ちょっとぐだぐだしてるかも。
海の傍の白いテラス。
横を向けば、ずっと続く砂浜と、波を寄せる青い海が広がっている。
潮風が匂いを運ぶ。夏の海。
強い日差しが反射して、どこまでも輝きが続いている。
『翔一。翔一ってば』
遠くで、俺を呼ぶ声。
砂浜に立つ姉さんが、にっこり笑顔で手を振っていた。
『翔一』
さらりと流れる黒髪を片手で撫ぜて、姉さんは再度、俺の名を呼んだ。
『こっちにきて』
黒いスーツが熱されて相当暑いだろうに、いつもと変わらない笑顔で、小さく手招きをする。
姉さん。食事中だよ、今。ほら、姉さんもまだ、全部食べ切ってないじゃないか。作ってくれたお店の人に失礼だよ。
『こっちにきて、翔一。こっちにきて』
……わかった、わかった。
あんまりに姉さんが俺を呼ぶから、姉さんを呼び戻すのは諦めて、こちらが行く事にした。
俺はもう、出されたものは平らげているし――。
ふと、服の裾を引かれる感触がして、皿に向けていた目を上げる。
机の脇に立つ島風が、じっと俺を見つめていた。
『こっちにきて――』
波の音の中に反響する姉さんの声は、いつしか細く消えて、聞こえなくなった。
◆
目が覚める。
柔らかな布団に沈んでいる体を動かして、横になると、ぽろりと目尻から涙が落ちた。布団に染み込む熱い水の気配に、それを拭おうと持ち上げかけていた手を落とす。ぽすん、と気持ちの良い音がした。
「ん……」
うめいて、数秒。頭から送られてくる信号を遅く反映して、ゆるゆると伸びをする。足の先が掛布団を押し退け、肩や胸までが露わになった。寝間着である青い縦線入りのパジャマの、一番目のボタンが外れているのに気付いて、緩慢な動作で付け直す。それから、下敷きにしていた自分の髪を引っ張ってしまわないように気をつけつつ身を起こした。
頭のすぐ上に天井。……二段ベッドの上部分。……この上には叢雲が寝ている……はず。
昨晩早くに布団に潜り込んでいった怖い女の子の事を思い出しつつ、布団越しのふとももに両手をおいて、向かい側の二段ベッドを眺めた。部屋の中央に置かれたテーブルの、その向こう側。下の段は吹雪で、上の段が夕立。……仕切りに上体を乗り出すようにして寝こけている夕立が、なんだか死体みたいに見える。トイレにでも行こうとして、でも行けなかったのだろうか。辛そう。
ふあーあ、と大きなあくびを一つして、その頃になると、ようやっと眼が冴えてきた。頭も働き出して、ここがどこか、自分が誰かがわかってくる。
遮光カーテンの隙間から漏れ出す光に目を細め、ベッドの縁に腰掛ける。体重が乗る部分だけが歪んで、木板の軋む音。なんとなしに頭を掻いて、それで、頭の上に何も乗っていない事に気が付く。うさみみカチューシャ、どこに置いたっけ。……ああ、枕の横。壁際。
振り返って相棒を見つけると、少し背を倒して右腕を伸ばし、黒い耳の部分を掴みとる。勢いをつけて元の姿勢に戻ると、強めにベッドが軋む音がして、それから、上の段から叢雲のうめく小さな声が聞こえてきた。
おおっと危ない、起こしてしまう。……いや、今、何時だろう。窓の外はもう明るいみたいだけど……とカーテンの方に目をやって、特に強い光がある訳でもないのに小首を傾げた。……あれ、さっきは結構明るいように見えたんだけど……。時計とか、どこかにないかな。
部屋の中を見回し、入り口の上に丸い時計がかけてあるのを見つける。時刻は午前三時五十二分。鎮守府では早起きする事になるだろうと思っていたが……いくらなんでも、こんな早くに起きるものではないだろう。でも、二度寝しようと思えるくらいの眠気は残っていなかった。
だから、ベッドに腰掛けたまま、干されている夕立の頭をぼうっと眺めながら、頭に浮かんでくるあれやこれやを考える事にした。
そう、姉さんの事、とか……。
「……」
そんなの、考えたって仕方ないってわかっているのに、どうしても俺はそれを考えずにはいられなくて、息を吐いた。
2024年。それが、今の年。昨日、吹雪に聞いた際、夕立が教えてくれた。
俺が生きていた2015年から、約9年の月日が流れている。転移に憑依ときて、タイムスリップまでしてしまっているのだから、俺という男は、いっそ幸運と言えるくらいには、不思議な出来事に見舞われているのだろう。割り切っても割り切っても割り切れない感情は、際限なくわいてきて、俺を苦しめる。こんな、寝起きで意識が曖昧な時や、寝入る際の少しの時間でなければ、そんな感情なんか心の奥底に押し込めてしまえるだろうに、今はそうじゃないから、自分の身や、島風の事や、姉さんの笑顔を想って、辛くなってしまう。
全部、取り戻せなさそうなものだ。どうすればいいのかわからない。何をすればいいのかがわからない。
艦娘になったのなら、人のために深海棲艦と戦えばいい……とか、そういう話ではない。
自分でもよくわからないけど、とにかく……わからなかった。
「……」
目元を拭う。そこに涙はないけど、どうしてか湿っている気がして、もう二回、腕を擦りつけてから、強く目をつぶった。
姉さん。……姉さんは、いつも笑っていた。
姉さんが泣いているのなんて、二度しか見た事がない。
その二度目が、両親の葬儀の時だったから、いつか思い出せない一度目の時も、きっと相当な事があったのだろう。……それ以外ではずっと笑顔だった姉さんとは、もう会えない。
「…………」
左上を向く。天井の隅。……顔を動かした理由は、特にない。
ただ、胸の中に溢れそうになった何かに耐えるために、思考を塗り潰して、どこか違う場所を見ようとした。
過去ばかり見ていても仕方ない。未来の事を考えて、意識を切り替えて行こう。
……その未来も明るくなさそうだから、また憂鬱になって溜め息を吐いてしまうのだけど。
三日……今日を含めて、あと二日。その間に、俺がどこかの鎮守府に所属していた艦娘でないかが判明する。そして、それがわかった時、俺は……。
……どうしようもない。どうしよもない事を考えていても仕方がない。
考えるのは、やめよう。
「ん……」
カチューシャを頭につけて、それから、着替えるためにベッドから下りて、ベッドの下の引き出しを開ける。……、うん、ある。島風の服。
昨日着ていたものは洗濯に出してしまったから、残るは島から持ち帰ってきた代えの服だけだったのだけど、あれは妖精さんがお船に乗せて持ち帰ってきていたから、俺の手元に戻るかどうか不安だったのだけど……そうそう、お金と一緒に叢雲が持ってきてくれたんだった。……お金の入った封筒、どこにやったっけ。……タンスじゃないし……枕の下?
いや、思い出した。机の引き出しの方に入れたんだ。共同の場所にぽんと置いとくなんておかしいかもしれないけど、みんなが手を出すとは到底思えなかったし、そこに置く事にしたのだ。七万円入っていた。
色々込みで五万円と、理由不明の二万円で、計七万円。……二万円はどこからきたのだろう。
ちゃっちゃと手早く着替えを済ませ、パジャマはどうしようか、と周囲を見回す。……答えになるようなものはなかったので、畳んで布団の上に置いておく事にした。
サンダルを履いて廊下に出る。勝手に出ていいかはわからないけど、中にいる気になれなかった。まだ、女の子だけの空間というのに慣れていないのかもしれない。自分の体や精神を顧みればあり得ない話だけど、『間違い』が起こっても困るし。……そんな風に考えてしまうから、怖いのだ。
普通の人間なら、そもそも間違いが起こるかも、なんて考えすらしないだろうし……。ああ、いいや。詮無い。とりあえず外に出よう。
静かな廊下をゆっくりと行き、トイレに寄ってから外に出る。薄暗い空と、涼しげな風。ほのかな潮の匂いと、どこかで微かに響くカーンカーンと間延びした音。
不思議な雰囲気に包まれながら、艦娘寮を後にする。
行き先はない。ただ、走りたくなった。外に出た理由はそれだけではないけど、体に風が吹き付けると、心が浮ついて、体を動かしたくてたまらなくなった。
だから走る事にした。朝の走り込み、ジョギングというやつだ。朝というには些か早すぎる時間帯かもしれないが、『はやい』は『すごい』だ。早起きは美徳。なのでよし。
脇を締め、肘を横腹につけて、小走りで砂利道を行く。妖精の園の方へ。そちらに向かう事に意味はない。その先には夕張さんの工廠があるが、こんな時間に押しかけても起きていないか、そもそもいないだろう。コンビニエンス妖精はやっているだろうか。たったか走る事数分で妖精の園の脇に構えているコンビニに辿り着く。……明かりついてる。二十四時間営業なのだろうか。……入ってみようかな。
「んー……」
悩む必要はあんまりないし、興味を抱いたなら足を踏み入れた方が良いだろう。今入らなかったら、中はどうなってたんだろうってもやもやするだろうし。
という訳で入店すると、聞き覚えのあるメロディーが鳴った。
『いらっしゃいやしー』
「わ……ほんとに妖精さんだ」
コンビニエンス妖精は、名前だけかと思ったけど、店員なんかも妖精のようだ。コンビニ定員染みた妖精さんが一人、妖精サイズのレジカウンターに立っている。……もう一人は、カウンターの奥に積まれた雑誌に何かの機械をかざしていた。
店内を見回す。思ってたより普通な感じ。雑誌コーナーに、飲み物売り場に、お菓子売り場に、と、普通のコンビニとあまり変わらない。売り物のラインナップは艦娘向けのためか、どこか偏りがあるように思えたけど、それ以外に違いは見いだせなかった。強いて挙げるなら生活用品の種類が多いってくらいか。バスタオルとかある。普通のタオルなら、コンビニにもあった気がする。
「……妖精フィギュア」
お菓子売り場の脇に、食玩が置いてあった。働く妖精シリーズ、だって。工廠妖精さんとかが、小さな箱の中からこちらを覗いている。……ん? これ本物じゃないよね。
つんつんとつついてみても、箱の中から外を見ている妖精さんが反応しなかったために人形と判断できたけど、遠目に見ると生きているのかそうでないかの判断は難しそうだ。
こういった精巧な物を見ると買いたくなってしまうが、あいにく今はお金を持ち合わせていない事に思い至った。
外に出る時は毎回財布を持ち歩いていたけど、俺の財布をシマカゼが持っている訳がないし、お金の入った封筒は机の中だ。
……もうそろ百万に届こうとしていた貯金ももはや俺の手から離れていってしまったという事実から意識して目を逸らし、レジにいる妖精さんを見る。縦線ぽい目が時折瞬きされるくらいで、動きがない。改めてフィギュアを見てみると、ううん、やっぱり、これの造りは凄い。……妖精さんが作ったのだろうか。自分達を作るってどういう心境なのだろう。艦娘にも熱烈な妖精さんファンがいるとか?
一通り店内を見て回り、妖精さんフィギュアに後ろ髪を引かれつつ、店員妖精さんに挨拶をしてから外に出た。じめっとした空気が肌に触れる。店内は空調が効いていたみたいだから、その違いに気持ち悪さを感じて、腕を擦る。少しすれば慣れたけど、中と外を行き来した時の空気の違いに慣れる事はできなさそうだと思った。前もそうだったし、そこは艦娘になっても変わらない部分なのだろう。
サンダルを鳴らして走り出す。夕張さんの工廠の先に、港……と言っていいかわからないが、そこに出られるから、ぐるりと回って明石の工廠の方まで行こう。
脱げやすいサンダルに気をつけつつ、一定のリズムで足を動かす。前から吹いてくる風が髪を持ち上げる。海の上を走るのとはまた違った気持ち良さ。風を感じるのって気持ちが良い。外に出て良かったな。
「お?」
爽やかな気分になっていると、夕張さんの工廠の前に、本人が立っているのが見えた。首の後ろに片腕を回し、もう片方は空に突き上げ、ぐーっと伸びをしていた。ふー、と息を吐いて腕を下ろした彼女は、足音に気付いてこちらを見ると、目を丸くした。
「あら、島風ちゃん。どうしたの? こんな時間に。靴が気になった?」
「いえ、早くに起きちゃったので……夕張さんこそ、どうしたんですか?」
彼女の前で止まって、言葉を交わす。そのさなかに、彼女が起きている理由がひょっとしたら俺の靴のためではないか、と思い至った。夕張さんがこの時間にこうして伸びなんかをしている理由は、その通りだった。
「あはは……ちょっと、困っちゃってね。ほら、具合とか見るのには履いてもらわないといけないけど、それをするにはあなたを待たなくちゃいけなくて、でもその頃には靴はできてるはずだから……ああ」
「ええと……靴を履いてみたらいいんですか?」
なんだか疲れた様子で苦笑いを浮かべる彼女におずおずと聞けば、首肯された。今いいなら、お願いしたいんだけど、と言われて断る理由は俺にはない。
彼女の工廠に案内され、前にでっち先輩と会った部屋へと通される。今回は、さらにその先の部屋にまで入る事になった。
「少し汚れちゃってて……ごめんね」
「いえ、大丈夫です」
確かに、木机や棚なんかには雑多な機械やそのパーツなんかが置いてあって、黒く汚れた雑巾や、よくわからない何かもあるけど、特別汚いとは思わなかった。こういう場所って、こんな感じだろうっていう先入観があるからかな。オイルか何かの臭いは少しキツイが、耐えられないほどでもない。
椅子を出してきた彼女の指示に従って座り、持ってこられたシマカゼのブーツを履く。おおー、ヒール部分が直ってる。……あと、なんか軽い?
「少し歩いてみて」
「はい」
促されるまま席を立ち、部屋の中を歩いてみる。変な感覚はしないか、と聞かれたけど、ぐらぐらもぎしぎしもしない。大丈夫そうだ。
「うん、一応の修理はそれで終わりなんだけど、次はその靴をより頑丈にするための話しなんだけどね?」
再び椅子に腰を下ろした俺に対して、夕張さんは、「キック主体、接近戦を主にしていたと聞いていたけど、どんな感じに戦っていたのかしら」と聞かれた。……どんな感じ、と言われても。
って、普通の人はキック主体と言われても、ジャンプキックや急降下キックだとは思わないか。
そこら辺を、言葉選びに苦労しつつなんとか伝えると、夕張さんは目をぱちくりとして、それって効くのかしら? と首を傾げた。
「この鎮守府に来る前、朝潮と二人で重巡リ級を撃破しました。その艦種くらいまでなら、効くんだと思います」
「ううん、そうかしら。島風ちゃん軽そうだし、そんなに威力出るかなあ」
と言われても、効くものは効くのだ。
何度も不思議そうに首を傾げる夕張さんに、どうしてそんなに不思議がっているのかを聞けば、パワーが足りないじゃない? と当然のように言われた。
「私のスピードを乗せれば、パワーならうんと出ます」
「……たしかに、速度があれば、相対的に力も上がっていくだろうけど……ああでも、そうね、実際倒せてるのよね?」
「はい」
力強く頷けば、彼女は一つ唸り声を上げた後に頭を振った。その後はもう、割り切ったように話を進め始めた。
「キックの威力に靴が耐えられないのね。少し頑丈にしただけの今の状態では、またいつヒールが折れてしまうかわからないのよねー」
「……どうすればいいんですか?」
「うん、もっともっと頑丈にしちゃえばいいのよ。ね、あなたの靴にネジを使ってもいかしら~?」
……さっきまで見えていた疲れが消えて、急に元気になった。棚の方から持ってきた封筒をがさごそ言わせて小さなネジを取り出した彼女が陽気に問いかけてくるのに、こくりと頷く。……そのネジを、ブーツのどのあたりに使うのか、俺には想像もできないのだが……使って、より靴が頑丈になるというのなら、こちらから頼みたいくらいだ。
「決まりね。さぁて、夕張さんの初めての改修工廠、開設よ~」
「……おー」
うきうきという文字が浮いて見える様子の彼女に合わせて、声をあげておく。凄く楽しそう。
「初めてだから、少し手間取っちゃうかも。時間がかかるだろうから、お茶を用意しようと思うのだけど、どうかしら?」
「いただきます」
ふんふんと鼻歌をしつつ奥の扉に向かおうとした夕張さんが、くるりと振り返って問いかけてくるのに、そう返す。今の彼女に否という気にはなれなかった。もちろん、お茶は嬉しいが。
淹れてくるわね、と弾んだ調子で言われて、夕張さんを見送って数分。マグカップを持って戻ってきた。紅茶らしい。お茶というから緑茶とかだと思っていた。
「お砂糖は何本?」
「全部ください」
彼女が握った五本のスティックシュガーを見て、とりあえず全部いただいておく。甘くない紅茶は飲めないのだ。だから、全部。
「甘いのが好き? ミルクもあった方が良かったかしら」
「んー……大丈夫です」
ミルクティーでも普通のでも。
こんな場所で飲むのもなんだから、と夕張さんに促されて、一つ前の部屋に戻る。さっきの部屋よりこちらの部屋の方が清潔だ、という事なのだろうか。置かれた椅子に座って、再び彼女を見送る。
改修ってどれくらいの時間がかかるのだろう。お茶を持って待たせるくらい短い時間?
足をぶらぶらさせつつ、息を吹きかけて適度に冷ました紅茶を啜る。五本分の砂糖が良く溶け出していて甘い。あまうま。あ、クリームソーダ飲みたい。
なんて事を考えながら待つ事十分ちょっと。扉の奥の方で鳴り響いていた駆動音が止まると、やがて、ブーツを手にした夕張さんが戻ってきた。
「はーい、お待たせ! 改修が完了したわ!」
一仕事終えた顔で俺の前にやって来た夕張さんは、じゃん、と靴の全容を見せるように回転させた。
……見た目は変わってないような気がするんだけど。
「成功の手応えはあった。だから、あなたのブーツの頑丈さはぐんと……とまではいかないけど、上がってるはずよ」
これでよっぽど無茶な使い方をしない限りは、大丈夫ね。
しゃがんで俺の足下に靴を揃えて置く夕張さん。サンダルから足を抜き、ブーツに差し込んで、しっかりと履いてみる。……頑丈になってるのかな、これ。
「サンダルの方は、私が妖精の園に返しておくわ。ふふ、良かったら感想聞かせてね?」
「はい、ありがとうございました。もっともっと速く走れるように頑張ります」
彼女にマグカップを返し、それから、腰を折って礼を述べる。靴が戻って、凄く安心している自分がいたから、感謝の念もより大きなものだった。
……あ、そうだ。
「あの、どうして私に良くしてくれるんですか?」
「え?」
とても気になっていた事があったので、この際だから聞いてみる。
夕張さんは、最初からなんだか親切にしてくれていた。貴重だろうネジだって、俺の靴に使ってくれたし……俺が新人だから? それとも、他に理由があるのだろうか。
あー、と言い辛そうに目を逸らした彼女を見る限り、どうやら理由がありそうだった。
しかし、俺に思い当たる節はない。いったい何が彼女にそうさせたのだろう。
「言い辛いのなら、話して頂かなくても大丈夫ですけど」
「いえ、そういう訳じゃないんだけど……。えー、と」
そういう訳じゃ、といいつつも、あっちを見たりこっちを見たりでかなり言葉に詰まっている様子だ。……聞かない方が良かったのかな。
「その、私、恥ずかしい姿見せちゃったじゃない?」
申し訳なく思っていると、決心したのか、まっすぐ俺を見据えた夕張さんが、それでもどこか恥ずかしそうに話し始めた。
「だから、イメージを覆して、いいお姉さんだって思われたくて……」
……ああ、なるほど。
恥ずかしい姿ってなんの事かと思ってたけど、最初に会った時にこけてたやつか。
その後の親切な彼女の方ばかりが印象に残っているから、すっかり忘れていた。……その点で言えば、彼女の目論見は成功していた事になる。
ごめんなさい、と夕張さんが言う。
「なぜ謝るんですか」
「下心ありきで優しくしていたのよ。だから……」
「そんな事ないです」
なおも言葉を続けようとする彼女を制して、首を振ってみせる。
夕張さんのは、下心なんていうものじゃないと思う。自分を良く見せたいと思うのは誰しも抱く気持ちだし、それで悪い事が起きた訳でもない。むしろ、俺は彼女に助けられてばかりだ。
「すみません、余計な事を聞いてしまって。……夕張さんは、いいお姉さんです」
「……そう思ってくれているの?」
「はい。今もそう思ってます」
少しの間目をつむった夕張さんは、目を開くと、ありがとう、と呟くように言った。
◆
夕張さんの工廠を後にし、シマカゼの靴で敷地内をぐるりと一周する。海の前を走っていると、水平線から日が昇ってくるのを拝む事ができた。訳もないのにじんとしてしまう。それだけで、今日一日が良い日になると確信してしまった。
部屋に戻ると、起きだしてきた叢雲と鉢合わせしそうになった。ノブに手を伸ばした状態で固まる叢雲の顔が頭にこびりついて離れない。たぶん、珍しい表情だろうから。数瞬の間に立て直した叢雲は、
「おはようございます。叢雲……さんも、早いですね」
「目が覚めちゃったのよ。……ああ、おはよう」
先に行くわ、と出て行ってしまった叢雲を見送ってから、時計に目をやる。まだ四時過ぎだ。起きなきゃいけない時間は何時だったかな。
「さて、と」
靴を脱いでカーペットに上がる。靴下越しの足裏に、硬くも柔らかい不思議な感触を感じつつ、棚に走り寄って、封筒を取り出す。お金が入っている封筒だ。
結局、さっき偶然に靴を渡されてしまったから、電撃的にお金を渡す作戦は失敗してしまった訳だけど、だからって渡さない選択肢はない。
今から再び夕張さんの下へ赴き、渡してしまおう。そう思ったところで、疲れた様子の彼女の姿を思い出す。もしかしたら、靴の修理を終えて寝てしまっているかもしれない。そこに押しかけるのは迷惑だろう。初めは、今日の午後あたりに行こうと思っていたのだから、代金を渡すのはその時にした方が良さそうだ。
さて、そうすると少し時間ができてしまった。
棚に封筒をしまい直し、二段ベッドをみやる。夕立は相変わらず干された布団のような状態で寝入っている。……辛そう、という感想をまた抱いてしまったので、はしごを登り、彼女の両肩をそっと押し上げ、起こさないように注意を払いながら枕へと頭を置かせた。
穏やかな寝顔は、起きている時とはまた違った印象に見える。朝の道と夜の道が違うように思えるのとおんなじ感じ。こうしてみると、夕立はまさしく上品なお嬢様といった感じだ。
っとと、人の寝顔をじっくり見るなんて、非常識極まりない。それに、色々とアウトだ。俺の性別的に。……いや、今は女だけど。
するするとはしごを下り、再度時計に目をやる。五分も経ってない。当然か。……二度寝するって選択肢はないし……あ、そういえば、各階に簡易シャワー室があると聞いたような。
朝風呂ならぬ朝シャワーと洒落込もうかな。
服は……さすがにこのままでもいい気がするけど、念のため、代えてしまうか。
そのまま簡易シャワー室に向かった俺は、タオルが備えられていなかったので、コンビニエンス妖精へと走る羽目になった。
お金使っちゃったけど、残りで足りるといいな、代金。