シャワーを浴びて着替え、広い脱衣所に並べられていた洗濯機にパジャマと服を持ってきて回す。乾燥機一体型の高性能仕様。取り出した衣服は、すっかり乾いていた。その代わり
午前六時十二分。
部屋に戻ったのが、そのくらいだった。
「あ、島風ちゃん、おはよう。早いねー」
「おはよう、吹雪ちゃん」
胸元のリボンをきゅっと結びながら振り返った吹雪と挨拶を交わす。ちょうど着替えを済ませたところみたい。服の皺を伸ばすのに手間取っていなければ、気まずい事になっていただろう。
……あ、気まずくなるのは俺だけか。
「……夕立ちゃんがまた干された布団みたいになってるんだけど」
「ああ、あれはね、目を覚まそうとしてるみたい」
目を覚まそうと、か。静かな寝息が聞こえてきているような気がするのは気のせいだろうか。
「このくらいの時間に起きるんだね、みんな」
「うん。こればっかりは決まってて、六時に起床、七時までに食堂に行って朝ごはんってなってるんだけど……夕立ちゃーん?」
「……ぷぉぃ」
説明の中で吹雪が呼びかけると、夕立はその体制のまま変な声を出した。
毎朝こうなんだ。
吹雪は、困ったように笑いながらそう言って、彼女を起こすのを手伝ってくれないかと頼んできた。
「うん。七時までって事は、早く起きて行かないと、ご飯食べそびれちゃうって事だもんね」
「それだけじゃないんだ。八時半から授業もあるし……」
「授業? ……学校?」
あ、教室があるんだっけ。そこで勉強する事を授業というんだな。体育館もあるし、なんか学校みたいだ。
「夕立ちゃーん、そろそろ起きないと駄目だよー?」
「ぷぉおおぃ……」
はしごを
成り行きを下から眺めつつ、どんなに揺すられても声をかけられても起きようとしない夕立に、長期戦になりそうだ、と判断して、一度顔を下げる。上ばかり見ていると首が痛くなってしまう。
それだけのために移動させた視界に、気になるものを見つけて、目を動かした。吹雪の寝ていた場所。綺麗に畳まれた掛布団……その上に置かれた枕。えーと、引っかかったのはこれじゃない。……何かあったような気がするんだけど……ああ、あった。
たぶん、枕が置いてあっただろう、ベッドの頭側の布団の上に、長方形の紙が一枚置いてあった。四隅に小さな穴が開いていて、表面には文字がびっしり。左下の四角い枠の中に、手書きで黒髪の女性の絵が描かれていた。
「……赤城の絵?」
「へぇっ!? って、きゃーっ!」
「うわ!」
俺の言葉に反応したのか、大きく動いたらしい吹雪が足を滑らせて落ちてきた。どしん、と大きな音が鳴る。うわ、腰から落ちた! 痛そう。
「だ、大丈夫……?」
腰を擦りつつ体を起こした吹雪に声をかけつつ、引き起こしてやろうと手を伸ばす。彼女は素直にそれに応じて手を取り、立ち上がると、素早い身のこなしで俺の前に出て紙を拾い上げ、背に隠しながら俺に振り向いた。
「だ、大丈夫、大丈夫! なんともないよ!」
「……なら、いいけど」
うんうんと大袈裟に頷く吹雪に、それ、なぁに? と意地悪く聞いてみる。
隠すって事は言及されたくないものなんだろうけど、おそらく枕の下にあったのだろう紙に、赤城の絵とくれば、興味を抱かずにはいられない。はたして吹雪
「そ、それってなんの事?」
「赤城さんの絵が描かれてる、その紙。……あれ? もしかしてそれって、広報紙の……」
「あ、あれれー? なっ、なんでかなー?? なんでここにこれがあるんだろー??」
し、白々しい……。
顔の前に持ってきた紙を持ち上げてみせる吹雪に、さあ? と首を傾げる。そういえば、昨日、吹雪が赤城に憧れてるって話を聞いたけど、どう考えてもそれ関係だよね、その紙。
「私、返してくるね! し、島風ちゃんは夕立ちゃんの事よろしくねっ!」
「あ……」
風のように逃げて行ってしまった吹雪を見送って、ちょっとやり過ぎちゃったかな、と反省する。
それから、夕立を見上げた。干された布団なのは変わらないけど、騒がしくしたためか、ううん、と
これなら起こすのも楽そうだ。はしごを上って夕立の肩に手をかける。たんたん、と二度叩きつつ声をかければ、ううぅん、と鬱陶しげな声。まったく、困ったお寝坊さんだ。
「夕立ちゃん、おー、きー、てー!」
「……うう~、おきるから、おきるから、叩くのやめてほしいぽぃ~」
二回ほど追加でとんとんやってやると、夕立はようやく顔を上げて、目をつぶったまま抗議してきた。
「ちゃちゃっと着替えちゃわないと、もっと叩くよ?」
「いや~」
ほれ、と手の平を上げてみせると、見えているのかいないのか、夕立は緩く頭を振りながらもぞもぞと掛布団を押しやった。その場で座り込み、ぐしぐしと目を拭う。ようやっと緑の目が見えた。
「はしご、下りれる?」
「もうちょっと待って……ぅぅ、朝は弱いっぽい。島風ちゃんは……早起きっぽい?」
「そうといえばそうかもね」
ほっ、とはしごから飛び降り、ベッドの上を見上げる。パジャマ姿の夕立も、のろのろと下りようとしてきていた。落ちそうで危なっかしい。いちおう見ておこう。
無事に彼女が下り、俺がやたら自分の衣服の状態を気にしている内に夕立が着替えを済ませると、そのタイミングで吹雪が戻ってきた。「起きたんだね。じゃあ、給湯室に寄ってから、食堂に行こう」……とか、先程の事をなかったように振る舞っている。あんまり苛めるのもあれなので、何も言わないでおこう。
しかし、貼ってあった紙を持って行ってしまうなんて、吹雪って案外やんちゃなのかな。それとも、それ程までに赤城に対する憧れが強い?
昨日聞いた限りじゃ、まだ一度しか姿を見てないって話だったけど、いったいどうしたらそんなに強い憧れを抱けるんだろう。戦いの中で救ってもらった、は別の吹雪か。うーん、想像もつかない。
給湯室にはなぜか洗面台があった。流し台の横。少し低い位置。壁には鏡がかけてあって、顔を洗い、歯を磨き終えた夕立がちょいちょいと前髪を弄っていた。
「急がないと朝ごはんなくなっちゃうっぽい」
「夕立ちゃんがお寝坊さんだからだよ、もう」
「んー、お寝坊仲間は増えなかったっぽい?」
道すがら交わした会話。
……増えても夕立が寝坊していい理由にはならないと思うよ。
食堂につくと、もう人もまばらで、あまり残っていない。何かの料理か、香ばしい匂いが残り香となって漂っていたりはすれど、ご飯を食べている人は少ない。……あー、やっぱり朝潮もいない。みんな集まるだろうこの時なら、会えるかもって思ったんだけど、遅すぎたんだね。
いないものは仕方ない。話せる機会は、またすぐに訪れるだろう。
三人揃って朝食Aセットの食券を買い、奥のカウンターまで持っていく。買うと言っても、食券は無料だった。この時間帯は、らしい。朝昼夜はお金はいらないけど、それ以外は有料って仕組み。よくできてる。
「おはようございます。これ、お願いします」
「お願いするっぽい」
「おはよう。今日もギリギリねー。鳳翔さん、朝食A三つ」
「はい、すぐ用意しますね」
昨日も見た女性と挨拶を交わし、近くの席に移動する。鳳翔さん、朝からここで働いてるんだ。実戦には出ないのかな。
ちょっとした疑問を抱きつつ、できあがりを待つ。カウンターの上の方にかけられた時計は四十二分を示している。ほんとにギリギリだ。
三人前は、十分もせずにできたみたい。取りに行って戻ってきて、「いただきます」と急いで手を合わせる。
「あつ、あつ。ふう、やっぱり朝はお魚とお味噌汁が一番っぽい」
「そうだね。ゆっくり食べられれば、もっと美味しいとおもうんだけどなぁ」
「眠気には勝てないっぽい~」
朱色のお椀を両手に持ってふーふーと息を吹きかける夕立に、お箸を器用に使って焼き魚を割っていく吹雪。……食べ方、しっかりしてるなあ。それに比べると、俺の食べ方はかなり汚いと思われそうなので、そうと気付かれる前に食べてしまう事にした。すなわち、早食い。
「ごちそーさま!」
「ええっ、島風ちゃん、もう食べ終わったの!?」
お箸を置いて、ぱしっと手を合わせれば、夕立との会話に花を咲かせようとしていた吹雪がびくっとして俺を見てきた。ふふん、速いでしょ。熱いのとか平気なんだよね。だからすぐ食べちゃえるのです。
「あたしも負けてられないっぽい!」
感化されたのか、夕立もお茶碗を持ち上げて猛然と食べ始めた。『掻き込みはじめた』、ではない。急いでても食べ方はしっかりしている。赤城みたい。急いで食べないとね、と吹雪も忙しなく箸を動かし出したので、頬杖をついて眺めつつ、待つ事にした。
ごちそうさまでした、と二人が手を合わせたのはほとんど同時。時刻は七時二分。ちょっとオーバーしちゃったね。
おぼんごと食器を返却し、一度部屋に戻る。授業の支度のため、だって。
「今日の授業は実技もあるっぽい」
「艤装取りに行かなきゃ……間に合うかなあ。先生怒ったら怖いよ」
「四十分までに着けば大丈夫っぽい!」
自信満々に言っているとこ悪いけど、七時十分回ったよ。明石のとこまで行って本棟まで戻るのには十分もかからないだろうけど、余裕はなさそうだ。
「島風ちゃん、また後でね!」
「うん、頑張ってねー」
「っぽい!」
筆箱やノートなんかを詰め込んだ手提げバッグを肩にかけた二人が、慌ただしく部屋を出て行く。小さく手を振って見送った後に、俺も出かける事にした。棚から封筒を取り出す。少し減ってしまったお金。
これを夕張さんに渡しに行こうと思うんだけど、今起きてるだろうか。……なんて考えていても仕方がない。行ってみよう。
と、考え無しに夕張さんの工廠に向かったのだけど、木材の陰で何かの作業をしていた妖精さんに不在だ、と伝えられた。寮に戻っているのか、それとも出撃か。徹夜っぽかったし、やっぱ寮で寝てるのかな。
『明石のところに行った』
念のため、妖精さんに夕張さんがどこに行ったかわかるかと聞けば、そんな答え。ああ、反対側……。
「ありがとう」
『気にするでない』
感謝を伝えると、妖精さんはふりふりと手を振ってくれた。こちらも手を振り返しつつ、進路を明石の工廠に向け、走り出す。
途中で吹雪や夕立と会うかと思ったけど、そんな事もなく明石の工廠に到着。一声かけてから中へ入る。相変わらず軽トラックがでんと置いてあって、色々な物が積まれていた。
「はいはーい、ただいまー」
奥の方から明石の間延びした声が聞こえてくる。ぱたぱたと軽い足音。ドーナツみたいな機械の陰からひょこりと顔を覗かせた明石は、俺を見つけると、どうしたの、と要件を訪ねてきた。
「ここに夕張さんが来てるって聞いたのですが」
「夕張に用事ね。待ってて、今呼んでくるから」
さっと引っ込んで、足音が遠ざかっていく。明石、またほっぺたが煤けていた。日々何かしら開発しているのだろう。それとも、手入れかな。いずれにせよ、働き者だ。
そう待たずに明石が夕張を連れてやってきた。小走りでくるのを見ると、邪魔しちゃって悪いな、という気持ちが浮かんでくる。だって夕張さん、なにかしらをしにここに来てたたんだろうし。
「島風ちゃん、どうしたの? 靴の調子が悪いのかしら」
「いえ、これを渡そうと思いまして……」
封筒を持ち上げてみせ、受け取ろうと手を伸ばしてきた彼女の手に押し付ける。握ったのを確認すると、素早く手を引いて腰の後ろに隠す。返却不可。突っ返す事はできないよ、という形。
「これは……お金!? え、私受け取れないわよ、こんな……えっと」
「大事な靴を直して、より強くしてもらったお礼です。どうか、受け取ってください」
俺の様子を見て、封筒を持った手を彷徨わせる夕張さんに、感謝を織り交ぜてそう伝える。それでも、夕張さんは封筒を返そうとした。
「夕張。遠慮したいって気持ちはわかるけど、受け取っておきなよ」
「明石……でも、悪いよ、こんなに」
……額が大きすぎたのかな。ネジってのがいくらなのか、修理にいくらかかったのかがわからなかったから、全部渡したのだけど、それが余計に遠慮させる要因になってしまっているみたい。
でも、たとえ千円でも彼女は受け取らない気がする。正当な対価だと思うんだけど。緊急出撃した俺がお金を貰ったように、靴を直してくれた夕張さんがお金を貰う。なんにもおかしくないはず。
「だったら、これからこの子に色々やってあげればいいんだよ」
代わりの案を明石が出した。
艤装の修理、整備、開発。
そういったあれやこれやをする代わりに、今この場でお金を受け取る。
ほんとはそれでも嫌だろうけど、俺の気持ちも受け取るには、そうやって『納得』を作るしかないみたい。
「島風型……島風につきもののD型の姿がないし……提督の話でもそうだったから、その開発を請け負うってのはどうかな」
「それは……島風ちゃんが造ってほしいって言うなら、やってみるけど」
「そこまでしていただくのも……と遠慮していてもしょうがないですね。ぜひお願いしたいです」
「決まりね。夕張、私も手を貸すから、さっそく開発に取り組みましょう」
「ええ、わかったわ。島風ちゃん、できる限り早く仕上げてみせるからね!」
とりあえず答えると、夕張は困惑気味の表情を一転、俄然やる気が出てきたようで、笑顔でそう言った。……ところで、D型ってなんだろう。ぜひ、とは言ったけど、どんな艤装なのかさっぱり想像がつかない。五連装酸素魚雷?
「あ、でも私、明後日には、この鎮守府を出る事になるかもしれないのですが」
「……そうなの?」
これを伝え忘れてはいけない。俺は、自分の所属が不明で、それが明後日までにはわかる事を話した。どこかに所属していた場合、おそらくすぐにここを離れるだろう事も。
純粋な発生艦ではなかったのね、と頷いた夕張さんは、次に「なら明後日までに終わらせるわ」と胸を張った。頼もしい。
「じゃあ、お願いしますね」
「任せて。明石も手伝ってくれるなら、最高の出来になると思うわ」
「期待してね」
笑顔で軽く手を上げてみせる二人に、そういえば、そうなると明石への対価は、と思い至り、聞いてみた。
律儀な子ね、と呟いた明石は、「それはD型が完成してから話そう」と、先延ばしにした。彼女は夕張さんの後押しをしたけど、自分が何かを受け取るとなると、遠慮したくなったみたい。それはたぶん、貰うのが嫌なんじゃなくて、対価が払われる事を想定していないというか、そういうのが欲しいからやっている訳じゃないからなのだろう。……そもそも、対価は提督から払われている訳だし……ひょっとして、俺のやっている事って結構な迷惑なのでは?
今さらその考えに当たったけど、もう事は進んでいる。夕張さんは俺の差し出した封筒を受け取ってくれた。代わりに、装備の開発なんかを請け負ってくれると言った。それでおしまい。
お金が駄目なら、菓子折りとか、ギフトとか、なんでもいいから彼女達を労うものを持ってこよう。
去り際、明石に好きな物はないかと聞いてみた。「た~る?」と首を傾げたけど、えーと、なんだろう、それ。タール? ……タバコ?
「シュガータール?」
「あ、そうそれ」
夕張さんが助け舟を出すと、明石はあー、と何度か頷いた。
ん、なんか聞き覚えある。……あ、コンビニエンス妖精で見かけた駄菓子! タバコみたいな形をしたやつだ。
「次に来る時は、それを持ってきますね」
「んー……わかった。お願いするね」
一つ約束事を作って、明石の工廠を後にする。
……あっ、お金ないのに、どうやってシュガータール買うんだ、俺。
しまった、できもしない事を約束してしまった。……なんとかしてお金を調達しないと。
その方法は思いつかないけど、やると約束したからにはやるのだ。……出撃すれば日当とかでるんだろうか。出撃させてもらえるかなあ。いちおう艦隊所属ではあるけど。
考え事をしつつ本棟までの道を行く。行き先が寮じゃないのは、持て余してしまったこの時間に、やろうと思っていた事があるからだ。
本棟二階。『資料室』のプレートがある扉の前にやってきた。
2024年から過去までの歴史を知ろうと思って、ここで調べようと足を運んだのだが……あーっ、と……ここって、勝手に入っても良いんだろうか。提督の許可が必要だったり……。そもそも、鍵がかかっていて入れないかも。
「うだうだ考えてても意味ない。鍵閉まってたら帰ろ」
なんとなく口に出してやる事を決めて、ノブに手をかける。ひんやりとした鉄の感触。ゆっくり捻ると、はたして鍵はかかっておらず、引く事で扉を開く事ができた。
最初に感じたのは、少しばかり重い空気。古い紙や埃の臭い。それと、ファイルとかの、独特な臭み。
鉄製の棚が横並びにずらーっと並ぶ薄暗い部屋に足を踏み入れる。扉から手を離すと、ガチャン、と存外大きな音がして肩が跳ねた。ぴょこりと、つられてうさみみリボンも揺れる。
僅かにずれたカチューシャの位置を直しつつ、部屋の中を歩いて回る。結構広い。棚が入り組んでいて迷路みたいになってる。並んだファイルには出撃の記録や資材の入出などの記録があって、ここに入って良いのか悪いのか、よくわからなくなってきた。
所々に、黒い板のようなもので挟まれたノート的な物もあって、その一冊の上部に指をかけ、引き抜いて流し読んでみる。
「……前任の提督の……うわ、大怪我して引退したんだ。…………痴話喧嘩が原因かな」
今いる提督の前の人は、秘書艦と喧嘩して怪我をし、それが理由で退役したと記されている。何したら艦娘パワーを振るわれるほどの喧嘩になるんだろう。秘書艦が誰なのか気になる。気性の荒い艦娘か、気難しい艦娘か。
っと、気にしていてもしかたない。俺が求めているのは艦娘や深海棲艦の歴史だ。冊子を棚に戻す。
ここら辺は違うみたいだし、棚を変えよう。
キーワードは……『最初の艦娘』……よし、ヒットした。この一冊がそうだ。
「……馬鹿やってないで真面目に探そ」
手に取った店屋物のチラシを元の場所に戻して、室内を探索する。
それにしても、埃っぽくてかなわない。それに、薄暗い。遮光カーテンに遮られた奥の窓から漏れる光が僅かな光源になってはいる。朝だからそれだけで十分なんだけど、ううん、なんとなく電気をつけたくなってしまう。
う、ここは行き止まりだ。ここから先には進めない。引き返そう。
棚にあるファイルや冊子の背表紙や、見える範囲での表紙を流れる視界の中で認識しつつ、求めるものを探していく。奥に行けばいくほど本や資料が新しくなっている。そう気が付いたのは、部屋の向こうの壁が近付いてきた頃だった。
「反対じゃん」
おそらく歴史関連の資料は古い方にあるだろう。
ぽそりと呟いて、がらがらの棚から目を離し、踵を返す。……そのさなか、妙な物が視界に入った。
黒い山。……本の山。
ねずみ色のカーペットの上に、乱雑に積まれた本、冊子、ファイル。それぞれが開いたり紙を零したりしていて、山を作っている。……何かの拍子に棚から落ちてしまったのだろうか。
見てしまった以上、見過ごすわけにはいかない。本を拾うべく、黒い山に近付いて行こうとして、ふと、もぞ、と本が動いた気がした。
……?
「……ぃ」
「んっ?」
今、何か聞こえたような。
具体的には、その、目の前の本から。
……気のせいか。本が喋るとかないし。
「そこの……キミぃ」
「わっ、ほ、ロイミュード!?」
くぐもった、低く響くような恐ろしい声にびっくりして跳び退り、ファイティングポーズをとる。まじで声がした! 本から!
「誰がロリ少女や! あー!」
もぞもぞっと動いた本がざらざらと崩れると、苦しげな声が聞こえてきた。……あ、これ、誰か下敷きにされてる? 本の山はそれ程大きく広がっていなかったから、人なんていないって判断してたんだけど……駆逐艦の子……朝潮とかならすっぽり収まりそうな感じだった。
そうとわかれば、臨戦態勢に入ってる場合ではない。艦娘とは言え、大量の本に押し潰されている現状はなかなか辛いだろう。カーペットだって綺麗ではないし。
走り寄り、本をさっさかどかしていくと、小さな手から赤い袖、それからこげ茶色の頭と、次々に少女の姿が露わになってきた。
「大丈夫ですか?」
「うう……いつつ……」
腕をついて身を起こしたのは、軽空母、
「けどキミ、ここ、許可なく立ち入りは禁止されてるんやけど……」
「あ、やっぱり?」
思ってた通り、ここは入っちゃけない場所だったらしい。龍驤は、ツインテールの端をぱしぱしと叩きながら、やっぱり? ってなあ、とじと目で睨んできた。
…………。
「まあ」
「……まあ?」
「まあまあまあ、いーじゃないですか。ほら、私が勝手に入って来たから、先輩が助かったんですから」
「そらそうやけど……先輩?」
立ち上がってスカートを払う彼女に合わせ、俺も立ち上がって、どうにか誤魔化そうと、ちょうどいい位置にある龍驤の肩を叩く。
彼女は一瞬納得の素振りを見せて、俺の言葉に引っかかったみたいに目を合わせてきた。
「あー、キミが噂の新人か! うちは軽空母・龍驤や。こう見えて歴戦の空母なんやでー」
「そうなんだ凄いですね!」
「……信じてへんな?」
おっと、さすがに大袈裟に反応しすぎたか。
今ここで追い出されては困るので、本の隙間に落ちていた帽子……じゃなくて、サンバイザーだかいうやつを拾い上げ、手で払ってから彼女に渡す。再度礼を言った彼女がそれを頭に取りつけている間に、しゃがんで周りの本を手に取り、抱え始めた。
「手伝ってくれるん? 助かるわ。でも……」
「わかってますって、これとそれを片付けたら出て行きますよ」
「ほんなら、まあ、良いけど」
これとかそれとかあれとか曖昧な表現で自分のやりたい事を押し通す大作戦は、龍驤先輩の納得を持って成功となった。
「私、戦艦・シマカゼです」
「ほーか、戦艦かあ。こりゃまたコンパクトな戦艦が来たなあ……って、キミ……冗談が過ぎるよ」
「いつかそれくらい強くなってやるって意気込みです。さ、先輩、この本は……この棚に入れちゃっていいんでしょうか?」
「せんぱ……うん、ええよ」
自己紹介を交えつつ、本を片していく。うーん、本に埃が……。この部屋、あんまり掃除されてないんだろうか。寮や、ここの廊下とかはすっごく綺麗なのに。
「そういえば、龍驤先輩はここで何を?」
「ん? 資料の整理や。今日はうちが助秘書に任命されててなあ、やから『いってみよう!』と気合い入れてたんやけど……あはは、空回りしてもーた」
「助秘書……大変そうですね」
なんだか色々やる事ありそうで。
龍驤は、そうでもないよ、と首を振った。全部の本を棚に戻したところで、俺へと体を向ける。
「それに、助秘書を任されるっちゅー事は、それだけ信頼されてるって事なんよ。嬉しいし、張り切ってしまうなぁ」
「先輩って凄いんですね」
「そーや! 赤城や加賀にも負けないくらい凄いんやで!」
ふっふーんと胸をはってみせる龍驤に、そうなんだ凄いね、と純粋な感想を述べておく。……みんな自分に自信を持ってるのかな。よく胸を張る姿を見る気がする。……悲しいけど。……何が、とは言わない。
「ま、キミも頑張って戦艦を越える船になるんやな! 応援しとるで!」
「ありがとうございます。さて、片付け終わりましたし……検索を始めよう」
「……資料片し終えたら出てくんと違うの?」
「それは終わりましたけど、これはまだ終わってないので」
「……あー、あー、あー、そういう……キミなあ」
あら、やっぱりこの作戦は駄目か、と思ったのだけど、溜め息をついた龍驤は、腰に手を当てつつ、「しかたないなあ、なに探しとるん?」と見逃してくれるどころか、探すのを手伝ってくれるみたいだ。
「艦娘が現れ始めたのがいつか、とか載ってるのってありますかね」
「んー……たぶん、向こうの方にあると思うけど……なんでそないなもん探しとんの?」
「興味本位です」
小首を傾げた龍驤の言葉に答えれば、彼女はなおも不思議そうにしながらも、その本の下に案内してくれた。
それを読んだら、今度こそ出て行くように、と厳しめに言われて、しっかり頷く。本の持ち出しは禁止やで、と念押しをした龍驤が戻って行った後に、棚に背を預けてページを捲った。
◇
2010年、7月中旬。最初の深海棲艦が発見されたのは、九十九里浜だった。
海岸に打ち上げられている巨大な魚を、付近の住民が撮影の為に近付くと、突然体を持ち上げて暴れ、波に浸ると、猛然と海の中へ消えて行ったという。
それを皮切りに世界中の海で同型と思われる異形の魚が目撃されるようになる。
当初深海魚の一種がなんらかの異常で浅い地帯に移住してきたのではないかと考えられていたが、同年9月14日、日本の漁船(第五ちゆり丸)が雷撃を受けて沈んだ事で(同時期に各地に停泊していた船が幾つか攻撃されていた事も含め)、認識は一変し、この敵性異形を未確認深海魚と呼称し、対策を練るようになった。
夏の日の海はどこも閉鎖されるようになり、海に面した街からは、月日が過ぎ、人々が危険の臭いを嗅ぎ取り始めると、徐々に人影が無くなっていった。
数年の時が流れる内に海は異形で溢れ、各国との貿易が困難になっていく。
この異形は種類を増やし、空までをも覆い尽くしたのだ。
人型なんかも確認されて、より事態は深刻に。
2013年四月、最初の艦娘が姿を現した。
海上自衛隊から作られた特設海上防衛隊が敵性未確認深海魚(仮称深海駆逐艦。装備が駆逐に似通っている為)と交戦中、海の上を滑り出て、加勢したのだ。
少女の話と妖精の存在、実際に艦娘が建造できてしまった事で、政府はかつての戦争と同じように鎮守府を設立、艦娘と協力して戦う事になったが、少女を矢面に立たせてというのは、内外に関わらずかなり心証が悪い。
そのため艦娘の存在は極秘となって、国民には知らされなかった。
◇
百数十ページにのぼる本の内容を要約するとそんな感じだった。後半はおそらく提督向けの鎮守府運営のいろはがつらつらと書かれていたのでそこは省き、読み終えたのは、三十分後くらい。
肩を回したり腰をひねったりして凝りを解しつつ、本を元に戻して、部屋を後にする。龍驤に挨拶をしようかとも思ったけど、仕事の邪魔をしてまでする事でもないだろう。近くにいれば一声かけるぐらいはするが、わざわざ奥まで行って言う事ではない。
部屋に戻り、少しの間ぼうっとする。やる事が思いつかない。吹雪や夕立が戻ってくるのは夕方だろうか。そんな事を考えつつベッドの縁に腰かけていた。
十二時を回ってだいぶん経ったという時に、吹雪と夕立が戻ってきた。授業というのは三時間だけで、お昼前には終わるらしい。お昼を食べに食堂に行こう、と誘われたので、暇をしていた俺は喜んで賛成した。
「そういえば、叢雲さんは?」
「さっき一度帰ってきたよ。またすぐどこかに行っちゃったけど……どこに行ったんだろう」
「叢雲さんは、きっとまた港の方に行ってるっぽい。物思いに耽っている姿がよく見られているっぽい」
おや、夕立はそんな事にも詳しいのか。
しかし、港……って、夕張さんの工廠の方から抜けていける場所の事だよね?
そこにずっといるのかな。……なんだか重そうな雰囲気。彼女の過去に何があったのか、話を聞くたびに興味が募っていく。夕立はそれも知っているのだろうか。聞けば答えてくれそうだけど、不用意に聞くものでもない、と自制する。
食堂につく。朝と同じで時間を外してしまっているせいか、人がまばらだった。むむ、また朝潮に会えなかった。……夕食こそ、会えるといいんだけど。
直接部屋に赴くのは少し気が引けるので、少々後ろ向きな決意を固めつつ、食券販売機の前に立つ。
「島風ちゃんは何にするの?」
「あたしは昼定食Bにするっぽい」
「じゃあ……C?」
「私は、Aにしようかな」
それぞれ別のものを選んで、カウンターに持っていく。ここも朝と変わらず、女性と鳳翔さんが切り盛りしていた。
C定食はチキン南蛮だった。日替わりランチっぽい。
吹雪や夕立とお話ししつつ、ゆっくり食べ進めていく。主に、授業とは何か、とか、先生ってそんなに怖いの、とか。
「先生は厳しめっぽい。遅刻してないのに怒られちゃったっぽい……」
「あ、それでちょっと遅く戻ってきたんだ」
「次に遅刻ギリギリで来たら、宿題倍にするって言われちゃってたね」
それだけはいや~、とスプーンを握り締めて涙を流す夕立に苦笑いが零れる。朝、ちゃんと起きれるように毎日叩いてあげようか、と持ち掛ければ、それも勘弁っぽい、と首を振られた。
「吹雪ちゃんは怒られなかったの?」
「私は……」
「吹雪ちゃんは真面目さんだから許されたっぽい」
「……ふーん、真面目、ねぇ」
「あはは……」
今朝の広報紙の事を想い出しつつ吹雪を見やれば、誤魔化し笑いをされた。いけないとわかりつつも赤城が描かれた広報誌を持ち帰ってしまうなんて……危険な香りがする。
十中八九鼻が馬鹿になってるだけだと思うけど。
「あ、あのね、私――」
『――えー、館内放送。龍驤や。駆逐艦・島風。執務室まで来なさい。駆逐艦――』
「……放送」
吹雪が何事か言いかけた時に、放送が入った。短いノイズの後、食堂内に龍驤の声が響く。スピーカー……ああ、向こうの方にあるな。
何かしちゃったっぽい? と聞いてくる夕立に、うーん、と曖昧に首を傾げる。心当たりはすっごいあるけど、今ここで言うのはよくない気がする。
しかし、資料室に勝手に入ったのはまずかったか。何がまずいって、俺だけじゃなく龍驤まで咎められてそうって事だよね。助秘書は提督の信頼があって任命されるもの。……ひょっとしなくても、かなりヤバい事しちゃったのでは……。
「私、行ってくるね」
「あ、うん」
「行ってらっしゃい?」
素早くご飯をやっつけてしまって、コップを掴んで水を一気飲みし、それを置いておぼんを持ち上げ、二人に声をかける。早食いを見られたせいか、二人は少し呆けているみたいだった。
カウンターに食器を返し、ごちそうさまでしたを伝え、急いで廊下に出る。
数段飛ばしで階段を駆け上がり、三階へ。提督の執務室へ続く廊下まで来て、少しスピードを落とし、早歩きで両開きの扉の前までやってきた。
緊張を孕んだ胸をぐいと拭い、二度、扉をノックする。
「どうぞ、なのです」
電の声を聞いてから、一拍置いて扉を開く。
どんな叱責があるかを考えると、緊張の汗が流れでそうだった。
「失礼します」
「うん、島風……こっちに来なさい」
提督は、前に見た時と同じような表情をしていたけど、それもどこか硬い気がした。
机の両端に立つ電と龍驤も、真面目な顔をしている。
「……あの」
「島風。君の所属が判明した」
彼らの前に立ってすぐ、沈黙に耐え切れなくなって口を開こうとした俺に、提督が静かに告げた。
それはきっと、俺が叱責よりも恐れていたものだった。