朝焼けの海の上を、滑りゆく影が一つ。
風と波の合間を駆けるのは、駆逐棲姫だ。
青白い肌に白い髪。サイドテールが風の中にばらばらと揺れて、蹴り上げられた海水の飛沫の中、彼女は何度となく振り返っていた。
遠くに昇り始める太陽の光が、溢れるみたいに水平線に広がっている。黒いセーラー服がはためいて、太陽光に照らされた。ちらりと覗くへそと平たいお腹は、淡い光を纏わせて、生命の輝きに対抗していた。
『ウウッ……!』
ザザァ、と高い波がやってきて、駆逐棲姫の体を大きく上下に揺さぶった。背後を確認していた彼女にこれを避ける術はなく、バランスを崩して転がってしまう。
ドジを踏んでしまったが、立ち直りは早い。手と足で海面を擦り、体を持ち上げると、太陽の方を向いて立ち上がった。
直立した姿勢のまま後ろへ進んで行くのは、彼女の顔に浮かぶ焦りや怒りのためだ。
彼女は、追われていた。
敵か味方か、よくわからない存在に。
『……!』
日の光が消えた。
太陽は巻き起こる水滴に覆い隠され、見上げるほどの高さの霧が、駆逐棲姫を飲み込んだ。
来た。
彼女はそう直感して、素早く周囲を見渡した。
付近に気配はない。追っ手の影はない。
耳元で唸る風の音を警鐘として受け取った彼女は、踵を返して、目的の地へ向けて走り出した。左手に持つ12.7cm連装砲がいつも以上に重く、まるで足枷のようであった。
不意に霧が晴れる。
彼女の前。円形に広がった空間だけが、分厚い霧の縄張りから逃れて、暗く揺れた。
霧を抜け、そんな、ぽっかりと空いた海の上へ出た駆逐棲姫は、背後を振り返ろうとして、はっとした。
『ドウシタ。戦ワナイノカ?』
『ッ!』
後ろではなく、前。
霧の中に人影が浮かび、悠々とレ級eliteが姿を現した。
霧から逃れても、この異形から逃れる事はできない。
ブレーキをかけ、十分な距離を保って止まった駆逐棲姫は、胸の内に流れた緊張の汗に唇の端を噛み、数歩先へ、そして、そのまま走り出した。
『アアアッ!』
『ソウダ、ソレデ良イ』
連装砲を前へ突き出し、駆逐棲姫が突撃する理由は、立ちはだかるレ級と駆逐棲姫の艦種の違いゆえだ。
戦艦と駆逐艦。耐久力から持っている装備まで、何もかも違う。
致命的なのは射程だった。
砲弾の届く距離。あまり離れすぎていては、一方的に撃たれて終わる。
いや、そもそも駆逐級が戦艦級に挑むべきではない。終わるとか終わらないとかでなく、逃げるべきなのだ。
そんな事は、駆逐棲姫とて理解していた。そして、あるいは艦娘が相手なら、戦艦でも撃破する事は可能だと思っている。
だがしつこく追いかけてきて、あまつさえ不気味な霧を蔓延させて先回りするこの怪物には、自分の攻撃が効くとは、駆逐棲姫には、どうも思えなかった。
ならなぜ近付くのか。
半ばヤケクソ気味なのもあるが、至近からの雷撃で確実にダメージを与えようと考えたのだ。
『――ッ!』
波間に立ち、動かないレ級へ、駆逐棲姫は両の太ももにバンドで止められた魚雷発射管を向け、一息に解き放った。
正しい姿勢も、制動する必要も彼女にはない。今までの戦いで培ってきた技術が、何より焦がれる想いが魚雷に伝わり、全てが白線となってレ級に突き刺さる。
世界から音が消えた。
そう錯覚するほどの爆発音。膨れ上がった海が噴火するように海水をばら撒き、塩分を含んだ雨が降る。
突風と激しく波立つ海に、横へ舵を取って回避しながら、駆逐棲姫は、咄嗟に顔を庇った腕の下から、レ級の姿を探した。
落ちていく水の柱から黒煙が出ている。球体に近い形を維持してだんだんと大きくなるそれは、駆逐棲姫が離れていくと、風に流されてなくなっていった。
『!』
レ級は、そこにいた。
荒れる海の中心。最初と同じ場所に、同じ姿勢と表情で立っていた。
狂ったような笑みが彼女に向けられる。挑戦的で、挑発的な瞳。
ぱくぱくと小さく口を開閉した駆逐棲姫は、しかし何も声が出てこないのに、徐々に速度を落としてその場に止まった。
どうせ逃げても、無傷でいるレ級に追撃されるだけだ。魚雷を撃ち尽くした今、彼女に取れる選択肢は少なかった。
その内の一つ。
駆逐棲姫が選んだのは、開き直って戦い、打倒して、逃れるという、ある意味単純明快な方法。
『―――――』
絹を裂くような悲鳴が空高くまで響き渡る。
喉の奥から、腹の底から、駆逐棲姫は息の続く限り声という声を吐き出した。
途端、ぽっかり空いた霧の合間から見える空は、早回しのように雲が流れ、日が昇って沈み、あっと言う間に満天の星空となった。
夜の
『フ、ゥ……!』
続いて彼女は、足を開いて立った。腕を交差させ、構えとも言えない構えをとった駆逐棲姫は、自分の奥底に意識を沈み込ませた。
ドロドロとした暗い液体の中にある不快な物を、意識と一緒にすくい上げ、持ち上げて、体の外へ出していく。
彼女の身体から滲み出した赤い光が、薄暗い空間の中を照らす。
こめかみを流れる血液は鋭く、突き破るような痛みを発する。
内側で荒れ狂う力は大きく、手に入れてからしばらくしても、彼女には使いこなせていない。それでも押し上げる。もう一段階上へ。もう一つ深いところから、せり上がる力と苦痛を、駆逐棲姫は歯を噛みあわせ、強く目をつぶって耐えた。
耐えて、耐えて、耐え抜いて。
『ハッ!』
ぶるぶると震える左腕が顔まで持ち上げられた時、彼女は吐き出す息とともにそれを思い切り振って、力を爆発させた。
噴出した黄金色の光が、腕の動きに合わせて粉々に散り、光の欠片となって流れていく。
『オオ、ソレハ』
『フーッ、フーッ……』
鋭く息を吐き、肩を上下させて調子を整える駆逐棲姫の左目には、青い焔が揺らめき、長い尾を伸ばしている。
波を跳ね上げて泳いできた異形が、駆逐棲姫に飛びかかる。敵ではない。むしろ、少し前までの仲間。というより、装備だ。異形の艤装が二つ、太ももに備えた魚雷発射管の上に被さるようにして装着された。
息を吐き、ゆっくりとごつごつした黒色の艤装に手を這わせた駆逐棲姫は、口を閉ざして、キッとレ級を睨みつけた。
『ソノ
『ッ!』
レ級が何かを言おうとするのは、彼女には関係のない話。聞く暇があるなら攻撃あるのみ。
海面を蹴り上げ、水を跳ねさせて駆け出した駆逐棲姫は、ある程度走ると足を揃え、海面を踏みつけた。一足飛びにレ級の懐へ飛び込む。近ければ、砲撃はし辛くなる。そして
呼吸の合間に、飛びかかる。
『ヤァッ!』
『聞ク耳持タナイナンテ、嫌ナ奴ダナ、オ前』
振るった拳は、たどたどしい挙動の割には勢いがあった。風を裂き、高い音を立てて迫る拳をいなしながら、レ級が独り言ちる。
その愚痴にも彼女は反応しなかった。ひたすら腕を振るい、ぶつけようと必死だった。左腕に握った連装砲も鈍器に見立てて、果敢に打ち掛かる。体を揺らして避けるレ級は、背中から生える尻尾が邪魔をして、あまり大きな動きができていない。
頭でっかちをブゥンブゥンと大きく動かしてバランスをとっているようだったが、駆逐棲姫が大きく踏み込んで連装砲を叩きつけようとすると、レ級もまた大きく避けようとして、一瞬、バランスを崩した。
チャンスだ! すかさず彼女は砲で打ち掛かった。ガァン! 鉄同士がぶつかる激しい音とともに火花が散る。直前で腕に防がれてしまった。
しかし攻撃はそこで終わらない。砲身はレ級の胸に向いている。駆逐棲姫は、躊躇わずにトリガーを引いた。
至近で爆発が起こる。威力は低いといえど、砲弾だ。この状態の駆逐棲姫でも多少ダメージを被ってしまう。それが、ぶつけられた方のレ級ならもっと酷いだろう。
ぶわっと広がる小さな、しかし視界を覆うには十分な量の黒煙が広がるのを嫌って、一歩下がろうとした駆逐棲姫の目に、迫りくる手の平が映った。
煙を突き破ったレ級の手が、彼女の胸をドンと押す。
『ウッ……!』
さほど力はこめられていなかったのか、数歩下がるのみで済んだものの、彼女は今起こった事が信じられなくて、目を見開いていた。
まさか、この距離で当てたのに、そんな。
煙が晴れる。
レ級は、やはり無傷だった。
なぜ、なんて考えている暇はなかった。精神を逆撫でする厭らしい笑みに、駆逐棲姫はヒュッと息を吸い込んで、同時に体を捻り、回転させた。
遠心力を乗せた踵が、レ級の顎を狙う!
『クッ!』
鋭い蹴り込みはしかし、ぬっと出てきた手に踵を掴まれて、止められた。
『足癖ガ悪イナア。……コンナ足マデ生ヤシテ、ドコニ行ク気ナンダ?』
『関係……ナイ……!』
無理矢理足を引き抜き、海面に叩きつけた駆逐棲姫は、吐き捨てるようにそう言った。跳ねた水滴が青白い素足の上に乗って、滑り落ちる。憎しみに濡れた白い瞳が、
『当テテヤロウカ?』
『タァッ!』
気合い
黄金色のオーラが火の粉となって吹き散っていく。
腕半ばで受け止めたレ級は、ザアッと海面を削って僅かに後退すると、眉を寄せて腕を振った。
効いている。
砲撃でも雷撃でも、びくともしなかったのに。
怯んでいるように見えるレ級に、今が好機か、そうでないか、彼女は判断に悩んだ。肉弾戦の経験などほとんどない駆逐棲姫にはわからないのだ。今飛び込めば有効打が与えられるのか。それとも迎撃されてしまうのか。
そうして迷っている内に、機を逃し、レ級の方から組みかかってくるのに慌てて逃れる。
『オチロッ!』
強く波を蹴って後方へと跳躍した駆逐棲姫は、空中で異形の艤装を動かし、再び全ての魚雷を吐き出した。
至近距離。彼女の着水とほとんど同時に海の中へ潜り込んだ魚雷を見て、レ級は何を思ったか、まっすぐ駆け出し始めた。
踏み出した二歩目で、魚雷の爆発に巻き込まれ、水柱の中に消える。
『ア……!』
だが、彼女は見てしまった。
盛り上がる海面を、重い踏み込みで砕き、割って、無理矢理走り続けるレ級の姿を。
『ハハハ、無駄ダ!』
嘘でも幻でもない。
振り抜かれた拳に頬を打たれ、意識を飛ばす彼女の襟元を乱暴に掴んだレ級は、限界まで伸びた駆逐棲姫の首をお構いなしに、反対の手で髪を掴み、ぐいと引っ張った。
『グ――!』
角の生えた黒い帽子は、殴られた時に一部が砕けて、後ろの方に落ちていた。気を取り戻したばかりの彼女にはそんな事すらわからなかったが、自分がレ級に捕まえられているのだけはわかって、全身に力を込めて振り払おうともがいた。
必死の抵抗に、しかし彼女よりも多少太いだけの腕はびくともしない。引っ張られるままにつんのめった駆逐棲姫のお腹に、レ級の膝が突き刺さった。
破裂した。
何かが。
『グ、ブ……』
『ホラ、ドウシタ』
『ア゛ッ!』
弾ける視界。
目を見開いた彼女に、容赦のない追撃が襲いかかる。
腹が千切れ飛びそうな衝撃と激痛。肉を打つ音がするたびに、金色の光が砕かれて散っていく。
零れ落ちる涙のように、夜闇の中をふわふわと、流れ落ちる星のように儚く、海の中へと消えていく。
涙が零れた。
『ホウラッ!』
『きゃぁっ!』
握り拳の甲が肩にぶつけられると、駆逐棲姫はもう、何がどうなっているかもわからないまま吹き飛ばされて、海の上を転がった。
ごろごろと波の中を動くたびに、光が剥がされ、力が抜け落ちていく。
やられた……! 駆逐棲姫は、乱れる視界と激しい頭痛に耐えながら、なんとか起き上がろうと肘をつき、体を持ち上げた。足の先が海面を引っ掻く。垂れたセーラー服の裾が、水を吸って重くなる。どうやら限界が近いらしい。もう、浮いてもいられないかもしれない。
『マ……マ、ダ』
噛みしめた歯の隙間から、自身を鼓舞するための言葉を通す。
こんな所でやられる訳にはいかない。
だって、やっと思い出した。
憎しみや怒りとは無縁の、きらきらとした笑顔を。
『……?』
もう片方の手も海に押し付けて、なんとか体重を支え、体を持ち上げた彼女は、ふと自分の手を見て、愕然とした。
12.7cm連装砲がなくなっていた。
『ナ、ア、ァ』
やっと手に入れた自分自身の武器を、失くしてしまった。
あれがないと。あれさえあれば。駄目なのに。持ってなくちゃ……。
『強イナ、オ前』
尻尾をもたげさせて、レ級が呟いた。純粋な賛辞のようでいて、どこか、空っぽな声音。
尻尾の先の異形がアギトを震わせ、歯を鳴らした。生物的な呼吸をして、喉の奥の光を覗かせる。
『強クナリスギタナ』
ふらふらと立ち上がった駆逐棲姫の目には、すでにレ級は映っていなかった。
大事な物を探して彷徨わせた手が、瞳が、暗い海の上を流れていく。
レ級は、そんな彼女の姿を眺めて、悲しげに目を細めた。笑みを消して、一文字に結ばれた唇が、僅かに動く。
――海に還れ。
『――――……』
轟音。
放たれた砲弾は、まるで光線のように駆逐棲姫に突き刺さった。
上半分と下半分が泣き別れ、海水を蒸発させる爆炎の中に、彼女の上半身だけが倒れ伏す。
『不要ダ』
ぽつりと呟いたレ級は、コートをはためかせて踵を返すと、霧を引き連れて、その場を後にした。
残されたのは、空を見上げて漂う駆逐棲姫のみ。
風が吹くと、残っていた僅かな霧も海の表面に溶けて、空は雲一つなく晴れ渡った。
満天の星々の中に、大きな満月が浮かんでいる。
斑点模様と、優しい光。
『――……ァ』
波に揺られ、お腹の中に冷たい物が流れ込むのを感じながら、彼女は掠れた声を出した。
ぼやけ始めた、しかしはっきりと見える丸い月を瞳の中いっぱいに映して、ただ、感じたままを、頭の中に浮かんだ言葉を、声に乗せる。
『ツ……き、が、』
ごぼりと、水泡が上がった。
浮力を失った駆逐棲姫の身体は波に飲まれ、髪の先までが、暗い海の中に沈んでいく。
もう声は届かない。
あんなに綺麗に輝いていた満月も……彼女が力を失い、死にゆくために、消えた。
瞬く星々の姿も薄れ、月はどこか遠くへ。晴れ渡る空は青く、水平線から昇る太陽の光が、海面の、ほんの数センチまでを透き通らせた。
『――――』
数十の泡が白く固まって、昇ってゆく。
光る
ねえ、さん……。
遠退く光に、呼びかける声は、潰えた。
◆
霧の中を歩く人影があった。
ここを縄張りとする、戦艦レ級elite……そう呼ばれるようになった少女だ。
フードに手をかけ、ばさりと後ろにやったレ級は、首を回して疲れをとると――もっとも、彼女が疲れる事など早々ないのだが――、振り返って、後ろを確認した。
そこには、もちろん霧が広がっているだけだ。
『……アイツ、ドコ行コウトシテタノカナ』
ふー、と息を吐き出したレ級は、なんとなしに呟きながら足を出して歩き、両手でフードの端を掴んで、ばたばたとやった。
それから、かぶり直して、顔を上げる。
『……アア、ソウイヤア、ソロソロアイツラノ様子モ見ニ行カナクチャナ』
先程
『進化……進化、ネエ』
金髪に近い長髪の少女と、長い黒髪の女の子。
いつも通りに壊してやろうと思ったら、思わぬところから待ったがかかって、見送る羽目になった、あの艦娘達。
あれからだいぶ時間が経ったが、果たして進化などしているものか。
首を傾けたレ級は、自身の問いに自分で答えた。
『シテル訳ナイヨナァ。マッタク……アーアー、モウ』
それでも、確認しに行かない訳にはいかないだろう。
面倒くさい、面倒くさいとぶつくさ呟きながら、レ級は尻尾を引き摺って、霧の中を進んだ。
『今度コソ、沈メテヤルカ』
どうせ進化なんてしてないだろうし、壊す事は確定だ。